遠藤氏の家紋
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| 十曜 | 三割亀甲 | 月星 | 亀甲 |
(????-1559?)
美濃遠藤氏3代。遠藤新兵衛胤好の嫡男と伝わる。通称は新兵衛。郡上郡木越城主(郡上市大和町島)。子には遠藤大隅守胤俊と遠藤大隅守胤基の二名がいた。
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| 朝倉勢の千人塚(左と右の土盛) |
天文9(1540)年8月25日、朝倉義景が越前から美濃国郡上郡に攻め込んできた際、篠脇城にあった東下野守常慶は篠脇城へ籠城して頑強に抵抗。越前との国境に当たる白山長瀧寺に本陣を置いた朝倉勢は、篠脇城まで軍勢を派遣して猛攻を続けたが、城は落ちなかった。おそらく遠藤新兵衛胤縁・遠藤六郎左衛門尉盛数の兄弟も活躍をしたのだろう。
9月23日、朝倉勢の残党も追い討ちによって壊滅し、東勢によって討たれた朝倉勢の遺体で、越前への道が三日間にわたって不通になったという。この道を「三日坂」といい、討たれた朝倉勢の首塚が「千人塚」として残されている(『荘厳講記録』『郡上藩家中記録』)。
●『荘厳講記録』(『長滝寺文書』:「白鳥町史」)
この年、長滝寺の南、小駄良郷(郡上市白鳥町向小駄良)の領主・和田氏が常慶に討たれており、この事件は朝倉氏の郡上侵入と何か関係があるのかもしれない。
常慶は天文年中、小駄良郷に勢力を張っていた東氏一族の和田五郎左衛門がしばしば常慶の命に随わなかったため、常慶は天文9(1540)年、遠藤胤縁・遠藤盛数に謀り、篠脇城に呼び寄せて暗殺し平定したという(『郡上郡史』)。
この朝倉氏との戦いののち、常慶は篠脇城の南、吉田川に沿った赤谷山(郡上市島谷)に新たな城を築いたようである。このころ常慶は嫡男・七郎常堯に家督を譲ったが、系譜では常堯は粗暴で人望がなかったとされる人物であったとされている。ただし、常堯の粗暴な性格というのは東氏から遠藤氏への家督相続の正当性をはかるために記載された可能性もある。
同じく伝承では、常堯は胤縁の娘を妻に欲したが、胤縁は常堯を信頼せず、密かに畑佐備後守信胤の子息、畑佐六郎右衛門信国に娘を嫁がせた。これを恨みに思った常堯により、胤縁は永禄2(1559)年8月1日、「八朔の礼」のために登城してきたところを射殺されたという。法名は祐心。木越城を守っていた弟・盛数は、兄の訃報を聞くや兵を集め、8月24日に東氏を滅ぼしたという。