宇都宮氏

宇都宮氏と八田氏

 

八田氏と宇都宮氏


宗円(????-????) 宇都宮氏祖。日光山十一世別当。
 宗円の出自別説 new
 日光山について new
八田宗綱(????-????) 宗円大法師の子息。弟は四郎宗房(中原氏猶子か)
 宇都宮信房に繋がる中原氏 new
 八田の名字地について new
宇都宮朝綱(????-????) 八田宗綱の長子。弟に八田知家、妹に頼朝乳母(のち寒河尼)
 野木宮合戦について new
八田知家(????-????) 八田宗綱の次男。姉は頼朝乳母(のちの寒河尼)。
知家の源義朝末子説は、母兵衛局が頼朝乳母だった関係で
幼少時より頼朝傍に侍っていた事から生じた可能性もあるか。

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『尊卑分脈』にみる道兼流宇都宮氏の考察

 宇都宮氏は『尊卑分脈』によれば、関白藤原道兼の末裔とされる。はたしてそうなのであろうか。史料的な制約が多く伝承を補強する傍証に乏しいため推測が多くなるが、考察を試みる。

 まず、『尊卑分脈』に見る道兼曾孫「宗円」の子「宗綱【A】」の伝については、

(1) 始為叔父兼仲相続子、後生息子宗房、即為兼仲継嗣而帰実父宇都宮流事 又外記中原宗家子、後帰本姓 ・叔父兼仲の継嗣となるが、のち宗綱に宗房が生まれると宗房を兼仲の養子として宇都宮へ戻った。
(2) 或云本姓中原也、中原宗忠外記安房守宗家外記伊豆守宗綱彼宗家子 ・宗綱は実際は外記中原宗家(伊豆守)の子で、のち中原に復した。

とある。

 次に「左少将兼仲」の子「宗綱【B】」は、

(1) 実父宗円也 ・実父は宗円。宗綱【A】と同一となる。
(2) 従五位下 備後守 下野守 八田 ・官途は従五位下、備後守、下野守。八田を称した。
(3) 兼仲朝臣依無子息、取捨弟僧宗円子宗綱為相続子、而後宗綱生宗房之後、備兼仲継嗣、其身復本親事、今宇津宮小田等祖是也 ・兼仲に子がいなかったので、甥の宗綱が継嗣として入り、宗房誕生後は宗房を兼仲継嗣に据えて宇都宮へ帰った。

とある。

宗綱【A】」「宗綱【B】」の周辺を系譜で表すと、

+―藤原兼仲―+============藤原宗房―――藤原宗隆
|      |           (備後守)  (上西門院蔵人)
|      |            ↑
|      +=藤原宗綱【A】――+―藤原宗房
|       (下野守)【B】  |(備後守)
|         ↑       | 
+―宗円―――+=藤原宗綱【A】――+―宇都宮朝綱
       |(下野守)     |(弥三郎)
       |  ↑       |
 ※中原宗家―|―藤原宗綱【A】  +―八田知家
 (伊豆守) |(八田権守)     (四郎武者所)
       |
       +―中原宗房―――――――宇都宮信房
        (四郎、中務丞)   (大和守)

 となる。

 『尊卑分脈』に見られる「宗綱【A】」「宗綱【B】」は、いずれも「下野守」「備後守」という延喜式で「上国」に位置づけられる従五位下相当官の諸大夫層となる。ところが、宇都宮氏祖となる「八田権守宗綱」(『尊卑分脈』『小野氏系図』)「八田武者宗綱」(『吾妻鏡』治承四年十月二日条)は、院武者所に伺候した人物で、かつ「権守」であるように侍品であることがわかる。この時点ですでに矛盾がみられるのである。

 「宗綱【A】」は「宗円」の子で、伯父の左少将兼仲の養子となり、子の宗房が誕生すると彼を養父兼仲の養嗣子として宗円家に戻った。宗綱【B】にも、宗綱【A】と同様に「宗綱、生宗房(備後守)」という「子」が記される(『尊卑分脈』)。そして、その「宗房(備後守)」の伝にも「為祖父兼仲子」とされており、この伝承は宗綱【A】宗綱【B】に共通する説話である。

 「宗綱【A】」については、宗綱が宗円のもとに戻りさらに「又為外記中原宗家子、後帰本姓」という、もはや理解しがたい伝承となっているが、中原氏との縁戚関係を示す微証がここに見られるのである。『尊卑分脈』側註に記されている宗綱【A】の出自を見てみると、宗綱は前記の「為外記中原宗家子」という養子説と、「宗綱、彼宗家子」での実子説の二説が掲載されている。ただし、「外記中原宗家」は、後白河院近臣で仁安2(1167)年12月30日に伊豆守源仲綱と相伝名替(当時宗家は隠岐守)によって伊豆守に転じた(『兵範記』仁安二年十二月三十日条)人物であることから、世代的に宗長と宗綱は逆であることがわかる。つまり、八田宗綱が「外記、和泉守」の「中原宗家」の子、または養子である事実はないことになる。

 宇都宮氏が「中原氏」を由緒とする伝承を系譜に含めたのは、もともと出自の定かではない八田氏が、院近臣で中央官吏の「中原氏」と所縁が生まれ、中央との関わりを系譜内に収めたものではなかろうか。その所縁を生んだのが、「宗円」の次子「宗房 四郎、中務丞、改姓於中原」であろう。 『尊卑分脈』に見える宗房とその子・信房については、

宗房 中務丞 四郎
改姓於中原
・はじめ藤原姓、そこから中原姓へ改める。
・通称は四郎。
・官途は中務丞。
信房 大和守
所衆
・宗房子。
・宇都宮所衆信房

とある。

 宇都宮所衆信房は、「所衆中原信房者依為造酒正宗房孫子」(『吾妻鏡』文治二年二月廿九日条)とあるように、中原姓を称している。彼の祖父は「造酒正宗房」で後白河院近臣であるが、『尊卑分脈』に見る信房の父もまた「宗房」である。この宗綱【A】の弟「宗房 四郎、中務丞、改姓於中原」は造酒正中原宗房とはまったくの別人であるが、同一視している文献も散見する。この造酒正中原宗房を祖父(外祖父という事になろう)とする信房の中原氏との由緒を宇都宮検校家の朝綱子孫が取り込み、さらに八田権守宗綱と弟四郎宗房を、藤原兼仲の子・備後守宗綱とその子備後守宗房に仮託した、粟田関白家由緒とする系譜を作成した際にも採用され、造酒正宗房の女婿である中務丞宗房だけではなく、宗綱も中原宗家の猶子として記されたのかもしれない。

●『尊卑分脈』

 藤原兼仲―――藤原宗綱――藤原宗房
(左近衛少将)(備後守) (備後守)

●『宇都宮系図』(国立公文書館蔵)

 藤原兼仲―――藤原宗房==宗円――――+―藤原宗綱――――――――――+―女子
(左近衛少将)(備前守) (天台座主) |(坐主三郎)         | ∥―――――――稲毛重成
                    |               | ∥      (三郎)
                    +―中原宗房          | 小山田有重
                     (四郎、中務丞、後改正於中原)|(小山田別当)
                                    |
                                    +―女子
                                    | ∥―――――――結城朝光
                                    | ∥      (七郎)
                                    | 小山政光
                                    |(四郎)
                                    |
                                    +―朝綱
                                    |(弥三郎、左衛門尉、宇津宮検校)
                                    |
                                    +―八田知家
                                     (右馬允、武者所、左衛門尉、筑前守)

●『宇都宮氏系図』(国立公文書館蔵)

 藤原兼仲――+―藤原宗房  +―藤原宗綱――――――――――+―女子
(左近衛少将)|(備前守)  |(坐主三郎)         | ∥―――――――稲毛重成
       |       |               | ∥      (三郎)
       +―宗円――――+―中原宗房          | 小山田有重
                (四郎、中務丞、後改正於中原)|(小山田別当)
                               |
                               +―女子
                               | ∥―――――――結城朝光
                               | ∥      (七郎)
                               | 小山政光
                               |(四郎)
                               |
                               +―朝綱
                               |(弥三郎、左衛門尉、宇津宮検校)
                               |
                               +―八田知家
                                (右馬允、武者所、左衛門尉、筑前守)

 また、『尊卑分脈』によれば、左少将兼仲が「舎弟僧宗円」の子「宗綱」を養子に迎えた理由は、「兼仲朝臣依無子息」ためであった。しかし、少なくとも兼仲には「阿闍梨兼禅(母は兼仲従兄にあたる治部卿経季の女。同一人物かは不明だが「参河守兼満子」または「三河守兼安子」の東大寺「已講兼禅」が保安元(1120)年6月19日に72歳で卒:『維摩会講師研学竪義次第』)という実子がおり、さらに養子(実父は平貞季)として藤原兼信(従五位上、右馬助)※を迎えていることから、兼仲に「無子息」という事実はない。つまり「甥」の「宗綱」が兼仲の「相続子」となる理由は成立しないのである。

 兼仲が実子や他の養子を差し置いて遠く関東在住の甥「宗綱」を養嗣子に迎えるが、そして宗綱の子・宗房が誕生すると宗綱は関東へ戻り、嬰児の宗綱子・宗房が兼仲の継嗣に据えられた、というあまりにも理解しづらい系図は、宇都宮氏が貴種出自の系譜を創作するにあたり、始祖の「八田権守宗綱」及び宗綱弟の「四郎宗房」を、同じ諱を持つ粟田関白道兼末孫の左少将兼仲の子息「下野守宗綱」と、その子「備後守宗房」に仮託することで、道兼流藤原氏の系譜と繋げたために、成立しづらい伝承となってしまったのではなかろうか。

 『尊卑分脈』の下野守宗綱(備後守)子・備後守宗房の子は、上西門院蔵人宗隆(伊勢権守)、その養子(実甥)も上西門院蔵人となった安芸守宗基、その子が八條院蔵人となった尾張守基光であり、備後守宗綱の孫および曽孫が上西門院の代、玄孫の時代が八條院の代となる。

女院 女院在位
上西門院 保元4(1159)年2月13日~文治5(1189)年7月20日
八條院 応保元(1161)年12月16日~建暦元(1211)年6月26日

 これは宇都宮朝綱八田知家の世代と符合し、『尊卑分脈』に見るように「朝綱」「知家」が「備後守宗綱」の子であったとすれば、彼らは孫、曽孫世代と同じ時代に戦場に身を置いて戦いを繰り広げたという世代な矛盾が生じることになる。つまり宇都宮氏に関しては『尊卑分脈』の系譜自体が成立し得ないことになる。

 また、宗円子息とされる「四郎宗房(中原に改姓)」の官途は「中務丞」であるが、その子・宇都宮所衆信房(中原信房)の祖父である「造酒正中原宗房」の官途歴に中務丞はなく、宗円の子「宗房」と信房の祖父「宗房」は別人である。ここからも、宇都宮氏の系譜が「同名異人」を仮託して作り上げられた可能性を示唆する。 

                         +―藤原仲光――藤原経仲―――毛呂季光
                         |(散位)  (山城守)  (豊後守)
                         |
                         +―藤原実明――権僧正全玄
                         |(少納言) (天台座主)
                         |
                         +―藤原懐季――大法師忠春
                         |(刑部少輔)(阿闍梨)
                         |
 藤原懐平―+―藤原経通      +―藤原季仲―+―女子
(権中納言)|(治部卿)      |(権中納言)  ∥
      | ∥         |        ∥
      | ∥――――藤原経季―+―女子     源行宗
      | ∥   (治部卿)   ∥     (非参議)
 源高雅―+―女子           ∥      ∥
(中宮亮)||             ∥      ∥―――――法印任覚
     |+―源行任         ∥ 源基綱――女子   (東寺長者)
     | (但馬守)        ∥(権中納言)
     |  ∥           ∥
     |  ∥――――源高房    ∥――――――阿闍梨兼禅
     +―女子   (内蔵頭)   ∥
     |              ∥    +=藤原兼信――藤原家景
     +―女子           ∥    |(右馬助) (陸奥国留守所)
       ∥            ∥    |            
       ∥――――――――――――藤原兼仲―+       某友忠――――女子
       ∥           (左少将) |      (隼人大夫)  ∥―――――――藤原宗仲
 藤原兼隆――藤原兼房              |              ∥      (参河守)
(中納言) (中宮亮)              |              ∥
                         +―藤原宗綱――藤原宗房―+―藤原宗隆====藤原宗基
                          (備後守) (備後守) |(上西門院蔵人)(上西門院蔵人)
                                      |         ↑
                                      +―法橋良宗――――藤原宗基
                                               (安芸守)

 宇都宮氏が関白道兼流であるという伝は、鎌倉前期にはまだ創作されていなかったと推測される。建久6(1195)年正月8日、「豊後守季光与中條右馬允家長、起喧嘩、已欲及合戦之間、両方縁者等馳集」(『吾妻鏡』建久六年正月八日条)という事件があった。季光は「是大宰権帥季仲卿孫也」(『吾妻鏡』文治二年二月二日条)とあるように、季仲末孫(『吾妻鏡』では孫とあるが『尊卑分脈』は曽孫。季仲孫の忠春阿闍梨(比叡山大法師)は久安5(1149)年に卒去しており、世代的には曽孫世代となる)で、季仲の姉妹が宇都宮氏祖とされる少将兼仲室となる。その兼仲の子が備後守宗綱(宇都宮氏の系譜では八田宗綱と同一視)であり、宇都宮氏の系譜をもとにすれば、毛呂季光と家長は縁者(父が又従兄弟の関係)となる。

 この騒動の原因は「季光者有由緒、被准門葉之間、頗住宿得之思、家長為壮年之身、為知家養子、誇威権依現無礼、季光相咎」したことによるものだった。毛呂季光は頼朝から准門葉として重用されていたが、八田知家の養子(外祖父)である中條家長が知家の「威権」を利用して季光に「無礼」を働き、季光がこれを咎めたのであった。家長の拠所は常陸国守護だった養父(外祖父)の八田知家であり、准門葉たる季光を見下したことに問題の根本があったが、貴種の季光と貴種性のない家長(知家)が対比されており、知家の「道兼末裔」という貴種性はまったく考慮されていないことからも、宇都宮氏や八田氏は鎌倉初期段階ではこうした系譜ではなかったのではなかろうか。なお、家長が季光に行った「無礼」の内容は不明だが、季光の祖・太宰権帥季仲が長治3(1106)年に勅勘によって常陸国に流された(『中右記』長治三年二月十七日条)ことと関係しているのだろう。

 いつ頃から宇都宮氏が粟田関白道兼(道長実兄)を祖と仰ぐようになったのか。宇都宮氏に鎌倉期の系譜は現在確認されず、傍証を得ることは困難だが、藤原道長末裔を標榜し宇都宮氏と勢力を分かつ大族那須氏(本来は源氏所縁の首藤一族の可能性が高い)の影響が考えられないだろうか。宇都宮氏と粟田関白家を繋ぐ系譜は少なくとも鎌倉時代末期には成立していたとみられ、『尊卑分脈』や『三鈷寺宇都宮系図』には道兼末裔として記されている。

※藤原兼信には家景という子がいたとされ(『伊達世臣家譜』『留守系図』)、文治3(1187)年2月27日にその「右近将監家景」が京都から鎌倉に参着した(『吾妻鏡』文治三年二月廿八日条)。ただ、兼信の活動時期は家景の祖父世代と思われるため、この留守氏の伝をそのまま受け容れることはできないだろう。
 家景は「携文筆者」「仍北條殿慇懃被挙申之、在京之時試示付所之地頭事之處、始終無誤云々、二品御許容之間、今日召御前、則可賜月俸等之由、被仰下政所」という人物であった。「是元者、九條入道大納言光頼侍也」(『吾妻鏡』文治三年二月廿八日条)とあるように、葉室光頼入道に文筆を以って仕えていた下級被官(政所出仕か)で、頼朝は「其雖非指貴人、於京都之輩者、聊可耻思之旨」を「被仰含昵近之士」ている
 家景が仮に粟田関白の末裔・右馬助(左馬助とも)兼信の子であったとしても、その子であれば「非指貴人」であって、「貴種」とはいえ「貴人」ではない。なお、宇都宮氏の系譜と照らし合わせれば、宇都宮氏と留守氏はかなり近い親戚となるが、両者の交流は全くうかがえず、血縁関係は考えにくい。また、留守家景の母は畠山庄司重能女子(『留守系図』)とあるが、家景はもとより京都の人であり、現実的ではない。

宇都宮氏祖

千葉一族宇都宮・八田氏 > 宗円

宗円(????-????)

 宇都宮氏、八田氏の祖。八田権守宗綱の父。僧位は大法師日光山別当(宇都宮座主)

宇都宮二荒山神社
宇都宮二荒山神社

 宗円は「宇都宮左衛門申云、朝綱祖父大法師宗円、鳥羽院御宇永久元年被補当職以来、同三年親父下野権守宗綱、依神祇官之符、被補俗別当畢」(『日光山別当次第』)という後世の伝があり、永久元(1113)年に日光山別当(座主)に補されたという。ただし、この頃にはまだ日光山(補陀落山、二荒山)近辺には山神を祀る「神社」(神宮寺:中禅寺の建立伝は存在)はなく、下野国河内郡の東山道近隣に大社「二荒山神社」(『延喜式神名帳』)が造営されており、大法師宗円はその十一世別当と伝わる(『日光山別当次第』)。南北朝初期頃成立と思われる『三鈷寺宇都宮系図』においても「宇都宮座主」と記される。

 宗円は永久元(1113)年の別当就任から「治四年」とあり(『常行堂大過去帳』)、永久4(1116)年まで別当職であったことになる。別伝によれば「当山座主宗円」「天永二(1111)年十月(五日)」に入寂したともあり(『瀧尾山大過去帳』)、これによれば永久元(1113)年の別当補任自体成り立たなくなるため、別当補任時期は不明である。

 いずれにしろ、宗円の別当就任時期や期間に明確な傍証があるわけではなく、あくまでも推測の域を出ることはない。ただ、「大法師宗円」が日光山(宇豆宮)別当であったという諸伝があることから、彼が二荒山神社別当だったことはおそらく事実なのだろう。しかし「宗円」が道兼流藤原氏であったということは前述の通り伝承であろう。

 宗円は、宇都宮氏の系譜(『宇都宮系図』史料編纂所収本)によれば左少将藤原兼仲の子で、治安元(1021)年11月1日生まれ、母は「右衛門佐藤原頼任女」という。経歴は「石山寺、宇都宮座主」であるという。

石山寺
近江国の石山寺

 石山寺の「座主」については、代々権門子弟が就いていることや、相当世代の別当が判明(当初の石山寺は、東大寺の関連寺・石山院として、天平宝字5(761)年12月から翌天平宝字6(762)年8月までの九か月程をかけて伽藍整備が行われた(福山敏男氏「奈良時代に於ける石山寺の造営」『日本建築史の研究』1943)。初代座主とされる聖寶僧正の時期よりも百年程度前になるが、これ以前は華厳宗寺院として東大寺の影響下にあったと思われる)しており、史実ではない

 ただ、石山寺は東寺や醍醐寺などと同様、当時は真言密教寺院であり、宗円は石山寺が由緒地であると挙げる以上(「石山寺」は宇都宮氏の自家顕彰とは本質的に関係ないため、宇都宮氏の古伝であった可能性が高いだろう。ただし「座主」は自家顕彰の部類に入り、宇都宮座主へと繋がる系譜上の布石と考えられる)宗円は石山寺出身の真言密教僧であった可能性が高いだろう。宗円が石山寺僧であったとすれば、当時の石山寺別当は、五世深覚、六世深観あたり(『血脈類聚記』を見る限り、七世良深、八世覚仁は石山寺別当と推定でき、九代実意が石山寺別当の初見)とみられる。そして、宗円は、おそらく石山寺に関わる近江国の在地氏族、または在京氏族の子弟であろう。近江佐々木氏との関係(治承年中、佐々木定綱は下野宇都宮に留住している)も近江出身である可能性を強める。

●石山寺座主(『石山寺座主伝記』『血脈類聚記』第二)

座主 続柄 由緒
第一 聖寶僧正 兵部大丞葛聲王息
※光仁天皇末葉
真雅入室弟子
源仁灌頂門弟
就願暁、宗円等、学三論於東大寺、法相華厳
住醍醐寺、号尊師
建立東南院、興隆三論宗
貞観11(869)年、於興福寺維摩竪義勤之
本朝竪義始
東寺長者
元慶8(884)年受灌頂。年五十三
※或寛平2(890)年受灌頂
寛平6(894)年12月28日任権僧都、翌29日任法務
寛平8(896)年加二長者少僧都
延喜元(901)年任大僧都
延喜2(902)年3月任権僧正、東大寺別当
延喜6(906)年10月7日任僧正、為一長者
醍醐建立人、又両山共行始。官符以後経四ヶ年
延喜9(909)年7月6日卒、七十八
付法十人
第二 観賢僧正 秦氏(伴氏)
※讃岐国人
真雅入室弟子
聖寶受法灌頂弟子
仁和寺別当、最初醍醐座主、
金剛峯寺座主、元東寺凡僧別当
延喜2(902)年任権律師
延喜10(910)年6月任少僧都
延喜12(912)年5月兼法務
延喜19(919)年9月17日醍醐座主
同年9月19日任金剛峯寺検校
延長3(925)年3月23日任権僧正
同年6月11日遷化 七十三
付法七人七人
第三 淳祐内供 菅原右中弁淳茂子 観賢受法灌頂弟子 号普賢院内供
住石山普賢院故号石山内供
天暦7(953)年7月2日遷化 六十四。付法五人。
第四 寛忠大僧都 三品兵部卿敦固親王
(宇多法皇子)子
宇多法皇入室弟子
淳祐受法灌頂弟子
号宮僧都、池上僧都。東寺長者。元東大寺、後移住仁和寺也。安和2(969)年3月10日任少僧都。貞元2(977)年4月2日遷化。七十二
付法一人
第五 深覚大僧正 右大臣師輔子
母は雅子内親王
寛忠僧都入室弟子
寛朝灌頂弟子
号禅林寺大僧正、勧修寺長吏
永祚元(989)年12月2日於遍照寺灌頂堂伝法灌頂了
長徳4(998)年任権律師
長保4(1002)年任少僧都
寛弘8(1011)年4月任大僧都
寛仁3(1019)年任権僧正
寛仁4(1020)年任僧正
治安3(1023)年任大僧正
長元4(1031)年辞大僧正、譲深観内供、補少僧都
長久4(1043)年9月14日遷化 八十九
付法六人。
第六 深観僧都 花山天皇第四皇子   長元4(1031)年直任少僧都
長久4(1043)年12月任大僧都
永承5(1050)年6月15日遷化 四十八
第七 良深僧都 弾正弼正信子
※中務卿照登親王子とも
深観僧都入室弟子
醍醐寺座主権僧正覚源(花山院御子)灌頂弟子
号石山僧都
承暦元(1077)年8月21日遷化 五十三
第八 覚仁律師 内大臣能長子
母は弾正宮女
醍醐寺座主定賢灌頂弟子 号は石山律師
康和2(1100)年5月於醍醐寺無量寿院受之
第九 実意法眼 春宮大夫公実子 覚仁僧正入室弟子
大僧正寛助灌頂弟子
阿闍梨、石山別当
天治元(1124)年11月29日於成就院授灌頂
仁平3(1153)年2月6日遷化 六十三。
第十 公祐僧都 内大臣藤原公教
(1103-1160)の子
   

 また、下野国に下向するに当たっての伝としては、系譜註に「天喜元年、為東夷安平依勅命奉幣於諸社、又受詔下向下野為朝敵降伏執行豊鎮射法、而東国安平也、因玆康平五年被補下野国司、天永元年十月五日寂、九十三歳」とある。

 ここに見える「東夷安平」とは、「天喜年中、伊予守源頼義、同八幡太郎義家為追討安倍貞任下向於奥州座主」(『宇都宮正統系図』)にみえる奥州戦役(前九年の役)のことで、源頼義は前陸奥守藤原登任と合戦した安倍頼良の叛乱鎮定を目的に、永承6(1051)年に「被任彼国」(『本朝続文粋』)して奥州に下向することとなるが、このとき宗円が同道したということであろう(系譜では頼義は天喜年中に下向とあるが誤りである)。ただし、前述の通り、大法師宗円が日光山別当となった伝があるのは永久元(1113)年であり(『常行堂大過去帳』)、この別当伝と頼義下向の時期を比較すると、宗円別当就任は頼義奥州下向の約六十年後となる。頼義が奥州下向時、東山道至近の二荒山神社に安倍頼良調伏の祈祷を行ったことは十分にあり得るが、「頼義が」若僧の宗円を京都から同道し、二荒山神社で調伏の祈祷を行わせたということ自体は後世の脚色と考えるのが妥当であろう。そもそも一連の宇都宮氏の系譜に見られる宗円の事歴は、祈祷の功績によって「賜下野国」(『宇都宮正統系図』)「被補下野国守護職」(『宇都宮系図』)という、明らかに氏族顕彰に基づく創作がみられ、右大将頼朝の祖である将軍頼義、陸奥守義家との繋がりによって宇都宮を継承したことを強調する意図が明確に表れている

 他国僧・宗円が下野国へ移る理由や、名神大社たる二荒山神社の別当となるには、強力な権力が必要と考えられる。宇都宮氏が系譜で源家との由緒を強調している背景を考えれば、宗円下向と二荒山神社別当就任には、延久2(1070)年8月1日以前に下野守に補任された「下野守源義家」(『扶桑略記』延久二年八月一日条)との関わりを考えるのが適当か。

 義家は下野守在任当初、遥任ではなく任国に下向して陸奥国の「散位藤原基通」を追捕し投降させている(『扶桑略記』延久二年八月一日条)。系譜に見える宗円の下野国移徒の伝は、宗円が下野守義家の祈祷僧として下野国に同行した事実を元とし、系譜上でより顕彰的に華やかに脚色された可能性があろう。宗円は下野守義家の影響下で、式内大社二荒山神社の社僧となり、別当職を継承するに至ったのではなかろうか。なお、宗円は宇都宮に来た当初から「大法師」位を有していたのかは不明であるが、二荒山神社においても軽んぜられない僧位にあったのは間違いないだろう(それまでの社内からの別当補任の慣習を改めてまで宗円が別当に就いていることを考えれば、宗円はそれなりの僧位にあったと推測できよう)。義家後任の下野守は義家の弟・義綱が補任されており、下野国はしばらく源家の強い影響下に置かれ、源家と所縁の宗円は二荒山神社僧の中で強い権勢を得ていた可能性があろう。

 宗円は『宇都宮正統系図』によれば「天喜年中、伊予守源頼義、同八幡太郎義家為追討安倍貞任、下向於奥州坐主、亦康平三年、為調伏貞任、来住于宇都宮、于時十八歳也」という(『宇都宮正統系図』)。康平3(1060)年当時18歳であれば長久4(1043)年生まれとなるが、「天永元年十月五日寂、九十三歳」とする系譜(『宇都宮系図』史料編纂所収本)を逆算すれば寛仁2(1018)年生まれとなり、両系譜では二十五年もの齟齬が生じることから、どちらも採用するには躊躇する。死去年月についても天永2(1111)年10月薨去の伝(『瀧尾山大過去帳』)があるが、永久4(1116)年まで座主を務めた伝(『常行堂大過去帳』)もあり、現在の様々な伝承では、宗円の生年および没年は伝承の域を出ることはない。

■宗円の出自別説

 宗円の出自については、道兼流ではなく道長流中御門家の「大宮右大■殿御子」(『中右記』天仁二年十月廿六日条)「三井禅師宗円君」(『中右記』康和四年四月十九日条)に同定する研究がある。しかし、この「三井禅師宗円君」は、甥の参議藤原宗忠の世話を受けている人物であり、園城寺に籍を置いてはいるが、宗忠が生活を支援している在京の僧侶である。

 三井寺僧宗円の年齢は不明だが、宗忠よりも年上だとすれば、宗忠に頼らざるを得ない理由(心身疾患等)があった可能性がある。一方で父の右大臣俊家最晩年の子とすれば、宗円はこの頃二十代前半となり、宗忠よりも二十歳ほど若いことになる。そうだとすれば、宗忠は身寄りのない弱冠の叔父を支援したことになる。宗忠亡父の権大納言宗俊が幼い弟・宗円を園城寺に在籍させつつも健康面などを考慮して寺に入れずに支援していたのかもしれない。

 「三井禅師宗円君」は予てより中御門家由緒の「美福小堂」を欲しており、宗忠は康和4(1104)年4月19日、美福小堂に「堂領庄二ケ所豊田、膽駒」(『中右記』康和四年四月十九日条)を付けて彼に譲り渡している。彼の生活の基盤として与えたものとみられる。そして翌康和5(1103)年10月8日夕方、宗忠は「相具三井寺禅師宗円君、詣法務僧正房、令成弟子、僧正者已為薗城寺長吏、仍所付奉也」(『中右記』康和五年十月八日条)といい、宗忠が同道して宗円を園城寺長吏増誉僧正の付弟とした。増誉僧正は宗円禅師の義叔父内蔵頭師信の実甥であり、宗忠はその伝手で増誉に依頼したのだろう。

                                   藤原実綱――女子
                                  (式部大輔) ∥――――――藤原宗忠
                                         ∥     (右大臣)
                           源隆国―――――女子    ∥
                          (大納言)    ∥―――――藤原宗俊 
       高階業忠――女子                    ∥    (権大納言)
      (高二位)  ∥――――+―藤原伊周―――女子      ∥
             ∥    |(内大臣)   ∥―――――+―藤原俊家――宗円禅師
             ∥    |        ∥     |(右大臣) (三井寺禅師)
             ∥    |        ∥     |
       藤原兼家  ∥    | 藤原道長―――藤原頼宗  +―女子
      (摂政)   ∥    |(関白)   (右大臣)    ∥
       ∥     ∥    |                ∥
       ∥―――――藤原道隆 +―藤原隆家           ∥―――――藤原公衡
       ∥    (関白)   (中納言)           ∥    (少納言)
       ∥            ∥              ∥
 源仲正―――女子           ∥――――――藤原経輔  +―藤原師信――藤原経忠
(摂津守)               ∥     (権大納言) |(内蔵頭) (中納言)
                    ∥      ∥     |
             源兼資――――女子     ∥―――――+―藤原師家
            (伊予守)          ∥      (右中弁)
                           ∥       ∥―――――法務大僧正増誉
                    藤原資業―――女子      家女房  (園城寺長吏)
                   (式部大輔)         (師家乳母)

 右大臣藤原宗忠は熊野詣を人生の大きな目標の一つとしていたが、なかなか叶わずに時が流れていた。実際に熊野詣に踏み切ったのは三度あるが、そのうち二度は出立の準備まで行ったのち「死穢」によって中止せざるを得なかった。そのうち二度目の延引の原因が「依三井寺禅師君非常事大宮右大■殿御子(『中右記』天仁二年十月廿六日条)であった。

 「三井禅師宗円」の入寂は、増誉の付弟となった康和5(1103)年10月から天仁2(1109)年9月頃の宗忠熊野詣までの六年の間となるが、「三井寺禅師君」の薨伝が『中右記』康和5年以降に見えず、その間に宗忠の熊野詣の予定も見えないことから、「依三井寺禅師君非常事」は、『中右記』闕書の天仁2(1108)年正月から9月までの可能性が高いだろう。

 宗円禅師は入寂まで三井寺僧であり、宗忠とも密接な関係を取り続けていることから、彼は宗忠と連絡の取れる京都周辺(美福小堂か)に居住していたことがわかる。康和5(1103)年10月に宗忠に連れられて(一人で赴いたのではなく宗忠が相具している)、ようやく三井寺長吏増誉の門弟となった人物が、ほぼ同時期に「大法師」位にあり(『日光山別当次第』)、京都から遠く離れた下野国の二荒山神社別当として多数の社僧、神職を統べていたとは到底考えられない。つまり「三井寺禅師君宗円」と二荒山別当「宗円大法師」は別人であるとするのが妥当だろう。

 同時代の「宗円」という僧侶はこの三井寺禅師のほかにも、史料上では三井寺「阿闍梨宗円」が見える(『尊卑分脈』)。彼は小野宮実頼末孫の参議公定(承徳3(1099)年7月2日、51歳薨)の子で、笙を嗜み「後冷泉北人」の左衛門命婦に相承している(『箏相承系図』)。彼のその後は知れないが、二荒山別当宗円に「阿闍梨」の伝はなく、やはり日光山別当宗円とは別人である。

 当然ながら彼ら以外にも史料に現れることのない「宗円」という僧侶は多数いただろう。この宗円に限らず、史料上に偶然現れる「同名」の人物を明確な矛盾があるにも拘わらず同定することは避けるべきである。

■日光山と宇都宮について

神橋
日光神橋

 「日光山」は、日光山一帯の山岳地帯を観音菩薩の住まう補陀落浄土とみなし、深く信仰された霊場であった。古くは空海が日光山をして「補陀落山」(『性霊集』)と称した伝承がある。

 この「補陀落山(二荒山、日光山)」を遥拝する社殿が「河内郡」の「二荒山神社」(現在の宇都宮市の二荒山神社)であろう。延喜期(十世紀前半)によれば、下野国には十一座の神社が把握されており、大社は一座、小社は十座となっている(『延喜式』巻十 神祇十 神名式下)。この国内唯一の大社が「河内郡一座」の「二荒山神社」(『延喜式』巻十 神祇十  神名式下)である。二荒山神社はとくに朝廷が何らかの事象により臨時に行う「臨時祭」に際し、奉幣使が遣わされる格のある「名神」大社に列せられており(『延喜式』巻三 神祇三  臨時祭)、別格の神社であった。現在の主祭神は下毛野氏が祖神として祀っていた豊城入彦命となっているが、時代の趨勢により本来の補陀落信仰に加えて、下野国の有力豪族下毛野氏の祖神・豊城入彦命が祀られるようになり、後年になり軍事拠点としての宇都宮に国家鎮定の守護神として事代主神や建御名方神の兄弟神(大和国の三輪山造山伝承のある大己貴命の子神)も合祀されていったのかもしれない。

 平安時代中期の下野国河内郡は「丈部、刑部、大続、酒部、三川、財部、真壁、軽部、池辺、衣川」(『倭名類聚抄』)で構成されており、二荒山神社はこのうち「丈部郷(宇都宮市)」にあり、社殿は古東山道の西の丘陵上に築かれ、当時も東山道から見ることができただろう。社格は前述の「名神大社」として国家登記されているように非常に高いもので、寛仁元(1017)年9月20日、新天皇「一代一度奉幣」の「東山道使」に決定された「右近衛権少将平明範」が「近江国日吉、美乃不破、信濃須波、上野貫前、下野二荒、陸奥鹽竈、出羽大物忌」(『左経記』寛仁元年十月廿日条、同年十月廿二日条)へ派遣されている。二荒山神社は、こうした社格を以って「宇豆宮」(「宇豆」とは尊貴を意味する古接頭辞である)の尊称を持っていたのかもしれない。永万元(1165)年6月に神祇官把握の年貢進社に「下野国 宇豆宮上馬二匹」と見える(「神祇官諸社年貢注文」:『永万文書』『平安遺文』3358)

 なお、日光山の属する「都賀郡」には、小社「大神社、大前神社、村檜神社」の三社のみがみえることから(『延喜式』巻十 神祇十  神名式下)、日光山自体に朝廷が把握する「神社」はなかったことがわかる(ただし、日光山中腹には寺院の比較的大きな伽藍は存在したようである)。

●下野国式内社

郡名 社名 祭神(後世含む) 所在地
都賀郡 大神社
※大「神」神社か
オホムワ 大物主命 栃木市惣社町?
大前神社 オホサキ 大己貴命 栃木市藤岡町大前磯城宮
村檜神社 ムラヒ 誉田別命 栃木市岩舟町小野寺
河内郡 二荒山神社 フタアラ 大(名神) 豊城入彦命
大己貴命
宇都宮市馬場通
芳賀郡 大前神社 オホサキ 大己貴命 真岡市東郷
荒樫神社 アラカシ   芳賀郡茂木町小井戸?
那須郡 健武山神社 タケムヤマ 素盞嗚尊?
大己貴命?
金山彦命?
那須郡那珂川町健武
温泉神社 大己貴命
少彦名命
誉田別命
那須郡那須町湯本
三和神社 ミワ 大物主命 那須郡那珂川町三輪
寒川郡 阿房神社 アハ 太玉命 小山市粟宮
胸形神社 ムナカタ  多紀理毘売命
多岐都比売命
市寸島比売命
小山市寒川

 「二荒山神社」は貞観2(860)年9月9日に「始置神主」(『日本三代実録』)とあり、それまで「神主」は置かれていなかったことがわかり、僧侶の別当または俗別当(俗世)が「検校」として二荒山神社の社務を担っていたのだろう。

●国史に見る「二荒神」の叙位

年月日 前神位 神位 出典
承和3(836)年12月25日 従五位上勲四等 正五位下 『続日本後紀』
承和8(841)年4月15日 正五位下勲四等 正五位上 『続日本後紀』
嘉祥元(848)年8月28日 正五位上勲四等 従四位下 『続日本後紀』
【この間の叙位不明】      
貞観元(859)年正月27日 従三位勲四等 正三位 『日本三代実録』
貞観2(860)年9月19日   【始置神主】 『日本三代実録』
貞観7(865)年12月21日 正三位勲四等 従二位 『日本三代実録』

 下野大掾として下野国に下向した紀清主(紀貫之叔父)は「住下野国」(『紀氏系図』)とあるように下野国に土着。その子朝氏は「紀検校」(『紀氏系図』)「紀検校、宇都宮俗別当、司社職」(『堀田芳賀系図』)となり、二荒山神社と直接的に関わりを持ったとみられる。紀検校朝氏は紀貫之、紀友則とは従兄弟同士であり、紀貫之が天慶8(945)年に亡くなったとすれば、紀朝氏もその頃の人物であり、二荒山神社を「検校(=俗別当)」として統括したのだろう。

日光山内
日光山内

 朝氏の弟「朝有 芳香小太郎(『紀氏系図』)は河内郡東隣の芳賀郡(東真壁郡)に移り住んでおり、のちの宇都宮家の主力となる「紀清両党」の「清党」芳賀氏(系譜が曖昧であり清原氏との関わりが定かではない)の祖となった可能性もあるか。紀検校朝氏の子、紀三郎朝忠も「紀清両党」の「紀党」益子氏の祖となる。なお、下野国に移ったと伝わる清原氏もあるが(『諸家系図纂』)、「春宮亮織茂」のように清原氏が東宮亮に就くことは考えにくく、別流か。芳賀氏の系譜によれば、舎人親王九代末葉の「滝口蔵人清原高澄」の子、高重が花山天皇の勅勘により下野国へ配流され「芳賀郡大内庄」に居住したのを始めとし(『栃木県史』第十六巻)、その七世孫の次郎大夫高親が、文治5(1189)年8月7日に主君朝綱の甥、結城七郎朝光に従って奥州藤原氏の大将藤原国衡が警衛する阿津賀志山で勲功を挙げた「波賀次郎大夫」(『吾妻鏡』文治五年八月七日条)という。

●『紀氏系図』(宮内庁書陵部蔵)、『堀田芳賀系図』

 紀梶取―+―紀興道――――紀本道――+―紀望行―――――紀貫之
(中納言)|(右兵衛督) (下野守) |        (木工頭)
     |             |
     |             +―紀有友―――――紀友則
     |             |(宮内権大輔) (大内記)
     |             |
     |             |【住下野国】  【宇都宮俗別当】
     |             +―紀清主―――+―紀朝氏―――――紀朝忠
     |              (下野大掾) |(紀検校)   (紀三郎)
     |                     |
     +―紀名虎――――紀有常――――女子    +―芳香長有――――紀有行――+―紀清行
      (右兵衛督) (周防権守)  ∥      (小太郎)   (左衛門尉)|(左衛門尉)
                     ∥                    |
                     ∥―――――――在原棟梁         +―紀有任
                     ∥      (筑前守)         |(右近将監)
       平城天皇―――阿保親王―――在原業平                 |
             (弾正尹)  (右近衛権中将)              +―紀有雅
                                           (木工助)

●清原系図(『諸家系図纂』)

                藤原経清
               (亘理権大夫)
                ∥――――――藤原清衡
                ∥     (陸奥押領使)
        安倍頼時――――女子   
                ∥――――――清原家衡
                ∥
                ∥                          【住下野国】
 清原光方―+―清原光頼  +―清原武貞―――清原真衡               +―清原雅直―――清原雅氏―――清原茂雅
(兵部大輔)|       |(荒河太郎)                     |(下野少掾) (清八大夫) (正五位上)
      |       |                           |
      +―清原武則――+―清原公清―――清原公家―――清原公村―――清原雅職―+―清原織茂―――清原遠房―――清原光房
       (鎮守府将軍) (清太)   (博士)   (但馬守)         (春宮亮)  (大炊助)  (音博士)

日光山内
日光山内(江戸期の東照宮)

 本格的に日光山周辺に権門寺院の系統を引く寺院造営の手が入り始めるのは、天台僧の光智房聖宣(十六世別当)の代と思われる(日光山中腹、中禅寺湖を望む一帯には平安時代初期の勝道上人が造営したと伝わる中禅寺の「大伽藍」が形成されていたようである(藤原敦光『中禅寺私記』)。本尊は「丈六千手観音像」で補陀落山信仰の本尊であろう)。別当聖宣は久安元(1145)年までに日光山内に常行三昧堂を建立し、自ら「常行堂検校」(保元三年十月二日「常行堂検校法師聖宣請文写」『輪王寺文書』)と称し、比叡山に倣った修行道場の礎を築いた。

 仁平3(1153)年3月2日の除目で下野守に補された源義朝(源頼朝の父)は、保元元(1156)年12月までの任期中に「造日光山」を行っており、成功が認められて保元元(1156)年12月29日の除目で下野守重任を果たしているように(『兵範記』保元元年十二月廿九日条)、この頃には日光山の寺院造営が盛んに行われた様子がうかがえる。こうした流れの中で、二荒山を信仰対象とした二荒山神社は、天台密教を色濃く反映した二荒山麓寺院の日光山と、古来からの河内郡二荒山神社(宇豆宮=宇都宮)の二つに分裂し、日光山「別当」は日光山に居住し、二荒山神社は宇都宮検校が社務職を執り行ったのであろう。

 なお、鎌倉中期以降に宇都宮氏と近い人物が編纂した和歌集『新和歌集』には、「権律師謙忠」が「宇都宮にてよみたてまつりける」歌として、

あつまちやおほくのゑひすたひらけて そむけはうつのみやとこそきけ(『新和歌集』)

が載せられている。

 宗円が宇都宮へ下向して調伏を行ったという系譜上の宇都宮氏発祥譚にもあるように、宇都宮周辺が陸奥国へ至る重要な軍事的拠点として位置づけられていたことは間違いないだろう。この宇都宮の地理的条件が、本来は観音浄土思想の聖地という清浄的性格に加えて、蝦夷調伏の社という軍事的印象が植え付けられる要因になったのだろう。国家鎮定の守護神として事代主神や建御名方神の兄弟神が二荒山神社に合祀されたのもこの頃かもしれない。なお、歌にある「そむけはうつのみやとこそきけ」の「うつ(討つ)」はあくまでも宇都宮で詠んだ和歌にちなみ、掛詞として用いているのであって、これを「宇都宮」の語源とするのは明確な誤りである。


千葉一族宇都宮・八田氏 > 八田宗綱

八田宗綱(????-????)

 宇都宮別当宗円大法師の子(『尊卑分脈』)。通称は座主三郎(『尊卑分脈』)八田権守(『尊卑分脈』『小野氏系図』)八田武者(『吾妻鏡』治承四年十月二日条)。官途は下野権守(『日光山別当次第』『建保五年四月十七日棟札写』)備後権守(『宇都宮系図』)。母は益子権守紀正隆女(『宇都宮正統系図』)妻兵衛局(近衞局ともされるが、「近衞院八田局」の事か)は源頼朝の乳母として召されており(『小野氏系図』)、兵衛局が源為義・義朝父子の有力な協力者であった武蔵国の秩父権守重綱妻と従姉妹だったことから、源義朝(源頼朝父)との関係を強めたのだろう。

 宗綱父の大法師宗円は、下野守源義家との関係が考えられ、子・宗綱は別当宗円の権威をもとに二荒山神社社家を従わせて神領経営をも行いながら、二荒山神社社務職を兼ねる武家・宇都宮氏勢力伸長の礎を築いたのだろう。「八田」は常陸国や下野国とも関係がありそうではあるが(八田の名字地について)、決定的な地はない。推測ではあるが、父宗円が「石山寺」を由緒地とし、宗綱が当初から「八田権守」と称しているとすれば、父宗円自体がそもそも「八田」という地を治めていた氏族出身者の可能性があろう。つまり、近江国の「八田」を名字地としているとすれば、東国における八田氏の名字地は存在しないことになる。近江国との関係としては、寿永年の初めごろには近江源氏の佐々木定綱が宇都宮に拠っていたことも可能性を示唆していよう。

 宗綱父の石山寺僧宗円が、源為義(源義朝父)の父・義家とともに下野国へ下向したとすれば、宗綱はその関係を継承し、義家の子・為義の被官となっていた可能性がある。また、宗綱は関東における源家最大の協力者である秩父権守重綱とも関わりを持っており、宗綱の妻・兵衛局(小野三太夫成任女子)は秩父権守重綱の縁者(重綱妻の従姉妹)である。こうした縁か、宗綱妻や女子(のちの寒河尼)は久安3(1147)年に生まれた義朝三男・頼朝の乳母として召されている。秩父氏所縁の頼朝乳母としては、郡司比企氏(のち比企尼。秩父平氏の惣領屋敷がある比企郡の郡司家出身で、当時在京して官吏家の掃部允某の妻となっていた)も挙げられる。

 久安3(1147)年の頼朝誕生時には、相模中村党出身の義朝乳母(摩々局)の娘とみられる「御乳付之青女(摩摩)」(『吾妻鏡』治承五年閏二月七日)や比企氏女子(のち比企局)とともに、兵衛局も乳母の列に加わっていたのだろう。なお、宗綱には頼朝誕生当時九歳になる女子(のち寒河尼)がおり、彼女も頼朝乳母として召される(頼朝幼少時から傍近くにいてともに成長し、のち乳母として召されたのだろう)。さらに、寒河尼の弟に頼朝誕生当時四歳の男子(八田四郎知家。母は多気権守致幹女子か。年齢から寒河尼と同じ可能性)がおり、推測であるが知家も頼朝と幼少時から深く関係を持ち、これが知家を義朝の子とする系譜(『宍戸系図』他)が作られるきっかけとなった可能性があろう。なお、頼朝には安房国の源家領丸郷に居住する在庁官人安西氏の子息・安西三郎景益「御幼稚之当初、殊奉昵近者」(『吾妻鏡』治承四年九月一日条)とあるように近侍の一人となっている。

 義朝や頼朝は在京の貴族であることから、宗綱や妻、女子もまた当時は在京であったろう。宗綱女子は保延4(1138)年に誕生しており(『吾妻鏡』安貞二年二月四日条より逆算)宗綱は保延~仁平年間(1135~1154)頃に鳥羽院「武者所」だったのだろう。宗綱の嫡子・朝綱も「鳥羽院武者所、後白川院北面」(『尊卑分脈』)と見えることから、同時期に在京していたと思われる。

 なお、宗綱が武者所として在京し、宗綱女子(寒河尼)が生まれた保延4(1138)年当時、義朝は十五歳の少年でこの頃武蔵国比企郡の秩父権守重綱のもとにいたと思われることから、当時の宗綱は義朝父・六條判官為義に従属していた可能性が高い。なお、義朝は天養元(1144)年末頃上京するまでは関東に在住している(義朝は上洛後も京都と関東を行き来しているが、下野守補任によって在京となり、往来は途絶えたため、代わって次弟の散位義賢が関東へ遣わされたのだろう。当然ながら義朝「廃嫡」という理念は存在し得ない)

 その後、宗綱女子は京都で大番役として上洛したとみられる小山政光(知己であったか義朝の仲介か)に嫁いだ。宗綱女子は小山政光の末子・七郎朝光(結城氏祖)の母であるが、朝光の兄である小四郎朝政、五郎宗政とも同母とする系譜があり(『結城白川系図写』(「秋田藩家蔵文書二六」)、『続史籍集覧』「秀郷流藤原氏諸家系図 上」ほか)、朝政母が宗綱女子であれば、彼女が十九歳の久寿2(1155)年に京都で朝政を生んだことになる(『吾妻鏡』嘉禎四年三月卅一日条より逆算)

氏名 生年 寒河尼が
産んだ年齢
当時の
頼朝の年齢
生年時の頼朝在所 没年 没年齢
寒河尼   保延4(1138)年 安貞2(1228)年2月4日 91歳
小山朝政  久寿2(1155)年 19歳 9歳 京都(対面した可能性) 嘉禎4(1238)年3月30日 84歳
長沼宗政  応保2(1162)年 25歳 15歳 伊豆(対面していない) 仁治元(1240)年11月19日 79歳
結城朝光  仁安3(1168)年 31歳 21歳 伊豆(対面していない) 建長6(1254)年2月24日 87歳

 義朝は仁平3(1153)年3月2日の除目で「下野守」に補任され、任期中の「造日光山」の功績が認められ、保元元(1156)年12月29日の除目で下野守重任を果たしている(『兵範記』保元元年十二月廿九日条)。この背景には、日光山別当の天台僧光智房聖宣(十六世別当)のもと進められていた日光山麓の台密修行道場の開発事業が根本にあったと思われる。光智房聖宣は久安元(1145)年までに、日光山内に比叡山に倣った常行三昧堂を建立、自ら「常行堂検校」(保元三年十月二日「常行堂検校法師聖宣請文写」『輪王寺文書』)と称し、台密道場の礎を築いた。宇都宮氏と日光山との間には対立関係がないことから、義朝の日光山開発は宗綱及び朝綱からの働きかけも強く影響している可能性があろう。この開発により、日光山は天台密教を色濃く反映した二荒山寺院と、古来からの二荒山神社の二つに分かれ、日光山「別当」は日光山に居住、二荒山神社は神宮寺として「宇都宮検校(事実上宇都宮氏が世襲か)」が社務職を執り行ったのだろう。

 宇都宮氏の出自は道兼流藤原氏とされるが、その系譜上の側註や系は相当に錯綜しており、混乱が大きい。異説では右大将道綱の孫の勅撰歌人・讃岐守顕綱の子とも(『尊卑分脈』)。顕綱女子で「堀川院御乳母」(『三代集間之事』)「堀河院御乳母」(『中右記』長承二年七月十四日条)の藤原兼子(讃岐三位)は白河院典侍で歌人でもある。彼女は伯父の左馬頭敦家に嫁ぎ、刑部卿敦兼及び女子(権中納言俊忠妻、太皇太后宮大夫俊成母)の母となる。八田宗綱の曽孫・宇都宮頼綱は歌人として大成し、その娘は俊成孫の中院大納言為家の妻となっている。もしも宗綱が讃岐守顕綱の子であるとすれば、宇都宮家と中院家(御子左家)は遠縁となるが、その可能性は低いだろう。まず宗綱は「武者所」に属するなど『尊卑分脈』の道兼流藤原氏の系譜に見える「備後守、下野守」を歴任するような諸大夫層ではなく侍品である。さらに讃岐守顕綱の子・右少将宗通(宗綱兄)は永久4(1116)年正月25日に65歳で薨去(1052-1116)、讃岐三位兼子(宗綱姉)は長承2(1133)年7月13日に84歳で薨去(1050-1133)(『中右記』長承二年七月十四日条)しているように、彼らはいずれも八田宗綱の一世代前の人物となる。姉妹の三位兼子(堀河院乳母)も家格、官途、世代の面から、道綱流藤原氏の系譜にも当てはまらず、実在の人物としても八田宗綱とは同名別人である。

 『尊卑分脈』道兼流の宗綱項の側註に記されている宗綱の出自について見てみると、彼が中原氏出身であることを「曖昧」ながら強く匂わせる記載となっている。

                   外記 安房守   外記 伊豆守
        或云本姓中原也 中原宗忠      宗家
        宗綱彼宗家子也云々

       始為叔父兼仲相続、後生息子宗房、即為兼仲継嗣、而帰実父宇都宮流畢
 八田権守  又 為外記中原宗家子後帰本姓
宗綱
 号座主三郎

 ただし、宗綱の子の朝綱知家治承年中までにはいずれも「藤原」氏を称していることから、少なくとも宗綱自身は「藤原」姓であったろう。本来中原姓の宗綱が藤原姓の大法師宗円の女婿となって改姓したのか、宗綱は藤原姓の大法師宗円の実子であるのか、今となっては知る由もないが、軍事貴族でもない京官家の「中原」宗綱が俄かに下野国に下り、二荒山神社の大法師宗円と関わりを持ち得たとすれば、それは源家との由緒に求めるのが理想的であるが、宗綱の伝としては前述の通り永久3(1115)年に二荒山神社の「俗別当」に就任したとされ(『日光山別当次第』)、源家が下野国への公的な影響力を失ってかなりの時間が経っていることを考えると、源家が俗別当就任に直接的に介入したとは考えにくく、やはり宗綱は義家に従って京都から下野国に下向した別当大法師宗円(藤原姓)の実子であった可能性が高いのではなかろうか。

 宗綱は「宇都宮左衛門申云、朝綱祖父大法師宗円、鳥羽院御宇永久元年被補当職以来、同三年親父下野権守宗綱、依神祇官之符、被補俗別当畢」(『日光山別当次第』「宇都宮左衛門尉申文」)と述べているように、永久3(1115)年に二荒山神社の「俗別当」に就任したとされる。宗綱は「故八田武者宗綱」(『吾妻鏡』治承四年十月二日条)とあることから、鳥羽院武者所に伺候した経歴を持っており、その時期は前述の通り保延~仁平年間(1135~1154)頃であった可能性が考えられるので、俗別当就任を経て上洛し、武者所に抜擢されたことになる。なお、大法師宗円の跡は「快舜阿闍梨」(『日光山別当次第』)別当を継いだとあり、宗綱が就いた「俗別当」がいかなる職掌なのかはわからない(宇都宮検校と同意か)。

 宗綱の長男の三郎朝綱も系譜上「鳥羽院武者所、後白河院北面」(『尊卑分脈』)、次男の四郎知家も「八田武者所知家」(『吾妻鏡』治承五年閏二月廿三日条)とみえるように、八田宗綱三郎朝綱四郎知家の父子三名はいずれも院武者所に出仕し、とくに朝綱は京都での生活が相当長い京都に馴れた人物であった。

 宗綱は治承4(1180)年10月時点で「故八田武者宗綱」(『吾妻鏡』治承四年十月二日条)で、おそらくすでに故人だったのだろう(ただし「故八田武者宗綱」の時制が『吾妻鏡』編纂時のものの可能性は残る)。没年については応保2(1162)年8月20日に七十七歳で卒去(『宇都宮正統系図』)、平治元(1159)年8月20日(『宇都宮系図』)ともある。

 なお、『尊卑分脈』ほか宇都宮氏に関する系譜では、宗綱の兄弟に「宗房(四郎、中務丞)」がみられるが、彼の子が「宇都宮所衆信房」となる。彼は「中原信房」を称しているように中原姓であるが、「所衆中原信房者依為造酒正宗房孫子」(『吾妻鏡』文治二年二月廿九日条)とあるように、祖父は「造酒正宗房」であった。信房の父と祖父が同名の「宗房」であることから、これらが『尊卑分脈』上の「誤記」として、信房父は名前不詳の人物とされているものが散見される。しかし、官途からして『尊卑分脈』の「中務丞宗房」と『吾妻鏡』の「造酒正宗房」は同名別人であることは明らかで、同定する必要はない

 宇都宮氏の系譜は、道兼流藤原氏の人物名と八田宗綱周辺の人物名を比較するに、前述のとおり世代的にも官途的にも同名ながら同一人物とは考えにくい人物が同定されている。按ずるに宇都宮氏が系譜を作成(那須氏が道長末裔を称したこととの関係が考えられるか)する際に、自家の父祖と道兼流藤原氏の人物名が重なることを見出し、これに仮託した系譜が創作された可能性が考えられよう。信房の祖父が「造酒正宗房」で、信房の父「中務丞宗房」が「改姓於中原」(『尊卑分脈』)が真であるとするならば、三郎宗綱の弟・四郎宗房(中務丞)が中務省出仕など在京時に造酒正中原宗房の女子と婚姻し、猶子となって改姓し、信房が誕生したと考えることができる(宇都宮信房に繋がる中原氏)。

■八田の名字地について

 名字の地となった可能性のある「八田」は諸所にみられるが、そのうち四か所を考察する。

【一】小栗御厨内八田

 現在の筑西市八田周辺に相当し、小貝川流域の肥沃な一帯である。常陸国府から恋瀬川に沿って下野国方面へ向かうルートのひとつが存在したと思われ、治承4(1180)年11月8日、頼朝は佐竹氏との金砂合戦後を終えて常陸国府から鎌倉へ帰還するにあたり、小栗十郎重成の「小栗御厨八田舘」に寄宿した。

 小栗御厨は東西に広大に広がる御厨で、小栗氏の支配領域にあり荘官として「八田舘」を小貝川流域の重要な拠点の一つとして有していたとみられ、その規模も頼朝を迎えるに躊躇しない大きさと考えられる。この八田は小貝川を挟んで(当時は川を挟んでいなかった可能性)存在しており、「小栗御厨八田舘」がその何処にあったのかは不明だが、それほど広範囲でもない八田の地に他氏が入る余地はないだろう。

 それ以前に、この「八田」が交通の要衝であったとしても、他国から来たいわば根無しの氏族が俄かに所縁のない常陸国に根を下ろしながら下野国が行動の中心地(八田宗綱は宇都宮俗別当の伝が存在することや『源平盛衰記』に下野国の八田四郎と見えることから、八田氏は下野国の人物と受け取られていたのだろう)となることの不自然さや、初期八田氏の存在の根幹を為す「宇都宮」および神領との関連もなく、八田宗綱の妻とされる「常陸大掾棟幹」に比定できる常陸由緒の人物も同時代に存在しないことから、この小栗御厨内八田は、八田権守宗綱とは無関係であろう。

【二】那珂郡八田郷

 現在の常陸大宮市八田に相当する。治承4(1180)年当時、八田知家が居住していた宇都宮神領とみられる「下野国本木郡(茂木町)」の東10㎞ほどにあり、那珂川を下った東岸に位置する。玉川越しに北東方面には金砂合戦の戦場となった金砂城があり、佐竹氏との接点となる。『倭名類聚抄』の常陸国那珂郡「幡田」郷と同定される(「幡田郷」はひたちなか市の那珂川河口部が通説(ひたちなか市教育委員会、ひたちなか市文化・スポーツ振興公社編『武田石高遺跡』)だが、該当地名は存在せず疑問)

 知家の兄・宇都宮朝綱の女子は佐竹冠者秀義の「初妻」であったように(『佐竹旧記』。秀義との間に子はなく、この時点ではすでに初妻朝綱女子は死去していたとみられ、秀義は後室として叔父雅楽助義宗の女子を迎えている)、八田氏と佐竹氏はもともと姻戚関係にあった。

 佐竹氏との関わり、八田知家居住地との至近さ、また同族宇都宮氏との接点を考えると蓋然性は高いと考えられる。佐竹氏との婚姻に伴って那珂郡八田の地に移り本拠としたものの、その朝綱女子の死去後は縁が切れ、「本木郡」に移住した可能性もあろう。

 ただ、八田には八田氏の名字地にもかかわらず宗綱や知家が居住した痕跡は見られず、当然ながら頼朝の地頭補任の御下文(将軍家政所下文も含め)もなければ、八田知家譲状(ただし茂木氏)のなかにも「八田」を想起させるような郷村名はない。そして、八田知家の子・太郎左衛門尉知重を最後に「八田」名字は『吾妻鏡』にも見えなくなる。八田知家は終生「八田」を名字としているが、茂木氏ではなく別の子孫に継承されているとすれば、八田は「本木郡」の近くではない可能性が高くなる。

【三】河内郡谷田部

 現在のつくば市谷田部周辺に相当し、平安時代初期には河内郡八部郷(『倭名類聚抄』)と称されていた。「八部」は「為八田若郎女之御名代、定八田部也」(『古事記』)とあるように、仁徳天皇「庶妹」にして妃となった八田若郎女の御名代部(『古事記』)という。称して「やたべ」と訓ず。谷田川、西谷田川流域にひろがる郷であった。江戸期寛永版の『吾妻鏡』の記述ではあるが、八田知家の名字は「ヤタ」とあり、「谷田部」の地を名字地としていた可能性がある。

 八田知家は「八田左衛門尉知家多気太郎義幹者、常陸国大名也」(『吾妻鏡』建久四年六月五日条)とあるように、建久の頃には常陸平氏の惣領家・多気太郎義幹とともに「常陸国大名」と称される常陸国を代表する御家人と認識されていた(この頃には常陸国筑波郡三村郷小田を本領していたのだろう。ただし下野国茂木保も本拠の一つとして有していた)。それは奥州征討に際し、八田知家が千葉介常胤とともに海道大将軍として常陸国の御家人を率いていることからもうかがえる。これらから、八田氏はこのときには、常陸国に由緒地を持っていたことが想定される。

 ただし、宗綱は宇都宮「俗別当」(『日光山別当次第』)であることから、本来は下野国に拠点を置いていた可能性が高い。この下野における拠点はおそらく「本木郡(真壁郡茂木保)」であったと思われるが、常陸国の河内郡谷田部は、茂木保に西接する下野国益子を流れ下る小貝川と至近であり、父宗綱が常陸平氏との縁組(知家母は該当者未定「常陸大掾棟幹」の女子と伝わる)に際して、宇都宮や茂木保との行き来に利便性のある谷田部に本拠を持った可能性もあろう。

 また、谷田部は八田知家の嫡子・太郎朝重(知重)以降が本拠とした宝篋山麓の常陸国筑波郡三村郷小田つくば市小田)と近接する地であり、谷田部から小田へ本拠を移していったのだろう。八田太郎朝重は『吾妻鏡』正治元(1199)年10月28日(『吾妻鏡』正治元年十月廿八日条)「小田左衛門尉知重」としてみえる。なお、『吾妻鏡』における同時代の「小田」氏記述はこの一例のみで、この後の記述では「八田」知重となる。

 八田知家は建仁3(1203)年5月19日に「阿野法橋全成幕下将軍御舎弟、依有謀叛之聞、被召篭御所中、武田五郎信光虜之、即被預于宇都宮四郎兵衛尉」(『吾妻鏡』建仁三年五月十九日条)というように、謀反の疑いがかけられた頼朝異母弟・阿野法橋全成を「宇都宮四郎兵衛尉(八田知家)」が預かり、5月25日に「阿野法橋全成、配常陸国」(『吾妻鏡』建仁三年五月廿五日条)といい、常陸国に拠点を有していたことがわかる。ところが、6月23日には「八田知家奉仰、於下野国、誅阿野法橋全成」(『吾妻鏡』建仁三年六月廿三日条)とあるように、知家は下野国に全成を移し、鎌倉殿の仰せを受けて処断しているように、下野国にも拠点を有していた。この下野国の所領は茂木保とみられ、父の権守宗綱が宇都宮俗別当であった際に、近隣の宇都宮神領のひとつを私領として支配したことに由来するものだろう。

【四】近江国甲賀郡八田、高島郡八田川流域、蒲生郡波多郷

 近江国甲賀郡八田は、現在の滋賀県甲賀市水口町八田周辺に相当する。宇都宮氏や八田氏の伝については、宗円以前に下野国に関わった微証や、下野国周辺氏族の伝承中にも宗円と繋がるものがまったくみられないことから、宗円は下野国を含めた近隣出身者ではなく、遠国から来た人物と考える方が妥当か(宇都宮朝綱、八田知家が一代にして強大な氏族に成長しているにも拘わらず、宗円以前の東国氏族との縁戚関係が皆無である)。

 氏祖たる「宗円」は諸所の宇都宮氏の系譜で「石山寺座主」という側註が附されている。前述の通り、史料上では歴代の石山寺別当は判明しており(初期においてはやや疑義がある)、宗円の石山寺座主は事実ではない。しかし、こうした系譜上意味をなさない付帯的な事柄が伝承される場合、それに纏わる何らかの情報がベースになって付記されたと推測できる。石山寺の「座主」は系譜編纂上での誇大情報と察せられるので、ルーツとしては「石山寺」がキーワードとなろう。

 近江国八田のほかにも、「源家(頼義流河内源氏)」由緒では、丹波国にも「八田」が存在するなど、河内源家との関係を考えれば他にも候補はあるが、「石山寺」「源家」というキーワードで考えると、近江国甲賀郡八田甲賀市水口町八田)がうまく重なる。源頼義の代には源家は近江国甲賀郡など近江国内にも所領を有しており、甲賀郡内の所領は次郎義綱、三郎義光が継承しているようである。

 甲賀郡八田は、宗円の時代から百五十年程昔となるが、石山寺造営の用材を調達した東大寺杣の甲賀郡三雲周辺の「甲賀山作所」(市川理恵氏「造石山寺所関係文書からみた安都雄足の官司運営」『東京大学史料編纂所研究紀要 第24号』2014)と近接地であり、石山寺との由緒を考えると、宗円は甲賀郡八田に由緒を持つ出身氏族で石山寺に入った人物であった可能性もあろう。このほか、甲賀山作所と同様に東大寺杣として石山寺造営のための「榲榑(杉材)」を伐り出し売却した「高嶋山作所」がみられるが(筒井廸夫氏「奈良時代における山作所の管理と労働組織」『東京大学農学部演習林報告 48号』1955)、高島郡中部域には武曾樺山を源流として琵琶湖にそそぐ八田川が流れ、この周辺域(高島市安曇川町田中周辺)を名字地とするとみられる八田氏が存在しており、宗円もこうした近江国「八田」由来の氏族であった可能性があろう。

 このほか、近江国蒲生郡波多郷があり、こちらは室町時代中期に石山寺領として見える(応永十五年十一月廿八日「近江国波多郷人夫検断以下事」『石山寺文書』)

 宗円の子・八田宗綱も宇都宮「俗別当」となるなど、当然ながらその所領は下野国宇都宮近辺にあったと推測されるが、周辺域に名字地「八田」に確定できる地は存在しない。つまり、宗円が下野国へ移住する以前から八田を称する氏族出身者であり、もし近江国の「八田」を名字地とするとすれば、東国における八田氏の名字地は存在しないことになる。

 このような石山寺僧の密教僧宗円が、どうして下野国へ移る必要があり、また、名神大社たる二荒山神社の別当となり得たのか。その二点には何らかの強い力が働いたと考えられる。それは、下野国司となった源家との関係によって成り得たと考えられる。

 宇都宮氏の始祖譚では、宗円は奥州征討のために源頼義・義家父子に従い、宇都宮で奥州平定の祈祷を行ったとされる。この源家との関わりは宇都宮氏の存在意義に関わるもっとも根本的な事項であり、事実に基づいた事柄であると判断されよう。ただし、『日光山別当次第』(鎌倉後期から南北朝にかけて資料蒐集されたものをベースに纏められた史料)によれば、宗円は「宇都宮左衛門申云、朝綱祖父大法師宗円、鳥羽院御宇永久元年被補当職以来、同三年親父下野権守宗綱、依神祇官之符、被補俗別当畢」(『日光山別当次第』)とあるように、永久元(1113)年に二荒山神社別当職に就いたとあり、永承6(1051)年に奥州安倍氏の叛乱鎮定のために「被任彼国」(『本朝続文粋』)て下向した源頼義の時代とはまったく合わない。しかし、宗円の下野国下向と宇都宮別当就任は源家との関係があったとすれば、その背景は、延久2(1070)年8月1日以前に下野守に補任された頼義の子「下野守源義家」(『扶桑略記』延久二年八月一日条)との関わりを考えるのが適当か。

 義家は下野守に補任されると、遥任ではなく任国赴任し、さらに陸奥国に下向して「散位藤原基通」を追捕し投降させている(『扶桑略記』延久二年八月一日条)。系譜に見える宗円の下野国移徒の伝は、頼義ではなく義家に従って下向した由緒が基となって創作されたのではなかろうか。

 以下は推測であるが、宗円が下野守義家に従って下向したとすれば、義家の下野守補任には、奥州叛乱鎮定の意図もあり、宗円は源家由緒の祈祷僧として下野国に同行したのかもしれない(系譜上では前九年の役の祈祷僧となっている)。下野国府北の開けた宇都宮の地が奥州に入る前線基地となっていたのだろう。宗円は下野守義家のもと二荒山神社に置かれ、義家・義綱の兄弟二代にわたる源家下野守の強い影響下のもとで宗円は強い権勢を得た可能性があろう。宗円は宇都宮に来た当初から「大法師」位を有していたのかは不明であるが、二荒山神社においても軽んぜられない僧位にあったのは間違いないだろう(それまでの社内からの別当補任の慣習を改めて宗円が別当に就いていることを考えれば、宗円はそれなりの僧位にあったと推測できる)。そして、子の宗綱は父宗円と義家との関係を継承し、義家の子・六條判官為義の被官となったのかもしれない

●八田知家子の名字地

氏名 名字地 現在地 備考
小田朝重 常陸国筑波郡小田村 茨城県つくば市小田  
伊志良有知 美濃国山県郡伊自良庄 岐阜県山県市松尾周辺  
茂木知基 下野国真壁郡茂木保 栃木県芳賀郡茂木町  
宍戸家政 常陸国宍戸荘 茨城県笠間市内 和田合戦で枇杷橋において朝比奈義秀に討たれる
浅羽知尚 不明(越後国か) 不明 はじめ八田。のち「住美濃」という。
田中知氏 常陸国筑波郡田中村 茨城県つくば市田中  
高野時家 常陸国筑波郡高野村 茨城県つくば市高野  
大輔法眼明玄     筑波中禅寺別当

■宇都宮信房に繋がる中原氏

 源家御家人には、藤姓宇都宮氏とは別系となる中原姓宇都宮氏が存在した。中原式部丞宗房の子、宇都宮所衆信房である。

 宇都宮信房の祖父「外記中原宗家」後白河院庁年預を務めた人物で、仁安2(1167)年12月30日に伊豆守源仲綱と相伝名替(当時中原宗家は隠岐守)によって伊豆守に転じた(『兵範記』仁安二年十二月三十日条)。『尊卑分脈』に見られるように、宗綱の父を外記宗家とするのは、十二世紀前~中期を活動期とする宗綱と世代が逆転していることから不可である。ただし、宗綱が外記、安房守、伊豆守を歴任した中原氏と何らかの血縁関係にあった可能性は高い。これは「所衆中原信房者、依為造酒正宗房孫子」(『吾妻鏡』文治二年二月廿九日条)と見える「宇都宮所衆信房」が宇都宮氏の系譜に包摂されていることからも想像される。

 造酒正中原宗房は永久6(1118)年正月26日に鳥羽天皇中宮藤原璋子の中宮大属「従五位下中原朝臣宗房 散位外記」に同定される人物であるが、文治2(1186)年2月29日に宗房孫の所衆信房(『吾妻鏡』文治二年二月廿九日条)が源頼朝の御家人として活動しており、世代的な矛盾はない。余談だが、この八日前の正月18日に藤原璋子家司の政所別当末席の伯耆守平忠盛に嫡男清盛が生まれ(『玉蘂』承元五年三月十四日条)、同年中に西行法師、千葉介常胤が誕生している。

●永久6(1118)年正月26日中宮職(『中右記』永久六年正月廿六日条)

中宮職 官位 名前 本官
大夫 正二位 藤原宗通 大納言
民部卿
権大夫 従三位 藤原通季 参議
右近中将
正四位下 藤原顕隆 蔵人頭
右大弁
内蔵頭
権亮 従四位下 藤原実能 左少将
美作守
大進 正五位下 藤原重隆 右衛門佐
権大進 正五位下 藤原清隆 紀伊守
左衛門佐
権大進 従五位上 藤原顕頼 丹後守
勘解由次官
少進 従五位下 藤原資光  
少進 正六位上 藤原顕時  
大属 従五位下 中原宗房 散位外記
少属 正六位上 三善貞良 左大夫
少属 正六位上 安倍資清 左衛門志(検非違使)

●外記、安房守、伊豆守を経る中原氏

名前 年代 官途 記録 出典
中原宗政 嘉承3(1108)年正月24日 伊豆守 伊豆守中原宗政
外記、件人以尊勝寺功、超上臈十人所任也、
又超尊勝寺本功人々云々、依為院主典代、被抽賞歟
『中右記』
天仁2(1109)年12月22日当時 白河主典代
伊豆守
主典代伊豆守中原朝臣 『醍醐雑事記十三』
(『平安遺文』1714)
  白河主典代 応徳主典代、後外記 叙位、
博士広宗猶子、儒道者補主典代例
『洞院家記』
巻之十四
中原宗房 天永3(1112)年2月17日当時 外記 外記宗房 『中右記部類記』第五
元永2(1119)年7月30日 外記
安房守兼
  『中右記』
元永二年七月卅日条
  造酒正 待賢門院庁年預、同五位所司、造酒正、
従五位上、庁年預 北面侍所司兼補例
『洞院家記』
巻之十四
中原宗紀 仁平3(1153)年4月27 造酒正 今日、造酒正中原朝臣宗紀逝去 『本朝世紀』
中原宗家 仁安2(1167)年正月19日   政所年預隠岐守宗家 『兵範記』
仁安二年正月廿七日条
治承3(1179)年11月17日 大蔵大輔 解官 『玉葉』
治承三年十一月十七日条
  造酒正
大蔵大輔
伊豆守
後白川院北面所司、同年預、
造酒正、大蔵大輔、伊豆守、
正五位下、庁年預 北面侍所司兼補例
『洞院家記』
巻之十四

 保安5(1124)年11月24日、中宮璋子は「中宮院号事」(『中右記目録』)とあり「改中宮為待賢門院、年二十四」(『一代要記』後宮)となった。同日、待賢門院庁始に伴い院司が決定され、「改進為判官代、改属主典代」(『大外記師遠記』天治元年十一月廿四日条)とあり、「主典代三人如本」という。従って、大治3(1128)年12月(『待賢門院庁下文案』大治三年十二月「東大寺図書館本宗性筆唯識論第五巻問答抄紙背」)、大治4(1129)年5月13日(『待賢門院庁下文案』大治四年五月十三日「東大寺図書館本宗性筆唯識論第五巻問答抄紙背」)、長承3(1134)年閏12月15日(『待賢門院庁下文案』長承三年閏十二月十五日「仁和寺文書」)、保延元(1135)年5月(『待賢門院庁下文案』保延元年五月「東大寺文書四ノ三十一」)の『待賢門院庁下文』などに見える「主典代造酒正中原朝臣」は「女院主典代造酒正宗房」(『長秋記』大治四年七月十六日条)で、即ち中宮璋子院司(中宮大属)であった「中原朝臣宗房」と同一人物となる。

 この中原宗房の孫である宇都宮所衆信房は、頼朝から「所衆中原信房者依為造酒正宗房孫子、殊被優賞、今日賜近江国善積庄、是雖為円勝寺領、致信房所望之上、為被酬宗房旧労如此」(『吾妻鏡』文治二年二月廿九日条)とあるように、文治2(1186)年2月、自らの勲功及び希望のほか、頼朝から祖父宗房の「旧労」に酬いるため、近江国善積庄を与えられている。このことから頼朝は中原宗房から何らかの支援を受けた過去があったことがわかる。待賢門院璋子は頼朝誕生の二年前、天養2(1145)年8月22日に崩御(『台記』天養二年八月廿二日条)しており、頼朝は待賢門院主典代時代の中原宗房との接点はなく、その「旧労」がどのようなものかはわからない。ただし、宗房の「旧労」は頼朝が在京時期(頼朝の身辺に問題のない時期)ではないとみられることから、おそらく伊豆流刑時と考えるのが妥当であろう。頼朝は永暦元(1160)年3月11日、平治の乱の罪科によって京都を発し、伊豆国へ流されているが(『清獬眼抄』)、仁安2(1167)年12月30日、隠岐守中原宗家(宗房子か)が伊豆守仲綱と相伝名替によって伊豆守となっている(『兵範記』仁安二年十二月三十日条)。宗房と頼朝の直接の交流は不明ながら、宗房は伊豆守宗家に対して何らかの指示を行ったのかもしれない。

●中原氏周辺系図(一部想像)

 中原広宗―+─中原広忠――─中原広季――+―中原広能
(明経博士)|(隠岐守)  (明経博士) |(壱岐守)
      |              |
      |              +―中原親能
      |              |(齋院次官)
      |              |
      |              +―中原広元
      |              |(陸奥守)
      |              |
      |              +―中原章弘
      |               (明法博士)
      |         =宗忠?     
      +=中原宗政―――中原宗房――+?中原宗紀
       (伊豆守)  (造酒正)  |(造酒正)
                     |
                     +―中原宗家
                     |(造酒正、伊豆守)
                     |
                     +―源季長
                     |(右馬允)
                     |
                     +―女子
                     | ∥――――――源季国
                     | ∥     (守仁親王帯刀)
                     | 源季頼
                     |(周防守)
                     ?
                     +―女子
                       ∥――――――宇都宮信房
                       ∥     (蔵人所衆)
                       ∥
                     +―藤原(中原)宗房
                     |(中務丞)
                     |
         藤原氏――――宗円―――+―八田宗綱―+―宇都宮朝綱
               (大法師)  (下野権守)|(左衛門権少尉)
                            | ∥―――――――宇都宮業綱
                            | ∥      (兵衛尉)
                            | 醍醐局     ∥
                            |         ∥
                            +―八田知家    ∥―――――――宇都宮頼綱
                             (右衛門尉)   ∥      (弥三郎)
                                      ∥
                平正盛――+―平忠正――――平長盛―――――女子
               (備前守) |(右馬助)  (新院蔵人)  (西山)
                     |
                     +―平忠盛――――平清盛―――――平宗盛
                      (刑部卿)  (太政大臣)  (内大臣)

 中原宗家はその後、女御平滋子の家職となっている。「従三位平滋子」は仁安2(1167)年正月20日の「可被下女御宣旨」により、皇太子憲仁親王の生母として女御に据えられた。七日後の正月27日「女御殿侍始」に際し「家司職事」が定められているが、この時の侍所雑具の資としての諸国負担に関する侍所牒(職事連署加判)につき、「政所年預隠岐守宗家」の「成上加賀国庸米百石解文」を女御滋子の御見に入れている(『兵範記』仁安二年正月廿七日条)。宗家は後白河院年預と兼ねて女御滋子の下家司(主典代か)を務めその政所実務を担いつつ、侍所の実務官も兼ねた。

●仁安二年正月27日女御平滋子の家司職事(『兵範記』仁安二年正月廿七日条)

家職 人名 官途
家司(年預) 藤原定隆 左京大夫
家司(上家司) 平教盛 春宮亮
藤原盛隆 木工頭
平知盛 中務大輔
武蔵守
藤原光能 下野守
藤原季能 讃岐守
藤原光雅 参河守
藤原盛頼 相模守
藤原隆成 備前守
平時実 越後守
職事 藤原実守 春宮権亮
藤原実宗 右近衛中将
藤原基家 左近衛少将
藤原通家 左近衛少将
平宗盛 右近衛中将
平時忠 蔵人頭右中弁
藤原定能 左近衛少将
藤原俊経 左中弁
平信範 右少弁
藤原重方 右衛門権佐
藤原長方 蔵人
左少弁
藤原為親 権右少弁
藤原経房 蔵人
勘解由次官
源有房 左近衛少将
平親宗 兵部少輔
▼侍長以下
侍長 源義兼  
従四位下 卜部基仲 近江守
正五位下 大江信忠 前備中守
従五位上 藤原為兼 前佐渡守
中原宗家 隠岐守
藤原能盛 安芸守
平信業 遠江守
藤原為行 石見守
従五位下 源為長 紀伊守
卜部仲遠 散位
平正家 散位
藤原為保 駿河守
中原季衡 民部大丞
源為久 宮内少丞
藤原宗重 少監物
平盛国 左衛門尉
大江遠成
藤原為重
源仲頼
平盛澄
橘盛康
源康信
平業房
源為経 右衛門尉
紀久信
源為政
源光季  
平敦房 左兵衛尉
藤原師高
藤原行貞
橘家村 左馬允
平盛房 無官者
中原信衡
平長俊
源為茂
源宗時
藤原実重
源景房


千葉一族宇都宮・八田氏 > 宇都宮朝綱

宇都宮朝綱(1122-1204)

 八田権守宗綱の長男。通称は三郎。母は小野三太夫成任女子「右大将家御乳母兵衛局近衛局(『小野氏系図』)。妻は醍醐局(『三鈷寺蔵宇都宮系図』)。女子は佐竹冠者秀義の「初妻」(『佐竹家旧記』)。もとは八田を称し、のち宇都宮を称したという。秩父太郎大夫重弘や次郎大夫重隆の又従兄弟となる。なお、母は常陸大掾棟幹女(『宇都宮正統系図』)ともされるが、弟の八田知家との年齢差は二十二歳あることから知家とは異母である可能性が高く、明確に「宇都宮朝綱母」と記される小野氏が母であろう。

 父の八田宗綱について、朝綱は「同(永久)三年、親父下野権守宗綱、依神祇官之符、被補俗別当畢」(『日光山別当次第』)と主張したことが伝わり、宗綱は保安4(1123)年正月の鳥羽院庁開設以降に鳥羽院武者所になったと思われるが、具体的には前述の通り、保延~仁平年間(1135~1154)頃であろう。朝綱は父宗綱が二荒山神社俗別当になる前年の保安3(1122)年に生まれたとされる(『宇都宮正統系図』より逆算)

 『尊卑分脈』には、朝綱は「鳥羽院武者所、後白川院北面」(『尊卑分脈』)と見えることから、鳥羽天皇の保安4(1123)年正月23日の崇徳天皇への譲位(『践祚部類記』崇徳院)から久寿3(1156)年7月2日の崩御(『兵範記』久寿三年七月二日条)までの間に武者所に出仕し、後白河天皇が保元3(1158)年8月11日に二條天皇への譲位(『兵範記』保元三年八月十一日条)したのちは後白河院の下北面として出仕した可能性がある。朝綱の妻は出自不肖の「醍醐局」という女性で(『三鈷寺蔵宇都宮系図』)、その間に次郎業綱が生まれている。業綱は建久3(1192)年2月24日に三十七歳で亡くなっている(『三鈷寺蔵宇都宮系図』)ことから、保元元(1156)年生まれとなる。その頃の朝綱は鳥羽院武者所に出仕していたとみられ、妻「醍醐局」も醍醐を由緒とする朝廷官女であろう。

 朝綱は源家との強い関係を有していた父・宗綱のもと、六條判官為義や源義朝とおもに京都で交流を持ったと思われ、仁平3(1153)年3月2日の除目で義朝が下野守に補任されると、日光山造営事業でより関係を深めていったのではなかろうか。

 当時、下野国日光山麓では、別当の光智房聖宣による台密を中心に据えた修行道場造営事業が進められていた。聖宣は延暦寺僧で「寺務四十二年、此別当、昔今故実相慮、万事ヨカリケル人也、此人顕密達者、自是当山学文始ケル也」(『日光山別当次第』)という顕密両道に達した人で、別当補任の時期は不明ながら久安元(1145)年までに日光山麓に比叡山に倣った常行三昧堂(法華堂はこのとき造営されず、正応年中の別当大僧正源恵の時に比叡山指図に倣い修造されている)を建立し、自ら「常行堂検校」(保元三年十月二日「常行堂検校法師聖宣請文写」『輪王寺文書』)と称して台密道場の礎を築いた。補任後四十二年にわたって別当職にあり、造営事業は継続されていたであろう。下野守義朝はこの造営に私費を供出したようである。この事業は式内大社二荒山神社の造営事業として公的な側面もあったようで、保元元(1156)年12月29日の除目で義朝は「造日光山」の成功により下野守重任を果たしている。この日光山造営事業には宗綱や朝綱からの支援または働きかけも強く影響している可能性があろう。これにより、日光山は天台密教を色濃く反映した新たな二荒山麓寺院群と、古来からの二荒山神社(宇豆宮=宇都宮)の二つに分かれ、日光山の「別当」は宇都宮から日光山麓寺院に移り、二荒山神社は神宮寺として「宇都宮検校(事実上宇都宮氏が世襲か)」が社務職を執り行ったのだろう。

 朝綱の母・兵衛局(『小野氏系図』)は、久安3(1147)年に生まれた義朝三男・頼朝の乳母として召されているが、その時期は分からない。兵衛局(小野三太夫成任女子)が乳母に選ばれたのも、関東における義朝最大の庇護者である秩父権守重綱縁者(重綱妻の従姉妹)だったためか、義朝が下野守になったため下野国所縁の源家由緒の宗綱の妻が召されたのか、その理由もまた不明である。ただ、頼朝の乳母は秩父氏所縁の郡司比企氏(のち比企尼。秩父平氏の惣領屋敷がある比企郡の郡司家出身で、当時在京して官吏家の掃部允某の妻となっていた)がいるように、秩父氏の所縁で召された可能性のほうが高そうである。なお、保延4(1138)年に生まれた宗綱女子(のちの寒河尼)も頼朝乳母として召されているが、彼女と頼朝との年齢差はわずかに九歳であり、宗綱女子は幼少の頼朝の遊び相手として傍にあったのかもしれない。その後、宗綱女子は在京中であろう下野国小山庄の小山四郎政光と婚姻した。政光の長男・小四郎朝政は久寿2(1155)年生まれであり(『吾妻鏡』嘉禎四年三月卅日条より逆算)、宗綱女子が朝政の母(『続史籍集覧』「秀郷流藤原氏諸家系図 上」ほか)であったとすれば、その婚姻時期は義朝が下野守に補任された仁平3(1153)年3月2日とほぼ一致することから、この政光と宗綱女子の婚姻の仲介に、国司義朝が関わった可能性があろう。

 ところがその後、保元元(1156)年7月の「保元の乱」により、六條判官為義ほか子息が処断され、その勢力は唯一生き残った為義嫡子で惣領の下野守義朝(保元の乱時点で、為義郎従であった齋藤長井別当実盛らは義朝郎従となっており、家督はすでに義朝が継承していたとみられる)に結集する。保元の乱に宗綱や朝綱、小山政光らの姿は見られないが、「八田四郎」が義朝に従っている(八田四郎知家に比定されるが、この年、知家はわずかに十三歳であり、三郎宗綱の可能性もあろう。軍記物『保元物語』の記述であるため、全体的に創作である可能性もある)

 その義朝も、平治元(1159)年末の「平治の乱」により殺害され、子息の源太義平、中宮大夫進朝長も死亡。まだ幼い頼朝、希義、今若、乙若、牛若は捕縛されて流刑や寺社預けとなり、八幡太郎義家嫡統は事実上消滅した。こうした中で、それまで為義、義朝に付き随っていた人々も当然身の振り方を考えなければならなかっただろう。宗綱、朝綱、小山政光らの平治の乱後の消息は杳として知れないが、朝綱は「属平家在京之時、聞挙義兵給事」(『吾妻鏡』元暦二年七月七日条)と見えるように、平清盛主導の政権に帰属したことがわかる。小山政光も大番役として幾度か上洛して官仕しており、治承5(1181)年閏2月当時も「朝政父政光者、為 皇居警衛未在京、郎従悉以相従之」(『吾妻鏡』治承五年閏二月廿三日条)とある。かつては源家最大の被官人であった秩父権守重綱の子孫である武蔵秩父平氏も知行国主たる平家の権勢に従属しており、平治の乱から頼朝挙兵まで二十年という月日の中で、義朝遺児の存在など現実的には完全に忘却されていただろう。

 朝綱の姿がふたたび現われるのは、平治の乱から九年を経た仁安3(1168)年正月11日の除目で、「藤朝綱」「右兵衛尉」に任官している(『兵範記』仁安三年正月十一日条)。なお、『尊卑分脈』に「鳥羽院武者所、後白川院北面」(『尊卑分脈』)と見えることから、後白河院の北面として出仕していた時期があった可能性がある。

 このように、朝綱の前半生は(保元の乱や平治の乱直後は不明だが)ほぼ在京武官としての生活であり、朝綱の従兄弟にあたる「宇都宮所衆信房」も皇居蔵人所の所衆として在京していた時期があり、平治元(1159)年8月20日(『宇都宮系図』)または応保2(1162)年8月20日に七十七歳で卒去(『宇都宮正統系図』)したという父宗綱の跡職(宇都宮社務職)がどのように運営されていたかはまったく謎である。日光山別当の光智房聖宣が宇都宮の二荒山神社も経営し、その神領は朝綱の弟・八田武者所知家や被官社家の紀氏らが運営を担っていたのかもしれない。

 在京の朝綱は、嫡子の次郎業綱の妻に、平清盛の親族「新院蔵人長盛女子」を迎えており、朝綱は政権を担っている平清盛との関係を強めたことがうかがえる。「新院蔵人長盛」は清盛の従兄弟に当たる崇徳院蔵人平長盛のことで、故左府頼長家人の右馬権助平忠正(平清盛の叔父)の嫡男である。忠正や長盛は保元の乱で敗れ、保元元(1156)年7月28日に平清盛の手によって六波羅付近で処刑されているが、当時幼児の長盛女子は助命されたのだろう。長盛女子は血縁上清盛に預けられたと考えられるので、宇都宮朝綱や業綱は、平清盛からの覚えもめでたい人物であったのだろう

 なお、業綱と長盛女子の婚姻時期は、その嫡子・弥三郎頼綱が治承2(1178)年生まれであることを考えると、安元2(1176)年から治承元(1177)年あたりと思われる。その数年後、朝綱は治承4(1180)年正月28日の春除目でようやく「(左衛門)権少尉正六位上藤原朝臣朝綱」に任官している(『玉葉』治承四年正月廿八日条)。この除目当時、朝綱は五十七歳(『宇都宮正統系図』より逆算)という当時としては高齢の域にあった。同じ頃、下野国足利庄の足利太郎俊綱「従五位下藤原俊綱字足利太郎(『吾妻鏡』養和元年九月七日条)であり、散位ではあるが朝綱よりも官途は上位にあった。

 なお、同日の除目で、後年鎌倉家家司となる「主計少允正六位上藤原朝臣行政、本寮奏」が主計少允となっている。朝綱が「左衛門権少尉」に任官(『玉葉』治承四年正月廿八日条)するまでの官途は不明だが、同日に任官した人物の官途を比較すると、以下のようになる。

藤原為成 正六位上 左兵衛少尉 『玉葉』安元元年十二月八日条(補任)
左兵衛尉 『玉葉』治承三年四月九日条
右兵衛尉(蔵人)
※四か月前に左兵衛尉在任及び、
 「件衛府両人」とあることから、
 右衛門尉の誤記か。
『玉葉』治承三年八月十一日条(去夜除目)
右近将監 『山槐記』治承三年十一月十九日条
左衛門権少尉 『玉葉』治承四年正月廿八日条(当日除目)
源信政 正六位上 左近将監(蔵人) 『玉葉』治承三年八月十一日条(去夜除目)
蔵人左近将監 『玉葉』治承三年十一月五日条(在任)
右兵衛尉 『山槐記』治承三年十一月十九日条
右兵衛権少尉
※右衛門権少尉の誤記か。
 彼の前官がすでに右兵衛尉であるため
『玉葉』治承四年正月廿八日条(当日除目)
藤原朝綱 正六位上 右兵衛尉 『兵範記』仁安三年正月十一日条(当日除目)
左衛門権少尉 『玉葉』治承四年正月廿八日条(当日除目)

 朝綱も彼らと同様、右兵衛尉ののち、記録に残っていない左兵衛尉または右衛門権少尉を経て、左衛門権少尉に進んだ可能性があろう。

 そして、治承年中頃、宇都宮に寄寓していたのが「秀義以嫡男佐々木太郎定綱、近年在宇津宮」(『吾妻鏡』治承四年八月十日条)であった。佐々木定綱がなぜ「近年」宇都宮に寄寓していたのかその理由は不明だが、宇都宮氏との血縁関係が関係していた可能性が高い。佐々木氏の系譜のひとつには定綱は「母下野宇津宮」(『諸家系図纂』九之二 昌平坂学問所旧蔵)とあり、世代的には八田権守宗綱の姉妹が母となろう(ただし、「母下野宇津宮」が『吾妻鏡』の記述をもとに創作された可能性も否定できない)。もともと朝綱祖父の宗円が近江国「八田」の出身である石山寺僧であるとすれば、近江源氏佐々木氏とは繋がりを有した可能性もあろう。

                 佐々木秀義
                (源三)
                 ∥――――――佐々木定綱
        【日光山十一世】 ∥     (太郎)
         宗円――――+―女子
        (大法師)  |
               |
         平致幹―――|―女子   +―女子
        (多気権守) | ∥    |(寒河尼)
               | ∥    | ∥――――――――小山宗朝
               | ∥    | ∥       (七郎)
               | ∥    | 小山政光
               | ∥    |(下野大掾)
               | ∥    |
               | ∥――――+―八田知家―――+―八田朝重
               | ∥     (武者所)   |(太郎)
               | ∥             |
               +―八田宗綱―――女子     +=中條家長
                (下野権守)  ∥       (藤次)
                 ∥      ∥
                 ∥      ∥――――――――稲毛重成
                 ∥      ∥        (三郎)
                 ∥      小山田有重
                 ∥     (小山田別当)
                 ∥    
                 ∥      佐竹隆義―――――佐竹秀義
                 ∥     (常陸介)    (佐竹冠者)
                 ∥               ∥
                 ∥――――――宇都宮朝綱――+―女子
                 ∥     (左衛門権少尉)|
                 ∥             |
  小野資隆―――小野成任――+―女子            +―宇都宮業綱
 (小野別当) (三太夫)  |(兵衛局)           (次郎)
               |        
               +―盛尋法橋―――中條家長
                (義勝房)  (藤次)

 そして、この頃、日光山別当の光智房聖宣の後継を巡る争いも勃発していた。

日光山内二荒山神社
日光山内の二荒山神社

 光智房聖宣の門人には、那須氏からは恵観坊禅雲秀郷流大方氏からは真智坊隆宣、弁覚ら在地武家出身者がおり、日光山は彼らの外護により発展していったのだろう。安元2(1176)年に病床に伏した聖宣は「円寂之期、寺務真智坊譲」として、真智坊隆宣に別当職を譲るとした。このため「仍存生時、為申安堵之官符」と、生きているうちに隆宣に神祇官符発給を求めて上洛させたが、隆宣上洛中に「光智坊入滅畢」した(『日光山別当次第』)。このとき恵観坊禅雲が「押別当職補、修行寺務」したことから、官符を帯して帰国した真智坊隆宣が別当職の引き渡しを要求するが「恵観坊猶不退、抑留寺務」たことから、真智坊隆宣父の大方五郎政家が「兄弟一門等相催」て「神祇官符前」に立てて日光山に「数百騎軍兵等」で攻め寄せたという。恵観坊禅雲は抵抗したものの支え切れずに「身隠深山畢」という。

 こうして真智坊隆宣は別当職に就任したが、今度は遺恨を以って恵観坊禅雲の血縁那須氏が「塩谷、宇都宮両党」の軍勢とともに「数千騎」で日光山に押し寄せたため、隆宣は日光山から「本山(延暦寺)登畢」した。こうして恵観坊禅雲が再び日光山別当に環任したという(『日光山別当次第』)。宇都宮氏は親類である大方氏出身の隆宣ではなく、那須氏出自の禅雲を推していたことになる。ただし、この時点で朝綱はまだ京都にいたとみられ、「宇都宮両党(紀清両党)」がどのような権限で動いたかは定かではない。

延暦寺
比叡山延暦寺(東塔)

 日光から比叡山に登った真智坊隆宣は「学生堂衆合戦時、八王子御輿大将軍、堂衆追散シテ、高名アリ(『日光山別当次第』)という。この学生堂衆合戦は治承2(1178)年9月中旬から起こった「近日、延暦寺学徒与同堂衆、数度企合戦、一山欲磨滅、門徒僧綱已下、参公門訴申之、其趣須遣官兵被加制止之由也、而堂衆等、日吉社為楯、集会社内、遣官兵被追散在、事可及狼藉、何様可被行哉、可令計奏」(『玉葉』治承二年九月廿四日条)であろう。状況は「山門学生等、悉以離山了、堂衆其勢太強、敢不及為敵」(『玉葉』治承二年十月六日条)というように、事実上堂衆(僧兵ら)が隆宣も属していた上級僧侶「学生」を追放するまでになっていた。これに対し、翌治承3(1179)年7月25日、「叡山凶悪堂衆等、可追討之由、被下宣旨」(『玉葉』治承三年七月廿八日条)が下され、官軍の派遣と洛中の検非違使に堂衆の逮捕を命じている。10月9日には「延暦寺堂衆等、初搦進張本、可従学生之由、進怠状」(『玉葉』治承三年十月九日条)というが、実際は収まらず「山大衆猶以闘諍、官兵等雖向坂下、不能攻山上、徒抑留坂東運上之人物等之外、無他事云々、又堂衆等、焼払学生等城了」(『玉葉』治承三年十一月三日条)という。隆宣は日吉社に連なる八王子権現の主将として堂衆と戦ったのだろう。その後の隆宣の動向は不明だが「治承頃、是離山アリケル(『日光山別当次第』)といい、比叡山を離れてふたたび日光山へと戻ったという。後述の日光山別当の継承に関する混乱後、招聘された可能性があろう。

日光山内
日光山内

 隆宣を追放して日光山別当に還任した恵観坊禅雲であったが、頼朝が関東に勢力を広げると改易され(その理由及び具体的な年は不明ながら、頼朝の治世の初めとあるので、時期は治承4年以降とみられる)、「常州大内梅谷云所行幽棲」した(『日光山別当次第』)。頼朝は禅雲に代わる別当として「(頼朝)御外戚叔父観纏僧都」(『日光山別当次第』)を招聘している。なお、この「観纏僧都」は頼朝の「御外戚叔父」とされ、「号額田僧都」(『日光山別当次第』)とあることから、『尊卑分脈』にみる仁和寺の「寛伝 号額田僧都」と同一人物である。寛伝は「寛伝法橋、三十七、式部僧都、親父如上、元久二年九月十四日卒、年六十四、治承二年四月十七日辛巳、箕宿土曜、於応同院受之」(『血脈類集記』)と見え、父親は前項の異母兄「任曉阿闍梨(母は美福門院上総)」と同じ「熱田大宮司内蔵頭範忠」となる。治承2(1178)年4月17日に仁和寺において任覚大僧都から伝法灌頂を受けた際に三十七歳とあることから、生年は康治元(1142)年となり、血縁上は頼朝の五歳年上の従兄となる。寛伝が伝法灌頂を受けた治承2(1178)年当時は恵観坊禅雲が日光山別当であり、寛伝が日光山別当となったのは、その2年後の頼朝挙兵以降となる。『日光山列祖伝』には寿永元(1182)年に山内満願寺(別当房であろう)住持として入山したとある(『日光山列祖伝』観纏僧都伝)。その別当就任は、後述のように、この前年の治承5(1181)年閏2月に叔父の「志太三郎先生義広」と小山朝政ほか下野国の武士等を中心とする戦い「野木宮合戦」が起こっているが、この戦いを経て、頼朝がその権勢を北関東にまで広げた結果であろうか。

 ただ、寛伝は「為拝堂登山」の際に「衆徒為対面列参、別当坊、御簾半ニ撥テ対面」してしまったことで「衆徒等腹立退散畢」という不始末を犯し、鎌倉へ「僧都帰参申事子細」して「退去当職畢」という(『日光山別当次第』)。寛伝僧都の別当在職はわずか「治一両月」という短さに終わり、「其カハリ参川国額田郡六十六郷ヲ得テ移参川畢、仍額田僧都申也」という(『日光山別当次第』)

 源行遠―――女子             +―藤原忠季
       ∥              |(蔵人所雑色)
       ∥              |
       ∥              |【仁和寺】
       ∥――――――――藤原範忠――+―寛伝僧都
       ∥       (内蔵頭)  |(額田僧都)
       ∥              |
       ∥              |【仁和寺】
       ∥              +―任曉阿闍梨
       ∥              |
       ∥              +―女子
       ∥                ∥――――――源義兼
       ∥                ∥     (上総介)
       ∥ 源義家――+―源義国―――――源義康
       ∥(陸奥守) |(式部丞)   (左衛門尉)
       ∥      |
       ∥      +―源為義―――――源義朝
       ∥       (左衛門尉)  (下野守)
       ∥                ∥
       ∥                ∥――――――源頼朝
       ∥      +―――――――――女子    (右近衛大将)
       ∥      |
       ∥      |
       藤原季範―――+―範智法橋――――三位局
      (熱田大宮司) |(三位法眼)  (関東右大将家官女)
              |         ∥
              |         藤原顕季
              |        (相模守)
              |
              |【仁和寺】   【仁和寺】
              +―長暹法眼――――隆暹法眼
              |
              |【園城寺】   【仁和寺】
              +―祐範法橋――――任憲法眼
              |
              +―女子(千秋尼)
              |(上西門院女房)
              |
              +―待賢門院大進局(千秋尼)
              |
              |
              +―女子
                ∥―――――――源隆保
                ∥      (左馬頭)
                源師経
               (三河守)

 宇都宮朝綱がいつ頃京都から宇都宮へ戻ったかは定かではないが、治承5(1181)年閏2月23日、頼朝叔父「志太三郎先生義広」が小山小四郎朝政を中心とする人々と下野国野木宮一帯で戦った時点ではまだ帰国しておらず「八田武者所知家、下妻四郎清氏、小野寺太郎道綱、小栗十郎重成、宇都宮所信房、鎌田七郎為成、湊河庄司太郎景澄等加朝政、蒲冠者範頼同所被馳来也」(『吾妻鏡』治承五年閏二月廿三日条)が小山朝政方として参戦したという(『吾妻鏡』の野木宮合戦の記事自体が小山氏が供出した小山氏称賛の文書を参考にしているとみられ、後述のように諸所に誇張された表現がある)

 合戦には、ほかに下妻清氏(出自不詳。真壁郡下妻庄の住人)、小野寺太郎道綱(下野国都賀郡小野寺庄の秀郷流藤原氏)、小栗十郎重成(常陸国小栗御厨荘官。常陸平氏)や、出自不明の「鎌田七郎為成、湊河庄司太郎景澄等」らが「加朝政」していたという。なお、八田知家以下の具体的な戦場は記されておらず、どこの戦いに加わったのかは不明である。ただし、これに続いて「蒲冠者範頼同所被馳来」と見えることから、八田知家らは各所から小山朝政勢の宮木野陣に加わり、範頼も何処からか「同所」つまり小山朝政の宮木野の陣に馳せ参じたと解釈できるだろう。

 そして、閏2月28日、小山五郎宗政が、義広の矢を受けて負傷した兄・朝政の名代として「相率一族及今度合力之輩、山上于鎌倉」(『吾妻鏡』治承五年閏二月廿八日条)した。彼らは頼朝居館の侍所に参じたと思われるが、「宗政、行平以下一族列居西方、知家、重成以下亦列東方」「所生虜之義広従軍廿九人、或梟首、或被召預行平有綱等」を披露する。頼朝は「常陸、下野、上野之間、同意三郎先生之輩所領等悉以被収公之、朝政、朝光等預恩賞」という。ただし、常陸、下野、上野国の義広与党の所領を没収するが、これを分与したかどうかは定かではない。

野木宮合戦について

 『吾妻鏡』の治承5(1181)年閏2月20日から23日条にかけて、下野国野木郡の野木宮周辺で起こったという「野木宮合戦」の伝が記載されている。頼朝の叔父である三郎先生義広が頼朝に対して「謀叛」を企て、小山朝政以下の人々がこぞって朝政に味方し、朝政は負傷しながらも義広を打ち破った、という内容である。

 この「野木宮合戦」譚は、この合戦が寿永二年とされた理由(「石井進氏「志太義広の蜂起は果して養和元年の真実か」(石井進著『鎌倉武士の実像 石井進著作集 第5巻』岩波書店2005.1))と同じ性質のものから発生していると推測できる。

 野木宮合戦については、建久3(1192)年9月12日に朝政に下された「常陸国田村下庄」の政所下文の地頭補任状に「寿永二年」とあることから、これを根拠に合戦は寿永2(1183)年の出来事とされるが、後述の通りこの政所下文の根拠となる頼朝の下文は、紛失等により存在しておらず(朝政が口述または自筆で別添書類を提出したか)、誤記が考えられる。のち、義広に加担して逃亡した足利又太郎忠綱の父「従五位下藤原俊綱字足利太郎(『吾妻鏡』治承五年九月十二日条)が頼朝の追討対象となっているが、頼朝は和田次郎義茂らを足利に派遣し、6月13日に俊綱は郎従の桐生六郎に殺害されて首は鎌倉に送られた。6月18日、頼朝は和田義茂に俊綱の一族らに危害を加えることを禁止する下文を遣わしたが、その下文の日時は「治承五年九月十八日」であった(藤姓足利氏について)。

 『吾妻鏡』では資料として和田次郎義茂への下文を利用して掲載していることから、この足利俊綱追捕の記事のもととなった資料は和田義茂の子孫(高井和田家、中条和田家)が提供したものと思われ、小山氏が提供した野木宮合戦譚に使用された資料とは出所が明らかに異なっている。この和田氏提供とみられる採用資料に「嫡子又太郎忠綱、同意三郎先生義広、依此等事不参武衛御方」(『吾妻鏡』治承五年九月十二日条)とあることから、義茂へ宛てられた下文は義広兵乱後のものとなる。よって、義広兵乱は治承5(1181)年9月以前の出来事であると判断され、野木宮合戦は治承5(1181)年に起こった合戦であって、寿永2(1183)年の合戦ではない

●「源頼朝下文」(『吾妻鏡』治承五年九月十八日条)

 仰下 和田次郎義茂
  不可罸雖為俊綱之子息郎従参向御方輩事

 右、云子息兄弟云郎従眷属、始桐生之者於落参御方者、不可及殺害、又件党類等妻子眷属并私宅等、不可取損亡之旨、所被仰下如件、

     治承五年九月十八日

■野木宮合戦譚の性格

 『吾妻鏡』治承5(1181)年閏2月の野木宮合戦記事は、小山朝政の活躍を語る、小山朝政を「主人公」とした合戦譚を基に掲載されたものであると考えられる。また、小山一族ではなく「朝政個人」に焦点を当てたもので、父政光も朝政を引き立てるためだけに名を見せる。副将的扱いで登場する弟の五郎宗政は、朝政の代理として登場するが、頼朝と朝政の間にあった「強固な信頼関係」を表わし、戦傷(武功)のために動けない朝政に代わって戦果を鎌倉に伝える使者としての役割となる。この「小山朝政の武勲」をことさら強調した資料提供するのは、朝政の末裔、つまり小山氏以外には有り得ず、「野木宮合戦」譚は「小山氏提供資料に基づいている」ことが明白な記事なのである。

 また、この合戦譚は「軍記物」に近い表現が用いられており、小山氏独自の軍記物が存在した可能性もある。合戦譚には、朝政および宗政の年齢も記されているが、朝政の『吾妻鏡』内卒伝とは年齢が異なるため、野木宮合戦譚の資料は卒伝に用いられた資料とは異なる。

氏名 生年 没年 『吾妻鏡』出典
小山朝政  久寿2(1155)年 嘉禎4(1238)年3月30日 嘉禎四年三月卅日条
保元2(1157)年 - 治承五年閏二月廿三日条(野木宮合戦の項)
長沼宗政  応保2(1162)年 仁治元(1240)年11月19日 仁治元年十一月十九日条
応保2(1162)年 - 治承五年閏二月廿三日条(野木宮合戦の項)

 合戦譚の記事を見ると、

【1】下河辺庄司行平在下総国、小山小四郎朝政在下野国、彼両人者、雖不被仰遣、定励勲功歟之由、尤令恃其武勇給(『吾妻鏡』治承五年閏二月廿日条)

 のちに源家門葉に准じられた一族の忠孝武勇の士・下河辺行平と並び、小山朝政も「使いを遣らずとも必ず勲功を挙げる」と頼朝に言わしめさせるほど、その武勇を恃む人物として表現されている。

【2】依之朝政之弟五郎宗政并同従父兄弟関次郎政平等、為成合力、各今日発向下野国、而政平参御前、申身暇起座訖、武衛覧之、政平者有弐心之由被仰、果而自道不相伴于宗政、経閑路馳加義広之陣(『吾妻鏡』治承五年閏二月廿日条)

 朝政弟の五郎宗政と従兄弟の関次郎政平に、下野国への合力を命じて出発させている。このとき、関政平は宗政に「相伴」する立場で記されているが、関氏は小山氏に従属する立場にはなく、小山氏の誇張表現とみられる。

【3】小山与足利、雖有一流之好、依為一国之両虎、争権威(『吾妻鏡』治承五年閏二月廿三日条)

 下野国には藤姓足利氏、小山氏のほかに、藤姓足利氏より格上の源姓足利氏、那須郡の那須氏、河内郡の宇都宮氏など、他勢力も十分に勢力を有していた。「一国之両虎」は小山氏の誇張表現とみられる。藤姓足利氏は頼朝挙兵後も一貫して北関東の平家(小松家)与党であり、「一国之両虎」は源家与党の小山氏が平家与党の足利氏を対比した表現で用いているのだろう。

 藤姓足利氏については、治承4(1180)年9月11日に京都に伝わった情報に、流人頼朝の挙兵で一旦は「大庭三郎景親云々、是禅門私所遣也」「逐籠頼朝等於筥根山了」したものの、「而其後上総国住人、介八郎広常并足利太郎故利綱子云々、等与力、其外隣国有勢之者等、多以与力、還欲殺景親等了之由」というものがあり(『玉葉』治承四年九月十一日条)、これが初見となる。ただし、頼朝挙兵に「足利太郎」は加わっていない上、当時足利俊綱は生存しており、いまだ故人ではない。様々な誤伝が京都に伝わっていたことがうかがえる。なぜ「足利太郎」が加わっているのかは定かではないが、故足利義康の子で頼朝の従兄弟に当たる足利三郎義兼と混同している可能性があろう。

 治承4(1180)年9月30日、「足利太郎俊綱、為平家方人、焼払同国府中民居、是属源家輩令居住之故也」(『吾妻鏡』治承四年九月卅日条)とあるのを初見とする。時期としては頼朝が挙兵し、房総へ上陸して一月余り経っているので、何処からか俊綱のもとにその報が届いていてもおかしくはないが、頼朝の威勢は北関東にまで及んでおらず、疑義がある。俊綱が反応したのは実は頼朝ではなく「新田大炊助源義重入道法名上西」の可能性があろう。

 同日条には義重入道が頼朝の要請を無視し続け、陸奥守義家嫡孫として自立の気配を見せ、「新田大炊助源義重入道法名上西」が「引篭上野国寺尾城、聚軍兵」たという。ただ、この義重入道の行動は対立関係にあった俊綱と紛争になり(俊綱が仁安年中に起こした女性殺害事件により「下野国足利庄領主職」を「新田冠者義重」に得替された際、上洛して平重盛に泣きついて返付してもらった逸話があり、おそらく義重とは対立関係となっていただろう)、所領の寺尾(高崎市寺尾町)の山に籠って、北の上野国府付近に陣取る俊綱と対峙したのかもしれない。

 そして、頼朝と同時期に信濃国に挙兵した木曾義仲は、新田義重入道と呼応するように、俊綱が上野府中の民家に放火した半月後の10月13日に「出信濃国入上野国」という(『吾妻鏡』治承四年十月十三日条)。ここで義仲は「仍住人等漸和順之間、為俊綱足利太郎也雖煩民間、不可成恐怖思」という命を下しており、義仲と俊綱の間でも対立関係が生じていることがうかがえる。義仲の上野国下向は、新田義重入道との連携も考えられよう。

 義重入道は義仲与党である甲斐源氏と重縁があり(『尊卑分脈』『諸家系図纂』)、さらに猶子の矢田判官代義清(義重弟の故左衛門尉義康の子)は義仲に属するなど深い関わりを持っていた。義仲はこの頃すでに信濃国、甲斐国、上野国にその勢力を伸ばしており、常陸国信太庄の実叔父・信太三郎先生義広とも連携をとっていた可能性があり、結果としてこの義広の動きが「野木宮合戦」へと繋がっていったのだろう。

 源頼義―+―源義光――+―源盛義―――新田義澄―――新田義資
(伊予守)|(常陸介) |(左兵衛尉)(判官代)  (四郎兵衛)
     |      |       ↑【同一】
     |      +―源実光―――新田義隆
     |      |(二郎勾当)(判官代)
     |      |
     |      +―源義清―――逸見清光―――武田信義――武田信光
     |       (刑部三郎)(源太)   (太郎)  (五郎)
     |                           ∥ 
     |            +―足利義康―+―足利義兼  ∥
     |            |(左衛門尉)|(上総介)  ∥
     |            |      |       ∥
     |            |      +―矢田義清  
     |            |       (判官代)  ∥
     |            |        ∥     ∥
     |            |      +―女子    ∥
     |            |      |       ∥
     +―源義家――+―源義国―+―新田義重―+=武田信政  ∥―――+―武田信政
      (陸奥守) |(式部丞) (大炊助) |(小五郎)  ∥   |(小五郎)
            |            |       ∥   |
            |            +=新田義隆  ∥   +―一条信長
            |            |(判官代)  ∥   |(六郎)
            |            |       ∥   |
            |            +=矢田義清  ∥   +―岩崎信隆
            |            |(判官代)  ∥    (五郎七郎)
            |            |       ∥
            |            +―女子    ∥   
            |              ∥―――――女子  
            |              ∥      
            +―源為義―――源義朝――+―源義平
             (左衛門尉)(下野守) |(源太)
              ∥          |
              ∥          +―源頼朝   
              ∥           (右近衛大将)
              ∥
              ∥―――+―源義賢――――源義仲
              ∥   |(帯刀先生) (木曽冠者)
              ∥   |
       某氏重俊―――女子  +―源義広
      (六條大夫)       (信太帯刀先生)

 治承5(1181)年閏2月23日、信太三郎先生義広は「率三万余騎軍士、赴鎌倉方」というが、すでに大軍(小山氏が製作した軍記物に近い野木宮合戦譚の誇張表現)を結集しているのであれば、当然ながら常陸国から相模国の官道を進めば用は足りるにも拘わらず、わざわざ下野国を経由して「赴鎌倉」という不可解な文章に仕上がっているのは、本来はまったく別の目的であった義広の行動が、義広が頼朝に敵対したことに置き換えられたものであろう。義広の目的は頼朝との合戦ではなく、実甥の木曾義仲との連携であろう。下野国野木宮を経由したのは信濃国へ出る経路上、下妻方面から東山道への官道があったためで、頼朝は義広と義仲の合流を阻止しようと、小山朝政に迎撃を指示をしたのではなかろうか。

 義広が「先相語足利又太郎忠綱、忠綱本自背源家之間、成約諾」という足利忠綱は、前年9月30日に上野国府中で「属源家輩令居住」を放火した足利太郎俊綱の「嫡子」であった。平家に忠誠を誓い木曾義仲とも敵対する俊綱の嫡子が義仲実叔父の義広に通じたのは聊か疑問があるが、忠綱は俊綱と意見を異にしていたか、野木宮合戦で義広に通じ、義広が敗北したのちも俊綱を頼ることなく「潜篭于上野国山上郷龍奥、招郎従桐生六郎許、数日蟄居、遂隨桐生之諌、経山陰道赴西海方」(『吾妻鏡』治承五年閏二月廿五日条)といい、野木宮合戦後に郎従「桐生六郎」のみを伴い、桐生の本拠と思われる上野国山上郷(桐生市山上)の「龍奥」に数日潜んだのち、桐生の諫めを聞いて「経山陰道、赴西海方」へ落ち延びている。平家の西海落ちにはまだ相当の時間があることから、平家を頼ったものではない。その後、足利忠綱は名は見えず、生死は不明である。

 これ以降、しばらくは藤姓足利氏と頼朝との直接的な対峙は見られないが、7月末ごろには俊綱の蜂起があったようである。京都には8月12日に伝わっており「伝聞、足利俊綱有背頼朝之聞」(『玉葉』養和元年八月十二日条)とある。この「背頼朝」により、9月7日、頼朝は「仰和田次郎義茂、被下俊綱追討御書、三浦十郎義連、葛西三郎清重、宇佐美平次実政被相副之、先義茂今日下向」という(『吾妻鏡』養和元年九月七日条)

 しかし、下野国に下向した和田次郎義茂だったが、義茂が下野国につく以前に「俊綱専一者桐生六郎、為顕隠忠、斬主人而篭深山」(『吾妻鏡』養和元年九月十三日条)という。この俊綱を斬った「桐生六郎」は、俊綱嫡子の忠綱を遁れさせた桐生六郎と同一人物とみられ、頑なに平家与党として活動する足利俊綱によって藤姓足利氏が脅かされる中、俊綱を斬ることで足利家の命脈を保とうとしたか(ただし、後述のようにこの「俊綱を斬った」ということ自体が偽謀であった可能性がある)。

 桐生六郎は和田義茂の使者の言葉に随って陣所を訪れたものの、俊綱の首級は持参すると言いながら持って来ず、義茂は鎌倉に「何樣可計沙汰哉」と伺いの使者を派遣している。これに頼朝は「早可持參其首」を厳命して使者を返した(『吾妻鏡』養和元年九月十三日条)。頼朝としては至極当然のことを問い合わせる義茂ほかの諸将にややうんざりしたろう。

 頼朝からの指示を受けた義茂は、桐生六郎に首を持参させると、武蔵大路を急行させ、梶原平三景時に使者を立てて、鎌倉入りの如何を確認している。その結果、首は鎌倉へは入れずに、直接深澤を経て腰越に向かうよう頼朝からの指示があり、腰越にて首実検が行われた(『吾妻鏡』養和元年九月十六日条)。ところが俊綱の顔を見知っている者はその場にいなかった。ここで同族の「佐野七郎(俊綱弟の佐野七郎有綱か?)」「下河辺四郎政義、常遂対面云々、可被召之歟」と発言したため、政義が鎌倉から呼ばれて実検を行っている。彼の見立てでは「刎首之後、経日数之故、其面殊改雖令、大略無相違」というものだった。つまり、すでに首は傷んで人相が崩れており確定的なものではなかったことがうかがえる。これが桐生六郎が首を持参せず日数を稼いだ狙いだった可能性があろう

 9月18日、桐生六郎は梶原景時に「依此賞、可列御家人」と依頼する。景時がこれを頼朝に伝えると、頼朝は「而誅譜代主人、造意之企、尤不当也、雖一旦不足賞翫、早可誅」と答えたため、景時は桐生六郎を斬り、俊綱の首の傍らに梟首した。ところが、この峻厳な措置にも拘わらず、俊綱の遺領は収公するものの、俊綱の「云子息兄弟、云郎従眷属、始桐生之者、於落参御方者、不可及殺害」のほか、「件党類等妻子眷属并私宅等、不可取損亡」という内容の御下文を作成すると、和田義茂のもとに遣わしている。処刑した桐生六郎の親族郎従もその対象となっており、頼朝は桐生六郎の「何らかの作為」を感じ取っていたのかもしれない。

 仰下 和田次郎義茂

  不可罸雖為俊綱之子息郎従参向御方輩

右 云子息兄弟、云郎従眷属、始桐生之者、於落参御方者、不可及殺害、又件党類等妻子眷属并私宅等、不可取損亡之旨、所被仰下如件

   治承五年九月十八日

 この御下文の写しは、『吾妻鏡』編纂時に野木宮合戦の素材として用いられたであろう小山氏提供の軍記物形式の朝政顕彰譚ではなく、和田次郎義茂の子孫(高井和田氏または中条和田氏か)が継承した文書が用いられたと思われ、足利俊綱の戦後処理の年号は「治承五年」となっており、小山氏提供の野木宮合戦譚と同じ元号であることから、野木宮合戦は治承5(1181)年の出来事であって、寿永2(1183)年ではないことがわかる。

 なお、『吾妻鏡』に見える俊綱の伝も何かの記録から取られているが(『吾妻鏡』養和元年九月七日条)、秀郷後胤で鎮守府将軍兼光六代孫と述べ「為郡内棟梁也」と顕彰的に記されていることから、少なくとも小山氏からの提供文書ではないだろう。平家に従ったきっかけも詳細に記されているが、俊綱の不始末とともに述べられていることから、いくつかの文書を総合して作成された条文であると思われる。

従五位下藤原俊綱字足利太郎者、武蔵守秀郷朝臣後胤、鎮守府将軍兼阿波守兼光六代孫、散位家綱男也、領掌数千町、為郡内棟也、而去仁安年中、依或女性之凶害、得替下野国足利庄領主職、仍平家小松内府賜此所於新田冠者義重之間、俊綱令上洛、愁申之時被返畢、自爾以降為酬其恩近年令属平家之上、嫡子又太郎忠綱同意三郎先生義広、依此等事、不参武衛御方、武衛亦頻咎思食…

【4】去年夏之比、可誅滅平相国一族之旨、高倉宮被下令旨於諸国畢、小山則承別語、忠綱非其列、太含欝憤加平氏、渡宇治河、敗入道三品頼政卿之軍陣、所奉射宮也、異心未散、且以次為亡小山有此企(『吾妻鏡』治承五年閏二月廿三日条)

 去年の夏、すなわち治承4(1180)年4月9日に認められたとされる平相国入道以下の追討を命じた「最勝親王宣(以仁王の令旨)」が、小山朝政には「特別に」届けられたが、足利忠綱には届けられず、欝憤を含んで平家に加わり、同年5月26日の宇治川合戦で宇治川を渡って頼政入道の軍陣に攻め入り、以仁王(源以光)に敵対したという。小山氏が特別扱いをされたという誇張表現であろう。

  さらに忠綱についても、4月の以仁王の「最勝親王宣」が関東へ届けられるまでのタイムラグ、それを受けられなかったという理由で上洛し、5月26日に宇治川合戦で渡河するという、時間軸上で非現実的なことが述べられていることから、忠綱上洛は虚構であろう。

 そもそも以仁王は兵力を持っておらず、以仁王が園城寺と組んで兵を挙げる策謀が発覚(「最勝親王宣」は発覚していない)した段階では、検非違使二名が率いる人々で王を逮捕すれば収まる程度のものであった。つまり、忠綱が上洛する理由が存在しないことになり、忠綱上洛自体が虚構であろう。宇治川合戦での渡河についても、実際に宇治川追捕を行った「同名異人」の検非違使藤原忠綱に仮託したものであろう。

 なお、令旨は「東海東山北陸三道諸国源氏并群兵等」へ宛てられたものであるが、文中には「然則源家之人、藤氏之人、兼三道諸国之間堪勇士者、同令与力追討」ともあるため、小山朝政に届けられた可能性は否定できない。しかし、足利忠綱の父・太郎俊綱は平家方人であり、しかも家督も継いでいない「忠綱」に令旨が届けられるわけもなく、これを以って源家に叛気を持つ事自体が矛盾する記述であり、明らかに小山氏が足利氏を自家に対比して優越を強調する挿話であることは間違いないだろう。

【5】朝政父政光者、為 皇居警衛未在京、郎従悉以相従之、仍雖為無勢、中心之所之在武衛、可討取義広之由凝群議(『吾妻鏡』治承五年閏二月廿三日条)

 朝政は、父政光が郎従達を「悉以相従之」て京都大番役のため上洛していて「為無勢」を強調しながらも、頼朝を恃みに、寡勢ながら義広を追捕することを主張している。頼朝への忠義を強く前面に出した表現となっている。ただし、現実的に政光が大番役として「郎従悉以相従之」ことは、当時西国で起こっていた大飢饉や、京都の社会秩序を考えれば、誇大表現であろうことは容易に察せられる。

【6】朝政着火威甲、駕鹿毛馬、時年廿五、勇力太盛、而懸四方多亡凶徒也、義広所発之矢中于朝政、雖令落馬、不及死悶、爰件馬離主、嘶于登々呂木澤、而五郎宗政、年廿、自鎌倉向小山之處、見此馬、合戦已敗北、存令朝政夭亡歟之由、馳駕向于義広陣方(『吾妻鏡』治承五年閏二月廿三日条)

 この辺りの記事は諸軍記物の表現と類似しており、小山氏が自家伝として有していた何らかの軍記物語から『吾妻鏡』編纂時に拝借した記事に基づくか。朝政自身が奮戦して負傷したという武功を強調している。自家を主人公に据え、ほかの参戦人物は蒲冠者範頼も含めて自家が中心となってこの戦いを乗り切っていることを際立たせるエッセンス的な立場に置いている。また、この話が『吾妻鏡』の中で「蒲冠者範頼」の初見となるが、範頼が前後の記事との連携なく唐突に参戦しているのも、この合戦譚が独立した資料からとられていることを推測させる。

【7】彼朝政者、曩祖秀郷朝臣、天慶年中追討朝敵平将門、兼任両国守、令叙従下四位、以降伝勲功之跡、久護当国、為門葉棟梁也、今聞義広之謀計、思忠軽命之故、臨戦傷得乗勝矣(『吾妻鏡』治承五年閏二月廿三日条)

 小山朝政こそ、天慶の乱の朝敵平将門を追討して「兼任両国守(武蔵国、下野国の両国であろう)」し、従四位下に叙された藤原秀郷の「門葉棟梁」であることを強調している。敢えて「兼任両国守」と記すのは、武蔵国の本宗たる大田氏を凌ぎ、下野国の同族からも隔絶した「棟梁」であるという、小山氏の誇張的自負であろう。

 このように、『吾妻鏡』の野木宮合戦譚は、小山氏独自の資料(自家称賛、とくに頼朝との関係が密接だった小山朝政の顕彰のために、小山氏が制作した軍記物語か)をベースに『吾妻鏡』編纂時に組み込んだ可能性が高いだろう。小山氏は誇り高く、自家の強大さを自賛し、そのためには、自家の由緒を「創作」(ただし、時が流れれば「真実」へと変質する)することも厭わなかった傾向がある。

 『吾妻鏡』に見える小山氏の自家称賛記事としては、「野木宮合戦」のみに留まらず、

【A】小山氏は大名であり、合戦では自ら戦わず郎従を遣わすのみである

 奥州合戦時に頼朝が宇都宮に宿泊した際、小山政光は頼朝傍に控える熊谷小次郎直家が「本朝無双の勇士」と称されたことに、「争限直家哉、但如此輩者、依無顧眄之郎従、直励勲功揚其号歟、如政光者、只遣郎従等抽忠許也」(『吾妻鏡』文治五年七月廿五日条)と答えたという。有り得ないことではないが、小山氏独特の自賛表現とも受け止められる。

【B】小山氏は豊沢以来、下野国の検断を一手に行い、秀郷以降十三代数百年断絶することなく続いている

 承元3(1209)年末頃、守護職補任についての改革を考えた将軍実朝が、近国守護に対して守護補任の根拠となる頼朝の御下文の提出を命じた。12月15日、命を受けた人々が御下文を提出する中、小山朝政は「不帯本御下文」で御前に上がると、「曩祖下野少掾豊澤、為当国押領使、如検断之事一向執行之、秀郷朝臣、天慶三年更賜官符之後、十三代数百歳奉行之間、無片時中絶之例、但右大将家御時者、建久年中、亡父政光入道、就讓与此職於朝政、賜安堵御下文許也、敢非新恩之職、称可散御不審」と述べて、秀郷が賜ったという「進覧彼官符以下状等」を提出したという(『吾妻鏡』承元三年十二月十五日条)

 つまり、朝政が強調する「天慶三年更賜官符之後、十三代数百歳奉行之間、無片時中絶之例」は証明できる根拠はないままに自称していた可能性があり、建久年中に政光が朝政に「讓与此職(守護ではなく秀郷が賜ったと称する官符に基づく押領使及び検断職か。この官符自体の真贋も不明)」したときに、頼朝に同様の主張をして(天慶三年とする官符を見せたか)、いわば口頭のみで押領使及び検断職を安堵する御下文を給わったのだろう。つまり、守護補任に対する頼朝の御下文は存在せず、あるのは政光から朝政へ相伝所職を譲られた際の頼朝安堵状のみだったため、朝政は「不帯本御下文」だったのである。しかし、朝政は明確に「守護」補任の御下文はないが、「当国押領使、如検断之事」は数百年にわたって当家が受け継いできたもので「敢非新恩之職」と釘を刺している。

【C】小山氏は伊勢守藤成以来、下野大介職を十六代に渡って断絶することなく続いている

 建長2(1250)年中に小山出羽前司長村が、大神宮雑掌に貢物未納等と思われることによって訴えられ、藤成以来十六代中絶なく相伝してきた「下野国大介職」(大介は国司が荘園決裁文書等に用いる職名であり、朝政譲状に見られる通り権大介職であろう)を「所被改補」されてしまった。そのため長村は「於彼訴訟事者、以米銅以下読令解謝訖、被行二罪之條、殊含愁訴之由、長村連々言上」したため、12月28日の評定で長村へ返付する旨の評議が行われている(『吾妻鏡』建長二年十二月廿八日条)。この頃には、根拠となる真贋不明の秀郷官符などの類もすでに意味をなさず、小山氏の秀郷以来の嫡流で押領使及び検断職は当家に継承されてきたという「家伝」はすでに疑問の余地ない「真実」に置き換わっていたのであろう。

【D】朝政の常陸国村田下庄の地頭職補任について

 建久3(1192)年8月5日、将軍に補されたのちの「政所始」が政所で行われた。頼朝が出席し、家司が列する中で、これまで下されていた袖判下文を「被召返之」、その代わりに「被成政所下文」した。この地頭職補任の政所下文を最初に下されたのが千葉介常胤であったが、常胤は「頗確執」し、「謂政所下文者、家司等署名也、難備後鑑、於常胤分者、別被副置御判、可為子孫末代亀鏡之由」を申し請うた。頼朝も「如所望」と許し、頼朝の袖判下文による地頭職安堵状が下された。ただし、同時に「所成給政所下文也、任其状、至于子孫、不可有相違之状如件」とあるように、将軍家政所下文も下された(『吾妻鏡』建久三年八月五日条)

 本来、この特例は常胤に限ったものであったのだろう。ところが、約1か月後の9月12日、小山朝政がこの常胤の例に沿って袖判下文(建久三年九月十二日『源頼朝袖判下文』「松平基則氏旧蔵文書」:『鎌倉遺文』619)を下されるとともに、居住地の「下野国日向野郷」安堵の政所下文を改めて下された(建久三年九月十二日『将軍家政所下文案』「松平基則氏旧蔵文書」:『鎌倉遺文』618)。8月5日政所始で示されるべき頼朝袖判下文と政所下文の両通発給が9月12日に行われていることを考えると、小山朝政はこの8月5日の政所始当時は鎌倉にはいなかったと考えられよう。朝政は鎌倉に戻ると、これまでに発給された袖判下文を持参して政所に提出し、常胤の例に準じて朝政も袖判下文の発給を要請したのだろう(自家高揚の強い意志によるものであろう)。その結果、9月12日に現住の「下野国日向野郷」地頭職に補任する政所下文と、「可早任政所下文旨領掌所々地頭職事」(建久三年九月十二日『源頼朝袖判下文』「松平基則氏旧蔵文書」:『鎌倉遺文』619)の頼朝袖判下文が下された。なお、地頭職補任の政所下文は各地頭職に一通ずつ発給されており、朝政も日向野郷のほかにも同時に諸所の政所下文を下されていただろう。

 「下野国日向野郷」地頭職に補任する政所下文は「寿永二年八月 日御下文」に基づく補任であり、これは朝政が袖判下文を有していたことを意味しているのだろう。その年季は「寿永二年八月」であるが、寿永2(1183)年8月に「寒河御厨号小山庄」の北端にあたる「下野国日向野郷」を与えられたということであろう。

 ここで『吾妻鏡』では、これらと同日の9月12日に朝政に給わったという「常陸国村田下庄下妻宮等の地頭職補任の政所下文を掲載する。そこには「去寿永二年、三郎先生義広発謀叛企闘乱、爰朝政偏仰朝威、独欲相禦、則待具官軍、同年二月廿三日、於下野国野木宮辺合戦之刻、抽以致軍功畢」といい、「仍彼時所補任地頭職」とある。ここには「御下文」に基づいて政所下文が下されたとは記されておらず、朝政は村田下庄の補任下文を紛失などの理由かは不明ながら、文書を政所に提出しなかったとみられ(当時は下文を発給した当人である頼朝が生存中であることから、朝政がもらってもいない下文に言及することはないと考えると、義広との戦いの勲功により村田庄下庄の地頭職に補任された事実はあっただろう)、「寿永二年」に志太義広と戦ったことを証明するものはないままに政所下文の申請を行ったが、この際の提出文書(下文の概要を記した文書か。政所の案文との内容の比較が行われたのかもしれない)が戦闘年月日を誤記(同日、政所に申請したと思われる下野国日向野郷の「寿永二年」に倣った可能性)したものである可能性が考えられよう。

●建久3(1192)年9月12日に小山朝政に下された政所下文

地頭職 根拠となる文書 勲功賞
下野国日向野郷 寿永二年八月日の御下文 なし
※本領安堵であろう
常陸国村田下庄下妻宮等 なし
※「彼時所補任地頭職」の主張のみ
「寿永二年」の三郎先生義広との合戦時の軍功
※「下野国野木宮辺合戦」の軍功

 戦いの日時を二月廿三日としているのは、寿永二年に閏二月がなかったために、閏二月廿三日を二月廿三日として矛盾を解消(申請文書か政所下文作成時かは不明)したのだろう。この朝政への政所下文が載せられた『吾妻鏡』記事は、編纂時に小山氏提供の文書が採用されたとみられるが、家司の「別当」前下総守源邦業の「前」を落とす誤記があり、この文書自体が資料として採用されたのは、この脱字の指摘がなされない後年と思われる。

 なお、この村田下庄は小山氏惣領家には相伝されず、朝政から孫の長政(のち修理権亮)に譲られたとみられ、嫡孫長村への譲状に記載はない。

●建久三年九月十二日「将軍家政所下文」(『吾妻鏡』建久三年九月十二日条)

 将軍家政所下 常陸国村田下庄下妻宮等
  補任地頭職事
    左衛門尉藤原朝政

 右、去寿永二年、三郎先生義広発謀叛企闘乱、爰朝政偏仰朝威、独欲相禦、則待具官軍、同年二月廿三日、於下野国野木宮辺合戦之刻、抽以致軍功畢、仍彼時所補任地頭職也、庄官宜承知不可遺失之状、所仰如件、以下

   建久三年九月十二日 案主藤井
  令民部少丞藤原     知家事中原
  別当前因幡守中原朝臣
     下総守源朝臣

●建久三年九月十二日『将軍家政所下文案』(「松平基則氏旧蔵文書」:『鎌倉遺文』618)

 将軍家政所下 下野国日向野郷住人
  補任地頭職事
    左衛門尉藤原朝政

  右、寿永二年八月  日御下文云、以件人補任彼職者、令依仰成賜政所下文之状如件、以下、

   建久三年九月十二日   案主藤原(花押)
  令民部少丞藤原(花押)  知家事中原(花押)
  別当前因幡守中原朝臣(花押)
     前下総守源朝家臣

●建久三年九月十二日『将軍家政所下文案』(「松平基則氏旧蔵文書」:『鎌倉遺文』619)

       (頼朝花押)
 下  下野国左衛門尉朝政
   可早任政所下文旨領掌所々地頭職事

  右、件所々所成賜政所下文也、任其状可領掌之状如件、

     建久三年九月十二日

 『吾妻鏡』における朝綱の初出は、寿永元(1182)年8月13日の頼家誕生に際しての守刀献上の逸話であり(『吾妻鏡』寿永元年八月十三日条)、頼朝挙兵から二年を経過している。このことから、頼朝挙兵後もしばらくは在京していたとみられる。

 頼朝挙兵に伴う朝綱の帰京時のエピソードは『吾妻鏡』に伝わっているが、朝綱が「属平家在京之時、聞挙義兵給事、欲参向之刻、前内府不免之」のとき、「平家一族、故入道大相国専一腹心者也」である「前筑後守貞能者」「宥朝綱并重能有重等」によって、宇都宮朝綱、畠山庄司重能、小山田別当有重らは関東に下向することができたという(『吾妻鏡』元暦二年七月七日条)。その関東下向は「日来雖仕平家、懇志在関東之間、潜遁出都参上募其功」(『吾妻鏡』元暦元年五月廿四日条)というもので、密かに都を抜け出たと述べている。時期としては「前内府」が帰国を許さなかったとあるので、時期としては治承5(1181)年閏2月4日の平清盛入道亡き後ということになる。なお、同時期、朝綱の義弟「小山下野大掾政光」も「政光者、為 皇居警衛、未在京、郎従悉以相従之」(『吾妻鏡』治承五年閏二月廿三日条)と見え、小山氏郎従の多くを伴ったまま皇居警衛の任に当たっていたとする。ただし、現実的に大番役として政光が「郎従悉以相従之」ことは、当時起こっていた西国大飢饉や在京秩序を考えれば、誇張表現であろうことは察せられる

 このように、頼朝挙兵当時の下野国は乳母系の小山氏も宇都宮氏も当主不在で戦力も乏しい状況にあり、頼朝から送られた挙兵要請に応えることはできなかったのはこのためであろう。そのほか「小山与足利、雖有一流之好、依為一国之両虎、争権威」(『吾妻鏡』治承五年閏二月廿三日条)という、高倉宮以仁王を宇治川に追捕した「足利(足利又太郎忠綱)」の動きを警戒したのか、頼朝親族の足利冠者義兼をはじめとする下野国の秀郷流藤原氏のいずれもが頼朝鎌倉入部以前に参陣を果たせていない。ただし、宇都宮朝綱妹で小山政光の妻である「武衛御乳母故八田武者宗綱息女(のち寒河尼)」元服前の末子(のちの結城七郎朝光)を連れて、頼朝が宿陣する「隅田宿」に参じており(『吾妻鏡』治承四年十月二日条)、これが宇都宮氏及び小山氏の頼朝への回答ということであろう。宗綱女子は宇都宮朝綱の名代、政光末子は小山政光の名代という位置づけであると考えられる。宇都宮の留守居は親族の宇都宮所信房が担ったか。

 この宮木野合戦ののち、朝綱は関東に戻ってきており、寿永元(1182)年8月12日に生まれた源頼朝の「若公(のちの頼家)」に「追代々佳例、仰御家人等、被召御護刀」て、「宇都宮左衛門尉朝綱」が筆頭となり「畠山次郎重忠、土屋兵衛尉義清、和田太郎義盛、梶原平三景時、同源太景季、横山太郎時兼等」とともに御守刀を献じた(『吾妻鏡』寿永元年八月十三日条)。このときすでに朝綱は鎌倉に居住していることがわかる。

 大法師宗円――八田宗綱―+―宇都宮朝綱――宇都宮業綱
(宇都宮座主)(八田権守)|(左衛門尉) (次郎兵衛尉)
             |
             +―八田知家―――八田知重
             |(右衛門尉) (左衛門尉)
             |
             +―女子
              (寒河尼)
               ∥――――+―小山朝政
               ∥    |(小四郎)
               ∥    |
 大田行尊―+―大田行政―+―小山政光 +―長沼宗政
(大田別当)|(大田大夫)|(下野大掾)|(五郎)
      |      |      |
      |      |      +―結城朝光
      |      |       (七郎)
      |      |
      |      +―下河辺行義――下河辺行平
      |       (下河辺庄司)(下河辺庄司)
      |
      +――――――――大田行光
      |       (四郎)
      |        ∥――――――大田広行
      | 秩父重綱―――女子    (太郎)
      |(秩父権守)
      |
      +―大方政家―+―関政平
       (五郎)  |(次郎)
             |
             +―関政綱
             |(左衛門尉)
             |
             +―法橋隆宣【日光山別当】
             |(阿闍梨)
             |
             +―法印弁覚【日光山別当】
              (大僧都)

 元暦2(1185)年、観纏僧都が日光山から退いたのち(『日光山列祖伝』)「宇都宮左衛門朝綱」が「朝綱当其仁、今度之闕可補任」(『日光山別当次第』)と主張して日光山俗別当に補任されたものの、「衆徒等、俗別当無其謂由」の訴えによって改易されたといい、宇都宮とは異なり、日光山には俗別当の先例がなかったためだろう。なお、この前年の元暦元(1184)年5月24日時点で朝綱は「宇都宮社務職」(『吾妻鏡』元暦元年五月廿四日条)を帯し、これを安堵されている。

 文治5(1189)年の奥州藤原氏との合戦においては、「宇都宮左衛門尉朝綱」は子息「次郎業綱」、弟の「八田右衛門尉知家」とその子「太郎朝重」とともに頼朝率いる「大手自中路」に従って文治5(1189)年7月19日、鎌倉を出立した(『吾妻鏡』文治五年七月十九日条)。なお、八田知家は千葉介常胤とともに「東海道大将軍」に任じられており(『吾妻鏡』文治五年七月十七日条)常陸国の御家人を率い、途中で常陸国へと分路して海道筋を北上した。

 大手勢は7月25日に「下野国古多橋駅」につき、頼朝は「先御奉幣宇津宮、有御立願、今度無為令征伐者、生虜一人可奉于神職」を誓い、「令奉御上箭」した(『吾妻鏡』文治五年七月廿五日条)。頼朝はその後「入御御宿」しているが、朝綱が宇都宮内に用意した旅宿であろう。ここで「小山下野大掾政光入道、献駄餉」したが、このとき頼朝の傍にいる「着紺直垂上下者」を見て、政光入道は「何者哉」と問うた。頼朝は「彼者、本朝無双勇士、熊谷小次郎直家也」と紹介すると、政光入道は「何事無双号候哉」と食い下がった。頼朝はこれに「平氏追討之間、於一谷已下戦場、父子相並欲棄命及度々之故也」と答えた。すると政光入道は頗る笑って、「為君棄命之條、勇士之所志也、争限直家哉、但如此輩者、依無顧眄之郎従、直励勲功揚其号歟、如政光者、只遣郎従等抽忠許也、所詮於今度者自遂合戦、可蒙無双之御旨」「子息朝政、宗政、朝光猶子頼綱」に命じたという(『吾妻鏡』文治五年七月廿五日条)。朝綱義弟の政光入道の勢力の大きさがうかがえるが、これも前述の野木宮合戦の伝ならびに当該合戦が寿永二年とする提出文書と同様に、小山氏が『吾妻鏡』編纂時に提出したとみられる自家高揚の資料をもととする記述であろう。ただ、朝綱の孫・宇都宮頼綱は政光入道の猶子となっていたことがわかる。

 8月7日、頼朝率いる大手勢が奥州勢の藤原国衡が布陣する陸奥国伊逹郡阿津賀志山を望む国見駅に到着した。その夜、頼朝寝所に宿直する小山七郎朝光は、陣所を密かに抜け出すと、「相具兄朝政之郎従等」(『吾妻鏡』文治五年八月七日条)「宇都宮左衛門尉朝綱郎従、紀権守、波賀次郎大夫已下七人」(『吾妻鏡』文治五年八月七日条)とともに阿津賀志山の国衡陣所の裏山に回り、未明の暮明の中で鬨の声をあげ、城兵を追い落としたという。このときの勲功として朝綱郎従「紀権守、波賀次郎大夫等」は頼朝から「殊蒙御感之仰、但不及賜所領、被下旗二流、被仰可備子孫眉目之由」を伝えている。また、朝光に同道した「兄朝政之郎従等」と同一人物とも思われる「小山下野大掾政光入道郎等、保志黒次郎、永代六次、池次郎等」「同賜旗弓袋、依勳功之賞下賜之由、所被加銘也、盛時書之」(『吾妻鏡』文治五年九月廿日条)という。

 奥州合戦が終わり、鎌倉への帰途の10月19日、頼朝は「下野国令奉幣于宇都宮社壇給」い、「偏為御報賽也」として「則奉寄一庄園」するとともに、奥州下向時に二荒山神社で誓った「今度無為令征伐者、生虜一人可奉于神職」(『吾妻鏡』文治五年七月廿五日条)について、八田知家が預かった法華信者の「樋爪太郎俊衡法師之一族」「為当社職掌」とした(『吾妻鏡』文治五年十月十九日条)

 奥州から帰国後の朝綱は、鎌倉での諸行事に従事しており、鎌倉の屋敷(宇都宮辻子にあったとされるが、この地にあったのは日光山(当時の日光山別当は勝長寿院別当を兼ねた)を遥拝する「宇都宮(宇豆宮)」と同意の社殿ではなかろうか、建久4(1193)年4月2日の那須野の巻狩(那須太郎光助が奉行)では「小山左衛門尉朝政、宇都宮左衛門尉朝綱、八田右衛門尉知家」が千人の勢子を献じている(『吾妻鏡』建久四年四月二日条)。その後、朝綱は出家して、孫の弥三郎頼綱、五郎頼業とともに上洛しているが、この頃、朝綱が関わる大きな事件が起こっている。

 建久5(1194)年5月20日、「下野国司行房」が派遣した目代が鎌倉に参着した。それによれば「宇都宮左衛門尉朝綱法師」が下野国内の「掠領公田百余町」したとして奏聞したという(『吾妻鏡』建久五年五月廿日条)。これを聞いた頼朝は「将軍家、殊所驚聞食」し、目代に「目代所申有其実者、可行重科之旨」を伝えている。この公田掠領を奏上した「下野国司行房」は『尊卑分脈』に該当者は見られないが、『玉葉』には奏上の4か月後の9月17日、興福寺供養祈に伴う幣帛で椎岡(藤原不比等墓)への使者となった「下野守行長」(『玉葉』建久五年九月十七日条)がおり、正しくは行長であろう(行房は行長の兄)。

 藤原行兼――女子      +―藤原行房
(越前守) (美福門院越前) |(摂津守)
       ∥       |
       ∥―――――――+―藤原行時
 藤原顕時――藤原行隆    |(皇太后宮大進)
(権中納言)(治部大輔)   |
               +―藤原行長
               |(下野守
               |
               +―藤原行方
               |(蔵人)
               |
               +―藤原行光
                (中納言)

 この事件においては、将軍家政所と京都との間で折衝が行われたと思われるが、その最中の6月28日には「造東大寺」につき、大仏殿に置かれる仏像のうち「観音」を「宇都宮左衛門尉朝綱法師」の所役と定めている。朝廷から朝綱の公領掠領の訴えがあった中で、敢えて頼朝が朝綱入道に観音造立を命じたのは、宇都宮が補陀落(観音浄土)信仰の日光山を遥拝する神社であったためであろう。

●二菩薩、四天王像等宛御家人(建久五年六月廿八日条)

仏像 造像担当
観音菩薩 宇都宮左衛門尉朝綱法師
虚空蔵菩薩 穀倉院別当親能
増長天 畠山次郎重忠
持国天 武田太郎信義
多聞天 小笠原次郎長清
広目天 梶原平三景時
戒壇院 小山左衛門尉朝政、千葉介常胤

 ところが7月16日、「下野国住人朝綱法師、依押領公田之過、可勘罪名之由、被宣下了、今日先為遂問注、雖被召其身、拒詔使、不参対、弥増其科者也」(『玉葉』建久五年七月十六日条)という決定的な過ちを犯す。公田押領について朝綱入道へ尋問のため検非違使庁へ出頭を命じる詔使を無視したのである。関白兼実はこれを「弥増其科」として激しく非難し、厳罰に処される事が決定。20日に「配流官符」が出されることとなる。

 この決定を耳にした一條能保はただちに鎌倉へ飛脚を飛ばしており、7月28日「一條前中納言能保卿飛脚」が鎌倉に参着(『吾妻鏡』建久五年七月廿八日条)。「左衛門尉朝綱入道」の配流が伝えられた。その報告によれば「依国司訴、遂有其過、去廿日被下配流官苻、朝綱土左国、孫弥三郎頼綱豊後国、同五郎朝業周防国也、又廷尉基重右衛門志、依朝綱法師引汲科被追放洛中」(『吾妻鏡』建久五年七月廿八日条)というものだった。これを聞いた頼朝はがっくり嘆息し、「兼信、定綱、朝綱入道、此皆可然之輩也、定綱事者山門之訴不能是非、今朝綱罪科者、公田掠領之号、為関東頗失眉目」と語ると、朝綱入道甥の結城七郎朝光を上洛させ、朝綱入道を訪ねてくるよう指示している(『吾妻鏡』建久五年七月廿八日条)

 朝綱入道はその後『吾妻鏡』に姿を見せることはないが、朝綱入道や宇都宮頼綱、五郎朝業が実際に流刑にされたかは定かではない。なお、約一年後の建久6(1195)年9月8日、「宇津宮訴事、貞覚令申、又仰子細畢」(『玉葉』建久六年九月八日条)とあり、その結果、翌9月9日「宇津宮事、召進官下文、仰可給座主之由畢」(『玉葉』建久六年九月九日条)とあるが、これは9月6日の「座主被示天台末寺」に関する蔵人少将「公定申日光事」(『玉葉』建久六年九月六日条)の報告の件で、朝綱入道に関することではないだろう。

 豊後国配流だった孫の「宇都宮弥三郎」は、正治元(1199)年6月30日の頼朝次女「乙姫」の葬送列(最未、不着素服)に加わっており(『吾妻鏡』正治元年六月卅日条)頼綱はこの時点で鎌倉にいたことがわかる。朝綱入道が配流されていたとしても、同様に赦されていた可能性があろう。ただし、鎌倉ではなく宇都宮神領と思われる真壁郡大庭に建立した阿弥陀堂芳賀郡益子町上大羽入の坪)に隠棲し「尾羽入道」と号したという。

 なお、朝綱入道が公田掠取について朝廷に訴えられていた際に造立を開始した東大寺大仏殿の観音菩薩像はその後無事に奉納されており、孫の「宇津宮入道(弥三郎頼綱)」が嘉禄2(1226)年、師の故法然上人の遺骸を比叡山堂衆から守るために「改葬」した際、「祖父金吾朝綱の朝臣は東大寺の脇士観世音菩薩を造立し奉て、かたみを南都にとゞめ」(『法然上人伝記』九上)たと述べている。さらに、建長2(1250)年2月15日にも頼綱入道は「祖父禅門重阿弥陀仏、所奉造立之像」である「南都東大寺大仏脇士観世音菩薩毎夜不退燈明用途料」として「大和国水田壱町」を寄進している(『東大寺文書』)

 元久元(1204)年8月6日卒、享年八十三と伝わる。法名寂心、重阿弥陀仏(『宇都宮系図』『東大寺文書』)

 朝綱入道が有した神領とみられる「下野国真壁庄」は、孫の弥三郎頼綱へ継承され、その「真壁庄」内の地はその娘にも継承された。文永4(1267)年3月2日の院中定での議題として「民部卿入道前妻尼相論下野国真壁庄間事」があり、下野国の真壁庄に関して頼綱女子と前夫為家入道(子の源承法眼に真壁庄由緒の文書を渡しており、源承法眼は領家右府定雅入道の成敗を受けている(『経光卿記』文永三年三月二日条)。結果「此地一向非母財、禅門相逢本主致沙汰歟、然者源承申旨不背理歟」との意見が出ている)との間で相論があった様子がうかがえる。

        北條時政 +―女子
       (遠江守) | ∥
        ∥    | ∥
        ∥――――+ ∥
 藤原某――+―女子   | 平賀朝雅
(大舎人允)|(牧ノ方) |(右衛門佐)
      |      |
      +―大岡時親 +―女子            +―御子左為氏
       (備前守) | ∥―――――――女子    |(大納言)
             | ∥      (前妻尼)  |
             | ∥       ∥―――――+―京極為教
             | 宇都宮頼綱   中院為家  |(左兵衛督)
             |(左衛門尉)  (民部卿入道)|
             |               +―源承法眼
             +―北条政範           (延暦寺僧)
              (左馬権助)

 

八田氏


千葉一族宇都宮・八田氏 > 八田知家

八田知家(1144-1218)

 八田権守宗綱の次男。通称は四郎。母は常陸大掾棟幹女(『宇都宮正統系図』)、または近衞院女房八田局(『宇都宮系図』)。官途は武者所、右衛門尉、筑後守

 兄は宇都宮朝綱、五歳上の姉は頼朝乳母の寒河尼。兄の朝綱は宇都宮検校を継いでおり、知家は父宗綱の八田氏を名乗り、「八田武者所知家」を称した。「知家自本崇敬佛法之士」(『吾妻鏡』文治五年九月十五日条)とあるように、法華経を深く信仰した。知勇故実に長じた人物である。

 小野成任――+―小野成綱――+―小野義成
(野三大夫) |(野三刑部丞)|(野三左衛門尉)
       |       |
       |       +―小野盛綱
       |       |(下総守)
       |       |
       |       +―小野成重
       |       |(兵衛大夫)
       |       |
       |       +―小野成家――――寂忍
       |       |(七郎兵衛尉) (太輔房)
       |       |
       |       +―小野兼綱
       |        (兵衛尉)
       |
       +―法橋成尋――――中条家長
       |(義勝房)   (出羽守)
       |
       +―女子
        (兵衛局)
         ∥―――――――宇都宮朝綱―――宇都宮業綱
         ∥      (左衛門権少尉)(次郎)
         ∥
 宗円――――――八田宗綱          +―八田知重
(大法師)   (下野権守)         |(太郎左衛門尉)
         ∥             |
         ∥―――――――八田知家――+=中条家長
 平致幹―――――女子     (筑後守)   (出羽守)
(多気権守)                        

 保元元(1156)年の保元の乱で義朝陣に加わったとされる下野国の「八田四郎」(『保元物語』)は知家がいまだ十三歳(「茂木系図」『茂木文書』より逆算)で単独での出陣は考えにくいことから、父の宗綱の可能性(ただし宗綱の通称は三郎)もあるが、『保元物語』は軍記物であることから参考程度のものである。

 知家も父や兄と同様に上洛して院武者所に出仕した経歴を持っているが、時期としては後白河院武者所ということになろう。その後、いつごろ官を辞して東帰したかは定かではないが、治承5(1180)年閏2月23日には甥の小山四郎朝政に味方して、下野国野木宮で志太三郎先生義広と合戦している伝があることから(『吾妻鏡』治承五年閏二月廿三日条)、治承4(1180)年中には東国(下野国茂木保か)にいたと思われる。

 『吾妻鏡』によれば、源頼朝は佐竹氏を討つために治承4(1180)年10月27日に相模国片瀬川付近から常陸国へと北上し、六日後の11月4日に常陸国府(石岡市府中)へ到着した(『吾妻鏡』治承四年十一月四日条)。そして翌5日に佐竹氏の籠る要害金砂城を攻め落とし、佐竹冠者秀義を奥州に追っている

 佐竹氏討伐後、頼朝は常陸国府(石岡市府中)に帰還。11月7日に「志太三郎先生義広、十郎蔵人行家等、参国府、謁申」(『吾妻鏡』治承四年十一月七日条)という。義広は頼朝の叔父で八条院御領の常陸国信太庄に拠っており最勝親王宣(以仁王の令旨)」を諸国の源氏に伝えた八条院蔵人行家が同道していることから、義広も以仁王令旨を受けた一人であろう。義広、行家が頼朝に面会した理由は示されていないが、頼朝と同時期の8月中に信濃国で挙兵した木曾次郎義仲との連携を提案(義仲は9月7日以前に北信濃へ侵攻し「平家方人有笠原平五頼直」との市川合戦(長野市)を勝利しており(『吾妻鏡』治承四年九月七日条)、義仲はこれ以前に近隣諸豪や北信寺社と連携していたことがわかる)したのではなかろうか。木曽義仲はすでに北信、東信、南信一帯を勢力下に置き、甲斐源氏このうち、とくに安田義定は伊豆北條氏と関係を有した可能性が考えられ、江間義時の「義」字は義定から受けた可能性もとの連携も果たしていたとみられ、『吾妻鏡』によれば10月13日には「尋亡父義賢主之芳躅、出信濃国、入上野国」しており(『吾妻鏡』治承四年十月十三日条)「仍住人等漸和順之間、為俊綱足利太郎也雖煩民間、不可成恐怖思之由、加下知」(『吾妻鏡』治承四年十月十三日条)という。

建久5(1194)年8月19日、安田義定は「去年被誅子息義資、収公所領之後頻歌五噫、又相談于日来有好之輩類欲企反逆、縡已発覚」(『吾妻鏡』建久五年八月十九日条)という罪で捕らえ、即日処刑された。
 義定の屋敷地は閏8月7日に「江間殿」が拝領(『吾妻鏡』建久五年閏八月七日条)、美濃国にあった義定地頭地は「相模守惟義、賜美濃国中没収地等」(『吾妻鏡』建久五年閏八月十日条)と決定された。ただ、「自故将軍御時、一族領所収公之時、未被仰他人」(『吾妻鏡』建暦三年三月廿五日条)とあるように、罪科等で収公された領所が一族ではない者に与えられた例はないとの訴えがみられるように、義定の闕所地のうち屋敷地を義時が拝領したのは、北条氏と義定の間に血縁関係があったためではなかろうか。頼朝が石橋山合戦に大敗した直後、北条時政が甲斐源氏に「為達事由於源氏等、被向甲斐国」(『吾妻鏡』治承四年八月廿五日条)を計画したとされるのも、甲斐源氏との関わりがあったためではなかろうか。

 甲斐源氏武田党(すでに木曾義仲と連携していた)の活動により、10月18日、駿河国浮嶋原で「東国追討使」の「右少将維盛朝臣、薩摩守忠度朝臣、武蔵守知度等」が大敗して西へ「引退」(『山槐記』治承四年九月九日条)するなど、東国での諸源氏の活動は活発化していた。こうした中で、為義流河内源氏の長老である三郎先生義広が主導して実甥の木曾義仲と連携し、伸張著しい源頼朝をも含めた河内源氏諸流の連携統合を模索し、常陸国府の頼朝に持ち掛けた可能性があろう。北信を抑えるべき義仲がわざわざ上野国に降りてきたのは、上野国児玉党の統制とともに義広の連携要請の一端があったのではなかろうか。しかし、頼朝はこの提案を拒否したのだろう。結果としてこれ以降、義広、行家は頼朝と袂を分かつこととなる。

 藤原忠清―――女子
(出雲守)   ∥―――――――源義朝―――源頼朝
        ∥      (下野守) (右兵衛権佐)
        ∥ 某氏
        ∥ ∥―――――源行家
        ∥ ∥    (十郎蔵人)
        ∥ ∥
 源義家――――源為義   +―源義賢―――源義仲
(陸奥守)  (左衛門大尉)|(帯刀先生)(次郎)
        ∥     |
        ∥―――――+―源義広
 中原重俊カ――女子     (帯刀先生)
(六條大夫)

 義広らとの会談の翌日11月8日、頼朝は常陸国府を出立した。ただし、鎌倉に直接帰らずに北上(おそらく恋瀬川沿いを北上)して真壁郡岩瀬(桜川市岩瀬)のあたりに出たとみられる。その案内は出立前に国府庭上で尋問を受けた「所逃亡之佐竹家人十許輩出来」の一人で、頼朝に「閣平家追討之計、被亡御一族之條太不可也、於国敵者天下勇士可奉合一揆之力、而被誅無誤一門者、御身之上仇敵仰誰人可被対治哉、将又御子孫守護、可為何人哉、此事能可被廻御案、如当時者諸人只成怖畏、不可有真実帰往之志、定亦可被貽誹於後代者歟」(『吾妻鏡』治承四年十一月八日条)と抗弁した岩瀬与一太郎か。

 岩瀬から小貝川方面へ台地を下ると広大な小栗御厨(筑西市小栗)が広がっている。頼朝はこの小栗御厨の荘官である小栗十郎重成の「八田舘」(筑西市八田)に寄宿した。この小栗庄内八田が八田氏の本貫地ともされるが、八田館は小栗氏が小栗庄を治めるうえで重要な拠点であり、頼朝を迎えるに躊躇しない規模の屋形であったと考えられる(この「八田」は八田氏とは無関係の可能性が高い)。頼朝が常陸国府から北上して小栗御厨へ立ち寄った理由は、ひとえに下野小山氏、宇都宮氏らをはじめとする下野国の武家の去就の確認が目的であったのかもしれない。八田知家は、頼朝が常陸国から鎌倉に帰還した直後の11月27日に「下野国本木郡(芳賀郡茂木保)」の地頭職の御下文(おそらく本木郡住人宛の地頭職補任伝達様式の御下文で、頼朝の袖判が書き込まれたであろう)を与えられているが(建久三年八月廿二日「将軍家政所下文」『茂木文書』)、これは従来からの私領を頼朝が正式な地頭職として認可したことを証明するものであろう(ただし当時の頼朝は流人であり、当時においてはまったくの私的な保証となる)。知家がこの御下文を給わっていることから、知家が頼朝に従って鎌倉に来たことがわかる。また、下野小山氏の小山五郎宗政も同族の関次郎政平もこのとき知家とともに鎌倉にきているとみられる。

●建久三年八月廿二日「将軍家政所下文」(『茂木文書』)

将軍家政所下 下野国本木郡住人
 補任 地頭職事
  前右衛門尉藤原友家

右 治承四年十一月廿七日御下文
以件人、補任彼職者、今依仰成賜政所下文之状如件以下

 建久三年八月廿二日 案主藤井
令民部少丞藤原    知家事中原
別当前因幡守中原朝臣
  前下総守源朝臣

 一方で10月13日に「彼国多胡庄者、為亡父遺跡之間、雖令入部」(『吾妻鑑』治承四年十二月廿四日条)して父由緒の人々を集めた木曾義仲は、12月24日「避上野国赴信濃国」という(『吾妻鏡』治承四年十二月廿四日条)。頼朝は連携に応じないという意思表示を受け、早々に信濃国へ帰還したのかもしれない。義広、行家は頼朝を除いた義仲や甲斐源氏との連携は成立させており、それぞれが行動を取り始める。

 まず行動に出たのは十郎蔵人行家であった。行家は11月7日に常陸国府での頼朝との会談が不調に終わったことを伝えたのではなかろうか。そして12月24日、義仲が信濃国へ戻る際に同道し、途中で分かれて美濃国へ向かったのかもしれない。木曾義仲は9月7日にはすでに兵を挙げて千曲川沿いに侵出し、「平家方人有笠原平五頼直」と「同国市原」で合戦(合戦したのは、木曾方人「村山七郎義直」や「栗田寺別当大法師範覚等」である)して頼直を越後国の「城四郎長茂」のもとへ放逐している(『吾妻鏡』治承四年九月七日条)挙兵して数か月を経過する中で、周辺の源氏と連携していたのだろう(のち義仲が京都を制圧した際、尾張源氏、美濃源氏、甲斐源氏らが幕営に加わっている)。とくに「信濃源氏等、分三手キソ党一手、サコ党一手、甲斐国武田之党一手、俄作時攻襲之」(『玉葉』治承五年七月一日、二日条)と見えるように、甲斐源氏武田党は木曾義仲との連携が確実である。行家は義仲と連携して、美濃源氏、尾張源氏と共闘すべく木曾川沿いに美濃国を経て尾張国へ下ったのだろう。

 すでに治承4(1180)年12月2日、「左兵衛督、左少将清経朝臣、右少将資盛朝臣、越前守通盛朝臣、皇太后宮亮経正朝臣、薩摩守忠度朝臣、参河守朝臣、淡路守朝臣等」が東国の追討使として京都を発して近江国へ向かい(『明月記』治承四年十二月二日条)、明けて治承5(1181)年正月中旬には追討使と美濃源氏が交戦しており、「官兵等入美乃国、攻光長城、相互死者多」(『玉葉』治承五年正月十八日条)とあるように、源光長が城に籠って応戦していた。結果として「遂梟光長首云々、彼国源氏等、光長之外、党類不幾、而已誅伐為宗者了、於今者、美乃尾張両国、共以非可敵対」(『玉葉』治承五年正月十八日条)とあるように、美濃国と尾張国の反乱は鎮定され、「官軍被疵之者、及数十人」(『玉葉』治承五年正月廿五日条)という知らせが京都に風聞として届いている(ただし、源光長は生存しており、その後木曾義仲と合流する)。

●美濃合戦で討たれた源氏の人々(『吾妻鏡』治承五年二月十二日条)

氏名 出自
小河兵衛尉重清  
蓑浦冠者義明
※兵衛尉義経男
近江源氏
上田太郎重康  
冷泉冠者頼典  
葦敷三郎重義  
伊庭冠者家忠  
伊庭彦三郎重親  
越後次郎重家 越後平氏
越後五郎重信 越後平氏
神地六郎康信 上田太郎家子

 この美濃源氏との合戦の直後、「謀叛賊源義俊為義子、号十郎蔵人云々、率数万之軍兵、超尾張国」(『玉葉』治承五年二月一日条)とあるように、「義俊(行家)」が尾張国から美濃国に来襲した。正月下旬とみられる。その兵力もまた強大で、木曾義仲からの援兵や美濃源氏との共闘もあるとみられるが、前年十月の佐竹攻めからわずか数か月にしてこれだけの軍勢を集め得た行家の才略は評価されるべきか。行家の軍勢は連戦で疲労困憊の官兵に襲いかかり、「官兵疲両度合戦、暫休息近江美濃之辺、忽不可寄戦」(『玉葉』治承五年二月一日条)と、官兵は潰走することとなる。2月9日には「関東反賊等及半、越来尾張国、以十郎蔵人義俊為大将軍云々、其勢不知幾千万」という風聞(『玉葉』治承五年二月九日条)が流れるほど勢力は大きく、官軍は「官軍疲度々之合戦、頗有弱気」で、さらに追討使の大将軍の一人「左兵衛督知盛卿」「依所悩、俄企帰洛、来十二日可入洛」という事もあって、京都では「為不吉之徴之由、天下謳歌」という(『玉葉』治承五年二月九日条)。なお、「十郎蔵人義俊」は頼朝が派遣した大将軍ではなかったが、京都では頼朝の代将という認識があったことがわかる。帰洛の左兵衛督知盛に替わり「其替、頭重衡朝臣可行向」(『玉葉』治承五年二月九日条)が決定され、当時奈良衆徒の上洛を防禦すべく宇治に駐屯していた重衡が閏2月15日、「自宇治道発向、赴関東」した(『明月記』治承五年閏二月十五日条)

 そしてこの頃、義広も動きを見せている。頼朝との会談後、義広は信太庄に戻って軍勢催促を行ったのだろう。「三郎先生謀叛之時、当国住人、除小栗十郎重成之外、併被勧誘彼反逆、奉射御方、或迯入奥州」(『吾妻鏡』元暦元年四月廿三日条)という。この軍勢催促に伴うものか、2月初旬から下旬にかけてと思われるが、義広は「濫悪掠領常陸国鹿嶋社領」をしたという(『吾妻鏡』治承五年二月二十八日条)。このときの狼藉の報告を受けた頼朝は、2月28日、「散位久経(中原久経)をして鹿嶋社に対し「志太三郎先生義広、濫悪掠領常陸国鹿嶋社領之由、依聞食之、一向可為御物忌沙汰之由」を指示したという(『吾妻鏡』治承五年二月廿八日条)。義広はこの頃までは常陸国志太庄にあり、そののち下野国から上野国を経て東山道を経由し、信濃国の甥・義仲との合流を図ったと思われる。

 なお、これとまさに同じ時期、治承5(1181)年正月半ば頃と推測されるが、「常陸国勇士等、乖頼朝了、仍欲伐之處、還散々被射散了、此由飛脚到来、今明被遣官兵者、自彼可攻之由申上」(『玉葉』治承五年二月二日条)というように、常陸国内で頼朝に背く人々が兵を挙げ、常陸国の頼朝方人と戦闘になっている。しかし、逆に返り討ちに遭ったという。彼らはこの顛末を飛脚に乗せて京都に遣わし、官兵の派遣要請をしている。この情報は「飛脚到来」で2月2日に右大臣兼実の耳に入るが、兼実は「但実否難知歟」と記す。翌2月3日には「一昨日自彼国上洛之者説」として「頼朝寄攻常陸国之間、始一両度雖被追帰、遂伐平了」(『玉葉』治承五年二月三日条)という新たな情報が入る。兼実は「是又実否難知」としながらも、「縦横之説、随聞及注之、但於事外之存説者、不能注、遂可見虚実歟」と記している。この常陸国の兵乱については、この二件のほかにも諸説が注進されていたが、その内容は一定していなかった様子がうかがえる。その後、とくに常陸国に関する情報は記録されていないが、常陸国において何らかの戦闘が行われていたことは確かだろう。この叛乱主体は官兵の派遣を要請している以上、平家方人であることは間違いなく、佐竹氏に属した人々であろう。このような中で義広がどのような立ち位置にいたかは定かではないが、義広は義仲に与し平家と戦っていることから、挙兵した「常陸国勇士等、乖頼朝了」の中に義広はいない

 なお、「常陸国務之間事、三郎先生謀叛之時、当国住人、除小栗十郎重成之外、併被勧誘彼反逆、奉射御方、或逃入奥州」(『吾妻鏡』元暦元年四月廿三日条)とあるように、義広に呼応した「当国住人」の挙兵とも考えらるが、彼らは義広に組したとあることから、「常陸国勇士等、乖頼朝了(『玉葉』治承五年二月二日条)と同一視は難しいか。

 義広は治承5(1181)年閏2月初旬には常陸国志太庄を発って下野国へ向かったと思われる。義広は源三位入道及び以仁王の挙兵よりもかなり以前から下野国の秀郷流藤原氏とは交流を持っていたのではなかろうか。義広は帯刀先生の経歴を有するが、これが保延6(1140)年に滝口の源備殺害に関与した罪で罷免された実兄・帯刀先生義賢の後任であったとすれば、義広は春宮躰仁親王の帯刀先生であったことになる。躰仁親王は美福門院得子所生の皇子だが、その姉が暲子内親王(のち八條院)である。義広が住居とした志太庄は八條院御領であり、荘園に関する何らかの所役を以って志太庄にいた可能性もあろう。そして、義広の実甥に当たる源仲家(帯刀先生義賢の長男)は、八條院出仕の源頼政猶子となり八條院蔵人となるなど、義広は八條院と深い繋がりを持つ人物で、志太庄西隣の下総国下河辺庄(八條院御領)の庄司・下河辺氏(源頼政郎従)や、常陸国関郡の関氏とも関係を持った可能性があろう。とくに関次郎政平は日光山別当の光智房聖宣に弟の隆宣、弁覚が入門しているように、下野国日光山との関わりを持つ人物であった。義広は異母弟の八條院蔵人行家から最勝親王宣(以仁王の令旨)を受けた直後から実甥義仲や頼朝との連携を模索していたのではなかろうか。義広の「小山与足利」への軍勢催促はこの結果かもしれない。ところが、頼朝はこの合従策に乗らず、義広の計画には狂いが生じるが、信濃国の実甥義仲と連携して事に当たるべく、志太庄を発したのではなかろうか。

 以下は『吾妻鏡』に見える義広と朝政の顛末であるが、この野木宮合戦譚は小山朝政の武功を顕彰する軍記物に近い著作物から採用されたとみられ、その作成者は小山朝政子孫であると考えられることから「野木宮合戦について」参照)、事を大げさに記載している部分があることを割り引いてみるべきである。

 『吾妻鏡』治承五年閏二月廿三日条によれば、この頃「朝政父政光者、為 皇居警衛未在京、郎従悉以相従之、仍雖為無勢」(『吾妻鏡』治承五年閏二月廿三日条)とあるように、小山氏の主だった郎従は、父政光に伴われて上洛しており、在地の郎従は寡勢であったという。こうした中で朝政は群議を開き、老臣らに義広への対応を諮ったという。そして「老軍等云、早可令与同之趣、偽而先令領状之後可度之也」との答えに従い、朝政は「則示遣其旨」を義広へ伝えた。この時期については不明だが、義広の軍勢催促とその返答、情報が鎌倉へ伝わり、援軍を発するまでのタイムラグを考えると、軍勢催促は治承5(1181)年2月初旬頃、返答が閏2月中旬、義広が志太庄を発ったのが閏2月初旬というものであろうか。頼朝は義広挙兵(義広が鎌倉を攻める実力も必要性もなく、義広の進出先が鎌倉へ下る「便路」からかなり西へ逸れていることからも、義広が頼朝に対して兵を挙げた可能性は低い。ただし、頼朝は義広の提案を拒絶した経緯があり、これを挙兵と見た可能性はあろう)の報告を受け、閏2月20日に「朝政之弟五郎宗政并同従父兄弟関次郎政平等、為成合力、各今日発向下野国」させている(『吾妻鏡』治承五年閏二月廿日条)。このとき、関次郎政平が御前に暇乞いのため参じたが、去り際を見た頼朝は「政平者有弐心之由」を語ったという。後世挿話の可能性もあるが、果たして関次郎政平は「自道不相伴于宗政、経閑路馳加義広之陣」(『吾妻鏡』治承五年閏二月廿日条)と、義広の陣中に参じたという。

 そして、閏2月23日、義広は「来臨于朝政舘之辺」(『吾妻鏡』治承五年閏二月廿三日条)したが、朝政はひそかに「出本宅、令引篭于野木宮」という。のちの朝政の屋敷はこの野木宮脇を流れる思川のさらに上流、下野国府と隣接する「日向野郷(栃木市総社町)」であるが、ここでは野木宮とかなり離れているため、当時の小山氏屋敷は本来の本貫地である武蔵国大田庄に隣接する寒河郡野木郷と小山庄の境界付近で野木宮とほぼ隣接する地で、朝政舘へ至る途中に野木宮があったのだろう。義広がそこを通過したとき、野木宮に隠れていた朝政は「廻計議、而令人昇于登々呂木澤、地獄谷等林之梢、令造時之声、其音響谷、為多勢之粧」(『吾妻鏡』治承五年閏二月廿三日条)という。この突然の鬨の声に義広は「周章迷惑」したが、ここに攻め寄せる小山勢中で、緋縅鎧を着て鹿毛馬で駆け回る朝政(時年廿五)を見つけ、矢を放った。この矢は朝政に命中し、朝政は落馬して鹿毛馬は奔走して「嘶于登々呂木澤」という。朝政が負った傷(矢傷か落馬によるものかは不明)は重かったものの「不及死悶」という。ここに、五郎宗政(年廿)が駆けつけたところ、主なき兄の鹿毛馬が奔走する姿をとらえた。宗政は「合戦已敗北、存令朝政夭亡歟」と思い、義広陣中へ駆け入り、義広の姿を求めるが、ここに「義広乳母子、多和利山七太揚鞭、隔于其中」したという。宗政はただちにこれを射殺し「宗政小舎人童」が七太の首級を挙げた。この宗政の突撃に「義広聊引退、張陣於野木宮之坤方」った。これに「朝政、宗政、自東方襲攻」たが、「于時暴風起於巽、揚焼野之塵、人馬共失眼路、横行分散、多曝骸於地獄谷登々呂木澤」という。

 そのほか、頼朝勢は「下河辺庄司行平、同弟四郎政義」「固古我、高野等渡」に展開しており、「討止余兵之遁走」という。また、「足利七郎有綱、同嫡男佐野太郎基綱、四男阿曾沼四郎広綱、五男木村五郎信綱及大田小権守行朝等」「小手差原、小堤等之處々」に布陣して合戦し、このほか「八田武者所知家、下妻四郎清氏、小野寺太郎道綱、小栗十郎重成、宇都宮所信房、鎌田七郎為成、湊河庄司太郎景澄等加朝政、蒲冠者範頼同所被馳来也」(『吾妻鏡』治承五年閏二月廿三日条)と、朝綱の弟・八田武者所知家や従兄弟の宇都宮所信房らが親類の小山朝政方として参戦している。そのほか下妻清氏は真壁郡下妻庄の住人(出自不詳)、小野寺太郎道綱は下野国都賀郡小野寺保の「小野寺守藤禅師法師義寛」(応永廿七年十一月廿日「小野寺通業譲状」『小野寺文書』室:1911)の子、小栗十郎重成は常陸国小栗御厨荘官の常陸平氏である。「鎌田七郎為成、湊河庄司太郎景澄等」は出自不詳。八田知家含め彼らは「加朝政」とあるのみで、具体的な戦場は記されていない。ただしこれに続いて「蒲冠者範頼同所被馳来」と見えることから、八田知家らは各所から小山朝政勢の宮木野陣に加わり、範頼も何処からか「同所」つまり小山朝政の宮木野の陣に馳せ参じたものであろう。

 そして、閏2月28日、小山五郎宗政が、義広の矢を受けて負傷した兄・朝政の名代として「相率一族及今度合力之輩、山上于鎌倉」(『吾妻鏡』治承五年閏二月廿八日条)した。彼らは頼朝居館の侍所に参じたと思われるが、「宗政、行平以下一族列居西方、知家、重成以下亦列東方」し「所生虜之義広従軍廿九人、或梟首、或被召預行平有綱等」を披露する。頼朝は「常陸、下野、上野之間、同意三郎先生之輩所領等悉以被収公之、朝政、朝光等預恩賞」という。戦いに敗れた義広がその後どこに雌伏していたのかは定かではないが、その後、義仲と合流してその一方の大将軍となり、寿永3(1184)年正月20日には上洛を目指す源義経率いる軍勢を宇治に迎え撃っている(『吾妻鏡』寿永三年正月廿日条)

 八田知家は、剛毅と知略を兼ねた性格は頼朝から強い信頼を得、御所南門前に屋敷地が与えられており、その亡きあとも関東の宿老としての地位を保っている。ただ、頼朝や実朝といった人々が恐れ憚る人物に対してすらおのれの信条を曲げず、憚ることなく立ち振る舞う頑固さを持っていた。知家は母で頼朝乳母の兵衛局のもと、頼朝誕生時より姉の寒河尼とともに侍っていた可能性があり、こうした乳母子関係が頼朝の強い信頼と知家の自信となっていたのかもしれない。

 建久元(1190)年10月3日、上洛のために供奉の人々が御所に集まり、主だった者は御所南庭に居並ぶ中、「前右衛門尉知家、自常陸国遅参、令待給之間已移時剋、御気色太不快」(『吾妻鏡』建久元年十月三日条)というように、常陸国から召集を受けていた知家は盛大に遅参する。頼朝の機嫌は最悪で「御気色太不快」とまで記される。進発予定時刻は記されていないが、「令待給之間已移時剋」というほど待ったのだろう。ようやく午の刻になって知家は御所に参上した。知家は悪びれることなく、行縢をつけたまま人々が居並ぶ南庭から直に御所に入っている。ここで沓と行縢を脱ぎ、頼朝の座の傍らに座った。頼朝は怒りを含んで「依有可被仰合事等、被抑御進発之處遅参、懈緩之所致也」と咎めたが、知家は「称所労之由」のみで謝罪した記録はない

 知家は遅参のことなどどうでもいいとばかりに、続けて「先後陣誰人奉之哉、御乗馬被用何哉者」と頼朝に問う。おそらく頼朝の「依有可被仰合事等」は事前に知家には伝えられていたのだろう。頼朝もとくに責めることもなく、気持ちを切り替えて「先陣事、重忠申領状訖、後陣所思食煩也、御馬被召景時黒駮者」と答えている。これに対して知家は「先陣事尤可然、後陣者常胤為宿老可奉之仁也、更不可及御案事歟」と、先陣は重忠で然るべし。後陣は千葉介常胤が宿老として務める仁であって、このような事はまったく思案する必要もないとまで述べる。

 知家はさらに踏み込んで、「御乗馬、彼駮雖為逸物、不可叶御鎧之馬也、知家用意一疋細馬、可被召歟」と述べて、南庭に四尺八寸余りのすらりとした黒馬を曳き出した。頼朝は一目で気に入るが、知家は「但御入洛日可被召之、路次先試可被用件駮」と述べて、道中は景時提供の黒駮馬を乗馬とし、入洛時には鎧と合った知家提供の細馬を用いるのがよいとしている。頼朝は結局この知家の言葉をすべて採用しており、後陣と定めた千葉介常胤を召すと「相具六郎大夫胤頼、平次常秀等、可供奉最末之旨」を指示している。また、馬も『吾妻鏡』の同年11月7日の入洛勢(『吾妻鏡』建久元年十一月七日条)で頼朝の乗馬「黒馬」がこれに相当しよう。

八田知家と常陸国

 下野国に由緒を持つ八田氏が常陸国の御家人となったのはどういったいきさつがあったのだろうか。もとより常陸国には八田氏の根本私領は存在せず、頼朝挙兵時の治承四年当時には下野国茂木保をその本拠としていたと思われる。ここはおそらく宇都宮神領であり、領有の根拠は「宇都宮」にあったのである。ところが、八田知家はその後、常陸国に強い影響力を有するようになり、頼朝挙兵からわずか五年余りで、常陸国に盤踞していた常陸平氏を凌ぐ勢力を有するようになる。これは、常陸平氏が治承5(1181)年閏2月の三郎先生義広の兵乱に加担した事もあろうが、常陸平氏は所領をすべて抑えられたわけではなく、その勢力は依然として強大なまま残されている。知家が常陸国に影響力を有するには、何らかの正当な権利が絡んでいたからこそ成し得たと考えられよう

 八田知家の嫡子・太郎知重の末裔は筑波郡三村郷小田を領して小田名字を称するが、その小田のすぐ東隣にあるのが、多気氏菩提寺で「平朝臣致幹」が経筒を収めた東城寺である。おそらく八田知家の小田入部の背景は、三村郷が外祖父致幹(平棟幹)からその女子(知家母)を通じて知家に継承されたことに起因するもので、のちに排斥する致幹の男系嫡孫たる多気太郎義幹や下妻悪権守弘幹らとは、もともとその点での対立があった可能性が高いだろう。

 宗円――――――八田宗綱          +―八田知重
(大法師)   (下野権守)         |(太郎左衛門尉)
         ∥             |
         ∥―――――――八田知家――+=中条家長
 平致幹―――+―女子     (筑後守)   (出羽守)
(多気権守) |
       |
       +―多気直幹――+―多気義幹
        (太郎)   |(多気権守)
               |
               +―下妻弘幹
                (悪権守)

 八田知家はこの常陸平氏惣領に纏わる常陸国の由緒と頼朝からの信任をもとに、文治5(1189)年7月までに常陸国守護となり、奥州藤原氏との戦いにおいては常陸国の人々を率いて海道筋を北上するよう命じられている(『吾妻鏡』文治五年七月十七日条)

 八田氏が「小田」を称した初見は、『吾妻鏡』正治元(1199)年10月28日の「小田左衛門尉知重」(『吾妻鏡』正治元年十月廿八日条)であるが、『吾妻鏡』における同時代の「小田」氏記述はこの一例のみで、この後の記述では知重も八田知重となっている。ただし、八田知家は建久4(1193)年時点では、「八田左衛門尉知家多気太郎義幹者、常陸国大名也」(『吾妻鏡』建久四年六月五日条)とあるように、多気太郎義幹とともに「常陸国大名」と称される常陸国を代表する御家人と認識されていて、さらに文治5(1189)年7月には常陸国守護として奥州合戦に常陸国御家人を率いて海道大将軍として参戦していることから、すでに常陸国に多くの地頭職を有していたと推測される。そして、建永年中(1206.4.27~1207.10.25)には筑波郡三村郷内に所領を有しており、知家嫡子知重の子孫が「小田」を称することから、本拠として三村郷小田に入部していた蓋然性は高いだろう。

 「筑後入道尊念(知家)」は三村郷内に極楽寺を建立(または在地にすでにあった多気氏所縁の寺院かも知れない)し、建永年中(1206.4.27~1207.10.25)に「為 大将軍」に「鋳顕極楽寺鐘」した(『等覚寺梵鐘銘』)。「大将軍」については、当時の征夷大将軍は源実朝であるが、「極楽寺」の梵鐘であることを鑑みると、知家が差す「大将軍」は七回忌を前年に迎えた源頼朝であり、「極楽寺」(本尊は阿弥陀如来と推測)に、頼朝冥福のために梵鐘を鋳造し奉納したのであろう。

鋳顕極楽寺鐘
奉為
大将軍

建永
筑後入道尊念

八田知家の死

 建保元(1213)年12月1日、「戌刻、御所近辺焼亡、武州、前大膳大夫、筑後守知家入道等宿盧災」(『吾妻鏡』建保元年十二月一日条)とあるように、御所南門の邸宅が御所近辺で発生した火災で焼失している。

 知家の「遅参癖」はその後も健在であったようだが、知家の言葉は頼朝も信頼した如く的確にして重く、忠言として容れられたのだろう。時代は下って将軍実朝の代にも、知家入道は献言を求められている。

「故鎌倉大臣殿、御上洛アルヘキ定マリナカラ、世間ノ人々、内々ナケキ申ス子細被聞食歟ニテ、京上アルヘシヤイナヤノ評定有ケルニ、上ノ御気色ヲ恐レテコトニアラハレテ、子細申人ナカリケルニ、故筑後ノ入道知家遅参ス、古キ人ナリ、異見申ヘキ由、御気色有ケレハ、天竺ニ師子ト申候ナルハ、ケタ物ノ王ニテ候ナル故ニ、獣ヲナヤマサムト思心ナシトイヘトモ、カノホユル音ヲキク獣、コト々々ク肝心ヲウシナヒ、或ハ命モタエ候ト申候ヘハ、君ハ人ヲ悩サント思食ス御心ナシト云ヘ共、民ノナケキイカテカ候ハサラン」(『沙石集』三・上 忠言有感事)

と述べて、実朝に上洛中止を諫言した。実朝も長老の言葉を聞いて上洛の中止を決定し、人々は「万人掌ヲ合テ悦ケリ」と伝える。

 建保6(1218)年3月3日卒、行年七十五(「茂木系図」『茂木文書』)。法名は観国院殿定山尊念大居士

知家母の父「常陸大掾棟幹」について

 宇都宮朝綱、八田知家の母については『宇都宮正統系図』には「常陸大掾棟幹女」とある。ところが「棟幹」なる人物は大掾氏の系譜には見えず、常陸大掾に任じた人物の中にも相当する人物はない。ただし「ムネモト」という常陸平氏の人物については「多気権守致幹」があり、宇都宮朝綱・八田知家母の父はこの人物に比定されている。

 ところが、この比定される「多気権守致幹」は常陸大掾に就いたことはない。さらに「通説」に従えば、彼は頼義が奥州下向に際して常陸国に立ち寄った際に宿所とした「多気権守宗基」と同一人物とされ、彼の女子が頼義の女子を生んだという。

■『奥州後三年記』

常陸国に多気権守宗基といふ猛者あり、そのむすめをのづから頼義朝臣の子をうめることあり、頼義むかし貞任をうたんとて、みちの国へくだりし時、旅のかり屋のうちにて彼女にあひてけり、すなはちはじめて女子一人をうめり、父祖宗基これをかしづきやしなふ事かぎりなし、真衡この女をむかへて成衡が妻とす

 実際は、頼義は安倍貞任追討のために陸奥守として陸奥国へ下向したのではなく、その父安倍頼良の叛乱鎮定が目的であった。しかし頼良は戦うことなく頼義に帰服し、頼義の陸奥守任期中の最末期まで戦闘は行われていない(『奥州後三年記』の記述は、頼義が最終的には貞任と合戦したことを取り上げて記述したのだろう)

 頼義が「多気権守宗基」の屋敷に宿した時期としては、頼義の奥州赴任時と考えられるので、永承6(1051)年であろう。翌永承7(1052)年に生まれたであろう頼義女子は、長暦3(1039)年生まれとされる八幡太郎義家の異母妹ということになる。

 成長後の頼義女子は海道成衡の妻となったが、その時期は『奥州後三年記』の時系列では「永保三年の秋、源義家朝臣陸奥守になりてにはかにくだれり」という義家の陸奥国下向が行われた永保3(1083)年よりも前となる。

       清原真衡===海道成衡
       (清大夫)  (小太郎)
               ∥
 平宗幹――+―女子     ∥
(多気権守)| ∥――――――女子【1052生】
      | ∥
      | 源頼義――――源義家【1039生】
      |(伊予守)  (陸奥守)
      |
      +―平直幹――+―多気義幹【1193追放】
       (太郎)  |(多気権守)
             |
             +―下妻弘幹【????-1194】
              (四郎)

 ところが、これらを系譜に表してみると、多気権守致幹の孫の多気権守義幹、下妻四郎弘幹の活動時期を考えると、『奥州後三年記』に見える「多気権守宗基」の孫娘(源頼義娘)とは百年余り(凡そ三代)の世代的乖離が生じており、両者が「イトコ」という関係はまず成り立たない。さらに、ここに『宇都宮正統系図』にある「常陸大掾棟幹」を「多気権守致幹」と同一人物として系譜に加えると、

        清原真衡===海道成衡
       (清大夫)  (小太郎)
               ∥
 平致幹――+―女子     ∥
(多気権守)| ∥――――――女子【1052生】
 平棟幹  | ∥
(常陸大掾)| 源頼義――――源義家【1039生
      |(伊予守)  (陸奥守)
      |
      +―平直幹――+―多気義幹【????-1193追放】
      |(太郎)  |(多気権守)
      |      |
      +―女子   +―下妻弘幹【????-1194】
        ∥     (四郎)
        ∥
        ∥――――+―宇都宮朝綱【1122-1204】
        八田宗綱 |(左衛門権少尉)
       (八田権守)|
             +―八田知家【1144-1218】
              (武者所)

という、同世代で百年近い年齢差が発生し、まったく成立し得ない系譜となってしまう。

 ここで、『桓武平氏諸流系図』(『中条家文書』)の常陸平氏の系譜を見てみると、

 平維幹――+―平為幹――+―貞幹   +―多気致幹―――多気貞幹
(水漏大夫)|(多気大夫)|      |(多気権守) (六郎)
      |      |      |
      |      +―盛幹―――+―吉田清幹―+―吉田盛幹――吉田良幹――馬場助幹―+―馬場朝幹
      |       (上総介) |(吉田次郎)|(太郎)  (常陸大掾)(次郎)  |(小次郎)
      |             |      |                  |
      +―平為賢         |      +―吉田忠幹――行方景幹――行方為幹 +―馬場直幹
       (行尾大夫)       |      |(四郎)  (七郎)  (六郎)   (四郎)
                    |      |
                    |      +―鹿嶋成幹――鹿嶋保幹
                    |       (五郎)  (二郎)
                    |
                    +―石毛正幹―――豊田幹重――豊田頼幹
                     (四郎)   (太郎)  (四郎)

という系が示されているが、ここに見える「平為幹(多気大夫)」は、寛仁4(1020)年閏12月26日に「故常陸守惟通朝臣妻、強姦彼国住人散位従五位下平朝臣為幹、縁惟通母愁被召、日来侯弓場、而今日於検非違使庁、為問之令召、称病由不出向」(『左経記』寛仁四年閏十二月廿六日条)という、この直前に「於任国卒去」(『小記目録』)と常陸国で亡くなった常陸介惟通の妻(太皇太后女官の命婦:『小右記』寛仁四年閏十二月十三日条)を奪い、検非違使庁(検非違使の左衛門案主紀貞光が使者。「案主」は実資家司か:『小右記』寛仁四年閏十二月八日条)に召喚されても応じなかった平為幹のこととなる(命婦を伊豆と駿河境の関所まで自身で送り届けに来たところを紀貞光に捕縛され、京都へ連行された)

 彼は寛仁4(1020)年時点で叙爵していることを考えると、世代的には永承7(1052)年生まれの頼義女子の祖父代に相当する。つまり、頼義と同世代の「多気大夫為幹」の孫「多気権守致幹」と、『奥州後三年記』で頼義に娘を娶せたという「多気権守宗基」を同一人物とすることは不可能となる。

 常陸平氏の系譜自体に世代的錯誤がある可能性については、為幹末裔で源頼朝と同世代の人々を見ると、治承5(1181)年3月12日に鹿嶋社「惣追捕使」に補された「鹿嶋三郎政幹」(『吾妻鏡』治承五年三月十二日条)、文治5(1189)年8月12日に奥州藤原氏との戦いのため海道大将軍八田知家に率いられて多賀国府に参着した「多気太郎、鹿嶋六郎、真壁六郎」(『吾妻鏡』文治五年八月十二日条)、建久4(1193)年6月22日に「常陸国筑波郡南郡北郡等領所」を賜った「馬場小次郎資幹」(『吾妻鏡』元暦元年四月廿二日条)らを見ると、彼らはいずれも「多気大夫為幹」の四世(馬場資幹は五世)で、世代的な問題は生じていない。つまり、常陸平氏の系譜は概ね誤謬はないと判断でき、誤っている可能性が高いのは軍記物『奥州後三年記』の「多気権守宗基」であると考えられる。

 また、「多気大夫為幹」の孫「多気権守致幹」は、菩提寺の筑波郡三村郷の東城寺(土浦市東城寺)に何度かに分けて経筒を埋納しているが、そのうちの二点の経筒に「大檀越」として「平朝臣致幹」「平致幹」が刻まれる。年季は保安3(1122)年8月18日、天治元(1124)年11月12日で、致幹はこの頃に活動していたと考えられる。これは、孫の多気太郎義幹、下妻四郎弘幹の活動時期を考えると妥当である。

 多気致幹―+―多気直幹―+―多気義幹
(多気権守)|(太郎)  |(太郎)
      |      |
      +―女子   +―下妻弘幹
        ∥     (四郎)
        ∥      
        ∥――――――八田知家
        ∥     (四郎)
 宗円―――――八田宗綱
(大法師)  (八田権守)      

 ここからも、永承6(1051)年に陸奥守頼義に宿所を提供した「多気権守宗基」(『奥州後三年記』)は、「平朝臣致幹」とは別人ということがわかる。

■東城寺経塚

保安三年大歳壬寅八月十八日甲辰
如法経書写供養願生
聖人僧明覚
大檀越平朝臣致幹
為□法界衆生平等利益所
奉遂果如右敬白

天治元年歳次甲辰十一月十二日乙酉
奉安置銅壺一口
行者延暦寺沙門経連
大檀那陰子平致幹
銀作三国将時

 

 では、陸奥守頼義に宿所を提供した「多気権守宗基」は誰だったのだろうか。

 まず、頼義の父・源頼信「常陸介」だった頃、常陸平氏の惣領は「左衛門大夫平惟基」(『今昔物語集』巻廿五第九「源頼信朝臣責平忠恒語」)であった。頼信が常陸介だった時期は不明だが、長和元(1012)年閏10月23日に「前常陸介」とあることから(『御堂関白記』長和元年閏十月廿三日条)、「左衛門大夫平惟基」が惣領となったのはこれ以前のこととなる。「左衛門大夫平惟基」は、その訓から「水漏大夫維幹」(『桓武平氏諸流系図』)に相当する。

 彼は長保元(999)年12月9日時点で「常陸介」で、小野宮実資に「常陸介維幹朝臣、先年所申給、華山院御給爵料不足料絹廿六疋及維幹名簿等送之」という、実資の「僕(家人)」であり(『小右記』長保元年十二月九日条)、その子が召喚事件を起した「平朝臣為幹」である。

 維幹の活動時期は、頼義が奥州下向した永承6(1051)年より五十年前となることから、頼義の頃は、その子「平朝臣為幹」が惣領であったと考えられ、『奥州後三年記』は、本来であれば「多気大夫為幹」等とするところを、編者が編纂時の常陸平氏惣領「多気権守致幹」としてしまったものであろう。

 頼義代に「多気権守宗基」(『奥州後三年記』)は確実に整合しないため、「多気大夫為幹」の誤りであったとすれば、八田知家の母とされる「常陸大掾棟幹女」は「多気権守致幹」の女子であった可能性は十分考えられる(『宇都宮正統系図』の編集当時では「常陸平氏惣領は常陸大掾である」という認識があった可能性があろう)


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