相馬原氏

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■相馬原氏

 相馬原氏は下総原氏の末裔で、鎌倉時代末期に相馬孫五郎重胤に随って、陸奥国行方郡へ下ったと伝わる原一族である。代々相馬家に仕え、伊達家との戦いなどに多くの武勲を挙げる。子孫は藤崎氏、原氏と家を伝え、五百数十年を相馬家に尽くし明治を迎える。

原以卜家 ●原伝右衛門家


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原 胤康 (????-????)

 鴨根三郎常房を祖とする下総原氏の末裔と伝わる。通称は大蔵大輔、三河とも。

 相馬讃岐守高胤相馬大膳大夫盛胤の両代に仕え、行方郡大井村南相馬市小高区大井)に居住した。大井村の北隣には「原」という字名があるが、原氏と関係があるかもしれない。


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原 胤盛 (????-????)

 原三河胤康の子。通称は玄蕃

 相馬讃岐守顕胤相馬弾正大弼盛胤の両代に仕えた。


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原 胤寿 (????-????)

 原玄蕃胤盛の子。通称は三河、伯耆、次郎右衛門。名は胤政とも。妻は西左衛門四郎胤常娘。号は如雪

 相馬弾正大弼盛胤相馬長門守義胤の両代に仕え、それまでの居館だった大井村から宇多郡藤崎村へ移り、盛胤が宇多郡に築城した駒ヶ嶺城の城代となる。

 天正13(1585)年9月、伊達政宗が葦名勢を後ろに反旗を翻した小浜城主・大内備前守定綱を攻めた際、伊達家と和睦していた相馬義胤も政宗の加勢として、三春に出陣。相馬義胤と伊達政宗は初めて対面を果たした。このとき、泉大膳胤秋、木幡出羽、青田山城、原如雪の四名が義胤に随い、如雪はとくに政宗から小袖を賜わっている

 弟・原紀伊胤直は別家を立てる。


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原 三河 (????-????)

 原如雪胤寿の次男。通称は三河。実名は不明。

 行方郡大井村南相馬市小高区大井)に居住し、四貫五百五十五文の采地を持つ。

 兄・藤崎摂津は父・原胤寿より宇多郡藤崎村を継承して藤崎を称し、父と同様に駒ヶ嶺城代となる。弟・原淡路は別家を立てる。

 三河の流れは二百二十七石という中村藩内では比較的高禄な家柄として続くが、八世の原八左衛門の代で断絶した。

 長男家の藤崎家は藩の奉行や江戸詰めを務めて幕末を迎えるが、幕末の藤崎蔵之丞公重は、庶子に「粟飯原」「金原」といった下総原氏所縁の名字を与えている。四男・須江三郎兵衛懿春は初名を粟飯原四郎といい、戊辰戦争で藩公・相馬因幡守秊胤に随って輜重を率いて出陣。五男・熊蔀重矩熊次郎右衛門常清の婿養子となったが、初名は金原子之助といった。この庶子別姓の謂れは、公重の嫡男・藤崎源太左衛門重固も引き継いでいて、三男・中津幸清は初名を粟飯原四郎と称し、その弟は金原五郎を称している。


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■原以卜家

 原以卜胤直は相馬原氏の庶流で、原玄蕃胤盛の次男の流れをくむ。子孫は主に二つの流れとなり、ともに相馬中村藩内の重職に就くが、次男家の原伝右衛門家がとくに繁栄する。


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原 胤直 (????-????)

 原玄蕃胤盛の次男。通称は左近、紀伊。のち以卜と号す。

 行方郡小高郷小谷村南相馬市小高区小谷)に居住した。胤直は妙見を信奉し、菩提寺の小谷村渋谷山明徳寺に妙見社を祀る。現在明徳寺は廃寺となっている。


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原 胤政 (????-????)

 原以卜胤直の嫡男。通称は三郎右衛門、対馬。采地は六貫四十文

 天正19(1591)年5月、相馬長門守義胤が紀伊国高野山に参詣した際に扈従し、文禄2(1593)年、その能筆を買われて禄秩簿を認めた。

 菩提寺の行方郡小谷村明徳寺に葬られた。

 姉は門馬丹後経光(高経)に嫁いで、長女(大久保義房妻)、門馬源左衛門経氏門馬長助元経の母となる。門馬元経は、慶長の役の際に徳川家によって相馬家旧領が没収されたことにつき、慶長7(1602)年5月に相馬蜜胤が旧領回復のため江戸へ出た際に扈従している。


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原 庸吉 (????-1667)

 原対馬胤政の嫡男。通称は九十郎、小左衛門、新右衛門、主税。妻は木幡権左衛門忠清娘。采地は南標葉郷新山、前田、目迫二百石

 寛永11(1634)年、藩公・相馬大膳亮義胤が川越在番になった際に扈従し、寛永20(1643)年の二本松在番、正保2(1645)年の三春在番、慶安2(1649)年の大坂加番の出役に扈従した。

 明暦年中、鉄砲組物頭となり、万治元(1658)年7月、江戸城の御門造営に相馬家側の実務者として参加した。

 寛文7(1667)年8月16日に亡くなった。法名は覚智江閑。中村城南川原町にあった西林山真光寺に葬られた。真光寺の伽藍にはのちに豊池山円応寺が移されている。

 姉は門馬宗右衛門の妻となり、弟の原権右衛門は別家を立てている。


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原 庸忠 (????-1719)

 原主税庸吉の養嗣子。実父は原助兵衛。母は大井太郎左衛門娘か。通称は小左衛門。号は寒雪

 天和2(1682)年5月、藩公・相馬昌胤が幕府より越後国高田城の在番を命じられて高田へ赴いた際に供奉し、普請方を務めた。

 享保4(1719)年4月5日に亡くなった。法名は暑参寒雪


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原 庸清 (????-1730)

 原小左衛門庸忠の嫡男。幼名は主税。通称は新右衛門。妻は中村藩御一家筆頭・岡田監物伊胤娘

 元禄10(1697)年、江戸護国寺観音堂普請の相馬家側の担当者として勤めた。この年から宝永5(1708)年まで物頭役を勤め、享保15(1730)年12月14日に亡くなった。妹は藩重臣の石川次左衛門信昌に嫁いだ。


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原 庸友 (????-1750)

 原新右衛門庸清の嫡男。通称は幸右衛門、次郎右衛門。母は岡田監物伊胤娘。妻は村田助之進娘

 不行跡により、原家の采地二百石のうち百石を削られて隠居を命じられ、家督を弟の三郎右衛門庸長へ譲り隠居。寛延3(1750)年4月5日に亡くなった。

 妹は藩組頭・熊川兵庫長賀に嫁ぎ、寛保3(1743)年10月9日に四十七歳で亡くなった。法名は心光院照譽仙室壽永。熊川長賀の母は岡田監物伊胤の娘であり、長賀と庸友妹は従兄弟にあたる。


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原 庸長 (????-1743)

 原新右衛門庸清の次男。実兄・原次郎右衛門庸友の養嗣子。母は岡田監物伊胤。妻は日下文八宗安娘。幼名は辰之助。通称は三郎右衛門

 享保10(1725)年正月、在郷中頭から御台所頭、町奉行を歴任。坪田八幡宮修復の奉行などを勤めた。

 寛保3(1743)年正月14日、先代の兄で義父・庸清に先立って亡くなった。


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原 庸隆 (????-1780)

 原三郎右衛門庸長の嫡男。母は日下文八宗安娘。妻は栗崎三郎兵衛澄乗娘幾世橋伴右衛門為経娘伊東太兵衛壽祐娘。幼名は主税。通称は三郎右衛門

 宝暦9(1759)年2月20日、在郷中頭を務めたのち、普請奉行、町奉行、郡代役を歴任したが、明和8(1771)年4月29日に過失を犯し、5月3日、郡代を免ぜられ、采地百石のうち五十石を減ぜられて隠居を命じられた。跡は弟の良之進庸秀が継ぎ、安永9(1780)年10月28日に亡くなった。


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原 庸秀 (????-1801)

 原三郎右衛門庸長の次男。実兄・原三郎右衛門庸隆の養嗣子。母は日下文八宗安娘。妻は志賀孫右衛門清房養女(実父は土井幸助)。通称は良之進。

 宝暦11(1761)年9月、藩公・相馬恕胤の中小姓に抜擢され、明和6(1769)年6月7日、実相院殿(老公・相馬尊胤室本多氏)の中小姓へ移った。このとき、志賀孫右衛門清房娘との縁組が命じられ、七人扶持を給わる。

 明和8(1771)年4月29日、兄・庸隆が過失によって隠居を命じられたことから家督を相続することとなり、以降、在郷吟味役、御金奉行、代官職を勤め上げ、享和元(1801)年9月17日に亡くなった。


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原 庸充 (????-????)

 原良之進庸秀の長男。妻は杉七太左衛門清信娘。幼名は専弥。通称は良之進

 寛政12(1800)年12月25日、御普請方小奉行を勤め、享和元(1801)年9月17日に父・庸秀が亡くなったことから、11月8日に家督を相続。12月2日、「良之進」と名を改めた。

 これ以降、小奉行、畳柾奉行、材木奉行、御廻米奉行などを歴任したが、天保6(1835)年に何らかの理由で解職された。


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原 庸久 (1809-1858)

 原良之進庸充の養嗣子。実父は伊東太兵衛矩祐。養母は杉七太左衛門清信娘。妻は原良之進庸充娘手戸仁兵衛旨利妹田井市郎左衛門光信娘。通称は万之進

 文政11(1828)年正月22日、相馬樹胤の常詰徒士となり、天保7(1836)年5月14日、解任された父・庸充の跡を受けて家督を相続する。

 安政5(1858)年6月25日に亡くなった。



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■原伝右衛門家

 原以卜胤直は相馬原氏の庶流で、原玄蕃胤盛の次男の流れをくむ。子孫は主に二つの流れとなり、ともに相馬中村藩内の重職に就くが、次男家の原伝右衛門家がとくに繁栄する。


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原 権右衛門 (????-1686)

 原三郎右衛門胤政の次男。妻は池田玄徹後室。初名は喜左衛門。号は宗也

 正保年中、御医師だった石田玄徹重則が亡くなり、その子・池田庄左衛門信重が幼少だったことから、藩公・相馬大膳亮義胤の命により池田玄徹の後室を娶って、池田庄左衛門を撫育し養嗣子に迎え、成長ののちに家督を譲った。これは池田家の家督を庄左衛門へ譲ったということだろう。これによって、権右衛門は別に標葉郡酒井村双葉郡浪江町酒井)、高瀬村双葉郡浪江町高瀬)に〆て二百石を給わった。

 明暦年中、御使番を勤め、万治元(1658)年、江戸城の城門御手伝普請に際し、中村藩役人として勤めた。

 貞享3(1686)年9月26日に亡くなった。


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原 権太夫 (????-1681)

 原権右衛門の嫡男。実は藩老・泉縫殿助乗信の三男。母は池田次郎左衛門光正(直助)娘。妻は養父・権右衛門娘。義伯父は御一家筆頭・岡田監物伊胤、義兄は御一家・泉田掃部胤清

 池田光政――+―池田直重――――――池田直之     守屋八太夫信重娘 
(次郎左衛門)|(八左衛門)    (八左衛門)    ∥――――――――+―池田直堅
       |           ∥        ∥        |(小右衛門)  
       +―娘         ∥――――――――池田直重     |
       |(泉田勘解由妻) +―娘       (八右衛門)    +―娘
       |         |                     ∥
       +―娘       | 岡田監物伊胤娘             ∥
         ∥       | ∥                   ∥ 
         ∥―――――――+―泉成信                 ∥ 
         ∥       |(縫殿助)                ∥ 
         ∥       |                     ∥ 
         泉乗信     +―娘                   ∥ 
        (縫殿助)    |(泉田掃部胤清妻)            ∥ 
                 |                     ∥ 
                 +―原権太夫―――――原宗清――――――――原左近右衛門
                           (伝右衛門)

 原権右衛門に男子がなかったことから、泉縫殿助乗信の三男が養嗣子として入り、権右衛門の家督を相続した。延宝年中、御使番となる。 

 延宝9(1681)年8月20日に亡くなった。


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原 宗清 (????-1733)

 原権太夫の嫡男。母は原権右衛門娘か。妻は泉内蔵助胤祐娘、岡崎本右衛門盛範娘遠藤清右衛門清秀娘。通称は伝右衛門

 天和2(1682)年5月、藩公・相馬昌胤の越後高田城在番に供奉したが、病により中村へ帰国した。

 貞享3(1686)年3月、在郷給人中頭となり、翌貞享4(1687)年8月に御使番、元禄5(1692)年8月に中目附、元禄9(1696)年に物頭となり元禄16(1703)年まで勤めたのち、宝永4(1707)年には郡代役に取り立てられ、正徳2(1712)年4月までの五年間勤めた。相馬中村藩においては郡代職は三名任じられ、中村藩領の宇多郡、行方郡、標葉郡の三郡の民政を行なう重職だが、原宗清がどの郡を担当したかは不明。原家の知行は標葉郡高瀬村、酒井村にあったことから、標葉郡の郡代を勤めていたのかもしれない。

 享保18(1733)年3月4日に亡くなった。法名は屋了満春居士(カ)。

 長姉は田原口吉左衛門由貞妻、次姉は中野卯右衛門重良妻


千葉氏トップ千葉一族・原氏相馬原氏 > 原左近右衛門 


原 左近右衛門 (????-1718)

 原伝右衛門宗清の嫡男。母は泉内蔵助胤祐娘。妻は池田八右衛門直重(号は常月)娘、のち大浦五藤左衛門清英(号は遊軒)娘

 享保2(1717)年3月、在郷給人中頭に就くが、翌享保3(1718)年6月17日、父に先立って亡くなってしまった。左近右衛門はすでに嫡男・久四郎を儲けていたが、まだ幼少だったことから、弟・原六大夫が継いで久四郎を守り立てることとなった。

 娘は小田切式右衛門安道妻


千葉氏トップ千葉一族・原氏相馬原氏 > 原信英 


原 信英 (????-????)

 原伝右衛門宗清の次男。母は泉内蔵助胤祐娘。妻は富田六郎右衛門実信娘。通称は六大夫、伝右衛門。のち祖父・原権太夫の実家である花井家を継ぐ。

 享保3(1718)年6月17日、兄・左近右衛門が亡くなったため、その幼少の嫡男・久四郎の後見として家督を継ぎ、通称を伝右衛門と改めたと思われる。

 御使番、中目附、留守居、用人を歴任し、甥の久四郎信興に家督を譲って隠居したのちは、郡代、留守居用人、留守居兼役などの重職を歴任し、宝暦6(1756)年11月、新たに百五十石を給わって花井家を継ぎ、中老職に抜擢された。

 花井家は原伝右衛門信英の実祖父・原権太夫の実家である泉縫殿助家のことだが、泉家は泉甚右衛門為信に男子がなく、断絶してしまったことから、男系の直系子孫で、隠居の身である信英に白羽の矢が立ったと思われる。


千葉氏トップ千葉一族・原氏相馬原氏 > 原信興 


原 信興 (????-????)

 原左近右衛門の嫡男。母は大浦五藤左衛門清英(号は遊軒)娘。妻は原八左衛門娘、のち大槻弥兵衛吉豊長女。幼名は久四郎。通称は喜左衛門、伝右衛門。隠居後は織衛

 享保3(1718)年6月17日、幼少時に父・左近右衛門が亡くなったため、叔父の原六大夫信英が久四郎の後見として家督を継ぎ、久四郎は信英に守り育てられた。

 寛保2(1742)年2月15日、御使番に就任した。おそらく叔父の信英から家督を相続したのちのことと思われる。

 延享3(1746)年正月16日、物頭に就任し、さらに長柄奉行に就任。宝暦5(1755)年から翌宝暦6(1756)年まで御持筒頭を勤めた。

 男子が無かったため、藩家老・堀内覚左衛門重長の次男・堀内市次を婿養子に迎えて家督を譲った。


千葉氏トップ千葉一族・原氏相馬原氏 > 原信如 


原 信如 (1734-1789)

 原伝右衛門信興の養子。実父は堀内覚左衛門重長。母は泉田四郎兵衛隆常。幼名は市次。通称は伝右衛門、のち堀内覚左衛門養長。隠居号は勘解由

 宝暦2(1752)年7月17日、御使番に就任。明和元(1764)年10月11日、中目附、翌明和2(1765)年5月4日には物頭、明和9(1772)年9月5日に組頭に就任した。

 しかし、安永2(1773)年7月10日、実家・堀内覚左衛門家の本宗家である藩御一家・堀内家の養子に入っていた堀内朋之進(父は藩公・相馬恕胤、母は御内証・満尾)が三歳の幼さで亡くなり、7月25日、堀内宗家は信如の義甥・堀内覚左衛門達長(泉田掃部胤重次男)が継承して、堀内大蔵胤陸となった。達長の男子三人はすべて早世しており、達長が堀内本家を継ぐと堀内覚左衛門家が絶えてしまうこととなるため、藩公・相馬恕胤の命により、先々代・堀内覚左衛門重長の次男である信如が堀内覚左衛門家に戻って家督を継ぐこととなった。

 一方、原伝右衛門家の跡は、藤岡朔庵玄綱の次男・勇次郎伝右衛門信如の娘に娶わせて養嗣子に迎えた。

 安永3(1774)年正月28日に御用人に就き、安永6(1777)年6月5日に小姓頭、安永9(1780)年正月16日、家老職(藩政総括:三家老の一人)に就任した。さらに天明元(1781)年6月7日には侍大将・組支配(軍権統括:四組支配の一人)、10月18日には郡代頭(三郡民政総括)となり、事実上、中村藩の藩政を担う最高責任者の一人となった。

 天明3(1783)年11月9日、養子の堀内甲四郎(義甥・泉田良庵延隆の次男)に譲り、江戸定府とされ月棒六十人扶持を給い、勘解由と改める。

 同年12月、藩公・相馬祥胤が家督相続の御礼登城の際、通例となっていた御一家の将軍御目見につき、堀内本家の堀内千松(堀内胤陸の嫡子でこのとき七歳)が幼少のため、勘解由養長が名代を務め、将軍・徳川家治に御目見えを果たし、太刀目録を献じた

 しかし、天明5(1785)年7月11日、過失によって家老職を解かれて蟄居を命じられ、寛政元(1789)年7月1日、亡くなった。享年五十六。法名は秋光院凉威宗粛


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原 信豊 (????-1807)

 原伝右衛門信如の養嗣子。実父は藤岡朔庵玄綱。母は堀越平治清陽娘。幼名は勇次郎。通称は左近右衛門、伝右衛門

 母の堀越氏の玄祖父は相馬原氏の祖である原三河の末子・原庄左衛門清宗(清隆)で、原氏とは遠い親戚にあたり、さらに堀越氏の母・泉氏は、原左近右衛門・原伝右衛門信英とは従兄妹の間柄にあり、堀越氏と原氏は親類関係にある。

 泉胤政
(藤右衛門)   
  ∥――――娘
 岡田氏   ∥―――+―熊川長定===熊川長治―+―熊川長貞
       ∥   |(左衛門)  (清兵衛) |(兵庫)
      熊川長春 |             |
     (左衛門) |             +―姉
           |               ∥――――――泉胤和――――泉胤秀
           |               ∥     (内蔵助)  (左衛門)
           |               ∥
           +―――――――――――――――泉胤祐   
                          (内蔵助)
                           ∥――――――泉信政――+―熊川長盈
                    玉井治兵衛――娘     (助右衛門)|(兵庫)
                   (会津住人)              |
                                       +―娘
                                         ∥
                                         ∥――――――娘
             原三河――――堀越清宗―+―堀越清陳―――堀越清正―――堀越清陽   ∥―――――原信豊
            (三河)   (庄左衛門)|(金右衛門) (源太)   (平次)    ∥    (伝右衛門)
                         |                      ∥
                         +―娘                    藤岡玄綱
                          (原助兵衛妻)              (藤岡道仙)
                                       
                                       

 安永5(1776)年正月16日から安永8(1779)年8月10日まで御使番を勤め、翌安永9(1780)年6月25日から天明元(1781)年4月までは在郷中頭、翌天明2(1782)年6月20日に在郷中頭に復帰したのち、翌天明3(1783)年4月18日まで勤めた。

 同年10月28日には物頭となり、翌天明4(1784)年6月25日からに翌天明5(1785)年8月20日までは組頭を勤めた。寛政元(1789)年7月12日は御用人に抜擢されるが、寛政3(1791)年3月29日、病のため職を辞することを許される。

 寛政4(1792)年10月16日には中目附に就任。翌寛政5(1793)年7月18日には御留守居副役、寛政11(1799)年3月7日に御用人、享和元(1801)年2月15日には藩公・相馬祥胤の御用人となった。祥胤はこの後、幕府に隠居願いを提出して3月25日に認められており、隠居に伴う御用人の任命だったのだろう。信豊は享和3(1803)年8月26日に一旦職を辞するが、文化元(1804)年10月7日に再度、祥胤の御用人に選ばれた。しかし、体調が思わしくなかったのか、翌文化2(1805)年12月7日に再度職を辞して隠居。隠居料として月俸三人扶持を給わっている。文化3(1806)年3月15日、織衛と号した。

 翌文化4(1807)年2月2日に亡くなった。

 長女は木幡惣兵衛武清妻となり、のち門馬善助経包妻となる。次女は次代・原伝右衛門信賢妻。三女は日下勘左衛門行宗妻となり、のち久米郷左衛門喜時妻、木幡平太夫章清妻となる。


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原 信賢 (1785-1849)

 原伝右衛門信豊の養嗣子。実父は花井七郎太夫信以。母は花井六太夫信逸娘。妻は原伝右衛門信豊長次女。幼名は小十郎。通称は伝右衛門。号は権太夫

 文化2(1805)年12月7日、養父・原伝右衛門信豊の家督を継ぎ、文化5(1808)年正月16日から文化8(1811)年7月まで在郷中頭を勤めた。

 文政7(1824)年2月13日から文政9(1826)年9月8日までは江戸藩邸の御台所頭加役を勤め、文政12(1829)年12月26日、隠居する。

 天保8(1837)年6月26日、旗本の天野辰五郎が大坂初御番を勤めたとき、藩公・相馬大膳亮充胤の命により、藩よりの借人として江戸から大坂へ扈従し、一年間大坂に勤務した。この「天野辰五郎」は、相馬伊織斎胤の子・天野左近富敷のことか。天野富敷は旗本・天野家に養子に入ったのちも相馬家と深く関わっている。

 翌天保9(1838)年10月1日、充胤は信賢を呼んで「大坂江供奉御詰中精勤、仍之御無事御帰府」を褒めるとともに、信賢が大坂にいる間に亡くなった婿養子の原伝右衛門信安のことにつき、充胤は原家の衰微を深く憂い、幼少の孫・峻蔵の成長までの家督とした。

 嘉永2(1849)年3月8日、六十五歳で亡くなった。


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原 信安 (????-1837)

 原伝右衛門信賢の養嗣子。実父は大越四郎兵衛当光。母は富田亘直重娘。妻は原伝右衛門信賢娘。幼名は泰助(恭助)、通称は伝右衛門。大叔父が御一家・泉内蔵助胤伝であり、泉家との縁を保っている。また、従兄に中村藩家老・熊川左衛門長基がおり、彼の娘婿が秋田新田藩主・佐竹壱岐守義諶(実父は相馬長門守益胤)である。

 文政12(1829)年12月26日、家督を継ぎ、伝右衛門と改めた。天保5(1835)年2月、藩公・相馬長門守益胤より在郷中頭役を命じられたが、天保8(1837)年12月11日、急病のために退役願いを提出。その直後に亡くなった。

 三女は飯塚孫右衛門清一妻、六女は西善蔵久重妻となった。


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原 信由 (????-????)

 原伝右衛門信安の嫡男。母は原伝右衛門信賢娘。妻は大槻薫吉著娘。通称は峻蔵、伝右衛門

 江戸幕府が大政奉還により崩壊。おもに長州の尊攘派藩士や浪士を京都で取り締まってきた会津藩や桑名藩を朝敵と称し、薩長土肥芸藩らを中心とする西軍は会津藩を討つべしと、奥州列藩に命じてきた。これに対し、奥羽越諸藩は会津藩救解を目的として奥羽越列藩同盟を結成。相馬中村藩も仙台藩の圧力に屈し、同盟に加わった

 明治元(1868)年6月10日、西軍の大総督府は奥羽追討総督として参謀・正親町中将公董を任命し、長州藩士・木梨精一郎恒準と大村藩士・渡辺清左衛門清を参謀として、舟に乗って平潟口から上陸した。

隊長 堀内大蔵胤賢  
番頭 立野与次右衛門孚長  
番頭 富田五右衛門正実  
小隊長 大亀弥左衛門信義 銃卒一小隊
小隊長 森武兵衛栄治 銃卒一小隊
小隊長 武野半兵衛方保 銃卒一小隊
小隊長 小田切伝兵衛安栄 銃卒一小隊
小隊長 木幡源左衛門易清 銃卒一小隊
小隊長 半野嘉左衛門義重 農兵一小隊
小隊長 富田重之丞高照 農兵一小隊
軍司 草野半右衛門正意  
軍目 富田彦太夫武重 附属一名
軍使 山岡左太夫隆剛  
軍司 原伝右衛門信由  
輜重 池田喜左衛門栄綱 附属二十名
戦士 二十名  
大砲 五名  
書記 一名  
医師 一名  
相図 一名  
  堀内大蔵家来十名  
夫卒 十名  

 藩公・相馬因幡守秊胤は、上陸した敵勢はすでに勿来に迫り、泉藩、平湯長谷藩などの小藩は滅亡の危機に晒された。このため、相馬家は仙台藩に援兵を依頼しつつ、御一家・堀内大蔵胤賢を隊長とした一大隊を平城に向けて進発させ、6月24日、堀内隊は平城に到着した。原伝右衛門信由は堀内大隊の軍使として従軍している。また、番頭・立野与次右衛門孚長は母の従兄にあたる。堀内大蔵胤賢隊はその後、平や標葉郡で戦いを繰り広げた。原伝右衛門信由も各地を転戦したと思われる。

 しかし、7月26日の広野駅での戦いで中村藩隊長・相馬将監胤真が討死。仙台藩、米沢藩といった同盟軍の中核をなす大藩の軍勢も瓦解して、西軍は浪江駅にまで進軍した。浪江駅を守るのは中村藩兵のみとなり、用人・脇本喜兵衛正明、軍使・岡源右衛門喜邦が中村藩精鋭を率いて浪江の守備に加わった。さらに岡田監物泰胤隊が援軍に駆けつけ、西軍に突撃し蹴散らしている。しかし、8月1日早朝、浪江宿と高瀬川を挟んだ対岸・高瀬村を西軍に占領され、その後浪江も攻め取られ、中村藩兵は壊走した。なお、このとき占領された高瀬村は原伝右衛門信由の所領である。

 この一連の戦いで用人・脇本喜兵衛正明は捕らえられて浪江北河原で処刑されたが、西軍は喜兵衛をただでは殺さず、両腕を切り落としたのち、斬首するという残虐な処刑方法だった。しかし、喜兵衛の死は「武門ノ誉レ」と称えられたという。浪江興仁寺(現在の大聖寺)の旧藩主相馬昌胤廟所前に葬られている。

 中村藩は浪江の大敗と仙台藩・米沢藩兵といった同盟軍主力の弱腰に絶望。浪江を占領していた西軍の津藩隊長・藤堂監物に降伏嘆願状を提出し、8月6日、西軍に降伏した。その直後から中村藩は「討賊ノ命」を受けて、仙台藩兵がいた北黒木駅に熊川兵庫祥長隊らを派遣。8月7日午前7時に放った大砲を合図に中村藩兵は仙台藩の大軍に戦いを挑んだ。

 泉田掃部胤正熊川兵庫祥長が率いる二大隊は蛇山付近を、岡田監物泰胤堀内大蔵胤賢が率いる二大隊は小泉以西から槍町(相馬市黒木)の守備にあたることとなった。は北相馬の合戦には原伝右衛門信由も参戦しており、仙台藩鈴木弥左衛門の家来・川田源太郎を生捕っている。

 信由のその後は不明だが、子孫は北海道に渡った伝えがあり、明治30(1897)年3月3日、二宮尊親(二宮尊徳孫)が二代社長を務める「興復社」(初代社長は相馬中村藩で二宮報徳御仕法を主導した富田高慶)が蝦夷地開拓に着手、旧中村藩領から十五家を引き連れて北海道の牛首別に入部した。二宮尊親はここで御仕法を用いた開墾事業を行い、十年の間に二宮牧場が成立。現在の中川郡豊頃町である。原家もこの「興復社」による開墾事業に従事するため、北海道に移住したのかもしれない。

●参考資料●

『衆臣家譜』 第五緝
『原伝右衛門家所蔵文書』 原伝右衛門末裔の方
『相馬市史』
『相馬藩政史』
『充胤公世紀』
『誠胤公世紀』
『旧相馬中村藩家老熊川家文書』
『戊辰戦争記 乾』 


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