葛西家惣領 別説

葛西氏

盛岡藩葛西家

 

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葛西貞清(????-????)

 葛西氏七代。父は葛西三郎左衛門尉宗清? 母は本間山城守景隆女(高野山五大院系図他)と伝わる。通称は不明。官途は左衛門尉か。法名は不明。諱はおそらく得宗・北条貞時の偏諱を受けたか。

 北条貞時は弘安7(1284)年7月、十四歳で執権職に就いているので、貞清の「貞」が貞時からの偏諱によるものであれば、貞時が出家する正安3(1301)年8月までの17年間のうちに偏諱を受けたことになる。

 貞清の具体的な事歴は伝わっていない。南北朝時代の延元3(1338)年11月11日の『白河文書』に見える南朝方に属した「葛西清貞」と同一人物であるともされているが、この「葛西清貞」は永仁6(1298)年3月18日から香取社造営を担当した「葛西伊豆三郎清貞」と同一人物と思われ、貞清とは別人である。

 諸系譜には、次代・葛西高清が若年で家督を継いだため、叔父の「式部少輔(大輔)信常」が高清を後見したとしている。

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葛西高清(1312-1365)

 葛西氏八代。葛西左衛門尉貞清の子。母は長崎高綱入道円喜女(長崎宗資の娘とも)と伝わる。妻は結城上野介親広女。通称は八郎。官途は従五位下。官職は左衛門尉、因幡守(『高野山五大院葛西系図』)。元服時に執権・北条高時から偏諱されて「高清」を称したものか。

 鎌倉幕府の滅亡ののち、建武新政府に仕え、その後は足利尊氏に随ったか。「因幡守高清」の名は他の氏族(熊谷氏・小野寺氏など)の文書にも見えることから、彼は惣領として活躍していたことのだろう。南朝方に属していた「葛西清貞兄弟」は伊豆守系葛西一族で、葛西庄にも本拠を保っていたのだろう。清貞が香取神宮遷宮の雑掌を務めていたことでも伊豆守系葛西氏が関東にあったことがうかがえる。

 一方、建武元(1334)年8月23日、関東において「江戸、葛西等、重謀叛之時」、鎌倉に詰めていた「候人等」が処々で合戦したことが、成良親王に随って鎌倉に来ていた公卿・阿野実廉『阿野実廉軍忠状』に記載されている。つまり鎌倉幕府滅亡直後、武蔵国の江戸氏と葛西氏が鎌倉に攻め入ったことがうかがわれる。伊豆守系の葛西氏はその後、陸奥に移って南朝方として活動しているところを見ると、このとき鎌倉に攻め入った葛西氏は高清か?

―馬籠千葉氏略系譜(『岩手県史』所収)

⇒千葉忠慶―+―千葉広行―+―千葉行胤――+―千葉胤宣
(六郎)  |(周防守) |(周防守)  |(新左衛門尉)
      |      |       |
      |      +―千葉胤久  +―千葉行重
      |      |(掃部丞)  |(帯刀)
      |      |       |
      |      +―千葉行範  +―千葉慶次
      |       (三郎)    (小五郎)
      |
      +―千葉広胤―+―千葉重胤――+―千葉重慶
      |(二郎大夫)|(因幡守)  |
      |      |       |
      |      +―千葉重弘  +―矢作胤茂
      |      |(孫二郎)   (助五郎)
      |      |
      |      +―鶴崎広次
      |       (三郎)
      +―女
        ∥――――――熊谷直時
 熊谷直鎮――熊谷直光   (小三郎)
(左衛門尉)(左衛門尉)

 建武3(1336)年4月、高清は本吉郡馬籠城の馬籠千葉一族はじめ気仙沼熊谷氏と敵対し、4月21日、馬籠城を攻めて馬籠家当主・千葉周防守行胤を攻め滅ぼした。馬籠城側では、行胤の次男・帯刀行重、三男・小五郎慶次、弟の掃部丞胤久三郎右衛門行範が討死を遂げるが、嫡男の千葉新左衛門尉胤宣は城から脱出して身を隠した。

 馬籠千葉氏すべてが馬籠城に味方していたわけではなく、行胤の従兄弟・千葉因幡守重胤は高清に荷担していた。室町末期の馬籠城主は馬籠大和守重吉馬籠四郎兵衛重胤馬籠新右衛門重長などというように「重」を通字としていることから、高清に荷担した千葉重胤の子孫が代々馬籠城主となっていたとも考えられる。

 延元4(1339)年8月には磐井郡東山の薄衣内匠頭清村と高清の間で戦いが起こり、三年にわたって戦うが、興国3(1342)年正月、清村は高清に降伏し、薄衣氏はふたたび葛西氏の麾下に入った。清村の子・志摩守清常の妻は高清の娘といわれ、さらに清常の娘は葛西満信の妻となったと伝わる。

 高清は、薄衣清村との争いが始まる直前の暦応2(1339)年5月に上洛して足利尊氏に謁し、彼の奏請によって「因幡守」に任じられたとも伝わっている。さらに奥州探題にも任じられたというが、北朝の奥州探題は斯波家長ののち、石塔義房・畠山高国・吉良貞家と続いているので、高清の奥州探題就任説は伝承であろう。また、幕府は六角時信の子・佐々木左衛門尉直綱を奥州に派遣して斯波満家の補佐をさせているが、直綱の妻は葛西高清の娘と伝わる。高清と直綱の間には何らかの関わりを持っていた可能性がある。

 康応2(1343)年、吉良満家は鎌倉に召還され、新たな探題として宇都宮氏広が任じられた。

 貞治4(1365)年4月17日、54歳で没する。法名は道祐

●葛西高清周辺系図

 葛西高清―+―詮清―――満信《葛西氏惣領家》
(因幡守) |(伯耆守)(壱岐守)        +―娘
      |                  |(京極満家妻)
      +―――――――娘          |《水沢佐々木氏》
      |       ∥―――+―繁綱―――+―昌綱
      | 六角時信――直綱  |(右近将監) (豊前守)
      |(左衛門尉)(尾張守)|
      |           |       《気仙田茂山佐々木氏》
      |           +―直信   +―重綱―――忠綱――――泰綱
      |           |(左衛門尉)|(彦五郎)(式部大輔)(飛騨守)
      |           |      |
      |           |      |《気仙佐々木氏》
      +――娘        +―宗綱―――+―景綱
         ∥         (右兵衛尉) (式部少輔)
         ∥―――――娘            ∥
         ∥     ∥            ∥――信弘――貞頼
         ∥    葛西満信          ∥     (文太夫)
 薄衣清村―――千葉清常   ∥――――葛西持信――――娘       ∥―――定光
(千葉内匠頭)(志摩守) 南部義政の娘           豊島氏信――娘  (源太夫)
                             (式部少輔)

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葛西詮清(1345-1388)

 葛西氏九代。葛西因幡守高清の子。妻は南部遠江守政行女。初名は為清。官途は従五位下、伯耆守・因幡守(『高野山五大院葛西系図』)

 康安元(1361)年3月、高清は為清を連れて上洛し、将軍・足利義詮から「詮」を偏諱されて「詮清」を称したという。しかし、同年同月に江刺郡浅井村で詮清は江刺美濃守高嗣と交戦していることも伝わっており、この戦いで詮清は先鋒の大将・黒沢新左衛門尉清尚を戦死させている。

 嘉慶2(1388)年6月10日、44歳で没した。

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葛西満信(1370-1420)

 葛西氏十代。葛西伯耆守詮清の三男。母は南部遠江守政行女。妻は薄衣志摩守清常女。はじめ「貞信」を称したという。通称は五郎。官途は従五位下、左兵衛尉・壱岐守・陸奥権守(『高野山五大院葛西系図』)。天性の弓馬の上手で、武略に長じた名将だったと伝わる。

●葛西満信周辺系譜(『高野山五大院葛西系図』)

⇒葛西詮清―+―満清
(伯耆守) |(又太郎)
      |
      +―娘――――――大崎兼持
      |(大崎詮持室)(三河守)
      |
      +―満宗
      |(新三郎)
      |
      +―娘           +―朝信――――尚信
      |(藤原祐重室)      |(壱岐守) (兵庫頭)
      |             |
      +―満信―――――持信―――+―政信――――稙信
      |(陸奥権守) (伯耆守)  (伯耆守) (壱岐守)
      |
      +―江刺持重
      |(播磨守)
      |
      +―信貞―――――岩淵忠経
       (左衛門佐) (兵庫助)

 兄弟には長兄・葛西又太郎満清、長姉・大崎左京大夫詮持の妻、次兄・葛西新三郎満宗、次姉・藤原常陸介祐重の妻、弟には江刺播磨守持重葛西左衛門佐信貞があった。本来、満信(当時は貞信)は三男であり、嫡男ではなかったが、詮清の嫡子・満清が永徳2(1382)年3月18日に19歳で没し、次男・満宗も至徳元(1384)年2月7日に18歳で没してしまったため、急遽嫡男とされ、詮清の跡を継いで十代惣領となった。弟・葛西信貞の次男は岩淵氏に養子に入って岩淵兵庫助忠経となった。

 明徳2(1391)年6月27日付の『細川頼元文書』には「葛西陸奥守」に宛てて、「伊達大膳大夫」とともに二本松の畠山修理大夫国詮に代わって探題の権限をうけていたことがわかっており、嘉慶2(1388)年に父・詮信が亡くなると家督を継ぎ、伊達大膳大夫政宗とともに行政を行っていたと思われる。嘉慶2(1388)年に家督を継いだ際に陸奥守・石橋棟義(足利一族)のもとで「陸奥権守」となったか。このとき満信は系譜の没年から考えるとわずか22歳。すでに老巧の名将として有名だった伊達政宗(のち円孝入道)とともに混乱の奥州行政の一反を任されているという事は、それなりの器量の持ち主であったのかも知れない。

 応永7(1400)年、関東公方の足利氏満によって奥州に派遣された氏満の次男・足利満直(稲村公方)と四男・足利満貞(笹川公方)は、四本松の探題・宇都宮越中守氏広と対立。関東で代替わりした関東公方・足利満兼は、葛西満信と大崎詮持に宇都宮氏広の追討を命じた。これに応じた葛西満信・大崎詮持はただちに軍勢を動かして栗原郡三迫に押し寄せ、8月頃から宇都宮勢と小競り合いを始めていたようである。8月7日付の葛西満信の黒印状に宇都宮氏広との戦いが記されている。そして9月8日の戦いで、宇都宮越中守氏広宇都宮孫三郎氏公が討ち取られて戦いは終わった。大崎詮持は葛西満信の姉を妻としており、両者は親密な関係にあったことが予想される。満信はこの戦功によって桃生郡・牡鹿郡に四十余町を与えられたという。

 応永7(1400)年10月に上洛。将軍・足利義満から偏諱を受けて「満信」を称したといい、さらに探題にも任じられたというが、これは伊達政宗とともに奥州を任されたという事かもしれない。

 応永27(1420)年11月18日、51歳で没した。別説では文安元(1444)年6月13日に78歳で没したとも。

●栗原郡三迫の戦いで大崎・葛西氏に加わった一族。

大崎詮持 大崎斯波左京大夫。大手の総大将。
葛西満信 葛西壱岐守。搦手の総大将。
薄衣清仲 千葉志摩守。磐井郡東山郷薄衣領主。
薄衣清棟 千葉内匠頭。清仲の子で14代葛西氏当主・葛西陸奥守政信の外祖父になる。
松川正胤 千葉右衛門。磐井郡東山郷松川領主。
松川胤栄 千葉隼人正。松川正胤の子。
岩淵時経 岩淵近江守。磐井郡東山郷藤沢領主。
岩淵経朝 岩淵駿河守。磐井郡流郷涌津領主。
黒沢守尚 黒沢隠岐守。磐井郡黒沢郷。
小野寺明春 小野寺左兵衛尉。磐井郡山ノ目領主。
猪岡丹後守 磐井郡猪岡領主。
佐藤信元 佐藤和泉守。本吉郡馬籠信夫領主。
熊谷直行 熊谷備中守。本吉郡赤磐領主。
鈴木為詮 鈴木伊賀守。気仙郡高田領主。
菅原長朝 菅原式部。桃生郡長井領主。
坂本清継 坂本美作守。大崎詮持の宿老。志田郡坂本領主。
沼倉家光 沼倉右馬助。栗原郡三迫沼倉領主。
国分胤光 国分修理亮。宮城郡国分領主。

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葛西持信(1398-1469)

 葛西氏十一代。葛西壱岐守満信の子。妻は南部遠江守義政の娘。通称は五郎三郎。官途は従五位下、左衛門尉・伯耆守

 元服時に将軍・足利義持から偏諱されて「持信」を称したと思われる。

 文明元(1469)年6月3日、72歳で没した。

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葛西朝信(1427-1480)

 葛西氏十二代。葛西伯耆守持信の子。母は南部遠江守義政女。妻は大崎左京大夫持明(持兼?持詮?)の娘。通称は三郎。官途は従五位下、壱岐守。兄として、黒沢伊賀守守忠の聟養子となった信忠(兵庫頭。1418-1484)がいた。

 文明元(1469)年5月、持信の家督を継いだ。文明2(1470)年2月9日の畠山尾張守政長からの『畠山政長下知状』によれば、「文明元年五月七日」「伯耆守持信」の譲状に任せて、「葛西壱岐守」に対して所領安堵がされている。このころ政長は管領ではないが、葛西氏の取次人であったのかもしれない。持信は同年の6月3日に亡くなったと伝えられていることから、おそらく5月7日の時点では大病に冒されていたため、「譲状」を作成して幕府に提出し、亡くなったか。

 文明4(1472)年3月、祖父の代まで友好関係にあった大崎氏と何らかの仲違いをしていたのか、大崎左衛門佐教兼西磐井流郷油田に乱入した。これを受けて朝信も出陣。ここに佐藤信綱(主膳。登米郡弥勒寺城主)・奈良坂信貞(磐井郡流郷奈良坂城主・信綱の弟)が先陣として大崎勢に斬り込み功績を挙げている。この直後、戦乱を収めるために伊達成宗が調停に乗り出し、戦いは終わった。

 文明12(1480)年8月19日、朝信は54歳で亡くなった。法名は池鏡寺殿知山蓮仏大居士。仙台藩士葛西氏の菩提寺である桃生郡相野谷の源光寺に伝わる位牌などでは「朝信」だが、『竜源寺葛西系図』によれば、文明15(1483)年8月19日没の「陸奥守満重」が伝えられており、法名は「玉淵照蓮大禅定門」『余目日記』に伝わる「かさい浄蓮」がこの「照蓮」であるという説もある。

●文明2(1470)年2月9日『畠山政長下知状』

     花押(足利義政)

    陸奥国 員数載譲状事

  任葛西伯耆守持信文明元年五月七日譲状、守先例、
  可令領事之状、仰依下知如件

      文明仁年二月九日    政 長(花押)

   葛西壱岐守殿

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葛西尚信(1451-1483)

 葛西氏十三代。葛西壱岐守朝信の子。母は大崎左京大夫持明(持兼?)女。妻は不詳。通称は十郎。官途は従五位下、兵庫頭。法名は山蓮

 元服時に将軍・足利義尚から偏諱されて「尚信」を称したと思われる。また、家宰として、従兄にあたる黒沢信盛(隠岐守。1435-1505)がいた。また、本吉郡赤岩城主の熊谷直政(豊後守)も尚信の後見を務めていたと伝わる。

 文明15(1483)年6月7日、尚信は33歳の若さで亡くなった。これは叔父・政信の謀殺ともいわれる。法名は真楽寺殿歓山蓮喜大居士

 下の書状は、古河公方・足利成氏を討つよう、寛正元(1460)年10月21日に奥州・関東の諸大名に命じた将軍御内書で、大崎左衛門佐(大崎教兼)の手に属して戦功を挙げるよう、「葛西亀若殿 同一族中」に命じている。「亀若」というのは幼名と考えられ、この当時、十歳で元服前の尚信のことか。ただし、伝えによればこの時の葛西氏の家督は、尚信の祖父・持信であり、父・朝信もまだ健在であるにもかかわらず、わずか十歳の尚信に兵を派遣するよう命じることは考えにくい。

●寛正元(1460)年10月21日『将軍家御内書』

 成氏誅戮事、度々雖被仰遣未令進発之條、如躰子細哉、不日属左衛門佐手、抽戦功者可有恩賞也

   同日    御判

    葛西亀若殿
    同一族中    

●尚信の家臣

名 前 伝 承
熊谷豊後守直政 本吉郡赤岩城主。執事。熊谷直定の庶長子で一家を創設した。桃生郡深谷に転戦した。

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葛西政信(1433-1506)

 葛西氏十四代。葛西伯耆守持信の子。母は薄衣清棟女。妻は千葉刑部大輔師胤女。初名は信勝。通称は四郎。官途は従五位下、左衛門尉・壱岐守・伯耆守・陸奥守。十二代朝信の異母弟にあたる。政信の名は8代将軍・足利義政からの偏諱と思われる。

 政信の嫡男・左衛門尉信高は文安4(1447)年生まれであり、甥の尚信とさほど年齢は変わらなかったが、文明9(1477)年に亡くなってしまった。このため、幼い尚信を擁立することとなったか。

●江刺重任の周辺系図

 葛西政信――葛西晴重――葛西重親―江刺重任《明応4(1495)年、足利義高に謁見。天文7(1538)年没》
(壱岐守) (左京大夫)(三河守)(播磨守)

  永正2(1506)年5月1日、74歳で没した。

●政信の家臣

名 前 伝 承
清水玄蕃信実 播磨守。中村淡路守信清の次男。清水高清の養子となり、磐井郡に百余町を賜る。法名は遠快久斎。
熊谷主計直定 熊谷弾正直茂の嫡男。政信と争った江刺美濃守隆見と争った。法名は喜明院殿丹窓幽保。
石森右兵衛佐直明 熊谷弾正直茂の弟。政信の信任を得て、登米郡石森村を領する。
岩淵三河守経定 民部。磐井郡流郷涌津城主。文明17(1485)年の南部政盛との気仙郡の戦いで大いに活躍。登米郡に所領を賜る。明応4(1495)年6月の江刺隆見との江刺郡の戦いでも戦功をあげる。
佐々木豊前守信綱 佐々木将監秀綱の子。胆沢郡水沢城主。南部氏の猛将・金沢七郎盛弘を討ち取る。
佐々木信濃守泰綱 水沢佐々木氏と同族。桃生郡大窪城主。南部政盛との戦いで下条駿河行長を討ち、気仙郡に所領を賜る。葛西氏との関わりの系図はこちら
佐々木源太夫定光 佐々木貞頼の子。本家・泰綱に従って南部氏と戦って功績を挙げる。のち修験者となって権大僧都まで昇進した。葛西氏との関わりの系図はこちら

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葛西稙信(1469-1533)

 葛西氏十五代。葛西陸奥守政信の子。母は千葉刑部大輔師胤女。妻は黒川治部大輔氏直女。初名は重信。官途は従五位下。官職は壱岐守・陸奥守・左京大夫。法名は祝蓮

 将軍・足利義稙から偏諱されて「稙信」を称して家督を継いだ。一説に永正18(1521)年12月、将軍・足利義晴からふたたび偏諱を受けて「晴重」に改めたともされるが、将軍からの偏諱は通常一回であるので伝承か。翌大永2(1522)年に従五位下、左京大夫兼陸奥守に叙任された。

 稙信は京都と深くつながろうと、重臣の岩淵紀伊守・伊藤大蔵丞を上洛させている。一方で、北の名族・大崎氏(もと奥州探題の家柄)との間で争いを繰り返し、その対策のために出羽国米沢城主・伊達稙宗(左京大夫)の子・猿若丸を嫡子・稙清の養子にむかえた。こうして、葛西氏と伊達氏の間に同盟関係が生まれ、友好的な関係は伊達政宗・葛西晴信の時代まで続いていくことになる。こののち隠居して嫡男・稙清(左京大夫)に家督を譲った。

 天文2(1533)年12月21日、65歳で没した。

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葛西稙清(1493-1531)

 葛西十六代。葛西左京大夫稙信の子。初名は守信。通称は三郎左衛門。官途は従五位下。官職は左京大夫

 将軍・足利義稙から偏諱されて「稙清」を称したという。

 享禄4(1531)年、父の稙信に先立って39歳で没した。

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葛西晴清(????-1547)

 葛西氏十七代。葛西左京大夫稙清の養嗣子。実父は伊達左京大夫稙宗。幼名は牛猿丸か。官途は従五位下

 元服時に将軍・足利義晴から偏諱されて「晴清」を称した。『源光寺過去帳』に名がある。江戸時代の仙台藩士・葛西紀伊俊信の子・藤右衛門重常が延宝3(1675)年12月20日に藩に提出した由緒系図では、稙宗の子は、次代の「晴胤」とされる。

 天文16(1547)年9月、没したと伝わる。

◎天文の大乱当時の勢力分布■:稙宗方■:晴宗方

       最上義淳―+―最上義建――――最上義清――最上義守―+―最上義光
            |                    |
            +―最上義定====最上義守       +―義姫(伊達政宗母)
              ∥       
            +―娘      
上杉定実―+――娘   |     
     |  ∥―――+―留守景宗
     |  ∥   |       
     |  ∥   +―伊達稙宗――+―――娘
     | 伊達尚宗    ∥    |   ∥―――――――――田村清顕
     |         ∥    | 田村隆顕(父子の和睦を将軍家に要請)
     |         ∥    
     |         ∥    +―――娘
     |         ∥    |   ∥―――――――――二階堂盛義
     |         ∥    | 二階堂輝行
     |         ∥    
     |         ∥    +―――娘
     |         ∥    |   ∥―――――――――掛田義宗
     |         ∥    | 掛田俊宗
     |         ∥    
     |         ∥    +―大崎義宣(小僧丸。叔父・大崎義直
     |         ∥    |   
     |         ∥    +―葛西晴胤牛猿丸。葛西晴重の養子=晴清カ)
     |         ∥    
     |         ∥    +―亘理元宗(養父・亘理宗隆
     |         ∥    
     |         ∥    +―桑折四郎(養父・桑折貞長
     |         ∥    
     |         ∥    +――娘
     |         ∥    |  ∥――――相馬盛胤――相馬義胤
     |         ∥    | 相馬顕胤
     |         ∥    |
     |         ∥    | 岩城重隆――娘
     |         ∥    |       ∥―――――岩城親隆
     |         ∥    |       ∥       
     |         ∥    |       ∥   +―伊達輝宗―伊達政宗
     |         ∥    |       ∥   
     |         ∥    +――――――伊達晴宗―+―娘
     |         ∥    |             ∥――――伊達成実
     |         ∥――――+―――――――――――伊達実元
     +――娘      ∥    |
        ∥―――+―台心院   +――娘
       蘆名盛高 |          ∥―――蘆名盛興
            +―蘆名盛舜―――蘆名盛氏

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葛西晴胤(1497-1555)

 葛西氏十八代。葛西左京大夫稙清の実子か。妻は江刺美濃守隆見女黒川下総守景氏女。初名は高信。通称は四郎。官途は従五位下。官職は右京大夫・左近大夫

 時期は不詳ながら、将軍・足利義晴から偏諱されて「晴胤」を称したと思われる。

 仙台藩士・葛西紀伊俊信の子・藤右衛門重常が延宝3(1675)年12月20日に藩に提出した由緒系図では、晴胤は伊達稙宗の子とされるが、晴胤の没年が『五大院葛西系図』のとおり、弘治元(1555)年に59歳で没したとすれば、明応6(1497)年生まれとなり、父とされる伊達稙宗が長享2(1488)年生まれであることを考えると、稙宗がわずか十歳の時の子となり、現実的ではない。さらに、兄の伊達晴宗は永正16(1519)年生まれであり、晴胤のほうが二十二年もの年長となる。

 天文11(1542)年に始まった天文の大乱は、伊達晴宗が父・稙宗を幽閉したことに始まる。稙宗が外祖父・上杉定実の養子として、子の真元を越後に送り込み、所領を割譲するとしたことに晴宗が怒って阻止したことが引き金である。稙宗はすでに養子の話をまとめ、上杉家の定紋「竹に雀」「実」の一字をもらい受け、「真元」は「実元」に名を改めている。実元は稙宗方でなく晴宗方に荷担しており、大森城に籠った。実元はのちに実兄・晴宗の娘(姪にあたる)をめとり、嫡子・時宗丸をもうけている。のちの伊達安房守成実である。成実は血統から見ても伊達家随一の人物であり、さらに勇猛果敢な性格で知られ、智将の片倉小十郎景綱と並んで伊達政宗の片腕として活躍した。のち江戸三代将軍・徳川家光は、成実を招いて武辺話を聞いている。

 天文19(1550)年はじめ、大崎氏と所領をめぐって争い、黒沢信寛が葛西氏の武将として参陣している。さらに5月、京都の将軍家に使者を派遣した。

 天文22(1553)年はじめ、代参として岩淵氏の家臣・星和泉守康胤を上洛させ、将軍・義輝の石清水参詣の供奉に加えている。その後、康胤は義輝から将軍家家宝の大明国成祖皇帝の書と友長の太刀を晴胤への拝領物として下賜されている。

 同年5月、晴胤は再び大崎氏と抗争。さらに六男・葛西六郎信胤が家老の柏山氏とともに晴胤に対して兵を挙げたため、晴胤は鎮圧のため軍勢を動かしている。

 弘治元(1555)年、59歳で没したという。

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葛西親信(1513-1560)

 葛西氏十九代。葛西右京大夫晴胤の子。通称は平四郎。官途は従五位下。官職は石見守・治部大輔

 永禄3(1560)年4月11日、48歳で没した。

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葛西晴信(1534-1597)

 葛西氏二十代。葛西右京大夫晴胤の子。初名は信清。官途は従五位下。官職は左京大夫。

 元服時に将軍・足利義晴から偏諱されて「晴信」を称したと思われる。

 永禄3(1560)年4月24日、晴信は永徳寺に「亡親石見守平親信菩提為云々」という書状を発給しているが、親信は『高野山五大院系図』によれば永禄元(1558)年正月、実子がなかったため、「弟信清為嗣子」であったようである。信清=晴信であり、永禄元年には病身の親信の家督を継いだと思われる。

 慶長2(1597)年、64歳で没した。

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葛西義重(????-????)

 葛西氏二十一代。葛西左京大夫晴信の子。官途は従五位下

 元服時に将軍・足利義昭から、大内氏や斯波氏などとならぶ家格を意味する「義」を偏諱された。


葛西氏惣領盛岡藩葛西氏葛西氏庶流
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