郡上遠藤家 ~旗本 木越遠藤家~

郡上遠藤家 ~木越遠藤家~

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遠藤胤基(1548-1593)

<名前> 胤繁→胤基
<通称> 新兵衛
<正室> 不明
<父> 遠藤新兵衛胤縁
<母> 不明
<官位> 不明
<官職> 大隅守
<法号> 不明
<墓所> 不明

 父は遠藤新兵衛胤縁。母は不明。通称は新兵衛。官途は大隅守。先代の遠藤大隅守胤俊の弟で、胤俊の戦死後、家督を継承した。

 先代の胤俊とともに討死を遂げた家老・遠藤惣兵衛胤慶の弟・遠藤加賀守胤勝が家老職についた。胤勝ははじめ東氏ゆかりの長瀧寺等覚坊心海の養子となっていたが、父・胤慶が討死したことから小駄良四百石を継ぎ、長男の中納言が長瀧寺等覚坊を継いで等覚坊澄栄を称した。

 元亀3(1572)年ごろから西上の気配を見せはじめていた武田信玄は、織田家の中枢ともいえる美濃にも調略の手を伸ばしつつあり、胤基(当時は胤繁)は5月頃から武田家と通じるようになったようである。これは織田家に内密で進められていたことのようで、胤繁は家老・遠藤胤勝(加賀入道市入斎)を派遣して武田家と交渉している。遠藤家が武田信玄や浅井長政と通じて、織田家と二股をかけていたことが書状よりうかがうことができる。美濃に調略の手を広げていた強大な武田家に比べて遠藤家は小さな領主にすぎず、生き残るための外交戦術であったと思われる。元亀3(1572)年9月26日、信玄は胤勝を通じ、胤基(胤繁)へ信濃国内に百貫の地を与える旨を約している元亀3(1572)年9月26日『武田信玄判物写』

 元亀3(1572)年11月14日、ついに武田信玄は美濃に侵入。武田家重臣・秋山伯耆守信友は東美濃岩村城に攻めかかり攻め落とした。信玄は胤繁に岩村城を攻め落としたことを報告しており、「岐阜へ可被顕敵対之色哉否」と、信長へ反旗を翻すか否かを問うた元亀3(1572)年11月19日『武田信玄書状写』。15日、浅井長政は武田家の使者から大隅守胤基が信玄に通じていることを聞き、「殊貴辺種々御馳走之由、快然至極候」とし、さらに遠江・三河が信玄の支配下となったことは「珍重比事候」と記して、胤繁(胤基)へ書状を送っている元亀3(1572)年11月15日『浅井長政書状写』。 

 元亀3(1572)年12月12日、信玄は「当年過半任存分候、幸岩村へ移人数候之条、明春者、濃州へ可令出勢候」と、すでに美濃の過半は武田領となり、岩村城にも秋山伯耆隊が入城し、来春にも本格的に美濃に手勢を向ける旨を伝えている。胤基には「其已前向于岐阜、被顕敵対之色候之様」と、美濃攻めの前に織田家へ反旗を翻すよう指示した元亀3(1572)年12月12日『武田信玄書状写』

 しかし同月、上洛を志した武田信玄は遠江国に侵入し、浜松城の徳川家康を三方ヶ原に破り、三河、尾張へ攻め入るかに見えたが、翌年4月、信玄は信濃国駒場の陣中で急死。武田勢は潮がひくように甲斐国へと退き、取り残された美濃岩村城の秋山信友は捕らえられて、長良川の河原で磔刑に処された。結局、武田家による美濃攻めは実現せず、胤基の企ては信長に知られることはなかった。

●織田家略系図

       塩川氏   +―織田秀信
        ∥    |(権中納言) 
        ∥    |
        ∥――――+―織田秀則
 生駒氏 +―織田信忠   (左衛門尉) 
  ∥  |(秋田城介)
  ∥  |
  ∥――+―織田信雄
 織田信長 (内大臣)  
(右大臣)
  ∥
  ∥――――織田信孝
 坂氏   (侍従)

 天正10(1582)年6月2日未明、織田家の宿老・明智光秀(惟任日向守)が突如、京都本能寺に主君の織田信長を攻め殺した。これを本能寺の変という。しかし、信長を討った明智光秀も、毛利氏と電撃的に和睦して引き返してきた羽柴秀吉に敗れ、京都の南・小栗栖の里京都市伏見区小栗栖小阪町で殺された。その後、織田家の跡目相続について、柴田勝家と羽柴秀吉が尾張国清洲城での話し合いで対立。天正11(1583)年正月、柴田勝家が擁立した織田信孝(信長三男。実は次男)と、信長嫡孫・織田三法師(のちの秀信)を擁立する羽柴秀吉との間で戦いがおこった。このとき遠藤胤繁(胤基)・遠藤慶隆とともに美濃国主である織田信孝に属したことから、秀吉に味方する美濃国武儀郡の国人たちは須原城・洞戸城に拠って郡上郡と岐阜城との連絡を断った。このため、両遠藤氏は三百余の兵を繰り出して両城を攻め落とし、そのまま立花山まで進み、岐阜城の信孝と連絡を取ることに成功した。

 閏正月8日、秀吉は森武蔵守長可・佐藤六左衛門秀方の両将に遠藤氏の籠もる立花山への出陣を命じ、数千の大軍で立花山を囲んだ。これに対して籠もる遠藤氏はわずか三百であり、「遠藤新兵衛(胤繁)」は岐阜城へ援軍を要請。12日付で信孝から援軍の承諾と守備を固めるよう指示する書状が届いた天正11(1583)年正月12日『織田信孝書状』(1)天正11(1583)年正月12日『織田信孝書状』(2)。しかし、信孝の援軍が来るまでの間も森・佐藤勢の攻撃は続き、遠藤清左衛門(和良遠藤家)、池戸与十郎(清左衛門婿)、井上作右衛門ら重臣が討死を遂げている。

 天正11(1583)年4月24日、織田信孝方を支えていた柴田勝家が越前北ノ庄において秀吉に攻め滅ぼされた。これを聞いた信孝は意気消沈。秀吉方についていた異母兄・織田信雄(実際は異母弟)からの降伏勧告を受け入れて岐阜城を明け渡し、長良川を下って尾張国に退いた。

 一方、援軍も来ない立花山では糧道を断たれて食糧難に陥っており、熊皮を火で炙って食べるというような悲惨な状況になっていた。胤繁(胤基)・慶隆らは領民からのひそかな援助で急をしのいでいたものの、兵糧はすでに尽き、餓えて死するよりは戦って潔く死ぬべしと、両遠藤家は残っていた兵を集めた。しかし、ちょうどこの時、佐藤六左衛門秀方の使者が立花山を訪れ、信孝がすでに降伏したことを伝え、遠藤家においても降伏すべしと勧めたことから、遠藤慶隆・遠藤胤基は立花山を下り、老臣の石神兵庫・遠藤利右衛門の二名を人質に差し出し、降伏した。寄手総大将・森長可も両遠藤の降伏を喜び、木尾村母野にて会見し、森長可は敢闘を讃え、鞍付の馬を遠藤家に贈呈した。6月、秀吉は森長可の舅である池田恒興入道と子・池田元助に大垣城・岐阜城を与え、美濃は秀吉によって平定された。

 天正13(1585)年8月、秀吉は柴田勝家の寄騎だった越中の佐々成政を降し、さらに金森長近に飛騨国主・三木自綱攻めを命じた。長近は美濃国石徹白(いとしろ)を通って飛騨に進軍。長近の養子・金森可重が攻めた野々俣口には胤繁(胤基)の子・遠藤小八郎胤直が参戦している。

 天正17(1589)年、秀吉は美濃の検地を行い、翌天正18(1590)年、両遠藤家は先に織田信孝に属したことによって、郡上郡を没収となり胤基は加茂郡犬地へ、遠藤慶隆は加茂郡小原に移された。両遠藤家の知行は合わせてもわずかに一万五千石。彼らに代わって郡上郡には曽根から移された稲葉貞通(稲葉一鉄嫡子)が入った。

名前 在所 領地
遠藤左馬助慶隆 美濃加茂郡小原 美濃加茂郡内:七千五百石 一万五千石
近江日野郡内:千石
遠藤大隅守胤基 美濃加茂郡犬地 美濃加茂郡内:五千五百石
近江日野郡内:千石?

 文禄元(1592)年、明朝の侵略をたくらんだ秀吉が、道案内を断った朝鮮へ侵攻した「文禄の役」では織田秀信(岐阜中納言)に属し、遠藤慶隆とともに朝鮮半島へ渡海した。しかし、文禄の役が終わり日本へ退却した胤基は病となり、文禄2(1593)年11月23日、長門国国分寺にて亡くなった。享年四十六。

●元亀2(1571)年9月18日『遠藤盛数・胤繁連署状』(『郡上藩家中記録』:郡上八幡町史所収)

  尚々信長下国ニ者則年前ニ罷成事ニ候、鉄砲玉薬之儀、早々下給候様ニ可申肝要ニ候、近日者不得御意御床敷存候、仍上方之躰、江南北委信長属存分、則上洛候て山門坂本堅田十二日卯刻ニ被退散、山王並中堂其外宮社坊中在家之儀一間も不相残放火、坊主共八王寺楯籠候処被責崩頭千余被討捕由候、則十三日京上之旨と三好方も降参申由ニ候、是ハ不実ニ存候、随先々より内々申候、大坂へ御使之事、最勝寺不被待被遣候ハ、尤候、玉薬之一儀懇ニ被仰上此度下給候様ニ御才覚簡要ニ候、路次番之儀ハ可然様御調候て、何之道ニも玉薬被下候様ニ候者可遣入候、越州へも折々可被仰遣候、尚重可得御意候、恐惶謹言
 
    九月十八日         遠藤新兵衛胤繁
                  遠藤六郎左衛門盛数
   安養寺
 


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