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奥州千葉氏系図一 | 奥州千葉氏系図二 | 奥州千葉氏系図三 | 奥州千葉氏家紋 |
奥州千葉一族。「かしやま」と読む。葛西氏の重臣で千葉清胤(佐渡前司)が陸奥国江刺・輪賀・胆沢を領し、柏山氏を称したという。
しかし、柏山氏は清原姓を称し、奥州平泉藤原氏の麾下にあって、文治5(1189)年8月の頼朝による奥州平定によって土地を追われたとの伝があり、室町末期の小岩信実(播磨守)の母が「柏山兵部清原信綱ノ娘」とある。奥州藤原氏の滅亡後、奥州惣奉行として平泉に入った葛西清重に見いだされて、その執り成しで御家人の列に加えられて胆沢郡内に地頭職を与えられ、葛西清重の麾下に入ったという。
柏山氏が文書に現れるのは康永元(1342)年の探題・石塔義房の書状で、この時にはすでに大きな勢力を持っていた。さらに、葛西家の家督・葛西満信の舅に当たる薄衣清常(志摩守)の妹は、柏山元重(近江守・実在は不明)の妻となっている。
柏山氏は葛西氏の重臣として室町期を経るが、桃山期に豊臣秀吉の小田原参陣の命令に遵わなかった葛西氏はその所領を没収され、鎌倉以来四百年の歴史に幕を閉じる。それに伴い柏山氏も領地を失うこととなった。葛西氏とともに所領を没収された名門大崎氏の旧領には、秀吉の家臣・木村吉清(もと明智光秀家臣)が入封した。しかし、木村吉清はもともと小身の大名で、大崎・葛西氏の所領を支配するには家臣も足りず、政務も滞りがちであったことから、領民や大崎・葛西氏の家臣たちが反乱を企てた。これを隣国の伊達政宗が見逃すはずもなく、ひそかに柏山明成などに書状を送って扇動をうながし、そのまま自らの領地に組み込もうとした。こうして柏山明成を主将とした反乱軍は木村吉清の居城を取り囲んで兵糧攻めをおこなった。その数、数万人とも十数万ともいわれており、吉清は会津の蒲生氏郷・岩出山の伊達政宗に援軍を要請、反乱を扇動していた政宗も表面上は一揆鎮圧のために兵を出したが、後ろでは武器や兵糧を反乱軍に供給していたとされる。
しかし、蒲生氏郷のもとには伊達家の宿老の須田伯耆が政宗の扇動を裏付ける密書を届けてきた。須田伯耆は父・須田伯耆が先代の伊達輝宗に殉死したのに、政宗が自分を重用しないことに腹を立てていたといわれる。蒲生氏郷はこの密書の内容を見て驚いた。密書は政宗から柏山ら葛西家重臣に宛てた一揆を扇動する手紙であり、政宗の花押「鶺鴒」も入っていることから政宗の書状に間違いないとみて、氏郷はさっそく秀吉に届けたのだった。秀吉はこれを見て政宗を京都に召喚する。このとき政宗は金箔捺しの巨大な磔柱をつくらせて京都まで運ばせている。
聚楽第で秀吉に面会した政宗は、秀吉の面前で「もしその書状がわたしのものならば、鶺鴒(花押)の目のところに針で開けた穴があるはずです。以前殿下に差し上げた書状には穴が開いているはずです。」と言った。秀吉はさっそく調べさせてこれを確認したところ、その通り針の穴が開いていたといい、須田伯耆は父に似ぬ愚か者であり側で召し使っていたため、書状を偽造したのだろうとして、提出された書状は偽物とされた。さらに徳川家康からもとりなしもあり、政宗は罪には問われずにすみ、須田伯耆は蒲生家に留め置かれることとなる。このときの一揆が「大崎葛西の一揆」である。
【参考文献:『岩手県史』】
―柏山氏略系図(1)―
千葉明広――――――明則―――明重――――明信―――明道―――明春―――明義――――明行――――明親―…
(左近・平二郎胤春)(伊勢守)(平左衛門)(伊勢守)(伊勢守)(小太郎)(平左衛門)(平左衛門)(安芸守)
―柏山氏略系図(2)―
柏山明吉―+―明国
(伊勢守) |(伊予守)
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+―明宗
|(中務少輔)
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+―小山明長
|(九郎)
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+―折居明久
(宮内)
奥州千葉一族。「かざわ」と読む。薄衣清胤が陸中国金沢村に朝日館を築いてそこに移ったために金沢氏を称した。
下の系図(1)と系図(2)では、信胤(伊豆守)の父の名が違っていて系図によってさまざまである。金沢信胤(伊豆守)は天正18(1590)年の奥州御仕置に反抗し、弟の峠城主・千葉良次(石見守)らとともに出陣し、桃生郡深谷糠塚において兄弟並んで自刃して果てたと伝わる。信胤このとき28歳だったという。
【参考文献:『岩手県史』】
―金沢氏略系図―
→(1)葛西清光―薄衣清堅――――金沢清胤―基胤――業胤――師胤――冬胤―――常正――――胤正―+―信胤
(薄衣宗堅養子)(平五郎)(刑部)(刑部)(刑部)(伊豆守)(兵部少輔)(刑部)|(伊豆守)
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+―良次
(石見守)
→(2)金沢良通――――信胤
(良光・下総守)(伊豆守)
奥州千葉一族。「かんざき」とよむ。陸奥国磐井郡東山門崎村が発祥地。千葉胤基なる人物が気仙郡浜田村を領して浜田氏を称したのち、7代あとの盛糺が門崎村に移住、その曾孫・胤盛が門崎を称した。
奥州千葉氏は、千葉介頼胤が祖とされている場合が多いが、それらの子が奥州に下向していった年は頼胤が生まれる10年も前のことで、年月的に無理。また、千葉介頼胤の子には奥州千葉氏関係の人物の名が見えないこと、千葉介頼胤が奥州に関わった形跡がないことなどから、鎌倉初期の千葉一族(上総氏流も含めて)の人物が、奥州の千葉氏領の地頭代官として奥州へ下向し、千葉氏に所縁ということで千葉を称したものなのかもしれない。
浜田氏は成胤の弟(義弟)・胤親から出ているとも伝わり、胤親の7代目・胤慶(大膳亮)が葛西氏家老となり、浜田氏を称した(→浜田氏の項)。門崎氏はのち伊達政宗に仕え、門崎盛隆は白石の役などに功をあげた。家紋は「右三つ巴」・「丸に橘」・「丸に田文字」。
【参考文献:『岩手県史』】
―門崎氏略系図―
→千葉介頼胤-弾正-胤義-広義-盛胤-浜田胤基-胤義-胤行-盛基-盛常-胤克-門崎盛糺-胤重-盛常――+
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+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
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+―胤盛―+―盛経
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|-仙台藩士-
+―盛隆―盛興―盛時―盛常=盛善―――――――盛時―盛徳==盛時
(佐藤長太夫の子) (林友通次男)
奥州千葉一族。「きけがわ」とよむ。下総国千田庄亀卦川村が発祥地とされているが、実際は葛西家の所領・葛西庄内の下総国葛西庄木毛河郷(墨田区東墨田)と考えられる。
伝承では、千葉介頼胤の子・亀卦川胤氏が、葛西清信(千葉氏の子)に従って建治2(1276)年10月、奥州葛西家領に下り、米谷に館を構え、代々葛西氏の重臣となったというが、もともとは葛西庄に住んでいた秩父党豊島氏の一族が庄司の葛西氏に従ったのかもしれない。
時代は下って室町後期、大原新山城主・亀卦川重行(出雲守)は弟(叔父とも)の師兼(蔵人)と抗争していたが、享禄4(1531)年3月15日、重行は亡くなり、師兼が重行の子・信秀(三郎左衛門尉)を廃してみずから家督についた。
天文19(1550)年8月3日、大原新山城主・亀卦川師兼(出雲守)の嫡男・師秀(式部少輔)が葛西高信(のちの葛西晴胤)によって誅殺されたと伝えられる。一説には師秀の弟・師茂(民部輔)も同じく討たれたとされ、父の師兼は「仇敵」の長坂千葉広定(石見守)・母体千葉則房(伊賀守)と合戦してこれを壊滅させた。師秀・師茂兄弟は、長坂・母体氏と何らかの理由で争い、それを太守・葛西高信に咎められて誅殺されたものか。師兼も太守・葛西高信より長坂・母体両氏との争いを咎められ、居城の大原新山城を攻められて落城。師兼は逐電し、弘治元(1555)年8月9日、65歳で亡くなった。居城は師兼の舅にあたる葛西家家老・大原信茂(山吹城主)が賜っている。亀卦川家の家督は、先に師兼によって廃嫡にされた信秀(三郎左衛門尉)が大原家の後押しで継承、大原家より新山城をふたたび与えられている。妻は田丁新介政頼の娘。
亀卦川信秀は、子の亀卦川師晴、持信、持景とともに、天正18(1590)年の深谷陣(葛西勢対豊臣勢)に出陣し、深谷庄和淵村にて木村吉清(伊勢守)の軍勢に敗れて、信秀・師晴・持景が討死。持信は逐電した。
深谷荘和淵村出陣(800余騎)
大将 | 千葉左馬助胤元(登米郡西郡城主) |
千葉十郎五郎胤永(桃生郡女川城主)、及川紀伊守頼貞(登米郡鱒淵城主)、千葉修理亮胤則(登米郡狼河原城主)、岩淵遠江守経平(東山郷藤沢城主)、千葉新左衛門尉武虎(東山郷黄海城主)、及川美濃次郎頼兼(東山郷津谷川城主)、菅原左近将監重国(本吉郡山田城主)、米倉右近行友(本吉郡津谷)、峯岸数馬有盛(本吉郡津谷)、三条小太夫近春(本吉郡小泉城主)、寺崎伊予守祐光(桃生郡寺崎城主)、飯野但馬守正秋(桃生郡飯野城主)、嵯峨舘左近、水戸部九郎、箕輪田弥惣右衛門、歌津右馬、亀卦川三郎左衛門信秀、及川隠岐入道 |
信秀の二男・亀卦川忠成は中川城主だったが、父の死後に新山城に入り、亀卦川信行(下総守)を称した。妻は門崎千葉藤四郎信定の娘。信行の子・信房は先祖・師兼とおなじく出雲を称し、仙台藩士となったか。
信秀の五男・信重(蔵人)はのち賢寛と改名し、遠祖・亀卦川師暉(下総守)の妻・仏坂信濃守信頼の実家と思われる仏坂氏を冒した。その子・仏坂賢久(兵庫)は寛永16(1639)年に79歳で亡くなった。その子の仏坂賢重(兵庫)、賢季兄弟は仙台藩に出仕している。
信秀の八男・師親はのちに師持(下総)と改名。濁沼亀ヶ館十万五千苅を領していたが、その後の動向は不明。
幕末の相馬中村藩の客僧として知られる慈隆大僧都は、亀卦川氏の出身である。父は医師・亀卦川鶴翁。慈隆は幼くして出家し、のち日光山浄土院主となる。常に民衆に慈愛をもって接し、自ら衣食を節し、援けた者は枚挙に暇が無いほどであったという。隠居ののち、中村藩主・相馬充胤に招かれて安政3(1856)年正月に中村に入り、金蔵院に入って静慮庵と号した。世子・相馬秊胤の師となり、戊辰戦争の際には藩論を朝廷帰順に導き、総督府から賞される。廃藩置県後には、東京の相馬邸に住み、明治5(1872)年、五十八歳で亡くなった。
【参考文献:『岩手県史』】
亀卦川胤氏 (1225-1302) | 亀卦川氏初代。通称は三郎・孫四郎・左馬助。 建治2(1276)年、千葉介頼胤の子で、葛西清時の養子になった葛西清信に供奉して奥州へ下向。 胤氏とともに「千葉胤常(大原氏の祖で胤氏の兄)」「臼井常俊」の2人が随従したという。 乾元元(1302)年5月7日卒。76歳。 |
―亀卦川氏略系図―
→千葉介頼胤-亀卦川胤氏
(左馬助)
→亀卦川師暉――師兼――+―師秀 +―師晴
(下総守) (出雲守)|(式部少輔) |
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+―師茂 +―信行――信房―――信宜――…
(民部輔) | (出雲守)
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……重行――――信秀――――――+―鶴
(出雲守) (三郎左衛門尉) |(及川遠江守鎮陳妻)
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+―及川信則 +―賢重――…
| |(兵庫)
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+―師義 +―賢季
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+―仏沢賢寛――賢久――+―賢盛
|(蔵人) (兵庫) |(隼人)
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+―萩 +―利左衛門
|(曾慶高見信忠妻)
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+―本吉信光
|(和泉)
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+―持信
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+―師親
|(下総)
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+―松川信昭
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+―持景
奥州千葉一族。発祥は武蔵国大里郡熊谷郷。治承寿永の乱の時に活躍し、一ノ谷の戦いで平敦盛を討った熊谷直実(次郎)を祖とする。 熊谷直実の子・直家(小次郎)が奥州平定戦に功をあげて気仙郡内に所領を賜り、以降300年にわたって気仙郡に大きな勢力を持つことになった。子孫は葛西氏と縁組をかさねて、次第に葛西氏の中にとりこまれていく。
【参考文献:『岩手県史』】
―熊谷氏略系図―
奥州千葉一族。葛西壱岐守清重の七男・時重(壱岐七郎左衛門尉)が嘉禄元(1225)年3月、鎌倉幕府四代将軍・藤原頼経に近侍してその信任を得、従六位下・左衛門尉に叙せられたという。時重は讃岐国法勲寺(香川県綾歌郡飯山町にあった大寺院)領の地頭職をも有しており、建長2(1250)年、法勲寺と所領について争っている(『吾妻鏡』建長二年五月廿八日条)。
時重は、父・清重の領内である磐井郡黒沢郷(岩手県一関市上黒沢、下黒沢)に三千余町の領地を与えられて黒沢を氏としたという。『米良文書』の「笠井氏系図」に見える「井澤七郎左衛門尉」が時重であると考えられる。また、彼は武勇に優れた侍で「無双の弓の上手なり」と伝わっている(『平守寛系図』)。彼の旗印は「赤地に九曜」、幔幕は白地に三つ葉柏であったという。彼の事歴については下に挙げるものの様に異説が多い。
【参考文献:『岩手県史』】
1.『平姓奥州葛西系図』
→時重:清重五男。号は黒沢七郎。従五位下左衛門尉。鎌倉将軍頼嗣朝臣の近習無双の弓の上手。奥州磐井郡二千余町の地を領し、同郡上黒沢郷に住す。弘長元(1261)年二月十五日卒、七十三、法名真阿。子孫多し。
2.『平姓奈良坂系図』
→時重:清重四男。黒沢七郎、始め葛西壱岐七郎左衛門尉。従六位上建保年中より奥州磐井郡黒沢邑に住し、ゆえに家号と為す。寛喜元年より鎌倉将軍家の御近臣となる。子孫多し。正元元(1259)年八月十七日卒、年六十二。
3.『盛岡葛西家系図』
→時重:清重三男。母朝清と同じ。黒沢葛西七郎左衛門尉と号す。従六位下。奥州磐井郡において上黒沢の地を領す。建長三(1251)年正月、将軍二所御進発の節供奉す。子孫多く葛西家の老臣たり。
4.『本称寺蔵葛西系図』
→時重:清重三男。黒川七郎。従六位下左衛門尉。弘長元(1261)年三月十五日卒。
5.『黒沢家譜(『伊達世臣家譜』巻の12)』
→…清重第四男、従六位下左衛門尉時重を祖とす。その裔、虎ノ間番士となる。今、三百四十一石の禄を保つ。時重、嘉禄元年三月、鎌倉将軍頼経卿の近侍。三千余町奥州磐井郡黒沢邑に受け、よりて氏としおわんぬ…
時重の子・重村(左衛門四郎)は宗家の葛西清経(左衛門尉四郎)の娘を迎え、宝治元(1247)年の宝治合戦にも出陣したという(『黒沢系図』)。弘安10(1287)年8月に六十六歳で亡くなったという。『米良文書』の「笠井氏系図」に「重村」という人物が見え、「河内守」に任じられている。系譜によれば彼の子は「友村」「平氏女」「清友」の三人あり、そのうち「嫡子」清友は号を「丸子八郎」としていることから、祖先の葛西清重が治承4(1180)年11月10日に賜った「武蔵国丸子庄」を継承していたと考えられる(『吾妻鏡』治承四年十一月十日条)。
●葛西氏系図3(『米良文書』笠井氏系図)
壱岐守、後出家 嫡子
清重―――――――+―伯耆前司
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| 二男
+―伊豆守
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| 三男
+―井澤七郎左衛門尉
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| 四男 葛西河内守 葛西河内四郎左衛門尉
+―重村――――――――+―友村
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| 葛西四郎左衛門尉嫡女
+―平氏女
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| 四郎左衛門尉嫡子 号丸子八郎
+―清友
『黒沢系図』の重村の子は、長女が「武州葛西弾正忠清運」の室となり、二男の重弘(播磨守)の妻は河越重資(修理亮)の娘であったようだ。河越重資は建長3(1251)年5月8日に武蔵国惣検校職を継承した秩父党惣領である。武蔵国と深い関わりが見られることや、鎌倉でも活動をしていることから見て、このころの重村の子孫は武蔵国に本拠を持っていたのだろう。
黒沢重弘は弘安8(1285)年11月の霜月騒動に出陣したという。永仁元(1295)年「鎌倉奉行」になったという。この年の10月に引付が復活しており、重弘は引付に抜擢されていたのかもしれない。正和2(1313)年、59歳で亡くなった。
その子・宗重(兵庫助)は父・重弘が亡くなったという正和2(1313)年、「鎌倉奉行」になっている。やはり引付衆の一員になっていたのだろう。元徳元(1329)年、49歳で亡くなった(『黒沢系図』)。宗重の妻は葛西貞清の娘であったという。その子に重尚(新左衛門尉)が見え、応安4(1371)年に69歳で亡くなった(『黒沢系図』)。
重尚とその子・清尚(新左衛門尉)の父子は宗家・葛西高清(因幡守)に仕えていたが、康安3(1361)年3月、高清は子息・為清(又太郎)を引率して上洛の途についた。上洛を果たした為清は、将軍・足利義詮から「詮」字を賜り、「詮清」を称するようになったようだが、この惣領家の留守の間に江刺郡の江刺高嗣(美濃守)と葛西惣領家の間に合戦がおこっている。惣領家の留守を狙って江刺氏が挙兵したのかもしれない。清尚は葛西勢の先鋒を引き受けて江刺郡浅井邑に攻め入り奮戦したが、3月12日討死を遂げた。37歳。
応永7(1400)年8月、奥州探題・宇都宮氏広(越中守)と関東管領(関東公方)・足利満兼との間で戦端が開かれ、満兼は葛西満信(壱岐守)・大崎詮持(左京大夫)に命じて四本松の宇都宮氏広を攻めさせた。このとき陸奥国栗原郡三迫(宮城県栗原郡三迫)にて合戦が行われ、清尚(新左衛門尉)の子・守尚(隠岐守)が従軍した。
永享9(1437)年11月、葛西氏と大崎氏の間で合戦がおこった。これは関東における足利持氏(鎌倉公方)と上杉憲実(関東管領)との間でおこった争乱の流れが波及したものであったが、宇都宮氏広との戦いで活躍した黒沢守尚の嫡子・守忠(又九郎)が参戦している。この合戦で大崎氏に勝利した葛西持信は、功績のあった守忠に加増二千余町を与えている。しかし、守忠には跡を継ぐ男子がなかったことから、惣領家・持信の三男の又三郎を娘婿に迎え、信忠と称させて黒沢家を継がせた。文安2(1445)年11月20日、72歳で亡くなった。
―黒澤氏略系図―
→黒澤信資―+―信寛―――――――――+―信任――+―娘
(隠岐守) |(隠岐守) |(隠岐守)|(大町正右衛門妻)
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+―娘 +―信道 +―重信―――――――信
|(沢辺武蔵守忠満妻) (七郎) (平次郎)
| ↓
+―信久―――――――――+=信道――――義任――…【仙台藩黒澤家】
|(豊前守) |(豊前守) (豊前)
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+―信次 +―娘
|(木工允)
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+―娘
|(東山千葉飛騨守信重妻)
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+―藤倉信賢
|(相模守)
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+―儀久
(宮内)
奥州千葉一族。奥州伊具郡小平村を発祥地とする。
【参考文献:『岩手県史』】
奥州千葉一族。葛西氏の一族で、葛西重春の4男・清胤が陸奥国磐井郡東山小梨村を領して小梨を称した。その後は葛西氏の重臣として活躍したが、天正18(1590)年、葛西晴信は秀吉の小田原征伐の遅参を責められて、領地を没収されたために伊達氏の庇護下にはいった。
小梨清胤の子・吉常は政宗の配慮により小梨村に600石、気仙郡有住村に400石を給されたが、罪を得て改易された。しかし元和元(1615)年、嫡男・吉胤が召し出され、旧領を継いだ。
【参考文献:『岩手県史』】
―小梨氏略系図―
→葛西重春―小梨清胤―吉常―――吉胤――吉次――信之――――信方―信安―■■―信敦=信次―――――+
(大学助)(左馬丞)(蔵人)(蔵人)(甚五左衛門) (熊谷直之の弟)|
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
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+―信定=貫之――――――茂之―嘉之―右平太
(小島定昭の次男)