葛西十郎(????-1208)
豊島三郎清元の十男か。通称は十郎。実名については清宣とも。
文治5(1189)年7月19日、奥州藤原泰衡との戦いに父の豊島清元、兄の葛西清重とともに「葛西十郎」が見える。
建久元(1190)年11月7日の頼朝上洛の供奉四十三番に「葛西十郎」の名が見える。
派遣された人々 | 父 |
左馬権助(北条政範) | 北条時政 |
結城七郎(結城朝広) | 結城朝光 |
千葉平次兵衛尉(千葉常秀) | 千葉介胤正 |
畠山六郎(畠山重保) | 畠山重忠 |
筑後六郎(八田知尚) | 八田知家 |
和田三郎(和田朝盛) | 和田義盛 |
土肥先二郎(土肥惟光) | 土肥実平 |
葛西十郎(葛西清宣) | 葛西清重 |
佐原太郎(佐原景連) | 佐原義連 |
多々良四郎(多々良明宗) | 多々良義春 |
長井太郎 | 不明 |
宇佐美三郎(宇佐美祐員) | 宇佐美祐茂 |
佐々木小三郎(佐々木盛季) | 佐々木盛綱 |
南條平次 | 不明 |
安西四郎 | 不明 |
元久元(1204)年10月14日、将軍家御台所として坊門前大納言信清息女が鎌倉へ下向するに及び、お迎えのために十五名の有力御家人の子弟が派遣された。その一人に「葛西十郎」が選ばれている。このお迎えの上洛でおこった偶然がきっかけとなり、鎌倉を揺るがす大事件が発生することになる。
北条時政の六男・左馬権助政範をはじめとして、結城七郎朝広・千葉平次兵衛尉常秀・畠山六郎重保・筑後六郎知尚・和田三郎朝盛・土肥先次郎惟光・葛西十郎清宣・佐原太郎景連・多々良四郎明宗・長井太郎・宇佐美三郎・佐々木小三郎・南條平次・安西四郎らはいずれも実朝好みの若武者で側近と思われる。
使者一向は11月3日に京都へ到着したが、時政六男・政範は上洛途中で病気に罹り、11月5日に十六歳の若さで京都に没して東山に葬られている。11月13日、鎌倉に政範卒去の報が鎌倉にもたらされ、時政と生母の牧ノ方(時政後室)は悲嘆に暮れたという。
政範卒去の前日の4日、六角東洞院にある平賀右衛門権佐朝雅(京都守護)の邸で、政範一行の上洛祝いの酒宴が行われた。幕府正使の接待も守護の役目であったことがわかる。
ところが、この宴席で畠山重保と朝雅が喧嘩になった。朋輩たちがなだめたため事なきを得たが、対立は解消することはなかった。朝雅は翌日病死する政範の義兄(政範の姉が朝雅妻)である一方で、重保の母は牧ノ方腹ではない時政娘であり、北条家内の対立の構図の反映ということもあったのだろう。「所謂右衛門權佐朝政、於畠山次郎有遺恨之間、彼一族巧反逆之由、頻依讒申于牧御方」とあり、朝雅と重保の父・重忠には深刻な対立が見受けられる。この政範の死と朝雅の讒言をきっかけに、元久2(1205)年4月、畠山重忠一族が討滅され、さらにこの畠山一族の追討をきっかけに、北条時政の失脚事件が起こる。
承元2(1208)年7月19日、永福寺阿弥陀堂供養のために、将軍家はじめ尼御台が列席した留守の間、鎌倉に騒ぎが起こった(『吾妻鏡』承元二年七月十九日条)。「葛西十郎」が僕従のために殺害され、葛西一族が馳せ集まったためである。和田左衛門尉義盛が子細を聞いて説き鎮めたという(『吾妻鏡』承元に年七月十九日条)。
葛西重元(????-1203)
葛西壱岐守清重の四男。通称は四郎。
京都に在番中の建仁3(1203)年10月10日、比叡山堂衆が八王子山に砦を築いて幕府に反抗したので、15日に京都在番衆に出陣が命じられ、重元も出陣して散々に斬り込んだが、葛西四郎重元、豊島太郎朝経、佐々木太郎重綱など三百名の死者を出した(『吾妻鏡』建仁三年十月廿六日条)。
『中条家文書』(『奥山庄史料集』)の「桓武平氏諸流系図」によれば、名は記されていないが、清重の子の「四郎」が「被責叡山堂泉之時失命」とある。
豊島清元―+―豊島有経―――豊島朝経
(豊島権守)|(左衛門尉) (太郎)
|
+―葛西清重―――葛西重元
(左衛門尉) (四郎)
葛西朝清(????-????)
葛西壱岐守清重の六男。母は畠山庄司重能女。通称は六郎。官途は従五位下・左衛門尉。伊豆守であるという説もある。妻は佐原左衛門尉盛連女とされる(『盛岡葛西家系図』)。
⇒葛西清重―+―清親―――+―清経―――――――――宗清
(壱岐守) |(伯耆守) |(伯耆左衛門尉三郎) (三郎左衛門尉)
| |
| +―清時
| |(伯耆左衛門尉四郎)
| |
| +―光清―――――――+―■■
| |(伯耆四郎左衛門尉)|(四郎太郎)
| | |
| +―■■ +―清氏――――――――重盛
| (五郎) (四郎左衛門尉五郎)(彦五郎)
|
+―時清
|(壱岐小三郎左衛門尉)
|
+―重元――?――■■
|(四郎) (四郎太郎)
|
+―■■ +―時員
|(壱岐五郎左衛門尉) |(伊豆太郎左衛門尉)
| |
+―朝清―――――■■――――――?――清宗―――――+―清貞
|(伊豆守) (左衛門次郎) (伊豆入道明蓮)|(伊豆三郎兵衛尉)
| |
+―時重 +―■■
|(壱岐七郎左衛門尉) (伊豆四郎入道)
|
+―清秀
|(八郎左衛門尉)
|
+―清員
|(壱岐新左衛門尉)
|
+―重村―――――友村―――――――+―平氏女
(河内守) (河内四郎左衛門尉)|(四郎左衛門尉嫡女)
|
+―清友
(丸子八郎)
仁治2(1241)年1月23日、御所馬場における笠懸射的で、「葛西六郎」が六番射手をつとめている。おそらく彼は朝清であろうと思われる。
寛元2(1244)年8月15日の鶴岡八幡宮の放生会のとき、「五位六位」の供奉人として「壱岐六郎左衛門尉朝清」の名が見え、翌日の流鏑馬では九番を「壱岐六郎左衛門尉朝清」が務め、「子息左衛門次郎」が射手となった。
寛元3(1245)年8月15日、鶴岡八幡宮の放生会に五代将軍・藤原頼嗣の行列に随兵として「壱岐六郎左衛門尉朝清」の名が見える。また、寛元4(1246)年8月15日の放生会の先陣の隨兵として「壱岐六郎左衛門尉朝清」の名が見える。
宝治元(1247)年1月3日、68歳で亡くなったとされるが、奥大道(陸奥国白河関以北の大官道)に野盗が出没して殺人や強盗をはたらいていたことを聞いた幕府が、建長8(1256)年10月5日に、奥大道の周辺に地頭職を有する御家人二十四名に警備を命じており、その中に「壱岐六郎左衛門尉」「同七郎左衛門尉」が見えることから、朝清はまだ存命であったと推測される。
その2年後の正嘉2(1258)年3月1日、将軍家の二所詣に先陣の隨兵十二騎の先頭を「壱岐六郎左衛門尉跡」の「葛西四郎太郎」が務めていることから、このときには朝清は亡くなっていたと思われる。法名は朝清寺殿周山清真と伝わる。
『六条八幡宮造営用途注文』(『北区史』資料編 古代中世1第二編)によれば、建治元(1275)年5月、京都六条八幡宮の新宮用途のため、四十貫を負担している「葛西伊豆前司」の名が見える。朝清は伊豆守であるという説もあるが、正嘉2(1258)年の段階ですでに「跡」であるため、『六条八幡宮造営用途注文』の「葛西伊豆前司」は朝清ではないだろう。『米良系図』の笠井氏系図によれば、葛西清重の二男として「伊豆守」が見えるが、時代的に孫世代に当たる。おそらく『六条八幡宮造営用途注文』の「葛西伊豆前司」は、永仁6(1298)年の香取社造営の際に香取社大行司と争論した「伊豆入道」=「葛西伊豆入道明蓮」=「葛西伊豆守清宗」であろうと思われる。
葛西時重(????-????)
葛西壱岐守清重の七男。母は不明。通称は七郎、壱岐七郎。官途は左衛門尉。のち奥州に移り住み、井澤七郎左衛門尉(『米良文書』)、黒澤七郎左衛門尉(『平姓奥州葛西系図』『盛岡葛西家系図』『本称寺蔵葛西系図』等)を称し、黒沢氏の祖となったという。
時重は頼朝以来、讃岐国法勲寺の地頭職を持っていたが、本補地頭である上に新補地頭でもあり「両様を兼ねしむる」状態であったがため、法勲寺の雑掌に訴えられた。幕府は評定を開いて時重に申し開きをさせ、本補・新補地頭の兼帯を禁止させた。そして建長2(1250)年5月28日、本補地頭の跡としてか、はたまた新補地頭としてかを選択させ、どちらか一方を注進することを命じた。この時重は、建長3(1251)年正月20日、将軍家の二所詣に先陣十二騎の先頭の中に「葛西七郎時重」が見える。
●二所詣供奉隨兵(『吾妻鏡』建長三年正月廿日条)
先行 | 葛西七郎時重 | 野本二郎行時 | 佐貫七郎広経 | 江戸八郎 | 佐野八郎清綱 | 山上弥四郎秀盛 |
肥前太郎資光 | 佐貫次郎太郎泰経 | 豊嶋平六経泰 | 山田四郎通重 | 千葉七郎次郎行胤 | 東四郎義行 | |
御輿 | 藤原頼嗣 | |||||
輿側 | 三村新左衛門尉時親 | 肥後四郎兵衛尉行定 | 式部八郎兵衛尉 | 内藤豊後三郎 | 武藤二郎兵衛尉頼泰 | 藤倉三郎盛義 |
梶原右衛門三郎景氏 | 小野澤二郎時仲 | 渋谷二郎太郎武重 | 山城次郎兵衛尉信忠 | 平右近太郎 | 土屋新三郎光時 | |
摂津新左衛門尉 | 兼仗太郎 | 平井八郎清頼 | ||||
御後 | 尾張少将 | 中御門少将 | 武蔵守 | 相模右近大夫将監 | 陸奥掃部助 | 相模式部大夫 |
北條六郎 | 越後五郎 | 遠江六郎 | 武藤四郎 | 相模八郎 | 相模三郎太郎 | |
足利三郎 | 新田三河前司 | 内蔵権頭 | 遠山前大蔵少輔 | 大隅前司 | 内藤肥後前司 | |
伊賀前司 | 伊勢前司 | 上野弥四郎右衛門尉 | 上野三郎兵衛尉 | 大曾祢次郎左衛門尉 | 遠江二郎左衛門尉 | |
梶原右衛門尉 | 和泉五郎左衛門尉 | 出雲五郎右衛門尉 | 波多野小次郎 | 信濃四郎左衛門尉 | 筑前次郎左衛門尉 | |
武藤左衛門尉 | 和泉次郎左衛門尉 | 出羽三郎 | 出羽四郎左衛門尉 | 山内籐内左衛門尉 | 隠岐三郎左衛門尉 | |
阿曽沼小次郎 | 紀伊次郎右衛門尉 | 鎌田次郎兵衛尉 | 近江大夫判官 | |||
後陣隨兵 | 阿曽沼四郎次綱 | 木村六郎秀親 | 清久弥次郎秀胤 | 高柳四郎三郎行忠 | 国分二郎胤重 | 椎名六郎胤継 |
小栗弥次郎朝重 | 三善右衛門次郎康有 | 真壁小次郎 | 麻生太郎親幹 | 長江七郎景朝 | 足立左衛門三郎元氏 |
時重は、奥大道(陸奥国白河関以北の大官道)に野盗が出没して殺人や強盗をはたらいていたことから、幕府は建長8(1256)年10月5日、奥大道周辺に地頭職を有する御家人二十四名に警備を命じた。その中に「壱岐六郎左衛門尉」「同七郎左衛門尉」が見える。この「七郎左衛門尉」が時重と思われる。つまり時重はこのころ奥州に下向していたとも思われる。
時重は陸奥国磐井郡黒澤邑(岩手県一関市上黒沢、下黒沢)に所領を与えられたとされ、子孫は黒沢氏として続いたようである。『本称寺蔵葛西系図』によれば、弘長元(1261)年3月15日に、また、『平姓奥州葛西系図』によれば弘長元(1261)年2月15日、七十三歳で亡くなったと伝えられている。法名は真阿(『平姓奥州葛西系図』)。
葛西清員(????-????)
葛西壱岐左衛門尉清親の子か。官途は左衛門尉。通称は壱岐新左衛門尉。
●葛西氏想像略系図
⇒葛西清重―+―清親―――+―清経―――――――――宗清
(壱岐守) |(伯耆守) |(伯耆左衛門尉三郎) (三郎左衛門尉)
| |
| +―清時
| |(伯耆左衛門尉四郎)
| |
| +―光清―――――――+―■■
| |(伯耆四郎左衛門尉)|(四郎太郎)
| | |
| +―■■ +―清氏――――――――重盛
| (五郎) (四郎左衛門尉五郎)(彦五郎)
|
+―時清
|(壱岐小三郎左衛門尉)
|
+―重元
|(四郎)
|
+―■■ +―時員
|(壱岐五郎左衛門尉) |(伊豆太郎左衛門尉)
| |
+―朝清―――――左衛門次郎―――?――清宗―――――+―清貞
|(伊豆守) (伊豆入道明蓮)|(伊豆三郎兵衛尉)
| |
+―時重 +―■■
|(壱岐七郎左衛門尉) (伊豆四郎入道)
|
+―清秀
|(八郎左衛門尉)
|
+―清員
|(壱岐新左衛門尉)
|
+―重村―――――友村―――――――+―平氏女
(河内守) (河内四郎左衛門尉)|(四郎左衛門尉嫡女)
|
+―清友
(丸子八郎)
建長3(1251)年8月15日の鶴岡八幡宮放生会に先陣の隨兵として「葛西壱岐新左衛門尉清員」の名が見えるが、清員はこの記述以降は名が見えない。
葛西光清(????-????)
葛西壱岐左衛門尉清親の四男か。通称は伯耆四郎。官途は左衛門尉。
●葛西光清周辺想像系図
葛西清重―+―清親――+―時清
(壱岐守) |(伯耆守)|(壱岐三郎左衛門尉)
| |
| +―光清――――――――清氏
| (伯耆四郎左衛門尉)(伯耆四郎左衛門五郎)
| ∥――――――――――重盛
+―朝清 藤原氏 (彦五郎)
|(壱岐六郎左衛門尉)
|
+―時重
(壱岐七郎左衛門尉)
●鶴岡八幡宮放生会隨兵(『吾妻鏡』宝治二年八月十五日条)
先陣隨兵 | 北條六郎時定 | 武蔵太郎朝房 | 遠江新左衛門尉経光 | 式部六郎左衛門尉朝長 | 伯耆四郎左衛門尉光清 |
土肥四郎実綱 | 小笠原余一長経 | 出羽三郎行資 | 越後五郎時員 | 三浦介盛時 | |
御剣 | 武蔵守朝直朝臣 | ||||
御調度 | 伊豆太郎左衛門尉実保 | ||||
御輿 | 藤原頼嗣 | ||||
後陣隨兵 | 相模三郎太郎時成 | 千葉次郎泰胤 | 上野三郎国氏 | 里見伊賀弥太郎義継 | 薩摩七郎左衛門尉祐能 |
常陸次郎兵衛尉行雄 | 肥後次郎左衛門尉景氏 | 豊前左衛門尉忠綱 | 隠岐次郎左衛門尉泰清 | 加地太郎実綱 | |
江戸七郎重保 |
宝治2(1248)年8月15日の鎌倉放生会に「伯耆四郎左衛門尉光清」の名が見える。
建長2(1250)年8月18日、将軍・頼嗣の由比ガ浜への逍遥に「伯耆四郎左衛門尉」が後陣に供奉した。
しかし、弘長元(1261)年8月5日、「伯耆四郎左衛門尉」は8月15日に行われる放生会に「所労」を理由に辞退を申し出ている。彼の病はなかなか癒えず、弘長3(1263)年7月13日、将軍家の正妻と思われる東御方が鎌倉小町の新造亭へ移る際の供奉人交名で、ふたたび「伯耆四郎左衛門尉」は「所労難治」として、「子息五郎清氏」を代理として差し進める旨を問い合わせている。また、この訴えはその後も認められたようで、8月15日の放生会では「伯耆左衛門五郎清氏」が後陣の隨兵として随っている。
葛西清時(????-1270?)
葛西壱岐左衛門尉清親の子。通称は伯耆新左衛門尉。官途は左衛門尉。
●葛西氏想像系図
⇒葛西清重―+―清親―――+―清経―――――――――宗清
(壱岐守) |(伯耆守) |(伯耆左衛門尉三郎) (三郎左衛門尉)
| |
| +―清時
| |(伯耆左衛門尉四郎)
| |
| +―光清―――――――+―■■
| |(伯耆四郎左衛門尉)|(四郎太郎)
| | |
| +―■■ +―清氏――――――――重盛
| (五郎) (四郎左衛門尉五郎)(彦五郎)
|
+―時清
|(壱岐小三郎左衛門尉)
|
+―重元
|(四郎)
|
+―■■ +―時員
|(壱岐五郎左衛門尉) |(伊豆太郎左衛門尉)
| |
+―朝清―――――左衛門次郎―――?――清宗―――――+―清貞
|(伊豆守) (伊豆入道明蓮)|(伊豆三郎兵衛尉)
| |
+―時重 +―■■
|(壱岐七郎左衛門尉) (伊豆四郎入道)
|
+―清秀
|(八郎左衛門尉)
|
+―清員
|(壱岐新左衛門尉)
|
+―重村―――――友村―――――――+―平氏女
(河内守) (河内四郎左衛門尉)|(四郎左衛門尉嫡女)
|
+―清友
(丸子八郎)
●清時の名が見える時期
建長2(1250)年8月15日 | 放生会 | 葛西新左衛門尉清時 | 『吾妻鏡』 |
建長2(1250)年8月18日 | 由比ヶ浜逍遥供奉 | 伯耆新左衛門尉 | 『吾妻鏡』 |
建長4(1253)年4月14日 | 将軍家八幡宮社参供奉 | 伯耆左衛門四郎清時 | 『吾妻鏡』 |
建長2(1250)年8月15日、「葛西新左衛門尉清時」が鶴岡八幡宮放生会に供奉している。これが「清時」の名が見える初出である。
●鶴岡八幡宮放生会隨兵(『吾妻鏡』建長二年八月十五日条)
先陣隨兵 | 相模三郎太郎時成 | 武蔵四郎時仲 | 三浦介盛時 | 梶原左衛門尉景俊 | 上野五郎兵衛尉重光 | 常陸次郎兵衛尉行雄 |
足利三郎家氏 | 城九郎泰盛 | 北條六郎時定 | 遠江太郎清時 | |||
後陣隨兵 | 越後五郎時家 | 相模八郎時隆 | 武田五郎三郎政綱 | 江戸七郎太郎重光 | 出羽三郎行資 | 大泉九郎長氏 |
橘薩摩余一公員 | 土肥次郎兵衛尉 | 葛西新左衛門尉清時 | 千葉次郎泰胤 |
さらに2年後の建長4(1253)年4月14日、新将軍・宗尊親王の鶴岡八幡宮初社参の供奉人として「伯耆左衛門四郎清時」が見える。しかし、建長2(1250)年の時点で「左衛門尉」に任官しているということは、この「伯耆左衛門四郎清時」と建長2年放生会の「葛西新左衛門尉清時」は別人と考えられる。
放生会の三日後の8月18日、将軍・頼嗣の由比ガ浜への逍遥に、将軍脇に供奉した「伯耆新左衛門尉」は、放生会供奉の「葛西新左衛門尉清時」と同一人物と思われる。しかし、こののち「伯耆新左衛門尉」の名は見えなくなり、代わって同年11月11日には「伯耆左衛門三郎清経(葛西伯耆守清経)」の名が見えるようになる。おそらく清時はこのころに故あって引退したか早世したのだろう。
文永7(1270)年12月18日卒。法名は法輪院殿行蓮宜公大居士(『葛西氏過去牒』)。
●由比ヶ浜逍遥供奉(『吾妻鏡』建長二年八月十八日条)
先行 | 陸奥四郎 | 遠江六郎 | 相模三郎太郎 | 武蔵四郎 | 足利三郎 | 長井太郎 |
城九郎 | 陸奥七郎 | 尾張次郎 | 越後五郎 | |||
騎馬 | 将軍家(御水干)御騎馬 | |||||
駕左右 徒歩 |
佐渡五郎左衛門尉 | 肥後次郎左衛門尉 | 土肥次郎兵衛尉 | 善太郎左衛門尉 | 江戸七郎太郎 | 摂津新左衛門尉 |
筑前四郎 | 伯耆新左衛門尉 | 武石四郎 | 鎌田左衛門尉 | 出羽三郎 | ||
御後 | 備前前司 | 遠江守 | 相模左近大夫将監 | 陸奥掃部助 | 宮内少輔 | 遠江左近大夫将監 |
北條六郎 | 遠江太郎 | 相模八郎 | 武蔵太郎 | 武蔵五郎 | 上野前司 | |
那波左近大夫 | 小山出羽前司 | 佐々木壱岐前司 | 筑前前司 | 伊勢前司 | 佐渡大夫判官 | |
遠江次郎左衛門尉 | 梶原左衛門尉 | 三浦介 | 上野十郎 | 阿曽沼小次郎 | 千葉次郎 | |
城次郎 | 城三郎 | 城四郎 | 大曽祢左衛門尉 | 大曽祢次郎左衛門尉 | 隠岐次郎左衛門尉 | |
遠江六郎左衛門尉 | 式部六郎左衛門尉 | 武藤左衛門尉 | 遠江新左衛門尉 | 小野寺三郎左衛門尉 | 出羽次郎左衛門尉 | |
小野寺四郎左衛門尉 | 足立太郎左衛門尉 | 中條出羽四郎左衛門尉 | 信濃四郎左衛門尉 | 伯耆四郎左衛門尉 | 和泉次郎左衛門尉 | |
善右衛門尉 | 弥次郎左衛門尉 | 常陸次郎兵衛尉 | 土肥四郎 | 薩摩七郎左衛門尉 | 薩摩九郎 | |
武田五郎三郎 |
葛西清氏(????-????)
葛西伯耆四郎左衛門尉光清の子。通称は伯耆左衛門五郎。妻は藤原氏女。
弘長元(1261)年8月5日、父の葛西光清は8月15日に行われる放生会に「所労」を理由に辞退を申し出たが、その後も光清の病はなかなか癒えなかったようで、弘長3(1263)年7月13日、将軍家の正妻と思われる東御方が鎌倉小町の新造亭へ移る際の供奉人交名で、光清は「所労難治」として、「子息五郎清氏」を代理として差し進める旨を幕府に問い合わせている。
光清の訴えは7月の供奉ののちも認められたようで、8月15日の放生会では「伯耆左衛門五郎清氏」が後陣の隨兵として随っている。この「伯耆左衛門五郎清氏」は『米良文書』に見える正応5(1291)年11月13日に判をしている「葛西伯耆四郎左衛門五郎清氏」と同一人物と思われる。
子には「彦五郎重盛」が見える(『米良文書』笠井氏系図)。
葛西四郎左衛門尉重村の子孫一門は熊野那智の勝覚院が代々先達職を継承していたが、延徳4(1492)年4月18日、これを百貫文で売り渡している。
●延徳4(1492)年4月18日『旦那売券』(『熊野那智大社文書』)
壱岐守、後出家 嫡子
清重―――――――+―伯耆前司
|
| 二男
+―伊豆守
|
| 三男
+―井澤七郎左衛門尉
|
| 四男 葛西河内守 葛西河内四郎左衛門尉
+―重村――――――――+―友村
|
| 葛西四郎左衛門尉嫡女
+―平氏女
|
| 四郎左衛門尉嫡子 号丸子八郎
+―清友
乾元二年閏四月廿二日 御先達越後律師祐玄(在判)
葛西八郎平清基(在判)
弘安三年二月十八日
葛西伯耆四郎左衛門五郎清氏(在判)
藤原氏女
同子息彦五郎重盛(在判)
正応五年十一月十三日
葛西五郎左衛門尉(????-????)
葛西壱岐左衛門尉清親の五男か。母は不明。通称は五郎。官途は左衛門尉。ただし、系譜にその名は見えない。
文暦2(1235)年6月29日、鎌倉五大尊堂に新造の御堂について、供養が執り行われた。将軍・頼経も参詣するため御所南門から小町大路へ向かったが、この時供奉した後陣の隨兵に「壱岐三郎時清」の名が見え、寄進する馬を曳いた「壱岐五郎左衛門尉」の名が見えるが、「壱岐三郎時清」「壱岐五郎左衛門尉」ともに壱岐守清重の子であろうと思われる。
○布施馬十疋
一疋 | 佐原太郎兵衛尉 | 多気次郎兵衛尉 |
一疋 | 長尾平内左衛門尉 | 長尾三郎兵衛尉 |
一疋 | 信濃三郎左衛門尉 | 壱岐五郎左衛門尉 |
一疋 | 和泉次郎左衛門尉 | 和泉五郎左衛門尉 |
一疋 | 小野寺小次郎左衛門尉 | 小野寺四郎左衛門尉 |
一疋 | 長三郎左衛門尉 | 長四郎左衛門尉 |
一疋 | 豊田太郎兵衛尉 | 豊田次郎兵衛尉 |
一疋 | 豊前太郎左衛門尉 | 布施左衛門尉 |
一疋 | 山内藤内 | 山内左衛門太郎 |
一疋 | 中澤次郎兵衛尉 | 中澤十郎 |
寛元2(1244)年8月16日の八幡宮放生会にともなう流鏑馬奉納で、十二番に「伯耆前司(清親)」が「子息五郎」を射手として列している。この五郎は壱岐五郎左衛門尉と同一人物か。
葛西清基(????-????)
葛西氏の一族。通称は八郎、または城八郎。妻は和賀三郎左衛門義行入道行蓮女(岡田女子)。葛西宗家と比較的近い血縁関係にある人物と思われるが、実父など不明。
陸奥国和賀郡の和賀三郎左衛門尉行時と和賀五郎右衛門景行入道の間でおこった所領相伝の論争で、行時が幕府へ裁判資料として提出したと思われる和賀氏系譜にその名を見ることができる。
●和賀氏系譜(『鬼柳文書』:「岩手県史」所収)
【和賀郡惣領】
⇒宇都宮宗綱―+―宇都宮朝綱 +―泰義―――――――盛義―――長義
(三郎) |(三郎左衛門尉) |(二郎左衛門尉) (弥二郎)(薩摩権守)
| |
| +―行時
+―寒河尼 |(三郎左衛門尉)
| ∥―――――結城朝光 |
| 小山政光 +―景行
|(下野大掾) |(五郎右衛門尉入道行仏)
| |
+―八田知家 +―嫡女 無所帯
(左衛門尉) |
∥ |
横山成任―+―近衛局 +―刈田義季――――――和賀義行――――――――+―二女子
|(源頼朝乳母)|(右衛門尉入道西念)(三郎左衛門義行入道行蓮)|
| | | 夫葛西城八郎清基 夫和賀左衛門三郎景義
+―中条義勝――+―中条家長 +―岡田女子―――――同女子
(中条盛尋法橋)(左衛門尉)
紀伊国熊野那智の実報院の『米良文書』に伝わる檀那葛西氏の系譜のひとつに、弘安3(1280)年2月18日に書判をしている「葛西八郎平清基」の名が見えるが、彼と同一人物と思われる。
壱岐守、後出家 嫡子
清重―――――――+―伯耆前司
|
| 二男
+―伊豆守
|
| 三男
+―井澤七郎左衛門尉
|
| 四男 葛西河内守 葛西河内四郎左衛門尉
+―重村――――――――+―友村
|
|葛西四郎左衛門尉嫡女
+―平氏女
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|四郎左衛門尉嫡子 号丸子八郎
+―清友
乾元二年閏四月廿二日 御先達越後律師祐玄(在判)
葛西八郎平清基(在判)
弘安三年二月十八日
葛西伯耆四郎左衛門五郎清氏(在判)
藤原氏女
同子息彦五郎重盛(在判)
正応五年十一月十三日
葛西又太郎(????-????)
葛西氏の一族。『米良文書』の笠井氏系図に見える「又太郎兵衛」のことか。彼は系譜上では壱岐守清重の三男・某の孫にあたる。
寛元3(1245)年8月16日、前将軍・入道大納言家(藤原頼経)の屋敷にて行われた馬場の儀に、競馬の儀で出仕している「葛西又太郎」がいた。また、その14年後の正嘉2(1258)年正月1日の椀飯で同名の「葛西又太郎」が幕府外庭の東座に詰めている。文応元(1260)年11月27日、将軍家の二所詣の供奉に「葛西又太郎定広」が見える。
葛西信常(1296-1353)
葛西三郎左衛門尉宗清の子。葛西左衛門尉貞清の弟。通称は又二郎。官途は従六位上、式部少輔。
兄の葛西貞清が早世したため、幼い甥・高清の後見として葛西家を支え、登米郡に五千貫文の所領を持ったと伝えられているが、高清の実在事態に疑問があるため、検討を要する。娘は、葛西家重臣の岩淵近江守経信の妻となった(『米川鱒淵岩淵系図』:『岩手県史』所収)。
文和2(1353)年12月9日、58歳で没した。法名は崇永。
●歴史書に残る主な葛西氏抜粋
文暦2(1235)年6月29日 | 壱岐三郎時清 | 鎌倉五大尊堂に新造の御堂の供奉 |
壱岐五郎左衛門尉 | 寄進の馬を曳いた | |
仁治2(1241)年1月23日 | 葛西壱岐六郎左衛門尉朝清 | 清重の六男。弓の名手であったようである。 |
寛元2(1244)年8月16日 | 葛西左衛門次郎 | 葛西朝清の子。鶴岡八幡宮の放生会のとき、流鏑馬の九番の射手となる。 |
葛西五郎 | 流鏑馬の十二番に「伯耆前司」の「子息五郎」が射手として列す。 | |
寛元3(1245)年8月15日 | 葛西又太郎定広 | 放生会の競馬に参列。 |
宝治2(1248)年8月15日 | 葛西伯耆四郎左衛門尉光清 | 鶴岡八幡宮放生会の先陣随兵十人の一人に見える。仁治元(1240)年8月2日の 将軍・藤原頼経の二所詣に供奉した「葛西四郎左衛門尉」も同一人物か。 |
建長2(1250)年5月28日 | 葛西壱岐七郎左衛門尉時重 | 讃岐国法勲寺領について、地頭であった時重と法勲寺が争い、幕府が裁決した。 |
建長4(1253)年4月14日 | 伯耆左衛門四郎清時 | 将軍家八幡宮社参供奉 |
建長4(1253)年11月11日 | 葛西伯耆新左衛門尉清経 | 葛西家の惣領か |
正嘉2(1258)年3月1日 | 葛西四郎太郎 | 壱岐六郎左衛門尉朝清の所役を継承。葛西伯耆四郎左衛門尉光清の長男か。 |
弘長3(1263)年7月13日 | 葛西伯耆四郎左衛門五郎清氏 | 父・伯耆四郎左衛門尉光清の代わりに供奉。8月の放生会も代理として参列。 |
建治元(1275)年5月 | 葛西伊豆前司 | 京都の六条八幡宮用途支配にて四十貫 |
葛西壱岐七郎左衛門入道跡 | 京都の六条八幡宮用途支配にて二十五貫 | |
葛西河内前司跡 | 京都の六条八幡宮用途支配にて六貫 | |
葛西三郎太郎跡 | 京都の六条八幡宮用途支配にて二十貫 | |
弘安7(1284)年12月9日 | 葛西三郎平宗清 | 新日吉の小五月会の流鏑馬を披露。 |
正応元(1288)年7月9日 | 伊豆太郎左衛門尉時員 | 中尊寺・毛越寺の僧侶と論争(葛西三郎左衛門尉宗清も含む) |
葛西彦三郎親清 | ||
永仁6(1298)年3月18日 | 葛西伊豆三郎兵衛尉清貞 | 香取神宮雑掌・清貞とその父親。元徳2(1330)年6月24日遷宮 |
親父伊豆入道 | ||
元享3(1323)年10月27日 | 葛西伊豆入道 | 北条貞時十三年忌供養の際に砂金三十両を寄進 |
建武3(1336)年正月28日 | 葛西江判官三郎左衛門 | 足利方の越前国の白河小次郎が、京都での戦いで新田義貞と号した赤糸縅の騎馬武者を討ったが、葛西江判官三郎兵衛だった(『梅松論』)。 |
康永4(1345)年3月 | 葛西伊豆入道明蓮跡 | 香取神宮の所役。 |
伊豆四郎入道 |
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