~原氏歴代当主~
当主 | 原胤高 | 原胤親 | 原胤房 | 原胤隆 | 原胤清 | 原胤貞 | 原胤栄 | 原胤信 |
通称 | 四郎 | 孫次郎 | 孫次郎 | 十郎 | 主水助 | |||
官途 | 甲斐守 式部少輔 |
越後守 越後入道 |
宮内少輔 | 式部少輔 | 上総介 | 式部大輔 | ||
法名 | 光岳院? | 貞岳院? | 勝岳院 勝覚 昇覚 |
不二庵 全岳院 善覚 |
超岳院 | 震岳院? 道岳? |
弘岳大宗 |
■原氏の庶流■
八王子原氏
原 胤歳(????-1584)
武田信玄に仕えた侍大将。通称は新七郎。官途名は大隅守。
その出自は不明だが、「原公先祖書」によれば「本国下総」「家紋九曜」とあり、甲斐国に移った千葉支流原氏の子孫であろうと考えられる。下総原氏の流れは大きく分けて三流ある。
1.原 常途 | 鴨根常房(三郎)の弟で養子。肥前千葉氏の家老である岩部氏・仁戸田氏は彼の子孫。 |
2.原 光氏 | 千葉介氏胤の次男で初名は満氏。子・常光は「原二郎」として原氏を再興した。子孫は甲斐国に移った。 |
3.原 胤高 | 千葉介満胤の子といわれ、子孫は千葉氏筆頭家老となる。 |
→1.2.3.のいずれの系統も「甲斐国」に移住している。
1.原 胤勝 | 承久3(1221)年5月以降、信濃国へ移住。南北朝時代に甲斐国へ移る一族あり。 |
2.原 胤重 | 15世紀頃、甲斐国へ移住する。 |
3.原 虎胤 | 永正14(1517)年に起こったといわれる小弓合戦で、甲斐国へ逃れる。武田24将のひとり。 |
胤歳は、永禄4(1561)年9月の「第四次川中島合戦」で、上杉政虎入道謙信の武田本陣突撃に対し旗本で応戦し、謙信の馬の尻を槍で突いて信玄の危機を救った人物といわれる。
天正10(1582)年、武田家の滅亡後、嫡男・半左衛門胤従とともに家康に召し出されて駿府城へ赴き、徳川家の家臣となった。
天正12(1584)年3月25日、病死した。
原 胤従(????-1599)
武田勝頼に仕えた目付役鎗支配。父は原大隈守胤歳。通称は半左衛門。官途名は刑部。八王子千人頭原家の祖。
天正10(1582)年の武田家の滅亡後、父・大隈守胤歳とともに徳川家康に召し出されて駿府城へ赴き、徳川家の家臣となった。同年8月30日、配下の同心衆が胤従へ返される旨の御朱印状が発給され、翌日の9月1日、成瀬吉右衛門・日下部兵右衛門が上使として胤従のもとへ赴いて同心衆の支配が認められた。
しかし、こののち御朱印状が焼失したことから、12月9日、家康の側近・井伊兵部少輔直政のもとへ焼失の旨を届け出たところ、新たに「甲州本領九拾八貫文」の御朱印状が発給された。その三日後の12月12日、遠江国秋葉寺において成瀬吉右衛門・日下部兵右衛門に誓紙を提出、翌年4月、胤従など甲州衆九人は遠江浜松城へ召され、井伊直政をもって甲斐一国の仕置が任せられると告げられ、九人へ一紙の御朱印状が下された。
その後、胤従は甲斐国へ戻り、諸公事・御仕置などを国中へ触れ回り、翌天正12(1584)年4月の「小牧・長久手の戦い」では家康の旗本として活躍。戦後、秀吉と講和して大坂にあった家康から、長久手の戦いでの恩賞が下されている。
翌天正13(1585)年12月、武田家国法軍令などの記録を提出するよう命じられ、元亀元年・元亀3年(三方ヶ原の戦い)の武田信玄の備立数ヶ条を差し出したところ、家康は非常に喜んだと伝えられている。畏怖していた信玄の陣立てを得たことは無上の喜びだったのだろう。
天正17(1589)年11月19日、甲斐国内「千七百十二俵一斗一升五合二勺」の知行が家康と伊奈熊蔵(関東郡代)の両判の書立で下され、甲州へ帰国した。
天正18(1590)年8月、秀吉の命によって家康が関東へ国替えが命じられると、甲斐国は秀吉の股肱の家臣・浅野弾正少弼長吉(長政)の知行国となったため、胤従も知行地を浅野長吉へ引渡し、家康の命によって甲州衆九人は武蔵国八王子へ移されることとなった。この八王子は秀吉によって自刃させられた北条陸奥守氏照の本拠地であり、家康は彼らに、八王子はいまだ不穏の地ゆえ、用心のために八王子城(元八王子)の向かいの城あたりに在陣するよう指示した。これに八王子甲州衆は甲斐国の知行地の替地を家康へ願い出たところ、家康は本多佐渡守正信を使者として八王子へ送り、彼らに人数書きを提出し、それに沿って扶持を与える旨を伝えた。
天正19(1591)年、胤従は家康に従って奥州御仕置のために出陣したが、そのとき八王子にあった胤従と同役の十名は、同心として五十人を充てられ、八王子衆は都合で五百人の兵力となった。
天正20(1592)年2月、秀吉の朝鮮出兵に際しては、家康に従い文禄2(1593)年の春まで肥前国名護屋城に出陣。帰国後は四年にわたって元八王子周辺の民政を行って、治安回復のために尽力。八王子へ屋敷を拝領し、慶長3(1598)年に隠居を願い出て許され、翌年慶長4(1599)年3月15日に亡くなった。
本来は甲斐国に知行を与えられた代官であった甲州衆は、秀吉によって甲斐国が徳川家から押収されたことによって、やむなく着の身着のままで武蔵国と甲斐国の境・八王子へ同心とともに移り住み、家康は彼らをそのまま国境警備隊・治安維持部隊として八王子を任せた。胤従ら甲州衆の面々もその期待によく応え、北条氏の残党が隠れ住む八王子の治安を回復させた。
原 胤虎(????-1627)
父は原刑部胤従。通称は権左衛門、半左衛門。
慶長3(1598)年、父・胤従の跡をついで原家の家督を継承。慶長5(1600)年9月の「関ヶ原の戦い」の際には、家康は胤虎ほか十名の八王子衆各々に浪人五十人を新たに支配させ、八王子衆は都合千人の同心を率いる大部隊となった。八王子衆は徳川秀忠の中山道軍に加わって関が原に向かったが、秀忠勢は途中で真田昌幸の軍勢に阻まれて関が原に参戦することはできなかった。
胤虎は慶長19(1614)年10月の「大坂冬の陣」、慶長20(1615)年4月の「大坂夏の陣」にも供奉し、夏の陣では真田信繁(真田幸村)の軍勢によって徳川家御先手が切り崩された時、胤虎は家康の槍を持って陣中に踏みとどまり、胤虎が防いでいる間に先手衆は陣を立て直すことができた。この功績は安藤対馬守重信によって家康に伝えられ、胤虎は陣中の家康に召され、褒賞金として二十両が下された。
こののちも、家康の近習として伏見城、駿府城などに詰めているが、元和8(1622)年、病のため隠居を願い出、寛永4(1627)年9月24日、亡くなった。
原 正胤(1598-1662)
父は原半左衛門胤虎。通称は金兵衛、権左衛門。
元和8(1622)年、父・胤虎が隠居したため、家督を継承。寛永8(1631)年3月4日、武蔵・上総両国に三百四十二石の御扶持方の御朱印状が下された。寛永13(1636)年4月、家光は秀忠が造営した日光東照社をより荘厳なものとして完成させ、日光社参を行った際、正胤は家光に供奉して日光へ赴いた。
慶安3(1650)年9月、家光の江戸城西丸御移徒の際、これに供奉。そのほか江戸城内の御普請御用を奉書にもとづき、同心らを召連れて勤めている。この御用のたびに金・時服などを拝領し、賜った奉書も代々原家に伝えられていった。
慶安5(1652)年6月、四代将軍・徳川家綱の日光社参の際には火消役に任命され、老中列座の中、松平伊豆守信綱から、同役の窪田善九郎・志村又左衛門とともに前の火消役であった谷大学・片桐半之丞と交代する旨が伝えられた。そして16日、交代が行われ、12月2日、酒井讃岐守忠勝・松平伊豆守信綱・阿部豊後守忠秋ら重職連名の下知状が正胤ら火消役の面々に下された。
明暦2(1657)年、隠居願を提出し、寛文2(1662)年正月11日に65歳で亡くなった。
原 勝正(1611-1696)
養父は原権左衛門正胤。実父は石坂忠兵衛正勝。通称は半左衛門。
原 正弥(1648-1719)
通称は半左衛門。官途名は刑部。
原 正芳(1684-1722)
通称は半左衛門。
原 正喜(1706-1733)
通称は半左衛門。
原 正峰(1716-1776)
通称は半左衛門。
原 胤敦(1749-1827)
通称は半左衛門。
原 胤広(1770-1835)
通称は半左衛門。
原 胤禄(1792-????)
通称は半左衛門。
◆千人同心頭原家系図◆
原胤歳――――――胤従―――――胤虎――――――+―正胤――――――+=勝正
大隅 刑部 半左衛門 | 権左衛門 | 半左衛門
武田家臣 慶長3年卒 正保3年卒 | 寛文2年卒 | 実は石坂正勝の2男
後、家康の御家人 79歳 | 65歳 |
| 320石 +―将守
| | 善次郎
| | 三田守秀養子
| |
| +―重一
| 惣兵衛
| 浦野重展養子
|
+―胤定――――――――宣久
| 伊兵衛 小左衛門
| 延宝元年追放 榊原宣経養子
|
+―親胤――――某――――
半左衛門 長右衛門
綱吉に附属 館林藩士
館林藩士 後、御家人160俵
●参考資料●
『千葉氏 室町・戦国編』 千野原靖方著 たけしま出版
『妙見信仰調査報告書(二)』 千葉市立郷土博物館
『房総叢書』:『妙見実録千集記』『千葉大系図』
『真説 北条五代』 学習研究社
『本土寺過去帳地名要覧』(上)・(下)
『戦国房総』
『沼南風土記』 沼南町史編さん委員会 著
『千葉県東葛飾郡誌』:『手賀原氏系図』『原氏略記』 千葉県東葛飾郡誌教育会
『手賀城しおり』 手賀公民館