平忠通 (????-????) |
三浦為通 (????-????) |
三浦為継 (????-????) |
三浦義継 (????-????) |
三浦介義明 (1092-1180) |
杉本義宗 (1126-1164) |
三浦介義澄 (1127-1200) |
三浦義村 (????-1239) |
三浦泰村 (1204-1247) |
三浦介盛時 (????-????) |
三浦介頼盛 (????-1290) |
三浦時明 (????-????) |
三浦介時継 (????-1335) |
三浦介高継 (????-1339) |
三浦介高通 (????-????) |
三浦介高連 (????-????) |
三浦介高明 (????-????) |
三浦介高信 (????-????) |
三浦介時高 (1416-1494) |
三浦介高行 (????-????) |
三浦介高処 (????-????) |
三浦介義同 (????-1516) |
三浦介盛隆 (1561-1584) |
●三浦氏の惣領家●
(????-????)
村岡五郎平良文の子。通称は小五郎(『千葉大系図』『桓武平氏諸流系図』)、村岡二郎大夫(『平群系図』)。官途は従五位下、相模大掾(『平群系図』)。陸奥介平忠頼の弟とされる。
諱については「忠道」ともされているが、この時代より150年ほどのちの法性寺関白藤原忠通が出て以来、世間の人が「平忠通」を「平貞道」としたとも。『今昔物語集』に登場する「村岡ノ五郎平ノ貞道」と同一人物ともされる。
系譜としては、平良文の子として「忠頼・忠光・忠通」(『神代本千葉系図』)があり、忠通が「相模国鎌倉先祖」、忠光が「相模国三浦先祖」という(『神代本千葉系図』)。また、別の系譜では「忠輔、忠頼、忠光、忠道」(『桓武平氏諸流系図』)とも。他にも、忠通は良文の兄・上総介平良兼の子である武蔵守平公雅の流れとされる系譜がある(『満昌寺差上系図』)。系譜によれば、公雅の孫で、長元3(1030)年に伊勢国で安房守平正輔と「闘乱」している左衛門尉平致経の子とされている。致経は長和2(1013)年に藤原頼通に所領を寄進しており、忠通が致経の子であるとすると十世紀末ごろの生まれと考えられ、忠頼・忠光の活躍時期とは時代的に合わなくなる。
「陸奥介平忠頼、忠光等、武蔵国に移住し、伴類を引率し、運上の際事の煩ひを致すべきの由、普く隣国に告げ連日絶へず」(『寛和3(987)年正月24日『太政官符』:「国史大系」』)とあり、ここに見Sえる「忠光」が『神代本千葉系図』の忠光のことであると思われる。ちなみに「陸奥介忠頼」は千葉氏の祖・平忠頼のことだろう。
●三浦氏諸系図
高望王―+―平良兼――――公雅――+―致成――――+―致方
|(上総介) (武蔵守)|(出羽守) |(武蔵守)
| | |
| | +―鎌倉景成―――景正
| | (鎌倉権守) (権五郎)
| |
| +―致頼――――――致経―――+―致清
| |(左衛門尉) (左衛門尉)|
| | |
| | +―忠通―――――三浦為通――為継
| | (小五郎) (平大夫) (平太)
| |
| +―致光――――――為景―――――景清―――+―為宗
| (太宰大監) (為忠?) |
| |
| +―致村
| |
| |
| +―為俊
| (駿河守)
|
+―平良文――+―忠頼――――忠常――――――常将―――――常長―――――常兼――――千葉常重
|(村岡五郎)|(陸奥介) (上総介) (千葉介) (千葉介)
| |
| +―忠光
| |
| |
| +―忠通――+―忠輔 +―為次―――――義次―――――義明
| (小五郎)| |(平太) (六郎庄司) (三浦介)
| | |
| +―三浦為道――+―為■
| |(平大夫) |(住安房安西)
| | |
| +―景名 +―為俊
| |(甲斐権守) (駿河守)
| |
| +―鎌倉景村――――長尾景明―――大庭景宗―――景能
| |(四郎権太夫) (太郎) (大庭権守) (懐島権守)
| |
| +―鎌倉景道――――梶原景久―――景長―――――景時
| |(権太夫) (太郎) (太郎) (平三)
| |
| +―鎌倉景正――――景次―――――長江義景―――明景
| (権五郎) (小太夫) (五郎) (四郎)
|
+―平良正――――公義――――為通
(水守六郎) (平太夫)
『今昔物語集』巻第二十五にある「依頼信言平貞道切人頭語第十」には、「頼光ノ朝臣ノ郎等」として「平貞道」という武士がいたとある。貞道は同じく巻第二十九「袴垂、於關山虚死殺人語第十九」に見える「村岡ノ五郎平ノ貞道」のことであろう。
巻第二十九「袴垂、於關山虚死殺人語第十九」では、盗賊の袴垂が逢坂山(滋賀県大津市大谷町)で死んだ振りをして、近づいて来た武士を殺して金品を奪った事件が載せられている。盗賊袴垂は恩赦によって釈放されたが、行く当てもないので、死んだ振りをして横たわっていた。恐らく近づく人の金品を奪おうと企んだのだろう。しかし、予想以上に人だかりができてしまい、行動を起こせなかったようだ。そこに都の方から立派な馬に乗って弓矢を背負い、郎党を多く連れた武者が 通りかかった。この武士は人々が騒いでいる様子を見て、郎党に「アレハ何ヲ見ルゾ」と見に行かせた。郎党は走って見てくると「傷モナキ死人ノ候フ也」と報告した。すると、この武士は何かを感じ取ったか、郎党たちに臨戦態勢を取らせ、「死体」をじっと見たまま遠巻きに通り過ぎた。これを見た人々は「サバカリ郎等眷属ヲ具シタル兵ノ死人ニ会ヒテ心地涼スハ、イミジキ武者哉」と手を打って笑った。
その後、人々も飽きたのだろう。散り散りにいなくなった。そこに武士が単騎で通りかかった。彼はこの「死体」に気がつくと、「哀レナル者カナ、イカニシテ死ニタルカニカアラム、傷モナシ」と不用意に近づいて弓で突っついた。すると、「死人」は突如その弓に取り付き、武士を馬から引き落とすと、「祖ノ敵ヲバカクゾスル」と武士の刀を奪い取って刺し殺し、武具や馬などを奪って去った。この話を聞いた人々は、先ほど通り過ぎた騎馬武者を「誰ニカ有ラム、賢カリシ者カナ」と感心し、人が問い尋ねたところ「村岡ノ五郎平ノ貞道」という者であった。その人であれば、と人々は納得したという。
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二伝寺の伝・忠通墓 |
巻第二十五「依頼信言平貞道切人頭語第十」では、貞道は主君・源頼光の客の接待をしていたところ、頼光の弟である頼信に「駿河国で頼信に無礼をはたらいた者の頸を取ってこい」と、客に聞こえるほど声高に言われ、貞道は「自分は頼光殿の家人であって、弟の頼信殿の家人ではない。このようなことは自分の家人に命ずることである。その上、人の頸を取るという大事を大声で命じるとは愚かな人だ」と思い、あいまいな返事で済ませてしまった。こののち、三、四か月ののち、用事のために東国に下ったとき、先に頼信から殺害を命じられた男と道で出くわした。貞道は彼に馬を寄せて討つ気はないことを話し、そのままにしようと思った。しかし、その男が「たとえ頼信の殿の命を断りがたく、我を殺害せんとお思いになられたとしても、我ほどの腕利きをお思いになる通りにお討ちになるのは難しいでしょう」と言ったことで、貞道は内心激怒。「さらば」といったん通り過ぎたのち、彼のあとをつけ、呼び止めて戦い、彼を馬から射落とし頸を取った。
源頼信は冷泉院判官代に任じられ、長元9(1036)年10月14日、相模守に任官している。
忠通のその後は不明である。忠通の塚といわれる鎌倉期のものと思われる小さな五輪塔が、藤沢市渡内の二伝寺に残されている。
●三浦氏の惣領家●
(????-1083頃)
三浦氏初代当主。村岡小五郎平忠道の子(『桓武平氏諸流系図』)。「号三浦平大夫」(『桓武平氏諸流系図』)。兄に「忠輔」の名が見えるが、忠輔は為道の父・忠道の兄ともされており、どちらかが系譜の誤記か(『桓武平氏諸流系図』)。また、三浦氏の系譜の一部には為通の名はなく「公義」という人物が記載されている。公義については為通の子・平為俊の養子にあたる公俊の長男が太郎公義という。通称の「平大夫」について は、「五位」の位を賜っていたことを暗示するが、平安時代には地方豪族の子弟が上洛して領主の貴族に奉公することがあり、その際に位を賜ったとも考えられる。
為通は伊予守源頼義に仕え、「前九年の役」に奥州で活躍。康平6(1063)年、功績によって相模国三浦郡を賜って「三浦」を称し、衣笠山に城を築いて館としたと伝えられている。また、弟・景通の子孫は相模国鎌倉郡に蟠居して「鎌倉党」という武士団を形成し、大庭氏、梶原氏、長尾氏等の祖となったとされる。
●前九年の役での源家の主な郎党(『陸奥話記』)
名前 | 略歴等 |
權守藤原朝臣説貞 | 陸奥権守か。阿久利川辺の陣所で安倍貞任に人馬を殺傷されたとして、前九年の役の発端を開く。 |
藤原光貞 | 藤原光貞の子。 |
藤原元貞 | 藤原光貞の子。 |
修理少進藤原景通 | 安倍頼時、貞任の軍勢に源氏勢が追い詰められたとき、源頼義・義家に従った五騎の一人。頼義の馬が射られたとき、自分の馬を頼義に渡した。御家人・加藤氏の祖。 |
大宅光任 | 安倍頼時、貞任の軍勢に源氏勢が追い詰められたとき、源頼義・義家に従った五騎の一人。遁れるとき、義家とともに敵兵数騎を射殺し、虎口を脱した。 |
清原貞広 | 頼義に随って来た「坂東精兵」。安倍頼時、貞任の軍勢に源氏勢が追い詰められたとき、源頼義・義家に従った五騎の一人。 |
藤原範季 | 安倍頼時、貞任の軍勢に源氏勢が追い詰められたとき、源頼義・義家に従った五騎の一人。 |
藤原則明 | 安倍頼時、貞任の軍勢に源氏勢が追い詰められたとき、源頼義・義家に従った五騎の一人。義家の馬が射られたとき、敵の馬を奪い取って義家に渡した。 |
散位佐伯経範 | 相模国人。頼義の厚遇を受けた人物で、頼義に仕えて三十年、年齢も「耳順(六十歳)」となり、安倍勢に追い詰められた際には、ここが死に場所とばかりに敵陣に斬り込み戦死した。相模国の波多野氏の祖と思われる。 |
藤原景季 | 修理少進藤原景通の長子。年齢は二十余歳、言葉少ない寡黙な青年で、騎射に長じていた。安倍勢に追い詰められた際には敵陣に討ち入り捕らえられた。敵勢はその武勇を惜しんだがついに斬られた。 |
散位和気致輔 | 頼義の郎党。敵陣に討ち入り討死した。 |
紀為清 | 頼義の郎党。和気致輔の孫に当たる。敵陣に討ち入り討死した。 |
藤原茂頼 | 頼義の腹心。頼義勢が大敗したのち茂頼は頼義とはぐれて出家。その後、頼義と邂逅した。 |
散位平国妙 | 頼義の郎党。出羽国人。武勇あふれる人物で善戦し、敗北知らずであった。そのため、俗に平不負、字を平大夫と呼ばれた。しかし、黄海合戦で馬が斃されて捕らえられ虜となった。そのとき、敵将で婿の藤原経清(奥州藤原氏祖)によって助けられた。「武士猶以為耻矣」とされた。 |
平真平 | 頼義に随って来た「坂東精兵」。岩城氏の祖・平貞衡と同一人物ともされるが、当時清原氏と密接に関わっていた貞衡一族が坂東にあったとは考えにくく、おそらく別人だろう。相模国の中村氏、土肥氏とも関係があるかもしれない。 |
菅原行基 | 頼義に随って来た「坂東精兵」。武蔵国司の流れをくむと思われる菅原姓の侍。 |
源真清 | 頼義に随って来た「坂東精兵」。 |
刑部千富 | 頼義に随って来た「坂東精兵」。 |
大原信助 | 頼義に随って来た「坂東精兵」。 |
藤原兼成 | 頼義に随って来た「坂東精兵」。 |
橘孝忠 | 頼義に随って来た「坂東精兵」。 |
源親季 | 頼義に随って来た「坂東精兵」。 |
藤原朝臣時経 | 頼義に随って来た「坂東精兵」。 |
丸子宿禰弘政 | 頼義に随って来た「坂東精兵」。 |
藤原光貞 | 頼義に随って来た「坂東精兵」。 |
佐伯元方 | 頼義に随って来た「坂東精兵」。佐伯経範の同族か。相模国大住郡粕屋郷を発祥とする糟谷氏の祖か。 |
平経貞 | 頼義に随って来た「坂東精兵」。 |
紀季武 | 頼義に随って来た「坂東精兵」。 |
安倍師方 | 頼義に随って来た「坂東精兵」。 |
源頼義は冷泉院の孫・小一条院敦明親王の判官代に任じられ(『陸奥話記』)、長元元(1028)年10月14日の除目で相模守となっており、その任期中に頼義から小一条院に相模国三崎庄・波多野庄が寄進されたと思われる。三崎庄は三浦半島の最南端に位置する荘園で、のちに小一条院からその皇女・冷泉宮(儇子内親王。のち藤原信家妻)に継承されて「冷泉宮領」とされた御領。その後は摂関家領となる。この摂関家領三崎庄と三浦氏との関わりを示すものはないが、少なくとも平安時代後期から末期において三浦半島南部における三浦一族の活動を見ることはできず、三浦氏はあくまで三浦郷周辺域における限定的な領主であったと推測される。三浦氏は為通の孫・義継の代に三浦郷を寄進して「三浦庄」となった(三浦庄司吉次)。三浦氏はその庄司として発展していく。
為通は永保3(1083)年3月14日に没したと伝えられている(『寛政重修諸家譜』)が、江戸時代の記載であり信憑性は薄いと考えられる。法名は円覚。墓所は三浦郡矢部郷(横須賀市大矢部)の臨済宗寺院・大富山清雲寺。
◎平安時代の天皇家・摂関家関係図(赤字は「冷泉宮領」の譲渡を示す)
+―藤原兼通―――藤原顕光――――――――+―藤原重家
|(摂政) (左大臣) |(左少将。光少将)
| |
+―藤原伊尹―――藤原懐子 +―藤原延子
(摂政) (従二位) (御息所) +―敦貞親王
∥――――――花山天皇 ∥ |(式部卿)
∥ (65代) ∥ |
村上天皇―+――――――――冷泉天皇 ∥―――――――――――+―儇子内親王
(62代) | (63代) ∥ (冷泉宮)
| ∥――――――三条天皇―+―敦明親王 ∥
| 藤原兼家―+―藤原超子 (67代) |(小一条院) ∥
|(摂政) |(御匣殿) | ∥
| | +―禎子内親王 ∥
| | ∥ ∥
| | ∥―――――――後三条天皇 ∥============藤原麗子
| | 後一条天皇 ∥ (京極北政所)
| | ∥ ∥
| +―藤原道長―+―藤原頼通―――藤原師実 ∥ ∥―――――――藤原師通
| |(摂政) |(摂政) (摂政) ∥ ∥ (摂政)
| | | ∥ 藤原師実
| +―藤原詮子 +―藤原教通―――――――――――――――――藤原信家 (摂政)
| (東三条院)|(太政大臣) (権大納言)
| ∥ |
| ∥ +―藤原尊子
| ∥ | ∥
| ∥ | ∥――――+―藤原麗子
| ∥ | ∥ |
| ∥ | 源師房 |
| ∥ |(右大臣) +――――――――藤原寛子
| ∥ | (四条宮)
| ∥ +――――――――藤原嬉子 ∥
| ∥ | (従三位) ∥
| ∥ | ∥――――――後冷泉天皇
| ∥ | ∥ (70代)
| ∥ | ∥
| ∥ +―藤原彰子 +―後朱雀天皇 +―崇徳天皇
| ∥ (上東門院)|(69代) |(75代)
| ∥ ∥――――+ |
| ∥ ∥ | |
| ∥―――――一条天皇 +―後一条天皇――後三条天皇――白河天皇―――堀河天皇―――鳥羽天皇―+―後白河天皇
+―――――――円融天皇 (66代) (68代) (71代) (72代) (73代) (74代) (77代)
(64代)
●三浦氏の惣領家●
(????-????)
三浦氏二代当主。三浦平大夫為通の子(『桓武平氏諸流系図』等)。通称は平太郎。
後三年の役に際しては、源義家の郎党として参戦して活躍した。彼の活躍は軍記物『奥州後三年記』に「同国(相模国)のつはもの、三浦の平太為次といふ者あり。これも聞へ高き者なり」と記載されている。
為継が「八幡殿(八幡太郎源義家)」に随った「奥州武衡、家衡」の乱は、永保3(1083)年に奥州にて起こった「後三年の役」である。この乱は清原真衡、清衡、家衡の三兄弟 (それぞれが異父・異母兄弟)の争いに端を発した戦乱で、当時陸奥守として鎮守府にあった源義家が介入してまず真衡を討ち、続いて清衡・家衡の争いには清衡に加担して家衡を討ち、結局、清原清衡が陸奥六郡を統べるようになる。こののち、清衡は実父・亘理権守藤原経清の本姓である藤原姓を称して藤原清衡と名乗り、以降、藤原基衡、藤原秀衡、藤原泰衡の四代にわたる奥州平泉の黄金文化がうまれた。
為継は後三年の役の金沢柵攻めに参戦していたが、その際、16歳の鎌倉権五郎景正が敵の矢を右目に受けて負傷。景正は右目に矢を射立てたままその敵を射殺し、帰陣したが仰のけに倒れた。これを見た為継が景正のもとに駆けつけ、矢を引き抜くため、沓を履いたまま彼の顔を踏みつけて矢を引っ張った。これに景正は激怒した。
景正は顔を踏まれるや、倒れたまま刀を抜いて為継の鎧の草摺をつかみ、下から突き上げようとした。為継はおどろき、「こはいかに、などかくはするぞ」と叫ぶと、景正は「弓箭にあたりて死するはつはものの望むところなり、いかでか生きながらに、足にて面を踏まるる事にあらん。而し汝を敵として吾ここにて死なん」と怒声を浴びせた。これにはさすがの為継も「舌をまきていふ事な」く、非礼を詫びて膝をかがめ彼の顔を抑えて矢を引き抜いたという。
●後三年の役での源義家の主な郎党(『奥州後三年記』)
名前 | 略歴等 |
兵藤大夫正経 | 義家の側近。参河国の住人。兵衛府に出仕した人物か。「大夫」とあるので五位の位階を有していたか。清原真衡の妻の要請を受けて真衡の館へ馳け付けて守護した。伴次郎助兼とは婿舅の間柄。 |
伴次郎傔仗助兼 | 義家の側近。参河国の住人。将軍義家の傔仗になったのだろう。「極なきつはもの」で、つねに先陣に立って活躍し、義家より「薄金」の鎧を給わる。清原真衡の妻の要請を受けて真衡の館へ馳け付けて守護した。兵藤正経とは婿舅の間柄。 |
鎌倉権五郎景正 | 義家の側近。永保3(1083)年当時16歳。「相模国の住人」で、鎌倉氏(長江氏、大庭氏?)の祖と思われる。「先祖より聞えたかきつはものなり」とある。 |
三浦平太郎為次 | 義家の側近。鎌倉景正と「同国のつはもの」で三浦氏の祖である。「聞えたかき者」であった。 |
大三大夫光任 | 義家の郎従で、このとき八十歳。前九年の役で活躍した「大宅光任」と同一人物だろう。高齢のため国府にとどまるが、出陣できないことを嘆いた。 |
腰瀧口季方 |
義家の弟・義光の郎従とされる。「剛臆の座」でつねに剛の座についた稀な人物。「腰」は不明だが、「瀧口」とあるので、瀧口の武者に抜擢されるほどの侍だったと思われる。 |
紀七 | 義家の郎従。「鏑の音聞かじとて耳塞ぐ剛の者」として、臆の座につかされた人物。 紀姓の侍だろう。 |
高七 | 義家の郎従。「鏑の音聞かじとて耳塞ぐ剛の者」として、臆の座につかされた人物。高階姓の侍だろう。 |
宮藤王 | 義家の郎従。「鏑の音聞かじとて耳塞ぐ剛の者」として、臆の座につかされた人物。宮内省に出仕していた人物か。 |
腰瀧口 | 義家の郎従。「鏑の音聞かじとて耳塞ぐ剛の者」として、臆の座につかされた人物。義光の郎従でつねに剛の座についた「腰瀧口季方」とは別人と考えられる。 |
末史郎 | 義家の郎従。「末割四郎惟弘」とある。 |
藤原資道 | 義家の側近。永保3(1083)年当時13歳。山内首藤家の祖と思われる。 |
源直 | 義家の郎従か。金澤柵で義家に向って悪口を放った清原家衡の乳母(子)で従僕・千任丸が戦後、捕えられた際、義家の命によって彼の舌を切るため、口を開けさせようと手を突っ込み、義家に「虎の口に手を入れんとす、甚だを愚かなり」と怒りを買う。出自は不明だが、おそらく嵯峨源氏の流れをくむか。 |
その後の為継の動向は不明だが、子・義継以後は三浦氏の通字「為」が「義」に変わっており、義継は源氏との関係を深めていたことがうかがわれる。為継の没年は不明だが、父・為通と同じく三浦郡矢部郷(横須賀市大矢部)の清雲寺に墓石がある。もともとは円通寺跡(横須賀市大矢部二丁目)の「やぐら」から移転されたものである。
時代は下って、建保3(1213)年5月2日、和田義盛が北条義時に反発して兵を挙げた際、彼の従兄弟に当たる三浦平六左衛門尉義村・九郎右衛門尉胤義は和田邸北門を守衛すると起請文を出した。しかし、義村たちはにわかに変心し、北条義時の屋敷に駆け込んで義盛ら一党の挙兵を伝えた。その際、義村・胤義は「嚢祖三浦平太郎為継、八幡殿に属き奉り、奥州武衡、家衡を征すより以降、飽くまでその恩禄を啄む所なり」と告げており(『吾妻鏡』)、三浦家でも為継を三浦家の祖として崇めていたのだろう。
○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●
平為俊(????-????)
三浦平大夫為通の子で、幼名は千寿丸。一説には良兼流太宰大監平致光の曾孫。大番役のために上洛して白河院に祗候し、寛治6(1092)年4月18日、検非違使・左兵衛尉、さらに康和2(1100)年正月27日に下総介に、嘉承3(1108)年正月24日、駿河守に任じられた。
●三浦為通―+―為継――――義継――――義明
(平大夫) |(平六郎) (三浦庄司)(三浦介)
|
+―安西為景==常遠――常景――景益
|(駿河八郎)(四郎)(三郎)(三郎)
|
+―為俊====公俊――――――――――――――公義
(駿河守) (左衛門尉。伊勢守藤原公清三男)(太郎)
為俊が猷子とした平公俊の実父・伊勢守藤原公清は秀郷流藤原氏の一族で、寛徳2(1045)年に正六位上・右兵衛少尉に任じられ(『除目大成抄』第六)、その後に左衛門尉、検非違使に就任。さらに治暦4(1068)年11月12日の大嘗会叙位の際に従五位下に叙された(『本朝世紀』)。
平為俊は白河院の侍として寛治年中にはすでに上洛しており、寛治6(1092)年、検非違使・左兵衛尉として名を見せている(『中右記』)。おそらくは、為俊が上洛していた時に藤原公清と接触があって、公清の三男・公俊を養子に迎えることになったのだろう。
ただし、公俊の活動は主に京都で見られ、鳥羽院に近侍する武士であったと推測される。久安3(1147)年9月12日、右衛門尉として藤原頼長(内大臣。のち左大臣)のもとへの院使となり、9月14日には鳥羽院からの松茸を頼長に届けている(『台記別記』)。仁平元(1151)年8月10日、頼長の春日神社参詣に際しても「検非違使右衛門尉平公俊」として供奉しており、検非違使として活躍していたことがうかがえる。没年不明。
●三浦氏の惣領家●
(????-????)
三浦氏三代当主。三浦平太郎為継の嫡男。通称は平六、平大夫。荘官としては三浦庄司。
義継は源家との関わりから「義」字を持つ「義継」を称したか? 義継は「三浦庄司」を称しており、所領である「三浦郷」を寄進して、寄進地系荘園・三浦庄を成立させたと考えられる。義継もまた父・為継と同様、源家の郎従であり、天養元(1144)年10月21日、源義朝とその郎従による大庭御厨乱入事件に、義継は子・義明とともに荷担している。このとき義明の年齢が五十三歳であることを考えると、義継は少なくとも七十代であったと思われる。
また一方で、義継は国衙在庁官人としての地位も強めていたようで、末子の四郎義実を国府北部の大住郡岡崎郷に移住させるとともに、娘を西相模一帯に勢力を持っていた波多野党(義朝との関わりも深かった)の一族・大友四郎経家(大住郡大友郷)に嫁がせ、波多野氏との結びつきを強めた。
●波多野氏周辺の関係図●
波多野経範――波多野経秀――波多野秀遠――波多野遠義―+―波多野義通―――波多野義常
(波多野荘司)(民部丞) (刑部丞) (筑後権守) |(権守) (右馬允)
|
+―河村秀高――――河村秀清
|
| 中原氏
| ∥――――――中原久経
| ∥ (典膳大夫)
+――娘
| ∥――――――源朝長
| 源義朝 (中宮少進)
|
+―大友経家
(大友四郎)
∥―――――――娘
三浦義継―+――娘 ∥
(三浦荘司)| ∥
+―三浦義明 +―中原親能===大友能直
(三浦介) |(掃部頭) (左近将監)
|
藤原光能――+―大江広元
(上野介) (掃部頭)
陸奥国の争乱をみごと収束させた義家の名声の拡がりを恐れた白河法皇は、陸奥国での戦い(後三年の役)は義家の「私戦」として恩賞を出さず、さらに義家の対抗馬としてその弟・加茂次郎源義綱を取り立てた。その結果、義家と義綱が京都で兵乱を起こしたため、義家の郎従の入京を禁じたうえ、義家の荘園をすべて停止。さらに、新たに義家に荘園を寄進することも禁じた。そして天仁元(1108)年、義家の嫡男・出雲守源義親が出雲で反乱を起こすと、朝廷は平正盛(平清盛の祖父)を追討使に起用して討ち取らせた。
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相模国勢力図(■:三浦党、■:鎌倉党、■:中村党) |
義家のあとは四男・義忠が継承するものの、翌年2月3日に暗殺された。2月23日に叔父・義綱が下手人であるとして捕縛され、のちに殺された(義忠の暗殺は叔父・新羅三郎源義光の手によるものといわれる)。その跡は、義親の嫡男で義家の養子になっていた為義(義親の嫡男)が継いだが、ここまで徹底的に勢力を削られた源氏にはもはや往時の力はなかった。康治2(1143)年6月、為義は内大臣藤原頼長に名簿を提出して臣従し、勢力の挽回を図った。さらに為義が頼長に臣従したのと同じころ、嫡男・義朝(頼朝の父)が為義の指示のもとで武蔵国の秩父権守重綱とともに勢力拡大を図っており、さらに康治2(1143)年、武蔵国から上総国に移った源義朝は千葉介常重の手から下総国相馬御厨について「責取圧状之文」った。実は康治2(1143)年正月27日の除目で「従五位下源親方」が「前司親通進衛料物功」で「下総守」となっている(『本朝世紀』康治二年正月廿七日条)。義朝が常重から相馬御厨に関する避状を圧し取ったのは、相馬御厨が国免であるが故の国司交代を狙った可能性があろう。
さらに義朝は「称伝得字鎌倉之楯、令居住之間」(「官宣旨案」『平安遺文』2544)とあり、相模国鎌倉郡に移り住んだ。「鎌倉之楯」を「伝得」したとあり、義朝は廃嫡や追放などではなく、為義の指示を受けた関東下向であったことがわかる。なお、後年頼朝が鎌倉入部して館が成った際、すでにその地に存在していた「上総介広常」の館から遷っており、義朝が上総国から移った際に、介八郎広常は義朝に同道して鎌倉に移住し、鎌倉北東部に館を建てている。上総国との湊となる六浦へ繋がるの要衝を押さえた可能性が高いだろう。
義朝は、鎌倉内のみならず三浦郡との境、沼浜郷(逗子市沼間)にも館(現在の沼間山法勝寺)を構えて三浦氏との連携も図られたようである。なお、義朝の長男・源太義平は三浦義明の娘を母とするとされるが、義平に三浦氏との連携をうかがわせる逸話は皆無であり、信憑性は低い。
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伊介神社:鵠沼神明社(烏森神社) |
鎌倉へ移った義朝は、天養元(1144)年、まず鎌倉に隣接する相模国高座郡大庭御厨の押領を企て、大庭御厨内の鵠沼郷(平塚市鵠沼)は鎌倉郡内の地であると難癖をつけて領有を主張。9月上旬、郎党・清原大夫安行らを鵠沼郷に乱入させて、伊介神社の供祭料を強奪した。さらに抗議に出た伊介社祝・荒木田彦松の頭を砕いて重傷を負わせ、神官八人をも打ち据えた。
これらの濫妨に怒り心頭に達した御厨定使藤原重親、御厨下司平景宗(大庭景宗)が、9月10日、領主・伊勢神宮に急使を派遣して濫妨を訴え、これを聞いた伊勢神宮も朝廷に使者を発して義朝追討を訴えた。
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大庭御厨と大庭氏館遠景(左の丘) |
こののち、約一か月の間、義朝の侵略はなかったが、10月21日、義朝は田所目代・源頼清らと結託し、「清大夫安行、三浦庄司平吉次、男同吉明、中村庄司同宗平、和田太郎助弘」等に命じてふたたび大庭御厨に濫妨をはたらいた。翌日22日には御厨の境界を示す傍標を引き抜き、やっと収穫の終わった稲を強奪したうえ、あろうことか下司職の大庭景宗の館にまで乱入して、その家財をことごとく奪いとり、家人を殺害した。伊介社にも乱入して神人を打ち据えて供祭料を奪い、御厨の機能を失わせた上で鎌倉に引き揚げた。
相馬御厨領主で彦松と同族と思われる内宮禰宜荒木田一族は怒り、荒木田神主延明が義朝に何らかの「沙汰」をしたと思われる。義朝は朝廷の譴責の対象となっており、翌天養2(1145)年3月4日に御厨に対する濫妨停止を相模国司に出したことを知らせる宣旨が「伊勢大神宮司」へ出されている(天養二年三月四日『宣旨案』:『天養記』)。
ところが義朝は、3月11日、「為募太神宮御威、限永代所寄進也」(天養二年三月十一日『源某寄進状』)、「恐神威永可為太神宮御厨之由、天養二年令進避文」(仁安二年六月十四日『荒木田明盛神主和与状』)とある通り、相馬御厨を神宮へ寄進することとなる。義朝が相馬御厨を神宮に寄進した理由は「自神宮御勘発候之日、永可為太神宮御厨之由、被令進避文候畢者」(永暦二年四月一日『下総権介平申状案』)とあるように、神宮の怒りを抑えるためとみられる。これは、前年の天養元(1144)年9月、「上総曹司源義朝」らが相模国大庭御厨で濫妨を働いたたためだろう。
これ以降の義継の動向は不明。没年、享年、法名、菩提所など不明。墓所は三浦郡矢部郷(横須賀市大矢部)の清雲寺に伝義継墓石があるが、これは円通寺跡(横須賀市大矢部二丁目)の「やぐら」から移転されたものである。