トップページ > 奥州千葉氏
トップページ | 目次 | 奥州千葉氏の流派 | 奥州千葉氏出自 | 奥州葛西氏 |
あ行 | か行 | さ行 | た行 | な行 |
は行 | ま行 | や行 | ら行 | わ行 |
奥州千葉氏系図一 | 奥州千葉氏系図二 | 奥州千葉氏系図三 | 奥州千葉氏家紋 |
奥州千葉一族。馬籠重胤(因幡守)の孫で矢作重慶(矢作鶴崎城主)の嫡男・胤慶(大膳亮)が気仙郡浜田村(岩手県陸前高田市)を領して浜田を称した。
胤慶は、弟で気仙郡長部(岩手県陸前高田市長部)の領主・長部慶宗(安房守)と仲が悪く、応永20(1403)年6月、慶宗の軍勢に居城の高田城(岩手県陸前高田市高田)を攻められて、自刃して果てた。63歳だった。
こうして慶宗によって浜田領は占領されてしまったが、胤慶の子で城を落ちのびていた胤長(宮内少輔)・宗胤(又三郎)は同年9月に挙兵。胤慶の居城である長部城を攻めて胤慶を討ち取り、父の仇をとった。胤慶には跡継ぎがおらず、長部氏はいったん滅亡したが、葛西家の命によって宗胤が長部氏の家督を継いで再興している。長部宗胤は永享11(1439)年に61歳で亡くなった。
その後、浜田氏は葛西氏重臣となっており、信継(遠江守)に子がなかった際には、葛西満信の子・西舘重信の四男とされる基継(安芸守)が養嗣子として浜田家の家督を継いだ。子孫の浜田広綱(大膳大夫)は大崎葛西一揆で活躍。葛西氏重臣に浜田弾正がいる。のちの仙台藩士の中にも浜田氏がいくつか見えるが、千葉葛西氏流か。
-浜田氏略系図-
→馬籠重胤―重慶―+―浜田胤慶―+―胤長――――長継―――+―高田信継==浜田基継―+―胤継――――宗綱===広綱
(因幡守) |(大膳亮) |(宮内少輔)(大蔵大輔)|(遠江守) (安芸守) |(大膳大夫)(甲斐守)(大膳大夫)
| | | |
| +―長部宗胤 +―高田秀継 +―基寛
| |(安房守) |(式部大輔) (小四郎)
| | |
| +―胤冬 +―高田時継―――信継
| (内匠頭) |(右馬助) (上野介)
| |
+―長部慶宗―+=宗胤 +―娘
(安房守) |(安房守) ∥
| ∥
+―宗綱 馬籠政次
|(余三郎) (修理亮)
|
+―娘
(江刺近江守信見妻)
奥州千葉一族。千葉武虎が陸中国磐井郡黄海村の深堀に館を設けて深堀を称した。家紋は「七曜」。
奥州千葉一族。大原千葉氏の庶流か。千葉介成胤の七男・星重胤が葛西家に仕えて福知2,700貫を領して、天福元(1233)年没したという。ただし、成胤の子に重胤という人物は見られず、伝承の域を出ない。やはり、地頭代官として奥州へ下った千葉一族だったと思われる。
もう一流、相馬家に仕えた星一族がいた。発祥は下総国相馬郡星村とされるが、相馬郡内で星村という地名を見ることはできず。奥州に下ってのち称したか。相馬家臣の星氏は室町時代から幕末まで相馬家に仕えている。現在でも奥州相馬地方には星家が多く、「相馬野馬追い」にも出陣している。
―星氏歴代―
星 重胤 (????-1233) |
星氏初代。千葉飛騨守頼胤の五男。通称は五郎左衛門尉・信濃守。妻は佐沼古館掃部の娘。 寛喜元(1229)年、奥州に下り葛西氏に仕えて寺池に住し、2,700貫を領すという。 天福元(1233)年7月12日卒。 |
星 康胤 |
星氏2代。系図上は重胤の子になる。通称は五郎左衛門尉・和泉守。 系図上伯父の康胤(伊豆守)と同一人物かも。重胤の嫡男だった重光が、宗家の大原氏の養嗣子になり、重胤は兄(弟と考えた方が妥当か)・康胤を養嗣子として星氏家督を譲ったものか。そう考えれば、康胤以下の時代的な矛盾がなくなる。 |
星 重康 |
星氏3代。康胤の子。通称は和泉守。 弟・重光は薄衣氏の養子になっている。 |
星 春胤 (????-1279) |
星氏4代。重康の子。通称は将監・五郎左衛門尉。妻は峠千葉胤長(左近丞)の女。 代々寺池城主・葛西氏の家老職を務める。 文永元(1264)年、葛西信茂の代官として、東山岩井徳田郷70貫文に所替えされる。この時代の葛西氏家督は葛西伯耆守清親であり、信茂と清親の関係は不明。 弘安2(1279)年4月2日卒。円忠叟月大禅定門。 |
星 胤光 (????-1294) |
星氏5代。春胤の子。通称は宮内・和泉守。妻は松川城主・鳥畑千葉胤栄(隼人)の娘。 永仁2(1294)年卒。 妹は葛西氏の正室になり、「朝日前」と称された。弟・胤長は石越城に住んで、千葉隼人正家の祖となる。 |
星 秀胤 |
星氏6代。胤光の子。通称は和泉守・刑部左衛門尉。文保元(1317)年8月、八幡宮を建立した。 弟・秀基(掃部助)は長坂唐梅城の家老・千葉山城守の養子となった。妹は大原式部(重信か?)の妻となる。 |
星 勝胤 |
星氏7代。秀胤の子。通称は美濃守。妻は薄衣甲斐守の女。 建武4(1337)年、北畠顕家に従う。 延元元(1336)年、顕家の指揮下で和泉国阿部野に参陣する。 |
星 胤光 |
星氏8代。勝胤の子。通称は左近将監。妻は大原式部丞の女。 正安11(1356)年に葛西氏の代官として上洛している。 ●長女・長坂大膳の妻。 |
星 隆胤 |
星氏9代。胤光の子。通称は五郎左衛門尉。妻は小梨蔵人の娘。 ●長女・大原式部の妻。 ●次女・岩淵主膳の妻。 ●次男・政重は黄海深堀城の家臣。 |
星 政胤 | 星氏8代。隆胤の子。通称は和泉守・隼人。 |
星 胤行 | 星氏9代。政胤の子。通称は民部丞。 永享11(1439)年大崎葛西の戦いで討死する。 |
星 胤信 | 星氏10代。胤行の子。通称は弾正少弼。 太守葛西氏の命によって藤沢岩淵氏に付けられ、所領として19貫文を賜る。 |
星 胤貞 |
星氏11代。胤信の子。通称は五郎左衛門尉。 延徳2(1490)年7月、八幡宮を再建する。 ●次男・隼人胤時は永正元(1504)年、大崎氏に属し、遠田星氏の祖となった。 ●長女・薄衣弾正の妻。 |
星 胤村 | 星氏12代。胤貞の子。通称は掃部助。 妻は小梨七郎の娘。 |
星 康胤 |
星氏13代。胤村の子。通称は和泉守。 妻は小野寺掃部の女。 天文22(1553)年、岩淵氏の代官として葛西氏の命により上洛し、将軍・義輝の石清水参詣の供奉を奉行する。その後、義輝から将軍家家宝の大明成祖皇帝の書を拝領し、友長の太刀をも拝領する。 ●長女・小梨刑部の妻。 ●次男・民部胤季は永禄元年東山徳田郷を分地される。 |
星 胤徳 |
星氏14代。康胤の子。通称は五郎左衛門。 妻は日形千葉左京の女。 ●次男・五郎左衛門直胤は寛永16(1641)年頃まで在世。 |
星 安胤 (1562-1590) | 星氏15代。胤徳の子。通称は五郎左衛門・美濃守。 天正18(1590)年、深谷において秀吉の軍に敗れて討死。27歳。 |
奥州千葉一族。千葉介胤正の末子・胤親を祖とすると伝わる。寛喜2(1230)年、胤親は陸奥国桃生郡深谷に移り住み、翌年に63歳で没したという。その子・胤次が後を継ぐが、跡継ぎに恵まれず、弟・胤氏の二男・忠次を養嗣子として本家に迎えたという。
文永元(1264)年に胤次が72歳で亡くなると、忠次が後を継ぎ、宮内少輔を称した。その子・忠広(相模守)が正応2年(1289)年に陸奥国本吉郡馬籠村に移り、馬籠を称した。
忠広の嫡子・広行(周防守)は馬籠遠野城を築いて移り住み、弟の広胤(次郎大夫)は陸奥国気仙郡矢作村に移って矢作を称している(「矢作氏」を参照)。
広行は元徳元(1329)年に59歳で没しているが、その子・行胤(周防守)が南北朝の動乱期に遭遇した。行胤の妹は気仙郡気仙沼城の熊谷直光(左衛門尉)に嫁した。
建武3(1336)年、行胤は葛西高清に突如遠野城を攻撃された。行胤の兵力は500騎。このとき、妹婿の熊谷直光は一族郎党1000騎を引きつれて馬籠氏の援軍に向かった。しかし、その猛攻の前に行胤をはじめ、胤久(掃部丞・行胤弟)、行範(右兵衛尉・行胤弟)、行重(帯刀・行胤子)、慶次(小五郎)が討死にした。しかし、遠野城は陥落しなかったため、葛西軍は矛先を熊谷一族へと向けた。
熊谷氏は本拠地・気仙郡赤巌城にこもって戦ったが、当主・直時以下一門がほぼ全滅したが、なお城は落ちず、葛西軍は退却していった。しかし、馬籠氏も一族が壊滅していたため、行胤の子・胤宣は葛西氏に降伏した。その後約100年間、馬籠氏は歴史上から消えている。
永享2(1430)年、馬籠政行(修理亮)が熊谷氏と合戦したことでふたたび歴史上に登場する。そしてその子・政次は永正2(1505)年、領地をめぐって本吉信胤と合戦して戦死した。これ以降馬籠氏と本吉氏は犬猿の仲となって代々合戦を繰り広げている。政次の玄孫の重俊は伊達政宗に仕えて、金山奉行として2百石を与えられた。
-馬籠氏略系図-
⇒千葉胤親―+―胤次==忠次――――忠広――+―広行―――+―行胤―――――+―胤宣
| (宮内少輔)(相模守)|(周防守) |(周防守) |(新左衛門尉)
| | | |
+―胤氏――忠次 | +―胤久 +―行重
| |(掃部丞) |(帯刀)
| | |
| +―行範 +―慶次
| (三郎右衛門尉) (小五郎)
|
+―矢作広胤―+―重胤―――――+―重慶
|(次郎大夫)|(因幡守) |
| | |
| +―重弘 +―胤茂
| |(民部少輔) (助五郎)
| |
| +―広次
| (宮内少輔)
+―娘
∥
熊谷直光
奥州千葉一族。柏山一族と伝わり、江刺が没落した後に流の日形郷下清水北上川のほとりに移って館を構えていた。天正期の当主・増子浄雲斎は13歳で戦陣に出て戦功をあげたという武勇の武士として知られた。
天正7(1579)年の寺崎氏と富沢氏の内訌では、浄雲は寺崎氏の部将として加わり、富沢家豪勇の大将・大鳥刑部少輔親子を討ち取った。その子・与左衛門は慶長5(1600)年、関ヶ原の戦いのときに白石陣の馬上出陣三騎のうちの一人となる。明暦2(1656)年12月16日に83歳で金沢において亡くなる。号は喜西静悦。
-増子氏略系図-
柏山千葉…増子左七郎―与左衛門―主殿―+―平兵衛―+―平兵衛
(浄雲) (喜西) | |(長四郎・浄貞)
| |
+―娘 +―与兵衛
| ∥ (日形郷御蔵守)
|千葉出雲守
|
+―与左衛門
|(怱次郎・医師)
|
+―須藤権兵衛
中上・須藤十郎兵衛===(肝入役)
奥州千葉一族。薄衣氏の一族。金沢清胤の弟・正村が磐井郡松川村を領して松川を称した。
足利学校庠主・松川氏墓所 |
延徳元(1489)年3月、松川滋吉(五郎)が35歳で没したが、彼には4歳になる「五郎三郎」という子があったが、その幼少を理由にしてか、主君・葛西家は、松川氏と同族の薄衣清貞(上総介)の弟・信胤(五郎)を滋吉の養子にいれて松川家を継承させた(『平姓千葉鳥畑両家系図』ほか)。また、日本最古の大学である「足利学校」の庠主(学長)になった松川東山和尚があり、墓が残されている。東山和尚は諱を進脩、字を世徳といった。父は奉親、字は兼哲といった(「松川東山和尚墓碑」)。
また一説によれば、「松川邑領主千葉尾張守利胤」に後継ぎがなく没したため、延徳2(1490)年正月、葛西宗家の命によって、薄衣家から千葉信胤(五郎)が養子にはいって、松川村二百余貫文を相続、松川越中守を称したとも伝わる(『薄衣系図』)。
しかし『松川系図』によれば、松川滋吉(五郎)は「千葉左近胤永」(峠千葉氏の当主)の次男として生まれ、松川胤滋(越後守)に嗣子がなかったために胤滋の娘を妻として養子になったと伝えられている。滋吉は延徳元(1489)年3月に没し、その子の「太郎三郎胤広」が4歳で滋吉のあとを相続している。
葛西氏の命によって松川家に入った「信胤」の謂れは、薄衣清胤(内匠助)の次男で、通称は千葉五郎。母は岩淵周防守信秀の娘で、通称は右馬助・越中守。延徳2(1490)年正月に葛西宗家の命によって松川家の養子に入り、所領二百余貫文を継ぐ。紋旗は赤地七曜、風車。幕の紋は丸に立合柏。大永3(1523)年12月9日、63歳で没したとされる。
松川滋吉(=利胤?)には実子として五郎三郎(太郎三郎?)という人物がおり、滋吉が没したと思われる延徳元(1489)年、4歳だったとされる。「五」と「太」のつづりが似ていることから同一人物か。そして葛西氏惣領であった葛西政信は、幼少の五郎三郎に代わって、薄衣清胤の次男・信胤(五郎)を滋吉の養嗣子とし、松川氏は(1)薄衣氏系の松川信胤(五郎)と(2)松川嫡流の松川胤広(五郎三郎)の二流に分流してしまったか。明治時代、陸軍大将に松川敏胤の名がある。
―松川氏略系図―
→葛西清見―薄衣清純―+―薄衣清村――…【薄衣家】
(兵庫助)(上総介) |(内匠頭) +―胤光――+―胤教
| |(右馬助)|(筑前)
+―門崎胤村――…【門崎家】 | |
|(豊後守) +=信胤―+―信政 +―奥玉輝胤
| |(五郎) (備後守)|(大膳)
+―金沢清胤――…【金沢家】 +―胤基―――胤滋―娘 | |
|(平五郎) |(小太郎)(筑後)∥―+―胤広――――胤康 +―相川胤朝
| | ∥ (五郎三郎)(五郎) (左衛門)
| | ∥
+―松川正村―+―正胤――――+―胤栄――+―千葉胤春 千葉胤永―滋吉
(隼人正) |(右衛門) |(隼人正) (小次郎)(左近) (五郎右衛門)
| |
+―娘 +―娘
(金沢業胤妻)|(千葉胤好妻)
|
+―娘
(小野朝弘妻)
系図 | 松川氏 | 没年 | 父 | 養子 | 実子 |
『鳥畑系図』 | 松川滋吉(五郎) | 延徳元(1489)年 | 千葉五郎信胤(薄衣清胤の子) | 五郎三郎 某 | |
『薄衣系図』 | 千葉利胤(尾張守) | 同上? | 千葉五郎信胤(薄衣家から養子) | ||
『松川系図』 | 松川滋吉(五郎) | 延徳元(1489)年 | 千葉左近胤永 | 太郎三郎胤広 |
―松川氏歴代―
千葉正村 (1315-1377) |
薄衣清堅の子。妻は千葉広胤(越前守)の娘。通称は平七郎、隼人。 永和3(1377)年、63歳で没する。 |
松川正胤 (1346-1405) |
千葉正村の子。妻は母袋惟長(肥後)の娘。通称は平太郎、右衛門、治部。 応永12(1405)年、60歳で没する。 ・妹…一族の金沢刑部業胤の妻。 |
松川胤栄 (1367-1419) |
松川正胤の子。妻は金沢千葉業胤(刑部)の娘。従姉妹にあたる。通称は彦太郎、平蔵、隼人。 応永26(1419)年、53歳で没する。 ・次妹…千葉相模守胤好(松川氏の庶流か)の妻 ・三妹…小野新十郎朝弘の妻 |
松川胤基 (1398-1449) |
松川胤栄の子。妻は及川重倫(駿河)の娘。通称は小太郎、左衛門。 宝徳元(1449)年、52歳で没する。 ・弟…千葉小次郎胤春。通称は右衛門。千葉豊後胤久の養子となる。 |
松川胤滋 (1434-1484) |
松川胤基の子。正妻はなく、下女との間に娘をもうける。通称は筑後、左衛門四郎。 文明14(1484)年10月3日、51歳で没する。 ・妹…嵯峨立信辰の妻。 |
松川滋吉 (1455-1489) |
一族の峠千葉胤永(左近)の次男。妻は先代の胤滋の娘。通称は五郎、右衛門。 延徳元(1489)年3月29日、35歳で没する。 |
松川胤広 (1486-1507) |
松川滋吉の子。妻は鳥海重定(肥後)の娘。通称は太郎三郎。実際は五郎三郎か。 永正4(1507)年、22歳で討死。 |
松川胤康 (1506-1555) |
松川胤広の子。妻は及川重康(筑後)の娘。通称は彦太郎、五郎左衛門。 弘治元(1555)年、50歳で没する。 |
奥州千葉一族と伝わる。子孫は南部氏に仕えていたが、毛内繁行(豊後守)・千葉繁元(與四郎)の父子は津軽為信に仕えた。
幕末の当主・毛内茂祥(有右衛門)の末子・良胤(監物)は脱藩して新撰組に入隊し、文学師範となる。彼は剣術にも精通し、毛内監物はその多彩な才能で知られた。のち、親友の伊東甲子太郎・藤堂平助とともに新選組を抜けて孝明天皇山陵衛士となるが、新撰組局中法度に触れた(脱隊は死罪)ことを理由に新撰組士に襲われた伊東甲子太郎を救おうと、新撰組の隊士相手に戦い、討死した。
【参考文献:『岩手県史』】
―毛内氏略系図―
→千葉介常胤―…―繁胤―…―清臣―…―毛内繁胤―繁行―――繁元―――繁貞―――村山繁利――+―繁朝
(平四郎)(四郎) (豊後守)(豊後守)(与四郎)(豊後守)(七左衛門尉)|(七左衛門)
|
+―毛内茂秀――+
(有右衛門) |
+―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
|
+―…―茂巧――――茂粛――茂幹――――祚胤――――茂祚―――+―茂胤
(有右衛門)(宣応)(有右衛門)(有右衛門)(有右衛門)|(平格)
|
+―良胤【新撰組文学師範】
(監物)
奥州千葉一族。千葉介成胤の子孫とされ、正胤(四郎)が陸奥国本吉郡を領して本吉をなのった。子孫はあまり知られていないが、室町時代中期には葛西氏の宗族として本吉庄内に勢力を広げる。応仁の乱では本吉信濃守が葛西氏の代理として出陣して活躍している。
葛西満信の子・重信は本吉郡内に館をかまえて本吉氏を名乗ったというが、前記の本吉氏とは別流か。もしくは本吉千葉氏を相続したものか。重信の子孫・本吉胤政(大蔵少輔)は秀吉の奥州平定戦に際して佐沼城に籠って戦ったものの、嫡子の胤遠(常陸介)とともに討ち死にしたことが記されている。胤遠の嫡男・常治は子の善九郎とともに帰農し、子孫・恒利は森村肝煎役となり天明5(1785)年に仙台藩番外士となった。
―本吉氏略系図―
→(1)千葉頼胤―本吉正胤
(四郎)
→(2)葛西満信―本吉重信―信胤―重胤―重継…胤政――――胤遠――常治―善九郎―久兵衛―久左衛門―吉兵衛―+
(大蔵少輔)(常陸介) |
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
|
+―恒利―――恒広―恒信―恒茂―恒孝―恒安―恒明
(左十郎)
奥州千葉一族。千葉介成胤の子・照胤が伊沢百岡城を築いて百岡を称したという。また、千葉頼胤の子・長坂良胤の弟・胤広(二郎)が百岡城にあって百岡二郎を称し、三千七百貫を葛西氏より与えられたとも。