郡上遠藤家 ~古今伝授を伝える家~

郡上遠藤家

遠藤氏の家紋

九曜 三つ割亀甲 月星 亀甲
十曜 三割亀甲 月星 亀甲

 

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遠藤盛数(????-1562?)

 美濃遠藤氏4代。遠藤新兵衛胤好の次男。通称は六郎左衛門。のち左馬助か。妻は東下野守常慶女(照用院友順)。

 伝承によれば、盛数は永禄2(1559)年8月1日、兄の遠藤新兵衛胤縁が赤谷山において東七郎常堯に暗殺されると、常堯の非を訴えて土豪たちを集め、赤谷山城に攻め寄せた。そして8月24日、妻の父・東下野守常慶が自害して城は陥落。常堯は飛騨白川郷の舅・内島氏理を頼って落ち、承久以来三百年続いた郡上東氏は滅亡した(『寛政重修諸家譜』)

 盛数は郡上郡を手中にすると、赤谷山城と吉田川をはさんだ対岸にある八幡山に城を築いて本城とした。郡上八幡城である。一方、暗殺された胤縁の子・遠藤新兵衛胤繁(胤基)は遠藤家代々の居城・木越城を領し、盛数は郡上郡東部を、胤基は西部を二分して支配することとなった。

遠藤盛数の旗下   遠藤胤基の旗下
領地 名前   領地 名前
和良三方の内 遠藤清左衛門(和良遠藤氏)   小駄良村 遠藤宗兵衛(小駄良遠藤氏。遠藤胤俊家老)
和良内九ヵ村 遠藤清兵衛(和良遠藤氏)   小駄良村内 遠藤善兵衛(宗兵衛弟。胤俊家老)
大矢近所七ヵ村 遠藤六兵衛(和良遠藤氏)   寒水村 遠藤善右衛門(寒水遠藤氏)
栗栖郷 遠藤新左衛門(鎌倉遠藤氏)   穀見近所七ヵ村 石神兵庫(胤俊舅)
鈴原 遠藤新三左衛門(遠藤盛数家老)   鶴儀村 野田五右衛門
栗栖の内 日置主計   栗栖郷之内 別府弾正
栗栖の内 柳生宗左衛門   中津屋村 別府喜四郎
鷲見郷 鷲見兵庫   大間見郷 鷲見弥兵衛
牛道郷
並越前
穴馬内
猪俣五平次   吉田市島 吉田左京進
下川南方十四村 餌取六右衛門(盛数妻姉妹の義父)   久須見 和田仁兵衛
粥川村
苅安村
粥川甚右衛門   川佐河戸
寺畑
箕島弥兵衛
下ノ保乙原
近所五村
河尻五郎左衛門   小野 竹村弥平五
中ノ保内
久間村
池戸若狭守(遠藤清左衛門婿)   畑佐近所五ヵ村 畑佐備後(遠藤慶隆従弟)
島馬場村 村山半兵衛   徳永村 土屋氏
大島村 鷲見兵助   那比郷 武藤氏
為真村 丹羽五郎左衛門   鶴佐府路小野 田口氏
那比村 可児氏   久須見内 大坪氏
気良村 佐藤氏      

 永禄4(1561)年、織田信長と齋藤龍興の戦いでは、齋藤勢の将として美濃国墨俣に出陣。砦を築こうとする織田家重臣の佐久間信盛や柴田勝家を敗退させる功績を立てるが、織田方の木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)が墨俣に砦を築いてしまうと、織田勢はそこを足がかりに齋藤家の居城である稲葉山城下に迫った。永禄5(1562)年10月14日、織田勢を防ぐため、盛数は稲葉山城の城下町、井口に布陣したが討死を遂げたという。法名は西順。墓所は刈安村戸谷寺(戸谷山乗性寺)。

 しかし、盛数は元亀2(1571)年9月18日、遠藤新兵衛胤繁(胤基)とともに遠藤家と親交の深かった安養寺に対して文書を発給している文書『遠藤盛数・胤繁連署状』や、天正2(1574)年6月4日、盛数が子・遠藤慶隆の所領について白山長瀧寺へ宛てた文書などがあるが、これらは慶隆の書状を盛数のものとしたものか。

 遠藤家の嫡流は兄にあたる遠藤胤縁であったと考えられ、「胤」字は遠藤家よりの偏諱と思われる。一方で盛数は庶流でありながら主君・常慶の娘を娶って東家の一門になるなど、常慶からの寵愛は一方ならぬものがあったようである。しかし、盛数は常慶の重用に対して謀反で応えた様子が史料からうかがえる。江戸時代に藩主・遠藤家から干渉を受けなかったと思われる藤村家(東家旧臣の家柄で帰農)の文書『開発之伝記』(『和良村史資料編』所収)には、

常慶公盛数ヲ婿トシタマイ寵愛シタマヘリ、盛数其恩ヲ忘レ害心ヲ起シ、飛州之一族松倉之城主三木大和守直頼子息右兵衛良頼方ヨリ加勢ヲ招キ、甥之遠藤大隅守胤基以下之兵ヲ卒シ、不意ニ東殿山ヲ焼立テケリ、頃者、弘治元乙卯年八月朔日城ヲ攻メ落ス、常慶最後ニ遠藤之家七代者不見立シト云テ煙之中ニ切腹ス…略…此時ニ常慶家臣ニ遠藤右兵衛ト云者アリ、主君ノ御怨ミヲ報セント三人心ヲ合セ先信州江忍ヒ落チテ心ヲ砕トモ、東家恩顧ノ侍不残盛数父子ニ従ヒ、剰ヘ盛数郡上押領シ、威勢日々ニ強クシテ不及力ラ、三人トモ一身ヲ置所ナク、所々ニ隠レ忍ヒケリ

とあり、盛数は飛騨松倉城主の三木氏から援軍を請い、甥の遠藤大隅守胤基の兵を率いて東殿山に奇襲をかけて、主君であり義父でもある常慶を討ったとされる。その時期は遠藤家側の系譜が伝えている永禄2(1559)年8月24日ではなく、弘治元(1555)年8月1日のことであったという。前年の天文23(1554)年秋より三木氏の郡上郡内押領が起こっており(『荘厳講執事帳』「白鳥町史」所収)、遠藤盛数は東氏から郡上郡を奪取するため、密かに飛騨三木氏と結んでいたことが推測される。『遠藤記』によれば、常慶が嫡子・東七郎常堯に家督を譲ろうとしていたのが弘治年中の事であるとされており、盛数は常堯の家督相続に反対しての謀反であったのかもしれない。

 また、盛数が東氏を討つ大義名分となっていた永禄2(1559)年8月1日の兄・遠藤胤縁の暗殺についても、弘治元(1555)年8月1日の時点で胤縁の子「遠藤大隅守胤基」がすでに活躍をしている様子がうかがえ、この時すでに遠藤胤縁は亡くなっていたものと推測される。両事件ともに8月1日(八朔)の事であり、遠藤盛数が八朔の礼を利用して赤谷山を焼き討ちしたというのが真相かもしれない。

 その後、遠藤盛数は事実上の郡上郡の主となり、東七郎常堯は妻の実家である飛騨帰雲城の内ヶ島氏を頼り、東氏再興のために出兵を繰り返したと思われる。永禄2(1559)年8月、白山長滝寺も兵乱によって相当の被害を受け、「満山悉ク方々ヘ退散仕候」という事態に陥った様子がうかがえる(『荘厳講執事帳』「白鳥町史」所収)

●『千葉大系図』

⇒遠藤胤好―+―盛数
(新兵衛) |(太郎左衛門尉)
      |
      +―胤縁―――――胤俊―――胤基―――胤直
      |(新兵衛尉) (大隅守)(大隅守)(小八郎)
      |
      +―胤繁―――+―胤慶
       (宗兵衛) |(宗兵衛)
             |
             +―胤勝
             |(加賀守)
             |
             +―胤春
             |(吉兵衛)
             |
             +―娘
              (遠藤太郎兵衛)

●『小駄良遠藤系図』

⇒+―遠藤惣兵衛―+―惣兵衛     +―等覚坊澄栄
 |       |         |
 |       +―遠藤太郎兵衛妻 +―遠藤太郎兵衛
 |       |         |
 |       +―加賀守―――――+―福寿坊澄嘉―――等覚坊実賢――福寿坊秀賢――等覚坊栄賢
 |       |
 |       +―石神吉兵衛           +―娘
 |       |                 |
 |       +―奥之坊―――――――遠藤勝吉――+―河合吉兵衛
 |
 +―遠藤善兵衛―――太郎兵衛――――+―松山八蔵――+―佐助
                   |       |
                   +―小兵衛   +―伝十郎
                           |
                           +―甚左衛門
                           |
                           +―某
                           |
                           +―清兵衛
                           |
                           +―六右衛門

●永禄5(1562)年10月14日『遠藤盛数書状』(『郡上藩家中記録』:郡上八幡町史所収)

 爰許躰之事、十三日ニ須股口にて日比野下野守甲斐守打之間、軍にて打死候
 無是非次第候、又我等身辺の事共よわミ成共とかくの首組有ましく候、
 是非打死一たんニ究候へく候、其四之事ハ大す ミうけ取被申候、
 其御心こヽろへ被為候、我々女共三郎はしめ皆々よひこし可申候
 五日之間合戦あるべく候、自然如何ミち候以上かしく、
 
   十四日
 
 又比日記憑入進候、天然打死仕候ハ、せがれニ御わたし候て可被下候、上書ニ安御坊さま
 
                        六 郎 左
  まいる人々中

●元亀2(1571)年9月18日『遠藤盛数・胤繁連署状』(『郡上藩家中記録』:郡上八幡町史所収)

  尚々信長下国ニ者則年前ニ罷成事ニ候、鉄砲玉薬之儀、早々下給候様ニ可申肝要ニ候、
 近日者不得御意御床敷存候、仍上方之躰、江南北委信長属存分、則上洛候て山門坂本堅田
 十二日卯刻ニ被退散、山王並中堂其外宮社坊中在家之儀一間も不相残放火、坊主共八王寺
 楯籠候処被責崩頭千余被討捕由候
、則十三日京上之旨と三好方も降参申由ニ候、是ハ不実
 ニ存候、随先々より内々申候、大坂へ御使之事、最勝寺不被待被遣候ハ、尤候、玉薬之一儀
 懇ニ被仰上此度下給候様ニ御才覚簡要ニ候
、路次番之儀ハ可然様御調候て、何之道ニも玉薬
 被下候様ニ候者可遣入候、越州へも折々可被仰遣候、尚重可得御意候、恐惶謹言
 
    九月十八日         遠藤新兵衛胤繁
                  遠藤六郎左衛門盛数
   安養寺

●天正2(1574)年6月4日『遠藤盛数書状』(1)(『郡上藩家中記録』:郡上八幡町史所収)

 拙子知行分半分之儀如前々申談候、自当年御裁許可有者也、仍如件
 
  天正二甲戌
     六月四日        遠藤六郎左衛門
                     盛  数(花押)
   長 瀧 寺
    経 聞 坊
     御同宿中

●天正2(1574)年6月8日『遠藤盛数書状』(2)(『経聞坊文書』:岐阜県史 史料編 古代・中世一所収)

 白鳥別当職之事、拙子知行と半分之儀、如前々申談候、自当年御裁許可有之者也、仍如件
 
  天正二甲戌
     六月八日        遠藤六郎左衛門
                     盛  数(花押)
   長 瀧 寺
    経 聞 坊
     御同宿中

●某年7月12日『遠藤盛数書状』(『郡上藩家中記録』:郡上八幡町史所収)

 尊書拝見忝候、仍御帰寺之儀付而、様子被仰越候、致承知候、先度従是
 新兵申談令被言上候、其已来有無之御返答無之間、内々無御心元存候間、
 唯今御使札之趣承届候、尤存置候、何時にても御分別次第御出郡可然候、
 御用等被置御心蒙仰不可存疎意候、猶御使へ申渡候間、不能禿筆、恐惶謹言
 
   七月十二日           遠藤左馬介
                       盛数(花押)
  安養寺

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