奥州千葉氏の一族7

奥州千葉氏

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奥州千葉氏系図一 奥州千葉氏系図二 奥州千葉氏系図三 奥州千葉氏家紋  

【や】

矢作

 奥州千葉一族。千葉介胤正の子・胤親が桃生郡深谷庄に移って奥州千葉氏の租となったとされる。胤親の名は胤正の子の中には見られないが、胤正の娘の子に角田常親があり、上総介広常亡きあとに「胤親」を称したとされ、角田胤親と同一人物かも?

 正和4(1315)年春、本吉馬籠城主・千葉忠広(六郎左衛門佐)の二男・広胤(次郎太夫)が気仙郡矢作村に所領を与えられて矢作千葉を称した。子孫は広田湾周辺に繁栄し、矢作氏をはじめ、小友千葉氏、高田千葉氏、長部千葉氏、浜田千葉氏となった。

―矢作氏略系図―

→千葉胤正―+―成胤  +―胤次====忠広――――忠広―――+―広行―――…
(千葉介) |(千葉介)|(左衛門尉)(宮内少輔)(右衛門佐)|(周防守)
      |     |       ↑          |
      +―常秀  +―胤氏――――忠次         +―矢作広胤――+―重胤―――+―重慶…【馬籠氏・長部氏】
      |(平次) |(左衛門尉)(宮内少輔)      |(大蔵大輔) |(因幡守) |
      |     |                  |       |      |
      +―胤親――+―基親               +―娘     +―重弘   +―胤茂
       (六郎)  (八郎)               (熊谷直光妻)|(刑部少輔) (助五郎)
                                       |
                                       +―鶴崎広次―――顕次―――…
                                        (宮内少輔) (遠江守)

【ゆ】

【よ】

米倉

 奥州千葉一族。室町時代中期、米倉重胤(出羽守)という人物がおり、応永22(1415)年、57歳で亡くなった。その養子に、薄衣清常(志摩守)の子・家胤(左馬助)が入って継いでいるが、その子孫は不明。

 室町時代後期、松川信胤(右馬助)の娘が米倉広隆(源七郎)の妻となっており、広隆は家胤の末裔にあたる人物か。


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