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トップページ | 目次 | 奥州千葉氏の流派 | 奥州千葉氏出自 | 奥州葛西氏 |
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奥州千葉氏系図一 | 奥州千葉氏系図二 | 奥州千葉氏系図三 | 奥州千葉氏家紋 |
奥州千葉一族。陸奥国栗原郡有壁邑(栗原郡金成町有馬字有壁)発祥か。
奈良坂氏の一族、奈良坂永信(兵庫)の娘が有壁胤明(安芸守)に嫁いでいる。その子・有壁胤方(摂津守)の名が見える。永信は天文21(1552)年に三十八歳の若さで病死している。
戦国末期、小岩信行の娘の一人は有壁胤道(尾張守)に嫁いだという。
【参考文献:『岩手県史』】
奥州千葉一族。安達郡荒井邑発祥と伝わる。家紋は「九曜」。
【参考文献:『岩手県史』】
奥州千葉一族。「いざるま」と読む。千葉政載(左衛門尉)は室町末期の名将・南部晴政に仕え、陸奥国蛇沼村に所領を与えられて「蛇沼」を称した。
政載の嫡男・政吉(左衛門佐)は若くして亡くなり、家督は次男の政辰(左衛門尉)が継ぎ、南部信直に仕える。その子・政俊(惣左衛門)は叔父・蛇沼弥次郎の娘を娶って家督をついで、子孫は南部盛岡藩士となる。
【参考文献:『岩手県史』】
-蛇沼氏略系図-
→千葉政載――+―政吉―――――娘
(想左衛門尉)|(左衛門佐) ∥――――政勝――――政愛
| ∥ (惣左衛門)(惣左衛門)
+―政辰―――――政俊
(想左衛門尉)(惣左衛門)
奥州千葉一族。毛利家に仕えた。
【参考文献:『山口県姓氏歴史人物大事典』】
奥州千葉一族。千葉頼胤の六男・定胤が陸中国磐井郡一関に住んで一関を称したという。
【参考文献:『岩手県史』】
奥州千葉一族。磐井郡岩沢村(本吉郡南三陸町入谷字岩沢)発祥か。
【参考文献:『岩手県史』】
奥州千葉一族。家伝では下総国猿島郡岩淵郷発祥とされるが、葛西庄に隣接する武蔵国岩淵郷(北区岩淵町)を発祥とすると推測される。秀郷流藤原氏の一族・下河辺庄司行平の子孫とされ、下河辺行経の子・定経(右兵衛尉)が岩淵郷に住して「岩淵」を称し、将軍・宗尊親王に近侍したとされる。
定経には嫡男がなく、文永7(1270)年7月、一人娘を葛西庄司・葛西清時の四男・清経を婿嗣子として岩淵氏を継がせたと伝えられている。ただし、葛西清経は葛西惣領家であり、岩淵氏の家督を継ぐことは考えられない。
しかし、建長4(1252)年4月、「伯耆左衛門四郎清時」なる人物が『吾妻鏡』に見える。この人物は「伯耆・左衛門」の四男であることを示していると思われ、葛西伯耆守清親の子・伯耆四郎左衛門尉光清の子か。もしこの清時の子に「清経」なる人物があったとすれば、岩淵氏の家督を継承したかも?
【参考文献:『岩手県史』】
―藤沢岩淵氏―
岩淵定経 (1224-1289) |
藤姓岩淵氏最後の当主。通称は下総五郎。右兵衛尉・近江守・検非違使。宗尊親王に仕える近侍。
妻は太田右衛門尉行長の娘。 文永7(1270)年7月、葛西清時の四男・清経を婿嗣子とした。 正応2(1289)年、66歳で没した。 小山行光―+―太田行広――――……――――行長―――――娘 |
岩淵清経 (1249-1306) |
平姓岩淵氏初代。岩淵定経の養子。通称は葛西左衛門三郎・岩淵五郎。従五位下淡路守・近江守。
実父は葛西清時(伯耆左衛門四郎?)。 文永7年(1270)年7月、21歳のとき岩淵定経の娘を娶り養子になる。 久明親王(式部卿)が正応2(1289)年10月に将軍として下向してくると、その近習となって千余町を賜る。 ⇒嘉元3(1305)年4月23日、北条駿河守宗方(28)が連署・北条時村(64)を暗殺する事件が起こった。翌月、宗方の謀叛が発覚し、大仏宗宣が兵を向けて斬殺した。この事件には清経も加担していたようで、所領を没収されて宗家・葛西清信(刑部大輔)にお預けとなった。同年9月、清信の奥州下向に従って磐井郡東山村藤沢に住んだ。翌年の徳治元(1306)年3月12日、藤沢において没した。58歳。 ●次男・藤三郎は12歳で早世。 ●三男・岩淵讃岐守正経は流庄涌津に分家。応安3(1370)年91歳で没。妻は葛西遠江守清信の養女。 ●四男・新九郎は14歳で早世。 ●長女・河島左近俊長の妻。 →旗紋は白地に七曜。帷幕紋は水車。 +―経清 |
岩淵経清 (1274-1344) |
岩淵氏2代。通称は弥五郎。従六位下宮内少輔。父は岩淵近江守清経。母は岩淵近江守定経の娘。 妻は流庄中村郷主・中村伊予守親実の娘。 康永3(1344)年11月24日、71歳で没した。 ●長女・葛西右京亮康信の妻。 ●次女・宮川主馬助俊隆の妻。 ●次男・豊嶋備中守信行は桃生郡大窪の豊嶋家を継ぐ。葛西一族の豊嶋氏か? ●三男・岩淵内膳正経勝は登米郡小島に住んだ。応永3(1396)年74歳で卒。
岩淵経清 +―経信――――幸経 |
岩淵経信 (1307-1375) |
岩淵氏3代。通称は弥五郎。近江守。父は岩淵宮内少輔経清。母は中村伊予守親実の娘。
祖父が奥州に下向した翌年に生まれている。 永和元(1375)年4月9日卒。69歳。 |
―涌津岩淵氏―
岩淵正経 (1280-1370) |
涌津岩淵氏初代。父は藤沢岩淵清経(近江守)。母は岩淵定経(右兵衛尉)の娘。通称は弥六郎。従六位下讃岐守。 妻は葛西遠江守清信(?)の養女。 父が北条宗方に連座して葛西氏に預けられ、奥州に下ると同行して藤沢に拠った。その後、正経は流庄涌津北館に住んだ。 応安3(1370)年に91歳で没。 ●長女・北畠顕家の側室となる。 →ただ、応安・永和という年号は北朝年号であるのに、南朝の北畠顕家に娘を嫁しているとはどういった事なのか?のちの世に書かれたからなのだろう。
岩淵定経―――娘 +―経清――――→【藤沢岩淵家】 |
岩淵家経 (1312-1378) |
岩淵氏2代。父は岩淵讃岐守正経。母は葛西遠江守清信の養女。通称は弥太郎。美濃守。 妻は馬籠佐藤信継の妹。 永和4(1378)年67歳で没した。 ●次男・家奥 ●三男・正家 ●四男・経道 |
岩淵経直 (1340-1426) |
岩淵氏3代。父は岩淵美濃守家経。通称は弥六郎。但馬守。 妻は金沢出雲守清胤の女。 応永33(1426)年卒。87歳。 ●長女・後藤刑部政道(大崎家中の有壁城主)の妻。
岩淵経直 +――――――経朝 +――――――泰経 +――――――真経 +―経定 |
岩淵経朝 (1367-1444) |
岩淵氏4代。父は岩淵弥六郎経直。通称は弥兵衛。山城守・駿河守・左近。妻は矢作助五郎胤茂の女。 文安元(1444)年卒。78歳。 ●次男・岩淵新二郎経親は肥前を称し、岩淵長門経興(東城下紫城主)の養子。文明2(1470)年、65歳で没した。 |
岩淵泰経 (1390-1474) |
岩淵氏5代。父は岩淵弥兵衛経朝。通称は右近・相模。妻は中村尾張守信兼(流庄中村城主)の女。 文明6(1474)年、85歳で没した。 ●次男・千葉藤三郎高胤は大和守を称し、千葉正胤(流庄揚生城主)の養子になった。永承元(1504)年没した。81歳。 |
岩淵真経 (1430-1512) |
岩淵氏6代。父は岩淵右近泰経。通称は弥太郎。対馬。妻は浅沼丹後兼時(桃生郡横川城主)の女。 永承9(1512)年卒。93歳。 ●長女・中村淡路信清(流庄中村城主)の妻。 ●次女・千葉山城重胤(流庄揚生城主)の妻。 ●三女・菅原薩摩長道(有壁城主)の妻 ●次男・善三郎経村は伊勢を称した。亨禄4(1531)年、71歳で没した。 |
岩淵経定 (1458-1527) |
岩淵氏7代。父は岩淵対馬真経。通称は四郎兵衛。三河・民部。妻は岩淵周防経郷(東城下紫城主)の娘。 大永7(1527)年卒。70歳。 ●長男・善太郎経澄は、永承2(1505)年に22歳で早世した。
岩淵経定 +―経澄 +―経光 +―娘 |
岩淵経文 (1496-1565) |
岩淵氏8代。父は岩淵四郎兵衛経定。通称は善二郎。伊勢・美作。妻は千葉左馬助忠胤(下油田城主)の娘。 永禄8(1565)年卒。70歳。 ●長女・岩淵対馬経道(東城下紫城主)の妻。 ●次女・菅原主水長村(栗原末野城主)の妻。 ●三女・千葉対馬康胤(石越門崎城主)の妻。 |
岩淵経房 (1540-1589) |
岩淵氏9代。父は岩淵善二郎経文。通称は善三郎。駿河。妻は永井讃岐信敏の娘。 天正17(1589)年卒。50歳。●長男・経光は元和8(1621)年に8歳で早世。 ●三男・刑部経顕は天正18(1590)年の秀吉奥州平定によって没落。磐井郡栗原郷福原村に移住。 ●四男・左門経唯は岩淵下野経方の養子になり、登米郡に住む。 |
岩淵経義 (1563-1633) |
岩淵氏10代。父は岩淵善三郎経房。通称は久二郎。豊前・周防。天正18(1590)年の奥州仕置のあと熊野倉館に移住。 妻は黒沢信久の娘。 寛永10(1633)年卒。71歳。●長女・留守上野介政景の妻。 ●長男・伊勢経重 ●次男・喜兵衛重頼 |
奥州千葉一族。千葉介成胤の子・康胤が伊沢岩谷堂(奥州市江刺区岩谷堂)に館を構えて岩谷堂を称するという。
【参考文献:『岩手県史』】
-岩谷堂氏略系図-
→千葉介成胤-岩谷堂康胤
奥州千葉一族。「うすぎぬ」と読む。千葉泰胤の養子・三谷胤広の子・胤勝(民部少輔)の子・胤氏(甲斐守)が、が陸奥国国磐井郡薄衣邑(岩手県一関市川崎町薄衣)を領して薄衣を称したという。そして、泰胤の二男・胤堅が同地に入って「薄衣」を称したと伝わるが、胤堅の実在は不明。
その後の系図が二種類現存するが、違う名前でも官職名が同じということから、同一人物を別名で記載していることになる。系譜のうち千葉一族から続く「常」や「胤」の字を名前に記すものは、葛西家からの養子に反発した一族が書いたもの、もう一方は葛西家から薄衣家の養子に入った松川信胤の子孫が書き上げたものとされ、葛西家の通字「清」の字を名前に入れている。
「薄衣系図(1)」の清益は永享11(1439)年、大崎城に戦って戦死したという。その子は薄衣信胤(和泉守)というが、彼の通称は五郎。上記の松川信胤と同一人物と思われる。しかし、別の系図には、松川信胤は薄衣清胤(内匠頭)とも伝わっているが、信胤の孫は「輝胤」という点では一致している。ただ輝胤の父は胤長(左馬助)とも胤光(右馬助)とも伝わっているが、官途名が似通っているところから同一人物だろう。系図を書き移していくうちに誤謬が発生したと考えられる。
永享12(1440)年2月19日、源某が「薄衣甲斐守」に宛てて陸奥国三迫内小嶋郷、五十ヶ澤郷、■五日市庭の知行を宛がった『源某知行宛行状』(『米倉文書』)が伝わっている。
薄衣清棟(右衛門佐)の娘は太守・葛西満信(陸奥守)の側室となり、葛西政信を産んだとされる。ただ、様々な本に登場する「薄衣甲斐守」は、例えば『葛西真記録』では「薄衣甲斐守胤衡(薄衣城主)」、『奥州葛西記』では「薄衣甲斐守胤勝(薄衣城主)」、『風土記御用書』では「薄衣甲斐守胤次」とあって書々一致しない。
【参考文献:『岩手県史』】
―薄衣氏歴代―
薄衣胤堅 (1225-1283) |
薄衣氏初代。父は千葉若狭守泰胤。母は江戸左衛門尉忠重(忠俊)女。幼名は亀代丸。 通称は弥四郎。従五位下伊勢守。「胤純」とも。 妻は伊東藤左衛門尉祐兼の女(月桂院殿嵯光黛大禅尼)。弘安10(1287)年7月15日卒。 嘉禄元(1225)年9月1日、越前国大野郡島田城に生まれる。成長して文武両道を兼ね備えた武士となる。 建長4(1252)年2月、幕府の命により上洛。 3月19日、宗尊親王に供奉して鎌倉に下向した。 4月1日、鎌倉到着。 4月14日、宗尊親王の鶴岡八幡宮参詣に供奉。 8月14日、奥州の抑えとして奥州栗原郡に下向。磐井郡薄衣庄に住む。 建長5(1253)年3月、葛丸城を築く。 弘長元(1261)年2月14日、奥州の一方の奉行人になる。 弘安6(1283)年5月23日卒。59歳。総泉院殿東岳邦光大禅定門。 |
薄衣宗堅 (1246-1307) |
薄衣氏2代。父は胤堅。母は伊東藤左衛門尉祐兼の女。通称は弥次郎。従六位上丹後守。「宗純」とも。 妻は小山左衛門尉宗弘の女。 徳治2(1307)年卒。62歳。 |
薄衣清堅 (1270-1325) |
薄衣氏3代。父は葛西兵庫助清見。母は千葉泰胤の女。宗堅の養子となり、薄衣氏の家督を継いだ。 通称は平二郎。従六位上上総介。「清純」とも。 妻は川越八郎左衛門尉重利の女。 正中2(1325)年卒。56歳。『松川系図』によれば52歳。 |
●薄衣氏略系図●
→薄衣胤長―清益―信胤――――――胤長―――輝胤―――――――貞胤
(平三郎) (和泉守・五郎)(左馬助)(甲斐守・大膳亮)(甲斐守)
奥州千葉氏の中でも屈指の大族で葛西氏の庶流。家伝では「千葉頼胤」と称する人物が陸奥国江刺郡(岩手県江刺市)に下向して江刺を名乗ったという。
気仙沼熊谷氏の出身である名僧・月泉禅師の弟子四十四人中八番目の「清秀居士」は俗名を「葛西壱岐守平清泰 江刺之祖也」とされる。
室町時代中期、江刺持重(播磨守)が見えるが、彼は葛西家当主の「葛西播磨守持重」と同一人物と思われ、江刺葛西氏から葛西氏惣領が輩出された可能性を物語っている。
―江刺氏略系図―
→葛西清重―+―清親―――清経―――宗清
(隠岐守) |(伯耆守)(伯耆守)(三郎左衛門尉)
|
+―朝清―――清宗―――清貞―――+―良清―――満良――――満隆―――持重
|(伊豆守)(伊豆守)(伊豆三郎)|(備前守)(三郎兵衛)(備前守)(播磨守)
| |
| +―娘
| ∥
| 江刺重頼――高嗣――――重治―――重光―…―隆見
| (右京亮) (美濃守) (美濃守)
| ∥
| 大原信広―娘
|
+―時重――――――重泰――末永清泰――――宗重――――――頼清―――清恒―――清文―――清香――+
(七郎左衛門尉) (三郎左衛門尉)(三郎左衛門尉)(美濃守)(安芸守)(壱岐守)(美濃守)|
|
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
|
+―清正―――清春――――――宗春――――――清晴―――宗春―――清継――――定重――定親
(安芸守)(八郎左衛門尉)(八郎左衛門尉)(伯耆守)(能登守)(五郎三郎)(美濃)(筑後)
【参考文献:『岩手県史』】
奥州千葉一族。「おいのかわら」とよむ。亀卦川氏の分流で、亀卦川政明の三男・信明が応安2(1369)年、陸奥国登米郡狼河原(宮城県登米市東和町米川)の館主に任命されて狼河原を称した。その後、代々葛西氏に仕えた。
【参考文献:『岩手県史』】
奥州千葉一族。金沢清胤(出雲守)の子で、気仙郡浜田城主・熊谷直次(備前守)の養嗣子・常直(武蔵守)の子・重春(大蔵)を祖とする。
【参考文献:『岩手県史』】
奥州千葉一族。寺崎千葉氏の庶流。もともと寺崎氏は葛西氏とともに下総国葛西庄から下向してきたとされ、寺崎清邑の次男・清義(次郎左衛門)が桃生郡に住んだとされる。その子孫・寺崎清運(宮内少輔)は、本吉郡新舘城主・千葉重高(武蔵守)の弟で、寺崎清基(兵庫頭)の養子として家督を継承したとされる。
清運(清連とも)の次男・明清(左近将監)は「千葉彦三郎」とも称され、磐井郡流庄楊生村に城を築いて「楊生殿(やうどの)」と呼ばれた。その子・清泰(阿波守。千葉五郎左衛門:五郎右衛門)は楊生城主として、子・泰常(但馬守)とともに葛西晴信の重臣として活躍するが、天正19(1581)年の秀吉による奥州御仕置で葛西氏は改易となり、秀吉の家臣・木村吉清(もと明智光秀の臣)に大崎氏・葛西氏の旧領が与えられた。
木村吉清はもともと小身で家臣も少なく、さらに代官の押妨や重税によって領民たちの不満が高まり、ついに大崎氏・葛西氏の旧臣たちが挙兵した。これを「大崎葛西一揆」という。寺崎清泰・泰常父子もこれに加わって木村吉清を追いつめるが、会津領主・蒲生氏郷の軍勢によって鎮圧され、清泰・泰常は捕らえられて天正19(1581)年8月14日、深谷で処刑された。泰常55歳だったという。
泰常の子・常範(阿波)は逃れ、寛永18(1641)年72歳で亡くなる。子孫の大槻茂蓄(大槻玄梁)は一関藩医、その子・大槻茂質(大槻玄沢)は蘭医・蘭学者として著名で、杉田玄白・前野良沢に医学を学び、長崎にも留学した。のち江戸に蘭学校「芝蘭堂」を創設し、オランダ式医学の教育に勤めた。著書に『蘭学階梯』『重訂解体新書』がある。
【参考文献:『岩手県史』】
―大槻氏略系図―
→寺崎清運――明清――――清泰―――泰常―――常範――――+―茂治―――茂慶――――茂種――娘 +―娘(大槻清慶妻)
(宮内少輔)(左近将監)(阿波守)(但馬守)(五郎右衛門)|(権七郎)(久右衛門)(太兵衛)∥ |
| ∥―+―茂蓄――茂質―+―茂禎
| ∥ (玄梁)(玄沢)|(磐里)
| 茂性 |
| (喜三郎) +―茂宗
| (磐渓)
+―茂貞―茂寿===清慶――――清雄―――+―清臣
(伝九郎)(安左衛門)(専左衛門)|(丈作)
|
+―清準
(平泉)
奥州千葉一族。奥州葛西家の筆頭重臣。千葉介胤正の子・胤親が陸奥国磐井郡大原村(一関市大東町大原)を領して大原を称したという。
ただし、千葉介胤正の子には胤親という人物は文献上にはない。しかし、胤正の娘の一人が、上総一族の相馬常清の子・貞常に嫁ぎ、彼の子が「常親」と名乗り、上総氏の滅亡後は上総氏に伝わる「常」字を千葉氏系の「胤」と変えて「胤親」と名乗っていることから、祖父の千葉介胤正、もしくは叔父の成胤の養子となったとも考えられる。この胤親は嘉応元(1169)年生まれと伝わっているが、この時千葉介胤正は33歳。祖父としては若すぎるが、胤正の嫡子・成胤はこのとき15歳であり、不思議ではない。
胤親の子・胤次(三河守)は寛喜2(1230)年に深谷へ移住し、胤親はその翌年に没した。胤親の二男・基親は上総国長岡郷を領していたが、その子・胤常(八郎・飛騨守)は、葛西清時の養子になった清信(千葉介頼胤の子)に随って奥州へ下向、建治2(1276)年、磐井郡大原村に千貫を給され、山吹館をたてて住んで「大原」を称したという。胤常は永仁元(1293)年8月19日、70歳で亡くなった。
また、大原氏について別説では、千葉頼胤(飛騨守)の子・宗胤(飛騨守)が東山大原村山吹城に住んで大原を称したという。ただし、これは「千葉介頼胤―新介宗胤」父子と混同されているのかもしれない。伝承によれば、千葉頼胤は寛喜2(1230)年8月、将軍・頼嗣から「奥州探題」に任じられて奥州箱崎に下向したというが、これも奥州探題という職名がこのころ存在しないことなど、記述の信憑性に疑問がある。ただ、「東山大原村山吹」に移住したことは記述で一致しており、大原氏は大原村を発祥とすることはおそらく間違いないか。
ただ、それぞれの初代とされる「胤次」「頼胤」の官途名はそれぞれ「飛騨守」「三河守」とことなり、胤次の系統で「飛騨守」の初見は、胤次の子・「胤常」である。また「系図1」に見るように、「山吹城」や「大原村」という言葉から、胤常と宗胤は同一人物か。さらに「胤信」と「重胤」も世代的・官途名で一致しており、同一人物か。
【参考文献:『岩手県史』】
◎系図1◎
1.千葉胤親――胤次========基親――――大原胤常―――胤義――――胤信――――胤高――――胤明 |
2. 千葉頼胤――――――――――――――大原宗胤―――信胤====信親――――重胤――――重康 |
3.星 重胤――――――大原重光――重胤―――――重康――――――重信――――信久―――――重胤 |
胤常の子・胤義(八郎)は父・胤常が生きている間に館を出て、新たに奥玉郡橘城を築いた。そして胤常が亡くなると、胤義は42歳で大原家の家督を継ぎ、徳治3(1308)年に59歳で没した。その子の胤信(刑部)は鎌倉末期に葛西家老職となったが、鎌倉時代末期の元徳2(1330)年に60歳で没した。
その後を継いだ嫡男・胤高については詳細が不明だが、文和4(1355)年に57歳で没したという。この南北朝時代の中期には、葛西氏は北朝に属しているおり、胤高もこれに従ったと思われるが、大原一族・大原宗信(備中守)は、南朝方の北畠顕家に従って建武2(1335)年10月5日に和泉国で戦死している。宗信の系譜上の位置は不明。
大原氏は室町時代から戦国時代にかけて葛西氏の重臣として活躍。戦国末期、太守・葛西晴胤の子・信茂が大原家を継いだが、その嫡男・茂光は豊臣秀吉の奥州仕置の直前に没し、茂光の弟・重胤(飛騨守)が葛西軍の大将として出陣し、兄弟の定胤・国胤・頼胤・忠胤や一族の光胤・清胤・晴胤・致胤は豊臣軍と戦って全員戦死した。さらに大原茂光の嫡男・大原重光(15歳)も豊臣勢の大軍に突撃して華々しく戦死したと伝えられている。
【参考文献:『岩手県史』】
◎系図2◎
1.大原宗胤-信胤===大原信親―――――――――親久―――重胤――――――――――――――政胤 |
2.星 重胤――――――大原重光――重胤―――――重康――――――重信――――信久―――――重胤 |
色別に分けてみると「親久=信久」であり、「重胤(飛騨守)=重胤(飛騨守)」ということになるか。ただ、世代の相違が見られる。
(1)式部大夫―飛騨守―飛騨守
(2)式部大夫―刑部――飛騨守――式部大夫――飛騨守――飛騨守
(1)系図の重信(式部大夫)と、(1)系図の信親(式部大夫)が、官職名の「式部大夫」で交錯してしまったものか。官職名だけで見れば、「式部大夫-飛騨守-飛騨守」と、(1)(2)の系図が一致する。重胤(飛騨守)が「熊田・金田・清水」の領主となったことも(1)(2)で一致している。ただし、「●正和2年室根新宮祭」の事歴については、(1)(2)で行った人物が異なる。
―東山大原氏歴代―
千葉胤親 (1167-1231) |
角田貞常の子?母は千葉介胤正の娘。初名は常親。のち、千葉六郎を称する。右兵衛尉。
妻は国分五郎左衛門尉胤通の娘。 桃生郡深谷城に住む。 寛喜3(1231)年12月27日卒。63歳。 |
千葉基親 (1199-1256) |
千葉胤親の次男。通称は八郎・大隅。千葉郡長岡邑に住んでいた。兄・胤次が桃生郡深谷城に下向した。
妻は境左兵衛尉常秀の娘。常秀は千葉介胤正の次男である。 康元元(1256)年7月21日卒。56歳。 |
千葉胤常 (1222-1293) |
千葉基親の子。通称は八郎・飛騨守。「飛騨守宗胤」と同一人物か。
妻は千葉兵庫助常茂の女。 建治2(1276)年、千葉介頼胤の子・胤信(葛西家養子)の供として奥州に下向。磐井郡大原村山吹館に住んで大原を称す。 永仁元(1293)年8月19日卒。70歳。 |
千葉胤義 (1248-1308) |
胤常の子。通称は八郎・出羽。
妻は垣生中務資国の女。 永仁2(1294)年、奥玉郡橘城に移住する。 延慶元(1308)年8月29日卒。59歳。 |
千葉信胤 | 「宗胤」の子。「宗胤=胤常」とすれば胤常の子。つまり先代胤義とは兄弟(同一人物?)になる。通称は肥前守。
後の「肥前守政胤」が「正安2(1300)年葛西代官京都上洛」とあるが、「肥前守」という官職名から信胤の事歴と政胤の事歴を混同したかも。 |
大原信親 | 大原氏3代。星重胤の子で、初名を重光といった。通称は式部大夫。大原信胤の養嗣子となって家督を継ぐ。 |
大原重胤 (1269-1330) |
大原氏4代。信親の子で、通称は刑部。「胤信」と同一人物か。 妻は葛西信茂の女。別説では高梨兵部政人の女。 「重胤=胤信」とすれば、元徳2(1330)年12月26日卒。60歳。 |
大原重康 | 大原氏5代。重胤の子で、母は葛西信茂の女。通称は飛騨守。 |
大原重信 | 大原氏6代。重康の子で、通称は式部大夫。 正和2(1313)年9月19日、室根新宮を勧請する。 室根新宮権現については「花園天皇御宇、正和二年九月十九日建立、当奥州之守護、葛西刑部大輔清信之勧請御座候」とある。 |
大原信久 | 大原氏7代。重信の子で、通称は飛騨守。 |
大原重胤 | 大原氏8代。信久の子で、通称は飛騨守。熊田・金田・清水馬場城主になったという。 重胤の子には肥前守政胤がいるが、彼の事歴としてあげられる「正安2(1300)年葛西代官京都上洛」は、時代的な矛盾が大きく、事実とは思われない。彼には実は跡継ぎがなく、一端大原氏嫡流は途絶えたのかもしれない。そして、庶流である大原肥前守胤明の子孫が家督を継いだため、後の世になって、重胤と肥前守家をくっつけるために、祖である肥前守政胤(胤明)を重胤のあとに書き入れたのかもしれない。 |
大原政胤 (1314-1390) |
系図上大原氏9代。8代重胤の子で、通称は肥前守・小次郎。系図には「正安2(1300)年葛西代官京都上洛」。 「千葉肥前守」は「正安2(1300)年葛西代官京都上洛」とあるが、政胤を大原8代重胤の子とする限り時代的に約百年以上矛盾が出る。時代的にもっとも合うのは「千葉肥前守信胤」であり、「肥前守」同士で系図が錯綜したか。 また、政胤は時代的・官職名からみて、他系図に見る「肥前守胤明」と同一人物かも。胤明は明徳4(1390)年9月25日、75歳で卒している。左の生没年は胤明のもの。胤明の父は「伊予守胤高」といい、文和4(1355)年1月27日に57歳で卒した。 ●次男・大原駿河広時。式部とも。下折壁邑に居る。応永19(1412)年2月18日卒。 ●三男・千葉八郎四郎広正。奥玉千葉養子になる。応安6(1373)年2月23日卒。27歳。 ●四男・大原六郎広慶がいる。永和3(1377)年出家。 |
大原胤広 (1342-1406) |
大原氏10代。胤明(=政胤か)の子で、通称は藤次郎・刑部。妻は臼井式部常久の娘。 応永13(1406)年5月12日卒。63歳。 ●長女は下折壁遠江守時康の妻。時康が誰かはわからないが、彼女の叔父・大原広時が下折壁邑にすんでおり、彼の子かも。 ●次女は薄衣志摩守清仲の妻。「清仲」→応永27(1420)年卒。70歳。 |
大原広行 (1362-1389) |
大原氏11代。胤広の子。通称は小次郎。
妻は葛西伯耆守詮清の女。 康応元(1389)年4月9日父に先立って卒す。26歳。 |
大原広光 (1375-1459) |
大原氏12代。広行の子とある。通称は小次郎・因幡守・中務。
先代の広行との年の差はわずか13年であり、広行と広光の関係は兄弟?
妻は奥玉千葉左近胤元の女。 彼の頃から大原氏の権勢は他に並ぶもののないほど強大になった。 長禄3(1459)年6月13日卒。73歳。 ●次男・藤次郎行綱は葛西一族の小嶋新左衛門行光の養子になり、小嶋三河を称した。文明10(1478)年2月7日卒。67歳。 ●三男・藤三郎広常は葛西持信の側近。東山長坂氏を継いで長坂修理を称した。延徳元(1489)年3月21日卒。71歳。 ●長女は及川豊前守重村(東山鳥海邑主)の妻。 ●次女は下折壁左馬助茂時(下折壁邑主)の妻。 ●三女は岩淵民部経時(東山曾慶邑主)の妻。 ●四女は千葉大膳長継(気仙郡浜田邑主)の妻。 |
大原広忠 (1409-1482) |
大原氏13代。広光の子。通称は肥前・小太郎。 妻は下折壁遠江守時康の女。伯母が下折壁時康に嫁いでおり、広忠と時康の娘は従兄妹同士になる。 文明6(1474)年3月、気仙沼城主・熊谷丹波守直氏が東山に逃れ、広忠を頼った。『熊谷家譜』によれば、「直氏、直行第四男。亨徳二年生。熊谷清九郎、丹波守。母気仙沼熊谷右馬助直賢女。文明六年春、与父直行不和、及楯鉾、為浪士出奔、同年三月赴磐井郡、同郡東方旗頭大原郷主千葉肥前守平広忠為幕下、賜采地五十余町、居于大原郷内野里。永正九年二月二十二日不禄、年六十、法名西慶」とある。つまり、熊谷直氏は父・直行と不和になって合戦におよび、敗れた直氏が大原氏を頼った、ということになる。 文明14(1482)年5月15日卒。72歳。 ●長女・中村淡路守信清(磐井郡中村邑主)の妻。 ●次女・下折壁左馬助茂時(下折壁邑主)の妻。 ●次男・長部監物忠行(平次郎)で長部清行の養子となる。永正3(1506)年9月11日卒。71歳。黒石畳采地三百町。 |
大原信広 (1429-1504) |
大原氏14代。通称は二郎・飛騨守。妻は薄衣内匠頭清房の娘、のち濁沼淡路守胤村の娘。 文明7(1475)年3月、気仙矢作氏と気仙郡横田村において合戦におよぶ。この戦いで、次男・信綱が16歳で戦死。大原氏は気仙郡の矢作氏とどうして戦ったのか。前年の熊谷直氏の一件が絡んでいるのかもしれない。直氏は父・直行と戦って敗れており、大原氏は直氏を後援して気仙郡の熊谷直行を攻めたのだろう。直行も代々同盟を結んでいる気仙矢作千葉氏に援軍を頼み、合戦になったものと思われる。 永正元(1504)年6月17日卒。74歳。慶雲院殿前騨州天寧真公大居士。 ●長女・柏原日向守清原元長(百岡城主)の妻。 ●次女・江刺美濃守隆見(岩谷堂城主)の妻。 ●三女・富沢右衛門重氏(磐井郡富沢邑主)の妻。 ●次男・大原信綱(母は濁沼淡路守胤村の娘)は文明7(1475)年3月20日、気仙郡横田村において戦死。16歳。 ●四女・金右京安倍時景(千厩邑主)の妻。 ●五女・長部肥後守忠晴の妻。 ●三男・大原九郎信規は文明12(1480)年に早世する。 |
大原信明 (1458-1530) |
大原氏15代。信広の子。通称は小次郎・刑部。妻は長部監物忠行の女。忠行は信明の叔父であり、妻とは従兄妹同士になる。 永正17(1530)年1月22日卒。71歳。法昌院殿雲峯瑞室大居士。 ●長女・吉田大蔵重次(登米郡吉田邑主)の妻。 ●次女・下折壁及三郎茂正(下折壁邑主)の妻。 ●三女・葛西二郎信久の妻。 ●長男・大原四郎明広は12歳にて早世する。 ●次男・大原飛騨守信胤が家督を継ぐ。 ●三男・和野三河守信俊(南小梨和野館主)は元亀3(1572)年卒。79歳。 |
大原信胤 (1486-1561) |
大原氏16代。信明の次男。通称は七郎・飛騨守・弾正忠。妻は熊谷右馬助直氏の娘。しかし19歳で早世する。 永禄4(1561)年11月9日卒。74歳。 ●長女・熊谷弾正胤重(高田西館主)の妻。 |
大原信光 (????-1574) |
大原氏17代。信胤の子。通称は飛騨守・播磨守。妻は岩淵兵部重友の女。 天正2(1574)年7月4日卒。 ●「大原飛騨守御一門以下面々衆」 ・大原飛騨守信光 ・及川美濃守(天狗田室石館主) ・篠崎三河守信直(南小梨篠崎城主)→慶長19(1614)年卒。75歳。 ・亀卦川下総守(大原新山館主) ・及川掃部助義照(中川花崎城主) ・及川美濃守頼家(鳥海城主)→永禄2(1559)年、謀叛して滅亡。 ・千葉隼人正(小島城主) ・岩淵兵庫頭元秀(曾慶城主) |
馬籠千葉一族。陸奥国気仙郡長部郷(岩手県陸前高田市上長部)が発祥地。
矢作鶴崎城主・馬籠重慶(因幡守)の次男・慶宗(安房守)が気仙郡長部郷を領して長部を称した。慶宗は兄・浜田胤慶(大膳亮)と仲が悪く、応永20(1403)年6月、慶宗は胤慶(大膳亮)の居城である高田城(岩手県陸前高田市高田)を攻めて、胤慶は支えきれずに自刃している。63歳だった。
しかし、浜田胤慶の子である胤長(宮内少輔)・宗胤(又三郎)は城を逃れ、同年9月、逆に胤慶の居城である長部城を攻めて胤慶を討ち取り、父の仇をとった。
もともと慶宗には宗綱(余三郎)という嫡男があったが、彼は15歳の若さで亡くなっており、宗胤(安房守)が長部氏の家督を継いでいる。宗胤は永享11(1439)年に61歳で亡くなっている。
宗胤の曾孫にあたる長部宗清(彦五郎・右馬助)は気仙郡田茂山城の佐々木泰綱(信濃守)の四女を娶っている。この佐々木家は近江の六角佐々木氏の流れをくむ名族。
●長部氏略系図
→馬籠重胤―+―浜田胤慶―+―胤長 田茂山泰綱―――娘
(因幡守) |(大膳亮) |(宮内少輔) (信濃守) ∥――――+―宗重―――宗久
| | ∥ |(彦五郎)(右馬助)
| +―長部宗胤 +―胤平 +―宗経 | ∥
| (安房守) |(彦三郎) |(豊前守) +―宗広 ∥
| | | (次郎) ∥
+―長部慶宗―+=宗胤――――+―宗房―――+―実房 ∥
(安房守) |(安房守) |(越中守) (文次郎) 熊谷直胤――娘
| | (上総介)
+―宗綱 +―宗興
|(余三郎) |(刑部少輔)
| |
+―娘 +―娘
∥ ∥
江刺信見 村上定弘
(近江守) (但馬守)
【参考文献:『岩手県史』】
奥州千葉一族。陸奥国紫波郡乙部邑(岩手県盛岡市乙部)が発祥地。
【参考文献:『岩手県史』】
長坂千葉氏の一族と伝わる。陸奥国西磐井郡鬼死骸邑(岩手県一関市真柴)を発祥とする。「おにあらわい」と読む。
鬼死骸千葉氏は天正3(1575)年3月まで西磐井鬼死骸白岩にいた。天正7(1579)年春、磐井郡流庄の惣領・寺崎石見守良次(峠城主)と富沢日向守直綱(三迫岩ヶ崎城主)とのあいだに抗争が起こったが、この戦いで三迫片馬合吉目木城主・千葉胤成(出羽守)と弟・胤広(掃部助)、彼らの伯父・胤基(備中守)が出陣して戦功をあげた。
胤成は天文10(1541)年、西磐井鬼死骸白岩城主・千葉胤朝(出羽守)の嫡男として生まれ、通称は平太郎。母は菅原隆長(大膳)の娘。妻は千田国胤(弾正)の娘。天正3(1575)年3月、葛西晴信(左京大夫)の命を受け、父の胤朝とともに栗原郡吾勝郷片馬合邑の上吉目木(宮城県栗原郡金成町字上吉目木)に移った。
その弟・胤広(掃部助)は天文14(1545)年に生まれ、通称は平次郎。末弟の胤親(舎人)は通称を平三郎といい、天文22(1553)年生まれ。ともに父や兄とともに活躍をしている。
天正9(1581)年7月12日、長部忠俊(東山長部城主)と黒沢信有(豊前守・葛西氏の家老)が合戦になったが、胤成はかつて領していた鬼死骸白岩と黒沢領は近隣であり、そのよしみで信有をたすけて活躍した。
しかし、天正18(1590)年、小田原北条氏を攻め滅ぼした豊臣秀吉は、蒲生氏郷・木村吉清らを、小田原の役に不参であった奥州の大崎氏・葛西氏の所領に派遣し、大崎・葛西氏の所領を没収した。これに対し、大崎氏・葛西氏の旧臣たちが反発して蒲生・木村両軍と桃生郡、栗原郡などで交戦しているが、いずれも鎮圧されて木村吉清によってその旧領は支配されることとなった。しかし木村家の領内経営は家臣たちによる狼藉などもあって民衆の評判はすこぶる悪く、ついに大崎・葛西家の旧臣たちが一揆を結成して木村吉清を居城である登米城(登米市登米町寺池)から追い出した。
城を追われて佐沼城(登米市迫町佐沼)に逃れた木村吉清は、隣国の蒲生氏郷・伊達政宗に救援を求めて、政宗の軍勢が佐沼城を包囲する一揆勢を蹴散らして吉清を無事救出している。しかし、政宗の家臣・須田伯耆が「政宗は一揆と通じている」と蒲生氏郷に讒言したことから、氏郷は単独で名生城(宮城県古川市)を攻め落として籠城し、秀吉に対して政宗は謀反人であるという旨の書状を送った。そのために政宗は上洛を命じられて喚問を受けることになったが、見事に申し開きをしたためお構いなしとされ、天正19(1591)年の春、改易された木村吉清の旧領、つまり大崎・葛西氏領の領主として赴任することとなる。
天正19(1591)年5月27日、政宗はまだ旧大崎・葛西領内でくすぶっていた一揆を徹底鎮圧する陣触れを発し、二万を超える軍勢を率いて一揆勢の籠る宮崎城を攻め落とし、5月28日、一揆の牙城・佐沼城を包囲した。大将は葛西家一門・金沢信胤(伊豆守)と弟の峠信重(石見守)。佐沼城は葛西勢が豊臣勢を迎えた最後の砦であり、堅牢でもって知られており、さすがの伊達勢も攻めあぐねたが、7月3日、ついに城壁は破られ、城内にいた武士はもちろん、女性や子供、馬や牛の類まですべて斬殺された。このことは、伊達成実の記録『成実記』にも詳細に記載されている「撫で斬り」といわれる無差別な皆殺しであった。
こののち一揆勢は政宗の降伏勧告に従い降伏。8月14日、政宗は千葉胤成、胤広、胤親、胤綱、金沢信胤、信重ら一揆の首領たちを桃生郡深谷の糠塚山に招くが、すでに廻りを伊達勢に囲まれており、彼らが騙されたと気づいた時にはすでに遅く、胤成、信胤、信重ら数十名の首領が討ち果たされた。その中で、胤成の弟・胤広と胤親は戦場から落ちのび、胤広は慶長16(1610)年、62歳で亡くなり、胤親は元和5(1619)年に67歳で亡くなっている。
胤成の養嗣子・胤綱(備中)は天正元(1573)年正月14日の誕生といわれ、実父は葛西晴信(左京大夫)とされる。彼も8月14日の糠塚山の難に遭遇しているが、落ち延びて10月19日、西磐井郡市野邑上沖合に潜み、正保元(1644)年7月10日、72歳で亡くなったと伝えられている。法名は徳光院殿金霊光胤居士。
胤綱の嫡男・胤重(彦五郎)は文禄4(1595)年正月9日に生まれた。母は千葉胤成の娘。長じて平内と号した。
●鬼死骸千葉氏略系図
⇒長坂胤盛―+―胤基
(大蔵大輔)|(備中守)
| 【↓葛西晴信末子とも。鶴若丸】
+―胤朝―+―胤成―――――――+=胤綱―――胤重
(主水)|(平太郎・式部大輔)|(備中守)(彦五郎)
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+―胤広 +―娘
|(平治郎・掃部介) (沼倉佐渡家直妻)
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+―胤親
(平三郎・舎人)