三浦氏 三浦盛時

三浦氏
平忠通
(????-????)
三浦為通
(????-????)
三浦為継
(????-????)
三浦義継
(????-????)
三浦介義明
(1092-1180)
杉本義宗
(1126-1164)
三浦介義澄
(1127-1200)
三浦義村
(????-1239)
三浦泰村
(1204-1247)
三浦介盛時
(????-????)
三浦介頼盛
(????-1290)
三浦時明
(????-????)
三浦介時継
(????-1335)
三浦介高継
(????-1339)
三浦介高通
(????-????)
三浦介高連
(????-????)
三浦介高明
(????-????)
三浦介高信
(????-????)
三浦介時高
(1416-1494)
三浦介高行
(????-????)
三浦介高処
(????-????)
三浦介義同
(????-1516)
三浦介盛隆
(1561-1584)
   


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●三浦氏の惣領家●

三浦盛時(????-????)

 三浦氏八代当主。佐原遠江守盛連の五男。母は矢部禅尼禅阿(三浦義村の娘)。妻は北条修理亮時員娘。通称は五郎、三浦介。官位は従五位下。官職は左衛門尉、相模介。法名は浄蓮

 三浦義明―+―三浦義澄―――――三浦義村――+―三浦泰村
(三浦介) |(三浦介)    (駿河守)  |(若狭守)
      |                |
      |                +―矢部禅尼
      |
      +―佐原義連―――+―佐原景連――――蛭河景義
       (十郎左衛門尉)|(太郎兵衛尉) (又太郎)
               |
               | 三浦義村女?
               |  ∥ 
               |  ∥――――――佐原経連
               |  ∥     (太郎左衛門尉)
               |  ∥     
               |  ∥    +―比田広盛
               |  ∥    |(次郎左衛門尉)
               |  ∥    |
               +―佐原盛連――+―藤倉盛義
               |(遠江守)   (三郎左衛門尉)
               |  ∥
               |  ∥――――+―会津光盛
               |  ∥    |(四郎左衛門尉)
               |  ∥    |
               |  ∥    +―佐原盛時
               |  ∥    |(五郎左衛門尉)
               |  ∥    |
               | 矢部禅尼  +―佐原時連
               |  ∥     (六郎左衛門尉)
               |  ∥
               |  ∥――――――北条時氏―――――北条時頼―――北条時宗―――北条貞時―――北条高時
               |  ∥     (修理亮)
               | 北条泰時
               |(左京大夫)
               |
               +―佐原家連
               |(肥前守)
               |      
               +―佐原胤連
               |(五郎左衛門尉)
               |
               +―佐原政連
               |(七郎左衛門尉)
               |
               +―佐原広連
               |(八郎左衛門尉)
               |
               +―佐原泰連
                (十郎左衛門尉)

 盛時の生年は不明だが、母の矢部禅尼(三浦義村娘)は、かつて北条泰時の妻であり、北条修理亮時氏の母である。つまり北条時氏と盛時は異父兄弟ということになり、時氏が生まれたのが建仁3(1203)年であることから、その後に生まれたことになる。

 嘉禎3(1237)年6月1日、母の矢部禅尼和泉国吉井郷地頭職の御下文が発給された。この御下文は矢部禅尼の孫・北条五郎時頼が禅尼が住んでいた三浦郡矢部郷の別荘に持参した。吉井郷地頭職はもともと夫の佐原盛連が帯していたものであったが、彼の「譲附」によって御下文が発せられたという。実は、盛連は貞永2(1233)年5月、周囲の反対を振り切って上洛しようとして処刑された噂が京都に伝えられている(『明月記』)

 同書では京都での噂がそのまま記載されるためしばしば誤りが散見され、盛連処刑が事実かは不明だが、6月13日、盛連の聟・閑院少将実任が西園寺家に出仕の侍・左近大夫親賢に乱暴をはたらき、公経から出仕停止を命じられた事件があった。このとき定家は「習縁者」と談じており、盛連は何らかの処分は受けていたと推測される(『明月記』)。ただし、嘉禎3(1237)年6月に矢部禅尼に「譲附」したとされていて、処刑はされていなかったのかもしれない。禅尼が出家したのは時氏の死によるものか、盛連の死によるものかはわからないが、嘉禎3(1237)年にはすでに三浦郡に隠棲していたことがうかがえる。

 矢部禅尼は「始め左京兆室となり故修理亮を生む。のち盛連室となる。光盛、盛時、時連等母たり」とあり、盛連の子のうち、光盛、盛時、時連が矢部禅尼の子であったと推測される。

 承久4(1222)年1月7日の結城左衛門尉朝光の椀飯で、射手として「佐原太郎(経連)」が列している。盛時の長兄であり、盛連の子の初出である。彼の母親も「駿河守義村女」とされ(『系図纂要』)、矢部禅尼以前にすでに盛連は義村女と婚姻関係にあったのかもしれない。なお、彼はのちに陸奥国会津猪苗代に本拠を構え、猪苗代氏の祖となる。経連は安貞2(1228)年3月9日の由比ガ浜での犬追物でも射手として参加しており、弓の名手であった。また、彼の「経連」という諱は将軍・藤原頼経よりの偏諱と考えられることから、はじめは盛連の嫡子として扱われていたことが察せられる。

三浦氏
鶴岡八幡宮

 寛喜4(1232)年1月1日、将軍・藤原頼経の鶴岡八幡宮寺参詣に調度懸役人を務めた人物に「佐原五郎左衛門尉」が見えるが、彼は盛時ではなく、彼の叔父・佐原五郎左衛門尉胤連であろう。この参詣で三役を務めたのは、いずれも三浦一族であり(供奉:三浦駿河判官光村、御剣役:天野和泉守政景、調度懸役:佐原五郎左衛門尉胤連)、頼経の昵懇の士が選ばれたのかもしれない。

 貞永2(1233)年5月22日、京都の藤原定家のもとに「関東遠江守」が誅されたことが報ぜられた(『明月記』)。周囲の制止にもかかわらず上洛を強行したために殺害されたという。また、彼の娘婿・洞院少将実任も6月13日、大炊御門東洞院の通り(京都市上京区京都御苑)で西園寺公経入道の侍・左近大夫親賢に乱暴をはたらき、公経から出仕停止を命じられている(『明月記』)。定家は実任が「悪遠江(盛連)」の聟であることで、先に処罰された盛連と同様に罰せられたことに「習縁者」と談じている。西園寺公経と三浦惣領家は親密な関係を持っていたことが知られているが、庶流の佐原家もこの洞院流藤原氏と関係を持っていたことがうかがえる。

●洞院藤原氏系譜

 藤原通季――閑院公通―+―大宮実宗―+―西園寺公経――――西園寺掄子   【四代将軍】
(左兵衛督)(権大納言)|(内大臣) |(太政大臣)    ∥―――――――藤原頼経
            |      |          ∥      (右衛門督)       
            |      +―娘        九条道家
            |        ∥       (左大臣)
            |        ∥
            |        ∥――――――――藤原為家
            |        藤原定家    (権大納言)
            |       (権中納言)    ∥―――――――二条為氏
            |                 ∥      (権大納言)
            |      +―宇都宮頼綱――+―
            |      |(下野入道蓮生)|
            |      |        |
            |      +―宇都宮朝業  +―        
            |       (四郎入道信生)| ∥―――――――土御門通頼
            |               | 土御門通成  (准大臣)
            |               |(内大臣)
            |               |
            |               +―
            |                 ∥
            |                 三条実房
            |                (左大臣)
            |
            +―洞院実明―――洞院公雅―――――洞院実任
             (参議)   (権大納言)   (権中納言)
                              ∥―――――――洞院公名
                     佐原盛連―――+―      (左近衛中将)
                    (遠江守)   |
                            |
                            +―佐原盛時
                             (五郎左衛門尉)

 盛時兄弟の名が具体的に見え始めるのは嘉禎3(1237)年以降である。6月23日、大雨の中で挙行された大慈寺丈六堂供養の式典で、先陣の随兵として参列した「佐原新左衛門尉光盛」は盛時の実兄である。また、後陣の随兵十騎のうちの「佐原六郎兵衛尉時連」は盛時の実弟である。この供養に盛時の名は見えないため参列していないと思われるが、光盛は新しく左衛門尉に任官し、弟の時連は兵衛尉であるため、盛時もすでに兵衛尉以上の官途には就いていたと思われる。

 嘉禎4(1238)年2月17日、将軍家上洛の際に、随兵六十四番の結番中、五十番に「佐原新左衛門尉」「佐原四郎左衛門尉」「佐原六郎兵衛尉」の名が見えるが、「新左衛門尉」「六郎兵衛尉」はそれぞれ光盛、時連に比定できるが、「佐原四郎左衛門尉」は不明である。

 寛元4(1246)年12月5日、「左衛門尉平盛時」「陸奥国糠部郡五戸」の「地頭代」職を得ているが、この「平盛時」は佐原盛時であろうと推測される(『宇都宮文書』)

 盛時の活躍が見え始めるのは、宝治元(1247)年の宝治合戦以降である。宝治合戦は、三浦惣領家の三浦泰村一党が安達義景一党と北条時頼によって攻め滅ぼされた戦いであるが、盛連の子は北条時頼に味方して三浦惣領家とは袂を分かった。これは矢部禅尼を通じた時頼との親昵によるものであったという。

 6月2日、盛連の子息、佐原太郎経連、比田次郎広盛、佐原次郎左衛門尉光盛、藤倉三郎盛義、佐原六郎兵衛尉時連が時頼邸の門が閉まる前に時頼方として参集した。しかし、ひとり五郎左衛門尉盛時が遅参していたため、光盛は門扉が閉まっては参じることができないと慌てたが、時連は門が閉ざされたところで盛時の参入には何の問題もないと心配していなかった。そして時連の言葉が終わらないうちに門袖を飛び超えて庭に降り立った男こそ盛時であった。兄弟は再会を喜び、人々もこれを見て感じ入ったという。

 宝治合戦では佐原一族の多くが三浦惣領家に随い多くの犠牲者を出した。北条時頼方に随った盛連一族の特殊性が際立っている。

●宝治合戦で三浦惣領家に属して討死した佐原一族

人物 続柄 備考
佐原十郎左衛門尉泰連 佐原十郎左衛門尉義連十男 6月21日、留守介より、陸奥国で討たれた報告。
佐原次郎信連 佐原十郎左衛門尉泰連次男 頼朝法華堂で自害か。
佐原三郎秀連 佐原十郎左衛門尉泰連三男 6月21日、留守介より、陸奥国で討たれた報告。
佐原四郎兵衛尉光連 佐原十郎左衛門尉泰連四男 頼朝法華堂で自害か。
佐原六郎政連 佐原十郎左衛門尉泰連五男 頼朝法華堂で自害か。
佐原七郎光兼 佐原十郎左衛門尉泰連六男 頼朝法華堂で自害か。
佐原十郎頼連 佐原十郎左衛門尉泰連七男 頼朝法華堂で自害か。
佐原肥前太郎左衛門尉胤家 佐原肥前守家連長男 頼朝法華堂で自害か。
佐原四郎左衛門尉光連 佐原肥前守家連次男 頼朝法華堂で自害か。
佐原六郎泰家 佐原肥前守家連三男 頼朝法華堂で自害か。
佐原七郎左衛門太郎泰連 佐原七郎左衛門尉政連長男 頼朝法華堂で自害か。

●佐原氏系譜■:北条時頼方 ■:三浦泰村方で滅亡

 三浦義村―――+―三浦泰村   +―佐原経連
(駿河前司)  |(若狭前司)  |(太郎兵衛尉)
        |        |
        +―矢部禅尼   +―比田広盛
           ∥     |(次郎)
           ∥     |
           ∥―――――+―藤倉盛義
 佐原義連―――+―佐原盛連   |(三郎)
(十郎左衛門尉)|(遠江守)   |
        |        +―佐原光盛
        |        |(次郎左衛門尉)
        |        |
        |        +―佐原盛時
        |        |(五郎左衛門尉)
        |        |
        |        +―佐原時連
        |         (六郎兵衛尉)
        |
        +―佐原家連―――+―佐原胤家
        |(肥前守)   |(肥前太郎左衛門尉)
        |        |
        |        +―佐原光連
        |        |(四郎左衛門尉)
        |        |
        |        +―佐原泰連
        |         (六郎)
        |
        +―佐原政連―――――佐原泰連
        |(七郎左衛門尉) (七郎左衛門太郎)
        |
        +―佐原泰連―――+―佐原信連
         (十郎左衛門尉)|(次郎)
                 |
                 +―佐原秀連
                 |(三郎)
                 |
                 +―佐原光連
                 |(四郎)
                 |
                 +―佐原政連
                 |(六郎)
                 |
                 +―佐原光兼
                 |(七郎)
                 |
                 +―佐原頼連
                  (十郎)

 宝治合戦ののち、生き残った三浦一族で有力な人物は、盛連の子息たちだけとなっていた。頼朝創業時には強大な勢力を誇った三浦一族は、和田合戦で和田義盛一族を喪い、宝治合戦で惣領家が滅亡。ついに庶流の佐原盛連家がかろうじてその家名を存続するまでに衰退してしまったのである。

 盛連の子息のうち、長男から三男まではいずれも矢部禅尼の子ではなかったため優遇されていなかった様子がうかがえ、官途上でも四男の光盛ら矢部禅尼の子よりも下に置かれていたようである。そして矢部禅尼所生の次郎左衛門尉光盛が佐原家の家督を継承。弟・五郎左衛門尉盛時が三浦家の家督を継承したようだ。兄・光盛が佐原家を継ぎ、弟・盛時が三浦家を継いだ背景には、佐原家が三浦家よりも家格が上であると暗に示されていると思われる。同様の事が千葉氏でも行なわれており、房総平氏の惣領家・上総権介広常が追罰されたあと、その「上総権介」を継承したのは、千葉介成胤の弟・境平次常秀であった。「上総権介」という房総平氏の惣領家由緒の官途名が、房総平氏庶流の千葉介の下位に置かれた好例である。

 三浦惣領一族が滅んだのちである。11月15日、宝治合戦の蝕穢と合戦に伴う八幡宮寺流鏑馬舎炎上で延期されていた放生会が開催された。このとき、盛時は「三浦」を称している

●宝治元(1247)年11月15日鶴岡八幡宮放生会(『吾妻鏡』)

先陣
随兵
波多野出雲前司義重 三浦五郎左衛門尉盛時 壱岐次郎左衛門尉 宇佐美藤内左衛門尉祐泰
二階堂信濃四郎左衛門尉行胤 二階堂和泉次郎左衛門尉行章 武蔵四郎時仲 宇都宮下野七郎経綱
北条六郎時定 越後五郎時員    
後陣
随兵
前大蔵権少輔景朝 安達城九郎泰盛 長井太郎時秀 畠山上野三郎国氏
後藤佐渡五郎左衛門尉基隆 摂津左衛門尉為光 伊豆太郎左衛門尉実保 加藤左衛門尉行景
伊賀次郎左衛門尉光房 江戸七郎太郎重光 大須賀左衛門尉胤氏 梶原右衛門尉景俊

 この放生会の随兵の列について、11月16日、三浦五郎左衛門尉盛時波多野出雲前司義重の下に列せられたことにつき、隻眼の義重のあとに列せられることなど我慢できないので供奉の列からはずれると苦情を訴えた。これを聞いた義重は激怒し、波多野家の源家に仕えた古さはどの家が勝ろうか。また隻眼になったのは承久の乱での名誉の傷であり、いまさら盛時が如き者の苦情など聞く耳もたんと突っぱねた。これを聞いた相模守重時と時頼が評定を行い、陸奥掃部助実時に指示をして、五位の位を持つ義重を上とすることで、決着させた。しかし、義重の怒りはおさまらなかったようで、盛時の申すことは甚だ傍若無人であり、後日のためにもきっと糾明するよう評定所に要求した。時頼らも困ったが、すでに沙汰が終わっており、重ねて苦情を申すことをしないように指示している。

 12月29日、京都大番勤仕の事についての結番が決められ、頼朝以来の名門御家人二十三人を対象に、各々三か月を限って在京し、京中所々を警固すべきことが命じられ、その十五番の所役が「三浦介」と定められた。これが盛時が「三浦介」を称した初見である。盛時が「三浦介」を称するようになったのは、11月中旬から12月下旬の間ということになる。

●宝治元(1247)年12月29日京都大番役勤仕結番(『吾妻鏡』)

一番 小山大夫判官(小山大夫判官長村)
二番 遠山前大蔵少輔(遠山前大蔵少輔景朝)
三番 島津大隅前司(島津大隈前司忠時)
四番 葛西伯耆前司(葛西伯耆前司清親)
五番 中条藤次左衛門尉(中条出羽次郎頼平か)
六番 隠岐出羽前司(二階堂出羽前司行義)
七番 上野大蔵権少輔(結城大蔵権少輔朝広)
八番 千葉介(千葉介頼胤)
九番 宍戸壱岐前司(宍戸壱岐前司家宗)
十番 足立左衛門尉跡(安達太郎左衛門尉直元ら)
十一番 後藤佐渡前司(後藤佐渡前司基綱)
十二番 伊東大和前司(伊藤大和前司祐時)
十三番 佐々木隠岐前司(佐々木隠岐前司政義)
十四番 佐々木壱岐前司(佐々木壱岐前司泰綱)
十五番 三浦介(三浦介盛時)
十六番 名越尾張前司(名越尾張前司時章)
十七番 秋田城介(安達秋田城介義景)
十八番 大友豊前前司跡 (大友式部大夫頼泰ら)
十九番 足利左馬頭入道(足利左馬頭義氏入道正義)
二十番 天野和泉前司跡(天野和泉五郎左衛門尉政泰ら)
二十一番 信濃民部大夫入道(二階堂民部大輔行盛入道行然)
二十二番 宇都宮下野前司(宇都宮下野前司泰綱)
二十三番 甲斐前司 (長井甲斐前司泰秀)

 宝治2(1248)年4月20日、伊豆三島社への奉納武射の演習として、由比ヶ浜において百番の小笠懸が行われた。その射手十騎の一騎に「三浦介」の名が見える。8月15日の鶴岡八幡宮寺の放生会に際しては、将軍家御出の儀に先陣の隨兵十人の一人に「三浦介盛時」の名が見える。

●宝治2(1248)年4月20日由比ガ浜小笠懸射手(『吾妻鏡』)

北条六郎(北条時定) 尾張次郎(北条公時) 武蔵四郎(北条時仲) 足利三郎(足利家氏) 城三郎(大室景村)
城九郎(安達泰盛) 上野十郎(結城朝村) 土肥四郎(土肥実綱) 三浦介(三浦介盛時) 小笠原三郎(小笠原時直)

 建長元(1249)年8月10日、幕府は三浦介盛時へ宛てて、父・佐原遠江守盛連の所領は、兄・佐原光盛へ宛がうことになった旨の書状を発給している建長元(1249)年8月10日『関東御教書』。また、兄弟が新たに給わった相模国の所領については「大介沙汰」とすることとされ、盛時の沙汰に任されたということと思われる。その後も光盛、盛時、時連の三兄弟はそろって幕府に出仕、互いに協力しながら所役を務めている。

 建長2(1250)年2月26日、北条時頼は将軍・藤原頼嗣に対して、将軍家は「文武御稽古」が重要であることを申し上げ、「和漢御学問」については縫殿頭・三河前司を、「弓馬御練習」については秋田城介・小山出羽前司とともに「遠江次郎左衛門尉(光盛」「三浦介(盛時)」をその指導者に選んでいる。

 5月10日、旅御所の御馬場殿において笠懸が行なわれ、その射手として光盛、盛時兄弟が参加している。

●建長2(1250)年5月10日笠懸射手(『吾妻鏡』)

北条六郎
(北条時定)
遠江太郎
(北条清時)
武蔵四郎
(北条時仲)
城次郎
(関戸頼景)
尾張次郎
(北条時仲)
小山出羽前司
(小山長村)
城九郎
(安達泰盛)
遠江次郎左衛門尉
(佐原光盛)
上野十郎
(結城朝村)
薩摩九郎
(工藤祐朝)
三浦介
(三浦介盛時)
工藤六郎左衛門尉
(工藤祐長)
     

 8月15日、鶴岡八幡宮放生会の先陣の隨兵に「三浦介盛時」の名が見える。

●建長2(1250)年8月15日鶴岡八幡宮寺放生会随兵(『吾妻鏡』)

先陣隨兵 相模三郎太郎時成 武蔵四郎時仲 三浦介盛時 梶原左衛門尉景俊 上野五郎兵衛尉重光
常陸次郎兵衛尉行雄 足利三郎家氏 城九郎泰盛 北条六郎時定 遠江太郎清時
後陣隨兵 越後五郎時家 相模八郎時隆 武田五郎三郎政綱 江戸七郎太郎重光 二階堂出羽三郎行資
大泉九郎長氏 橘薩摩余一公員 土肥次郎兵衛尉朝平 葛西新左衛門尉清時 千葉次郎泰胤

 6月19日、相模守時頼は盛時邸を訪れた。訪問の理由は不明だが、盛時は時頼には義理の叔父に当たる人物であり、とくに用事のない来訪だったのかもしれない。

三浦氏
材木座より由比ガ浜

 8月18日の将軍家由比ガ浜逍遥の際の供奉として、弟の六郎左衛門尉時連と甥の遠江新左衛門尉経光が加わっている。経光は盛時の兄・次郎左衛門尉光盛の嫡男である。

 12月29日、陸奥守重時相模守時頼は、右大将家法華堂、右大臣家法華堂、二位家法華堂、義時法華堂の巡礼を行い、後藤佐渡前司基綱、小山出羽前司長村、三浦介盛時、二階堂出羽前司行義、刑部大輔入道らが参列した。

 建長3(1251)年5月15日、時頼の妻(重時娘)が産気づき、酉終わりの刻(午後7時ごろ)、若宮別当隆弁法印が加持に加わる中、玉のような男子が誕生した。正寿丸、のちの北条時宗である。時頼の舅の陸奥守重時は誕生以前からすでに時頼邸に参上して、生まれるのを今か今かと待っていた。このとき、一門として侍っていた盛時は、喜びのあまり、自分が騎乗し銀鞍を置いていた大嶋鹿毛という名馬を、陰陽師として産所に侍っていた主殿助安倍泰房に与えたという。

 建長4(1252)年、新将軍として後嵯峨上皇の皇子・三品宗尊親王の下向が決定し、親王の一行は3月、京都を経って、4月1日、片瀬川の宿に到着した。このとき、出迎えとして錚々たる鎌倉御家人が列しており、随兵として三浦介盛時、遠江次郎左衛門尉光盛が見える。

 建長8(1256)年11月3日、相模守時頼は赤痢を発症し、その後も容態は芳しくなく、11月23日、最明寺で師と仰ぐ蘭渓道隆を導師として落飾した。三十歳。法名は覚了房道崇。彼の落飾に伴い、有力御家人数名がともに出家を遂げているが、三浦兄弟は光盛、盛時、時連兄弟がそろって剃髪を遂げた。

●建長8(1256)年11月23日時頼素願に従う者(『吾妻鏡』)

結城一族 結城前大蔵権少輔朝広(信佛) 結城上野四郎左衛門尉時光 結城上野十郎朝村(蓮忍)
三浦一族 三浦遠江守光盛 三浦介盛時(浄蓮) 三浦大夫判官時連(観蓮)
二階堂一族 二階堂前筑前守行泰(行善) 二階堂前伊勢守行綱(行願) 二階堂信濃判官行忠(行一)

 こののち、盛時らの活躍は見えなくなるが、彼らの子や甥である三浦介六郎頼盛、遠江三郎左衛門尉泰盛、式部太郎左衛門尉光政、式部兵衛次郎光長、大炊助太郎経泰、遠江大炊助三郎、十郎左衛門尉頼連ら、次の世代の若者たちが育ち始めていた。

 文永2(1265)年1月3日の越後入道円勝の沙汰で行なわれた椀飯に際し、二の御馬を曳いた人物に「三浦介頼盛」が見えるため、このころには盛時はすでに家督を譲っていたものと思われる。

 盛時の妻は北条修理亮時員の娘で、北条家とは二重の縁で結ばれていた。

 北条時政―+―北条義時―――北条泰時
(遠江守) |(陸奥守)  (左京大夫)
      |         ∥―――――――――北条時氏―――北条時頼――北条時宗――北条貞時――北条高時
      | 三浦義村―――矢部禅尼      (修理亮)  (相模守) (相模守) (相模守) (相模守)
      |(駿河守)    ∥
      |         ∥―――――――――三浦介盛時
      |        佐原盛連      (三浦介)
      |       (遠江守)        ∥
      |                    ∥
      +―北条時房―――北条時盛――北条時員――娘
       (修理権大夫)(越後守) (修理亮)

●建長元(1249)年8月10日『関東御教書』(『宇都宮文書』:小田部庄左衛門氏蔵)

 御公克間克於遠江前司盛連跡者可為次郎左衛門尉光盛支配之由被定下了、
 至兄弟等新給相模国所々者、為大介沙汰随分限令支配、自今以後、
 相具盛連跡可被勤仕之状、依仰執達如件、
 
  建長元年八月十日           相模守(花押)
                     陸奥守(花押)
     三浦介殿

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