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相馬岡田氏7代当主。父は6代惣領・相馬宮内大夫胤久。幼名は豐鶴丸。官途は左京亮。
応永9(1402)年5月14日、豊鶴丸(胤行)は父・胤久より所領を譲られた。同日、胤行の母にも「一期分」として譲状が発給されている。豊鶴丸への譲状には、「もしとよつる丸子なくハ、おとゝあいつくへし、たとい子あまたありとゆうとも、一こふんハゆつるとも、ゑいたいゆつるへからす(もし豊鶴丸子無くば、弟相継ぐべし、たとい子数多ありと雖も、一期分は譲るとも、永代譲るべからず)」と、惣領分については庶子たちに決して永代譲り渡すことはならないと念を押している。庶子へ譲ることによる所領の分散を防ぐこと、惣領の絶対性を守ることが根底にあったか。また、この譲状から豊鶴丸には弟があったことがわかるが、系譜上には記載がなく不明。没年不明。
譲る人物 | 譲られる人物 | 内容 |
岡田胤久 |
岡田豊鶴丸(岡田胤行) | 陸奥国行方郡:岡田村・
上鶴谷村・院内村・下矢河原村・八兎村・草野の飯土江村・ 陸奥国高城保:波多谷村 |
豊鶴の母(胤久妻) | 陸奥国行方郡:岡田村(ゆ■■田在家):一期分 |
胤行は奥州相馬宗家のもっとも重用された「一門」扱いになったのだろう。彼が従属していたのはおそらく相馬胤弘と重胤の二代か。
その後の胤行の活躍は伝わっていないが、『岡田左京亮沽却状』という文書が残っており、内容は「蔵本・たちわき殿」宛てに米・雌鳥・豆・山芋などをに売りわたすという事か。年号は消えてしまっているが、「□□四年きのへ子」とあることから、「嘉吉四年甲子(1444)」のことか。ただ、嘉吉4年は2月4日で文安元年と改元されており、もし嘉吉4年であれば、改元後8か月経った10月にも、地方では嘉吉年号が用いられていたことになる。
岡田家は相馬一族の中でももっとも古くに分かれた一族のひとつで、相馬宗家と並んで半独立の立場で150年の間、行方郡岡田村を中心に繁栄してきた。相馬宗家に従属したのちも、「家臣」ではなく「御一家」という特別待遇をされていた。
相馬岡田氏8代当主? 父は6代惣領・相馬宮内大夫胤久? 通称は次郎三郎。盛胤は『岡田相馬系図』にはその名が記されていない。
彼に関しては、享徳3(1454)年8月23日『岡田盛胤契約状』という文書が残されている。その文書によると、盛胤は「大久之次郎■郎政胤」に男子がないことから、その嫡女を妻として跡を継ぐ契約を結んだ。ここに現れる大久氏は岡田氏と並ぶ相馬家の名門「大悲山」氏の事であり、観応2(1351)年の吉良貞家の書状に見える「相馬次郎兵衛尉朝胤」以降、系譜がとぎれていた大悲山氏の子孫と考えられる。
しかし『相馬家記』によると「岡田左京亮胤行」はのちに「政胤」を号したとあり、胤行=政胤の嫡男・伊予守信胤が幼少であったため、胤行=政胤の嫡女と「大悲山次郎三郎盛胤」が結婚して信胤の「陣代」をつとめたとある。しかし『岡田盛胤契約状』を見る限りでは、「大久之次郎□郎政胤」が「男子を御持ち候ハんによつて」「岡田之次郎三郎盛胤」が「私をかの嫡女に致契約由」とあるため、「大久政胤=岡田胤行」とは考えられず、岡田盛胤が大悲山政胤の嫡女を娶ることによって、大悲山氏の所領を継承したと考えられる。
盛胤は兄の岡田胤行の跡を継いだか、応仁2(1468)年3月21日に相馬一族が連判した願文に「岡田守胤一貫文」「御台三十疋」「直胤五十文」と岡田氏の名が見える。また『相馬家記』では胤行の子・信胤幼少のため、盛胤が陣代となるという説話もあり、胤行の跡は盛胤が継承していたのかもしれない。
●『相馬家記』と『岡田盛胤契約状』の矛盾点
『契約状』では署名が「岡田之次郎三郎盛胤」で「大久之次郎□郎政胤」の嫡女をめとったとある。一方、『相馬家記』では「岡田左京亮胤行→政胤(後号する)」の娘を「大悲山次郎三郎盛胤」が娶り、彼はのち「岡田次郎三郎盛胤」を称したとされる。しかし『契約状』の時点ですでに盛胤は「岡田次郎三郎盛胤」を称しており、『相馬家記』が記するように、盛胤は大悲山氏から岡田氏の陣代となったわけではなく、実際は逆に岡田氏の名跡のまま、大悲山氏の所領を継承したと考えられ、『相馬家記』を記述する際に古文書の誤読があったと考えられる。なお、『契約状』は盛胤がもしこの妻と離婚した場合は、婚姻で得た所領はすべて妻に帰属することを取り決めた証文である。
●岡田盛胤に関する書状●
『岡田盛胤契約状』 | 享徳3(1454)年8月23日 | 大久政胤の嫡女との縁組みに関する取り決め |
相馬岡田氏9代当主か。父は系譜上では岡田基胤だが、岡田盛胤かもしれない。官途は安房守。なお『相馬岡田系図』では岡田安房守義胤 は、岡田信胤の孫とされているが、義胤と信胤はこれもほぼ同時代の人物であろうと推測され、兄弟または従兄弟くらいの間柄なのかもしれない。
応仁2(1468)年3月21日に相馬一族が連判した願文に「岡田守胤一貫文」「御台三十疋」「直胤五十文」と岡田氏の名が見えるが、この直胤が義胤とほぼ同世代になると思われる。
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『義胤避状』 |
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権現堂城跡 |
明応元(1492)年12月、18歳の相馬盛胤は、標葉左京大夫清隆の居城・権現堂城(浪江町西台)を攻め、この戦いに岡田安房守義胤も従軍している。相馬盛胤は泉田村渋井に布陣していた標葉一門筆頭・泉田隠岐守隆直を寝返らせ、隆直は相馬軍の先陣となって権現堂に攻め寄せた。清隆の嫡子・標葉左馬助隆成の評判は非常に悪かったといい、隆直の内応はこれに反発したことによるものという。隆直の寝返りをみた城内の武士は動揺し、標葉氏の中核を占めている標葉六騎七人衆のほとんど、さらに一族・標葉小四郎隆豊や家老・牛渡九郎兵衛が内通。城門を開いて相馬勢を招き入れると、城内に火を放った。
こうして鎌倉以来の標葉郡領主・標葉氏は滅び、代わって相馬氏が支配者となった。そして、この要衝・権現堂城を一門の重鎮である岡田義胤に任せることとし、采地として八十三貫文が与えられた。このとき義胤は嫡男・重胤(茂胤?)に家督を譲って、次男・将監胤連とともに権現堂に移り住んだという(『奥相秘鑑』)。権現堂館は義胤ののち、将監胤連、摂津胤信と継承され、胤信は天正16(1588)年に三春合戦で戦死した。
岡田義胤―+―重胤――――【御一家筆頭岡田家】 +―胤和
(安房守) | |(吉十郎)
| |
+―胤連――+―胤信―――胤政―――――+―胤氏
(将監) |(摂津守)(與三右衛門) |(輪太郎)
| |
+―胤兼――…【岡田丹下家】+―胤通
|(右馬助) (権三郎)
|
+―立谷胤久―+―直之
|(越前) |(掃部助)
| |
+―江井胤清 +―岡田久方
(作兵衛) (助兵衛)
天文4(1535)年12月20日、「義胤」が「木幡藤十郎」へ
●『相馬岡田系図』
・岡田胤久――胤行―――信胤―――――基胤―――義胤―――――茂胤――――――直胤―――――宣胤
(宮内大輔)(左京亮)(伊予守) (小次郎)(安房守) (治部大輔) (右兵衛大夫)(出雲)
・延徳永正期 ・永正天文期 ・42歳で没す ・32歳で没す
●岡田氏想像系譜
・岡田胤久――+―岡田胤行――――――岡田信胤(伊予守)―岡田基胤(小次郎) ●某年正月14日「平盛胤」から名乗りを頂く(元服?)
(1382年元服)|(1402年元服) (1450頃生?) (1533沽却状) 1,大膳大夫盛胤(1476−1521、1492家督)
| (1503,1504書状)
2,弾正大弼盛胤(1529−1601、1549家督)
| ↑
+―岡田盛胤 +―岡田茂胤―――――+―岡田直胤―――――岡田宣胤
(1454年陣代?) |(1492年家督継承?)|(1559頃−1590頃)(1584−1626)
(1468年高野山寄進) | |
‖――――――――岡田直胤――――――岡田義胤(安房守)―+―岡田胤連 +―岡田胤景―――――岡田胤清
大悲山政胤――嫡女 (1468年高野山寄進)(1492年権現堂へ) (1492年権現堂へ) (1565−1620) (1595−1620)
(1454年婚姻) (1518,1535書状)
(1468年高野山寄進)
●岡田義胤に関する事●
岡田安房守義胤 | 明応元(1492)年12月 | 権現堂城主となる。83貫文を得て、次男・胤連とともに移り住む |
『岡田義胤質券』 | 永正15(1518)年6月 | 平孫次郎に質料として三貫文を求める書状 |
『岡田義胤避状』 | 天文4(1535)年12月20日 | 木幡藤十郎に対して所領を渡し置くとした書状 |
相馬岡田一族。父は7代当主・岡田左京亮胤行とされる。官途は伊予守。
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『前伊予守信胤質券』 |
『相馬岡田系図』では「自延徳永正之間、沽却所々領知云々」とあり、延徳〜永正年中(1489〜1521)にはすでに活躍していた人物か。文亀3(1503)年には「前伊與守」と称しており、その頃にはすでに官途を経た年齢だったことがわかる。彼が実際に発給した沽却状は『相馬岡田文書』に文亀4(1504)年4月7日発給の『岡田信胤沽却状』として残っている。
時代的に見ると、相馬高胤から盛胤の二代に仕えていたと思われる。また彼が「前伊予守」を称していた文亀3(1503)年から11年前の永正15(1518)年6月には「義胤」なる人物が質券を振り出し、天文2(1533)年8月20日には「基胤」が沽却状を発給している。
『岡田盛胤契約状』 | 享徳3(1454)年8月23日 | 大久政胤の嫡女との縁組みに関する取り決め |
岡田安房守義胤 | 明応元(1492)年 | 権現堂城主となり、次男・胤連とともに移り住む |
『岡田信胤質券』 | 文亀3(1503)年6月26日 | 蔵本・長徳寺に具足・正月餅・太刀などを質入れ |
『岡田義胤質券』 | 永正15(1518)年6月 | 平駄次郎に質料として三貫文を求める書状 |
『岡田基胤沽却状』 | 天文2(1533)年8月20日 | 「まち与七」に対しての六貫文本銭返状。 |
『岡田義胤避状』 | 天文4(1535)年12月20日 | 木幡藤十郎に対して所領を渡し置くとした書状 |
上記によれば、岡田信胤・義胤・基胤の3人はだいたい同じ時期に活躍していた人物であることがわかる。彼らは実際の系譜上では、父子孫などとつなげるべきものではないと思われる。
●『相馬岡田系図』
・岡田胤久――胤行―――信胤―――――基胤―――義胤―――――茂胤――――――直胤―――――宣胤
(宮内大輔)(左京亮)(伊予守) (小次郎)(安房守) (治部大輔) (右兵衛大夫)(出雲)
・延徳永正期 ・永正天文期 ・42歳で没す ・32歳で没す
●岡田信胤に関する書状●
『岡田信胤質券』 | 文亀3(1503)年6月26日 | 蔵本・長徳寺に具足・正月餅・太刀などを質入れ |
『岡田信胤沽却状』 | 文亀4(1504)年4月7日 | 借りていた4貫文を田圃を売り渡して返済の事を記す |
相馬岡田一族。父は9代当主・岡田伊予守信胤とされる。通称は小次郎?
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『基胤沽却状』 |
史料は天文2(1533)年8月20日『相馬基胤沽却状』がわずかに一件残されているのみであり、謎の人物である。。
『相馬岡田系図』では基胤は義胤の父となっているが、義胤とは時代が重なっており、親子ではないだろう。下の図の通り、基胤は義胤の活躍時期に囲まれた形になっており、明応元(1492)年に戦陣に出て戦い、基胤の活躍時期と思われる天文年中にも書状が出されており、義胤の陰に隠れている。
●岡田義胤・基胤の書状と権現堂城主●
岡田安房守義胤 | 明応元(1492)年 | 権現堂城主となる。83貫文を得て、次男・胤連とともに移り住む |
『岡田義胤質券』 | 永正15(1518)年6月 | 平駄次郎に質料として三貫文を求める書状 |
『岡田基胤沽却状』 | 天文2(1533)年8月20日 | 「まち与七」に対しての六貫文本銭返状。 |
『岡田義胤避状』 | 天文4(1535)年12月20日 | 木幡藤十郎に対して所領を渡し置くとした書状 |
相馬岡田氏10代当主。父は系譜上では9代当主・岡田安房守義胤だが疑問が残る。幼名は鶴若丸。通称は治部大輔。
父・義胤は標葉氏から奪い取った標葉郡権現堂の守りを任され、明応元(1492)年12月、「重胤」に家督を継承し、次男・胤連とともに移ったとされている。『相馬岡田系図』によればこの「重胤」は茂胤と同一人物かと思われるが、茂胤の没年齢(42歳)と茂胤の次子・兵庫助胤景の生没年(1565-1620)から考えると、茂胤は少なくとも永禄8(1565)年までは生存していたと思われることから、逆算すると茂胤の生年は大永年中(1520〜)ごろとなるか。すると、明応元(1492)年に家督を継承することは無理で、義胤の子・重胤と茂胤は別人ということが考えられる。
茂胤が某年正月14日に「平盛胤」から名乗りと官途名(「治部太輔茂胤」)を受けている(『相馬盛胤名字状』)。
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A『盛胤名字状』 某年1月14日 | B『伝馬役免許状』 永禄8(1565)年 | C『先達職安堵状』 明応8(1499)年 |
A 某年1月14日の『平盛胤名字状』…岡田治部太輔茂胤に名乗りを与えた文書。
B 永禄8(1565)年己丑11月20日の『盛胤伝馬役免許状』…寛徳寺にあてた伝馬役の免許状。
C 明応8(1499)年7月2日の『平盛胤先達職安堵状』…治部御房にあてた宇多庄内の先達職の安堵状。
室町時代には「盛胤」を名乗る相馬家当主は「大膳大夫」「彈正大弼」の二人いるが、花押の形でみるとABは共通点があり、同一人物と思われる。また、Cの明応8(1499)年の大膳大夫盛胤の花押・筆跡とは異なっていることから、Aの『平盛胤名字状』は「彈正大弼」盛胤の書状である。
◆相馬氏略系図◆
●相馬高胤――C相馬盛胤――相馬顕胤――AB相馬盛胤――相馬義胤
(治部少輔) (大膳大夫)(讃岐守) (弾正大弼)(長門守)
C 大膳大夫盛胤(1476-1521、1492家督)
AB弾正大弼盛胤(1529-1601、1549家督)
弾正大弼盛胤は天文18(1549)年に21歳で家督を継いでおり、天正6(1578)年まで当主でした。岡田茂胤はこの間に「治部太輔茂胤」と名乗ったということになる。するとやはり、明応元(1492)年の岡田安房守義胤の嫡子・重胤とは別人ということになる。
妹二人は泉田氏、植野氏に嫁いだ。また、権現堂に移った岡田将監胤連の子孫は立谷氏・高野氏・成田氏となり、胤連の弟である土佐守永房は権現堂刑部盛房の婿養子となり立野を称した。その弟・大学保平は深野氏の祖となった。
◆岡田氏系譜◆
岡田茂胤――+―直胤【1560−1591】―+―宣胤【1584−1626】
(治部太輔) |(右兵衛大夫) |(八兵衛)
| |
| +―長次【1591−1645】
| (左門)
|
+―胤景【1565−1620】―――胤清【1595−1620】
|(兵庫助) (主膳)
|
+―清胤
(右衛門大夫)
『奥相秘鑑』巻第三には天正12(1584)年3月24日に催された妙見神事に茂胤が参列したと記載されるが、嫡子・右兵衛大夫直胤の誤りか。
『顕胤盛胤両代三郡館持並出騎之事』の交名の中には、小高郷筆頭として「岡田館 岡田兵衛太夫直胤 二十五騎」とあり、顕胤(在1521-1549)・盛胤(在1549-1578)の時代には直胤が指揮を執っているとされるが、顕胤の代は茂胤、盛胤の代は茂胤・直胤が指揮をとっていたと思われる。
相馬岡田氏11代当主。父は10当主・岡田治部太輔茂胤。幼名は鶴若丸。通称は右兵衛太夫。妻は草野式部直清娘。
|
岡田館(南相馬市小高区) |
『顕胤盛胤両代三郡館持並出騎之事』によれば相馬顕胤・盛胤の二代に仕えたとされるが、実際は盛胤・義胤の二代か。行方郡岡田館(南相馬市小高区岡田)に住み、馬上クラスを二十五騎率いていた。馬上二十五騎は、ほかに泉田胤清(標葉郷大将)・泉胤政(中郷大将)の二人のみで、いずれも一門上位の家格である。泉胤政は岡田氏と同族であり、泉田氏は縁戚にあたる。
永禄6(1563)年、伊達家に通じて謀反を起こした草野式部直清が討たれたが、盛胤は彼の十六歳になる娘を育て、直胤と娶わせた。また娘は一族の泉藤右衛門胤政に嫁いでいる。
没年は不明だが、三十二歳で病死したとされる(『相馬岡田系図』)。
没年については天正20(1592)年3月にはすでに亡くなっており、朝鮮の役には弟の岡田右衛門大夫清胤が相馬勢の先陣大将として京都へ出陣した。
相馬岡田氏12代当主。父は11代・岡田右兵衛大夫直胤。幼名は鶴若丸。通称は小次郎、出雲、八兵衛。のち胤長。号は桂月。
相馬義胤・利胤に仕え、一門の筆頭として泉藤右衛門胤政・熊川五郎左衛門長重らと家政を取り仕切り、関ヶ原の戦いの余波で断絶の危機にあった相馬家を支えた。遠祖・胤顕より300年、岡田家惣領に伝えられてきた行方郡岡田村・矢河原・院内・大三賀の他、鶴谷・請戸浜半分・大平・長岡・深野・雫浜・吉名村を知行していた。
天正19(1591)年9月、太閤・豊臣秀吉は朝鮮出兵のため、全国の大名に対して出陣を命じた。この命に相馬義胤も応じて、ただちに兵を集めた。しかし、天正20(1592)年初春、義胤は突然の病に倒れたため、出陣できなくなりこの旨を豊臣政権の五奉行に通達。3月にようやく快復したため、軍勢を整えて京都へ向かった。先例に従えば、一門筆頭である岡田氏当主が先陣を務めるが、父・直胤はすでに亡く、当主・宣胤もわずか9歳だったため、叔父の岡田右衛門大夫清胤が岡田家当主代理として岡田勢を率いて出陣した。しかし、清胤は途路で急病に倒れ、4月上旬、京都に到着したのち亡くなってしまった。
その後、京都に到着した義胤は、清胤を弔うと、彼の率いてきた岡田勢を再編成して軍勢に加え、4月22日、肥前名護屋城へ到着した。ここで義胤は秀吉から病後の来陣、忠義神妙として、手ずからねぎらいの品として帷子・陣羽織を下賜され、名護屋城北西部の島津屋敷の隣地に屋敷を賜った。さらに、遠国からの出陣をほめられ、朝鮮の情勢をうかがうために増田長盛・石田三成両奉行のもとに重臣・原近江を派遣して問い合わせをしている。
そして文禄3(1594)年8月14日、秀吉が肥前名護屋城を発して帰洛の途につくと、義胤は供奉を命じられて8月25日、大坂に着船。その後、京都北野千本の相馬家屋敷に戻り、慶長元(1596)年、許可を得て小高城へ帰還した。
慶長2(1597)年、義兄・泉藤右衛門胤政が突如相馬を出奔して上杉氏に走った。そのため、宣胤が泉家の知行地を治めることとなり、岡田村から中郷泉館に移住。胤政が率いていた中郷士130騎を統率することとなった。文禄年中の分限帳では「岡田兵衛太夫」が265貫860文を知行したとあるが、文禄元(1592)年には父・右兵衛大夫直胤はすでに没しているため、この記述については宣胤のことと思われる。
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岡田館(南相馬市小高区) |
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岡田館(中村城)への旧城門跡 |
慶長16(1611)年、徳川家康は相大膳大夫馬利胤に小高城から中村城に移るよう命じ、7月に木幡勘解由長清を大奉行として中村城下の地割りを行った。
12月2日に城下町の町並みはほぼ整い、岡田又左衛門胤忠が屋敷割立奉行として相馬家士たちの屋敷配分を行った。相馬家の上級家臣はすべて中村城下に集められることとされたため、岡田宣胤もこの指示に従って伝来の岡田村岡田館を引き払い、中郷泉館も廃して一族を引き連れて中村城下に移ってきた。
岡田胤忠の行った屋敷配分について、岡田宣胤がまず屋敷を与えられ、中村城北西の長徳寺跡に建てられた屋敷に移り住んだ。長徳寺は真言宗の古刹で、地割りの際に、宇多郡蒲庭村に移築されている。宣胤の屋敷は「八兵衛屋敷」と呼ばれ、中村城の北西の一郭を占有する形となっており、周囲の住居に岡田氏の家臣団が配置され、藩中でも特権的な家として幕末に至った。しかし、相馬家減封(関が原合戦に伴い中立の立場をとった相馬家は一旦改易されたが、利胤の活躍により減封の上再興した)の影響は岡田家にも波及しており、鎌倉以来伝来の所領のほとんどを失い、行方郡泉村・渋江村・院内村に1,132石を領するのみとなった。
慶長19(1614)年10月の大阪冬の陣・翌年4月の大阪夏の陣には相馬利胤に従軍。元和3(1617)年6月と元和5(1619)年の徳川秀忠上洛の時にも、利胤に従って上洛している。
元和8(1622)年8月、出羽山形城主・最上源五郎義俊が家内不穏のために改易されたとき、利胤は庄内酒田亀ヶア城番を命じられて出羽に向かい、宣胤も利胤の補佐を務めた。その月のうちに、江戸から酒井忠勝が派遣されてきたため、忠勝に城を引き渡して中村に戻った。翌元和9(1623)年7月、秀忠・家光が上洛したとき、相馬利胤は将軍家に供奉したが、宣胤も利胤に従い京都太秦村に宿陣した。
寛永2(1625)年9月10日、藩主・相馬利胤が亡くなり、嫡男の虎之助が六歳で家督を継ぐと、執政の一人として藩政に加わるが、翌寛永3(1626)年4月25日、43歳で急死した。
泉胤顕―+―岡田胤盛―+―胤康――+―胤家―――胤繁――+―胤久――+―胤行――――信胤―――基胤 +―宣胤
(五郎) |(小次郎) |(五郎) |(小次郎)(左京亮)|(小次郎)|(左京亮) (伊予) (小次郎) |(八兵衛)
| | | | | |
+―岡田胤兼 | +―孫鶴丸 +―娘 +―盛胤――――直胤―?―義胤――+―茂胤――――+―直胤――――+―長次
|(孫六) | | |(亀鶴) (二郎三郎) (安房守)|(治部太輔) |(右兵衛大夫)|(左門)
| | | | | | |
+―岡田宗胤 | +―僧侶 +―娘 +―娘 +―娘 +―娘
|(孫七) | |(こくろ) |(泉田胤雲妻)|(金沢胤昌娘) (泉胤政妻)
| | | | |
+―岡田胤俊 +―成胤――――福寿丸 | +―娘 +―胤景――――+―草野胤清
|(十郎) |(四郎) | |(上野氏妻) |(兵庫助) |(主膳)
| | | | | |
+―岡田兼胤 +―胤治――――竹鶴丸 | | +―清胤 +―娘 +―胤和
|(与次) |(七郎) | | |(右衛門大夫) (熊川長春妻)|(吉十郎)
| | | | | |
+―岡田胤元 +―長胤――――義胤―――胤頼 | | +―娘 +―胤氏
(与三) (六郎) (孫鶴丸) | | (山口志摩妻) |(権太郎)
| | |
| +―胤連――――+―胤信――――+―胤政――――+―胤通
| |(将監) |(摂津守) |(与惣右衛門) (権三郎)
| | | |
| | | +―立谷胤久――――直之
| | | (越前) (掃部)
| | |
| | +―胤兼――――――清重――――――氏清
| | (右馬助) (伝左衛門) (丹下)
| |
| +―立野永房――――豊房
| |(土佐) (太郎左衛門)
| |
| +―深野保平――――肥後―――――四郎右衛門
| (大学)
|
+―胤次―――大甕胤忠―+―胤盛――胤通―+―胤俊――胤勝――+―胤季
(二郎) (佐渡) |(丹波)(丹波)|(丹波)(左馬允)|(藤八郎)
| | |
| | +=新里胤清―+―長泰―――→儀左衛門家
| | (豊後) |(半右衛門)
| | |
| +―胤方――胤房 +―貞胤―――→半蔵家
| (美作)(七郎兵衛) (靱負)
|
+―胤長――右近―+―右京
(玄蕃) |
|
+―与五右衛門―――与五右衛門
―中村藩岡田氏略系図―<堀内氏の系譜はこちら>
中村貞俊 田中宗也娘 +―村田共世===敷之助
(太郎左衛門) ‖ |(与市右衛門)
‖ ‖ |
‖――――俊世 ‖――――+―娘
杉政氏―――娘 (与左衛門)‖ |(村田重左衛門師世妻) +―堀内胤信
(新右衛門) ‖ ‖ | |(玄蕃) +―恩胤
‖――――岡田伊胤 +―娘 太田清左衛門――娘 | |(監物)
青田高治―娘 (監物) |(藤岡道仙循性妻) ‖―+―直胤 |
(孫左衛門) ‖ | ‖ (監物) +―娘
‖ +―村田敷之助 +―――――――春胤 |(木幡春左衛門妻)
‖ | (監物) |
‖ | ‖―――征胤――――+―娘
‖――――+―三千代 | 堀内胤重――娘 (監物) |(中田玄俊妻)
岡田直胤――+―宣胤――+―重胤===長胤 +―娘 |(早世) |(重兵衛) |
(右兵衛大夫)|(八兵衛)|(八兵衛)(監物)| | | +―智胤===泰胤
| | ‖ | +―――――――知胤 +―娘 |(帯刀) (監物)
| | ‖――+――娘 | (監物) |(泉田掃部胤重妻) |
| +―木幡貞清―娘 | ‖ | ‖ | +=直胤
| |(嘉左衛門) | 泉乗信 | ‖―――+―娘 (監物)
| | |(八兵衛) | 堀内辰胤――娘 |(服部伴左衛門妻) ‖
| +―娘 | |(玄蕃) | ‖――――半治郎
| ‖ +―小次郎 | +―堀内胤長――――――――――――――娘
| 新館胤治 +―娘 (兵衛)
| (彦左衛門) |(熊川兵庫長貞妻)
| |
+―長次 +―長胤 +―娘
|(左門) |(監物) |(泉甚右衛門為信妻)
| ‖ | |
| ‖――――+―娘 +―娘
|下浦修理娘 (熊川左衛門長定妻) (原新右衛門長清妻)
|
+―娘
‖
‖――――――胤衡
泉胤政 (内蔵助)
(藤右衛門)
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