弥富原氏 原氏の一族

原氏

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~原氏歴代当主~

当主 原胤高 原胤親 原胤房 原胤隆 原胤清 原胤貞 原胤栄 原胤信
通称 四郎 孫次郎     孫次郎   十郎 主水助
官途   甲斐守
式部少輔
越後守
越後入道
宮内少輔 式部少輔 上総介 式部大輔  
法名 光岳院? 貞岳院? 勝岳院
勝覚
昇覚
不二庵
全岳院
善覚
超岳院 震岳院?
道岳?
弘岳大宗  

 

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■原氏の庶流■

弥富原氏

○弥富原氏の想像系図○

                      妙中善尼
                      ∥―――――――妙勝尼《1508》→「弥富大方」
                      ∥
                      ∥ 行真比丘尼
                      ∥ ∥――――――――朗伝・朗典《1535》―――孫次郎《1535》
                      ∥ ∥       (左衛門尉・信濃守?)
                      ∥ ∥        ∥
                      ∥ ∥        ∥―――――――朗純胤凉《1518-1554》
                      ∥ ∥       妙伝比丘尼   (左衛門尉)
                      ∥ ∥
      +―原朗珍胤氏《1455》   +―朗真景広《1499》――+―朗久《1510?・1517?》
      |(信濃守左衛門尉)    |(左衛門尉)     |(孫九郎)    
      |    ∥        |           | 
      |    ∥――――――――+―孝景《1494在》   +―胤行―――――胤家――胤則――胤時――胤春
      |    ∥        |(左京亮)      |(九郎左衛門)(若狭)(遠江)(山城)(近江)
      |   院勢尼       |           |
原道儀胤良 |             +―忠継《1494在》   +―朗瑞《1515》
 ∥――――+             |(万五郎)       (弾正忠殿)
理教尼   |             |          
      |             +―珍清《1444-1457》
      |              (小六)
      |
      +―原朗嶺胤致《1455》――胤久
      |(右京亮)      (宮内)
      |
      +―原助景《1456・1470没》 
      |(信濃入道左衛門)
      |
      +―原妙朗景家?《1494》――彦三郎

○日悟の周辺系図○

+―原出雲守朗暁《1585》

+―□□□
   ∥
   ∥―――日悟上人《1551-1614》…本土寺15世住持
   ∥
+―蓮頂尼《1591》

+―妙蓮尼《1569》

+―遠浦印公《1581》

――― :道儀 原信州父 七月
――― :理教尼 原信州悲母 七月
1455年 :原信濃守、根古谷の円城寺氏と闘う。
:原左衛門朗珍 康正元乙亥十二月 兄弟東方ニテ打死(『本土寺過去帳』)
:原左衛門朗珍 応仁元年十一月十三日 ヒノキ原ニテ討死(『長福寺過去帳』)
:朗珍霊儀原左衛門 十二日(『教蔵寺過去帳』)
:朗珍原左衛門殿 十一月十二日(『法宣寺過去帳』)
:原右京亮朗嶺 康正元乙亥十二月 兄弟東方ニテ打死(『本土寺過去帳』)
:原右京亮朗嶺 応仁元年十一月十三日 ヒノキ原ニテ討死(『長福寺過去帳』)
:朗嶺霊儀原右京亮 十二日(『教蔵寺過去帳』)
1467年 :原信濃守胤良が弥富城の城主。(『法宣寺過去帳』)
1470年 :原左衛門尉景広、長福寺を建立する。
1479年 :原左衛門尉景広、太田図書の臼井城攻めで、臼井城に駆けつけて功績あり。
1483年 :原左京亮孝景、本土寺に法華経を奉納。「悲母院勢御持経也、孝子左京亮奉持之 文明十五年癸卯四月廿八日 日瑞」
1488年 :原左衛門尉景広、飯塚長国寺を建立。
:妙行尼 イヤトミ スルカ母 長享二己酉十二月(『本土寺過去帳』)
   →《桐谷殿》駿河殿―原五郎《1472》
         原右衛門佐永岳
1494年 :妙朗善位 明応三甲寅四月 原右京亮弟(『本土寺過去帳』)―弥富彦三郎
:原左衛門尉景広・原左京亮孝景・原万五郎忠継・設楽彈正継長ら、日瑞の結縁会に参加。
1499年 :原左衛門尉景広 当寺建立大檀那 法号朗真 明応八年十月卒(『教蔵寺過去帳』)
1506年 :原蔵人丞殿法名朗寿 永正三丙寅八月(『本土寺過去帳』)
1508年 :弥富大方妙勝尼、本土寺に華皿を奉納。
:朗真源左衛門 同息女妙勝尊尼 明応八年巳未八月十五日
――― 1510年:弥富大方 マスウ(『本土寺過去帳』)
  :原孫九郎朗久 永正十年六月十五日 坂戸ノ押合デ討死(『長福寺過去帳』)
1515年 :朗瑞尊位 原弾正忠殿 永正十二乙亥五月(『本土寺過去帳』)
1517年 :朗久 原孫九郎殿 ヤトミ打死 永正十四丁丑五月(『本土寺過去帳』)
1535年 :朗典位 弥富殿 小弓ニテ打死 天文四乙未六月(『本土寺過去帳』)
:左衛門尉朗伝 子息孫九郎 小弓野田ニテ
:原左衛門尉朗伝 天文四年六月廿日 小弓ノ野田ニテ討死(『長福寺過去帳』)
:原左衛門尉朗伝 小弓野田合戦ノ時、子息孫治郎巨下三十 朗伝共討死 天文四乙未四月(『教蔵寺過去帳』)
1538年 :原九郎左衛門胤行、国府台の戦いで功績あり。
1550年 :原九郎左衛門胤行、千葉妙見遷宮式に馬を献納。
1554年 :原左衛門尉胤凉朗純 天文廿三年甲寅七月十日卒 三十七才(『長福寺過去帳』)
:当所城主 大檀那原信濃守御子息 法名朗純公 皈依ニ因テ再建立有之焉(『教蔵寺過去帳』)
:朗純 岩富原左衛門尉殿 十日卒(『法宣寺過去帳』)
:朗純尊霊 弥富殿 七月(『本土寺過去帳』)
1585年 :朗暁 天正十三乙酉六月 ヤトミ原出雲守 日悟伯父(『本土寺過去帳』)
1591年 :蓮頂尊位 日悟聖人 御悲母 天正十九辛卯八月於当寺(『本土寺過去帳』)
1592年 :朗円霊 弥富角右衛門殿 天正廿壬辰十一月(『本土寺過去帳』)
1593年 :朗意尊霊 文禄二癸巳七月 弥富原信州(『本土寺過去帳』)
:原信濃入道法名朗意儀 武州水ハツニテ逝去 □□二□□八月(『本土寺過去帳』)
1614年 :日悟聖人 慶長十九卯月 当山十五世在世三十六年 六十四才 於野呂午刻甲寅(『本土寺過去帳』)
――― :妙伝比丘尼 弥富朗純 御母儀(『本土寺過去帳』)
:行真比丘尼 弥富朗伝 御母(『本土寺過去帳』)
:妙中善尼 弥富大方ノ御母儀(『本土寺過去帳』)
:遠浦印公尊位 名都借広受寺 日悟母方伯父 天正九辛巳正月(『本土寺過去帳』)
:妙蓮尼 己巳十月 ナツカリ 日悟伯母(『本土寺過去帳』)

●弥富原氏と本土寺について

 弥富原氏は、弥富城(佐倉市岩富町)を本拠とする原一族で、原氏の中でも本土寺にもっとも接点があった氏族と思われ、『本土寺過去帳』には、弥富原氏や「イヤトミ」についての記述が多い。

 弥富原氏の当主・原景広は文明2(1470)年3月、本土寺の日意上人を招いて勝興山長福寺の開山としている。それ以降も本土寺と弥富原氏の関わりが続いたと思われ、それが本土寺周辺を治めていた高城氏との結びつきともなって、弥富原氏・高城氏の血を引くと思われる日悟上人本土寺の十五世住持として天正6(1578)年に就任し、以来三十六年にわたって同寺の貫首をつとめた。


原 胤良(????-????)

 原四郎胤高の子。弥富原氏の祖。官途は信濃守。法名は道儀。妻は理教尼。某年7月16日に亡くなった(『本土寺過去帳』)

 彼の妻・理教尼についての伝記は伝わっていないが、彼の子・原左衛門尉某(朗珍)の母として、『当門徒系図次第』に平賀本土寺(松戸市)の初めての御堂供養の導師であった「日壽聖人」の母・理哲(狩野ノ修理進入道叡昌息女)の妹として伝わっている(『弥富原氏の研究』)


原 胤氏(????-1470)

 弥富原氏二代当主。原信濃守胤良の子。官途は信濃守。法名は朗意

 兄の原左衛門尉(朗珍)、原右京亮胤致(朗嶺)が康正元(1455)年11月13日に千田庄内での戦いで戦死した(『本土寺過去帳』)ため、家督を継いだのだろう。このころ千葉家内では、ともに千田庄を本貫地とする千葉家重臣、原氏と円城寺氏の対立が激化し、この年、原越後守胤房は千葉宗家一門の長老、千葉馬加陸奥入道常義(馬加康胤)を担いで、円城寺氏を重用する千葉介胤直入道に謀反を起こした。馬加陸奥入道は親古河公方派である一方で、千葉介胤直入道は古河公方・足利成氏と対立しており、千葉家は真っ二つに分裂した。

 戦いは亨徳4(1455)年8月12日、千田庄志摩城において千葉介胤宣が自刃し、円城寺下野守尚任をはじめとする円城寺氏一党が討死、15日には千田庄妙光寺に追い詰められた千葉介胤直入道が自刃して果て、馬加陸奥入道・原越後守勢の勝利で終わった。

 しかし、幕府は千葉宗家の内紛について上杉氏からの報告を受けていたものか、古河公方に加担する馬加陸奥入道・原越後守追討のために、10月ごろ、幕府奉公衆で千葉一族の東左近将監常縁を下総国に派遣した。常縁は歌人として著名だが、武人としても有能であり、下総に着くとまず東氏発祥の東庄に移り、東大社で戦勝祈願を済ませた。そして、大須賀左馬助国分五郎ら千葉一族の協力を得て、原氏の本拠・千田庄に馳せ向かい、11月13日に「東方」「ヒノキ原」において原左衛門朗珍原右京亮朗嶺を討ち取った(『本土寺過去帳』『長福寺過去帳』)

 常縁は千田庄を攻め落とすと、11月24日には馬加陸奥入道の居城・馬加城(花見川区幕張)に攻め寄せ、城から討って出た原越後守胤房の軍勢を一両日の戦いののち破った。こののち、胤房は千葉へ逃亡して姿を消した。胤氏がその戦いに参戦していたかは不明だが、彼は生き延びた。

 文正元(1466)年6月3日、「原信濃入道」は幕府より「松渡城郭」の守りを命じられた(『足利義政御内書案』)。「松渡」とは「松戸(松戸市)」のことであり、「松渡城郭」とは松戸城(松戸市松戸)か。このあたりはのちに原氏の家老・高城氏が繁栄した地である。

 文明2(1470)年某月12日、「武州水ハツ」において亡くなった(『本土寺過去帳』)

 弟の原妙朗(景家?)は、明応3(1494)年4月19日に「クリカサワ」にて亡くなっているが、「クリカサワ」とは現在の松戸市栗ケ沢のことと考えられ、兄の原信濃守胤氏とともにこの地に移ってきたのだろう。栗ヶ沢の字名に「高木」があるが、原氏の家老となる高城氏はこの地の地方豪族だったのかもしれない。


原 景広(????-1499)

 弥富原氏三代当主。原左衛門尉(朗珍)の子。通称は左衛門尉。法名は朗真

 叔父の原信濃守胤氏(朗意)の跡を受けて弥富原氏の家督を継いだと思われる。

 文明2(1470)年3月、本土寺松戸市平賀)の日意上人を弥富に招き、弥富城の北に勝興山長福寺佐倉市岩富)を建立して彼を開山とした。長福寺にある梵鐘銘には「当時開基本山九祖日意聖人焉 大檀度原左衛門景広矣建立文明二庚寅祀也…」とある(『岩富原氏の研究』)

 明応8(1499)年8月15日、(妙勝尊尼)とともに亡くなっている。


原 胤行(????-????)

 原左衛門尉景広の子。通称は九郎左衛門尉

 天文7(1538)年の第一次国府台合戦に参戦して軍功を挙げたという(『千葉大系図』)

 天文19(1550)年11月23日、千葉妙見宮の遷宮式が執り行われた。大檀那・千葉新介親胤馬場又四郎胤平に御馬を、原大蔵丞胤安に御太刀を持たせて臨席し、もうひとりの檀那・原式部大夫胤清原九郎左衛門尉胤行に神馬を曳かせ、牛尾左京亮胤道に太刀を持たせて列した(『千学集抜粋』)

●天文19年11月23日妙見御遷宮式の寄進衆(『千学集抜粋』)

寄進者 持参供 寄進物 請取
千葉新介親胤 馬場又四郎胤平 御馬 本庄新六郎胤里
原大蔵丞胤安 御太刀    
原式部太夫胤清 原九郎左衛門尉胤行 神馬 金親兵庫政能
牛尾左京助胤道 太刀  
牛尾孫次郎胤貞 原隼人佐胤次 神馬 小河外記助政俊
齋藤源太左衛門尉清家 太刀  
椎崎 小河大膳 御馬 本庄伊豆守胤村
宍倉与三郎 太刀  
成戸 三谷下野守 御馬 本庄伊豆守胤村
小河新蔵 太刀  
公津 円城寺源五郎 御馬 本庄伊豆守胤村
湯浅源三郎 太刀  
寺台 高千代大膳亮 御馬 本庄伊豆守胤村
瀬村惣九郎 太刀  
鹿島 三谷右馬助 御馬 本庄伊豆守胤村
宍倉惣九郎 太刀  
牛尾右近太夫 牛尾平右衛門 御馬 本庄伊豆守胤村
牛尾兵部少輔 太刀  
大須賀、助崎(大須賀氏)、小見川(粟飯原氏)、海上殿、相馬殿、府馬、鏑木、米井(木内氏)、井田、山室、三谷、椎名、粟飯原、三幡谷、神崎殿、野手、押田、神能 御馬 本庄伊豆守胤村

原 胤家(????-????)

 原九郎左衛門尉胤行の子。通称は若狭守


原 胤則(????-????)

 原若狭守胤家の子。通称は遠江守


原 胤時(????-????)

 原遠江守胤則の子。通称は山城守


原 胤春(????-????)

 原山城守胤時の子。通称は近江守

●参考資料●

『千葉氏 室町・戦国編』  千野原靖方著  たけしま出版
『妙見信仰調査報告書(二)』 千葉市立郷土博物館 
『房総叢書』:『妙見実録千集記』『千葉大系図』
『真説 北条五代』 学習研究社
『本土寺過去帳地名要覧』(上)・(下)
『戦国房総』
『沼南風土記』 沼南町史編さん委員会 著
『千葉県東葛飾郡誌』:『手賀原氏系図』『原氏略記』 千葉県東葛飾郡誌教育会
『手賀城しおり』 手賀公民館


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