~原氏歴代当主~
当主 | 原胤高 | 原胤親 | 原胤房 | 原胤隆 | 原胤清 | 原胤貞 | 原胤栄 | 原胤信 |
通称 | 四郎 | 孫次郎 | 孫次郎 | 十郎 | 主水助 | |||
官途 | 甲斐守 式部少輔 |
越後守 越後入道 |
宮内少輔 | 式部少輔 | 上総介 | 式部大輔 | ||
法名 | 光岳院? | 貞岳院? | 勝岳院 勝覚 昇覚 |
不二庵 全岳院 善覚 |
超岳院 | 震岳院? 道岳? |
弘岳大宗 |
森山原氏
原氏の庶家で、千葉宗家に仕えて重臣となった一族。出自は不明だが、一説には弥富原氏の流れをくむとも。この原氏は「東本領」とあることから、東庄を本拠としていた流れとみられる。
原 親幹(????-????)
森山原氏初代。父は原山城守か(『海上年代記抜書』「海上町史」史料編1)。母は不明。通称は左近、大炊助、若狭守。千葉介邦胤の執政として活躍する。
千葉家への仕官時期は不明だが、弘治2(1556)年正月に千葉介親胤が千葉家を継承しており、そのころ「親」の偏諱を受けたのだろう。ところが、弘治3(1557)年8月に親胤は側近によって不可解な形で暗殺される。その跡を襲ったのが海上家に養子に入っていた千葉宗家庶子の九郎胤富(千葉介昌胤三男)であった。佐倉の親胤と東総(須賀山?)の胤富との間に確執があったとは伝わっていないが、親胤亡き後、親幹は胤富と対立することになる。そして、親幹は正木氏の香取郡侵攻に同調して胤富に反旗を翻した。
永禄3(1560)年10月に香取郡へ侵攻した里見家重臣の正木大膳亮時茂(小田喜城主)は、12月1日に香取社へ禁制を出し、さらに香取郡「相根塚(香取市大根塚)」に城を築いた(『香取大禰宜家文書』)。ただし「相根塚」は香取海の低湿地が広がる一帯であり、長期間拠点を構える地理的利点は皆無であるため、実際の城地は不明。
永禄4(1561)年、正木時茂は小弓城、臼井城を攻落して原氏を放逐する働きを見せる。しかし同年4月に急死したことから、子の正木平七信茂と、弟の正木左近将監時忠(勝浦城主)が香取郡経営に当たることとなったとみられ、小見川城を攻め落としている。
永禄5(1562)年3月19日、「千葉殿(胤富)」は正木勢の籠もる小見川城に攻め入り、双方合わせて三百余人の死者を出す激戦となった(『海上年代記抜書』)。「森山城主原田山城守、同左近大炊介」との記述があるが、翌永禄6(1563)年9月、「上総守小滝城主正木大膳、一宮城主、同森山ノ城主原田大炊介」が「下総国海上長谷」に「上総下総常陸四ヶ国人足」を集めて築城しており、「千葉殿計敵也」とあることから、ここからも原山城守・原親幹が胤富と敵対関係にあったことがわかる。親幹はこの当時森山城主であり、正木氏によって須賀山城から海上氏が放逐されたのち、小見川城と低湿地を挟んで対面の谷津上に取り立てた城が森山城で、正木氏に属していた原親幹が守将として在城した可能性も考えられる。
永禄7(1564)年正月7日、市川国府台で北条氏康と里見義堯が合戦し、正木信茂が戦死すると、正木氏が占拠していた海上長谷城は落城し、信茂から守衛を負かされていたと思われる一宮城主(正木大炊助時定)は一宮城へ退き、その後「生涯」したという。また、香取経営の主将だった正木時忠は「相州ノ太守氏政」と手を結んで里見氏から独立し、「万騎地エ押寄、在々所々亡郷」した上、「西上総エ打廻リ佐貫地エ押寄」た。これに北条左衛門大夫綱成が呼応し、船二百艘で安房に攻め寄せて諸所を攻めまわったという(『日学覚書』)。ただ、正木勢(小田喜正木氏の勢力か)は小見川城、相根塚には留まっており、小見川地域から撤退するのは永禄9(1566)年7月7日であった(『香取大禰宜家文書』)。そして、閏8月7日に「小見河殿御本意」とあり、正木氏が撤退した直後、粟飯原氏が小見川城に戻っている。
森山城の親幹が胤富に降伏したのは永禄7(1564)年から永禄8(1565)年4月までの間であろう。親幹は降伏に当たって森山城将としての地位を保証されたと思われ、その後も森山城に在城している。城はしばらく海上氏や石毛氏を筆頭とする「頭立衆四五人」によって共同支配されている。
永禄8(1565)年4月1日、胤富は森山城の海上中務少輔・石毛大和守へ、「先日各江本領之事、可被為返之段、内儀被仰出候之處、一同ニ即罷請度之由之上、此度被返下候者也」との文書を出している。胤富は海上氏や石毛氏ら須賀山領の旧領主へ対して旧領返還について問うた所、返還を受けたいとの返答があったため、旧領の代替地は納めた上で旧領を彼らに戻している。
7月20日、胤富は親幹と石毛大和入道へ、須賀での製塩品の塩荷が他に流れていくような状況があるので、中野源左衛門尉一人を奉行とするのではなく、親幹と石毛大和からも手代を派遣してともに管理するよう命じている。
その後、胤富の跡を継いだ千葉介邦胤の代、親幹は森山城の代表的人物として抜擢されることになる。
天正3(1575)年3月13日、邦胤は「(国分)兵部大輔家中十余人」が香取神領に居座っていたことに対して、「原若狭守(親幹)」と「海保与九郎」に彼らの放逐と香取社への出入り禁止を命じている(天正3(1575)年カ?3月13日『条目』)。この国分兵部大輔は、天正8(1580)年2月10日、古河公方・足利義氏へ年頭の挨拶を行い、白鳥を進上している人物である(『天正八年御年頭申上衆書立写』)。ところが国分兵部大輔は、その後邦胤に逆意を持ったようで、天正9(1581)年までの間に謀反を起こし、香取郡木内庄などに侵攻した。これを親幹が鎮圧したことから、天正10(1582)年5月、邦胤は取り戻した領地のうち、小見郷内の地を勲功として親幹へ与えた(天正10(1582)年5月14日『千葉介邦胤判物』)。
天正12(1584)年3月3日、「原若狭守親幹」は「東庄玉子社(東大社)」に「大般若波羅蜜多経第一百五十四張」を奉納している。東大社は東庄の総鎮守であり、東庄を本貫地とする親幹も信仰していたと思われる。
翌天正13(1585)年正月19日、邦胤は親幹の子「原大炊助」、安藤備中守、石毛金右衛門の出陣に際する条書朱印状を発給した。小田原表への出立であろうか。彼らは「罷立以来、様子等一向不聞得」と邦胤への連絡をしていなかったようだが、おそらく彼らに同道していた邦胤の側近、海保丹波守が佐倉へ帰参し、遠山直景から鶴が届けられたことを2月10日付で書状に認めている。ところが、邦胤は5月7日、「一鍬田五郎狂乱シ御額ヲキリツケ逝去」した(『本土寺過去帳』『千学集抜粋』)。
邦胤には十二歳になる娘と八歳の千鶴丸(重胤)があったが、「千葉介後見」であった原豊前守胤長は小田原北条氏に実質的な支配を委ねようとした。ところがこれに強硬に反発したのが、意外にも千葉氏と北条氏との橋渡し「奏者」を務めていた原若狭守親幹であった。
氏政は佐倉表の状況をおそらく原胤長より伝え聞いたのだろう。これまで親密に関わってきた親幹が敵対したことに少なからず驚いたのだろう。8月27日、大殿北条氏政は「指南」遠山氏を通さずにみずから親書を親幹に翻意を促している。
当時、親幹は眼病が悪化し歩行もままならない状態にあったが、森山城主の「海上孫四郎若輩ニ而、苦労ニ候」という状況の中で、親幹の子「大炊助も自元作倉ニ無之」であって孫四郎の補佐はできないため、これまでも孫四郎を支えてきた親幹に「一両年も先森山ニ在城候而、万端孫四郎ニ助言」するよう依頼している。
また、北条氏との関係については「奏者之儀者、雖勿論候」としながらも、「原豊前父子、海保以下」が厩橋まで出陣しているのに、親幹は「久存之儀ニ候」にもかかわらず「一向見除之体、依之、万端疑心不少候」と不満を述べつつも「当方に候間、無是非一応指置事」とし、「所存を替、自今已後一途ニ当方之儀可被走廻所存ならハ、可随其候」と譲歩した。そして「正路ニ返答尤候、はや過去ニ者不可被取会候」と返答を求めた。千葉家と北条氏との関係をすべて知り尽くす親幹をなんとしても懐柔しようとする心がうかがえる。
しかし、親幹は返答を保留した。佐倉の胤長と森山の親幹が連絡を取り合ったかは定かではないが、胤長は親幹が頑であるため、北条家当主・北条氏直に下総出陣を要請した。これに9月8日、氏直が下総出陣を了承したことを胤長に伝達(『北条氏直書状』(「戦国遺文」房総編二〇〇二))。自分が出陣する以前に兵が必要であれば、一手も二手も送る用意があるので知らせるようにとの書状を送っている。
天正13年 | 出来事 |
5月3日 | 千葉介邦胤、29歳で死亡。 |
8月27日 | 氏政、原親幹に真意を糺す。 |
9月8日 | 氏直、原胤長に下総出兵を示唆。 |
11月10日 | 氏直、下総に出陣。 |
11月16日 | 氏邦・小幡縫殿助、松戸に着陣か。 |
11月下旬 | 親幹、山角紀伊守に帰順する書状を送る。 |
11月22日 | 北条氏、佐倉城南に鹿島城の築城着工。 |
11月25日 | 氏政、親幹(若狭入道殿)に宛て書状。 |
11月28日 | 氏直、中山法華経寺に寺領安堵状。 |
12月3日 | 鹿島城、普請成就。 |
12月10日 | 氏直、小幡兵衛尉に佐倉普請の終了の書状。 |
12月12日 | 鹿島城の普請、すべて終了。 |
12月15日 | 鹿島に邦胤娘・邦胤妻(北条氏康娘)入城。 |
11月10日、氏直は直々に下総へ出陣し、11月16日には叔父の北条氏邦の先鋒・小幡縫殿助が下総国松戸郷に入った(『北条氏直書状写』(「戦国遺文」房総編二〇一〇、二〇一二))。このころ、下総各所の下総衆たち(臼井原氏・高城氏・井田氏ら)には北条氏重臣の名で掟書が発給され、11月28日には中山法華経寺に氏直の名で寺領安堵状が発給されている。その後、氏直は本佐倉城に入城した。
一方、親幹は大殿北条氏政より最終勧告が突きつけられたことから、11月下旬頃に佐倉領を担当している北条氏の重臣で小指南・山角紀伊守定勝に帰順の意を示した文書を送り、北条氏に対して「無二無三忠儀」を誓った。定勝はこれを氏政へ送って、11月25日、氏政は「懇意先以喜悦候」と歓迎する書状を親幹に宛てて送った。その中には「原豊前」と協力することが指示され、氏直への取り成しもなされた。この書状の宛名は「原若狭入道殿」となっていることから、恭順にともなって出家したことが察せられる。
こうして千葉家は「作倉物主断絶之以後、無仕置而過来候」というような、当主不在の中で、小田原北条氏による直接支配が行われることとなり、下総国主たる千葉介家は事実上滅亡した。
●天正3(1575)年3月13日『条目』
天正10(1582)年5月14日『千葉介邦胤判物』
原 邦房(????-????)
通称は大炊助。父は原若狭守親幹。母は不明。千葉介邦胤からの偏諱によって「邦房」を称したと思われる。衰退期の千葉宗家を必死に支えた千葉宗家の執政である。
天正13(1585)年5月3日、千葉介邦胤が被官に殺害されると、千葉宗家内で重臣層の内紛が勃発する。これは小田原北条氏は邦胤没後、早々に邦胤の執政両名(原若狭守親幹、原豊前守胤長)へ使者を遣わし、小田原北条氏の
小田原北条氏の支援を期待する宗家後見の原豊前守胤長と、北条氏の支援に反発する宗家奏者・原若狭守親幹の両巨頭の対立であった。しかし、小田原北条家当主・北条氏直の親征や大殿・北条氏政の勧告などによって親幹はついに恭順して入道し姿を消す。
11月22日北条氏、佐倉城南に鹿島城の築城着工。
11月25日氏政、親幹(若狭入道殿)に宛て書状。
11月28日氏直、中山法華経寺に寺領安堵状。
12月3日鹿島城、普請成就。
12月10日氏直、小幡兵衛尉に佐倉普請の終了の書状
。12月12日鹿島城の普請、すべて終了。
12月15日鹿島に邦胤娘・邦胤妻(北条氏康娘)入城。
さらに、しかし、この事件は北条氏の干渉を強める結果となり、親幹は北条氏に対して「無二無三忠儀」を誓わされており、従属の度合いが強められている。北条氏は佐倉近隣の鹿島に城を築いて(99)、邦胤未亡人(北条氏康娘)と邦胤の娘を入城させた。これは邦胤亡き後、外戚の北条氏が宗家当主を立てずに佐倉領の仕置を直々に行うことの示唆で、実際に政務を担当したのは原大炊助邦房(親幹子)、原大蔵丞邦長(胤長子)であろう。そして、彼等も松田憲秀が「指南」となっており(100)、千葉宗家は北条氏からの指示を強く受ける立場へ変わっていったことがわかる。
なお、こうした千葉宗家の「物主断絶」の危機に胤栄の存在感はなく、臼井原氏はすでに千葉宗家から独立した存在であったのだろう。そして、天正十七(一五八九)年八月一日、北条直重(北条氏政子)が「我等儀、其方御かせきを以、御名跡ニ成就」(101)した暁には、重く用いること等を約束した人物も胤栄ではなく原邦房であった。
なお、直重が千葉宗家を継いだ時期は、八月二十四日付の北条氏政の書状に「佐倉名跡被相移以前之義(102)」とあるところから、八月一日から二十日頃までの間だろう。この千葉宗家の一大変革に際しても胤栄の関与は一切不明だが、この頃には病に臥せっていたのかもしれない。それから四か月後の十二月五日、胤栄は三十九歳の若さで亡くなった(3)。戒名は龍雲院殿弘岳大宗大居士。なお、天正十八(一五九〇)年、小弓城下の野田十文字原で徳川家の酒井家次勢と合戦して討死した俗説は誤りである。
胤栄亡き後、城に残されたのは僅か三歳の嫡男・吉丸であった。このため、臼井城はおそらく北条氏の指示を受けた原邦房が支えることとなる(103)。邦房も臼井原氏もともに松田憲秀が指南であり、臼井原氏の当主が幼少であった事や、直重が邦房へ約した内容として「御進退任御望、何分ニも引達可申候事」という一条があることから、後々邦房へ与えられる可能性があったのかもしれない。
原 平左衛門(????-????)
通称は平左衛門。諱は不明。邦房の子か? 越前福井藩主・松平忠直に仕え、大坂の陣に従軍した。
原 正房(????-????)
通称は平左衛門。平左衛門の子。
寛永元(1624)年より越前福井藩主・松平忠昌に仕え、父とともに大坂の陣に従軍した。
原 正武(????-????)
通称は平左衛門。島田清左衛門重季の三男で正房の養嗣子となった。
万治2(1659)年より越前福井藩主・松平光通に仕えた。正武は先祖が「千葉家由緒有之間」であったことから、光通の代参として千葉妙見社を参詣し、太刀一腰を奉納している。
原 富正(????-????)
通称は平左衛門。彦坂又兵衛重庸の子で武蔵国に生まれ、正武の養嗣子となった。
正徳2(1712)年より越前福井藩主・松平吉邦に仕えた。
●諸書に見える原氏●(『本土寺過去帳地名要覧』・『房総史料』本土寺過去帳)
年号 | 名前 | 場所など |
建武3(1336)年 | 原四郎 | 多古の土橋東禅寺で原四郎の母の四十九日の法要● |
応永20(1413)年 | 妙邇入道 | ハラ(原か) |
永享13(1441)年 | 妙長尼 | 原孫二郎女 |
嘉吉元(1441)年 | 原入道道盛結城陣で戦死 | |
嘉吉4(1444)年 | 原筑前守 | |
文安6(1449)年 | 妙実 | ハラ |
康正元(1455)年 | 原左衛門朗珍 | 弟・右京亮朗凱とともに戦死 |
原右京亮朗嶺 | 兄・原左衛門朗珍とともに戦死 | |
享徳5(1456)年 | 原胤房 | 弘法寺に寺領安堵状発給。享徳年号を使うのは反幕を表すか● |
康正3(1457)年 | 原小六珍清 | 14歳で没する |
長禄2(1458)年 | 原菊御蓮意 | 年号不明で「原彦次郎蓮意」が見える |
長禄3(1459)年 | 原大蔵 | 八幡(市川市八幡?)にて戦死。右馬助の兄。 |
寛正5(1464)年 | 妙経尼 | 原三郎左衛門の母 |
寛正7(1466)年 | 原豊前入道光胤 | 大ノ(市川市大野か)。吉川で戦死 |
妙日尼 | 寺中 原太郎女母 | |
文明2(1470)年 | 原左衛門二郎蓮教 | 大ノ(市川市大野か)。 |
原信濃入道朗意霊 | 武蔵国水ハツで逝去 | |
文明3(1471)年 | 原越前入道道喜 | 小弓城で戦死 |
原肥前入道行朝 | 『本土寺過去帳』には「文明十三辛卯」とあるが、「辛卯」は文明3年であり、誤記と思われる。 | |
文明4(1472)年 | 原五郎 | 桐谷。駿河殿の子● |
文明16(1484)年 | 少輔公 | 大ノで没。原右馬助の舎弟。 |
長享2(1488)年 | 原若狭 | タカノハラ |
長享3(1489)年 | 童心童子 | 原弥五郎の子息 |
明応3(1494)年 | 妙朗善位 | 原右京亮の弟 |
永正2(1505)年 | 法照尼 | 市川平殿の母。市川平殿とは平豊前伝照のことか |
永正3(1506)年 | 原蔵人丞朗寿 | 千葉亥鼻城で東六郎とともに討死 |
永正12(1515)年 | 原弾正忠朗瑞 | |
永正14(1517)年 | 原孫九郎朗久 | ヤトミ(印旛郡弥富か)で討死 |
永正18(1521)年 | 原蔵人丞玄意 | |
大永6(1526)年 | 平豊前伝照 | 原氏か?市川から本土寺に礼に来て死去 |
天文4(1535)年 | 弥富朗典 | 弥富城主で、小弓城で討死 |
天文5(1536)年 | 不二庵全覚 | 原宮内少輔胤隆のこと |
永禄13(1570)年 | 小西能登守日源 | 千葉寺の下で戦死 |
天正2(1574)年 | 妙慶 | 原弥二郎の母 |
天正12(1584)年 | 法行尼 | 原肥前守の妻 |
天正13(1585)年 | 朗暁 | ヤトミの原出雲守日悟の伯父 |
原越前守 | 臼井台の浄行寺(現在は廃寺)に日蓮像を奉納● | |
天正17(1589)年 | 原弘岳 | 臼井原殿=胤栄のことか |
天正18(1590)年 | 原孫十郎日景 | |
文禄2(1593)年 | 妙行尼 | 原豊前守の妻 |
以下は某年 | 妙行 | 原大夫太郎の父 |
原大夫太郎 | ||
蓮秀 | 原彦次郎の父 | |
原山城守日信 | ||
原光覚 | 原豊前入道光胤のことか | |
原遠江守善岳 | 原遠江守胤平のことか | |
原道珠禅門 | ||
原朗真 | 原左衛門尉景広のこと | |
道儀 | 原信濃守の父 | |
原能登守日陽 | 法名は光信 | |
理教尼 | 原信濃守の母 | |
道朝 | 原金吾の母方の祖父で龍崎殿 | |
妙本 | 原玉林の父 | |
原隼人日永 | ||
原肥前守行源入道 | 小西原氏 | |
妙意 | 原彦次郎の母 | |
経祐 | 原彦八の父 | |
花峰 | 原典厩(右馬助か)の父 | |
妙秀 | 原彦次郎の弟 | |
原右衛門佐永岳 | 桐谷。「岳」という字が法名にあることから本家の一流か | |
寿信 | 原孫太郎の母 |
●参考資料●
『千葉氏 室町・戦国編』 千野原靖方著 たけしま出版
『妙見信仰調査報告書(二)』 千葉市立郷土博物館
『房総叢書』:『妙見実録千集記』『千葉大系図』
『真説 北条五代』 学習研究社
『本土寺過去帳地名要覧』(上)・(下)
『戦国房総』
『沼南風土記』 沼南町史編さん委員会 著
『千葉県東葛飾郡誌』:『手賀原氏系図』『原氏略記』 千葉県東葛飾郡誌教育会
『手賀城しおり』 手賀公民館