(1548-1593)
| <名前> | 胤繁→胤基 |
| <通称> | 新兵衛 |
| <正室> | 不明 |
| <父> | 遠藤新兵衛胤縁 |
| <母> | 不明 |
| <官位> | 不明 |
| <官職> | 大隅守 |
| <法号> | 不明 |
| <墓所> | 不明 |
郡上遠藤氏五代。父は三代遠藤新兵衛胤縁。母は不明。通称は新兵衛。官途は大隅守。先代の遠藤大隅守胤俊の弟で、胤俊の戦死後、家督を継承した。その際、胤俊とともに討死した遠藤惣兵衛胤慶の弟・遠藤加賀守胤勝を家老職とした。胤勝ははじめ東氏ゆかりの長瀧寺等覚坊心海の養子となっていたが、父・胤慶の討死後に還俗し、小駄良四百石を継承していた。それに伴って胤勝長男の中納言が等覚坊を継いで等覚坊澄栄を称した。
+―石神掃部――――――石神惣左衛門===石神胤春
| (吉兵衛)
|
| 畑佐六郎右衛門
| ∥
| ∥――――――――畑佐惣右衛門
| ∥
| +―女子
| |
| |
| +―|―女子
| | | ∥――――――――遠藤胤直
| | | ∥ (小八郎)
| | +―遠藤胤基
| | |(大隅守)
| | |
| | +―遠藤胤重
| | |(彦右衛門)
| | |
| | +―遠藤胤安 +―遠藤胤祐―――――遠藤新五郎
| | |(吉左衛門) |(新五郎)
| 【木越遠藤】| | |
|+―遠藤胤縁―――+―遠藤胤俊―――+―女子 +―遠藤内記――――遠藤朝慶===遠藤慶紀
||(新兵衛) | (大隅守) ∥ | (十兵衛) (内記)
|| | ∥ ∥ |
|| | ∥ ∥――――――+―遠藤亮胤
|| | ∥ ∥ |(三十郎)
|| | +―女子 +―遠藤慶胤 |
|| | | |(助次郎) +―女子
||【郡上遠藤】| | | ∥
|+―遠藤盛数―+――――――――――+―遠藤慶直 餌取半右衛門
| (六郎左衛門尉)| |(久三郎) (次郎作)
| | |
| | |【郡上藩主】
| | 遠藤胤勝 +―遠藤慶隆―――+―遠藤慶勝
| |(加賀守) |(但馬守) |(但馬守)
| | ∥ | | +―遠藤常春―――遠藤常久
+―石神兵庫――――+―女子 +―女子 +―女子 |(右衛門佐) (岩松)
∥ ∥ |(清洲様) |
∥ ∥ | ∥―――――――遠藤慶利―――遠藤常友―+―遠藤慶紀
∥ ∥ | ∥ (但馬守) (備前守) (内記)
∥ ∥ | 三木直綱
∥ ∥ |(右近太夫)
∥ ∥ |
∥ ∥ +―女子
∥ ∥ (山本様)
∥ ∥ ∥
∥ ∥ ∥
∥ ∥――――――――遠藤胤直
∥ ∥ (小八郎)
∥ ∥
∥ 遠藤胤基
∥ (大隅守)
∥
∥――――――――女子
【遠藤胤俊家老】 ∥ ∥
+―遠藤惣兵衛―――+―遠藤胤慶 遠藤新四郎
| |(惣兵衛)
| |
| +―遠藤胤勝―――+―等覚坊澄栄
| |(加賀守) |(中納言)
| | |
| +―石神胤春 +―太郎兵衛
| |(吉兵衛) |
| | |
| | +―等覚坊澄僖
| | (中将)
| |
| +―奥之坊――――――河合勝吉―――――河合吉兵衛
| |
| |
| +―娘
| ∥――――――+―松山八蔵
| ∥ |(左門)
|【遠藤胤俊家老】 ∥ |
+―遠藤善兵衛―――――遠藤太郎兵衛 +―小兵衛
(入道善通)
元亀3(1572)年ごろから西上の気配を見せはじめていた武田信玄は、織田家の中枢ともいえる美濃にも調略の手を伸ばしつつあり、胤基(当時は胤繁)は5月頃から武田家と通じるようになったようである。これは織田家に内密で進められていたことのようで、胤繁は家老・遠藤胤勝(加賀入道市入斎)を派遣して武田家と交渉している。遠藤家が武田信玄や浅井長政と通じて、織田家と二股をかけていたことが書状よりうかがうことができる。美濃に調略の手を広げていた強大な武田家に比べて遠藤家は小さな領主にすぎず、生き残るための外交戦術であったと思われる。元亀3(1572)年9月26日、信玄は胤勝を通じ、胤基(胤繁)へ信濃国内に百貫の地を与える旨を約している(元亀3(1572)年9月26日『武田信玄判物写』)。
元亀3(1572)年11月14日、ついに武田信玄は美濃に侵入。武田家重臣・秋山伯耆守信友は東美濃岩村城に攻めかかり攻め落とした。信玄は胤繁に岩村城を攻め落としたことを報告しており、「岐阜へ可被顕敵対之色哉否」と、信長へ反旗を翻すか否かを問うた(元亀3(1572)年11月19日『武田信玄書状写』)。15日、浅井長政は武田家の使者から大隅守胤基が信玄に通じていることを聞き、「殊貴辺種々御馳走之由、快然至極候」とし、さらに遠江・三河が信玄の支配下となったことは「珍重比事候」と記して、胤繁(胤基)へ書状を送っている(元亀3(1572)年11月15日『浅井長政書状写』)。
元亀3(1572)年12月12日、信玄は「当年過半任存分候、幸岩村へ移人数候之条、明春者、濃州へ可令出勢候」と、すでに美濃の過半は武田領となり、岩村城にも秋山伯耆隊が入城し、来春にも本格的に美濃に手勢を向ける旨を伝えている。胤基には「其已前向于岐阜、被顕敵対之色候之様」と、美濃攻めの前に織田家へ反旗を翻すよう指示した(元亀3(1572)年12月12日『武田信玄書状写』)。
しかし同月、上洛を志した武田信玄は遠江国に侵入し、浜松城の徳川家康を三方ヶ原に破り、三河、尾張へ攻め入るかに見えたが、翌年4月、信玄は信濃国駒場の陣中で急死。武田勢は潮がひくように甲斐国へと退き、取り残された美濃岩村城の秋山信友は捕らえられて、長良川の河原で磔刑に処された。結局、武田家による美濃攻めは実現せず、胤基の企ては信長に知られることはなかった。
●織田家略系図
塩川氏 +―織田秀信
∥ |(権中納言)
∥ |
∥――――+―織田秀則
生駒氏 +―織田信忠 (左衛門尉)
∥ |(秋田城介)
∥ |
∥――+―織田信雄
織田信長 (内大臣)
(右大臣)
∥
∥――――織田信孝
坂氏 (侍従)
天正10(1582)年6月2日未明、織田家の宿老・明智光秀(惟任日向守)が突如、京都本能寺に主君の織田信長を攻め殺した。これを本能寺の変という。しかし、信長を討った明智光秀も、毛利氏と電撃的に和睦して引き返してきた羽柴秀吉に敗れ、京都の南・小栗栖の里(京都市伏見区小栗栖小阪町)で殺された。その後、織田家の跡目相続について、柴田勝家と羽柴秀吉が尾張国清洲城での話し合いで対立。天正11(1583)年正月、柴田勝家が擁立した織田信孝(信長三男。実は次男)と、信長嫡孫・織田三法師(のちの秀信)を擁立する羽柴秀吉との間で戦いがおこった。このとき遠藤胤繁(胤基)・遠藤慶隆とともに美濃国主である織田信孝に属したことから、秀吉に味方する美濃国武儀郡の国人たちは須原城・洞戸城に拠って郡上郡と岐阜城との連絡を断った。このため、両遠藤氏は三百余の兵を繰り出して両城を攻め落とし、そのまま立花山まで進み、岐阜城の信孝と連絡を取ることに成功した。
閏正月8日、秀吉は森武蔵守長可・佐藤六左衛門秀方の両将に遠藤氏の籠もる立花山への出陣を命じ、数千の大軍で立花山を囲んだ。これに対して籠もる遠藤氏はわずか三百であり、「遠藤新兵衛(胤繁)」は岐阜城へ援軍を要請。12日付で信孝から援軍の承諾と守備を固めるよう指示する書状が届いた(天正11(1583)年正月12日『織田信孝書状』(1)・天正11(1583)年正月12日『織田信孝書状』(2))。しかし、信孝の援軍が来るまでの間も森・佐藤勢の攻撃は続き、遠藤清左衛門(和良遠藤家)、池戸与十郎(清左衛門婿)、井上作右衛門ら重臣が討死を遂げている。
天正11(1583)年4月24日、織田信孝方を支えていた柴田勝家が越前北ノ庄において秀吉に攻め滅ぼされた。これを聞いた信孝は意気消沈。秀吉方についていた異母兄・織田信雄(実際は異母弟)からの降伏勧告を受け入れて岐阜城を明け渡し、長良川を下って尾張国に退いた。
一方、援軍も来ない立花山では糧道を断たれて食糧難に陥っており、熊皮を火で炙って食べるというような悲惨な状況になっていた。胤繁(胤基)・慶隆らは領民からのひそかな援助で急をしのいでいたものの、兵糧はすでに尽き、餓えて死するよりは戦って潔く死ぬべしと、両遠藤家は残っていた兵を集めた。しかし、ちょうどこの時、佐藤六左衛門秀方の使者が立花山を訪れ、信孝がすでに降伏したことを伝え、遠藤家においても降伏すべしと勧めたことから、遠藤慶隆・遠藤胤基は立花山を下り、老臣の石神兵庫・遠藤利右衛門の二名を人質に差し出し降伏した。寄手総大将・森長可も両遠藤の降伏を喜び、木尾村母野にて会見し、森長可は敢闘を讃え、鞍付の馬を遠藤家に贈呈した。6月、秀吉は森長可の舅である池田恒興入道と子・池田元助に大垣城・岐阜城を与え、美濃は秀吉によって平定された。
天正13(1585)年8月、秀吉は柴田勝家の寄騎だった越中の佐々成政を降し、さらに金森長近に飛騨国主・三木自綱攻めを命じた。長近は美濃国石徹白(いとしろ)を通って飛騨に進軍。長近の養子・金森可重が攻めた野々俣口には胤繁(胤基)の子・遠藤小八郎胤直が参戦している。
天正17(1589)年、秀吉は美濃の検地を行い、翌天正18(1590)年、両遠藤家は先に織田信孝に属したことによって、郡上郡を没収され、胤基は加茂郡犬地へ、遠藤慶隆は加茂郡小原に移された。両遠藤家の知行は合わせてもわずかに一万五千石。彼らに代わって郡上郡には曽根から移された稲葉貞通(稲葉一鉄嫡子)が入った。このとき、胤基の甥にあたる遠藤新五郎胤祐は逐電し、恵那郡河合村(恵那市笠置町河合)、堂木村(恵那市笠置町河合道木)あたりに土着したと伝わる。河合村は土岐郡や加茂郡と隣接し、のち苗木藩東家が「土岐郡」から来訪したという伝とも近い。また、江戸末期の苗木藩千葉家の千葉権右衛門常彬は、嘉永2(1849)年3月および嘉永6(1853)年9月に毛呂窪の水上稲荷社(恵那市笠置町毛呂窪)に石灯篭を奉納している(『恵那市史』)ように、この地が苗木藩の東家(千葉家)の産土であった可能性があろう。
| 名前 | 在所 | 領地 | 計 |
| 遠藤左馬助慶隆 | 美濃加茂郡小原 | 美濃加茂郡内:七千五百石 | 一万五千石 |
| 近江日野郡内:千石 | |||
| 遠藤大隅守胤基 | 美濃加茂郡犬地 | 美濃加茂郡内:五千五百石 | |
| 近江日野郡内:千石? |
文禄元(1592)年、明朝の侵略をたくらんだ秀吉が、道案内を断った朝鮮へ侵攻した「文禄の役」では織田秀信(岐阜中納言)に属し、遠藤慶隆とともに朝鮮半島へ渡海した。しかし、文禄の役が終わり日本へ退却した胤基は病となり、文禄2(1593)年11月23日、長門国国分寺にて亡くなった。享年四十六。
●元亀2(1571)年9月18日『遠藤盛数・胤繁連署状』(『郡上藩家中記録』:郡上八幡町史所収)