『登米龍源寺系譜』、『葛西氏過去牒』、『葛西真記禄』、『奥州伊達支族傳巻之三目録』、『平葛西末永両家系』
■仙台藩葛西家■
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(1532-1595)
葛西左京大夫晴胤の子。通称は又三郎、右衛門尉。葛西晴信の弟にあたる。
具体的な事柄はつたわらないが、孫の重常が建立した葛西家菩提寺・貞松山源光寺の延宝9(1681)年の梵鐘に「葛西紀伊俊信者晴信之弟右金吾胤重冑子式部大夫重俊入道流斎之令子也」とある。
文禄4(1595)年9月22日に亡くなった。六十四歳。法名は定光院殿起山道發大居士(『龍源寺葛西氏過去帳』ほか)。
⇒伊達稙宗―+―晴宗―――――輝宗――――――政宗 +―重利―――+―重矩―――+―清香
(左京大夫)|(左京大夫) (左京大夫) (中納言) |(壱岐) |(三郎兵衛)|(壱岐)
| | | |
+―葛西晴胤 +―晴信――――+―清高 +―富塚重友 +―清敬 +―清章
(左京大夫)|(左京大夫) |(長三郎) |(宇兵衛) (彦左衛門)|(八郎)
∥ | | | |
葛西晴重―+――娘 +―義重 +―信秀 +―重信―――重常 | +―清雄
(陸奥守) | |(三郎) (源三郎) |(左馬介)(藤右衛門)| |(十郎)
| | | | |
+=葛西晴胤―+―胤重――――――重俊―――+―俊信===重常―――+ +―清長
(左京大夫) (右衛門) (式部) (紀伊) (壱岐) |
|
+―重安=====重敬―――+―村田宗茂
|(彦左衛門) (万六郎) |(酉之助)
| |
+―長谷重長 +=清敬
(三郎左衛門) (彦左衛門)
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(1550-1602)
葛西氏十八代。葛西右衛門胤重の子。通称は与三郎、雅楽、式部。号は流斎。
天正19(1591)年冬、はじめて伊達政宗に召し出され、宮城郡高城保幡屋、竹屋村に百貫文の高禄を賜わる。
慶長7(1602)年3月23日に亡くなった。五十三歳。法名は勝雲院殿周山流齋大居士(『龍源寺葛西氏過去帳』)。
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(1579-1635)
葛西氏十九代。葛西式部重俊の次男。通称は久三郎、紀伊。
慶長7(1602)年3月、父・重俊の没後、兄の左馬介重信が政宗の庶長子・伊達兵五郎秀宗の老臣として伊予国宇和島へ赴いたため、弟の俊信が家督を継いだ。宮城郡蒲生村、柴田郡沼辺村に六十貫文を賜る。その後、仙台藩準一家に連なる。
寛永11(1634)年3月21日、采地四十貫文を加増され、併せて百貫文を知行し、桃生郡飯野川邑の北上川を望む高台(石巻市相野谷)に屋敷を構えて藩より足軽三十七人を附された。
寛永12(1635)年2月22日に五十七歳で亡くなった。法名は源光寺殿前紀州本譽無量覚山禅定門(『源光寺墓碑』)、無量院殿本譽源光居士(『龍源寺葛西氏過去帳』)。
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(1616-1682)
葛西氏二十代。葛西左馬介重信の子。葛西紀伊俊信の養嗣子。通称は久三郎、雅楽、豊前、出雲、対馬、藤右衛門、壱岐。
叔父・俊信に子がいなかったことから、重常が俊信の養嗣子となって家督を継いだ。領民の生活を心がけ、屋敷を領内東側の高台(石巻市相野谷)に移転して町を人の形にかたどり、屋敷には「心の池」を掘ったという。そして奥方の「つね子の方」も市のある日は月に四度市に顔を見せ、売れ残った品物を買い取って、それを貧しい領民に配っていた(紫桃正隆『葛西氏と山内首藤一族』宝文社)。また、館の北側に菩提寺として貞松山源光寺(石巻市相野谷柿木前)を建立した。
重常の代、西隣する涌谷を本拠とする仙台藩一門・涌谷伊達家と関わりを持つようになったようで、重常の四男・三郎左衛門重長は仙台藩一門・涌谷伊達家重臣である長谷家に入った。
延宝3(1675)年12月20日、「葛西藤衛門重矩」が奉行の「遠藤文七郎」へ宛てて、葛西家の由緒書きを提出している。「重矩」は重常の孫にあたる清方と同一人物とされるが、時代的にあわないことや、清方は「藤(右)衛門」を称していないことから、この「重矩」は重常のことか。
天和2(1682)年12月16日に亡くなった。六十七歳。墓所は貞松山源光寺。法名は壽覚院殿頓譽相蓮居士(『龍源寺葛西氏過去帳』)。
●葛西重常家系譜
葛西重常―+―重利―――――…→【葛西壱岐家】
(壱岐) |(壱岐)
|
+―富塚重友
|(宇兵衛)
|
+―重安―――――…→【葛西彦左衛門家】
|(彦左衛門)
|
+―長谷重長―――…→【涌谷伊達家重臣】
(三郎左衛門)
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(1646-1696)
葛西氏二十一代。葛西壱岐重常の子。母は高屋快安娘。通称は久三郎、三郎兵衛、壱岐。
重利には三人の弟がおり、次弟の宇兵衛重友は仙台藩重臣の富塚家を継承した。三弟・彦左衛門重安は天和3(1683)年に百石を分知して別家を立てさせ、重安家は召出となる。四弟・三郎左衛門重長は仙台本藩を出て、涌谷伊達家の伊達安芸村元の重臣・長谷家を継いだ。
父の代と同様に、涌谷伊達家との関わりを深めたようで、二女は伊達安芸宗元の四男・砂金又二郎重常の妻になった。重常は柴田郡川崎邑主・砂金四郎兵衛勝常の養嗣子。
元禄9(1696)年7月11日に亡くなった。五十一歳。法名は相谷院殿前壱州生譽託山居士(『源光寺墓碑』)、相谷院殿生譽託蓮居士(『龍源寺葛西氏過去帳』)。墓所は貞松山源光寺。
~葛西彦左衛門重安家~
彦左衛門重安の跡は、村田志摩宗継の次男・万六郎重敬が継承し、桃生郡雄勝浜(宮城県桃生郡雄勝町)に屋敷を構えた。
重敬の跡は本家・壱岐重利の三男が継承して、彦左衛門清敬を称した。しかし、その孫・清義が安永2(1723)年、宗家・葛西胤清が故あって知行を没収されたのに連座し、召出二番座に格下となった。
●葛西重利家系譜
伊達稙宗―+―晴宗――――輝宗――――政宗――――忠宗 +―村田宗茂
(左京大夫)|(左京大夫)(左京大夫)(権中納言)(陸奥守) |(志摩)
| |
+―梁川宗清――村田宗友――宗国――――宗継――――――葛西重敬―+=清敬――――清安===清義――清房――清章
(志摩) +=(万六郎) (彦左衛門)(助五郎)
| ↑
| |
葛西重利――+――――――――葛西清敬
(壱岐) | (彦左衛門)
|
+―葛西重矩―――清香―――――――――――清興
|(壱岐) (壱岐) (三郎)
| ∥
+―娘 ∥
|(遠藤文七郎齋信妻) ∥
| ∥
+―――――――――娘 ∥
| ∥ ∥
| 伊達宗元―+―砂金重常 ∥
|(安芸) |(又二郎) ∥
| | ∥
+―葛西重貞 +―伊達村元――村定――村盛――順
|(大吉) |(安芸) (安芸)(安芸)
| |
+―娘 +―伊達村泰
|(砂金重常妻)(弾正)
|
+―娘
|(田村図書清真妻)
|
+=桑原三郎四郎
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(1674-1743)
葛西氏二十二代。葛西壱岐重利の子。初名は重方、重矩。母は大條兵庫宗頼娘。通称は久三郎、三郎兵衛。法号は樗軒、敬隠。
仙台藩準一家の家格で、千石を継承した。天文学者としても知られる人物で、天文学者で仙台藩勘定方・江志彦助知辰に師事した。著書の『天文秘抄』は天文学の解説書で、元文2(1737)年12月、江志知辰がこれを書写した。
寛保3(1743)年正月6日に亡くなった。法名は松音院殿寶譽樹蓮居士(『龍源寺葛西氏過去帳』)。墓所は貞松山源光寺。
●葛西重矩家系譜
葛西重矩―+―清香―――――清興
(三郎兵衛)|(壱岐) (壱岐)
|
+―多気
|
|
+―春日信章
|(作野右衛門入道静軒)
|
+―稗貫為香
|(吉兵衛)
|
+=八十郎(長谷重長子)
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(1702-1743)
葛西氏二十三代。葛西三郎兵衛重矩の子。初名は重舊。母は佐藤宮内周信娘。通称は久三郎、三郎兵衛、壱岐。
寛保3(1743)年8月19日に亡くなった。法名は徹心院殿誠譽意蓮居士(『龍源寺葛西氏過去帳』)。墓所は貞松山源光寺。
●葛西重香家系譜
葛西重香―+―連
(壱岐) |
+―遊
|
+―常
|
+―津摩
|(村田市郎殖継妻)
|
+―三郎
|
+―清興
|(壱岐)
|
+―十郎
|
+―五郎
|
+―染之介
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(1738-1807)
葛西氏二十四代。葛西壱岐清香の次男。初名は清存、胤清。母は長沼五郎右衛門致信娘。通称は久三郎、対馬、壱岐、三郎。
宝暦4(1754)年、涌谷伊達家当主の伊達因幡村胤の養女・順(村胤の兄・村盛の娘)と結婚して涌谷伊達家と縁戚となる。清存このとき十七歳。順は二つ上の十九歳。清存は胤清を称しているが、この「胤」は義父・村胤より与えられた一字かもしれない。
片倉村廉
(小十郎)
∥―――――――娘
+―昌子 ∥
| ∥
| ∥
伊達吉村――+―伊達宗村―+―伊達村倫
(陸奥守) |(陸奥守) |(安芸)
| |
+=孝姫 +―伊達重村
∥ (陸奥守)
某娘 ∥
∥―――――伊達村胤――+=順
∥ (因幡) |(葛西壱岐清存妻)
伊達村定 ∥ |
(安芸) 伊達村成娘 +=伊達村倫
∥ (安芸)
∥
∥―――――伊達村盛 葛西清存(清興)
泉田氏 (安芸) (壱岐)
∥ ∥
∥――――――――順
中村成義―――娘
(日向)
胤清はその後、清興と改名。順との間には久三郎俊清(清常)、繁之助清好、桃之進清泉の三人の子が生まれている。
しかし、安永2(1773)年に藩政が混乱し、奉行の大町、大内、芝田が責任を問われて罷免される。この混乱を招いた背景に若老の「葛西三郎」らがいたことが発覚。清興は知行没収の上、他人預とされ、妻の順は離縁となって実家の涌谷伊達家に戻り、義弟の伊達村倫が建てた別館に住み、天明4(1784)年正月16日に四十九歳で亡くなった。法名は體雲院殿圓厳明鏡大姉。正月21日、龍淵寺に葬られた。
清興は文化4(1807)年6月16日に亡くなった。法名は信厚院殿敬忠蓮松月居士(『源光寺墓碑』)、信厚院殿忠譽浄蓮居士(『龍源寺葛西氏過去帳』)。墓所は貞松山源光寺。
トップページ > 葛西氏とは > 仙台藩葛西家・宇和島藩葛西家 > 葛西清常
(????-1830)
葛西氏二十五代。葛西三郎清興の子。通称は久三郎。母は伊達因幡村胤養女(実は伊達安芸村盛女)。
文政13(1830)年7月16日に亡くなった。法名は清常院殿眞譽法蓮居士(『源光寺墓碑』)、清常院殿貞譽法性居士(『龍源寺葛西氏過去帳』)。墓所は仙台城下新寺小路の成覚寺。
トップページ > 葛西氏とは > 仙台藩葛西家・宇和島藩葛西家 > 葛西清準
(????-1844)
葛西久三郎清常の子。通称は大太郎。
葛西氏二十六代。弘化元(1844)年7月4日に亡くなった。法名は正受院殿重譽了願居士(『龍源寺葛西氏過去帳』)。墓所は仙台城下新寺小路の成覚寺。
■宇和島藩葛西氏■
トップページ > 葛西氏とは > 仙台藩葛西家・宇和島藩葛西家 > 葛西重信
(????-????)
伊予宇和島藩士。葛西流斎重俊の長男。通称は九兵衛、左馬助。
弟の葛西紀伊俊信は仙台藩士となるが、重信は伊達政宗の庶長子・伊達兵五郎秀宗に仕えており、秀宗が伊予宇和島藩十万石の藩主として宇和島に移ると、重信もそれに従って宇和島に移り、二百石を与えられて宇和島葛西氏の祖となった。
トップページ > 葛西氏とは > 仙台藩葛西家・宇和島藩葛西家 > 葛西俊親
(????-????)
伊予宇和島藩士。葛西左馬助重信の養嗣子。実父は川野一平。通称は九兵衛。三百石を知行した。
トップページ > 葛西氏とは > 仙台藩葛西家・宇和島藩葛西家 > 葛西俊信
(????-????)
伊予宇和島藩士。葛西九兵衛俊親の長男。通称は九市郎。
トップページ > 葛西氏とは > 仙台藩葛西家・宇和島藩葛西家 > 葛西信善
(????-????)
伊予宇和島藩士。葛西九兵衛俊親の次男。通称は一平。
トップページ > 葛西氏とは > 仙台藩葛西家・宇和島藩葛西家 > 葛西善親
(????-????)
伊予宇和島藩士。葛西一平信善の養嗣子。実父は堀池佐太夫。通称は九兵衛。
元禄8(1695)年8月13日、伊達宗贇は善親へ「高二百石」の宛行状を発給している(『伊達宗贇黒印状』「葛西家文書」)。しかし、「家督相続被仰付相続候処、病死後、相続不被仰付候」とあることから、家督相続を仰せ付けられるところ、病死してしまったために家督は相続していない。
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(????-1758)
伊予宇和島藩士。葛西一平信善の子。通称は源七郎、一平。
「九兵衛相続不被仰付候処、信善実子二付新知行下おかれ、御奉行相つとめ候」とあることから、義兄の九兵衛善親が家督相続しないまま亡くなったことで、葛西家は一旦改易とされたのち、新たに知行百石を与えられて再興されたようである。
享保9(1724)年3月15日、刀番役となる。11月には藩公の供をして江戸に下向した。享保16(1731)年5月2日には、宗藩の仙台藩江戸上屋敷が炎上した際に見舞いの使者として藩邸を訪れるなど、外交面でも活躍した。享保18(1733)年6月5日、御目付役に就任した。
元文5(1740)年9月7日、藩公・伊達村年の姫君・幾姫付の奥家老に就任。それに伴い、同日五十石が加増され、都合百五十石となる(『伊達宗候黒印状』「葛西家文書」)。元文6(1741)年6月13日には小姓頭となる。同年12月6日、幾姫が大和郡山藩主・松平信鴻に嫁いだ際には姫に付き従って松平家に入り、12月7日、松平家より二十人扶持を給わる。
しかし、幾姫は寛宝3(1750)年に郡山藩邸で亡くなる。そのため5月19日、郡山藩を辞して宇和島藩に戻った。
宝暦6(1756)年、これまでの働きを賞され、旗奉行次席に任じられた。しかし翌宝暦7(1758)年3月6日、亡くなった。
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(????-????)
伊予宇和島藩士。葛西一平俊国の子。通称は源七、三郎太夫。