僧侶になった千葉一族 浄土宗

僧侶の千葉氏

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【浄土宗】


酉誉聖聡 1366-1439 増上寺開山 千葉介氏胤の子
聡誉酉仰 1418-1459 増上寺二世 千葉介満胤の子
生誉珍公 ????-1449 増上寺塔頭天陽院開祖 千葉介満胤の子
讃誉 ????-???? 三河国城寶寺開山 千葉氏
樂誉聡林 ????-1494 武蔵善徳寺開山 千葉胤行の子
釋誉存冏 1451-1499 三河信光明寺開山 千葉氏
存誉自誾 1538-1599 河内超善寺開山 千葉氏
信誉曉把 ????-1636 龍澤山大巌寺四世 千葉氏
正誉林作 ????-1629 江戸小松川焼香庵開山 高城氏
照誉了学 1538-1634 増上寺十七世 高城下野守の子(実は千葉介の子カ)
白誉了聞 ????-1640 江戸幡隨院三世 千葉氏
願誉是哲 ????-1656 江戸本所重願寺開山 椎名氏
厳誉皪翁 1615-1669 肥前無量寺開山 飯篠胤正の子
顕誉祐天 1637-1718 芝増上寺三十六世 新妻重政の子
松誉詮察 1638-1718 芝増上寺三十七世 高橋胤詮の子
便誉隆善 1707-1791 芝増上寺五十世 傳田氏

 

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酉誉聖聡 (1366-1439)

 浄土宗八祖三縁山広度院増上寺の開山。蓮社号は大蓮社。父は千葉介氏胤。母は新田左近衛中将義貞娘。幼名は徳千代丸(徳壽丸とも)。諱は胤明。貞治5(1366)年7月10日、下総国千葉郷の千葉家屋敷にて誕生したと伝わる。なお、父・氏胤は徳千代丸が生まれる十か月前、貞治4(1365)年9月13日に美濃国で亡くなっている。

 千葉介貞胤――千葉介氏胤 +―千葉介満胤
         ∥    |
         ∥    |
         ∥――――+―酉誉聖聡
 新田義貞――――娘     (大蓮社)
(左中将)

 一説には、祖父・千葉介貞胤の猶子となり、椎名家の養嗣子に出されたともされているが(『大業廣記二』)、徳千代丸誕生の時点ですでに貞胤は亡くなっており、伝説の域を出ないか。また、氏胤は足利家の敵であった新田義貞の娘を妻としていたことから、関東公方となった足利基氏(足利尊氏次男)から常に疑われており、新田氏との子・徳千代丸を出家させたともいわれている。ただし、やはり父・氏胤も徳千代丸が生まれる前に亡くなっており、これも伝承であろうと思われる。

 応安7(1374)年、九歳になった徳千代丸は千葉家の祈願寺であった海上山千葉寺で出家。真言密教を学び、十年の間に天性の才能で密教の群規をことごとく修めた。

 至徳2(1385)年夏、十八歳のとき、武蔵国豊島郡貝塚村(千代田区紀尾井町)の真言宗寺院・光明寺で行われた善導和尚『四帖疏』の長時起行杲極菩提についての講釈に出席。このとき、一人の僧侶が托鉢の姿で議席法門の端に立って法論を聞いていたが、ふと笑って立ち去った。これを見ていた聖聡はその托鉢僧を追いかけ、浅草の辺でようやく追いつき、彼に微笑を含んで立ち退いた理由を問うたところ、その托鉢僧は「真言上乗の密門も下機根劣に修行難ければ、五相成仏の名は顕教に卓秀たるべけれど、四曼三密の花行者の胸園にひらくべからず、我が浄土の教道は五乗斎入の深術、下劣鈍機をもらさず、上は普賢文殊の亜聖をはじめ、龍樹天親び大士より我々ごとき者までも悉生浄土の大益、釈尊出世の本懐、諸仏同讃の護念なり」と、難しい密教教義では庶民が理解することはできないが、浄土宗の教えはすべての庶民にまで浄土への生まれ変わりなどの話を伝えることができるとその理由を話した。この話に感銘を受けた聖聡は、ただちに真言宗の教義を捨て、この托鉢僧こと浄土宗七祖・了誉聖冏に帰依することになった。

増上寺
増上寺

 明徳4(1393)年12月、聖冏より浄土宗正統を受け継いで浄土宗八祖となり、諸国を巡って修行を重ねた。数年ののち、武蔵国貝塚村の光明寺にとどまって各地に俊朗の士を募ったところ、数多くの士が集ったため、光明寺は宗旨を浄土宗に改め、聖聡がその開山となった。増上寺である。

 応永10(1403)年正月、師の了誉聖冏を請うて小石川村に招き、のちに一寺が建立された。のち伝通院となる。

 聖聡がおこなう法要には、「一族」高橋氏、海上氏、原氏、円城寺氏らが来訪していた。彼らは南無阿弥陀仏の名号を唱えて戦場に向かっていたという。また、聖聡は上杉家をはじめ、東国八屋形の小田家、大掾家、長沼家、那須家などの諸大名からも深く敬され、その門弟を領地に請うて寺を建立したり、聖聡の書物を求めたりした。当時は戦国の世の中、諸侯に書を預けることによって、その損失を防ぎ、教えは様々に広まっていった。

 永享12(1440)年7月ごろから病がちとなり、死を悟った聖聡はひとり念仏を唱えて極楽往生の行業をつとめ、7月18日、端座合唱し念仏の声とともに遷化した。享寿七十五歳。

 

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聡誉酉仰 (1418-1459)

 芝増上寺二世。浄土宗八祖・大蓮社酉誉聖聡大和尚の弟子。父は千葉介満胤。母は和田氏娘。蓮社号は明蓮社。橋場の法源寺(保元寺)の開山。応永25(1418)年7月、下総国千葉郷の千葉屋敷に誕生した。弟の生誉珍公は増上寺塔頭・天陽院の開祖である。

 千葉介氏胤―+―千葉介満胤―+―千葉介兼胤
(千葉介)  |(千葉介)  |(千葉介)
       |       |
       +―酉誉聖聡  +―聡誉酉仰
               |
               |
               +―生誉珍公

増上寺
増上寺

 長じて、叔父の酉誉聖聡の清名を慕い、弟子となって出家した。酉誉も酉仰の器量を認め、常に『往生論記』『安楽集』『四帖』の證疏を講じた。

 酉仰は永享(1429-1441)年初めごろ、石浜(荒川区南千住)付近の保元寺(台東区橋場1丁目)を訪れた。保元寺は奈良時代最末期、延暦8(789)年に大僧都智海法印によって建立された寺院で、鎌倉権太夫景通の墓と伝わる五輪塔のほか古い塚がいくつも残る古刹であったが、文和元(1352)年の兵乱で焼失し、永享年中には荒廃していた。酉仰は古刹の廃亡を嘆き、当地で二晩三晩念仏誦経に夜を明かすと、ひとりの老人が参詣に訪れたのに出会った。酉仰は老人にいずれから参られたかと問うが、その老人は無言で通り過ぎ、寺の大門の柱の影で姿を消した。それがたびたびに及んだことから、酉仰は大門の陰を覗いてみると、石塔があった。この石塔には齋藤別当実盛(平安時代末期に木曾義仲と闘い討死した平家方の将。もともと源義朝の郎党で、義朝の長男・義平が義朝の弟・帯刀先生義賢を討ったとき、その子・駒王丸(木曾義仲)を助けて信濃国木曾に落とした)の名が彫られており、齋藤実盛の墓と知った酉仰は新たに法名を授け「篠原院前左金吾従五位徳山覺道眞阿大居士」と回向したところ、酉仰の夢に喜色を含んだ実盛が現れて「永く寺門法孫を守るべし」と約したという。その後、酉仰は保元寺を法源寺と改め、帰命山無量寿院と名づけてその開山となった。

 永享11(1439)年8月、師で叔父の酉誉聖聡の法統を継いで22歳で三縁山広度院増上寺二世となる。若くして法問論議も怠らず勤め、宗徒の尊敬も深かった。宝徳4(1452)年8月25日には『傳籍末抄』一帖『深義集』を著述した。

 長禄3(1459)年9月15日、念仏往生を遂げた。享寿四十二歳。

 

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生誉珍公 (????-1449)

 芝増上寺開山・大蓮社酉誉聖聡の弟子。蓮社号は源蓮社増上寺塔頭天陽院開祖。父は千葉介満胤

 千葉介氏胤―+―千葉介満胤―+―千葉介兼胤
(千葉介)  |(千葉介)  |(千葉介)
       |       |
       +―酉誉聖聡  +―聡誉酉仰
               |
               |
               +―生誉珍公

 応永31(1424)年、武蔵国日比谷飯倉に一寺を建立。珍公はその徳が広く知られており、浄土宗だけではなく他宗の賢僧たちもその徳を慕い集まったという。

 永享3(1431)年、珍公は上洛し、禁裏にて浄土の教義を説き、時の帝・後花園天皇より紫衣の勅命を賜り、さらに数々の宝器を下賜されたと伝わる。しかし、珍公亡きのち二百年の間にそれらの宝器も関東の戦乱のなかに消えていった。

 宝徳元(1449)年12月25日入寂。

 

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讃誉長善 (????-????)

 芝増上寺二世・明蓮社聡誉酉仰の弟子。下総国の人。千葉氏。三河国渥美郡田原の城寶寺の開山。

 

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樂譽聰林 (????-1494)

 善徳寺開山。芝増上寺開山・明蓮社聡誉酉仰の弟子。蓮社号は十蓮社千葉胤行の子。

 享徳2(1453)年、江戸に善徳寺(台東区松が谷1丁目13)を開いた。

 

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釈誉存冏 (1451-1499)

 芝増上寺開山・大蓮社酉誉聖聡の弟子。蓮社号は音蓮社。千葉氏。下総国の生まれ。

 宝徳3(1451)年、下総から三河に遊説に赴いたとき、三河国の豪族・松平左京亮信光の帰依を受け、三河国額田郡岩津村に祖父・松平親氏、父・松平泰親の菩提を弔う信光明寺を建立。その開山となった。信光の子・松平左京亮親忠も存冏に帰依し、一子をその弟子とした。この親忠の子は尊蓮社超誉存牛と号し、信光明寺の二世となり、さらに上洛して浄土宗総本山・知恩院の二十五世となった。

 明徳8(1499)年3月8日、四十九歳で入寂。

 

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信誉曉把 (1517-1576)

 増上寺九世(生実大巖寺一世)・道誉貞把の弟子。蓮社号は蓮社。下総千葉氏の出身。

 享禄元(1528)年秋、十二歳で龍澤山大巖寺に入寺して貞把の弟子となり、以降三十年にわたって修行を重ね、永禄3(1560)年春、霊夢に従って松原通東洞院にあった広博寺中の蓮池そばに蓮池堂無量寿院清浄国寺を開き、自画仏を仮本尊とした。その後、永禄11(1568)年10月15日、近江国金勝村八幡宮の阿弥陀仏(伝恵心僧都作)の寄付を受けて本尊とした。

 天正4(1576)年7月4日、六十一歳で遷化。 

 

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存譽自誾 (1538-1599)

 河内国堺の法界山泉勝院超善寺開山。相模国三浦の人で千葉氏の庶流と伝わる。蓮社号は住蓮社

 光明寺二十一世・然蓮社貞誉良記に就いて修学附法し、永禄元(1558)年8月14日、伝法皆稟されると、光明寺を辞して大和国新城の法林寺に住し、さらに河内国石川郡大ヶ塚の善性寺の住持となった。その後、湊町堺に法界山泉勝院超善寺の開山となった。

 慶長4(1599)年12月14日、六十二歳で遷化。

 

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英誉安説(????-????)

 生実大巖寺二世・安誉虎角の弟子。蓮社号は蓮社。下総千葉氏の出身。

 大巖寺での修業ののち、安房国真念村の深広山永泉寺を承ぎ、さらに丹波国へ移って浄真寺の住持となった。

 

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正誉林作 (????-1629)

 江戸小松川村中台院中興、松樹院焼香庵開山。下総国小金村の高城氏の子。念蓮社正誉林作。兄弟子にあたる照誉了学(増上寺十七世貫主)も高城氏の出であり、兄弟または近い一族と考えられる。照誉了学の弟子・貞誉了也大和尚(大八木氏)も照誉了学の「俗姪」であり、照誉了学の母方(大八木氏)の出身者で、正誉林作と同様に浄土宗に入門している。高城氏は日蓮宗の庇護者として知られているが、一方で芝の増上寺との関係もうかがわせる。高城氏の妻は江戸城主・遠山氏であるが、このことも何か関係しているのかもしれない。

 はじめ小金東漸寺に修行し、のち生実大巌寺貫主・貞蓮社源誉存應(普光観智国師)の弟子になって、江戸城中に法問に出席を許された。その後、今井の浄興寺、木曾根の西林寺を兼帯。さらに鎌倉光明寺の中興となって、子院の松樹院焼香庵をひらいた。

 寛永6(1629)年3月7日、示寂。

 

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照誉了学 (1538-1634)

 増上寺十七世。団蓮社照誉遊嶽了学大和尚高城下野守胤吉(または高城修理亮)の三男。母は大八木氏。俗名は胤知。天文7(1538)年、武蔵国糀村(千代田区麹町)に誕生した。一説には「平将門之華冑下総州佐倉城主某之子、母大八木氏」(『新撰往生伝巻之二』)とあり、千葉宗家の出身ともされている。

東漸寺
東漸寺

 はじめ高城氏に属していた三上右馬助入道安西(京極佐々木氏の末裔)の猶子となり、その後「小金城主高木下野守養而為第三男」としたという(『新撰往生伝巻之二』)。つまり、千葉宗家の子の一人を高城氏が養子にしたということになる。のち、家康から本姓を問われた際には「三上氏」と答えている(『新撰往生伝巻之二』)

 永禄2(1559)年、父(養父?)・高城胤吉が築いた小金大谷口城(松戸市大谷口)の出城にあった東漸寺に入り、団誉のもとで出家、さらに生実大巌寺貫主・貞蓮社源誉存應(普光観智国師)の弟子となる。長じて東漸寺七世となった。兄・高城下野守胤辰の活躍していた時期には目立った活躍はないが、名僧の名は高く、秀吉から関東への移封を命じられた徳川家康は、江戸へ入ると了学を招いて受戒の師とした。

 その後、荒廃していた浄土宗寺院・弘経寺(茨城県水海道市)の再興を果たしたことで、徳川家の家臣団とも交流を持つようになり、名槍「蜻蛉切」で著名な本多忠勝(上総大多喜城主)、土井利勝(下総佐倉城主)ら徳川家重臣の帰依を受けた。忠勝は大多喜に彼を招いて菩提寺「良信寺(のち良玄寺)」の開山とし、さらに慶長6(1601)年、忠勝が伊勢国桑名へ移封されても交流は続き、慶長15(1610)年、忠勝が亡くなるとその葬儀を執り行っている。土井利勝も了学を開山とした菩提寺・松林寺を建立している。

 忠勝亡きあとも本多家との交流は深く、忠勝の次男・本多忠朝(大坂の陣で戦没)、孫・本多忠刻(播磨姫路藩主)、さらにその妻・千姫(徳川秀忠娘)も了学を師として帰依した。この千姫は徳川秀忠の長女で、慶長8(1603)年、七歳の幼さで大坂城の豊臣秀頼へ嫁いだが、元和元(1615)年の「大坂夏の陣」で豊臣方から徳川家へ返され、翌年に本多忠刻(桑名藩世子)と再婚させられた。若く文武両道に秀でていた忠刻とは睦まじかったものの、寛永3(1626)年、忠刻は早世。千姫は「天樹院」と号し、江戸城内竹橋に屋敷を与えられ、弟にあたる三代将軍・徳川家光の大奥を取り締まった

増上寺
増上寺

 秀忠の病の際には、了学が病気平癒を祈祷するほど信頼され、秀忠から増上寺の貫主となるよう依頼を受け、寛永9(1632)年1月、増上寺十七世貫主に就任し僧正となる。しかしこの直後に秀忠は亡くなり、大導師として葬儀を執り行った。

 増上寺貫主となってわずか2年後の永禄8(1634)年6月12日、九十七歳で示寂した。

 増上寺の開祖・酉誉聖聡千葉介氏胤の子であり、江戸時代、千葉氏の末裔たちは千葉家再興を増上寺を介して幕府に願い出ている(平成11年3月17日『千葉日報』)

■照誉関係図■ ■照誉に帰依した周辺図■

 高城下野守胤吉―+―治部少輔胤辰
(????-1565)  |(1542-1586)
   ∥     |
   ∥     +―源六郎胤政
   ∥
   ∥ 千葉介某
   ∥(佐倉城主某) 
   ∥ ∥
   ∥ ∥      
   ∥―――?―――照誉了学
   ∥ ∥―?――(増上寺十七世)
   ∥ ∥ 
 +―大八木氏
 |
 +―■■――――――■■―――――貞誉了也
                 (増上寺三十二世)

 本多忠勝―+―忠政―――――忠刻
(中務大輔)|(美濃守)  (平八郎)
      |        ∥
      +―忠朝     ∥
       (出雲守)   ∥
               ∥
 徳川家康―――秀忠     ∥
(太政大臣) (二代将軍)  ∥
         ∥―――――千姫(天樹院)
 浅井長政―+―小督     ∥
(備前守) |        ∥
      +―淀ノ方    ∥
         ∥―――――秀頼
         ∥    (左大臣)
        豊臣秀吉
       (関白)

 

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白譽了聞 (????-1640)

 増上寺十七世・団蓮社照誉遊嶽了学の弟子道蓮社白誉了聞照誉了学の「俗姪」であり、高城氏の出身か。

 了学を師として出家した。その後、研鑽を積み、叔父の了学が亡くなったのちは幡隨院二世・吽蓮社阿誉随巌の門下となり、幡隨院三世となった。

 寛永17(1640)年4月8日示寂。

 

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源譽存應 (????-1656)

 下総国の椎名氏の子本蓮社願誉是哲貞蓮社源誉存應(普光観智国師)の弟子。兄弟子にあたる団蓮社照誉了学(増上寺十七世貫主)や念蓮社正誉林作も千葉一族出身。

 鎌倉時代中期の建長年間、浄土宗三祖・良忠が下総に来臨した際、匝瑳郡柴崎村の領主・椎名小次郎胤広は良忠に帰依し、領内に城戸山龍燈院光泉寺を建立し、浄土宗の道場とした。是哲はこの寺で剃髪し得度した。その後、武蔵国西葛西南本所の重願寺の開山となった。

 明暦2(1656)年12月7日、示寂。

 

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厳誉 (1615-1669)

 肥前大村海上山無量寺開山。下総国千葉郡生実村の大巌寺二世・安誉虎角の法孫。荘蓮社厳誉皪翁。肥前国彼杵郡大村の生まれ。小城千葉氏八代当主・千葉右京大夫胤紹の子孫で、大村民部大輔純頼の家臣・飯篠助右衛門胤正の末子。

 大村の長安寺住持・九誉皪道の弟子となり、その後、江戸へ出て傳通院に入院して修学に励み、さらに鎌倉光明寺に在学した。また伝通院に戻ると、傳通院二世貫主・了蓮社定誉随波大和尚より伝法されたのち、正保4(1647)年、肥前大村の長安寺の住持となり、さらに隠棲のために海上山無量寺を開き、寛文9(1669)年11月5日、五十五歳で示寂した。

 

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顕譽祐天 (1637-1718)

 芝増上寺三十六世。明蓮社大僧正顕誉祐天大和尚。千葉氏の一族・新妻重政の子。寛永14(1637)年4月8日、陸奥国岩城郡新倉村に誕生した。

 はじめ、伯父の休波山中が増上寺塔頭・池徳院に住しており、正保2(1645)年3月、十二歳のときに伯父に従って増上寺池徳院に入った。のち、袋谷の合蓮社明誉壇通を師として剃髪した。祐天の性は実直温厚、意気軒昂と伝わり、壇通のもとで善導寺、弘経寺、光明寺での修行を経て、再び増上寺に戻り、壇林(僧侶の学問所のこと)の職長となる。

 しかし、祐天は栄誉を求めることは欲せず、貞享3(1686)年、五十歳のときに増上寺を去って全国をまわる旅に出た。各地で布教を続けた祐天は数年後、江戸牛島に戻り、仏号を書写する日々を送ることになった。しかし、祐天の貴名はすでに江戸城にも届いており、将軍・徳川綱吉の生母である桂昌院は彼をしばしば招いて道を問わしめた。桂昌院の信敬はますます厚く、元禄12(1699)年、将軍・綱吉の命により、例を超えて生実大巌寺の貫主と定められた。さらに翌年には弘経寺へ移り、紫衣を許された。

     +―太田右近
     |
     +―法心院殿
        ∥――――智幻院殿
       徳川家宣
        ∥――――蓮浄院殿
 櫛笥隆賀――蓮浄院殿
(内大臣)

 宝永元(1704)年、命を受けて伝通院の貫主となった。綱吉も母の影響を受けてか祐天をたびたび城に招いてはその法話を聴き、跡を継いだ六代将軍・徳川家宣の帰依も受け、早世した家宣の嫡男・家千代(智幻院殿露月凉華大童子)、四男・大五郎(理岸院殿月光秋華大居士)を傳通院に葬った。また、有栖川宮幸仁親王の第二子である知恩院三世門跡・尊統法親王(源蓮社高誉)も祐天を深く敬愛し、尊統法親王は関東に下った際、傳通院を自ら訪れて終日祐天より法話を受けている。このとき、尊統法親王は手書きの「南無阿彌陀佛」の名号数十幅を請い受け、京都に戻った際に仙洞女院、公卿らに給わった。

増上寺
増上寺

 そして正徳元(1711)年11月27日、祐天は欽命を受けて増上寺三十六世を継いだ。この前日に隠居願いを出していた前代・然蓮社湛誉は、駿河藩主・徳川大納言忠長(徳川家光実弟)の付家老であった朝倉筑後守宣正の一族で、寛永8(1631)年に駿河徳川家が改易されたことに伴って出家し、宝永元(1704)年11月29日、六十七歳のときに増上寺三十五世についた人物である。しかし、彼が貫主となって以来わずか八年の間に六度の火事が起こり、前代未聞のこととして正徳元(1711)年11月26日に隠居願いを提出した。

 12月6日、祐天は江戸城に登城し、その場で大僧正に任じられ、8日、増上寺において貫主就任の式が執り行われた。15日には再び登城し、先日の大僧正即席任官の御礼を行ったが、彼の即席任官が先例となり、代々の貫主は就任と同時に任官することとなる。

 正徳2(1712)年9月、将軍・家宣はふとした風邪が原因で寝込み、病は篤くなった。すでに典医たちもさじを投げ、各地の社寺の加持祈祷もむなしく、ついに重態に陥ったため、祐天に使者が遣わされた。こうして祐天は増上寺本尊の黒本尊阿弥陀如来(家康念持仏)を奉じて登城。家宣は祐天から念珠と手書きの名号「南無阿弥陀仏」を受け取り、十念(名号を十度唱える)を受け、10月14日、江戸城内にて亡くなった。家宣は遺命の中で祐天を導師として葬儀を執り行うよう指示しており、祐天は導師として葬儀一切を取り仕切った。その後も将軍家の帰依を受け続けた。

 正徳3(1713)年年頭の御礼から、祐天は城内中の口までの乗輿が認められ、こののち、城内大広間までの乗輿が認められることとなる。恐らく七十七歳という年齢的なことがあると思われるが、将軍家他の深い信敬を得ていたことがうかがわれる。

 11月27日、貫主を辞する旨青山播磨守幸秀に打診したものの、12月には寺社奉行・松平対馬守近禎が遣わされて隠居は許されなかった。しかし、祐天はたびたび隠居を打診したことから、正徳4(1714)年6月19日、ついに幕閣もその隠居を認めた。その後、麻布龍土の隠庵へ移ると、俗縁との交際を一切絶ち、ひたすらに念仏写号の毎日をすごした。

 享保2(1717)年2月14日、増上寺の南にある末寺の西応寺にいったん移り、6月18日にまた麻布龍土の隠室に戻った。翌享保3(1718)年4月、将軍・徳川吉宗は増上寺法要の際、祐天を増上寺方丈に招いて親しく話を交わした。

 6月ごろから病がちとなるが、念仏書写を続けた。しかし7月15日朝、書号十余幅を描くと筆を置き、声高に念仏数十遍を唱えると、鐘を撃ち鳴らし、「我滅したのちは一寺を創営し、絶えず念仏を修し、法界衆生に施与すべし」と告げた。その夜、「終焉の期至る、聖衆の来迎を待つべし」と言うや、服を革め身を清めると仏像を拝し、念珠を左手に持ち、右手には阿弥陀経をとり、念仏を唱えながら示寂した。八十二歳。7月17日から行われた葬儀では、塔頭、子院ほか大衆千余名が列し、その出棺の際には僧俗取り混ぜ棺を囲み、念仏する声は天地を揺るがすほどであったという。

 弟子の祐海が遺命を奉じ、一宇の建立を幕府に訴えて認められ、目黒の善久院跡に一寺を建立。祐天の肖像を中央壇上に掲げ、廟塔の中には遺骨を納めた。この寺は幕命により祐海が住持となり、「明蓮社大僧正顕誉愚心祐天」の字を取り、「明顕山祐天寺」の号を賜って現在も中目黒に大伽藍を保っている。

 

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松譽詮察(1638-1718)

 芝増上寺三十七世。雄蓮社大僧正松誉詮察大和尚。高橋七九郎胤詮の子。寛永15(1638)年に誕生した。しかし伝では慶安元(1648)年正月、伊勢国山田に生まれたとされている。初号は觸光。高橋氏は千葉介常胤の五男・国分五郎胤通を祖とすると伝わるが、国分胤通の子に「高橋若狭守胤徳」は伝わらず、また、鎌倉時代初期に一御家人が受領名を名乗ることはないため、高橋氏は国分氏系の一族ではあるがその系譜は不明ということだろう。

 千葉介常胤―国分胤通―+―高橋胤徳―胤義――+―胤末―――胤定―――胤冬―――胤助――――+―胤益―――胤重――――+
(千葉介) (五郎)  |(若狭守)(出羽守)|(駿河守)(大学頭)(土佐守)(小次郎入道)|(小権頭)(左衛門次郎)|
            |          |                      |            |
            +―高橋胤次     +―娘                    +―娘          |
             (小権次)      (原豊前守妻)                (高木氏妻)      |
                                                           |
 +―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
 |
 +―胤行――――胤春―――――胤年―――――胤高―――胤俊――+―胤明――――+―胤氏
  (佐渡前司)(次郎左衛門)(九郎左衛門)(大学頭)(筑後守)|(七郎左衛門)|(孫右衛門)
                                |       |
                                |       +―胤詮――――松誉詮察
                                |        (七九郎) (雄蓮社大僧正)
                                |
                                +―娘
                                 (円城寺左兵衛尉胤近妻)

 觸光の祖父・高橋七郎左衛門胤明は、豊臣秀吉の小田原攻めの際に、千葉勢の将として湯本口を守備したが、戦いは小田原北条氏の敗北に終わり、千葉勢は四散、胤明は本佐倉城の西隣の飯田村(佐倉市飯田)に隠居し、實参宗吾と号した。下総国墨村の東天院に葬られた。胤明の妹は円城寺左兵衛尉胤近の妻となっているが、胤明が葬られた墨村は円城寺氏の所領であり、千葉宗家没落ののちは妹聟の円城寺氏の旧領内に隠居したのかもしれない。

 胤明には二人の子があったが、長男の孫右衛門胤氏が家督を継ぎ、のちに佐倉城下に東慶寺(佐倉市大蛇町)を建立した。弟の七九郎胤詮は密かに武術の腕を磨き、会計の恥を雪ごうと、故郷を捨てて豊臣家に対して謀反を企てている大名家を捜し歩いたが、いずれも秀吉に逆らう人物はなく、戻るところもなくなった胤詮は諸国の霊場を巡ったのち、寛永20(1643)年6月、伊勢国にたどり着き、病のために伊勢山田の神職のもとに助けられた。神職某は胤明の武芸に感心し数年の間、逗留させることとなったが、その間に山田神職の娘を娶り、慶安元(1648)年正月、觸光が誕生した。しかし翌慶安2(1649)年3月、七九郎胤詮は亡くなってしまったことから、祖父の山田神職は觸光を不憫に思い、家を継がせたいほどであったが、当時の伊勢の土地柄として他氏を賤しむ風があり、承応3(1654)年、七歳の觸光を剃髪させ、増上寺二十八世・深蓮社廣誉詮雄大和尚のもとで修行をさせた。このとき「詮察」と改めている。その後、廣誉詮雄大和尚が伊勢の山田蓮渓に隠棲すると、觸光も伊勢に里帰りする形で同行した。

増上寺
増上寺

 詮雄が遷化するとふたたび江戸に上り、修学に努めて江戸の霊岸寺、上野国の大光院、鎌倉の光明寺を経て、正徳4(1714)年6月28日、増上寺三十七世貫主となり、先例のごとく即席で大僧正に任じられた。前代貫主の明蓮社顕誉祐天大和尚も千葉一族の出である。

 10月の文恭院殿(徳川家宣)三回忌の万部大会の導師を務めた。さらに享保元(1716)年4月晦日、七代将軍・徳川家継が八歳の幼さで亡くなった際にも大導師を務めた。しかし黄疸の症状があったこともあり、享保2(1717)年8月3日、貫主を辞する旨を寺社奉行・土井伊予守利意に奏し、8月15日、松平対馬守近禎、土井伊予守利意の両寺社奉行が上使として増上寺に遣わされ、隠居が認められた。

 隠居して半年後の享保3(1718)年3月18日、八十歳にて遷化した。

 

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便誉隆善 (1707-1791)

 芝増上寺五十世。蓮社号は方蓮社。宝永4(1707)年、信濃国水内郡柳沢庄桜村の伝田某の子として誕生した。伝田氏は千葉氏の庶流で、桂山城主・落合次郎の重臣であった伝田勘解由の末裔と伝わる。

 享保5(1720)年5月28日、十四歳にして信濃国茂菅村の頼朝山性法院静松寺に入山し、實誉嶽龍の弟子となり、剃髪した。さらに享保7(1722)年9月29日、武蔵国鴻巣村の勝願寺に入り、到誉順教のもとで修行を重ねた。

増上寺
増上寺

 大巌寺、大光院、光明寺などの住持を経たのち、安永7(1778)年正月10日、牧野豊前守より15日の登城が命じられ、15日、登城して増上寺貫主の就任を命ぜられ、先例の通り大僧正に即席で任官となった。安永8(1779)年2月24日、十代将軍・徳川家治の嫡子で、世子であった大納言・徳川家基が薨去した。家基(孝恭院殿)の法要の際には、三百部の法会を仰せ付けられた。さらに安永10(1781)年正月24日、台徳院殿(徳川秀忠)五十回忌の導師を務めた。

 天明3(1783)年9月8日、貫主を辞して13日に麻布龍土の隠庵に移り、寛政3(1791)年3月24日、増上寺子院にて遷化した。世壽八十五歳。


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