小西原氏 原氏の一族

原氏

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~原氏歴代当主~

当主 原胤高 原胤親 原胤房 原胤隆 原胤清 原胤貞 原胤栄 原胤信
通称 四郎 孫次郎     孫次郎   十郎 主水助
官途   甲斐守
式部少輔
越後守
越後入道
宮内少輔 式部少輔 上総介 式部大輔  
法名 光岳院? 貞岳院? 勝岳院
勝覚
昇覚
不二庵
全岳院
善覚
超岳院 震岳院?
道岳?
弘岳大宗  

 

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■原氏の庶流■

小西原氏

◎小西原氏の想像系図◎

□□□―+―原胤継《1458・1471没》――+―原入道行源――原日陽《1541?》――原日源《1570》――原遊源
    |(肥前守、能登守、入道行朝)|(肥前守)  (能登守)              (肥前守)
    |  ∥           ?                            ∥
    | 妙上尼          +―原友胤――――原虎胤《1497-1564》          ? 
    |               (能登守)  (美濃守)                ∥
    |                                          法行尼《1584》
    |
    +―原道安《1450頃》…「小西殿舎弟」
     (大和守)

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―――:行源 小西原肥前守 成等正覚(『本土寺過去帳』)

1541?:日陽尊位 辛丑四月 原能登守法名光信(『本土寺過去帳』)

1584年:法行尼 天正十二甲申正月 原肥前殿ノ上 辺田ニテ(『本土寺過去帳』)

1588年:妙蓮尊位 臼井御谷ノ上 小西殿御老母 天正十六戊子九月(『本土寺過去帳』)

「臼井御谷」の奥方で、「小西殿」の老母ということであれば、天正年中の小西城主は臼井原氏の子か。さらに、「妙蓮尼 己巳十月 ナツカリ 日悟伯母」という記述の「妙蓮尼」「妙蓮尊位」が同一人物だとすれば、臼井原氏からは娘二人が、小西原氏弥富原氏に嫁いでいたことになる(下記系図)。 臼井原氏の原胤栄の母は「高城氏娘」といわれ、下記系図の妙蓮尼・蓮頂尼なども地名からして高城氏と関わりがあると思われ(名都借=高城氏の支配下)、妙蓮尼=妙蓮尊位であるとするならば、胤栄の弟が小西原氏の当主「小西殿」だったのかもしれない。

●妙蓮尼=妙蓮尊位だとした場合の系図●

      +―弥富原出雲守朗暁《1585》
      |
      +―□□□
         ∥
         ∥―――日悟上人《1551-1614》…本土寺15世住持
         ∥
高城氏か?―+―蓮頂尼《1591没:本土寺》
      |
      +―妙蓮尼《1569没:ナツカリ
      |(妙蓮尊位…臼井御谷ノ上・小西殿御老母)
      |  ∥――――――――――――――――――――+―原胤栄(母は高城氏とされる)
      | 臼井原胤貞?《????》            |
      |                       +―「小西殿」
      +―遠浦印公《1581没:名都借広受寺
                  ⇒現在の千葉県流山市名都借

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原 胤継(????-????)

 原壱岐守胤武の子。小西原氏の祖。官途は左馬頭肥前守能登守。法名は行朝上総国山辺郡小西郷(山武郡大網白里町小西)に所領を持ち、子孫は原氏の一族として活躍した。

 長禄2(1458)年、平賀本土寺(松戸市平賀)の妙高院日意上人妙高山正法寺(大網白里町)の開山として招いた。同じく長禄2(1458)年正月20日、禅寺を廃寺として、やはり妙高院日意上人を開山に迎えて日蓮宗寺院、高應山実相寺(茂原市高師)を建立した。同寺に残る日意上人供養塔には「…当院開基大檀那原左馬頭平朝臣胤継法号行朝大居士…」とある(『原氏と平賀本土寺日意その二』:松浦善亮氏)

 『本土寺過去帳』によれば「原大和守」という人物が見え、「小西殿舎弟」との記載がある。また、妻の「妙上尼」金谷山妙上寺(山武郡森字殿内)の開基となり、夫と同じく日意上人を開山とした。

 永正14(1517)年10月14日の武田如鑑足利義明の小弓城攻撃には、惣領家の原胤隆とともに小弓城に籠り、総大将として義明軍を迎え撃つが敗れて逐電。根木内城(松戸市根木内)の高城氏を頼ったという。

 胤継の子とも言われる「原能登守友胤」はこのとき甲斐に逃れ、太守の武田信昌に仕えた。彼の子は武田信虎の武将となり、偏諱を受けて「原美濃守虎胤」を称し、武田信玄の代には侍大将として活躍。武勇に優れ「鬼美濃」と呼ばれた。

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原 友胤(????-????)

 胤継の子? 官途名は能登守

 「原能登守友胤」(『北條記』:「続群書類従」二十一輯上)は「小弓ノ御所合戦ノ比総州ヨリ牢人シテ甲州ヘ行、信虎ニ奉公シテ度々高名シテ討死」(『北條記』:「続群書類従」二十一輯上)したという。永正14(1517)年10月の小弓落城時に下総を逃れて、甲斐の武田家を頼ったのだろう。

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原 虎胤(1497-1564)

 原能登守友胤の子。官途名は美濃守。武田信玄配下の「甲陽の五名臣」として、横田備中守高松多田摂津守満頼小幡山城守虎盛山本勘助晴幸とならび称された名将。

 永正14(1517)年10月の小弓落城の時、父の原能登守友胤とともに、甲斐に逃れて武田氏に仕え、信虎から偏諱を受けて「虎胤」を称した。『甲斐国志』によると、友胤は武田家足軽大将の身分で召し抱えられ、虎胤もその麾下として活躍したと思われる。

 虎胤は父の跡を継いで足軽大将となり、天文10(1541)年、武田晴信(のちの信玄)が家督を継ぐとその麾下として活躍。三十八回の大きな戦いに参戦し、全身五十カ所にも及ぶ傷を受けた豪傑として近隣に名を轟かせた。また、官途名の美濃守から「鬼美濃」と呼ばれた。一方で、彼は猛将であるだけでなく、情にもあつい武将として知られ、合戦場で傷つき倒れていた敵将を見つけると、自ら肩をかして敵陣まで送り届け、再び戦場でお目にかかろうといった話も伝わる。

 天文20(1551)年10月、信州の名将、村上義清(葛尾城主)・小笠原長時(深志城主)との前哨戦として、彼らの重要拠点であった小笠原長時の一族、平瀬八左衛門の居城・平瀬城を攻め落とし、平瀬城代に任じられた。深志城・平瀬城は信州の中心にある城であり、信玄の信州覇権の足場を固めた。

 しかし、天文22(1553)年、甲斐国内で日蓮宗と浄土宗の宗教論争があったとき、虎胤は下総国以来の家の宗旨であった日蓮宗側についた。実は、信玄は「甲州法度之次第」で国内において法論を行うことを禁じていた。禁を破ったものは罪科に問うと明記していたにも関わらず、虎胤が法論に加わったことに信玄は激怒。たちまち平瀬城代職を解かれて追放された。

 虎胤は追放されると甲斐を離れて北条氏康のもとに身を寄せた。氏康はじめ、北条氏の家中は虎胤の勇名を聞き及んでいたため、この訪問を心から喜んで「古の渡邊綱に勝れり」と彼を丁重に扱った。その後、天文23(1554)年2月、武田信玄の娘(黄梅院)北条氏政の婚儀が調った際に虎胤は信玄からの許しを得たと思われ、氏康もまた虎胤を甲斐へ送り届けた。

 甲斐に帰った虎胤はその後、再び信州攻略の陣頭に立って活躍したが、割ヶ岳城を攻めている際に負傷し、上杉家との信濃国川中島の戦いでは信玄から養生を命じられて出陣せず、甲斐国に留まっていたが、永禄7(1564)年に六十四歳で病死した。

 虎胤が病死した翌年の永禄8(1565)年、信玄は子飼いの将・教来石民部少輔景政に対して、虎胤の武勇にあやかるためにと「美濃守」を称することを許し、断絶していた馬場家を継がせた上、偏諱を与えて「馬場美濃守信春」を称させた。信春は信玄家中で原虎胤に並ぶ名将・小幡虎盛から軍略を学び、信玄の在世中は深志城代をつとめ、信玄亡きあとは跡を継いだ武田勝頼・信勝を内外にわたって支え、武田家の支柱となる。しかし、織田信長・徳川家康連合軍との「長篠の戦い」で武田家が敗れたとき、勝頼を逃がすために奮戦。勝頼が戦場を離れたことを確認すると、単騎で織田勢の中に突撃して、射殺された。信長も彼の壮絶な戦いを賞賛し、織田方の書物にも「其の働比類無し」と記されている。

 虎胤の長男・十郎兵衛綱松(康景)は武田家重臣の横田高松家に入嗣し、子孫は九千五百石の大身旗本として幕末を迎える。

 虎胤の次男・甚四郎昌胤(盛胤ともされるが、永禄十年起請文では昌胤)は長篠の戦いで討死を遂げるが、その子孫は土佐藩に仕えた(『原家系図』(「御侍中先祖系図帖」高知県立図書館蔵))

 虎胤の四男・市左衛門重胤の子孫も旗本として続いた。また、虎胤猶子・原薩摩守昌雅の養子・原与右衛門昌聡は、小倉藩の『諸士由緒』によれば、小笠原貞慶に召し出されて千三百石中老職となっている。

●参考資料●

『千葉氏 室町・戦国編』  千野原靖方著  たけしま出版
『妙見信仰調査報告書(二)』 千葉市立郷土博物館 
『房総叢書』:『妙見実録千集記』『千葉大系図』
『真説 北条五代』 学習研究社
『本土寺過去帳地名要覧』(上)・(下)
『戦国房総』
『沼南風土記』 沼南町史編さん委員会 著
『千葉県東葛飾郡誌』:『手賀原氏系図』『原氏略記』 千葉県東葛飾郡誌教育会
『手賀城しおり』 手賀公民館


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