(????-1270?)
葛西氏二代。葛西壱岐守清重の子。母は畠山庄司重能の娘。官途は従五位下。官職は左衛門尉、伯耆守。通称は三郎、壱岐左衛門尉。清重以降、「三郎」が葛西氏の嫡男の仮名になっている。娘は六波羅評定衆の後藤壱岐守基政室(『尊卑分脈』五)。
●葛西氏略系図
豊島清基――清重――+―清親――――――――+=時清
(三郎) (三郎) |(壱岐三郎左衛門尉) |(三郎左衛門尉)
| |
+―時清 +―清経―――――――+―宗清
|(壱岐小三郎左衛門尉) (伯耆三郎左衛門尉)|(三郎左衛門尉)
| |
+―重元 +―清宗―――――――清貞
|(四郎) (伊豆守) (三郎兵衛尉)
|
+―■■
|(壱岐五郎左衛門尉)
|
+―朝清
|(壱岐六郎左衛門尉)
|
+―時重
(壱岐七郎左衛門尉)
安貞2(1228)年2月19日、御所の南庭において相撲二十番が行われたが、その際「葛西三郎左衛門尉」が相撲の達者である「芝俣平次三郎」を召した(『吾妻鏡』安貞二年二月十九日条)。彼は勝ち残ったのであろうか、将軍・頼経は周防蔵人をして芝俣に御衣を下賜された。この「葛西三郎左衛門尉」は清親であろうと推測される。「芝俣平次三郎」は現在の葛飾区柴又の住人と思われ、「平次三郎」とあるところから平氏の出身であると思われる。おそらく芝俣に所領を持つ葛西一族で、清親の家子であったのだろう。
安貞2(1228)年7月23日、将軍・頼経は三浦義村(駿河前司)の田村山庄(平塚市田村)へ遊覧に出た。このとき供奉した御家人の中に「葛西左衛門尉」の名が見える(『吾妻鏡』安貞二年七月二十三日条)。
●三浦義村別邸遊覧(『吾妻鏡』安貞二年七月二十三日条)
随兵 | 随兵左 | 随兵右 | |
三浦次郎 | 長江八郎 | ||
結城七郎 | 上総太郎 | ||
城太郎 | 小笠原六郎 | ||
大須賀左衛門尉 | 佐々木太郎左衛門尉 | ||
足利五郎 | 河越次郎 | ||
陸奥四郎 | 相模四郎 | ||
御駕 | 藤原頼経 | ||
御劔 | 駿河次郎 | ||
御笠 | 佐原十郎左衛門太郎 | ||
駕籠脇 | 駕籠左 | 駕籠右 | |
佐原四郎 | 大河戸太郎兵衛尉 | ||
高井次郎 | 下河邊左衛門次郎 | ||
多々良次郎 | 梶原三郎 | ||
印東太郎 | 佐貫次郎 | ||
遠藤兵衛尉 | 波多野小六郎 | ||
土肥太郎 | 佐野小五郎 | ||
稲河十郎 | 佐々木八郎 | ||
伊佐兵衛尉 | 春日部太郎 | ||
海上五郎 | |||
阿保三郎 | |||
本間次郎左衛門尉 | |||
御調度懸 | 長尾三郎 | ||
御後 | 越後守 | 駿河守 | 陸奥五郎 |
大炊助 | 相模五郎 | 周防前司 | |
加賀前司 | 三條左近大夫 | 駿河蔵人 | |
左近蔵人 | 伊賀蔵人 | 結城左衛門尉 | |
小山五郎 | 修理亮 | 白河判官代八郎 | |
佐々木判官 | 佐々木三郎 | 長沼四郎左衛門尉 | |
後藤左衛門尉 | 伊豆左衛門尉 | 伊東左衛門尉 | |
宇佐美左衛門尉 | 佐原三郎左衛門尉 | 宇都宮四郎左衛門尉 | |
伊賀四郎左衛門尉 | 伊賀六郎左衛門尉 | 土屋左衛門尉 | |
中條左衛門尉 | 遠山左衛門尉 | 加藤左衛門尉 | |
信濃次郎左衛門尉 | 藤内左衛門尉 | 隠岐次郎左衛門尉 | |
狩野藤次兵衛尉 | 天野次郎左衛門尉 | 江兵衛尉 | |
葛西左衛門尉 | 相馬五郎 | 東六郎 | |
三浦又太郎 | 足立三郎 | 嶋津三郎左衛門尉 | |
遠藤左近将監 | 海老名籐内左衛門尉 | 豊嶋太郎 | |
長江四郎 | 氏家太郎 | 善太次郎左衛門尉 | |
最末 | 相模守 | 武蔵守 | 相模小太郎 |
同年8月13日に、翌々日に決定している将軍家の鶴岡八幡宮参詣の供奉人が決定した。ほぼ田村山荘供奉人と同様であるが、隨兵に八名が追加とされた。その追加された人物は「相模五郎(時直)・小山五郎(長村)・氏家太郎(公信)・伊東左衛門尉・葛西左衛門尉・天野次郎左衛門尉・東六郎(胤行)・足立三郎(元氏)」で、いずれも将軍家の御後に供奉していた人物である(『吾妻鏡』)。また、10月15日にも将軍家方違のため、小山下野入道生西(小山朝政)の車大路の家に移った際の供奉人に「葛西左衛門尉」が見える(『吾妻鏡』)。
天福2(1234)年7月29日、竹御所(右衛門督頼家の娘で、四代鎌倉殿・藤原頼経室)が産気づき、鳴弦(弓の弦を鳴らして悪霊を払うこと)の役を仰せつかった十名の中に「葛西左衛門尉」が見えるが、おそらく清親であろう。残念なことに、翌27日に生まれた子は誕生時にすでに亡くなっており、竹御所もそのショックから即日に亡くなるという悲劇になってしまっている(『吾妻鏡』)。
文暦2(1235)年6月29日、五大尊堂の新造御堂について供養が執り行われた(『吾妻鏡』)。鎌倉殿頼経も参詣するため御所南門から小町大路へ向かったが、この時供奉した後陣の隨兵に「壱岐三郎時清」の名が、寄進する馬を曳いた「壱岐五郎左衛門尉」の名が見える(『吾妻鏡』)。いずれも葛西壱岐守清重の子と思われる。「壱岐三郎時清」は、嘉禎3(1237)年4月22日の渡御始に供奉した「壱岐小三郎左衛門尉」、6月23日の大慈寺郭内の精舎供養に供奉した「壱岐小三郎右衛門尉時清」、暦仁元(1238)年2月17日、上洛時の隨兵に見える「壱岐小三郎左衛門尉」は、弟の壱岐小三郎時清である(『吾妻鏡』)。「三郎」が嫡男に与えられた仮名であり、「小三郎」は三男に与えられた仮名だろう。
●五大堂供養供奉(『吾妻鏡』文暦二年六月二十九日条)
先陣隨兵左 | 上総介常秀 | 小山五郎左衛門尉長村 | 城太郎義景 | 足利五郎長氏 |
陸奥式部大夫政村 | ||||
先陣隨兵右 | 駿河前司義村 | 筑後図書助時家 | 宇都宮四郎左衛門尉頼業 | 越後太郎光時 |
相模六郎時定 | ||||
御車 | 藤原頼経 | |||
御車左 | 上総介太郎 | 小野澤次郎 | 伊賀六郎左衛門尉 | 大河戸太郎兵衛尉 |
本間次郎左衛門尉 | 平岡左衛門尉 | |||
御車右 | 大須賀次郎左衛門尉 | 宇田左衛門尉 | 佐野三郎左衛門尉 | 江戸八郎太郎 |
安保三郎兵衛尉 | ||||
御調度懸 | 加地八郎左衛門尉信朝 | |||
御後五位六位左 | 前民部少輔 | 北条弥四郎経時 | 陸奥太郎実時 | 左近大夫将監佐房 |
大膳権大夫師員 | 加賀前司康俊 | 駿河四郎左衛門尉家村 | 三浦又太郎左衛門尉氏村 | |
宇佐美藤内左衛門尉祐泰 | 薬師寺左衛門尉朝村 | 河津八郎左衛門尉尚景 | 笠間左衛門尉時朝 | |
隠岐三郎左衛門尉行義 | 武藤左衛門尉景頼 | 和泉六郎左衛門尉景村 | 弥善太左衛門尉康義 | |
大曾祢兵衛尉長泰 | ||||
御後五位六位左 | 相模式部大夫 | 駿河次郎泰村 | 左衛門大夫泰秀 | 修理亮泰綱 |
木工権頭仲能 | 出羽前司家長 | 佐原新左衛門尉胤家 | 関左衛門尉政泰 | |
下河辺左衛門尉行光 | 近江四郎左衛門尉氏信 | 摂津左衛門尉為光 | 信濃次郎左衛門尉行泰 | |
内藤七郎左衛門尉盛継 | 弥次郎左衛門尉親盛 | 長掃部左衛門尉 | 桿垂左衛門尉時基 | |
後陣随兵左 | 河越掃部助泰重 | 氏家太郎公信 | 後藤次郎左衛門尉基親 | 佐竹八郎助義 |
後陣随兵右 | 梶原左衛門尉景俊 | 壱岐三郎時清 | 伊東三郎左衛門尉祐綱 | 武田六郎信長 |
検非違使 | 駿河大夫判官光村 | 後藤大夫判官基綱 |
嘉禎2(1236)年8月4日、将軍・頼経は若宮大路に新築された御所に移り、その隨兵として「葛西壱岐左衛門尉」の名が見える。8月9日の泰時邸への御行始にも隨兵十二名にも「葛西壱岐左衛門尉」として名を連ねる(『吾妻鏡』)。
暦仁元(1238)年正月、清親は頼経の上洛に供奉し、従五位下に叙せられ、伯耆守に任ぜられたとされる(『盛岡葛西系図』)が、同年2月17日、上洛時の隨兵四十二番に弟の「壱岐小三郎左衛門尉」とともに「壱岐三郎左衛門尉」があり、この時点ではまだ伯耆守の任官はなかったと思われる(『吾妻鏡』)。
寛元元(1243)年7月17日、将軍家が突然御出することになった際に、供奉すべき御家人が対応できずに遅刻することがままあり、奉行人の煩いの基となっていた。そのためこの日、月の上旬・中旬・下旬で予め御家人を当番で割り当てておくこととした。その下旬の担当に「伯耆前司」が見える。清親は暦仁元(1238)年2月以降に伯耆守に任官したのち、寛元元(1243)年7月までに辞したことがわかる(『吾妻鏡』)。
寛元2(1244)年8月15日の八幡宮放生会で、将軍家の後に随う「五位六位」の供奉人に「伯耆前司清親」の名が見える。翌日、流鏑馬が行われたが、その九番に「壱岐六郎左衛門尉」が列し、射手は「子息左衛門次郎」が務めた。そして、十二番に「伯耆前司」が「子息五郎」を射手として列している。「壱岐六郎左衛門尉」は清親の弟・朝清である(『吾妻鏡』)。
寛元3(1245)年8月15日の八幡宮放生会に「五位」の供奉人として「伯耆前司清時」が見える。この「清時」は「清親」の誤りであろう。同じく弟の「壱岐六郎左衛門尉朝清」も名を連ねている。そしてこの日に行われた競馬の五番に「葛西又太郎(定広)」が出場している(『吾妻鏡』)。
寛元4(1246)年8月15日の八幡宮参詣に五位六位の供奉人として「伯耆前司」の名が、後陣の隨兵に弟の「壱岐六郎左衛門尉朝清」が見える(『吾妻鏡』)。
このころの葛西氏は後のように奥州に在住していたわけではなく、下総国葛西庄を本拠とし、鎌倉では幕府に程近い葛西ガ谷に館を構え、幕府重鎮の地位にあった。父・葛西清重は菩提寺として葛西庄内に西光寺(葛飾区四つ木1丁目)を建立しているが、清親もこれに対する東光寺を建立した。
宝治元(1247)年12月29日、京都大番勤仕の事についての結番が決められた。各々三か月を限って在京し、京中所々を警固すべきことが命じられ、四番の所役が「葛西伯耆前司」と定められた。こののち、『吾妻鏡』に清親の記載はなくなる(『吾妻鏡』)。
建長2(1250)年3月1日、閑院殿の造営(同年2月1日に炎上)の雑掌の事が決められたとき、「葛西壱岐入道跡」が閑院北対を担当することとなったが、清親もその一人として担当したかは不明。
宝治2(1248)年8月15日の鶴岡八幡宮放生会の先陣随兵十人の一人に見える「伯耆四郎左衛門尉光清」は「伯耆守清親」の子と推測される。「伯耆四郎左衛門尉」は建長2(1250)年3月18日の由比ヶ浜逍遥の供奉、12月27日の近習結番の五番に名が見える(『吾妻鏡』)。また、建長8(1256)年6月29日の放生会供奉人注文の中で「伯耆三郎左衛門尉」が見えるが、家督の清経と思われる(『吾妻鏡』)。
文永7(1270)年12月18日亡くなったと伝えられている(『盛岡葛西系図』)が不明。『六条八幡宮造営用途注文』(『北区史 資料編古代中世』)によれば、建治元(1275)年5月、京都六条八幡宮の新宮用途のため、七十貫を負担している「葛西伯耆前司跡」とあることから、この時点で清親はすでに亡くなっており、所領を引き継いだ人物(三郎左衛門尉時清か)が担当したと思われる。他に、「葛西伊豆前司」「同壱岐七郎左衛門入道跡」「同河内前司跡」「同三郎太郎跡」とある。
法名は清蓮。宝地院清蓮浄水大居士(『葛西氏過去牒』)。東光寺殿見山貞清。
(1)葛西伯耆前司跡……葛西清経、清時、光清ら
(2)葛西伊豆前司……葛西朝清?
(3)葛西壱岐七郎左衛門入道跡……葛西繁村(黒沢繁村)ら
(4)葛西河内前司跡……葛西友村ら
(5)葛西三郎太郎……葛西■清ら
●葛西氏想像系図
⇒葛西清重―+―清親―――+―清経―――――――+―宗清 +―時員
(壱岐守) |(伯耆守) |(伯耆左衛門尉三郎)|(三郎左衛門尉) |(伊豆太郎左衛門尉)
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| +―清時 +―清宗――――――+―清貞
| |(伯耆左衛門尉四郎) (伊豆守) |(伊豆三郎兵衛尉)
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| +―光清―――――――+―■■ +―■■
| |(伯耆四郎左衛門尉)|(四郎太郎) (伊豆四郎入道)
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| +―■■ +―清氏――――――――重盛
| (五郎) (四郎左衛門尉五郎)(彦五郎)
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+―時清
|(壱岐小三郎左衛門尉)
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+―重元
|(四郎)
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+―■■
|(壱岐五郎左衛門尉)
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+―朝清―――――左衛門次郎
|(六郎左衛門尉)
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+―時重
|(壱岐七郎左衛門尉)
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+―清秀
|(八郎左衛門尉)
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+―清員
|(壱岐新左衛門尉)
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+―重村―――――友村―――――――+―平氏女
(河内守) (河内四郎左衛門尉)|(四郎左衛門尉嫡女)
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+―清友
(丸子八郎)