東氏の惣領家

東氏の惣領家

東氏の惣領家

◇東氏惣領家歴代◇

名前 生没年 号 通称 官途 その他
東胤頼 1155-1228 法阿弥陀仏 六郎   千葉介常胤の六男。若くして上洛し、従五位下に叙せられる。
東重胤 1177-1247 覺善 平太 兵衛尉 東胤頼の子。将軍家の無双の近侍と呼ばれた一人。
東胤行 1194-1273 素暹   中務丞 東重胤の子。歌人東素暹として知られる文武に秀でた人物。
東泰行 ????-???? 行暹   図書助  
東行長 ????-????   二郎 左兵衛尉
丹後守
父に先立って早世。
東行宗 ????-????   二郎太郎    
東胤顕 ????-???? ■真 孫次郎 遠江守   
東胤氏 ????-???? 朝仁   出羽守 東行宗の次男。
東胤光 ????-???? 禅廣? 六郎   東胤氏の子か。一族一揆の「沙弥禅廣」?
東亀寿丸 ????-???? 六郎   東胤光の嫡男。

 

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東胤頼(1155-1228)

 東氏初代惣領。千葉介常胤の六男。母は秩父重弘中娘。通称は六郎。官位は従五位下。「六郎大夫」と称される。

 詳細は「東胤頼」を参照。

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東 重胤(1177?-1247?)

 東家二代惣領。初代・東六郎大夫胤頼の嫡男。母は遠藤持遠娘と伝わる。妻は下河辺左衛門尉行綱娘(『下河辺氏系図』「古河市史」所収)。通称は平太。官途は兵衛尉、左衛門尉。通称の「平太所」から院の武者所に務めた経歴がある。

 詳細は「東重胤」を参照。

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東胤行(1194-1273)

 東氏三代惣領。二代・東兵衛尉重胤の子。通称は六郎。母は不明。妻は二条権大納言為家娘と伝わっているが不明。兄に治部太夫貞胤があったという。

 詳細は「東胤行」を参照。

 嫡男・東図書助泰行が東家家督を継ぎ、庶子の東六郎左衛門尉行氏、東下総守氏村は、胤行が新補された美濃国郡上郡山田庄に下って郡上東氏の祖となった。

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東 泰行(????-????)

 東氏四代惣領。東中務丞胤行の嫡男。通称は太郎(『千馬家系図』)。官途は図書助。号は行暹。弟の東六郎左衛門尉行氏、東下総守氏村は美濃国郡上郡山田庄に下って郡上東氏の祖となった。

 泰行は四代将軍・藤原頼経、五代将軍・藤原頼嗣、六代将軍・宗尊親王に仕えたという(『千葉大系図』)。元服年は不明だが、「泰」字はおそらく、北条泰時からの偏諱であろう。

 建長5(1253)年7月8日、来月行われる将軍宗尊親王臨席の鶴岡八幡宮寺放生会(8月15日挙行)に、将軍家供奉人として布衣の者、直垂帯剣の者、そして随兵が小侍所において選定された。翌7月9日、まず布衣の者に対して散状が送達され、そのうち「宿老之可然者」は「可参候宮寺廻廊之由」が伝達された。

●『散状』(『吾妻鏡』建長五年七月九日条)

右来八月放生会、可有御社参各帯布衣、可致供奉之状、依仰所廻如件

 続けて、7月10日、「直垂著供奉人、催促同昨日」の散状が送達された。おそらく随兵も同日に同人屋敷に送達されたと思われる。

●『散状』(『吾妻鏡』建長五年七月九日条)

右放生会、可有御社参各兼可致参向廻廊之状、依仰所廻如件

 これに対して各々から請書が小侍所へ返申されたが、そのうち十五名が「申障」して供奉を辞する返答をした(『吾妻鏡』建長五年七月十七日条)。小侍所ではこれらの返申を整理して取りまとめ、7月17日、最終決定した供奉人の一覧を別当実時から将軍宗尊親王へ被覧した。

 「東図書助」については官途を得ている人物の末座におり、7月9日に供奉の「散状」が遣わされたものの、それ以前に下総国へ帰国していために請書を返信しなかった。8月2日には「御教書違背」の罪により所領没収が詮議され、所領の在郷名を注進が命じられた(『吾妻鏡』建長五年八月ニ日条)が、こののち泰行の子孫が吾妻鏡に見られなくなるのは、この泰行の行動が原因となっているのかもしれない。

●『吾妻鏡』建長5(1253)年7月17日条

去八日以後、度々散状等、取整之、撰進奉之人被披覧之云々
申障輩
 那波左近大夫
 筑前々司 持病更発之間、加灸之由
 嶋津大隅前司
 備後前司
 伊賀前司
 武藤左衛門尉 被仰可懸御調度由之處、申灸治之由
 豊後四郎左衛門尉 下国
 足立三郎左衛門尉 所労
 大泉次郎兵衛尉 軽服
 東図書助 散状已前帰国
 伊賀四郎
 遠江次郎左衛門三郎
 土屋弥三郎
 土肥左衛門四郎
 足立左衛門三郎

●『吾妻鏡』建長5(1253)年8月2日条

依御教書違背之科、為分召、可注進所帯之由、遍被触難渋之輩云云

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東行長(????-????)

 下総東氏五代。東図書助泰行の嫡男。通称は二郎。官途は左兵衛尉、丹後守。

 宝治2(1248)年正月3日の将軍の御行始の供奉人に「東中務少輔」が見え、さらに建長2(1250)年8月18日、将軍・藤原頼嗣が由比ガ浜にて犬追物を催した際に供奉の後列に「東中務少輔」の名が見える。さらに建長4(1252)年4月14日に供奉に従った「東中務少輔胤重」がみえるが、この「東中務少輔胤重」がいかなる人物かは不明。活躍時期としては、泰行、その子世代に相当するが、詳細は不明。『松蘿館本千葉系図』によれば、「胤重」は胤行の子で「下野守素通後行氏」とあり、東中務丞行氏の前名ととれる。

 弘長3(1263)年7月26日、祖父・東胤行入道素暹が没したが、8月6日、宗尊親王は素暹が黄泉の国で苦しんでいるという夢のお告げに驚き、素暹の罪業滅消のために人々に歌を詠ませ、その裏に経典を書写すべきことを命じた。また、宗尊親王は「左兵衛尉行長」が素暹と同族であるのでその名をもって歌を詠んだ(『吾妻鏡』弘長三年八月六日条)。

 父・図書助泰行に先立って亡くなったという(『松蘿館本千葉系図』『鹿島大禰宜系図』)。

 行長の子の一人、東弥次郎行胤は建武3(1336)年に九州へ下った千葉胤貞に従って下ったとされている(『東次郎兵衛系図』:「小城家中系図」)。

●『吾妻鏡』弘長3(1263)年8月6日条

将軍家、十首の歌を人々に勧めしめ御う、これ素暹法師卒去の後、御夢想の告げ有り、黄泉その苦有るかの由、思し食し驚かるるに依り、滅罪の謀を廻らされんが為、彼の懐紙の裡を以て経典を書写せらるべしと云々、御詠は左兵衛尉行長の名字を用いらる、また広御所に於いて、臣範の御談合有り、弾正少弼、越前前司、掃部助範元等、御前に候す。

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東 行宗(????-????)

 下総東氏六代。東丹後守行長の子。通称は次郎太郎。官途は不明。東次郎胤長(『松蘿館本千葉系図』)、東次郎胤仲(『千学集抄』)と同一人物か。

 元弘2(1332)年9月、近畿吉野で起こった護良親王と摂津で挙兵した楠木正成が率いる反幕府の兵を討つため、得宗・北条高時の命に随い出陣し、功績をあげたという(『千葉大系図』)。この合戦には千葉介貞胤が出陣している。


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東 胤顕(????-????)

 下総東氏八代。父は東次郎太郎行宗(『神代本千葉系図』)、東次郎胤仲(『鹿島大禰宜系図』『千学集抜粋』)。通称は孫次郎。官途は遠江守。法名は■真、または宏嚴(「円覚寺蔵大般若経刊記等に就いて(二)」:『金沢文庫研究』貫達人著)? 『神代本千葉系図』『千学集抜粋』『鹿島大禰宜系図』にのみ記されている人物で、謂れなどは不明である。

 延文3(1358)年8月17日に円覚寺の大般若経の開版事業へ出資した人物名として「東遠江入道宏嚴」の名が見える(「円覚寺蔵大般若経刊記等に就いて(二)」:『金沢文庫研究』貫達人著)。

『松羅館本千葉系図』

 東泰行──行長───────+─胤長───+─胤秀────────胤元
(図書助)(左兵衛尉・丹後守)|(胤仲)  |(治郎左衛門・宏覚)(左京亮・宏全)
               |      |
               +─胤是   +─胤氏────────胤光─────亀寿丸
               |(中務)   (出羽守)     (六郎)   (六郎)
               |
               +─胤輝
                (六郎)

『千学集抜粋』

 東泰行  胤仲      胤顕      胤氏   松千代  兼常   兵部丞  泰常
(図書助)(兵衛・丹波守)(遠江守・■真)(出羽守)(禅慶) (兵部丞)(保元) (保春)

『鹿島大禰宜系図』

 東泰行───行長───胤仲──胤顕──+─胤秀───────胤元
(法名行暹)(丹後守)(次郎)(孫次郎)|(次郎左衛門空覺)(左京亮宥全)
                    |
                    +─胤氏───────胤光─────亀寿丸──────+─胤家
                     (出羽守)    (六郎)   (六郎満顕・松千代)|(左馬助伊予入道宥郡)
                                               |
                                               +─朝範
                                                (波々賀利氏)

『神代本千葉系図』

 

 東泰行─+─行長──+─行宗───+─胤顕
(図書助)|(丹後守)|(次郎太郎)|(孫次郎)
     |     |      |
     |     +─弥次郎  +─六郎
     |     |
     |     +─六郎
     |
     +─頼行──+─又次郎
     |(五郎) |
     |     |
     +─盛行  +─■■
     |(六郎)
     |
     +─泰胤──+─七郎
     |(七郎) |
     |     |
     +─泰家  +─八郎
      (八郎)


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東 胤秀(????-????)

 下総東氏九代。東遠江守胤顕の長男か。通称は次郎。官途は左衛門尉。法名は宏覺。

 貞治5(1365)年4月、千葉介満胤が6歳で家督を継いだとき、彼が幼少であったために一族が後見人となって支えた。後見人となった「族臣」は、粟飯原弾正左衛門詮胤・相馬上野二郎胤長・大須賀左馬助憲宗・ 国分三河守胤氏入道・東二郎左衛門胤秀入道などだった。相馬上野二郎胤長は相馬次郎師常(千葉介常胤次男)の子孫、大須賀左馬助憲宗は大須賀四郎左衛門尉胤信(千葉介常胤の四男)の子孫、国分三河守胤氏入道は国分五郎左衛門尉胤通(千葉介常胤の五男)の子孫、東次郎左衛門尉胤秀は東六郎大夫胤頼(千葉介常胤六男)の子孫、粟飯原弾正左衛門尉詮胤は千葉介満胤の近親にあたる人物である。

香取神宮
香取神社

 香取神社と千葉介満胤直臣(中村氏、円城寺氏ら)との香取神領の帰属をめぐる争いは、貞治7(1368)年になって、ついに千葉介満胤後見人と千葉介満胤直臣との争いとなり、後見人たちは「一族一揆」を結成して、押領された香取神領の返還成就を祈願した。

 この一揆を結成した中心人物は「平長胤」「老父浄心」だが、これは佐原周辺に広大な所領を持っていた国分一族とも言われている。また一揆に参加した主だった代表者として「沙弥誓阿」「沙弥宏覚」「沙弥禅広」「沙弥寿歓」「沙弥聖応」の五名が挙げられている。

 貞治7(1368)年3月2日、千葉六党出身の五人(沙弥誓阿・沙弥宏覚・沙弥禅広・沙弥寿歓・沙弥聖応)が、「建永承元の御下知に任せて」、香取神領のことを保証することによって一揆(千葉一族一揆)の所願成就を達成することを願った『聖応等連署願文』・『聖応誓阿連署書状』を香取神社に納めた。ここに見える「沙弥宏覚」が東次郎左衛門胤秀入道宏覚である。

名前 実名 応安7(1375)年4月25日『鎌倉府執事奉書写』
沙弥誓阿 木内下総介胤康(孝山誓阿)
木内八郎兵衛胤持(誓阿:千学集抜粋)
⇒粟飯原清胤というのは誤り。
木内七郎兵衛入道?
沙弥宏覚 東次郎左衛門尉胤秀(宏覚) 東次郎左衛門入道
沙弥禅広 東六郎胤光?(『鹿島大禰宜系図』)?  
沙弥寿歓 国分三河守胤詮(千葉国分三河守入道寿歓) 国分三河入道
沙弥聖応 大須賀越後守宗信(生応・性応) すでに没したと思われ、「大須賀左馬助(憲宗)」が就任

 貞治7(1368)年3月2日には、胤秀はすでに出家して「沙弥宏覚」を称しており、家督は嫡男と思われる東左京亮胤元が継いでいたか。

 応安7(1374)年9月27日、鎌倉府が千葉一族の一揆に発給した『鎌倉府執事奉書』の中に「東六郎」「東二郎左衛門入道」の両名がおり、「東六郎」は胤光(胤元?)、「東二郎左衛門入道」は胤秀のことをそれぞれ指していると思われる。

■応安7(1374)年9月27日『山名智兼・安富道轍連署奉書』が発給された一族

名前 法名 実名
千葉介殿   千葉介満胤
国分三河入道 沙弥寿歓 国分三河守胤詮
国分与一   国分与一氏胤?
海上筑後八郎入道   海上筑後八郎入道公胤
木内七郎兵衛入道    
東六郎   東六郎満顕?
東次郎左衛門入道   東次郎左衛門尉胤秀
神崎安芸次郎    
多田左衛門五郎   文和3(1354)年の『左衛門五郎常家譲状』と関係あるか?
粟飯原彦次郎   粟飯原基胤の子?
粟飯原虎王   粟飯原彦次郎の子?

 応安7(1375)年4月25日『鎌倉府執事奉書写』は一族一揆のうち、香取神領付近の大須賀左馬助・国分三河入道・東次郎左衛門入道・木内七郎兵衛入道へ宛てて香取神社の神輿の警固を命じた文書で、応安7(1375)年6月5日『鎌倉府執事奉書写』は同人たちに神領を静謐に保つべく警固を命じた文書。しかし、千葉介家臣(中村氏)による神領の押領は、相変わらず続いていたようで、香取社大禰宜・大中臣長房は鎌倉府へその押領を訴え出て、鎌倉府は応安7(1375)年8月9日『鎌倉府執事奉書』を一族一揆の主要メンバーたちに発給して、その押領をやめさせるよう命じた。

 永徳2(1382)年閏正月28日『鎌倉府奉行沙弥奉書』によれば、東庄小南郷(東庄町小南)は「料所」として鎌倉勝福寺に十年の期限をつけて預け渡されることとなり、翌年の永徳3(1383)年12月20日『氏満寺領寄進状』によれば、小南郷は「左兵衛督源朝臣(足利氏満)」の手によって鎌倉勝福寺に「天下安全の為、武運長久」を願って寄進された。この「下総国東庄小南郷」は沼闕東氏の本領である。

『松羅館本千葉系図』

 東泰行──行長───────+─胤長───+─胤秀────────胤元
(図書助)(左兵衛尉・丹後守)|(胤仲)  |(治郎左衛門・宏覚)(左京亮・宏全)
               |      |
               +─胤是   +─胤氏────────胤光─────亀寿丸
               |(中務)   (出羽守)     (六郎)   (六郎)
               |
               +─胤輝
                (六郎)

『千学集抜粋』

 東泰行  胤仲      胤顕      胤氏   松千代  兼常   兵部丞  泰常
(図書助)(兵衛・丹波守)(遠江守・■真)(出羽守)(禅慶) (兵部丞)(保元) (保春)

『鹿島大禰宜系図』

 東泰行───行長───胤仲──胤顕──+─胤秀───────胤元
(法名行暹)(丹後守)(次郎)(孫次郎)|(次郎左衛門空覺)(左京亮宥全)
                    |
                    +─胤氏───────胤光─────亀寿丸──────+─胤家
                     (出羽守)    (六郎)   (六郎満顕・松千代)|(左馬助伊予入道宥郡)
                                               |
                                               +─朝範
                                                (波々賀利氏)

『神代本千葉系図』

 

 東泰行─+─行長──+─行宗───+─胤顕
(図書助)|(丹後守)|(次郎太郎)|(孫次郎)
     |     |      |
     |     +─弥次郎  +─六郎
     |     |
     |     +─六郎
     |
     +─頼行──+─又次郎
     |(五郎) |
     |     |
     +─盛行  +─■■
     |(六郎)
     |
     +─泰胤──+─七郎
     |(七郎) |
     |     |
     +─泰家  +─八郎
      (八郎)

●貞治7(1368)年3月2日『聖応等連署願文』

 任建永承元御下知、御神領之事、無子細可口入申候、仍総州以下一揆為所願成就、
 立願状如件、
    貞治七年三月二日        沙弥誓阿(花押)
                    沙弥宏覚(花押)
                    沙弥禅広(花押)
                    沙弥寿歓(花押)
                    沙弥聖応(花押)   

●貞治7(1368)年3月 日『聖応等連署安堵状』

 任代々御下知之旨、長房所領、小野、織幡、葛原、次十二ヶ村散在、犬丸、金丸以下村々、
 或云下知、或云所務、并屋敷田畠等事、依為御神領、悉可被還付長房由、総州方江可口入申候、
 仍総州以下一揆為所願成就、立願状如件、
      貞治七年三月 日        沙弥誓阿(花押)
                      沙弥宏覚(花押)
                      沙弥禅広(花押)
                      沙弥寿歓(花押)
                      沙弥聖応(花押)   

■応安7(1374)年9月27日『山名智兼・安富道轍連署奉書』(『旧大禰宜家文書』『千葉県史料』中世篇)

 下総国香取社大禰宜長房申、当国津宮津以下浦々海夫事、注文一通遣之、度々被仰之處、
 不事行云々、甚不可然、所詮云知行分、云庶子等分、厳密可被致其沙汰、若猶及異議者、
 可有殊沙汰之由候也、仍執達如件、

   応安七年九月廿七日      智兼(花押)
                  道轍(花押)
    千葉介殿

国分三河入道、同余一、海上筑後八郎入道、木内七郎兵衛入道殿、東六郎、東次郎左衛門入道、神崎安芸次郎、多田左衛門五郎、粟飯原彦次郎、同虎王、以上十一通名所々付之外者、同文章

■応安7(1375)年4月25日『鎌倉府執事奉書写』(『旧大禰宜家文書』:『千葉県史料 中世篇』)

 下総国香取神輿御帰座事、可致警固之状、依仰執達如件、

    応安七年四月二十五日     沙弥(在判)
     大須賀左馬助殿

  国分三河入道殿、東次郎左衛門入道殿、木内七郎兵衛入道殿四通同前、

●応安7(1375)年6月5日『鎌倉府執事奉書写』(『旧大禰宜家文書』:『千葉県史料 中世篇』)

 下総国香取社警固事、先立 神輿御帰座時被仰了、所詮神領静謐之程、可被致警固之状、
 依仰執達如件、

   応安七年六月五日     沙弥(在判)

   大須賀左馬助殿   国分三河入道殿
   東次郎左衛門入道殿 木内七郎兵衛入道殿四通同前、  

●応安7(1375)年8月9日『鎌倉府執事奉書』(『旧大禰宜家文書』:『千葉県史料』中世篇 香取文書)

 下総国香取社人長房等申神領等事、退千葉介押領、可沙汰付長房等之由、所被仰両使也、
 早相催一族、可加合力、若無沙汰者、可有其咎之状、依仰執達如件、

   応安七年八月九日      沙弥(花押)
    木内七郎兵衛入道殿

 大隅次郎、相馬上野次郎、大須賀左馬助、国分三河入道、同六郎兵衛入道、同越前五郎、同余一、
 東次郎左衛門入道、木内七郎兵衛入道殿、神崎左衛門五郎、那智左近蔵人入道、同文章以上十一通

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東胤氏(????-????)

 下総東氏八代。東遠江守胤顕の子か。通称は孫次郎か。官途は出羽守。法名は朝仁。

 延文3(1358)年12月から翌年5月までの間に円覚寺の大般若経の開版事業へ出資した人物名として「東遠江孫次郎平胤氏」の名が見える(「円覚寺蔵大般若経刊記等に就いて(二)」:『金沢文庫研究』貫達人著)。彼に並んで、「沙弥契道(国分胤氏)」「沙弥理慶(海上公胤)」も姿を見ることができる。

『松羅館本千葉系図』

 東泰行──行長───────+─胤長───+─胤秀────────胤元
(図書助)(左兵衛尉・丹後守)|(胤仲)  |(治郎左衛門・宏覚)(左京亮・宏全)
               |      |
               +─胤是   +─胤氏────────胤光─────亀寿丸
               |(中務)   (出羽守)     (六郎)   (六郎)
               |
               +─胤輝
                (六郎)

『千学集抜粋』

 東泰行  胤仲      胤顕      胤氏   松千代  兼常   兵部丞  泰常
(図書助)(兵衛・丹波守)(遠江守・■真)(出羽守)(禅慶) (兵部丞)(保元) (保春)

『鹿島大禰宜系図』

 東泰行───行長───胤仲──胤顕──+─胤秀───────胤元
(法名行暹)(丹後守)(次郎)(孫次郎)|(次郎左衛門空覺)(左京亮宥全)
                    |
                    +─胤氏───────胤光─────亀寿丸──────+─胤家
                     (出羽守)    (六郎)   (六郎満顕・松千代)|(左馬助伊予入道宥郡)
                                               |
                                               +─朝範
                                                (波々賀利氏)

『神代本千葉系図』

 

 東泰行─+─行長──+─行宗───+─胤顕
(図書助)|(丹後守)|(次郎太郎)|(孫次郎)
     |     |      |
     |     +─弥次郎  +─六郎
     |     |
     |     +─六郎
     |
     +─頼行──+─又次郎
     |(五郎) |
     |     |
     +─盛行  +─■■
     |(六郎)
     |
     +─泰胤──+─七郎
     |(七郎) |
     |     |
     +─泰家  +─八郎
      (八郎)


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東 胤光(????-????)

 下総東氏九代。東次郎左衛門胤秀の子・左京亮胤元と同一人物かも。通称は六郎。

 応安7(1374)年9月27日、鎌倉府が千葉一族の一揆に発給した『鎌倉府執事奉書』の中に「東六郎」「東二郎左衛門入道」の両名がおり、「東六郎」は胤光(胤元)、「東二郎左衛門入道」は胤秀のことをそれぞれ指していると思われる。

『松羅館本千葉系図』

 東泰行──行長───────+─胤長───+─胤秀────────胤元
(図書助)(左兵衛尉・丹後守)|(胤仲)  |(治郎左衛門・宏覚)(左京亮・宏全)
               |      |
               +─胤是   +─胤氏────────胤光─────亀寿丸
               |(中務)   (出羽守)     (六郎)   (六郎)
               |
               +─胤輝
                (六郎)

『千学集抜粋』

 東泰行  胤仲      胤顕      胤氏   松千代  兼常   兵部丞  泰常
(図書助)(兵衛・丹波守)(遠江守・■真)(出羽守)(禅慶) (兵部丞)(保元) (保春)

『鹿島大禰宜系図』

 東泰行───行長───胤仲──胤顕──+─胤秀───────胤元
(法名行暹)(丹後守)(次郎)(孫次郎)|(次郎左衛門空覺)(左京亮宥全)
                    |
                    +─胤氏───────胤光─────亀寿丸──────+─胤家
                     (出羽守)    (六郎)   (六郎満顕・松千代)|(左馬助伊予入道宥郡)
                                               |
                                               +─朝範
                                                (波々賀利氏)

『神代本千葉系図』

 

 東泰行─+─行長──+─行宗───+─胤顕
(図書助)|(丹後守)|(次郎太郎)|(孫次郎)
     |     |      |
     |     +─弥次郎  +─六郎
     |     |
     |     +─六郎
     |
     +─頼行──+─又次郎
     |(五郎) |
     |     |
     +─盛行  +─■■
     |(六郎)
     |
     +─泰胤──+─七郎
     |(七郎) |
     |     |
     +─泰家  +─八郎
      (八郎)

■応安7(1374)年9月27日『山名智兼・安富道轍連署奉書』が発給された一族■

名前 法名 実名
千葉介殿   千葉介満胤
国分三河入道 沙弥寿歓 国分三河守胤詮
国分与一   国分与一氏胤?
海上筑後八郎入道   海上筑後八郎入道公胤
木内七郎兵衛入道    
東六郎   東六郎満顕?
東次郎左衛門入道 沙弥宏覚 東次郎左衛門尉胤秀
神崎安芸次郎    
多田左衛門五郎   文和3(1354)年の『左衛門五郎常家譲状』と関係あるか?
粟飯原彦次郎   粟飯原基胤の子?
粟飯原虎王   粟飯原彦次郎の子?

■『海夫注文』に見える、各氏族が支配した下総の海夫■

名前 実名 支配した津
飯沼   いひぬまかうやの津(飯沼:銚子市飯沼町)
海上筑後八郎入道 海上公胤入道 かき祢の津(垣根:銚子市垣根町)
野志りの津(野尻:銚子市野尻町)
志不可わの津(塩川:銚子市内)
森戸 森戸胤豊? も里との津(森戸:銚子市森戸町)
篠本    さゝもとの津(篠本:銚子市笹本町)
石出   いしての津(石出:香取郡東庄町石出)
今泉   いまいつミの津(今泉:香取郡東庄町東今泉)
東六郎   さつさ可わの津(笹川:香取郡東庄町笹川)
粟飯原彦次郎 粟飯原基胤の子? おみ可わの津(小見川:香取郡小見川町小見川)
大蔵(安富?)   たとかうやの津(??)
そ者多可の津(側高:香取郡小見川町脇鷹)
ゑちこうちの津(越後内?)
中村三郎左衛門尉   すくゐの津(須保居:佐原市内)
不つ可わの津(布津川?)
内山中務(中沢)   不つ可わの津(布津川?)
よこす可の津(横須賀:佐原市内)
中村式部 中村胤幹 つのミやの津(津宮:佐原市津宮)
さわらの津(佐原:佐原市佐原)
けつさわ   志の原津(篠原:佐原市篠原)
国分与一 国分氏胤? せきとの津(関戸:佐原市佐原イ)
木内 木内七郎兵衛入道 いわ可さきの津(岩ヶ崎:佐原市岩ヶ崎台)
知行人不明   いとにわの津(井土庭:佐原市内)
国分三河入道 国分胤詮 奈可すの津(中洲?)
神崎西■■ 神崎安芸次郎 かうさきの津(神崎:香取郡神崎町神崎本宿?)

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東満顕(????-????)

 下総東氏十代。東六郎胤光の子か。幼名は亀壽丸(『千学集抜粋』『鹿島大禰宜系図』)、松千代(『鹿島大禰宜系図』)。通称は六郎。法名は禅慶(『千学集』)。『鹿島大禰宜系図』によれば「亀壽丸 六郎松千代与同六郎満顕」とあり、このことが真実であれば『千学集抜粋』にある「松千代 禅慶」と同一人物となる。『海夫注文』に見える「東六郎」は満顕か。

─『松羅館本千葉系図』─

 東泰行──行長───────+─胤長───+─胤秀────────胤元
(図書助)(左兵衛尉・丹後守)|(胤仲)  |(治郎左衛門・宏覚)(左京亮・宏全)
               |      |
               +─胤是   +─胤氏────────胤光─────亀寿丸
               |(中務)   (出羽守)     (六郎)   (六郎)
               |
               +─胤輝
                (六郎)

─『千学集抜粋』─

 東泰行  胤仲      胤顕      胤氏   松千代  兼常   兵部丞  泰常
(図書助)(兵衛・丹波守)(遠江守・■真)(出羽守)(禅慶) (兵部丞)(保元) (保春)

─『鹿島大禰宜系図』─

 東泰行───行長───胤仲──胤顕──+─胤秀───────胤元
(法名行暹)(丹後守)(次郎)(孫次郎)|(次郎左衛門空覺)(左京亮宥全)
                    |
                    +─胤氏───────胤光─────亀寿丸──────+─胤家
                     (出羽守)    (六郎)   (六郎満顕・松千代)|(左馬助伊予入道宥郡)
                                               |
                                               +─朝範
                                                (波々賀利氏)

─『神代本千葉系図』─

 

 東泰行─+─行長──+─行宗───+─胤顕
(図書助)|(丹後守)|(次郎太郎)|(孫次郎)
     |     |      |
     |     +─弥次郎  +─六郎
     |     |
     |     +─六郎
     |
     +─頼行──+─又次郎
     |(五郎) |
     |     |
     +─盛行  +─■■
     |(六郎)
     |
     +─泰胤──+─七郎
     |(七郎) |
     |     |
     +─泰家  +─八郎
      (八郎)

 『千学集抜粋』によれば、松千代(=満顕)の跡は兼常、兵部丞入道保元、東泰常入道保春と続いたとされるが、その後は不明。


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東胤家(????-????)

 東左馬助胤俊の弟で、兄の子・東七郎広胤に子がなかったことから、沼闕東氏の家督を継承。通称は左衛門二郎。官途名は左馬助、伊豫入道(『鹿島当禰宜系図』)。法名は宏全。「胤元」と同一人物か?

 応永23(1416)年4月18日の玉子大明神(東大社)に対する宮殿新築の際、「平憲胤(海上憲胤)」とならんで「東左馬助胤家」が名を連ねている。憲胤のあとに書かれた人物が神官たちであるのに対し、胤家のあとに書かれた人物は「当政所家吉」や「惣庄内郷々助成合力諸人等各々」と、神社の土地に関わる人々が記されていることから、海上氏は主に東大社の神事に携わり、東氏は神領内の政治に関わっていたか。胤家には男子がなく、一人娘は原左馬助胤義を婿として飯田城を構えた。

─『松羅館本千葉系図』─

 東泰行──行長───────+─胤長───+─胤秀────────胤元
(図書助)(左兵衛尉・丹後守)|(胤仲)  |(治郎左衛門・宏覚)(左京亮・宏全)
               |      |
               +─胤是   +─胤氏────────胤光─────亀寿丸
               |(中務)   (出羽守)     (六郎)   (六郎)
               |
               +─胤輝
                (六郎)

─『鹿島大禰宜系図』─

 東泰行───行長───胤仲──胤顕──+─胤秀───────胤元
(法名行暹)(丹後守)(次郎)(孫次郎)|(次郎左衛門空覺)(左京亮宥全)
                    |
                    +─胤氏───────胤光─────亀寿丸──────+─胤家
                     (出羽守)    (六郎)   (六郎満顕・松千代)|(左馬助伊予入道宥郡)
                                               |
                                               +─朝範
                                                (波々賀利氏)


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東胤義(????-????)

 東左馬助胤家の養嗣子。実は原家の三男。官途名は左馬助(『鹿島当禰宜系図』)。

 当主の座について三十七年、五十二歳で亡くなった。法名は桂才(『鹿島当禰宜系図』)。


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東胤久(????-????)

 東左馬助胤義の嫡男。母は東左馬助胤家娘。通称は小次郎。法名は宏秀。


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東胤重(????-????)

 東小次郎胤久の嫡男。通称は六郎。娘は鹿島神宮禰宜・中臣清長に嫁いだ。

 家督を継いで飯田(森山)城主となり、七年間当主を務めたが、飯田城を出て十四年後、東氏の名代は断絶した。系譜は一族の海上氏出身の引摂寺住持憲通律師が胤重に借用したまま預かっており、胤重嫡男・勝繁が成長したのちに彼に戻して東氏を再興させた。

 『本土寺過去帳』には、永正3(1506)年8月23日、「千葉井花ニテ打死諸人同 東六郎殿証仏果」とあり、同日に「原蔵人丞法名 朗寿 永正三丙子八月」とある。「丙子」から両者は永正13(1516)年8月23日に亥鼻で討死したものと考えられる。これは『千学集抜粋』に記されている「一条院薄墨の御證文は、範覚の世に井の鼻を持れし時、永正十三年丙子八月廿三日、三上但馬守二千餘騎にて押寄せて打落とす、此時薄墨の御證文は宝器ともみな失せにける」とある部分と一致し、上総国真名城(茂原市真名)の三上但馬守が千葉に攻め寄せた際に「東六郎」と「原蔵人丞」が亥鼻で討死したものであろう。この当時、千葉庄を支配していたのは原氏と推測されるため、祖父東左馬助胤義の出身家である原家との関わりのある胤重が亥鼻にいた可能性も比定できず、亥鼻で討死した「東六郎」は胤重かもしれない。

●『本土寺過去帳』(廿三日条)

   永正三丙子八月
+─原蔵人丞法名 朗寿 
|
| 千葉井花ニテ打死諸人同
+─東六郎殿証仏果

●『本土寺過去帳』(廿七日条)

玄意 永正十七辛巳八月
   原蔵人丞殿

 亨徳4(1455)年の千葉大介胤直滅亡ののち、千葉宗家は本拠地を佐倉(酒々井町本佐倉)へ移しており、五十年を経たこの時代には宗教的な施設が建てられていたようである。発掘によって狛犬や宝篋印塔、大型建物一棟が見つかっている。また『千学集抜粋』に「範覚の世に井の鼻を持れし時」とあり、金剛授寺住持「範覚」が亥鼻にあったときに三上但馬守が攻め寄せ「一条院薄墨の御證文は宝器ともみな失せにける」とあることから、亥鼻は金剛授寺の別院としての文庫が置かれていたとみられる。権少僧都範覚は原越後守胤隆(小弓城主)の三男であり、下総小弓城(千葉市中央区南生実町)と三上氏の上総真名城(茂原市真名)とは、直線距離で十四キロの至近にあるため、原氏と三上氏との間でなんらかの問題が起こっていたのかもしれない。

 その後、原氏による反撃があったか、真名城は原氏の手に落ち、小弓城の「原次郎」の「家郎高城越前守父子」「同下野守」が在城したのだろう。そして翌永正14(1517)年10月、「上総国住人武田真里谷三河守入道」が「義明奉招請為大将」として「小弓城」と「三上城」に攻め寄せ、10月13日に「三上城没落」し、その二日後の10月15日に「小弓城攻落」した。この合戦で「原次郎并家郎高城越前守父子滅亡、同下野守逐電」し「義明様小弓城ニ御移」った。これ以降、義明は「近年小弓上様ト奉称」と伝える(『快元僧都記』)。

●『快元僧都記』

小弓上様義明、古河公方高基様御連枝也、先年御父政氏様御勘当、奥州御下向有之、其後上総国住人武田真里谷三河守入道ト同小弓城主原二郎及鉾楯、毎度小弓打勝畢、因玆武田自力不叶、自奥州義明奉招請為大将、小弓城攻落永正四年十月十五日、原次郎并家郎高城越前守父子滅亡、同下野守逐電同十三日三上城没落、義明様小弓城ニ御移、房州里見、常陸鹿島、武州小府佐々木以下悉ク奉随之、御家風掩東国、近年小弓上様ト奉称云々

 永正17(1520)年8月27日、「玄意 原蔵人丞」が没しているが、永正13(1516)年8月23日に亥鼻で討死した原蔵人丞朗寿との関係は不明。

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東勝繁(1492-????)

 東六郎胤重の嫡男。通称は右衛門大夫。

 永正13(1516)年9月7日、25歳の勝繁は東庄飯田谷の飯田城に入った。時代的に、千葉介勝胤の時代であることから、勝繁は勝胤から「勝」字の偏諱を受けている可能性がある。そうなると、千葉宗家と親密な関係を保っていることがうかがえる。

 大永6(1526)年の常燈寺棟札に「代檀那海上殿平持秀」「東殿勝繁」「宮内少輔久繁」「同大方殿」とある。「海上殿平持秀」は飯沼城主の海上氏当主、「東殿勝繁」はこの勝繁のことと思われるが、「宮内少輔久繁」については不明。時代的に「東宮内少輔」は「東宮内少輔氏胤」と同時代の人物だが、常世田常燈寺に刻まれている「宮内少輔久繁」が東氏かどうかは不明。

 永禄4(1561)年の『東大社文書』の中に「東勝秀」なる人物があるが、勝繁との関係は不明。


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