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トップページ | 目次 | 奥州千葉氏の流派 | 奥州千葉氏出自 | 奥州葛西氏 |
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奥州千葉氏系図一 | 奥州千葉氏系図二 | 奥州千葉氏系図三 | 奥州千葉氏家紋 |
清水
奥州千葉一族。本吉胤信の四代目・清秀が延慶元(1308)年正月、本吉郡大谷郷から陸奥国磐井郡流郷清水村に移り住み、二桜城を築いて、「清水」を称した。
―清水氏歴代―
本吉胤信 | 本吉胤道(四郎)の嫡男。官途は刑部少輔。本吉郡大谷城主。 安貞元(1227)年7月、2,700貫文を知行したという。 |
葛西重光 (????-1242) | 本吉胤信(刑部少輔)の嫡子。官途は宮内少輔。母は多賀光長(左衛門尉)の娘。 仁治3(1242)年6月3日没(『葛西氏清水別系図』) |
葛西安胤 (????-1281) | 葛西重光(宮内少輔)の嫡子。官途は蔵人太夫。 弘安4(1281)年10月15日没(『葛西氏清水別系図』) |
清水清秀 (????-1317) | 清水氏初代。前名は葛西清秀。官途は玄蕃頭・和泉守。父は葛西蔵人大夫安胤とも。 延慶元(1308)年正月、奥州高倉庄流郷の清水館に住み、二桜城主として1,800貫文を領した。 文保元(1317)年10月5日卒。太平了月居士。(『清水高藤別系図』) 延慶2(1309)年没(『清水葛西系図』) |
清水重宗 | 清水氏2代。清水清秀(和泉守)の嫡子。官途は播磨守・式部大夫。 |
―清水氏略系図(1)―(『葛西氏清水別系図』)
→本吉胤道―胤信―――+―葛西重光――安胤――――清水清秀―+―清長
(四郎) (刑部少輔)|(宮内少輔)(蔵人太夫)(玄蕃頭) |(彈正少弼)
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+―娘 +―重成
|(佐藤彈正妻) |(宮内少輔)
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+―娘 +―娘
(伊刺三郎妻) |(朝日ノ前)
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+―菊ノ前
(伊刺和泉守妻)
―清水氏略系図(2)―(『清水高藤別系図』)
→葛西重光?―+―重春―――+―重勝――――忠清――+―忠光―――――+―清秀――――+―重宗
|(左衛門尉)|(左京大夫)(和泉守)|(大和守) |(和泉守) |(式部太夫)
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+―重永 +―永勝 +―娘 +―娘 +―定清
|(住百岡館) (掃部助) (古館民部妻) |(長部蔵人妻)|(彈正)
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+―娘 +―姉体清長 +―娘
|(長坂彈正妻) (姉体家養子)|(佐藤宮内妻)
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+―娘 +―娘
(佐藤隼人妻) (柴館隼人)
葛西一族。「壱岐守」「伯耆守」といった葛西家惣領の官途名を称していることから、葛西氏の中では惣領家に次ぐ家格の高さを持っていたか。
代々、登米郡善王寺城主をつとめ、16世紀初めの惣領・葛西宗清(武蔵守)と首藤山内氏の戦いには、末永宗春(能登守)・清継(五郎三郎)父子は首藤山内氏に加担して、惣領・宗清に対抗した。結局、宗春・清継は敗れて降伏。清継は葛西晴信に仕えて、天正18(1590)年の秀吉による奥州御仕置で、蒲生氏郷軍に敗れたと思われ、翌天正19(1591)年、本吉郡最智村にて殺害された。子孫は仙台藩士となる。
文化14(1817)年、貞松山源光寺へ参詣した「旧一家」として「薄衣清左衛門」「針岡義左衛門」「末永剛左衛門」が見える。
―末永氏略系図―
→葛西清重―+―清親―――清経―――宗清
(隠岐守) |(伯耆守)(伯耆守)(三郎左衛門尉)
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+―朝清―?―清宗―――清貞―――+―良清―――満良
|(伊豆守)(伊豆守)(伊豆三郎)|(備前守)(陸奥守)
| |
| +―娘
| ∥
| 江刺重頼――高嗣―――重治――重光―…―隆見
| (右京亮) (美濃守) (美濃守)
| ∥
| 大原信広―娘
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+―時重――――――重泰――末永清泰――――宗重――――――頼清―――清恒―――清文―――清香――+
(七郎左衛門尉) (三郎左衛門尉)(三郎左衛門尉)(美濃守)(安芸守)(壱岐守)(美濃守)|
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+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
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+―清正―――清春――――――宗春――――――清晴―――宗春―――清継――――定重――定親――――+
(安芸守)(八郎左衛門尉)(八郎左衛門尉)(伯耆守)(能登守)(五郎三郎)(美濃)(筑後) |
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+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
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+―矢内定利
(洞裏如水)
【参考文献:『岩手県史』『解読葛西家文書』】
奥州千葉一族。おそらく鎌倉時代に移り住んだ下総千葉氏の一族で、伝承では千葉介胤正や千葉介頼胤などの子孫とされている事から、比較的宗家に近い一族が移り住んだか? 現在でも岩手県、宮城県などに千葉姓の家が多い。
千葉氏は奥州藤原氏との戦いに勝利し、奥州に数多くの地頭職を賜った。常胤は、自分の六人の息子に多くを分与しているが、そのなかでも嫡男・胤正が継承した所領も多くあったと考えられる。千葉氏は所領に一族の代官を派遣している例が見られることから、奥州の所領にも一族の代官(地頭代)を派遣して治めていたのだろう。奥州千葉氏はこの代官(地頭代)の子孫の可能性が高いだろう。
千葉氏と同じく葛西氏も鎌倉中の御家人であることから、奥州には一族の代官(寺崎氏や亀掛川氏、岩淵氏など)を派遣していたと思われるが、建治3(1277)年、「伯耆新左衛門入道経蓮(葛西三郎左衛門尉清経)」が平泉白山社の神官や神人を動員して狩猟をおこなったことに幕府から禁令が出されている事から、彼が香取神社殿正神殿の遷宮を担当(「葛西新左衛門入道経蓮」)した文永2(1264)年4月以降、建治3(1277)年までの間に、葛西清経入道は奥州へ移住していることがわかる。なぜ葛西清経が奥州へ移ったかは不明だが、文永3(1266)年7月、将軍・宗尊親王が廃されて京都へ送り返された事件があり、さらに文永9(1272)年2月には、名越北条時章が鎌倉で殺され、六波羅南方・北条時輔が北方・北条義宗に討たれる事件があり、清経は一連の騒動に何らかの形で関係し、奥州へ下っていったか?
奥州千葉氏の子孫の中には葛西氏に仕えて、その重臣となった一族もあり、江戸時代には仙台藩士になった家、帰農した家々などがある。現在でも東北地方には千葉家が非常に多い。これは鎌倉時代に土着して以来の歴史の古さを物語るものであろう。
■仙台藩士千葉氏(『仙台藩家臣録』)
・千葉十右衛門家 | 平士。150石。十右衛門が伊達政宗に徒行士として召し抱えられ、江刺郡の代官となった。 |
・千葉勘右衛門家 | 平士。11石。十右衛門家の分家。勘右衛門は伊達政宗に不断組として召し抱えられ、黒川郡三関村を知行。 |
・千葉次郎右衛門家 | 平士。千葉十右衛門家の分家。 |
・千葉善七家 | 平士。145石。善七は伊達政宗に徒小姓として召し出され、宮城郡新田村を知行。 |
●千葉十右衛門・勘右衛門・次郎右衛門家
⇒千葉十郎右衛門―+―弥左衛門――胤秀==胤真――――――――胤蕃―+―胤親
| ・勘定頭 (柳生権右衛門三男) |
| ・金奉行 +―胤仗――胤徳――胤溢
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+―勘右衛門――正左衛門―――…
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+―次郎右衛門―――…
●千葉善七家
⇒千葉尚久―重久―定久―良陳=良光======良春――――――良安=良道――――――定良
(善七) (門間重定二男)(千葉行成二男) (天童偏頼三男)
奥州千葉一族。下総国印旛郡葛西庄寺崎が発祥地と伝わるが、印旛郡内に葛西庄はなく、印旛郡寺崎郷(佐倉市寺崎)と考えられるが、実際は陸奥国磐井郡寺崎邑(一関市東山町松川字寺崎)を名字地とした一族であろう。
伝承では葛西氏の一族で、奥州に下ったのち桃生郡に沢山城を築いて住んだとされる。子孫は代々葛西氏の重臣となり、応仁の動乱期には寺崎下野守が家老として活躍したという。
永正4(1507)年9月、金沢冬胤が反乱を起こしたときには、寺崎時胤(下野守)が千葉秀胤(日形城主)らとともに金沢を攻めたが討死してしまう。このとき、宗家にあたる千葉秀胤も41歳の若さで戦死。峠城は空き城となってしまった。一方、寺崎家は時胤が戦死したため、五郎三郎(重清・時継)が跡を継ぎ、峠城に入ったという。
永正7(1521)年、五郎三郎は金沢城に金沢冬胤を討ち取って仇を討ったものの、同年、葛西重信が攻めよせたために討死を遂げた。「五郎三郎」という仮名など、下の系譜をみると時継・重清とはおそらく同一人物だろう。五郎三郎には嫡男がおらず、宿敵・金沢氏から吉次(石見守)が養子に入った。おそらく太守・重信の命による養子縁組だったのだろう。このあと、天文13(1544)年8月に金沢胤正が反乱を起こし、葛西高信に討伐されているが、このとき金沢氏出身の寺崎吉次は高信に従ったと思われ、金沢家の滅亡と同時に寺崎家が金沢氏旧領を与えられて流郷二十四ヶ村の旗頭となった。天正10(1582)年、吉次が戦死すると、嫡子・正次(刑部)が峠城主となる。
しかし、天正18(1590)年の秀吉による奥州仕置において葛西家は所領を没収されて滅亡。その時に流郷の総大将として、寺崎信継(刑部大輔)が出陣して戦死したと伝える。信継にしたがった流郷の豪族として、千葉大学胤弘(日形城主)、千葉越前守道胤(下油田城主のち、石越西門館主)が見える。ただし、葛西家が豊臣軍に反抗したというはっきりした記録は残っておらず、葛西一騎と混同されているのかもしれない。
峠城主・寺崎家には大きく「葛西氏流」と「千葉氏流」の2つの流れを持つ系図が存在する。(下図↓)
●千葉氏流寺崎系図●
→千葉胤資―胤時―――寺崎胤継―五郎三郎――時胤―――時継====吉継――――――正継――信継――木村貞継
(越中守)(下総守)(刑部) (下野守)(五郎三郎)(石見守) (刑部)(刑部)
●葛西氏流寺崎系図●
→寺崎清氏―清基―――清連―――常清――――倫重―――重清====吉次======正次――――――貞次
(伊勢守)(兵庫) (宮内亮)(刑部大輔)(下野守)(五郎三郎)(石見守・良次)(刑部)
こうしてみると、二つの系図ではだいたい同じ世代に「官途名」「通称」をとなえていることが分かる。つまり、この二つの系図には何らかの関連があると考えてよさそうである。少なくとも、「千葉系図」の時胤以下は同一人物の事を言っているとみてよさそうである。
また、胤継は胤時の末子と伝わり、兄の胤永が早世したために、その子・7歳の胤久を差し置いて胤継が家督を継いで峠城主になったと伝わる。胤永は応永20(1413)年生まれ。しかし、その弟という胤継は応永11(1404)年生まれであり、矛盾がある。また、父の胤時は明徳元(1390)年生まれであり、胤継と胤時の年齢の差は14年。兄弟と考えた方がよさそうである。胤時の嫡男・胤永は父に先立って永享10(1438)年7月4日に26歳で亡くなっている。また、その弟・定時は系図によれば文安3(1446)年43歳で没したとある。しかし、43歳で没したとすれば胤永よりも9歳も年上となってしまう。43歳を34歳と書き間違えたか。そう考えれば、胤永と年子となる。
勝手に推測すると、胤永が亡くなって、その子・胤久はまだ7歳であったためか、父の胤時は寺崎城主・寺崎清連の子・常清を養子として迎えたのではあるまいか。常清は胤継と改名して、峠城主となった。しかし胤永には同母弟・定時がありながら、なぜ胤時はわざわざ養子を迎えたのか。胤時は胤永が死んだ翌年の永享11(1439)年、定時を下油田城主として独立させている。つまりわざわざ我が子・定時を峠城からはなして、他家から養子を取っている事になる。寺崎氏との関係を優先させる出来事があったのかもしれない。
葛西氏流系図にある「重清(五郎三郎)」は永禄中の人物で、岩淵甲斐守重良の娘を娶った。生没年がはっきりしないが、48歳で出家して「竜西」と称したようである。重清には子供がなく、金沢城主の金沢下総守良通の三男・良次を養子として迎えた。重清の側室(?)が金沢通次の娘で良次の伯母にあたるところから養嗣子として迎えたものか。天正19(1591)年の奥州仕置きのときに秀吉に反抗した寺崎信次は良次の子で、同じく出陣した金沢伊予守信胤は良次の実兄である。彼らは戦いに敗れ、8月14日、桃生郡深谷糟塚において自刃して果てている。時に41歳と伝わる。
―寺崎家略系図(1)―
→寺崎清村―清義――清治―清次―盛清―+
(次郎左) |
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+―――――――――――――――――+
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+―清氏―――清基――+―重高――+―新館貞重――…
(伊勢守)(兵庫頭)|(武蔵守)|(右京大夫)
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| +―政時――…
| |(中務丞・佐沼城主)
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| +―宮崎貞治――…
| |(玄蕃亮)
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| +―重光―――通次―――良通―――良次――…
| (左馬助)(右馬助)(下総守)(十三郎・寺崎重清養子)
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+―清運――+―常清――――倫重――+―重清――――義次―――信次
(宮内亮)|(刑部大輔)(下野守)|(次郎三郎)(石見守)(刑部大輔)
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| +―娘 +―頼宥
| (寺崎信泰母) |(山繞坊)
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+―明清――――清泰――+―信泰―――信覚――――+―頼覚――――――+―寺崎致信
(左近将監)(阿波守)|(宮内亮)(五郎三郎) |(毛越寺山繞坊) |(左近)
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+―大槻泰常―→大槻氏 +―覚翁 +―玄翁
(但馬守) | |(隆蔵寺)
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+―細谷重信 +―信定
|(七郎右衛門) |(七郎右衛門)
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+―娘 +―娘
(千葉七郎貞末妻) (菅原頼雅妻)
奥州千葉一族。岩淵氏の支族で、大原氏の家臣として活躍した。居城は寺沢中舘。
詳細は不明。始祖・寺沢忠光(左近将監)は岩淵忠長(刑部丞)の弟で、建武4(1337)年、寺沢に所領を与えられて独立し、大原氏の旗下になる。天正18(1590)年、寺沢胤長(宮内少輔)は秀吉の遠征軍に敗れて没落、帰農した。
薄衣一族。磐井郡東山郷日形峠(岩手県一関市花泉町日形)の城主。
金沢清胤(平五郎)の孫・胤時(下野守)が日形峠に移り住んで峠千葉氏の祖となる。彼の嫡男・胤永(左近)は平九郎と称し、母は葛西家の一族・臼井常次(石見守)の娘。太守・葛西持信(伯耆守)の側近として仕え、采地として磐井郡のうちに百余町を賜り、磐井郡の有力旗頭のひとりと嘱望されていたが、父に先立つ永享10(1438)年7月4日、26歳の若さで亡くなってしまった。法名は教念。そのため、峠千葉氏の家督は胤永の幼い嫡男・胤久(左馬助)と、胤永の弟・寺崎胤継(刑部)が継承することとなったが、勢力は二分されることとなった。
胤永が亡くなった翌年の永享11(1439)年、胤永の弟・定時(右馬助)が磐井郡下油田邑蒲沢館(一関市花泉町下油田)へ移り住んで独立した。
―峠千葉氏略系図(1)―
→葛西清見―薄衣清純―+―薄衣清村――…【薄衣家】 +―胤永――胤久―――秀胤―――胤吉――+―胤明―――+
(兵庫助)(上総介) |(内匠頭) |(左近)(左馬助)(左馬助)(但馬守)|(左馬助) |
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+―門崎胤村――…【門崎家】 +―娘 +―佐野吉明 |
|(豊後守) |(富沢景重妻) (雅楽助) |
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+―金沢清胤―+―基胤――…【金沢家】 +―娘 |
|(平五郎) |(刑部) |(小野朝広妻) +―――――――――――――――――+
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| +―娘 +―定時 +―胤弘―――+―胤経
| |(岩淵経直妻) |(右馬助) |(大学頭) |(伊賀)
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| +―浜田胤助 +―峠胤時――+ +―胤員 +―胤頼
| |(兵庫助) |(下野守) | (彦七郎) |(土佐)
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| +―胤資――――+―安倍秀胤 +―寺崎胤継――…【寺崎家】 +―娘
| |(越中守) (四郎左衛門)(刑部) |(鈴木忠長妻)
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| +―娘 +―胤昌
| (千葉常次妻) |(伊勢)
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+―松川正村―+―正胤――――+―胤栄―――胤基―――胤滋===滋吉 +―胤定―+―胤広
(隼人正) |(右衛門) |(隼人正)(小次郎)(筑後守)(五郎右衛門) (加賀)|(正三郎)
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+―娘 +―娘 +―胤滋
(金沢業胤妻)|(千葉胤好妻) (太郎右衛門)
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+―娘
(小野朝弘妻)
奥州千葉一族。薄衣千葉氏の庶流。薄衣清房(内匠頭)には子がなかったため、葛西満信の三男・西舘重信(和泉守)の子の清隆(七郎)が薄衣家の養嗣子となり、薄衣清胤(内匠頭)を称する。清胤の嫡男・清貞(上総介)の子孫は陸奥国磐井郡薄衣邑を領し、薄衣家の宗家となっている。
清胤の二男・信胤(五郎)は太守・葛西家の命により、一族の松川城主・松川滋吉(五郎右衛門)の養子となって松川信胤(右馬助)を称した。母は岩淵信秀(周防守)の娘。滋吉には実子・松川胤広(太郎三郎)があり、松川家の所領は胤広と信胤の二人に分けられたと思われる。信胤は大原信広(飛騨守)の娘を娶り、大永3(1523)年、63歳で亡くなった。
松川信胤の二男・胤持(弾正忠)は通称を忠四郎といい、永正12(1515)年3月、太守・葛西重信から所領百貫を給せられ、磐井郡東山松川郷鳥畑村に館を構えたことから松川を称する。母は大原信広(飛騨守)の娘。旗紋は赤地に七星下黒、幕紋は水色丸之内に折柏。弓馬に優れ、天文年中の葛西氏・大崎氏らの合戦時に兵を率いて、度々活躍した。天文22(1553)年、71歳で亡くなった。妻は西磐井郡鬼死骸城主・千葉胤長(八郎左衛門尉)の娘。
胤持の跡は、嫡男・胤堅(越中守)が継いだ。永禄4(1561)年11月、胤堅と宗家・薄衣清正(上総介)が合戦している。永禄10(1567)年、64歳で亡くなった。
二男・持定(左近丞)は、通称は弥四郎。母は千葉胤長の娘。天文16(1547)年2月16日、磐井郡東山において、長坂城主・長坂頼胤(備中守)と合戦して、26歳の若さで戦没した。三男・中里持行(雅楽介)は元亀2(1571)年、45歳で亡くなった。
胤堅の跡を継いだ四男・堅長(伊予守)は初名を弥九郎といい、天正13(1585)年9月、磐井郡東山において、薄衣清度(因幡守)と合戦した。この戦いに堅長は敗れ、縁戚の大原氏のもとへ亡命していった。
―鳥畑家略系図―
→薄衣清房==清胤 +―清貞――――――清正――――――清度
(内匠頭) (内匠頭)|(上総介) (上総介) (因幡守)
∥ |
∥―――+―松川信胤――+―胤光――――+―胤教
∥ |(右馬助) |(右馬助) |(右兵衛尉)
岩淵信秀――娘 | | |
(周防守) +―富沢重氏 +―信政 +―奥玉輝胤
|(右衛門佐) |(備後守) |(大膳大夫)
| | |
+―娘 +―娘 +―相川胤朝
|(葛西信兼妻)|(米倉広隆妻) (左衛門尉)
| |
+―娘 +―鳥畑胤持 +―胤堅―――――+―堅治
(狩野時光妻) (弾正忠) |(越中守) |(越中守)
∥ | |
∥――――+―娘 +―娘
∥ |(寺沢頼久妻) |(仏坂胤次妻)
千葉胤長―――――娘 | |
(八郎左衛門尉) +―持定 +―娘
|(左近丞) |(相川直房妻)
| |
+―娘 +―堅俊
|(男沢信家妻) |(平左衛門尉)
| |
+―中里持行 +―堅連
(雅楽介) |(新左衛門尉)
|
+―堅長―――――…→鳥畑家
(左衛門尉)
奥州千葉一族。薄衣千葉氏の一族と伝わる。初代の輝長は系図によれば米倉城主・薄衣氏から17貫文を分与されて「中峯」を称し、文禄3(1594)年3月11日に卒した。その嫡男・胤吉は父に先立って早世し、弟の胤康(隼人)が跡を継いで薄衣輝胤(甲斐守)に仕え、70貫文を拝領したと伝わる。その子・胤行(隼人)は天正18年8月の秀吉の奥州征伐に対して薄衣貞胤(甲斐守)らとともに2700騎を率いて桃生郡深谷において合戦におよんだ。しかし敗れて逃亡し、農村にかくれて代々治兵衛を称し、肝入役となる。系図によれば、胤行の妹たちは長坂千葉氏の室、薄衣甲斐守貞胤の室となった。
中峯千葉家初代の輝長は、薄衣輝胤(甲斐守)の弟、もしくは近親というべき位置にあったのかもしれない。薄衣輝胤の祖父は松川五郎信胤(和泉守)といい、中峯輝長(和泉守)の官途名と一致する。さらに信胤の子・胤長(左馬助)とその子・輝胤(甲斐守)の諱にある一字ずつを組み合わせた形でその名前としている。かりに輝長の父が胤長で、兄が輝胤だとすれば、家督を継いだ輝胤の一字をもらったとも見れる。ただ、系図というのはあてにならないものが多いので信憑性はイマイチである。しかし、薄衣家と中峯家が系図の中とはいえ縁組みを重ねている点から見れば、よほど重要視された一族だったのだろう。
●薄衣氏流中峯千葉系図●
→(1)千葉輝長(和泉守)-胤吉(内記)
→(2)千葉輝長(和泉守)-胤康(隼人)-胤行(隼人・治兵衛)-胤高(治兵衛・早世)-胤安(千葉助左衛門・肝入役)…
奥州千葉一族。長坂氏は千葉介常胤の七男・頼胤を祖とすると伝えている。また、頼胤は千葉介常胤の別名で、頼朝からの偏諱を受けた常胤が頼胤を称したともいう。頼胤は「千葉左衛門尉」を称し、「従四位下少将」に叙せられたという。しかし常胤が奥州に下った事実は認められないし、改名した事実もなく、従四位下少将ほどの人物が吾妻鏡に記されないはずもないため、これに信憑性はない。
伝承によれば、頼胤は治承4(1185)年から頼朝に仕え、文治5(1190)年閏4月28日、奥州合戦で葛西清重とともに軍功があった。戦後、葛西清重が奥州総奉行に任じられると頼胤・良胤父子は清重の麾下に入り、磐井郡東山郷長坂村を領して長坂千葉を称したと伝わる。頼胤の亡くなった年は建久2(1191)年10月11日だという。常胤は建仁元(1201)年3月24日、84歳で没しており、時代的に10年の開きがある。また、常胤の七男は園城寺律師日胤であり、六男・胤頼(東六郎大夫)と混同しているのかもしれない。また、長坂清胤は千葉介胤正の後裔と伝えている。頼胤の法名は蓮清院前羽林字正山公大居士。
頼胤の長男・良胤は岩井郡東山長坂村を領し、父の名跡を継いで長坂を称した。所領は長坂五千貫。建久2(1191)年1月20日、胆沢百岡城から長坂の唐梅城に移住したという。建長3(1251)年10月7日に卒した。法名は太平了久大居士。
良胤は葛西清重とともに文治5(1190)年の奥州の役に参加しているから、建長3(1251)年に亡くなった年まで62年の開きがある。常胤が没したのが建仁元(1201)年であり、良胤の没した建長3(1251)年とは50年の開きがある。たとえば、常胤の長男・胤正の生まれた保延3(1137)年と、頼胤の長男・良胤の没年、建長3(1251)年を比べてみると110年以上の開きがある。胤正の弟で没年がはっきりしている一番下の人物は、大須賀胤信であり、建保3(1215)年に没している。こう考えると、常胤=頼胤というのは考えにくいのではなかろうか。頼胤の出自というのが奥州千葉氏の系図を見る上で最大の問題なのかもしれない。良胤の弟・胤広(二郎)は百岡城に残って百岡二郎を称し、三千七百貫を葛西氏より与えられている。
千葉頼胤 (????-1191) | 詳細不明。一説には千葉介常胤の改名とも、千葉介胤正の改名ともされる。 従四位下少将となったとされるが、それを証する記述がなく不明。 千葉介常胤とは没年がちょうど10年違い。 建久2(1191)年10月11日没。法名は蓮清院前羽林字正山公大居士 |
長坂良胤 (????-1250) | 長坂氏初代。千葉七郎頼胤の子と伝わる。磐井郡東山長坂邑主。所領は5千貫。 建久2(1191)年1月10日、東山唐梅城に住むと伝わる。この前々年に奥州の乱が平定され、一族でもある葛西清重のもとに下向してきた千葉氏。父の頼胤は百岡邑に住んでいたらしい。 具足・三条小鍛冶宗近の太刀・宝剣・平家の宣旨11通を頼胤から譲り受け、頼朝から賜ったという拝領太刀と下文が家宝とされた。 建長3(1251)年10月7日卒。太平了久大居士 |
長坂胤長 (????-1256) | 長坂氏2代。父は長坂太郎良胤。通称は弾正少弼。 |
長坂重勝 (????-1301) | 長坂氏3代。蔵人太夫。 |
長坂重隆 (????-????) | 長坂氏4代。早世。 |
長坂胤秀 (????-1317) | 長坂氏5代。民部大輔。母は本吉千葉胤氏の娘。文保元(1317)年3月5日に討死。 |
長坂顕長 (????-????) | 長坂氏6代。左京大夫。 |
長坂道長 (????-????) | 長坂氏7代。早世。 |
長坂顕胤 (????-1336) | 長坂氏8代。治部少輔。母は大友民部の娘。延元2(1336)年5月22日討死。南北朝の動乱で戦死か。 |
長坂貞胤 (????-1417) | 長坂氏9代。従五位下左近将監。応永24(1417)年6月8日没した。 |
長坂義胤 | 長坂氏10代。 |
長坂貞胤 | 長坂氏11代。 |
長坂貞春 | 長坂氏12代。 |
長坂胤茂 | 長坂氏13代。通称は兵部大輔。
妻は伊刺高胤の娘。 文明2(1470)年10月8日、葛西朝信の命をうけて上洛し、将軍・足利義政に拝謁している。その後、大館時光が将軍家よりの返答使として奥州に下向した。葛西朝信はこの胤茂の功績に対して長部・母躰郷を与えている。 |
長坂勝胤 | 長坂氏14代。 |
長坂永胤 | 長坂氏15代。 |
長坂近胤 | 長坂氏16代。 |
長坂胤秋 | 長坂氏17代。 |
長坂胤盛 | 長坂氏18代。 |
長坂広胤 (1511-????) | 長坂氏19代。通称は刑部大輔。 元亀2(1571)年正月5日、長坂氏の系譜『長坂千葉系譜』を編纂する。 |
長坂重胤 | 長坂氏20代。 |
長坂信胤 | 長坂氏21代。通称は備中守。慶長年中に中瀬川で没する。 |
長坂胤方 (????-1636) | 長坂氏22代。次郎兵衛、刑部大輔。柏山伊勢守に仕えて300貫文を領した。寛永13(1636)年に没した。 (1)百岡土佐守広胤(????-1683)…弟。天和3(1683)年8月20日没。子に長坂永久清胤がおり、遺書と称するものが残る。 (2)長坂孫七郎胤重(????-????)…弟。慶長5(1600)年、土着。 |
奥州千葉一族。
奥州千葉一族。葛西氏の一門と伝わる。もともとは牡鹿郡の住人だったが、葛西宗家から気仙郡日頃市松館主として移された。こうして新沼氏はここを本家として、猪川筑館(藤原姓)・赤崎館主・綾里平館主・吉浜城主など、一族は繁栄した。しかし、系譜では大永6(1526)年に89歳で没した新沼綱清(安芸守)より前は伝わっておらず、彼より前の代は不明。なお、綱清の項には「千葉介常胤十八世の孫」と記され、家紋は葛西家と同じく「三つ葉柏」。
綱清の次男・綱定(内膳正)は近隣の越喜来氏の館に招かれ、その帰途に同氏によって暗殺された。その甥・重宗(淡路守)が家督をつぐが、兄・綱広(平四郎)は唐丹村荒川に移住して荒川氏を起こし、その子・弥八郎は帰農して江戸時代には肝入をつとめる家柄となる。重宗の子・重明(右馬允)と子・綱元(越後守)は、秀吉による奥州御仕置によって葛西氏が滅ぶと浪人、他家への仕官を拒んだという。綱元は旧家臣とともに旧領・日頃に帰農して、代々肝入となった。
一方、藤原姓の猪川新沼氏もやはり葛西氏の滅亡とともに滅んだが、臼井氏から新沼氏に入った新沼三右衛門は伊達政宗に仕官して気仙本吉両郡御塩方上廻役に就任している。大船渡市の郷土史の本によると、「同じ時代に生きた同じ新沼一族でも、生き方が好対照であった」と取り上げられてある。
[Special thanks:新沼さん]
―新沼氏略系図―
葛西氏―…―新沼綱清―+―綱定 +―荒川綱広――弥八郎
(安芸守) |(内膳正)|(平四郎)
| |
+―綱重――+―重宗――――重明――――綱元
(淡路守) (右馬允) (越後守)
葛西一族。葛西満信の三男・重信(五郎)が本吉郡西館に千貫を知行して西館を称した。
重信はのち和泉守を称し、文明7(1475)年4月12日、68歳で亡くなったとされる。
―西舘氏略系図―(『平守寛系図』:『岩手県史』)
葛西満信――持信―――――政信――+―稙信
(陸奥守) (伯耆守) (陸奥守)|(左京大夫)
∥ |
∥ +―西舘信兼
∥ (刑部少輔)
∥ ∥――――――娘
∥――――西舘重信―+―薄衣清胤――娘 ∥
∥ (和泉守) |(内匠頭) ∥――――胤教
∥ | ∥
薄衣清村――娘 +―浜田基継 松川胤光
(志摩守) (宮内少輔) (右馬助)
奥州千葉一族。発祥地は下野国水戸部村。伝承によれば、新渡戸家の祖は千葉介常胤の孫・境常秀(上総介)で、平家との戦いの戦功によって下野国水戸部村(栃木県芳賀郡二宮町水戸部)・高岡村(真岡市南高岡周辺)・青谷村(真岡市青谷)を与えられ、貞綱の代に新渡戸を称したという。家紋は真向月星。
末裔の春治(内膳正)の代、慶長3(1598)年に南部信直に招かれて陸奥国稗貫郡安野村(岩手県花巻市高松)に移り住む。新渡戸家の歴史を紹介する十和田市立新渡戸記念館のホームページはこちら。
子孫の新渡戸常澄(伝)、その子・新渡戸常訓(十次郎)、その子・新渡戸七郎は三本木原・十和田の開墾につとめた名士。新渡戸七郎の弟・新渡戸常瑤(稲之助)は文久2(1862)年8月3日、新渡戸常訓の三男として生まれ、明治に入り「新渡戸稲造」と改名する。明治10年に札幌農学校に入学してクラーク博士に師事。キリスト教に入信した。その後、東京帝国大学(現在の東京大学)に入学して英文・統計学などを学んだ。
帝大を中退した後、アメリカ・ドイツを留学して農政学・農業経済学・統計学を学んだ。その後日本に戻り、法学・農学博士となって第一高等学校長となった。
さらに大正2(1913)年、古巣の東京帝国大学教授となる。そしてその5年後、東京女子大学初代学長に就任。彼はこれ以降、日本の女子教育に力を注いでいくことになる。国連事務事務局次長も歴任し、大正15(1926)年には貴族院議員に勅撰された。そして昭和8(1933)年10月15日、カナダ・ビクトリアにおいて亡くなった。70歳であった。
―新渡戸稲造系図―
奥州千葉一族。発祥地は陸奥国二戸郡根森村。