三浦氏 三浦義村

三浦氏
平忠通
(????-????)
三浦為通
(????-????)
三浦為継
(????-????)
三浦義継
(????-????)
三浦介義明
(1092-1180)
杉本義宗
(1126-1164)
三浦介義澄
(1127-1200)
三浦義村
(????-1239)
三浦泰村
(1204-1247)
三浦介盛時
(????-????)
三浦介頼盛
(????-1290)
三浦時明
(????-????)
三浦介時継
(????-1335)
三浦介高継
(????-1339)
三浦介高通
(????-????)
三浦介高連
(????-????)
三浦介高明
(????-????)
三浦介高信
(????-????)
三浦介時高
(1416-1494)
三浦介高行
(????-????)
三浦介高処
(????-????)
三浦介義同
(????-1516)
三浦介盛隆
(1561-1584)
   


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●三浦氏の惣領家●

三浦義村(????-1239)

 三浦氏六代当主。三浦介義澄の嫡男。母は伊東祐親入道娘。妻は河越次郎重時女(後妻?)。通称は平六。官位は従五位下のち正五位下。官職は右兵衛尉、左衛門尉、駿河守。関東営中の御厩別当。役職は土佐守護職、安房守護職、淡路守護職、紀伊守護職(?)。生年は不明だが、父の三浦介義澄が大治2(1127)年生まれで、次男の駿河次郎泰村が元暦元(1184)年生まれであり、久寿2(1155)年ごろの生まれであろうか。

 治承4(1180)年の頼朝挙兵の際には、祖父・義明、父・義澄、従兄・和田義盛らが参戦していることから、名は見えないが、おそらく義村も三浦勢の一員として参戦していたと思われる。

伊豆国 伊豆山権現 土肥弥太郎遠平
相模国 筥根権現 佐野太郎基綱
寒川神社 梶原平次景高
三浦十二天 佐原十郎義連
武蔵国 六所宮 葛西三郎清重
常陸国 鹿嶋神宮 小栗十郎重成
上総国 玉前神社 上総小権介良常
下総国 香取神宮 千葉小太郎胤正
安房国 東條寺 三浦平六義村
洲崎神社 安西三郎景益

 寿永元(1182)年7月12日、北条政子が出産のために比企が谷の館まで移り、8月11日夜、政子の陣痛が始まると、頼朝は祈祷のために伊豆権現、箱根権現ならびに近国の宮に奉幣の使いを送った。このとき「三浦平六」「安房東條寺(現在の天津神明神社)」へ使者として赴いている。これが史料上の義村の初見である。三浦氏は杉本太郎義宗以来、安房国北東部に所領を得ていた傍証である。平安時代末期には源義朝や上総平氏とも友好的な関係を持ちつつ、三浦半島と安房国を頻繁に行き来していたのだろう。

 その後はしばらくその活躍を見ることはできないが、平家との戦いには父の三浦介義澄らとともに参戦しており、元暦元(1184)年8月8日、頼朝代官・源範頼に随い西国へと赴いた。頼朝は長谷の稲瀬川に桟敷を敷いて彼らを見送った。

●元暦元(1184)年8月8日「西国下向御家人交名」(『吾妻鏡』元暦元年八月八日条)

三河守範頼 江間小四郎義時 足利蔵人義兼 武田兵衛尉有義 千葉介常胤 境平次常秀 三浦介義澄
三浦平六義村 八田四郎武者知家 八田太郎朝重 葛西三郎清重 長沼五郎宗政 結城七郎朝光 比企藤内所朝宗
比企藤四郎能員 阿曽沼四郎広綱 和田太郎義盛 和田三郎宗実 和田四郎義胤 大多和次郎義成 安西三郎景益
安西太郎明景 大河戸太郎広行 大河戸三郎 中条藤次家長 工藤一臈祐経 宇佐美三郎祐茂 天野藤内遠景
小野寺太郎道綱 一品房昌寛 土佐房昌俊        

 9月2日、京都を出陣した範頼の軍勢はさらに西に向かい、翌元暦2(1185)年1月26日、元暦2(1185)年1月26日、豊後国の豪族・臼杵二郎惟隆・緒方三郎惟栄らが総大将・三河守範頼に進呈した兵船八十二艘に乗り、九州の平家党を討つために船出したが、父・義澄が千葉介常胤の推薦によって周防国の守護を命じられて留まったため、おそらく義村も九州に渡らず、周防に残ったと思われる。

●元暦2(1185)年1月26日「豊後国渡海御家人交名」(『吾妻鏡』元暦ニ年一月二十六日条)

三河守範頼 江間小四郎義時 足利蔵人義兼 小山兵衛尉朝政 長沼五郎宗政 結城七郎朝光 武田兵衛尉有義
斎院次官中原親能 千葉介常胤 境平次常秀 下河辺庄司行平 下河辺四郎政義 阿曽沼四郎広綱 三浦介義澄
三浦平六義村 八田四郎武者朝家 八田太郎朝重 葛西三郎清重 渋谷庄司重国 渋谷二郎高重 比企藤内所朝宗
比企藤四郎能員 和田太郎義盛 和田三郎宗実 和田四郎義胤 大多和次郎義成 安西三郎景益 安西太郎明景
大河戸太郎広行 大河戸三郎 中条藤次家長 加藤次景廉 工藤一臈祐経 宇佐美三郎祐茂 天野藤内遠景
一品房昌寛 土佐房昌俊 小野寺太郎道綱        

 その後、鎌倉軍搦手の大将・源九郎義経が四国から周防国に渡ってきた。3月21日、周防国衙船所船所五郎正利が義経に舟を進呈。翌22日、義経は数十艘の兵船を従えて、長門国府沖壇ノ浦へ向けて船出を計画した。これを聞いた父・義澄は、義経に会うために大嶋津の陣所を訪れ義経と対面した。ここで義経は義澄に、

汝、已に門司関を見る者なり、今案内者と謂ひつべし、然れば先登すべし

と指示している。義澄の周防国守護は大手大将軍の三河守範頼に命じられたもので、義経の独断でこれを

 これに、義澄も壇ノ浦奥津辺へ船を進めているが、義村も同道したと思われる。このとき、屋島を発って長門国彦島に布陣して、鎮西と中国を押さえていた新中納言平知盛を頼って西行平家軍は、義経勢に追われる近づいてくる源氏勢に対して赤間ヶ関を経て田之浦まで船を進めた。そして翌3月24日、赤間が関沖、壇ノ浦で行われた戦いが「壇ノ浦の合戦」である。三浦氏は相模から安房にかけて海をまたにかける海将であり、壇ノ浦の戦いでは三浦氏も大いに活躍したのだろう。結果、平家一門は滅亡した。

 4月11日、鎌倉では勝長寿院(源義朝、鎌田正清らを祀る寺。南御堂)の柱立が執り行われ、頼朝も参列していた。このとき義経からの使者が到来。「平家討滅」の知らせが伝えられた。

 10月24日、勝長寿院供養が執り行われ、巳の刻(午前九時)になって頼朝は邸から徒歩で長勝寿院へと向かい、数多くの御家人が随兵としてこれに付き従った。義村は寺の門の東側を守る随兵として参じた。

●長勝寿院供養に供奉した御家人(『吾妻鏡』文治元年十月二十四日条)

随兵十四人
畠山次郎重忠 千葉太郎胤正 三浦介義澄 佐貫四郎大夫広綱 葛西三郎清重 八田太郎朝重
榛谷四郎重朝 加藤次景廉 藤九郎盛長 大井兵三次郎実春 山名小太郎重国 武田五郎信光
江間小四郎義時 小山兵衛尉朝政        
  小山五郎宗政(御剣)、佐々木四郎左衛門尉高綱(御鎧)、愛甲三郎季隆(御調度)
五位六位三十二人
(布衣下括)
源蔵人大夫頼兼 大内武蔵守義信 三河守源範頼 安田遠江守義定 足利上総介義兼
狩野前対馬守親光 前上野介範信 宮内大輔源重頼 皇后宮亮仲頼 大和守重弘
因幡守大江広元 村上右馬助経業 橘右馬助以広 関瀬修理亮義盛 平式部大夫繁政
安房判官代高重 藤判官代邦通 新田蔵人義兼 奈胡蔵人義行 所雑色基繁
千葉介常胤 千葉六郎大夫胤頼 宇都宮左衛門尉朝綱 八田右衛門尉知家 梶原刑部丞朝景
牧武者所宗親 後藤兵衛尉基清 足立右馬允遠元    
随兵十六人
下河辺庄司行平 稲毛三郎重成 小山七郎朝光 三浦十郎義連 長江太郎義景
天野藤内遠景 渋谷庄司重国 糟谷藤太有季 佐々木太郎左衛門尉定綱 広沢三郎実高
千葉平次常秀 梶原源太左衛門尉景季 村上左衛門尉頼時 加賀美次郎長清  
随兵の長官 和田小太郎義盛・梶原平三景時
随兵六十人〔東〕
(弓馬の達者)
⇒門外左右に
 伺候
足利七郎太郎 佐貫六郎広義 大戸川太郎広行 皆川四郎 千葉四郎胤信
三浦平六義村 和田三郎宗実 和田五郎義長 長江太郎義景 多々良四郎明宗
沼田太郎 曾我小太郎祐綱 宇治蔵人三郎義定 江戸七郎重宗 中山五郎為重
山田太郎重澄 天野平内光家 工藤小次郎行光 新田四郎忠常 佐野又太郎
宇佐美平三 吉川二郎 岡部小次郎 岡村太郎 大見平三
臼井六郎 中禅寺平太 常陸平四郎 所六郎朝光 飯富源太
随兵六十人〔西〕
(弓馬の達者)
⇒門外左右に
 伺候
豊嶋権守清光 丸太郎 堀藤太 武藤小次郎資頼 比企藤次
天羽次郎直常 都築平太 熊谷小次郎直家 那古谷橘次頼時 多胡宗太
蓬七郎 中村右馬允時経 金子十郎家忠 春日三郎貞幸 小室太郎
河匂七郎政頼 阿保五郎 四方田三郎弘長 苔田太郎 横山野三刑部丞成綱
西太郎 小河小次郎祐義 戸崎右馬允国延 河原三郎 仙波次郎
中村五郎 原次郎 猪俣平六則綱 甘粕野次広忠 勅使河原三郎有直

 文治2(1186)年11月12日、若公万寿(源頼家)が鶴岡八幡宮寺に参詣した際、小山五郎宗政、小山七郎朝光、千葉平次常秀、梶原三郎景茂、梶原兵衛尉景定とともに供奉した。

 文治5(1189)年7月19日、頼朝は奥州藤原氏追討のため鎌倉を発った。このとき義村も従軍している。

●文治5(1189)年7月19日奥州出兵名簿(『吾妻鏡』 )

先陣
畠山次郎重忠 長野三郎重清 大串小次郎重親 本田次郎親恒 榛沢六郎成清 柏原太郎
 
平賀武蔵守義信 安田遠江守義定 三河守範頼 加賀美信濃守遠光 平賀相模守惟義 駿河守広綱
足利上総介義兼 山名伊豆守義範 安田越後守義資 毛呂豊後守季光 北条四郎時政 江間小四郎義時
北条五郎時房 式部大夫中原親能 新田蔵人義兼 浅利冠者遠義 武田兵衛尉有義 伊沢五郎信光
加賀美次郎長清 加賀美太郎長綱 小山兵衛尉朝政 小山五郎宗政 小山七郎朝光 下河辺庄司行平
吉見次郎頼綱 南部次郎光行 平賀三郎朝信 三浦介義澄 三浦平六義村 佐原十郎義連
和田太郎義盛 和田三郎宗実 小山田三郎重成 榛谷四郎重朝 藤九郎盛長 足立右馬允遠元
土肥次郎実平 土肥弥太郎遠平 岡崎四郎義実 岡崎先次郎惟平 土屋次郎義清 梶原平三景時
梶原源太左衛門尉景季 梶原平次兵衛尉景高 梶原三郎景茂 梶原刑部丞景友 梶原兵衛尉定景 波多野五郎義景
中山四郎重政 中山五郎為重 渋谷次郎高重 渋谷四郎時国 大友左近将監能直 河野四郎通信
豊嶋権守清光 葛西三郎清重 葛西十郎清宣 江戸太郎重長 江戸次郎親重 江戸四郎重通
江戸七郎重宗 山内三郎経俊 大井次郎実春 宇都宮左衛門尉朝綱 宇都宮 次郎業綱 八田右衛門尉知家
江戸太郎朝重 工藤主計允行政 民部丞平盛時 豊田兵衛尉義幹 大河戸太郎広行 佐貫四郎広綱
佐貫五郎 佐貫六郎広義 佐野太郎基綱 阿曽沼次郎広綱 波多野余三実方 小野寺太郎道綱
工藤庄司景光 工藤次郎行光 工藤三郎助光 狩野五郎親光 常陸次郎為重 常陸三郎資綱
加藤太光員 加藤次景廉 佐々木三郎盛綱 佐々木五郎義清 曽我太郎助信 橘次公業
宇佐美三郎祐茂 二宮太郎朝忠 天野右馬允保高 天野六郎則景 伊藤三郎 伊藤四郎成親
工藤左衛門尉祐綱 仁田四郎忠常 仁田六郎忠時 熊谷小次郎直家 堀藤太 堀藤次親家
伊沢左近将監家景 江右近次郎 岡部小次郎忠綱 吉香小次郎 中野小太郎助光 中野五郎義成
渋河五郎兼保 春日小次郎貞親 藤沢次郎清近 飯富源太宗季 大見平太家秀 沼田太郎
糟屋藤太有季 本間右馬允義忠 海老名四郎義季 所六郎朝光 横山権守時広 三尾谷十郎
平山左衛門尉季重 師岡兵衛尉重経 野三刑部丞成綱 中條藤次家長 岡部六野太忠澄 小越右馬允有弘
庄三郎忠家 四方田三郎弘長 浅見太郎実高 浅羽五郎行長 小代八郎行平 勅使河原三郎有直
成田七郎助綱 高畠大和太郎 塩谷太郎家光 阿保次郎実光 宮六兼仗国平 河匂三郎政成
七郎政頼 中四郎是重 一品房昌寛 常陸房昌明 尾藤太知平 金子小次郎高範

 8月7日、鎌倉勢本隊は奥州藤原氏の先陣・西木戸太郎国衡(藤原泰衡の異母兄)が守る伊達郡阿津賀志山に近い国見駅に到着。8月9日夜、頼朝は明日の明け方に阿津賀志山を攻略することを諸将と申し合わせた。しかし、義村、葛西三郎清重、工藤小次郎行光、工藤三郎祐光、狩野五郎親光、藤沢二郎清近、河村千鶴丸(十三歳)の七騎が示し合わせて、夜のうちにひそかに畠山重忠の陣の前に出て、山越の抜け駆けを試みた。畠山重忠はこれを知ったが、まったく落ち着いて、重忠が先陣を承っている以上、重忠よりも前に合戦した功績はすべて重忠のものであるとし、先頭に進もうとする者を妨げることは本意ではない上、勲功を争うことに似ていると、とくに問題にしなかった。

 一方、夜のうちに山越えをした義村らは、終夜山を歩き、ようやく砦の木戸口にたどり着いた。ここで彼らは大音声で名乗りを上げると、泰衡の郎従、部伴藤八らの武勇の者が砦から繰り出してきた。これに工藤小次郎行光が先頭を切って馳せ向かい打ち合った。この激戦で狩野五郎親光が討死を遂げた。

 工藤行光は「六郡第一強力者」とされる部伴藤八と轡を並べて押し合い、組み合い、ようやく彼を討ち取った。行光は彼の首を鳥付に高く掲げて木戸を攻め破ると、騎馬武者二騎が馬から落ちて組み打ちを演じていた。行光はその名を問うと、藤沢清近であった。行光は早速清近に助太刀して敵兵を討った。清近はその合力に感動し、行光の子を婿に迎える約束を取り付けた。葛西清重、河村千鶴丸も敵を数人討ち取る功績を挙げている。しかし、この戦いで義村の活躍ぶりは描かれていない。

 8月10日、阿津賀志山を攻略した鎌倉勢は、12日、多賀城において海道軍を率いてきた千葉介常胤、八田右衛門尉知家と合流。21日、栗原、三迫の奥州勢を打ち破ると、22日、焼け野原となっていた平泉に入った。すでに主の藤原泰衡は平泉の各所に火を放ち逃亡していたのであった。 

●奥州藤原氏略系譜●

 藤原経清――+―清衡――――+―基衡――――+―秀衡――――+―国衡
(亘理権大夫)|(陸奥押領使)|(陸奥押領使)|(鎮守府将軍)|(西木戸太郎)
       |       |       |       |
       |       +―惟常    +―秀栄    +―泰衡
       |                       |(陸奥出羽押領使)
       |                       |
       +―清綱――――+―俊衡――――+―師衡    +―忠衡
        (亘理権十郎)|(樋爪太郎) |(大田冠者) |(泉三郎)
               |       |       |
               |       +―兼衡    +―高衡
               |       |(次郎)   |(本吉四郎)
               |       |       |
               |       +―忠衡    +―通衡
               |        (河北冠者) |(出羽押領使)
               |               |
               +―季衡――――+―経衡    +―頼衡
                (五郎)   |(新田冠者)
                       |
                       +―通衡

 9月3日、平泉を遁れた泰衡「夷狄嶋 (北海道か?)」に渡るために糠部郡に駐屯したが、このとき譜代の郎従・河田次郎が郎従を率いて泰衡を囲み、殺害。陸奥出羽国押領使・藤原泰衡はわずか二十五歳の生涯を閉じた。首は河田次郎から後日、頼朝に献じられたが、頼朝は河田次郎の変節をなじって処刑している。

 9月4日、頼朝はさらに奥州を平定するために志波郡陣ガ丘紫波町宮手字陣ヶ岡に 移った。これに泰衡の一族で樋爪館紫波郡紫波町南日詰箱清水樋爪太郎俊衡法師が館を焼いて逃亡。頼朝は義澄に彼の追捕を命じ、義澄は弟の十郎義連、嫡男・義村らを率いて出兵した。結局、義澄らは俊衡一族を捕らえることはできなかったが、俊衡一党は9月15日、俊衡入道、弟の五郎季衡、俊衡の三人の子(大田冠者師衡、次郎兼衡、河北冠者忠衡)、季衡の子(新田の冠者経衡)がそれぞれ厨川の頼朝の陣に降伏してきた。頼朝は彼らと対面するが、すでに六十歳を越えた俊衡入道は十日にもわたる逃亡の日々に疲れきっており、さすがの頼朝も哀れに思い、八田知家に預けた。知家の陣に連れてこられた俊衡入道は法華経を読経し続けるのみで、ほかには一言も発しなかったという。知家は熱心に仏教を信仰する男であり、この態度に感服。翌16日、知家は頼朝に面会して、このことを言上した。頼朝も日ごろから法華経を信仰していたことから、俊衡入道を赦した上、本領・樋爪を安堵した。

無量光院
無量光院跡遠景

 9月19日、厨河を発って平泉へ帰還。翌20日、平泉において今回の戦いの論功行賞が行われた。おそらく義澄、義村以下の三浦一族に対しても行賞が行われたと思われる。23日、頼朝は藤原秀衡建立の無量光院を巡礼した。宇治の平等院鳳凰堂を模した寺院であり、平泉の文化レベルの高さを垣間見たことだろう。さらに中尊寺大長寿院の二階大堂に衝撃を受けたと思われる。10月24日に鎌倉に帰還した頼朝は、すぐに二階大堂を模した寺院・永福寺の建立を計画し ている。

粟田口蹴上
京都粟田口

 文治6(1190)年11月7日、頼朝は上洛を果たした。粟田口から入京した鎌倉勢は六波羅に駐屯することとなる。義村は随兵の五十七番として供奉した。

 11月11日、頼朝の岩清水八幡宮参詣に、頼朝の後ろに三河守範頼、駿河守広綱、相模守惟義、伊豆守義範、村上右馬允経業、江間小四郎義時、宇都宮左衛門尉朝綱、八田右衛門尉知家、足立右馬允遠元、比企藤四郎能員、千葉介常胤と並んで供奉した。さらに29日、夜の院参について、義澄を筆頭に足立右馬允遠元、下河辺庄司行平、小山七郎朝光、千葉新介胤正、八田太郎朝重、小山田三郎重成、三浦十郎義連、三浦平六義村、梶原左衛門尉景季、加藤次景廉、佐々木三郎盛綱が供奉した。

左兵衛尉 境常秀(祖父・千葉介常胤の勲功)
梶原景茂(父・梶原景時の勲功)
八田朝重(父・八田知家の勲功)
右兵衛尉 三浦義村(父・三浦義澄の勲功)
葛西清重
左衛門尉 和田義盛
三浦義連

足立遠元
右衛門尉 小山朝政
比企能員

 そして12月11日、頼朝は院参の上、後白河法皇に数刻祇候。そこで御家人十名について挙任した。法皇からは勲功の労によって二十名を挙げるよう指示があったが、頼朝はこれを辞退し、結局略して十名を推挙することとなった。義澄は右兵衛尉への推挙であったが、義澄は義村にその勲功を譲り、義村が右兵衛尉に任官した。

 建久2(1191)年1月2日、三浦邸において椀飯が行われ、義澄が剣を持ち、弓は岡崎四郎義実、行騰は和田三郎宗実、砂金は三浦左衛門尉義連、鷲羽は比企右衛門尉能員がそれぞれ捧げ、馬は右兵衛尉義村、三浦太郎景連が献じた。

 建久3(1192)年7月4日、御台所北条政子の御産の間の調度品を納入。三浦介義澄千葉介常胤が担当したが、彼らは三浦義村、千葉常秀を差し遣わして奉行させた。そして8月9日早朝、御台所北条政子は男子を出産した。名乗りは千萬。のちの三代将軍実朝である。相模国の寺社に対して神馬を献上して安産祈願を行う奉行として、義村と梶原景季が任じられた。

鶴岡八幡宮馬場通
鶴岡八幡宮流鏑馬道

 建久4(1193)年8月15日、16日で行われた鶴岡八幡宮寺の放生会では、16日の流鏑馬に義村が参加。弓術に優れた若手の御家人十二名が妙技を披露した。そして翌17日、先に反逆の疑いで捕らわれていた三河守範頼が北条時政の本貫地である伊豆国田方郡に流されることとなり、伊豆国の在庁出身の狩野介宗茂宇佐美三郎祐茂両名が守護して下向となった。

 建久5(1194)年2月2日、御所において江間義時の嫡男・金剛(のちの泰時)が十三歳にて元服した。元服式では、祖父の北条時政が金剛の手を引いて西侍にあらわれたのち、頼朝が上座に座り元服式が執り行われた。このとき、脂燭の役を務めたのが、最前に列する武蔵守義信千葉介常胤であった。元服後は頼朝の一字を賜り「太郎頼時」と改められた。

●金剛(北条泰時)元服の配置図(幕府西侍配置)

  【右】   源頼朝   【左】  
畠山重忠
三浦義澄
土屋宗遠
藤九郎盛長
大須賀胤信

千葉常胤
千葉胤正
梶原景時
和田義盛
三浦義連
梶原朝景
  金剛(北条泰時)   平賀義信
山名義範
平賀惟義
源重弘
葛西清重
佐々木盛綱
足利義兼
加賀美遠義
江間義時
八田知家
加藤景廉
    
 
北条時政  下河辺行平 宇都宮頼綱 宇佐美祐茂 比企能員 江戸重長
結城朝光 小山朝政 岡崎義実 榛谷重朝 足立遠元 比企朝宗
 

 その後の歌舞宴ののち、頼朝は三浦介義澄を傍に召して「この冠者を以て聟と為すべし」と申し含め、義澄は「孫女の中より好婦を撰びて、仰せに随うべし」と返答したという。こののち、頼時(泰時)に嫁いだ娘が義村の娘で、のちの矢部禅尼(北条時頼の祖母)である。

 8月8日の頼朝の相模国日向山参詣に供奉し、閏8月1日には頼朝の三浦周遊に供奉した。頼朝は三浦半島の先端、三崎津に山荘を建てており、三浦介義澄が酒や珍味を取り揃えて接待をつとめている。またこの三崎の山荘からの眺望は絶景であったようで、白波が岸壁に打ち寄せる様、絶海の岸壁の地形などが興をそそったと伝えられている。

東大寺
東大寺大仏殿

 建久6(1195)年の頼朝の東大寺供養に供奉して上洛。3月10日、東大寺に到着した。27日には参内の随兵八騎の一人として供奉した。

 4月1日には、京都勘解由小路京極で、平家の家人で平家滅亡後十年にわたって行方をくらましていた「前中務丞宗資父子」結城七郎朝光、梶原平三景時とともに逮捕した(『吾妻鏡』建久六年四月一日条)。頼朝は多数の御家人を従えて東大寺に入り、その威に押された僧侶大衆はみな引いたが、その中で不敵な態度をしていたのか頭から袈裟を被った宗資父子は「怪しばみたる者」と頼朝の目に映った。頼朝はすぐに梶原景時を召し出すと、南大門の東脇に怪しい者がいるので詮索せよと命じた。これを受けた景時は、大衆の中を掻き分けて、この怪しい僧侶を捕らえると袈裟を引き剥がした。すると鬚は剃っているが髪は剃っていない怪しげな男であった。「何者ぞ」と景時が問うと、観念したのか彼は「平家の侍、薩摩中務丞宗資と申す者にて候なり」と白状した。彼は頼朝を殺害するために南大門脇に隠れていたのだという(『平家物語』)。頼朝はその心は神妙であると、大仏供養が終わるまで軟禁し、京都に召し連れたのちに六条河原で処刑したという。

 4月15日、頼朝は石清水八幡宮に参詣した。義村は先陣の随兵十名の一人として供奉した。

前駆 伊賀守仲教、相模守惟義、豊後守季光
先陣 江間小四郎義時、小山左衛門尉朝政、三浦兵衛尉義村葛西兵衛尉清重
大友左近将監能直、仁田四郎忠常、後藤左衛門尉基清、八田左衛門尉朝重、
里見太郎義成、武田五郎信光
後陣 千葉新介胤正、土屋兵衛尉義清、稲毛三郎重成、梶原左衛門尉景季、
佐々木左衛門尉定綱、土肥先次郎惟平、足立左衛門尉遠元、比企右衛門尉能員、
小山七郎朝光、南部三郎光行

 そして、この上洛が頼朝の最後の上洛となった。建久10(1199)年正月13日、鎌倉殿頼朝入道が入滅する(『猪隈関白記』)。その報はわずか四日後の正月17日には京都に届いており、その三日後の正月20日、「前将軍去十一日出家、十三日入滅、大略頓病歟、未時許除目、頭権大夫承仰内覧、殿下即参内、可書下由有院宣云々(『明月記』建久十年正月廿日条)と、関白基通に「臨時除目」の内覧を経て大間書の執筆を命じる院宣が下された。そして、「其後隆保朝臣参入、申必定入滅由、飛脚到来云々、除目此事以前之由有沙汰云々(『明月記』建久十年正月廿日条)と、頼朝の従弟にあたる左馬頭源隆保から正式に頼朝入道入滅が報告された。この除目には頼朝嫡子・頼家の任官が含まれているが、除目は報告前だったという体が採られることで、除目自体には問題がないとされたようである。

■建久十年正月二十日臨時除目(『明月記』『業資王記』)

官途 名前 備考1 備考2
右近衞大将 源通親   後鳥羽院別当。同日、右大将頼実が辞状を上表している
左近衞中将 源頼家 関東息 官位は正五位下のまま
少納言 藤原忠明 故中山内府(藤原忠親)息  
内蔵頭 藤原仲経 伯耆守如元 後鳥羽院別当。別当高階経仲の後任
造東大寺長官 藤原資実   後鳥羽院別当。摂政基通家司

 しかし、このことを藤原定家は「今朝早々右大将上表使成定朝臣、少納言忠明、内蔵頭仲経、右近大将通親、中将頼家、造東大寺長官資実、遭喪之人、本官猶以服解、今聞薨由被行任官、頗背人倫之儀歟、春除目以前、臨時除目頗珍事歟、後聞、内覧極僻事也、此除目十四日僧事不内覧(『明月記』建久十年正月廿日条)と記し、本来遭喪の人は服解すべきであるにも拘わらず、いま頼朝薨去の聞が来たのに(頼朝子息頼家の)任官が行われたことは頗る人倫の道に背くことであると強く批判。さらに春除目以前に臨時除目が行われることも極めて珍事であり、関白基通に至っては除目も僧事も内覧しないという言語道断の所行に激怒している。

 この臨時除目は頼朝入道入滅が公表される前に、大納言源通親が主導的立場となって急遽行われたとみられ、本来は春除目後に行われる予定であった臨時除目と、予定になかった頼家の除目を加えて行われたのであろう。この日「右丞相被献辞右近大将之状」(『猪隈関白記』建久十年正月廿日条)とある通り、右大臣頼実から右近衞大将の辞状が上表され、通親が即日新右近衞大将(兼右馬寮御監)となったが、大将任官は任大臣の布石である(『公卿補任』)。同時に頼家は五位のまま左近衞中将に任じられた(『公卿補任』)。これは摂関家嫡子と同等の「五位中将」の待遇となる。関白兼実を事実上追いやり、当時の朝廷で絶大な権力を持った源通親が、関東との関係重視の姿勢を見せるとともに、頼朝亡き後の諸国の武士の動揺が再乱の発生へとつながることを危惧し、「安穏」の世を担保する公的保障(摂関家に準じる家格と官途)を緊急で与えたものではなかろうか。本来は服喪となるべき頼家を、頼朝の死を隠してまで急ぎ任官させる理由はこの他に考えにくい。 

梶原景時弾劾

 正治元(1199)年10月25日、結城朝光は夢のお告げがあったとして幕府侍所で亡き頼朝のために「人別一万反弥陀名号」を唱えることを同僚の御家人に勧めたため、彼らはこぞって阿弥陀仏の名号を唱えた。このとき朝光はふと、

吾聞、忠臣は二君に事えずと。殊に幕下の厚恩を蒙るなり。遷化の刻、遺言有るの間、不令出家遁世せしめざるの条、後悔一に非ず。且今世上を見るに、薄氷を踏むが如し

と嘆息を漏らした。朝光は頼朝の乳母・寒河尼(八田宗綱女子)を母とし、十四歳のときから近侍して「無双近仕」と称されるほど鍾愛された人物であり、その心を察して人々はみな涙を流したという。

 しかし、このことを梶原景時がどこからか聞きつけ、朝光の「忠臣は二君に事へず」という発言を将軍・頼家に讒言した。これを聞いた御台所北条政子の実妹で御所の女房・阿波局は翌27日、朝光にそっと

景時の讒訴に依て、汝、已に誅戮を蒙らんと擬す、その故は『忠臣は二君に事へずの由述懐せしめ、当時を謗り申す、これ何ぞ仇敵にあらざるや、傍輩を懲肅せんが為に、早く断罪せらるべし』とつぶさに申す所なり、今に於いては虎口の難を遁るべからざるか

と伝えた。これを聞いた朝光は困り果て、「断金朋友」である「前右兵衛尉義村」の屋敷を訪れて、火急の用事があることを告げて義村と会談。朝光は、

予、亡父政光法師が遺跡を伝領せずと雖も、幕下に仕うるの後、始めて数箇所の領主と為る。その恩を思はば、須弥の頂上より高し、その往事を慕うの余り傍輩の中に於いて『忠臣は二君に事へざる』の由を申すの處、景時、讒訴の便、已に申し沈むの間、忽ち以って逆悪に処せられ誅を蒙らんと欲するの旨、只今その告げあり、二君と謂ふは必ずしも父母兄弟に依らざるか、後朱雀院、御悩危急の間、御位を東宮後冷泉院に譲り奉り御ひ、後三条院を以って立坊奉らむ、時において宇治殿を召し、両所の御事を仰せ置かるる、今上の御事に於いては、之を承る由申し給ふ、東宮の御事に至りては御返事申されずと、先規この如し、今一身の述懐を以って強ち重科に処せられる難からんか

と弱りきって話した。

 これを聞いた義村は、

縡は已に重事に及ぶなり、殊に計略無くば、曽ってその災いを攘い難からんか、凡そ文治以降、景時が讒に依りて命を殞い失滅するの輩、勝に計るべからず、或ひは今において見存し、或いは累葉愁墳を含むことこれ多し、即ち景盛、去る比、誅せられんと欲す、併せて彼が讒より起こる、その積悪定めて羽林に帰し奉るべし、世の為、君の為、退治せぬこと有るべからず、然れども弓箭にて勝負を決せば、また邦国の乱を招くに似たり、須く宿老等に談合すべし

と、この親友の為に一肌脱ぐことを決め、とりあえず和田左衛門尉義盛藤九郎盛長入道を屋敷に招き、朝光の話をつぶさに伝えた。すると彼らは、

早く同心の連署状を勤めてこれを訴え申すべし、彼の讒者一人を賞せらるべきか、諸御家人を召し仕わらるべきか、まず御気色を伺ひて、裁許無くば直に死生を諍ふべし、件の状、誰人の筆削たるべきや

と、やはりこの二人の宿老も景時に対しては怒りをもっていたことが感じられる。早速に諸御家人の連署状を作成して嘆願することを決定した。誰にこの連署状の筆を執ってもらうかについて、義村は、

仲業文筆誉れの上、景時に於いて宿意を挿むか

と、文筆に長けている右京進中原仲業は景時にも個人的に恨みを持っているとして、仲業を屋敷に招いた。すると仲業はすぐに走り来て、この話を聞いて手をたたいて喜び、

鶴岡八幡宮遠景
鶴岡八幡宮

「仲業、宿意を達せんと欲す、堪えずと雖も、盍ぞ筆を励まさざらんや」

と、その連判状の作成を喜んで引き受けた。この景時追放の密議が終わり、義村は彼らと杯を交わし、夜に入っておのおの三浦屋敷を退いていった。おそらく義村らはその後すぐに有力御家人に対して事の次第を伝え、明日28日に鶴岡八幡宮寺に参集するよう伝えたと思われる。翌28日巳刻(午前10時頃)には鶴岡八幡宮寺の廻廊に多くの御家人が集結した。

●建久10(1199)年10月28日『梶原景時弾劾状署名宿老六十六名』(『吾妻鏡』)

千葉介常胤 三浦介義澄 千葉太郎胤正 三浦兵衛尉義村
畠山次郎重忠 小山左衛門尉朝政 小山七郎朝光 足立左衛門尉遠元
和田左衛門尉義盛 和田兵衛尉常盛 比企右衛門尉能員 所右衛門尉朝光
二階堂民部丞行光 葛西兵衛尉清重 八田左衛門尉知重 波多野小次郎忠綱
大井次郎実久 若狭兵衛尉忠季 渋谷次郎高重 山内刑部丞経俊
宇都宮弥三郎頼綱 榛谷四郎重朝 安達藤九郎盛長入道 佐々木三郎兵衛尉盛綱入道
稲毛三郎重成入道 安達藤九郎景盛 岡崎四郎義実入道 土屋次郎義清
東平太重胤 土肥先次郎惟光 河野四郎通信 曾我小太郎祐綱
二宮四郎 長江四郎明義 毛呂二郎季綱 天野民部丞遠景入道
工藤小次郎行光 中原右京進仲業 小山五郎宗政

 彼らは景時に対して向背することを八幡大菩薩に誓い、仲業が訴状を捧げて廻廊に並ぶ御家人たちに対して読み上げた。義村が訴状の中でもっとも感銘を受けた文章が「鶏を養はば狸を蓄せず、獣を牧さば狼を育てず」という部分であったという。御家人(鶏、獣)の集団である幕府は異端の存在である景時(狸、狼)を認めないという意味であろうが、自らをも戒める意味にも捉えたのかもしれない。

 訴状が読み上げられたあと、六十六名もの御家人が署名し、判を加えた。しかし、その中で当の結城朝光の実兄である五郎宗政が署名はしたが判を加えなかったことに、弟の危機を救うために朋輩たちが身を捨てて事に及ぼうとしているのに、兄である宗政が異心を持っているのはいかがなものかと批判が集まっている。こののち、和田義盛、三浦義村がこの連判状を持って家司の別当中原広元に手渡した

大蔵幕府
大倉幕府跡(寝殿から西侍辺りか)

 しかし、中原広元はこの連判状を受取ったものの、どのように処理してよいか迷った。確かに景時の讒言妄言はいまさら言うことはないが、右大将家は景時を信頼して彼もこれに答えていた。このような事態になったからといってすぐに罪科に問うことはいかがなものか。景時とほかの御家人たちとの間を取り持つべきかどうか、考えに考えており、この訴状をしばらく将軍・頼家に披露していなかった。すると11月10日、広元は和田義盛と御所で出くわし、義盛から、

「彼の状定めて披露せらるるか、御気色は如何に」

と問い詰められた。義盛はおそらく裁許が遅いことに苛立っていたのだろう。広元はやむなく、

「未だ申さず」

と答えた。すると、義盛は目を剥いて、

「貴客は関東の爪牙、耳目として、已に多年を歴るなり、景時一身の権威を怖れて諸人の欝陶を閣く、寧ろ憲法に叶わんや」

と怒り散らした。これに対し、広元もプライドを傷つけられたのだろう。気色ばんで、

「全く畏怖の儀にあらず、ただ彼の損亡を痛む計なり」

と反論。すると義盛はさらに詰め寄って、

「恐れずば諍か数日を送るべしや、披露せらるべきや否や、今これを承り切るべし」

と責め立てた。これに広元も怒ったのだろう。「申すべし」と言い捨てて座を立った。

 11月12日、広元は約束どおり、連判状を頼家に披露した。これを読んだ頼家はただちに景時にこの連判状を見せ、説明を求めた。結局、景時は陳謝することはせず、翌13日、一族を率いて相模国一宮の屋敷に出奔した。ただ、三男の三郎兵衛尉景茂のみは鎌倉に留まっており、18日の比企邸の酒宴で頼家に召され、父・景時の非を糾されたが、同席していた右京進仲業の個人的な中傷がそもそもの原因だと披露し、諸御家人から「神妙」と評価されている。

 12月9日、梶原景時は相模国一宮の屋敷から鎌倉に帰参して、連判状のことについて日々詮議を受けたが、おそらく諸御家人からの強い圧力もあったのだろう。18日、頼家の命を受けた和田義盛、三浦義村によって御家人としての地位を召し放たれ、鎌倉を追放された。六浦道沿い梶原谷の梶原邸は即日解体され、永福寺僧坊の用材として下げ渡された。

 鎌倉を追放された景時は、仲の良い甲斐源氏の武田左兵衛尉有義を新たな将軍に擁立し、もともと平家党の多い九州の豪族を語らって幕府に対して謀反を企てたようである。正治2(1200)年1月20日、上洛を企てた梶原景時一党は、駿河国狐崎(静岡市清水区平川地)において吉香小次郎友兼、渋川次郎、矢部平次、矢部小次郎、船越三郎、大内小次郎らに取り囲まれ、一族悉く討死を遂げた。

●正治2(1200)年1月20日条(『吾妻鏡』)

梶原平三景時 矢部小次郎に討たれた。郎従が首を山中に隠す。翌日発見され晒された。
梶原源太左衛門尉景季 矢部平次に討たれた。三十九歳。
梶原平次左衛門尉景高 矢部平次に討たれた。
梶原三郎兵衛尉景茂 吉香小次郎友兼と組み打ち、相討。三十六歳。
梶原七郎景宗 討死するが郎従が首を山中に隠す。翌日発見され晒された。
梶原八郎景則 討死するが郎従が首を山中に隠す。翌日発見され晒された。
梶原九郎景連 工藤八郎に討たれた。

 梶原景時一党が駿河で討たれた日から三日後の正月23日、父・三浦介義澄が七十四歳の生涯を閉じた。

小御所合戦 

 左中将頼家のはじめての袖判下文は、正月25日に下された「播磨国五箇庄住人」の「左衛門尉藤原朝政(小山朝政)」ならびに、「播磨国福井庄住人」の「藤原経兼(吉河経兼)」を当地の地頭職に補任するものである(正治二年正月廿五日「源頼家下文」『松平基則氏所蔵文書』、正治二年正月廿五日「源頼家下文案」『周防吉川家文書』)。政所が置けないため、故頼朝同様の袖判下文となっている可能性があろう。続けて11月9日には「美濃国大榑庄住人」の「藤原宗政(長沼宗政)」に「如元地頭職」を安堵している(正治二年十一月九日「源頼家袖判下文」『下野皆川文書』)

 翌正月26日、朝廷は左中将頼家に「続征夷将軍源朝臣遺跡」と「宜令彼家人郎従等如旧奉行諸国守護者」の宣旨を下した(『吾妻鏡』建久十年二月六日条)。これは頼朝入道入滅に伴う正月20日の緊急措置(臨時除目)に続く、頼家の鎌倉家継承を宣旨によって公認するものであった。この宣旨は2月6日に鎌倉に到着し、同日「吉書始」が行われた(『吾妻鏡』建久十年二月六日条)「宜令彼家人郎従等如旧奉行諸国守護者」、つまり「鎌倉殿」の正式な継承であり、頼朝の死から二十日を経ない時期ではあったが、綸旨が到来したために内々に執り行われたという(『吾妻鏡』建久十年二月六日条)

 吉書始に際しては、北條四郎時政を筆頭に、兵庫頭広元、三浦介義澄、前大和守光行、中宮大夫属入道善信、八田右衛門尉知家、和田左衛門尉義盛、比企右衛門尉能員、梶原平三景時、藤民部丞行光、平民部丞盛時、右京進仲業、文章生宣衡が「政所」に列し、仲業が清書した吉書(武蔵国海月郡に関する下文)を広元が寝殿の頼家のもとへ持参した。彼らはいずれも鎌倉家の家政機関(政所、侍所)に関わる家職や奉行人とみられる。ただし、正五位下の左中将頼家には政所開設の権利はなく、旧政所でこれまで同様に家政の実務処理は行われたとみられるが、公的には家職(肩書はない)や後見の時政が安堵や狼藉停止などの下知状を下す形となっていた。

●建久十年二月六日吉書始

  家職 家政機関
北條殿 御後見 なし
兵庫頭廣元朝臣 (別当) (政所別当)、公事奉行人か
三浦介義澄    
前大和守光行朝臣    
中宮大夫属入道善信   問注所執事、公事奉行人か
八田右衛門尉知家    
和田左衛門尉義盛   (侍所別当ではないが侍所の序列は景時の上位)
比企右衛門尉能員    
梶原平三景時   侍別当
藤民部丞行光   公事奉行人か
平民部丞盛時   公事奉行人か
右京進中原仲業   公事奉行人か
文章生三善宣衡   公事奉行人か

 北條時政が最前にいるものの、吉書を御前へ持参したのは中原広元であることから、正五位下という上臈の広元が筆頭家職であり、政所(公文所か)別当を兼ねていたことがわかる。この時点では「北條殿」は鎌倉家の家政に直接携わってはいなかったそのほかの人々はいずれも鎌倉家の旧家司及び奉行人等とみられ、鎌倉家家政機関を担う中枢の人々であった。そして、これまでは「家子(血縁者)」という位置づけで、「家人郎従(御家人、侍)」でも源氏「門葉」でもなく、頼朝と私的な関係を有した北條時政が、頼朝薨去に伴って新たな「鎌倉殿」を後見する立場として、鎌倉家に公的に関わることになったのだろう。

 広元は鎌倉家の家職筆頭であり、本来であれば無位無官の時政が家政に介入するなど想定だに及ばないが、時政は故右大将頼朝の岳父として頼朝亡き後の鎌倉の混乱を抑え得る存在として抜群であり、尼御台からの要請によりまだ若い鎌倉殿頼家の「御後見」を受けた可能性が高いだろう。それほど当時の鎌倉は動揺した状況にあったと考えられる。そして、頼朝薨去後最初の正治2(1200)年正月1日埦飯は「北條殿被献」じた(『吾妻鏡』正治二年正月一日条)。これは新鎌倉殿の就任による体制の変化によるものである。

 これまで元日埦飯は、記録が残っている年は建久6(1195)年を除きすべて千葉介常胤が行っており、建久6(1195)年元日埦飯のみ「上総前司義兼」であった(『吾妻鏡』建久六年正月一日条)。その後の記録からも推察できるように、記録がない年も元日は千葉介常胤または足利義兼が元日埦飯を奉行したと考えられよう。

●正月埦飯の献上(御家人・門葉家司・御後見・奉行人(推測含む)

埦飯 1日 2日 3日 4日 5日 6日 7日 8日
家司等
治承年5
(1181)
元日埦飯 千葉介常胤 不明 不明 不明 不明 不明 不明 不明
養和2年
(1182)
元日埦飯 不明 不明 不明 不明 不明 不明 不明 不明
寿永2年
(1183)
元日埦飯 不明 不明 不明 不明 不明 不明 不明 不明
寿永3年
(1184)
元日埦飯 不明 不明 不明 不明 不明 不明 不明 不明
元暦2年
(1185)
元日埦飯 不明 不明 不明 不明 不明 不明 不明 不明
文治2年
(1186)
元日埦飯 不明 不明 不明 不明 不明 不明 不明 不明
文治3年
(1187)
元日埦飯 不明 不明 不明 不明 不明 不明 不明 不明
文治4年
(1188)
元日埦飯 不明 不明 不明 不明 足利義兼 不明 不明 不明
文治5年
(1189)
元日埦飯 不明 不明 (如例) 不明 不明 不明 不明 不明
文治6年
(1190)
元日埦飯 埦飯あり 不明 不明 不明 不明 不明 不明 不明
建久2年
(1191)
元日埦飯 千葉介常胤 三浦介義澄 小山朝政 不明 宇都宮朝綱 不明 不明 不明
建久3年
(1192)
元日埦飯 埦飯あり 不明 不明 不明 不明 不明 不明 不明
家司 別当 :前因幡守中原朝臣(中原広元)
    前下総守源朝臣(源邦業)【12月頃辞任か】
    散位中原朝臣(中原久経)【7月頃辞任か】
令  :民部少丞藤原(二階堂行政)【12月以降別当へ】
知家事:中原(中原光家)
案主 :藤井(鎌田俊長)
建久4年
(1193)
元日埦飯 千葉介常胤 不明 不明 不明 不明 不明 不明 不明
家司 別当 :前因幡守中原朝臣(中原広元)
    散位藤原朝臣(二階堂行政)
令  :大蔵丞藤原(藤原頼平)
知家事:中原(中原光家)
案主 :清原(清原実成)
建久5年
(1194)
元日埦飯 埦飯あり 不明 不明 不明 不明 不明 不明 不明
家司 別当 :前因幡守中原朝臣(中原広元)
    散位藤原朝臣(二階堂行政)
令  :大蔵丞藤原(藤原頼平)
知家事:中原(中原光家)
案主 :清原(清原実成)
建久6
(1195)年
元日埦飯 足利義兼 千葉介常胤 小山朝政 (甘縄亭) 不明 不明 不明 不明
家司 前因幡守中原
民部丞藤原
平朝臣
建久7年
(1196)
元日埦飯 (闕)
家司 別当 :兵庫頭中原朝臣(中原広元)
    散位藤原朝臣(二階堂行政)
令  :大蔵丞藤原(藤原頼平)
知家事:中原(中原光家)
案主 :清原(清原実成)
建久8年
(1197)
元日埦飯 (闕)
家司 別当 :兵庫頭中原朝臣(中原広元)
    散位藤原朝臣(二階堂行政)
令  :大蔵丞藤原(藤原頼平)
知家事:中原(中原光家)
案主 :清原(清原実成)
建久9年
(1198)
元日埦飯 (闕)
家司 別当 :兵庫頭中原朝臣(中原広元)
令  :前掃部允惟宗
知家事:中原(中原光家)
案主 :不明
建久10年
(1199)
元日埦飯 (闕)
家司 【正月13日、源頼朝入道入滅】
別当?:散位藤原朝臣(二階堂行政)
令  :左兵衛尉藤原(二階堂行光)
知家事:越中大丞大江
案主 :清原(清原実成)
正治2年
(1200)
元日埦飯 北条時政 千葉介常胤 三浦介義澄
(20日後薨)
中原広元 八田知家 大内惟義 小山朝政 結城朝光
(家職) 【北條時政、4月1日遠江守補任】
不明
建仁元年
(1201)
元日埦飯 不明 不明 不明 不明 不明 不明 不明 不明
(家職) 不明
建仁2年
(1202)
元日埦飯 不明 不明 不明 不明 不明 不明 不明 不明
(家職) 【源頼家、正月23日、正三位】
不明
建仁3年
(1203)
元日埦飯 不明 不明 不明 不明 不明 不明 不明 不明
家司 別当 :遠州(『吾妻鏡』建仁三年十月九日条
    前大膳大夫中原朝臣(中原広元)
    散位藤原朝臣(二階堂行政)
令  :左兵衛少尉藤原(二階堂行光)
知家事:不明
案主 :清原(清原実成)
建仁4年
(1204)
元日埦飯 不明 不明 不明 不明 不明 不明 不明 不明
(家職) 【源実朝、3月6日右近衛少将補任、同日北條義時、相模守補任】
遠江守(北條時政)
前大膳大夫中原朝臣(中原広元)
右(左)衛門尉平(和田義盛?)
前右京進中原(中原仲業)
清原(清原実成)
元久2年
(1205)
元日埦飯 北条時政 不明 千葉介成胤 不明 不明 不明 不明 不明
(家職) 遠江守(北條時政)【閏7月19日失脚】⇒北條義時が継承するか
前大膳大夫中原朝臣(中原広元)
右(左)衛門尉平(和田義盛?)
前右京進中原(中原仲業)
清原(清原実成)
元久3年
(1206)
元日埦飯 不明 不明 不明 不明 不明 不明 不明 不明
(家職) 《御後見》相模守(北條義時)
散位大江朝臣
書博士中原朝臣(中原師俊)
散位藤原朝臣(二階堂行政)
民部丞中原(中原仲業)
惟宗(惟宗孝実)
建永2年
(1207)
元日埦飯 不明 不明 不明 不明 不明 不明 不明 不明
(家職) 《御後見》相模守(北條義時)
書博士中原朝臣(中原師俊)
散位藤原朝臣(二階堂行政)
散位中原朝臣(中原仲業)
前図書允清原(清原清定)
惟宗(惟宗孝実)
承元2年
(1208)
元日埦飯 不明 不明 不明 不明 不明 不明 不明 不明
(家職) 不明
承元3年
(1209)
元日埦飯 不明 不明 不明 不明 不明 不明 不明 不明
(家職) 【源実朝、4月10日従三位、5月26日右中将。6月16日時点では家司・政所未設置】
相模守(北條義時)
書博士中原朝臣(中原師俊)
散位藤原朝臣(二階堂行政)
散位中原朝臣(中原仲業)
前図書允清原(清原清定)
惟宗(惟宗孝実)
家司 【源実朝、4月10日従三位、5月26日右中将。7月27日時点では家司・政所設置済】
(承元3年7月28日『将軍家政所下文』)
別当 :書博士中原朝臣(中原師俊)
    右近衛将監源朝臣(源親広)
    駿河守平朝臣(不明)
    散位中原朝臣(中原仲業)
令  :図書允清原(清原清定)
知家事:惟宗(惟宗孝実)
案主 :清原(清原実成)
(承元3年12月11日『将軍家政所下文』)
別当 :相模守(北條義時)
    書博士中原朝臣(中原師俊)
令  :前図書允清原(清原清定)
知家事:惟宗(惟宗孝実)
案主 :清原家司
承元4年
(1210)
元日埦飯 不明 不明 不明 不明 不明 不明 不明 不明
家司 別当 :相模守平朝臣(北條義時)
    書博士中原朝臣(中原師俊)
    右近衛将監源朝臣(源親広)
    武蔵守平朝臣(北條時房)
    散位中原朝臣(中原仲業)
令  :図書允清原(清原清定)
知家事:惟宗(惟宗孝実)
案主 :清原(清原実成)
承元5年
(1210)
元日埦飯 北条義時 中原広元 小山朝政 不明 不明 不明 不明 不明
家司 別当 :相模守平朝臣(北條義時)
    左近衛将監兼遠江守源朝臣(源親広)
    書博士中原朝臣(中原師俊)
    武蔵守平朝臣(北條時房)
    散位中原朝臣(中原仲業)
令  :図書允清原(清原清定)
知家事:惟宗(惟宗孝実)
案主 :清原(清原実成)
建暦2年
(1212)
元日埦飯 北条義時 中原広元 小山朝政 不明 不明 不明 不明 不明
家司 別当 :相模守平朝臣(北條義時)
    左近衛将監兼遠江守源朝臣(源親広)
    武蔵守平朝臣(北條時房)
    書博士中原朝臣(中原師俊)
    散位中原朝臣(中原仲業)
令  :図書允清原(清原清定)
知家事:惟宗(惟宗孝実)
案主 :菅野(矢野景盛)
建暦3年
(1213)
元日埦飯 中原広元 北条義時 小山朝政 和田義盛 不明 不明 不明 不明
家司 別当 :相模守平朝臣(北條義時)
    遠江守源朝臣(源親広)
    武蔵守平朝臣(北條時房)
    書博士中原朝臣(中原師俊)
令  :図書少允清原(清原清定)
知家事:惟宗(惟宗孝実)
案主 :菅野(矢野景盛)

 このように、頼朝生存中は「源頼朝」と「家人郎従(御家人)」の個人関係と「鎌倉家」家政機関を通じた公的支配関係の混在があり、埦飯は古い慣例を踏襲したものであった。しかし、頼朝薨去後は頼朝という絶対的存在を失って動揺する「家人郎従」を抑え、安定した「家人郎従」支配及び諸国の治安維持(「宜令彼家人郎従等如旧奉行諸国守護者」)を行うために、故頼朝と「家人郎従」の個人的関係をできる限り排除し、強力な家政機関による支配体制の確立が必要だったのであろう。家政機関による支配体制を急ぎ主導したのは、尼御台や北條時政、中原広元、藤原行政らとみられるが、この結果が北條時政による元日埦飯と考えられよう。なお、これは決して北條氏の示威や権限強化のためではなく、必要に迫られて行った家政機関支配強化の結果が、北條氏による権限集中へ繋がったと考えるのが妥当であろう。

 そして、その三か月後の正治2(1200)年4月1日の臨時除目で北条時政は叙爵及び遠江守へ補任され、4月9日「北条殿去一日、任遠江州守、叙従五位下給、彼除書今日到来」(『吾妻鏡』正治二年四月九日条)した。時政六十三歳(『吾妻鏡』正治二年四月九日条、「将軍執権次第」『群書類従三 補任部』)。鎌倉家政所は、北条時政を准摂家の家格である鎌倉家の「御後見」として、家職に准じた官途を朝廷に奏上し、認められたものであろう。遠江国は当時関東御分国ではないが、兵庫頭広元(前因幡守)、散位行政(のち山城守)がみられるように、鎌倉家家司は御分国「以外」の受領となる傾向があるようである。なお、北条義時も元久元(1204)年3月6日、「任相模守、同日叙従五位下」(『武家年代記』)と受領となっているが、これは実朝の「元久元年三月六日、任右近衛少将」(『将軍次第』)と同日の補任であり、実朝の右少将吹挙とともに希望されたものである。そして、当時の相模国も伊豆国とともに関東御分国から外れており(『吾妻鏡』建仁三年十一月十九日条)義時もまた関東御分国外からの受領補任であった。また、一月後の4月13日の臨時除目では「左馬権助政憲平時政子、実宣中将妻兄弟、近代英雄也」「山城藤行政」「伊賀源義成朝雅給」「正五位下惟義大内、源季国、源光行鎌倉、近日蔵人頭云々(『明月記』元久元年四月十三日条)しており、家令の散位藤原行政が山城守に任じられている。

■関東に関する臨時除目等

除目 補任 叙位 名前 備考1 出典
建久10(1199)年
正月20日
左近衛中将 (正五位下) 源頼家 「関東息」
※正月13日、頼朝薨去
『明月記』
建久10(1199)年
正月26日
    源頼家 「続征夷将軍源朝臣遺跡」
「宜令彼家人郎従等如旧奉行諸国守護者」
の宣旨が下される
『吾妻鏡』
正治2(1200)年
正月5日
  従四位上 源頼家 「左中将頼家禁色」(『明月記』)
※『吾妻鏡』では聴禁色は正月8日とされる
『明月記』
正治2(1200)年
4月1日
遠江守 従五位下 北條時政 4月9日、関東に除書到着 『吾妻鏡』
建仁3(1203)年
9月7日
征夷大将軍 従五位下 源実朝 「名字実朝云々、自院被定」 『猪隈関白記』
建仁3(1203)年
9月15日
    源実朝 関東に
「為関東長者」
「被下従五位下位記并征夷大将軍宣旨」が到着
『吾妻鏡』
元久元(1204)年
3月6日
右近衞少将   源実朝 建仁3(1203)年9月7日、叙従五位下(征夷大将軍) 『将軍次第』
    〃 相模守 従五位下 北条義時   『武家年代記』
元久元(1204)年
4月13日
左馬権助   政憲
(北條政範)
「平時政子、実宣中将妻兄弟」 『明月記』
    〃 山城守   藤行政
(二階堂行政)
鎌倉家家令(政所執事か?) 『明月記』
    〃 伊賀守   源義成 「朝雅給」 『明月記』
    〃   正五位下 惟義
(大内惟義)
  『明月記』
    〃   正五位下 源季国   『明月記』
    〃   正五位下 源光行   『明月記』

 このような中、建仁3(1203)年7月21日、「頼家左衛門督時二十二、病ヲ受ケキ、此人多死霊故ニヤ(『保暦間記』)とあり、その後も「将軍家御不例、太辛苦」(『吾妻鏡』建仁三年八月七日条)という。直接関わりがあるのかは不明だが、3月9日夜戌刻、「将軍家俄御病悩」という事件が起こっている(『吾妻鏡』建仁三年三月十日条)。頼家の夢見で「而依有御夢想之告、駿河国方上御厨止地頭武田五郎信光所務、寄附太神宮領」といい(『吾妻鏡』建仁三年三月十日条)、翌10日に「広元朝臣奉行之」が執り行われている。

 頼家は「頼家ガヤミフシタルヲバ、自元広元ガモトニテ病セテ、ソレニスヱテケリ」(『愚管抄』)とあるように、別当広元邸で倒れ、そのまま広元邸に置かれたと読むことができる。頼家の体調は悪化の一途をたどっており、頼家は「大方人望ニモ背ケルカ、病気次第ニ難儀」(『保暦間記』)となり、8月24日夜には後鳥羽院のもとに「世間有大事」(『明月記』建仁三年八月廿五日条)の報告が届いている。翌25日夜には九条兼実のもとより「光親御使参入」し「左衛門督頼家卿重病、前後不覚之聞」(『明月記』建仁三年八月廿五日条)という話を聞いている。こうした中、病床の頼家は「大事ノ病ヲウケテ、スデニ死ントシケル」中で、「比企ノ判官能員阿波国ノ者也ト云者ノムスメヲ思テ、男子ヲウマセ」た嫡男の「一万御前」「皆家ヲ引ウツシテ、能員ガ世ニテアラントシテシケル由」を語ったという(『愚管抄』)。これを「母方ノヲヂ北条時政遠江守ニ成テアリケルガ聞」き、時政は「頼家ガヲトゝ千万御前トテ、頼朝モ愛子ニテアリシ、ソレコソト思」ったという(『愚管抄』)

 その結果か、8月27日には「遺跡ヲ長子一万御前譲、坂ヨリ西三十八ケ国、舎弟千万御前被譲畢」(『保暦間記』)という。千幡(のち実朝)に譲られる「関西三十八箇国地頭職」以外の「関東二十八箇国地頭惣守護職」については「被充御長子一幡君六歳」とされたという(『吾妻鏡』建仁三年八月廿七日条)。表向きは頼家の譲りにより分割相続された形だが、その実は「御後見」時政の働きによって先回りして阻止され、頼家の「皆家ヲ引ウツシテ」一幡御前へ継承させるという希望は叶わなかった。病床の頼家はこれらの事を何一つ伝えられていなかったとみられ、「頼家ハ世ノ中心チノ病ニテ、八月晦日ニカウニテ出家シテ、広元ガモトニスエタル」(『愚管抄』)と、広元邸で療養していたという。広元邸は大蔵御所から東に2kmも入った十二所の邸か。ここは喧噪から離れた山間であることから鎌倉市中の騒擾は聞こえない。そして頼家は広元邸で8月30日二更に出家。「出家ノ後ハ、一万御前ノ世ニ成ヌトテ、皆中ヨクテ、カクシナサルベシトモ思ハデ有ケル」(『愚管抄』)という、穏やかな一幡御前への鎌倉家継承を想像していたとされる(『愚管抄』)

 ただし、9月1日には「将軍家御病悩事、祈療共如無其験、依之鎌倉中太物騒、国々御家人等競参、人々所相謂家督姪戚等不和儀出来歟、関東安否蓋斯時也」(『吾妻鏡』建仁三年九月二日条)といい、鎌倉中には、頼家の容態は祈祷も医療もその甲斐なしと伝わっており(『愚管抄』によればこの頃から快方に向かったというが、この記述は出家の功験という印象が強く、実際は不明)、鎌倉には御家人等が馳せ付けて騒がしい状況になっていたようである。人々は北條時政と比企能員との不和が起こっているのではないかと噂したという。

 そして、おそらく同9月1日、鎌倉から「頼家、去朔日薨去之由」(『猪隈関白記』建仁三年九月七日条)を知らせる使者が発ったとみられる。頼家の快復は不可能であると見越し、新たな「継家」(『明月記』建仁三年九月七日条)を「宣旨」によって確定させるべく、頼家を亡くなったものとして奏上したのである。なお、8月27日の分割相続の取決(『吾妻鏡』建仁三年八月廿七日条)については、

関東二十八箇国地頭
惣守護職
(鎌倉殿) 一幡
関西三十八箇国地頭職   千幡

というものであったが、実際に奏上された「継家(『明月記』建仁三年九月七日条)は、これを無視した「頼家卿一臈舎弟童年十二(『猪隈関白記』検印二年九月七日条)であった。

 以下は『吾妻鏡』の記事による、比企能員と北条時政との確執である。

 比企能員は、分割相続の沙汰について「家督御外祖比企判官能員、潜憤怒譲補于舎弟事、募外戚之権威、挿独歩志之間、企叛逆擬奉謀千幡君彼外家已下」と、分割相続に不満を持ち、千幡と北条家の追捕を企てたという(『吾妻鏡』建仁三年八月廿七日条)。そして9月2日朝、このことを「以息女将軍家妾、若君母儀也、元号若狭局、訴申」た。能員は「北條殿、偏可追討由也、凡家督外、於被相分地頭職、威権分于二、挑争之條不可疑之、為子為弟、雖似静謐御計、還所招乱国基也、遠州一族被存者、被奪家督世之事、又以無異儀」(『吾妻鏡』建仁三年九月二日条)と主張し、これを若狭局から伝え聞いた頼家は「驚而招能員於病床、令談合給、追討之儀且及許諾」という(『吾妻鏡』建仁三年九月二日条)

 ただし、『吾妻鏡』においては「将軍家御病痾少減、憖以保寿算給」たのは9月5日とされ(『吾妻鏡』建仁三年九月五日条)、9月2日に比企能員と対面して時政討伐を命じることは想定しづらいという同書内での矛盾があり、疑問がある。

 この陰謀は「而尼御台所、隔障子潜令伺聞此密事給、為被告申、以女房被奉尋遠州」(『吾妻鏡』建仁三年九月二日条)という。なお、母御台所は病床の広元邸に詰めていたか通っていたかは不明だが『愚管抄』を見る限りでは頼家近くにいたようで、後日、頼家が子息一幡が討たれた噂を聞いて臥所から立ち上がった際に縋り付いて押し留めている(『愚管抄』)

 比企能員の訴えと頼家からの時政追討令を隠れ聞いた尼御台は、営中の時政に女房を遣わしたが、時政はすでに「為修仏事、已帰名越給之由」であったため、尼御台は「雖非委細之趣、聊載此子細於御書、付美女被進之」て、時政に届けさせている。これを受けた時政は「遠州下馬拝見之、頗落涙、更乗馬之後、止駕暫有思案等之気、遂廻轡、渡御于大膳大夫広元朝臣亭、亭主奉相逢之」った。時政は中原広元に「近年、能員振威、蔑如諸人條、世之所知也、剩将軍病疾之今、窺惘然之期、掠而称将命、欲企逆謀之由、慥聞于告、此上先可征之歟、如何者」と問うている。しかし、広元は「幕下将軍御時以降、有扶政道之号、於兵法者不弁是非、誅戮否、宜有賢慮」と明確な返答を避けた(『吾妻鏡』建仁三年九月二日条)。なお、この広元邸は御所近辺にあったであろう屋敷(政所からも御所からも至近の宝戒寺―旧得宗邸跡―辺りか)で、遠い十二所の屋敷ではないだろう。

 こののち、時政は「即起座給、天野民部入道蓮景、新田四郎忠常等為御共」し、絵柄天神社前で馬を停めると、両名に「能員依企謀叛、今日可追伐、各可為討手者」と命じた。これに天野遠景入道は「不能発軍兵、召寄御前可被誅之、彼老翁有何事之哉者」と述べた(『吾妻鏡』建仁三年九月二日条)

 時政は名越邸に帰還したのち、「此事猶有儀、重為談合」と先ほど語らった中原広元を招いた。広元は「雖有思慮之気、憖以欲参向」と、気乗りしないながらも名越邸へ向かうことにした。明確な返答を避けたことで計画の発覚を恐れた時政の姦計を疑ったのである。広元の危機を感じた「家人等多以進従」して護衛につかんとするも、広元は「存念あり」として留め、ただ飯富源太宗長のみを供とした。飯富宗長は御家人であるが広元の御内人でもあったか。広元は名越へ向かう路次、「世上之為躰、尤可怖畏歟、於重事者今朝被凝細碎評議訖、而又恩喚之條太難得其意、若有不慮事者、汝先可害予者」と秘かに宗長に述べている。何かあればまず広元を斬るよう命じたのである。飯富宗長はこの広元の命を守り、名越邸での広元の時政との会談の最中、広元の後ろに控えて座を去ることはなかったという。

 しかし、午の刻、広元は無事に名越邸を退出した。会談の内容は伝わらないが、御後見である時政も別当広元の了解を取り付ける必要を感じたのではなかろうか。その後、時政は「於此御亭、令供養薬師如来像日来奉造之給、葉上律師為導師、尼御御台為御結縁、可有入御」として、御内人とみられる工藤五郎を比企邸に派遣し「依宿願、有仏像供養之儀、御来臨、可被聴聞歟、且又以次可談雑事者、早申可予参之由」を伝えたという。

 比企邸では工藤五郎の退出後、能員の子息や親類らが集まって能員を諫めて「日来非無計儀事、若依有風聞之旨、予専使歟、無左右不可被参向、縦雖可被参、令家子郎従等、着甲冑帯弓矢可被相従」と述べたという。しかし能員は「如然之行粧、敢非警固之備、謬可成人疑之因也、当時能員猶召具甲冑兵士者、鎌倉中諸人皆可遽騒、其事不可然、且為仏事結縁、且就御讓補等事有可被仰合事哉、急可参」と言って、名越邸に向かったという。

 一方、名越邸では時政は甲冑を着込んで臨戦態勢となっており、弓の名手である中野四郎、市川別当五郎に弓箭を帯びさせて「両方小門」に配置。天野遠景入道と仁田四郎忠常両名は「着腹巻、搆于西南脇戸内」えた。

比企館
比企館跡(比企谷妙本寺)

 ここに比企能員は武装もなく黒馬に「着平礼白水于葛袴」という姿で名越邸を訪れた。従うのは郎等二人、雑色五人のみであった。能員は名越邸の惣門を入ると、廊に昇って沓を脱ぎ、妻戸を通って北面(北殿)へ参じようとしたとき、天野遠景入道と仁田忠常の両名が南殿と北殿との境にあった脇戸内から現れて比企能員の両腕を取り、そのまま庭の竹林に引き据えて殺害したという。能員の享年不明。

以上、『吾妻鏡』に見る比企能員殺害までの顛末である。なお、 『愚管抄』では「能員ヲヨビトリテ、ヤガテ遠景入道ニシメイダカセテ、日田四郎ニサシ殺サセ」たとあり(『愚管抄』)、能員を呼び、天野遠景入道と仁田忠常がこれを殺害したという話は事実のようである。

 名越邸の宿蘆で主人比企能員の暗殺を知った「廷尉僮僕」は、事の次第を比企邸に伝えると「仍彼一族郎従等、引籠一幡君御館号小御所謀叛」した。これを受けて、未三刻(午後三時)、尼御台の命により比企氏追討の命が発せられ、「被差遣軍兵」た。追討に加わったのは江間義時、三浦義村、和田義盛ら二十一名の有力御家人である。

●『吾妻鏡』建仁3(1203)年9月2日条

―比企家追討軍―

江間四郎義時 江間太郎頼時 平賀武蔵守朝雅 小山左衛門尉朝政 長沼太郎宗政 結城七郎朝光
畠山次郎重忠 榛谷四郎重朝 三浦平六兵衛尉義村 和田左衛門尉義盛 和田兵衛尉常盛 和田小四郎景長
土肥先次郎惟光 後藤左衛門尉信康 所右衛門尉朝光 尾藤次郎知景 工藤小次郎行光 金窪太郎行親
加藤次郎景廉 加藤太郎景朝 仁田四郎忠常      

―比企家籠館軍―

中山五郎為重
(能員婿)
糟谷藤太兵衛尉有季
(能員婿)
比企余一兵衛 小笠原弥太郎
(小笠原長経)
中野五郎
(中野五郎能成)
細野四郎兵衛尉

 しかし、比企家側の抵抗は激しく、加藤景廉、尾藤知景、和田景長は負傷。郎党も傷を被って軍勢を引き上げている。彼らに代わって畠山重忠が攻め込み、笠原十郎左衛門尉親景の軍勢を破ると、親景は比企邸に駆け込んで放火。比企谷の館に「籠リタル程ノ郎等ノハヂアルハ出ザリケレバ、皆ウチ殺テケリ」(『愚管抄』)という。能員婿の「カスヤ有末ヲバ由ナシ、出セヨゝゝゝト、敵モヲシミテ云ケルヲ、ツイニ出ズシテ、敵八人トリテ打死シケルヲゾ、人ハナノメナラズヲシミケル」(『愚管抄』)といい、「ムコノ兒玉党ナド、アリアイタル者ハ皆ウタレ」(『愚管抄』)、戦場から引き上げてきた河原田次郎中山為重らは一幡の前で自刃したという。女姿となって逃れ出ていた能員の子・余一兵衛は加藤景廉の郎党に捕らえられて殺害され、夜になって能員の舅・渋河刑部丞兼忠も誅殺され、比企一族は滅亡したという。そして「若君、同不免此殃給」(『吾妻鏡』建仁三年九月二日条)という。なお、比企氏の血統は絶えたわけではなく、「妻妾二歳男子等者、依有好、召預和田左衛門尉義盛、配安房国」(『吾妻鏡』建仁三年九月三日条)とみえ、能員の二歳の男子は救われて和田義盛に預けられ、安房国に流されている。この二歳の子が「比企大学三郎能本」となり、のちに出家して日蓮に帰依し「妙本」と号する。その子孫と思われるが、「比企弥太郎」(文和三年十一月十八日「足利基氏御教書」『榊原家所蔵文書』)という人物がかつて武蔵国鴨志田郷内を知行しており、その跡は久下千代丸が領知を主張していたが、恩田左近将監と争っていたことから、足利基氏が「前安芸守」にその召還を命じ、「前安芸守」は「村岡藤内兵衛入道」にその沙汰を指示している。

 『愚管抄』では、時政は比企亭を攻めた直後、「ヤガテ武士ヲヤリテ、頼家ガヤミフシタルヲバ自元広元ガモトニテ病セテ、ソレニスヱテケリ、サテ本躰ノ家ニナラヒテ、子ノ一万御前ガアル人ヤリテウタントシケレバ、母イダキテ小門ヨリ出ニケリ」(『愚管抄』)という。比企谷の小御所(頼家の急病後、御所女房の母若狭局とともに移されたか)の一幡御前を討つべく人を差し遣わしたが、母の若狭局が小門より抱いて脱出したとする。

 別説では「頼家卿子息年六歳云々、并検非違使能員件能員頼家卿子息祖父也、為今大将軍実朝、去二日被撃云々、後聞、頼家卿子息不被撃云々、於能員者撃了」(『猪隈関白記』建仁三年九月七日条)とあり、京都においていまだ情報が錯綜している中での情報だが、討たれたとも討たれていないとも伝わっている。このほか「比企判官藤原能員一幡御前外祖、遠江守時政千万御前外祖ヲ打、天下ノ世務ヲ一人シ而相計ラハントスル、此事聞エテ、九月二日能員ヲ時政ノ宿所ヘタハカリ寄テ能員ヲ差殺畢、同六日、一万御前能員子息宗朝以下、小御所ニ籠テ合戦ス、義時、義村、朝政等ヲ以テ大将トシテ、数万騎ノ軍勢ヲ差遣シテ、能員一族悉打畢、剰一万御前サヘ御所ニ火ヲ懸ケレハ焼死シ給フ、是ヲ小御所ノ戦ト申ス」(『保暦間記』)とあるが、時政による能員殺害四日後の9月6日に合戦が起こり、一幡は焼死したとある。『明月記』でも9月7日には「左兵衛督頼家卿薨、遺跡郎従争権、其子六歳或四歳、外祖為遠江国司時政金吾外祖被討」(『明月記』建仁三年九月七日条)とあり、いずれも一幡の死を伝えている。

 頼家は8月30日深夜の出家後「スナハチヨリ病ハヨロシク成タリケル」(『愚管抄』)と、快方に向かったが、9月2日に聞いた「カク一万御前ヲウツト聞テ、コハイカニト云テ、カタハラナル太刀ヲトリテフト立ケレバ、病ノナゴリ誠ニハカナハヌニ、母ノ尼モトリツキナドシテ、ヤガテ守リテ修禅寺ニヲシコメテケリ、悲シキ事ナリ」(『愚管抄』)という。

妙本寺
比企一族の墓(比企谷妙本寺)

 翌9月3日、小御所の焼け跡に「大輔房源性鞠足、欲奉拾故一幡君遺骨」(『吾妻鏡』建仁三年九月三日条)した。そこには「所焼之死骸、若干相交而無所求」という惨状がそのまま遺されていたが、御乳母が言うには一幡御前は「最後令着染付小袖給、其文菊枝也」という装束だったという。そこに見つけた「或死骸、右脇下小袖僅一寸余焦残、菊文詳也」という。源性は「仍以之知之奉拾了、源性懸頚、進発高野山、可奉納奥院」という。詳細なかつ源性という具体的な第三者を入れての記録であることから、この菊紋小袖を着た死骸があったのは確かであろう。

 一方で、一幡については『愚管抄』において、小御所合戦後「ソノ年ノ十一月三日、終ニ一万若ヲバ義時トリテヲキテ、藤馬ト云郎等ニサシコロサセテウヅミテケリ」(『愚管抄』)と、北条義時が預かり、二か月を経た11月3日に「藤馬」という郎等に刺殺させて埋葬されたと見える。『愚管抄』は慈円の伝聞が記されているが、このような情報が伝えられていたのだろう。傍証はないが当時において伝えられたことは「真実」であり、排除すべきではない。なお、この記述を用いたとみられる『武家年代記』においては「十一月三日、義時遣藤馬允誅一万公了」(『武家年代記』)とある。『愚管抄』では「藤馬」、『武家年代記』では「藤馬允」と異なるが、いずれも義時郎党で馬寮出仕の経歴者を指しているのであろう。

 『愚管抄』においては、頼家は9月10日に「頼家入道ヲバ、伊豆ノ修禅寺云山中ナル堂ヘヲシコメテケリ」(『愚管抄』)とみえるが、『吾妻鏡』では9月29日に鎌倉を出立したとある。この近辺の『吾妻鏡』の記述には北条氏にとって不都合なものはなく、敢えて事実を枉げて記す必要はないことから、具体性かつ詳細に記載される『吾妻鏡』の記述に信を置くべきか

 9月4日、頼家の近習で「恃外祖之威、日来与能員成骨肉之眤」「小笠原弥太郎、中野五郎、細野兵衛尉等」を捕らえた(『吾妻鏡』建仁三年九月四日条)。彼らはいずれも信濃国の御家人であり、信濃守護比企能員との関係を深めながら頼家に出仕していた人々だったとみられる。比企谷の合戦で「相伴廷尉子息等」しており、「比企判官能員残党」(『吾妻鏡』建仁三年九月十九日条)としての捕縛であった。ところが、「信濃国住人中野五郎」についてはこの日、時政によって「可令安堵本所之状如件」(建仁三年九月四日「北條時政下文」『出羽市河文書』「鎌倉遺文」1378号)という下文を与えられている上、9月23日「藤原能成(中野五郎能成)」が「信濃国春近領志久見郷地頭職」「如本可為彼職」を安堵されている(建仁三年九月廿三日「北條時政下文」『出羽市河文書』「鎌倉遺文」1381号)。この春近領は「抑依能員非法、難安堵之由依聞食、於得分者、所被免也」もので、時政が「依鎌倉(殿)仰」とする「然者成安堵思、可致官仕忠」の下文を与えている。「能」の字に見るように、もともとは比企能員の信任深い人物だったとみられるが、その後比企能員と所領を巡る遺恨が生まれ、北條時政に通じたと思われる。また、遠く九州に赴任中であった「嶋津左衛門尉忠久」も「被収公大隅、薩摩、日向等国守護職」した島津忠久は比企尼長女の御所女房丹後局(藤九郎盛長室の「丹後内侍」とはまったくの別人)を母としており、能員の義甥であったための連座である。この比企判官与党追捕の動きは京都にも発せられており、「其所従等於京家々追捕磨滅」(『明月記』建仁三年九月七日条)という。

 なお、『吾妻鏡』では9月5日、病が小康状態となった頼家は、比企一族および一幡が北条時政によって討たれたことを聞き、近習の堀藤次親家を使者として、内密に和田左衛門尉義盛と仁田四郎忠常に時政の殺害を命じたという。頼家はこの知らせを受けた和田義盛は書状を時政に提出したことで陰謀が発覚。堀親家は捕らえられて工藤行光に殺害された(『吾妻鏡』建仁三年九月五日条)。堀親家も工藤行光も頼朝挙兵に加わった伊豆の武士で最古参の御家人であった。

 翌9月6日晩、時政は仁田四郎忠常を名越邸に召した。「為被行能員追討之賞」(『吾妻鏡』建久三年九月六日条)という名目である。本来、恩賞行為は政所において詮議され行われるものであるが、忠常は比企能員を討つにあたり天野遠景入道とともに時政に随従して名越邸に詰めるなどた記述があることから、時政家人(鎌倉家御家人の身分はそのまま)となっていた可能性もある。頼家が時政の追討に仁田忠常を選んだのは、忠常が頼家の無二の近習で一幡の乳母夫であるという、頼家派である一方で時政家人でもあるという被官関係があったのかもしれない。

 『吾妻鏡』によれば、忠常が深夜に及んでも名越邸から退出しなかったことを訝しんだ忠常の舎人は、忠常の馬を曳いて名越邸を後にして帰宅、事の次第を忠常の弟、五郎と六郎に告げたという。彼らは「而可奉追討遠州之由、将軍家被仰合忠常事、令漏脱之間、已被罪科歟之由」と推測。すぐさま兵を挙げると「江馬殿(義時亭)」へ馳せ向かった。折節、義時は「被候大御所幕下将軍御遺跡、当時尼御台所御坐」していたが、仁田五郎らが大御所に矢を放ってきたため、義時は「令御家人等防御給」(『吾妻鏡』建久三年九月六日条)、その間に仁田五郎は馳せ付けた「波多野次郎忠綱」に討たれた。また、弟の六郎は大御所の台所に放火して自殺している。この煙を見た御家人らは大御所に馳せ集ったという。この頃忠常は何事もなく名越邸を出たが、馬も舎人もおらず困惑したであろう。そのまま家に向かうが、途中で騒乱の次第を聞いたという。陰謀の発覚を察した忠常は、「則称可棄命、参御所」ったところを、加藤次景廉によって討たれたという。堀藤次親家追捕の翌日の事件であることから、時政による頼家派粛清の策謀のひとつであろう。なお、『愚管抄』においては、9月5日、「頼家ガコトナル近習ノ者」である「日田四郎」が「頼家ガ家ノ侍ノ西東ナルニ、義時ト二人アリケルガ、ヨキタタカイシテウタレニケリ」(『愚管抄』)といい、御所侍所に北条義時と仁田忠常二人が出仕した際、義時によって殺害されたという。

 9月7日、頼家は「将軍家令落飾給、御病悩之上、治家門給事、始終尤危之故、尼御台所依被計仰、不意如此」(『吾妻鏡』建仁三年九月七日条)とあり、頼家は病のため落飾したという。『公卿補任』においても九月七日の出家と記される。ただし、『愚管抄』においては「頼家ハ世ノ中心チノ病ニテ、八月晦日ニカウニテ出家シテ、広元ガモトニスエタル」(『愚管抄』)とあり、危篤状態の8月30日深夜に出家したと伝わっている。いずれが真かは定めようもないが、『愚管抄』においては、この出家により快方に向かったという得度の功力を含ませており、やや疑いがあるか。

 同じく9月7日、京都においては「関東征夷大将軍従二位行左衛門督源朝臣頼家、去朔日薨去之由、今朝申院」(『猪隈関白記』建仁三年九月七日条)とあり、この日、右大臣家実が後鳥羽院より報告を受けたことがわかる。この薨伝は9月1日または2日頃に関東を発した頼家薨去(実際は薨じていないが、「将軍家御病悩事、祈療共如無其験」という状況のもとで頼家復帰は不可能と判断し、早々に継嗣を奏上し宣旨によって確定しようととする時政他家司らの動きであろう)の一報を受けてのものであり、前述の通り、薨伝とともに継嗣として奏上されたのは「頼家卿一臈舎弟童年十二(『猪隈関白記』建仁三年九月七日条)だった。そして、9月7日夜、頼家卿舎弟を「任征夷大将軍、叙従五位下、名字実朝云々、自院被定」(『猪隈関白記』建仁三年九月七日条)た。一幡御前との分割相続に関しては全く触れられず、すでに「左兵衛督頼家卿薨、遺跡郎従争権、其子六歳或四歳、外祖為遠江国司時政金吾外祖被討」(『明月記』建仁三年九月七日条)と一幡御前の死も京都に伝わっており、「金吾弟童可継家由、申宣旨」(『明月記』建仁三年九月七日条)との沙汰が下っている。そして翌8日、「前夜已被下宣旨金吾将軍事(『明月記』建仁三年九月八日条)て、関東に勅使が下されたとみられる。

 そして9月10日、「吹挙千幡君被奉立将軍之間、有沙汰」といい、千幡は尼御台所(大御所)から北条時政邸に移ったという(『吾妻鏡』建仁三年九月十日条)。乳母で叔母の「女房阿波局」が同輿し、江間太郎(江間頼時のちの北条泰時)、三浦兵衛尉義村が輿に伺候した。そしてこの日、「諸御家人等所領、如元可領掌之由、多以被下遠州御書、是危世上故也」(『吾妻鏡』建仁三年九月十日条)という北條時政の下文が下された。

 しかし15日、尼御台所のもとに妹の阿波局が参じ、「若君御坐遠州御亭雖可然、倩見牧御方之躰、於事咲之中挿害心之間、難恃傅母、定勝事出来歟」(『吾妻鏡』建仁三年九月十五日条)と伝えている。これに尼御台所は「江間四郎殿、三浦兵衛尉義村、結城七郎朝光等、被奉迎取之」している。この突然の事態に「挿害心」ことなどまったく知らない時政は「遠州不知子細、周章給」(『吾妻鏡』建仁三年九月十五日条)という。時政は「以女房駿河局被謝申」したが、尼御台所は「成人之程、於同所可扶持之由」を答えたという。ただし、「挿害心」んだはずの時政妻室「牧御方」は処罰されず、この直後には時政は中原広元とともに家司別当となり、実朝の元服を差配し、時政自身が実朝の代理として下文を出すなど、妻室「牧御方」の陰謀がまったく感じられないことから、この説話自体が時政と牧の方を伊豆へ追放する後日談の前段として設けられた作為的な説話の可能性が感じられる(単に継嗣実朝が御所へ移住したという事実に、後日談のための説話を挿入したか)

 そして同15日、勅使が鎌倉に到着。「幕下大将軍二男若宮字千幡君、為関東長者、七日被下従五位下位記征夷大将軍宣旨」が齎された(『吾妻鏡』建仁三年九月十五日条)。その後、京都には「頼家卿一定存命云々、或云出家」(『明月記』建仁三年九月廿三日条)「関東左衛門督頼家逝去僻事云々、但出家如実」(『猪隈関白記』建仁三年九月卅日条)と、頼家の生存が伝えられている。

 実朝の「為関東長者」が認められた翌日の9月16日、北條時政は「小代八郎行平」に「越後国青木地頭職事」を「依鎌倉殿仰、下知」している(建仁三年九月十六日「関東下知状」『肥後小代文書』)。時政ははじめて「依鎌倉殿仰」と記し、実朝の御後見として下知状を下した。その後の両執権(執権、連署)が鎌倉殿の意を呈した形の関東下知状は、この書式を踏襲している。

 9月29日、頼家入道は鎌倉を出立し、伊豆国田方郡修禅寺へと移された(『吾妻鏡』建仁三年九月廿九日条)。その直後の10月3日には「武蔵守朝雅為京都警固上洛、西国有所領之輩、為伴党可令在京之旨被廻御書」(『吾妻鏡』建仁三年十月三日条)といい、平賀武蔵守朝雅が上洛の途に就いた。西国に所領を持つ御家人は彼に従い在京して治安を守るべしという御教書が下されたという。当時京都には別当広元の兄「掃部頭入道寂忍(中原親能入道寂忍)が京都の諸政を行っていたが、5月に比叡山内での「叡山堂衆与学生確執及合戦」(『吾妻鏡』建仁三年九月十七日条)という内紛が拡大し、「学生者同(八月)十九日出城下洛訖、於今者存静謐由之處、同廿八日復蜂起、本院学生同心、群居霊山長楽寺、祗園等、重欲及濫行」という京洛にまでその戦闘行為が及ぶようになった。中原親能入道がしたためた暴動を伝える書状は9月17日に関東に報じられている(『吾妻鏡』建仁三年九月十七日条)。こうした洛中騒擾と頼朝薨去による動揺が西国の不穏な動きに繋がることを警戒し、故頼朝猶子にして別当家司時政女婿というカリスマを持つ武蔵守朝雅が京都守護として派遣されたとみられる。

  牧の方
  ∥―――――――――――――女子
  ∥             ∥
  ∥     源頼朝=====平賀朝雅
  ∥    (前右大将)  (武蔵守)
  ∥      ∥
  ∥      ∥――――+―源頼家
  ∥      ∥    |(左兵衛督)
  ∥      ∥    |
 北條時政――+―平政子  +―源実朝
 (遠江守) |(二位尼) (右大臣)
       |
       +―北條義時
        (陸奥守)

 そして10月8日、「将軍家年十二御元服」が執り行われた(『吾妻鏡』建仁三年十月八日条)。元服は「於遠州名越亭」で行われ、「前大膳大夫広元朝臣、小山左衛門尉朝政、安達九郎左衛門尉景盛、和田左衛門尉義盛、中條右衛門尉家長已下御家人等百余輩着侍座」した。「江間四郎主、左近大夫将監親広」が儀式の調度を相具しているが、彼らは両別当の北條時政、中原広元の嫡子であり、次代の家司を想定した公事奉行人として鎌倉家に伺候していたのであろう。

●建仁三年十月八日、実朝元服の伺候人

持参雑具/進物陪膳 江間四郎主(北條義時)
左近大夫将監(源親広)
着侍座 前大膳大夫広元朝臣
小山左衛門尉朝政
安達九郎左衛門尉景盛
和田左衛門尉義盛
中條右衛門尉家長
(已下御家人等百余輩)
理髪 遠州(北條時政)
役送
※各近習小官中、被撰父母見存之輩召之
結城七郎朝光
和田兵衛尉常盛
和田三郎重茂
東太郎重胤
波多野次郎経朝
桜井次郎光高
奉鎧、御釼、御馬 佐々木左衛門尉広綱
千葉平次兵衛尉常秀

 10月9日に「今日将軍家政所始」が行われたという。午の刻、政所に「別当遠州、広元朝臣已下家司各布衣等」が参集し「民部丞行光書吉書」いた。家令の「図書允清定」が返抄し、「遠州持参吉書於御前給」った(『吾妻鏡』建仁三年十月九日条)。時政が吉書を持参していることから、この時点で時政が鎌倉家の筆頭家職「執権」(『吾妻鏡』建仁三年十月九日条)であったと考えられる。

 ただし、実朝はこの時点の官位は従五位下でかつ無官、三位が家司及び政所開設の資格であり(そもそも実朝の官位が従五位下に対し、「別当」の遠江守時政が同位従五位下、中原広元は上位の正五位下)、公的にはこの頃の鎌倉家には家司及び政所は置かれていない

 同10月9日「将軍御代始」として「佐々木左衛門尉定綱、中條右衛門尉家長、為使節上洛」した(『吾妻鏡』建仁三年十月十九日条)。これは「京都警固」のために10月3日に派遣された「武藏守朝雅」及び在京の京都守護「掃部頭入道寂忍」へ、「京畿御家人等、殊挿忠貞、不可存弐之由、相触之、且可召進起請文之趣」(『吾妻鏡』建仁三年十月十九日条)を命じる使者であった。

 11月6日、頼家は修禅寺から尼御台所と将軍実朝へ宛てて、ここでは召し使う者もないため、日頃の近習の参入を許してほしいと嘆願状を送ってきた。しかし尼御台所はこれを認めず、さらに今後は手紙を鎌倉に遣わすことを禁じる旨を、三浦義村を通じて修禅寺に申し遣わした。ただ、御台所はさすがに我が子である頼家入道を心配しており、4日後、義村が修禅寺から帰参して報告を聞くと悲しんだという。

 11月15日、鎌倉中の寺社奉行が定められ、 成胤の弟、兵衛尉常秀が永福寺の薬師堂の奉行となっている(『吾妻鏡』建仁三年十一月十五日条)。彼らの多くが鎌倉家の家政機関出仕の人々であることから、常秀もその一人であった可能性もある。

●寺社奉行

鶴岡八幡宮寺 江間四郎義時、和田左衛門尉義盛、清図書允
勝長寿院 前大膳大夫広元、小山左衛門尉朝政、宗掃部允
永福寺(永福寺二階堂) 畠山次郎重忠、三浦兵衛尉義村、三善進士康清
阿弥陀堂(永福寺南堂) 北条五郎時連、大和前司、足立左衛門尉遠元
薬師堂(永福寺北堂) 源左近大夫将監、千葉兵衛尉常秀、藤民部丞
右大将家法華堂 安達右衛門尉景盛、結城七郎朝光、中条右衛門尉

 建仁4(1204)年正月28日、藤原定家のもとに「自京下人等来云、関東乱違、時政為庄司次郎被敗逃山中、広元已伏誅」(『明月記』建仁四年正月廿八日条)という風聞が入る。畠山庄司次郎重忠が兵を挙げて将軍御所を攻めた噂とみられ、政所別当の北条時政と中原広元が狙われたというものであった。この風聞ですでに京都の「依此事広元縁者等騒動、京中迷惑運雑物」という(『明月記』建仁四年正月廿八日条)。定家の耳に入る以前にすでに関東に近い人々にはこの噂が伝わっていた様子がわかる。藤原定家は「聞此事、向左金吾宿所」(『明月記』建仁四年正月廿八日条)と、物忌ではあったが左衛門督公経の宿所を訪問して事の真偽を聞いている。これに公経は「朝雅等当時無誅申事」と答えており、当然まだ鎌倉から情報は届いてはいないが、京都守護平賀朝雅(時政女婿にして故右大将頼朝猶子)が言うには、関東における騒乱の情報は入っていないという。その後、定家は「相次参御所、召陰陽師等、被召此事、又被立神馬漸聞此事、全無別事」と、陰陽師らの占いにおいても同様の結果が出ており、「天狗所為歟」(『明月記』建仁四年正月廿八日条)と述べている。

 ただし、この噂は鎌倉家政所と畠山庄司次郎重忠との間での何らかの対立があったことを示唆するものではなかろうか。

 元久元(1204)年10月14日、将軍・右兵衛佐実朝の御台所として坊門信清息女を鎌倉に迎えるため、「遠江守時政男馬助維政(左馬権助政範)(『仲資王記』元久元年十一月五日条)を筆頭に、結城七郎朝広千葉平次兵衛尉常秀畠山六郎重保筑後六郎朝尚和田三郎朝盛土肥先次郎惟光葛西十郎清宣佐原太郎景連多々良四郎明宗長江太郎義景宇佐美三郎祐能佐々木小三郎南條平次安西四郎が上洛の途についた。常秀は成胤の弟で平氏との戦いなどに参戦して功績をあげた人物である。

        千葉介常胤        +―千葉介成胤
       (千葉介)         | (千葉介)
        ∥            |
        ∥――――――千葉介胤正―+―千葉常秀
 秩父重弘―+―女     (千葉介)   (平次兵衛尉)  
(秩父庄司)|
      |
      +―畠山重能―――畠山重忠
       (畠山庄司) (次郎)
               ∥―――――――畠山重保
               ∥      (六郎)
        北条時政―――女
          ∥
          ∥    平賀朝雅
          ∥   (武蔵守)
          ∥    ∥
          ∥――+―女
         牧ノ方 |
             +―北条政範
              (左馬権助)

 一向は11月3日、京都に到着した。なお、「今夜遠江守時政入洛云々(『仲資王記』元久元年十一月五日条)という記述もみられるが、この上洛に際しては「遠江守時政男」が「為迎将軍北方坊門大納言息女、相具数百騎上洛」(『仲資王記』元久元年十一月五日条)とあることから、政範が軍勢を率いていた主体であることがわかる。また、その後、京都での時政の活動が公家の日記にも全く見られないことからも、時政は上洛していないことがわかる。この記述は次条五日条の「遠江守時政男」と本来同様であり、単に「男」の脱であろう。

 左馬権助政範は「去三日入洛、自路有病」(『仲資王記』元久元年十一月五日条)とあるように、上洛途中に急病を患っており、上洛早々の11月5日に「遠江守時政男馬助維政早世了云々、生年十五歳(『仲資王記』元久元年十一月五日条)した。翌6日には「東山辺」に葬られた(『吾妻鏡』元久元年十一月廿日条)

 11月13日、政範死去の報告が鎌倉にもたらされると、時政と牧ノ方は悲嘆に暮れたという。政範卒去の前日の4日、六角東洞院にある平賀武蔵前司朝雅の邸で上洛祝いの酒宴が執り行われたが、この席で畠山重保と朝雅が争論を起こした。朋輩がなだめたため事なきを得たが、争論の原因は政範の病悩と関係があったのだろう。朝雅と重保の争論は時政と牧ノ方の怒りを買い、重保を含め、娘婿の重忠をも非として罰したとみられる。牧の方は時政の後妻として権勢を振るった女性である。

牧の方の出自について

畠山重忠追討

 建仁2(1202)年8月23日、頼朝と父・義澄の遺命を奉じ、(のちの矢部禅尼)を江間小四郎義時の嫡男・江間太郎頼時(のちの泰時)に娶わせた。そして、翌建仁3(1203)年、嫡男・北条時氏が誕生している。

 建仁3(1203)年8月4日、土佐国守護職を拝命した。二年前には豊島右馬允が守護職であり、彼の後任の守護である。

 元久2(1205)年6月の畠山重忠追討劇に際しては、内心この追討に反対だった相模守義時の軍勢に弟の九郎胤義とともに加わり、6月20日、二俣川の戦いで重忠を討った。畠山次郎重忠は武士の鑑と謳われた清廉潔白な人物として知られ、御家人の間でも人気が高かった。これを討った背景には義時の父・北条時政との対立とみられる(牧の方の関与は不明)。

○畠山重忠追討軍  

大将軍:相模守義時・式部丞時房・和田左衛門尉義盛
先 陣:葛西兵衛尉清重
後 陣:境平次兵衛尉常秀大須賀四郎胤信国分五郎胤通相馬五郎義胤東平太重胤
諸 将:足利三郎義氏、小山左衛門尉朝政、三浦兵衛尉義村、三浦九郎胤義、長沼五郎宗政、
    結城七郎朝光、宇都宮弥三郎頼綱、八田筑後左衛門尉知重、安達藤九郎右衛門尉景盛、
    中条藤右衛門尉家長、中条苅田平右衛門尉義季、狩野介入道、宇佐美右衛門尉祐茂、
    波多野小次郎忠綱、松田次郎有経、土屋弥三郎宗光、河越次郎重時、河越三郎重員、
    江戸太郎忠重、渋川武者所、小野寺太郎秀通、下河辺庄司行平、薗田七郎、
    大井兵衛次郎実春、品川三郎清実、春日部、潮田、鹿島、小栗、行方、兒玉、横山、金子、
    村山党

 23日、義時は重忠の首を持って鎌倉に帰参した。幕府で北条時政は義時に戦場のことを尋ねると、義時は、重忠が率いていた兵はわずかに百騎あまりで謀反の企ては虚報であったこと、讒訴によって殺されたことははなはだ残念なことだと時政を暗に詰り、重忠の首を見て悲涙を禁じ難いと言い放った。時政は言う事がなかったという。

 三浦党は二十年の昔、治承4(1180)年、武蔵国知行国主の三位中将平知盛のもとで平家与党だった河越太郎重頼、畠山庄司次郎重忠ら秩父平氏に居館の衣笠城を攻められ、義村祖父・三浦大介義明が討たれた。頼朝はこのときに生じた三浦党と秩父党の遺恨を気にしており、三浦党は秩父党に遺恨を持たないよう命じている。しかし今回の畠山重忠追討について、北条時政は義村の遺恨を利用した様子がうかがわれ、義村に畠山重忠の嫡子・畠山六郎重保の殺害を命じている。さらに二俣川から帰還した三浦義村は、数時間後の午後六時ごろ、今度は手勢を率いて経師谷口榛谷四郎重朝・太郎重季・次郎秀重父子を討ち取っている。

◎畠山・小山田氏略系図◎

           足立遠元―――娘
          (右衛門尉)  ∥
                  ∥――――重秀(小次郎)
                  ∥   
畠山重弘―+―畠山重能―+――――畠山重忠――重慶(阿闍梨)
     |(畠山庄司)|   (次郎)
     |      |     ∥――――重保(六郎)
     |      |北条時政―娘   
     |      |
     |      +―長野重清
     |      |(三郎)
     |      |
     |      +―畠山重宗
     |       (六郎)
     |
     +―小山田有重―――――+―――――稲毛重成 
     |(小山田別当)    |    (三郎)  
     |           |      ∥―――小沢重政
     +―娘(千葉介常胤妻) |北条時政――娘  (次郎)
                 |
                 +―榛谷重朝―――+―重季
                 |(四郎)    |(太郎)
                 |        |
                 +―小山田行重  +―秀重
                  (五郎)     (次郎)

 畠山重忠の殺害によって御家人の反発を買った北条時政と牧ノ方は、現将軍・実朝を殺害して、京都の平賀朝雅(牧の方の娘婿)を新たな将軍として迎えるという計画を立てる。閏7月19日、この計画を伝え聞いた尼御台は、時政邸の実朝を救うため、義村にその救出を命じた。義村は弟の九郎胤義長沼五郎宗政、結城七郎朝光、天野六郎政景らとともに時政邸に乗り込むと、実力で実朝を奪還。義時邸に移した。こうして時政、牧の方のクーデター計画は瓦解。時政・牧の方は、子の義時や尼御台によって伊豆国修善寺に追放され、二度と鎌倉に戻ってくることはなかった。

 二俣川から帰還した義村は、数時間後の午後六時ごろ、手勢を率いて経師谷口榛谷四郎重朝・太郎重季・次郎秀重父子を討ち取っているが、これは義時の命を受けたものか。

 建永元(1206)年10月20日、前将軍頼家の子・善哉(のちの鶴岡八幡宮寺別当阿闍梨公暁)を将軍・実朝の猶子と定め、はじめて御所に入った。このとき善哉七歳。乳母夫の三浦義村が賜物を献じた。

 承元3(1209)年12月15日、実朝は鎌倉近国の守護補任の御下文を確認するためか、下総国守護・千葉介成胤、相模国守護・三浦義村、下野国守護・小山左衛門尉朝政に対して補任状の持参を命じた。義村は「祖父義明、天治以来、依相交相摸国雑事、同御時、検断事、同可致沙汰之旨、義澄承之訖之由申之」と天治年間(1124~1125)以来、相模国の在庁を務め、義澄は頼朝から相模国の検断を沙汰すべきことが命じられたことを披露した。

千葉介成胤 下総国守護 先祖千葉大夫、元永以後当庄検非違所たるの間、右大将家の御時、常胤を以て下総一国の守護職に補せらる
三浦右兵衛尉義村 相模国守護 祖父義明、天治以来、相模国の雑事に相交わるに依りて、同御時、検断の事同じく沙汰を致すべきの旨、義澄これを承り訖んぬ
小山左衛門尉朝政 下野国守護 本より御下文を帯せず。曩祖下野少掾豊澤、当国押領使として検断の如きの事、一向これを執行す。秀郷朝臣、天慶三年更に官符を賜るの後、十三代数百歳奉行するの間、片時も中絶の例無し。但し右大将家の御時、建久年中に亡父政光入道、この職を朝政に譲与するに就き、安堵の御下文を賜るなり。敢えて新恩の職に非ず。

 承元4(1210)年6月2日、相模国西部の丸子川において、土肥・小早川の一党と松田・河村の一党が喧嘩し、両家の郎従が疵をこうむった。その後、お互いに砦に籠もって対決するほどにまで大事になってしまった。これを鎮めるため、侍所別当の和田義盛相模国守護の義村が幕命を受けて両家を宥め、翌3日帰参した。この喧嘩の原因は非常に些細なもので、両家の郎従が納涼のため出会って雑談していたとき、先祖の武功について勝劣を論じ、ともに激昂して起こったものだった。実朝は報告を受けると、雑色を土肥・松田の両家に遣わし、今後このようなことが起これば御家人の号を剥奪する旨を申し渡した。

 9月20日、近江国から佐々木左衛門尉広綱が献上した馬一匹が御所に届いた。実朝はこれを賞玩したのち、義村に預けた。義村は父・義澄以来、御所の御厩奉行を務めており、承元5(1211)年5月19日、信濃国小笠原の官牧の牧士と、奉行人である義村が派遣していた代官が喧嘩を起こしたことに沙汰が下った。牧士のような身分の低い者に対して、代官は奉行と称してほしいままに振舞っていることが多く、ややもすれば喧嘩におよび、公平な立場であるべき姿を忘れているとして、義村の御厩奉行職を召し上げることが決定した。代わって義村の従弟・佐原太郎兵衛尉景連が御厩奉行とされた。

 建暦元(1211)年9月15日、義村の妻が乳母を務める善哉(頼家の庶子)が鶴岡八幡宮寺別当・定暁僧都の弟子となった。法号は頼暁。師の定暁僧都は二位尼(平清盛妻)の弟・平大納言時忠の一門で、翌22日、頼暁は登壇受戒のため、定暁僧都に付き添われて上洛。実朝は猶子である頼暁のために、扈従の侍として五人差し遣わしている。この頼暁がのちの別当・公暁である。

小出川橋
旧相模川橋脚跡のある小出川の橋

 建暦2(1212)年2月28日、相模川にかかる橋(茅ヶ崎市下町屋1丁目)が数箇所、腐って落ちていた。駿河国守護職である義村は、この橋を修理すべきことを言上したため、江間義時、大江広元、三善善信入道が御所に集まり対応を協議した。じつはこの橋は建久9(1199)年に稲毛重成入道が亡妻(北条政子の妹)の供養のために建造したもので、頼朝も義妹の供養ということで出席した。しかし、頼朝は帰途に落馬し、しばらくして亡くなった。また、重成入道も元久2(1205)年に戦乱に討死しており、義時、広元、善信入道らはこの橋に関わることは不吉であると実朝に言上したが、実朝は、故将軍は官位を極めたのちの事故、重成は自らの不義が招いた不幸であって、まったく橋建立には関わりのないことであり、橋があれば庶民は通行に不自由することもなくなるので早く修理をするよう命じた。ここでも三浦氏の守護としての役割をうかがうことができる。

逮捕された人 預けられた人
一村小次郎近村 北条修理亮泰時
籠山次郎 高山小三郎重親
宿屋次郎 山上四郎時元
上田原平三父子三人 豊田太郎幹重
薗田七郎成朝 上條三郎時綱
狩野小太郎 結城左衛門尉朝光
和田四郎左衛門尉義直 伊東六郎祐長
和田六郎兵衛尉義重 伊東八郎祐広
渋河刑部六郎兼守 安達右衛門尉景盛
和田平太胤長 金窪兵衛尉行親・安藤次郎忠家
磯野小三郎 小山左衛門尉朝政
保科次郎  
粟沢太郎父子  
青栗四郎  
木曽滝口父子  
八田三郎  
和田某  
奥田太郎・四郎  
金太郎  
臼井十郎(上総介八郎甥)  
狩野又太郎  
張本百三十余人伴類二百人  
泉小次郎親衡  

和田合戦

 建暦3(1213)年2月15日、鎌倉を揺るがす事件が起こった。幕府転覆の計画の発覚である。事の始まりは、とある僧侶(阿静坊安念)が千葉介成胤の甘縄屋敷を訪れ、彼に謀叛の協力を求めたことだった。僧侶は信濃国の青栗七郎の弟で、現将軍・実朝を廃して故頼家将軍の遺児・千寿(尾張中務丞養子)を新将軍に擁する計画だったが、成胤が被官・粟飯原次郎に僧侶の捕縛を命じて義時邸に引っ立てたことで明るみに出た。義時はただちに子細を実朝に言上した上で、大江広元と相談。二階堂山城判官行村に下げ渡された。

 翌16日、侍所にて安念は拷問を受けたと思われるが、謀叛の計画に加わった人々の名を白状。幕府はただちに彼らの捕縛を開始した。

 この逮捕された中に、和田左衛門尉義盛の子(和田義直、義重)甥(和田胤長)が含まれていたことに幕府は動揺。3月8日には、この事件を聞きつけて各地の御家人が鎌倉に殺到していた。また、事件が起こった当時、和田義盛は所領の上総国伊北庄(千葉県夷隅郡)にあり、事件を聞いてあわてて鎌倉にのぼり、この日御所に参上して実朝と対面。実朝は義直・義重については父の義盛の勲功によって赦免したが、甥の胤長については赦さなかった。

 翌9日、義盛は一族九十八人を引率して御所に参上。南庭に列座し、大江広元を通じて胤長の赦免を願った。しかし、胤長は今度の乱の張本人であることから実朝も許さず、北条義時の口から「重く禁遏を加えるべし」との実朝の言葉が伝えられた。そして、義盛らが列座して見ている中、縛られた胤長が曳き出され、侍所の金窪行親、安東忠家の手から行村に引き渡された。目の前で一族の者が恥をかかされた形になった義盛は怒りに震えた。同時に北条義時への対抗心が強烈に燃え上がったと思われる。さらに胤長の旧宅も義時によって接収され、5月2日、義盛はついに義時を討つために挙兵した。

 この挙兵に際し、義盛は従兄弟である三浦義村・胤義に対して、義時追罰の挙兵に際しては味方についてくれるように頼んでいる。これに義村らも義盛に誓詞を差し出して、御所の北門を守護する約束をした。しかし、義村・胤義兄弟はいったんは義盛に同心したものの、曩祖・三浦平太郎為継以来の主、源家に弓引くことはできないと、北条義時に義盛挙兵の報を伝えた。

 申の刻(午後4時ごろ)、和田義盛は兵を率いて御所に攻め寄せた。その中には幕府草創期の有力御家人の子孫たちが多く含まれていた。北条氏の力が大きくなるにつれて、有力御家人たちは力を失い、北条氏に対する反抗心を生んだのだろう。

●和田義盛の挙兵に同心した御家人

御家人 続柄
和田左衛門尉義盛 和田家当主。三浦義村とは従兄弟に当たる。
和田新左衛門尉常盛 和田義盛嫡男。乱ののち鎌倉を逃れて甲斐国坂東山償原別所にて自殺。四十二歳。
和田新兵衛尉朝盛入道 和田常盛嫡男。実朝の近侍で歌に通じた人物。義盛が兵を集めたと聞くと、世を儚んで出家して鎌倉を去る。しかし連れ戻され、挙兵に加わるが、赦された。実阿弥。
和田次郎義氏 和田義盛次男。乱で討たれた。四十歳。
朝夷名三郎義秀 和田義盛三男。無双の大力で知られ、北条朝時を一蹴し、足利義氏の鎧の袖を引きちぎっている。
金窪四郎左衛門尉義直 和田義盛四男。義盛鍾愛の子。伊具右馬太郎盛重に討たれた。三十七歳。
和田五郎兵衛尉義重 和田義盛五男。三十八歳。
和田六郎兵衛尉義信 和田義盛六男。二十八歳。
和田七郎秀盛 和田義盛七男。十五歳。
土屋大学助義清 義盛の大叔父・岡崎義実の次男。赤橋で流矢に当たり討たれる。
横山右馬允時兼 叔母は和田義盛妻、妹は和田常盛妻。甲斐国坂東山償原別所にて自殺。
古郡左衛門尉保忠 甲斐国坂東山波加利の東、競石郷二木に於いて自殺。
渋谷次郎高重 横山権守時重聟
波多野三郎 横山右馬允時兼聟
横山五郎 横山右馬允時兼甥
中山四郎重政 秩父党の一。
中山太郎行重 重政の子。
土肥先次郎左衛門尉惟平 土肥弥太郎遠平の子。岡崎義実の養子となる。
岡崎左衛門尉実忠 真田与一義忠の子。
梶原六郎朝景 梶原平三景時の弟。
梶原次郎景衡 梶原朝景の子。
梶原三郎景盛 梶原朝景の子。
梶原七郎景氏 梶原朝景の子。
大庭小次郎景兼 懐嶋権守義景の子。
深澤三郎景家  
大方五郎政直  
大方太郎遠政  
塩屋三郎惟守  

 和田義盛の軍百五十騎は三手に分かれ、幕府の南門、義時の小町邸の西門・北門を取り囲んだ。さらに横大路にも進軍して大江広元邸にも矢を射掛け、大江邸は大混乱に陥った。このとき御所南西の政所の前に波多野中務丞忠綱が攻めかけ、これに三浦義村が馳せ加わった。

 しかし、和田勢の勢いはすさまじく、ついに幕府は東西南北の門をすべて囲まれ、北条修理亮泰時次郎朝時兄弟足利上総三郎義氏が防戦に努めた。しかし、和田義盛三男・朝夷名三郎義秀が惣門を攻め破って幕府の南庭に乱入し、守衛の御家人を攻め立て、御所は兵火によって灰燼となった。このため、実朝は義時、広元とともに頼朝の法華堂に避難した。

 幕府を占拠した義秀は「既に以って神のごとし」というほど暴れまわり、十嵐小豊次、葛貫三郎盛重新野左近将監景直礼羽蓮乗ら手向かった御家人はすべて討たれるほどだった。さらに従兄弟の高井三郎兵衛尉重茂との戦いでは、互いに馬を寄せて弓を捨て、力で雌雄を決しようと組み合い、激戦の末に重茂の首を取った。

 三浦大介義明―+―杉本義宗―+―和田義盛―+―和田常盛―――和田朝盛
(相模介)   |(太郎)  |(左衛門尉)|(新左衛門尉)(右兵衛尉)
        |      |      |
        |      |      +―和田義氏
        |      |      |(次郎)
        |      |      |
        |      |      +―朝夷名義秀
        |      |      |(三郎)
        |      |      |
        |      |      +―金窪義直
        |      |      |(四郎左衛門尉)
        |      |      |
        |      |      +―和田義重
        |      |      |(五郎兵衛尉)
        |      |      |
        |      |      +―和田義信
        |      |      |(六郎兵衛尉)
        |      |      |
        |      |      +―和田秀盛
        |      |      |(七郎)
        |      |      |
        |      |      +―和田義国
        |      |       (八郎)
        |      |
        |      +―和田義茂===高井重茂
        |      |(次郎)   (兵衛尉)   
        |      |         ↑
        |      +―和田宗実―――和田実茂
        |      |(三郎)   (兵衛尉)
        |      |
        |      +―市川義胤
        |      |(四郎)
        |      |
        |      +―和田義長―――和田胤長
        |       (平内)   (平太)
        |
        +―三浦義澄―+―三浦義村
         (三浦介) |(左衛門尉)
               |
               +―三浦胤義
                (左衛門尉)

筋違橋
筋違橋跡

 さらに北条義時の次男・相模次郎朝時に傷を負わせ、政所前の筋違橋では足利上総三郎義氏と馬合わせ太刀合わせを繰り広げ、敵味方から賞賛の拍手を浴びる。和田義盛自身も憤怒を身にまとい、夜になっても戦いは続いた。ここで北条方を支えていたのが義時の嫡子・泰時であった。明け方になってようやく和田方に疲れが見え始め、義盛は兵をまとめていったん由比ガ浜に引いた。その隙に泰時は手勢を率いて若宮大路を駆け抜け、中下馬橋に陣を取った

 翌3日、曾我、中村、二宮、河村氏といった相模国の有力者が実朝の御教書によって御所方となり、さらに千葉介成胤が精兵を率いて御所方に参着。義盛は横山時兼ら横山党の援軍を受けて御所を再び攻めようと若宮大路を進むが、すでに北条泰時・北条時房の手勢によって固められており、各道も御所方によってすでに防備されていた。

 一方、義盛の与党、土屋義清、古郡保忠、土肥惟平の三騎は奮戦して御所方をたびたび敗走させ、北条泰時を焦らせている。しかし、土屋義清が流れ矢に当たって戦死すると、次第に形勢は御所方有利に動き始めた。

 義盛も疲労困憊の中、この囲みを突破し、ついに御所前の横大路にまで攻め至った。しかし、ここに義村の軍勢が後ろから攻め至り、酉の刻(午後六時ごろ)、義盛鍾愛の四男・金窪四郎左衛門尉義直が戦死。義盛は義盛の戦死を聞くと大声で泣き叫び、もはやこれまでと御所方に突撃。江戸左衛門尉能範の郎従に討ち取られた。六十七歳。続けて、五郎兵衛尉義重六郎兵衛尉義信七郎秀盛らも討ち取られた。大力の朝夷名義秀は手勢五百騎を兵船六艘に分乗させて安房国に逃走した。おそらく義秀は安房国朝夷郡内に所領を得ていたと思われる。

 戦いが終わり、夕闇の迫る中、義時は金窪兵衛尉行親安藤次郎忠家両名を由比ガ浜に派遣して、義盛たち戦死者の首実検をした。

頼朝法華堂
頼朝法華堂跡(伝)

 5月4日、実朝は法華堂から尼御台の東御所に入った。その後、御所南庭にて論功が行われた。このとき、波多野中務丞忠綱が米町・政所前の合戦で先陣を切ったと申告したが、三浦義村は政所前の戦いでは自分が先頭であると論争となってしまった。これを見た北条義時は、あとで忠綱を誰もいない場所に招くと、

「今度世上無為の条、偏に義村の忠節に依る、然らば米町合戦にて先登の事、異論なきの上は、政所前の事、彼の金吾に対し相論時儀に叶ひ難きか、穏便を存ぜば、不次の賞行われんこと、その疑いなし」

と説得した。しかし忠綱は、

「勇士の戦場に向かうは先登を以って本意となす、忠綱いやしくも家業を継ぎ、弓馬に携わり、何箇度と雖も、盍ぞ先登に進まざらんや、一旦の賞に耽り、萬代の名を黷すべからず」

と譲らなかった。義時もこの正論には言葉もなく、実朝に報告したのだろう。実朝は真偽を質すため、忠綱と義村を御所の御壷に召して、義時、広元、二階堂行光らが同席の中、義村がまず召され、続いて忠綱が入り、両人は簣子の円座に座り、対決した。義村は、

「義盛来襲の最前、義村、政所の前に馳せ向かい、南に於て箭を発すの時、微塵と雖もその前に飛び行かず」

と、主張した。しかし忠綱は、

「忠綱一人先登を進む、義村は忠綱子息の経朝、朝定等を隔てて後陣に在り、しかるに忠綱を見ずの由申す、盲目たらんか」

と反論。このため、この戦いに参加していた皇后宮少進山城判官次郎金子太郎が参考人として呼ばれ、尋ねられた。彼等は、

「赤皮威鎧に葦毛の馬に駕す軍士が先登」

と言上した。この日、忠綱が赤糸威鎧を着しており、葦毛の馬は義時より拝領の「片洲」と号する馬であり、忠綱が先登だったことが判明。義村の言は退けられた。義村はひどく面目を失ったと思われる。

 5月7日、和田合戦の勲功について行賞がなされた。このとき、波多野忠綱は先頭を切って和田勢に斬り込んだことは無双の軍忠と賞された。しかし、実朝御前の義村との対論の際に義村に悪口を浴びせて面目を失わせたことは罪科であり、今回の勲功と相殺する旨が出された。そして、義村は陸奥国名取郡の地頭職を得た。本来であれば、偽証した義村は罪が問われてしかるべきところ地頭職が与えられ、却って正直に答えた忠綱が「無双の軍忠」という言葉と裏腹に実質的な懲罰に処されている。義盛挙兵の一報をいち早く義時に伝えたのは義村であり、義村への行賞は義時の政治的な配慮がうかがわれる。また、義村は義時嫡子・泰時の義父にもあたり、三浦一族という強大な御家人を北条家に繋ぎ止めておくための「恩」を与えたとも考えることができる。

●和田合戦の論功行賞

御家人 地頭職 前地頭
武田冠者 甲斐国波加利本庄  
島津左衛門尉 甲斐国新庄  
加藤兵衛尉 甲斐国古郡 古郡左衛門尉保忠
伊賀次郎左衛門尉 甲斐国岩間  
鎌田兵衛尉 甲斐国福地  
大須賀四郎胤信 甲斐国井上  
北条相模守義時 相模国山内庄 土肥先次郎左衛門尉惟平
北条相模守義時 相模国菖蒲  
二階堂山城判官行村 相模国大井庄  
二階堂山城四郎兵衛尉元行 相模国懐島 大庭小次郎景兼
近藤左衛門尉 相模国岡崎 岡崎左衛門尉実忠
女房因幡局 相模国渋谷庄 渋谷次郎高重
志村次郎 相模国坂東田原  
藤九郎次郎景盛 武蔵国長井庄  
大膳大夫大江広元 武蔵国横山庄 横山右馬允時兼
北条武蔵守時房 上総国飯富庄  
三浦平九郎左衛門尉胤義 上総国伊北郡 和田左衛門尉義盛
藤内兵衛尉 上総国幾與宇  
伊賀前司 常陸国左都  
藤内左衛門尉 上野国桃井  
北条修理亮泰時 陸奥国遠田郡  
藤民部大夫行光 陸奥国三迫  
三浦平六左衛門尉義村 陸奥国名取郡  
大弐局 出羽国由利郡 由利中八太郎維久(もと奥州藤原氏郎従)
金窪左衛門尉行親 出羽国金窪 和田四郎左衛門尉義直

 8月20日、将軍・実朝は焼けた大蔵御所跡に新しく建造された御所に移ることとなり、大江広元の屋敷より御所に入った。随兵の筆頭に三浦義村が見える。

●新御所入御の供奉

随兵 三浦左衛門尉義村 武田五郎信光 小笠原次郎長清 三浦九郎右衛門尉胤義 波多野中務丞忠綱
佐々木左近将監信綱 小山左衛門尉朝政 藤右衛門尉景盛    
前駆 前右馬助範氏 伊賀左近蔵人仲能 右馬権助宗保 兵衛大夫季忠 三条左近蔵人親実
橘三蔵人惟廣        
殿上人 出雲守長定        
御輿 源実朝        
役人 修理亮泰時(剣) 勅使河原小三郎則直(調度)      
御後 相模守義時 駿河守惟義 武蔵守時房 前大膳大夫広元 蔵人大夫朝親
左衛門大夫惟信 前皇后宮権少進盛景 伊賀守朝光 筑後守頼時 狩野民部大夫行光
山内刑部大夫経俊 三善民部大夫康俊 結城左衛門尉朝光 伊賀太郎兵衛尉光季 中條右衛門尉家長
加地五郎兵衛尉義綱 堺平次兵衛尉常秀 葛西兵衛尉清重 塩谷兵衛尉朝業 天野右馬允泰高
広沢左衛門尉実高 大友左衛門尉能直      
廷尉 二階堂山城判官行村        

 9月12日、幕府において駒の披露会が御厩奉行の三浦義村が奉行して執り行われた。この披露会は一般民衆にも公開されたようで、千人もの群集が押し寄せたという。

 12月28日夜、御所において義時鍾愛の四男(母は伊賀朝光娘)の元服の儀が執り行われた。このときこの若公は九歳。義村が烏帽子親に定められて冠を授け、「村」の一字を与えて「四郎政村」と名乗らせた。のちに七執権となり、八代執権・相模守時宗を支えた左京権大夫政村である。ここでも義時は義村に好意を見せ、三浦党を北条家に引き付けておこうとしたのだろう。

 建保5(1217)年6月20日、園城寺より阿闍梨となった公暁(頼家子・実朝猶子。頼暁改め)が鎌倉に下向した。はじめ「頼暁」と号していたが、明王院僧正公胤の門弟となって「公」字を下されて「公暁」と改めて修行していた。下向した公暁は、祖母の尼御台の命により、鶴岡八幡宮寺別当職に補せられた。この公暁の乳母夫が義村である。

 建保6(1218)年7月8日、左大将・実朝の御直衣始の儀が執り行われ、随兵は二列とされ、義村は長江四郎明義と並ぶこととなったが、幕府は義村を上座の左席とし、明義を右席と定めた。しかし義村は、明義が高齢であって先輩であるから彼を右にすることはできないと言上した。しかし、明義は義村は左衛門尉という官位を持つ人物であり、三浦介義澄の遺跡を継承した高名な人物であるから、彼を左席のままとするよう言上。この譲り合いで数刻費やされた。実朝はこれを聞くと、義村はまだ若く今後がある。しかし明義はすでに年老いており、彼を左に置く事で子孫への誉れとすることとした。

 7月22日、侍所司五人が定められ、別当北条式部太夫泰時が任じられた。二階堂山城判官行村三浦左衛門尉義村には御家人の事を奉行することとされ、大江判官能範には御所中の雑事について、伊賀次郎兵衛尉光宗には供奉の諸役について任されることとなる。

舞殿
鶴岡八幡宮舞殿

 しかし、義村にとって悪い事件が起こった。9月、鶴岡八幡宮寺に狼藉者が進入したのだ。この事件の犯人は三浦義村の子息・三浦駒若丸(三浦光村)であったという報告が御所になされ、14日、義時は金窪兵衛尉行親を使者として三浦義村邸に派遣して糾した。このため、駒若丸は出仕を停止させられた。

 このころの元旦、幕府に御家人たちが集まったときのことである。義村が御家人たちの最上座に座った。将軍家の家族的な立場である北条氏を除いて、三浦氏は千葉氏と並ぶ強大な権威を持っており、当然の行為であった。しかし、そのあとに年若の千葉介胤綱が広間に参上したが、彼は義村よりもさらに上座に座った。これに義村は怒りを含んで、「下総犬は臥所を知らぬぞよ(下総犬は寝る場所を弁えぬものだ)」と罵った。しかし胤綱も「三浦犬は友をくらふ也(三浦犬は友を食うものだ)」と言い返した。これは三浦義村が先年の和田合戦のとき、従兄の和田義盛に味方すると約束していたにもかかわらず、北条義時に寝返ったことを皮肉ったものであった。義村は何も言えなかったという(『古今著聞集』)。

 1月27日、大事件が起こった。この日の夜、実朝の右大臣拝賀の式典が鶴岡八幡宮寺で執り行われ、二尺(約60センチ)ほども積もる大雪の中、午後六時ごろ御家人らを率いた実朝が宮寺に入った。そして、一行が八幡宮寺の楼門をくぐったとき、御剣役を務めていた北条義時がにわかに体調を崩したため、公家の文章博士源仲章に御剣役を譲って伊賀四郎を具し、小町邸に帰ってしまった。

八幡宮
八幡宮大階段

 義時が欠けたものの、式典はその後も滞りなく進行し、深夜に終了した。実朝は御剣役の源仲章とともに八幡宮寺神殿を出て石段を降りようと雪道を踏み出したところ、石階段の際に隠れていた別当阿闍梨公暁が抜刀して飛び出し、実朝および仲章を斬殺した。

 この騒ぎを聞きつけた武田五郎信光らは、ただちに実朝のもとに駆けつけるが、すでに首を取られた亡骸が横たわっているのみで、犯人の姿は忽然と消えていた。ただ、御家人の中に、別阿闍梨公暁が「父の敵をば討たむ」と叫んでいるのを聞いた者がおり、御家人たちは公暁の姿を捜し求めて公暁の居住する雪ノ下本坊に乱入、長尾新六定景、子息の太郎景茂次郎胤景らが公暁の門弟僧と合戦して打ち破り、坊内を捜索したが、ここにも公暁の姿はなかった。

 このとき、公暁は実朝の首を持って、後見人・備中阿闍梨の雪ノ下北谷の屋敷(鎌倉市雪ノ下2)に匿われていた。備中阿闍梨は公暁に膳を勧めるが、公暁はその間、実朝の首を離さなかったという。その後、公暁は乳母子の弥源太兵衛尉を義村の屋敷(鎌倉市雪ノ下3)に派遣し、

「今将軍の闕有り、吾専ら東関の長に当たる、早く計議を廻らすべし」

と、実朝亡きあとは自分こそが「東関の長」つまり将軍にふさわしいとして、義村にその手段を講じるよう命じてきた。なぜ公暁が義村を頼ったかといえば、義村の子・駒若丸が公暁の門弟であった関係のためだと『吾妻鏡』には記載がある。また、義村の妻が公暁の乳母であったことも関係しているだろう。

伝長尾定景墓
鎌倉久成寺の伝長尾定景墓

 弥源太兵衛尉が退出ののち、義村は小町邸で休息中の北条義時に使者を発してこのことを伝えた。義時は即座に公暁を殺害するよう義村に下知。義村は一族を集めてその追討手段を話し合った。公暁は大変に力が強く、並みの者では容易に討つことはできないとして、義村は武勇に優れた長尾新六定景に討手を命じた。定景は雪ノ下本坊で荒僧との戦いのあと、義村邸に入っていた。

 定景は黒皮威鎧を身にまとい、雑賀次郎ら郎従五人を率いて、備中阿闍梨の屋敷に向かうため、三浦屋敷の裏の山道を抜けて北谷へ向かった。するとそこに、義村からの使者を待ちきれずに三浦屋敷へ向かうため、宮寺の裏山を歩いていた公暁とばったり出くわした。おそらく山中このあたりだと思われる。雑賀次郎が抱きついて組打ちとなり、定景自身が太刀を抜いて公暁の首を刎ねた。享年二十。

 源為義―――+―源義朝―――源頼朝――源頼家
(六条判官代)|(左馬頭) (右大将)(右衛門督)
       |             ∥
       +―源為朝―――娘     ∥――――公暁
        (八郎)   ∥―――――娘   (鶴岡八幡宮寺別当)
               ∥
              賀茂重長
             (六郎)

実朝後の将軍継嗣問題

小町邸
北条氏小町邸跡(宝戒寺)

 長尾新六定景は公暁の首を引っさげて三浦邸に戻り、義村が義時の小町邸にその首を持参した。義時は安東次郎忠家に蝋燭をともらせて首を見るが、同席した義時嫡子・泰時(義村の娘婿)は公暁の顔を知らず、これが本当に彼かどうかはわからないと疑念を抱いている。

 孫・公暁をこよなく愛していた尼御台は、この夜のうちに公暁の伴類をことごとく捕縛して糾弾するべき命を御家人に下している。

勝長寿院
勝長寿院跡

 翌28日、幕府は実朝薨去を朝廷に報告するため、加藤判官次郎景長を使者として上洛させた。辰の刻(午前八時ごろ)には実朝御台所(坊門姫)が荘厳房律師退耕行勇(栄西禅師門下)を戒師として落飾、武蔵守親広、左衛門大夫時広、前駿河守季時、秋田城介景盛、隠岐守行村、加藤大夫尉景廉ら御家人百余人が出家を遂げた。そして戌の刻(午後八時ごろ)、実朝の棺は勝長寿院の傍らに埋葬された。

 2月13日、幕府政所の二階堂信濃前司行光の使者が上洛した。これは後鳥羽天皇の皇子である六条宮雅成親王冷泉宮頼仁親王のいずれかの宮を新たな鎌倉殿として迎えたい旨を届けるためであった。この二人の皇子は、後鳥羽上皇の信頼の厚い卿ノ局(藤原兼子)と深い関わりを持った人物であった。以前に尼御台が上洛した際、尼御台はこの卿ノ局との間で、皇子を実朝の次の鎌倉殿として迎える密約を交わしたのではないだろうか。

 六条宮雅成親王は、卿ノ局にとっては血縁上甥に当たる人物、一方、冷泉宮頼仁親王は彼女が養育した皇子であった。とくに冷泉宮は実朝夫人(坊門姫)の実甥にもあたり、幕府としても頼仁親王がもっとも次の将軍にふさわしいと考えていたのではないだろうか。

      +―藤原季兼―――藤原季範――+―藤原範忠    北条政子  +―源頼家――――――――――――竹御所
      |(尾張国目代)(熱田大宮司)|(熱田大宮司)   ∥    |(右衛門督)           ∥
      |              |          ∥    |                 ∥
      |              +―娘        ∥――――+―源実朝             ∥
      |                ∥―――――+―源頼朝    (右大臣)            ∥
      |               源義朝    |(右近衛大将)                  ∥
      |              (左馬頭)   |                 西園寺倫子   ∥
      |                      +―娘                ∥―――――藤原頼経
      |                        ∥――――――――娘       ∥    (四代将軍)
      |                        ∥        ∥――――――九条道家
      |                       一条能保     九条良経   (摂政)
      |                      (右馬頭)    (摂政)
      |               源仲政
      |              (兵庫頭)
      |                ∥―――――――源頼政―――――源広綱
      |              +―娘      (兵庫頭)   (駿河守)
      |              |       
      |              |               +―藤原兼子
      |              |               |(卿ノ局) 
      |              |               |
      |              |               +―高倉範資
      |              |               |(八条院蔵人)
      |              |               |
 藤原実範―+―藤原季綱―――藤原友実――+―藤原能兼――――高倉範季――+=源範頼
(文章博士) (右衛門権佐)(勘解由次官) (式部少輔)  (刑部卿)   (三河守)
                                ∥ 
                                ∥――――――重子    +―守成親王
                                ∥     (修明門院) |(順徳天皇)
                       平教盛――――――教子     ∥     |
                      (中納言)            ∥―――――+―雅成親王
                                       ∥      (六条宮)
                                     後鳥羽上皇
                                       ∥
                                       ∥―――――――頼仁親王
                               坊門信清―+――娘      (冷泉宮)
                              (内大臣) | (坊門局)
                                    |
                                    +――娘
                                      (坊門姫)
                                       ∥
                                      源実朝
                                     (右大臣)

 閏2月12日、二階堂信濃前司行光が京都に到着。雅成親王または頼仁親王の鎌倉下向を仙洞御所に奏上した。しかし、上皇からは、両名のうち一人は必ず遣わすが、いまは適当ではないとして、この奏聞を却下する。上皇は信頼していた将軍・実朝の死後、北条政子・北条義時が実質的に幕府を牛耳っていることを嫌い、宮を下しても結果として義時による傀儡となることを予感していたのかもしれない。

                 藤原定家
                (権中納言)
                 ∥―――――――二条為家
               +―娘      (権大納言)
               |
               |
         大宮実宗――+―西園寺公経
        (内大臣)   (内大臣)
                 ∥―――――――西園寺倫子
               +―全子       ∥
               |          ∥    +―九条教実
               |          ∥    |(左大臣)
         一条能保  +―一条高能     ∥    |
        (権中納言) |(参議)      ∥――――+―二条良実
          ∥    |          ∥    |(内大臣)
          ∥――――+―娘        ∥    |
          ∥      ∥―――――――九条道家  +―藤原頼経【四代将軍】
 源義朝   +―坊門姫    九条良経    (左大臣)   (右衛門督)
(下野守)  |       (太政大臣)             ∥
  ∥    |                          ∥                     
  ∥    |                          ∥
  ∥――――+―源頼朝―――+―源頼家―――+――――――――――娘
  ∥    |(右近衛大将)|(左衛門督) |        (竹御所)
 藤原範季娘 |       |       |
       +―源希義   +―源実朝   +―一幡
        (土佐冠者) |(右大臣)  |(若公)
               |       |
               +―貞暁    +―公暁
                (高野法印) |(鶴岡別当)
                       |
                       +―栄実
                       |(別当)
                       |
                       +―禅暁
                        (若宮別当)

 こののち、上皇は義時に対して様々な要求を始める。3月9日、上皇は近臣・藤原忠綱を使者として鎌倉に下し、実朝旧御所にて義時と面会し、実朝薨去に対する哀悼を伝えるとともに、摂津国長江庄・倉橋庄の地頭職を改めるよう院宣を下した。この両庄の地頭は、義時の愛妾・伊賀局であり、義時に対する揺さぶりであった。

 3月12日、北条義時、北条時房、三浦義村、前大膳大夫広元入道が御台所の御所に集まり、上皇の使者・藤原忠綱が下した院宣の条々についての対応を協議。忠綱には追って上啓する旨を返答しており、急ぎ対応をしなければ上皇の御意に背くことになってしまうことから、急ぎ協議の場を設けたものだった。そして、15日、御台所の使者として北条時房が返答のために千騎もの大軍を率いて上洛の途についた。従順な姿勢を見せつつも武力を背景として宮将軍下向を強請する義時の策もあったのだろう。

 しかし、上皇は宮の下向を認めず、三浦義村もまた宮家からの降下が叶わないのであれば、頼朝の実妹(坊門姫)の血を引く左大臣・九条道家の孫(三寅)新しい鎌倉殿と定めるべきだとして、結局、九条三寅が鎌倉にさし下されることとなる。義村が九条道家の嫡孫を推挙した理由は、もちろん頼朝家の血を受け継ぐ人物であるということもあるが、九条家との関係も考えられる。九条家は元久3(1206)年以来、土佐国を知行国とし、幡多庄に強力な地盤を築いていく。そして義村も建仁3(1203)年8月4日以来、土佐国守護職となっており、互いに交流があったのだろう。

 6月、義村の嫡子・三浦太郎兵衛尉朝村や、弟の三浦平九郎左衛門尉胤義ら十二人の御家人が九条三寅を迎えるために上洛(『承久記』)。6月25日明け方、先陣を三浦朝村が、後陣を千葉介胤綱がつとめ、三寅を奉じた一行は京都を発した。この一行に朝村や胤義をはじめ、大河戸次郎、佐原次郎左衛門尉、佐原三郎左衛門尉、天野左衛門尉政景(義村義兄弟)など三浦一族・姻戚が半分を占めている。

田村山庄
田村山荘跡碑
(実際の館跡より北にある)

 7月14日、三寅の一行は、相模国田村(平塚市田村)に五日間逗留しており(『承久記』)、おそらく義村の「田村山庄」に入って饗応を受けていたのだろう。田村山庄は百八十メートル四方の巨大な構造で、堀も掘られていたという。

 義村は関係の深い九条家出身の将軍を迎えるにあたり、九条家からも内々に三寅の事を託されていたのかもしれない。7月19日、三寅の一行は鎌倉に入った。

 承久2(1220)年12月1日、三寅の着袴儀が北条家大倉亭の南面にて行われた際には、義村(「駿河守」の初見)は北条武蔵守泰時、足利武蔵前司義氏、小山左衛門尉朝政、千葉介胤綱とともに小侍に着し、その後、東面の広廂に一条中将実雅、北条右京大夫義時、北条相模守時房が伺候。義村は刀を献じ、子息の泰村・光村は鞍置の馬を献じた。

~承久の乱~

 将軍家後嗣問題の不調は、上皇と義時との間に隙間風を吹かすこととなり、次第に両者の間はきな臭い雰囲気が流れ始める。承久3(1221)年4月に入ると、後鳥羽上皇とともに幕府に批判的だった天皇(順徳天皇)は譲位の意思を固め、4月20日、皇子・懐成親王に譲位(仲恭天皇)。4月28日、後鳥羽上皇とともに義時追討の兵をひそかに集めはじめる。そして後鳥羽上皇、順徳上皇は土御門上皇六条宮雅成親王冷泉宮頼仁親王を伴い御所の高陽院殿に移り、一千騎が集結した(『承久記』)

               千葉介成胤
                 ∥
伊賀朝光―+―伊賀光季――――+―娘
     |(太郎左衛門尉) |
     |         |
     +―伊賀光宗    +―伊賀光綱
     |(次郎左衛門尉)  (寿王冠者)
     |
     +―伊賀光資
     |(三郎左衛門尉)
     |
     +―伊賀朝行
     |(四郎左衛門尉)
     |
     +―伊賀光重
     |(六郎左衛門尉)
     |
     +―伊賀局
        ∥――――――――北条政村
       北条義時     (四郎)
      (陸奥守)

 そして5月15日、ついに後鳥羽上皇は北条義時追討の兵を挙げた。未の刻(午後二時頃)、上皇勢は高辻北京極西角に屋敷を構えて京都守護職を担当していた北条陸奥守義時の側室(伊賀局)の兄・伊賀左衛門尉光季を攻め、光季は自刃を遂げた(『百錬抄』)。ここから始まる上皇と幕府の戦いを「承久の乱」という。

 後鳥羽上皇の召しに応じた者としては、公家では「坊門大納言忠信、按察使中納言光親、中御門中納言宗行、日野中納言有雅、甲斐中将範盛、一条宰相義宣、池三位光盛、刑部卿僧正長厳、二位法印尊長」、武士では「能登守秀康、三浦平九郎判官胤義、仁科次郎盛遠、佐々木弥太郎判官高重」らであったという(『承久記』)

 5月19日、光季が京都から発した飛脚が鎌倉に到着した。光季の命の言葉が認められていたのだろう。義時の娘婿で大江広元の子・大江前民部少輔親広入道が上皇に組したこと、光季は応じずに攻められるだろうということが伝えられ、続けて届いた西園寺公経家司主税頭三善長衡(三善善信入道の親類)からの使者により、光季が討たれたこと、義時追討の院宣が全国に発せられたこと、関東御家人への院宣は本日到着しているはずであるということが伝えられた。これを聞いた義時は、さっそく鎌倉各地を捜索させ、屋敷の目と鼻の先、葛西谷山里殿で怪しい男を捕らえた。彼が持っていた院宣と御家人交名注進状は没収され、御台所に披露された。一方、上皇方に加担した三浦義村の弟・九郎左衛門尉胤義からの私信が義村のもとに届けられた。そこには、勅定によって義時を誅すること、その勲功については思うに任せる旨が認められていた。これを見た義村は使者を承引すると返事をすると、この書状を持って義時のもとに出頭し、事の次第を告げた。

 胤義が上皇に加担した理由は、北条義時に対する強い恨みにあったと思われる。実は二代将軍頼家には公暁のほかにも、京都仁和寺阿闍梨禅曉という男子がいた。彼は実朝亡きあとの継嗣問題の最中、承久元(1219)年閏2月5日に鎌倉に下向しており(『光台院御室伝』:「続群書類従」)、彼を将軍として擁立しようという勢力があったことがうかがわれる。

●『光台院御室伝』

二月廿六日
前信濃守行光入洛、閏二月五日、召具禅曉闍梨故頼家卿息下向、六月廿五日戊子、左大臣道家公御息若宮生年二、依可為将軍、下向関東、

 禅曉の母は三浦胤義の妻になっており、阿闍梨禅曉の義父が胤義ということになる。しかし、北条義時としては将軍はあくまで飾り物で、幕府を大きな政治機構、官僚機構として固める必要性を感じていたと思われる。この中に源家を崇拝する感情に基づく主従関係は邪魔になる。結局、義時は京都から頼朝の妹の血を引く遠縁の九条道家の子を将軍に迎えることで、源家に忠誠を尽くす御家人を懐柔したのだろう。そして頼朝直系の阿闍梨禅暁は、翌承久2(1220)年4月15日、京都において殺害された。

◎阿闍梨禅暁周辺系図◎

    三浦介義澄―――+―三浦義村
   (三浦介)    |(駿河守)
            |
            +―三浦胤義
             (九郎左衛門尉)
               ∥
    一品房昌寛――――――女    +―栄実:和田合戦で和田義盛方に推戴され、敗戦後自害。
               ∥    |(若宮別当)
               ∥    |   
               ∥――――+―阿闍梨禅暁:承久の乱直前に北条義時の手により殺害。
 源義朝――源頼朝―――+―源頼家     (仁和寺)
(左馬頭)(右近衛大将)|(左衛門督)
            |
            +―源実朝
             (右大臣)
               ∥
               ∥
      坊門信清――+―坊門姫
     (内大臣)  |(西八条禅尼)
            |
            +―坊門忠清:承久の乱で捕縛
            |(権大納言)
            |
            +―坊門局
               ∥――――+―頼仁親王
               ∥    |(冷泉宮)
               ∥    |
              後鳥羽上皇 +―道助法親王
                     (仁和寺)

 禅曉が討たれたことに、義父に当たる胤義は義時をひどく恨んだという。また、以前の和田合戦で和田義盛方に祀り上げられたとされた若宮別当栄実禅曉と同母(胤義妻)とされており、胤義は義理の息子二人を北条氏によって討たれたことになる。そして、後鳥羽上皇の北条義時追討の院宣が下ったときに京都にいた胤義は、上皇の召しに応じて京方について北条義時に反した。

 5月22日、小雨の降る中、北条泰時率いる幕府先鋒軍が鎌倉を進発した。旗下の将は泰時の子、北条武蔵太郎時氏(三浦義村孫)を筆頭に、北条家の直臣を中心とした十八騎の編成。その後、北条相模守時房を大将とする東海道軍が鎌倉を進発した。

●承久3(1221)年5月22日 鎌倉を発った東海道軍の先鋒

北条武蔵守泰時 北条武蔵太郎時氏 北条陸奥六郎有時 北条五郎実泰 尾藤左近将監
関判官代 平三郎兵衛尉 南条七郎 安東藤内左衛門尉 伊具太郎
岡村次郎兵衛尉 佐久満太郎 葛山小次郎 勅使河原小次郎 横溝五郎
安藤左近将監 塩河中務丞 内嶋三郎      

●承久3(1221)年5月23日 鎌倉留守居の宿老

北条右京権大夫義時 前大膳大夫大江広元入道覚阿 駿河入道行阿 大夫屬三善康信入道善信 隠岐入道行西
葛西壱岐清重入道定蓮 筑後入道 工藤民部大夫行盛 加藤大夫判官景廉入道覚蓮 小山左衛門尉朝政
宇都宮頼綱入道蓮生 隠岐左衛門入道行阿 三善隼人康清入道善清 大井入道 中条右衛門尉家長

 そして5月25日までに、出兵を命じられた鎌倉の将士はすべて上洛の途についた。

●承久3(1221)年5月25日までに出立した幕府軍大将の編成(『吾妻鏡』『承久記』)

東海道大将軍
(十万余騎)
北条相模守時房 北条武蔵守泰時 北条武蔵太郎時氏 足利武蔵前司義氏 三浦駿河前司義村 千葉介胤綱
東山道大将軍
(五万余騎)
武田五郎信光 小笠原次郎長清 小山左衛門尉朝長
(長村?)
生野右馬入道 諏訪小太郎 伊具右馬允入道
北陸道大将軍
(四万余騎)
北条式部丞朝時 結城七郎朝広 佐々木太郎信実      

 義村は北条相模守時房、北条武蔵守泰時、足利武蔵前司義氏、千葉介胤綱らとともに「東海道大将軍」の第五陣の一員として出陣した。

●幕府軍海道軍(『承久記』)

東海道
大将軍
相模守時房 武蔵守泰時 武蔵太郎時氏 武蔵前司義氏 駿河前司義村
千葉介胤綱        
将士 陸奥六郎有時 庄判官代 里見判官代義直 秋田城介景盛入道 蔵人頼隆入道
狩野介入道 宇都宮四郎頼仲 宇都宮大和入道信房 宇都宮太郎左衛門 宇都宮次郎左衛門
宇都宮三郎兵衛 宇都宮やくそ冠者 駿河次郎泰村 三浦三郎光村 佐原次郎兵衛盛連
三浦又太郎氏村 天野三郎左衛門政景 小山新左衛門朝直 長沼五郎宗政 土肥兵衛尉景平
結城七郎左衛門朝光 後藤左衛門朝綱 佐々木四郎信綱 長井兵太郎秀胤 筑後六郎左衛門友重
小笠原五郎兵衛 相馬次郎胤綱 豊島平太郎 国分次郎常通 大須賀兵衛通信
東兵衛尉重胤 武次郎 武平次 澄定太郎 澄定次郎
佐野太郎三郎 佐野小太郎 佐野四郎 佐野太郎入道 佐野五郎入道
佐野七郎入道 園左衛門入道 若狭兵衛入道 小野寺太郎 小野寺中書
下川辺四郎 久家兵衛尉 讃岐兵衛太郎 讃岐五郎入道 讃岐六郎
讃岐七郎 讃岐八郎 讃岐九郎 讃岐十郎 江戸七郎太郎
江戸八郎太郎 北見次郎 品川太郎 志村弥三郎 寺島太郎
下次郎 門井次郎 渡左近 足立太郎 足立三郎
石田太郎 石田六郎 安保刑部 塩屋民部 加地小次郎
加地丹内 加地源五郎 荒木兵衛 目黒太郎 木村七郎
木村五郎 笹目三郎 美加尻小次郎 厩次郎 萱原三郎
熊谷小次郎兵衛直家 熊谷平左衛門直国 春日刑部 強瀬左近 田五郎兵衛
引田小次郎 田三郎 武次郎泰宗 武三郎重義 伊賀左近太郎
本間太郎兵衛 本間次郎 本間三郎 笹目太郎 岡部郷左衛門
三善右衛門太郎 山田兵衛入道 山田六郎 飯田右近丞 宮城野四郎
宮城野小次郎 松田 河村 曾我 中村
早川 波多野五郎信政 金子十郎家忠 敕使河原小四郎 新関兵衛
新関弥五郎 伊東左衛門 伊東六郎 宇佐見五郎兵衛 吉川弥太郎
天津屋小次郎 高橋大九郎 龍瀬左馬丞 指間太郎 渋河中務
安東兵衛忠光        

 幕府東海道軍は5月30日遠江橋本駅、6月2日遠江国府(静岡県磐田市)に到着した。鎌倉勢が遠江国府に入った報告は、飛脚によってただちに京都に伝えられた。公卿達はただちに詮議に入り、防戦のために軍勢を出陣させることとなり、6月3日早朝、軍勢が京都を出発。4日に尾張国木曽川に布陣した。

●承久3(1221)年6月3日出陣の後鳥羽上皇方の将士

北陸道   宮崎左衛門尉定範、糟屋右衛門尉有久、仁科次郎盛朝
大井戸渡
美濃加茂市太田本町
二千余騎 平賀修理大夫惟義、平賀駿河大夫判官惟信、筑後六郎左衛門尉有長、
糟屋四郎左衛門尉久季
鵜沼渡
各務原市鵜沼
二千余騎 帯刀左衛門尉(美濃目代)、神地蔵人入道
池瀬
各務原市鵜沼大伊木
一千余騎 朝日判官代頼清、関左衛門尉政安
板橋 一千余騎 土岐次郎判官代光行、海泉太郎重国
摩免戸
各務原市前渡東町
一万余騎 能登守藤原秀康、三浦平九郎判官胤義、佐々木山城守広綱、佐々木下総前司盛綱、
佐々木弥太郎判官高重、安芸宗内左衛門尉、加賀美右衛門尉久綱、弥二郎左衛門盛時、
足助次郎重成
食渡 五百余騎 安芸太郎入道、山田左衛門尉、臼井太郎入道
洲俣
安八郡墨俣町
三千余騎 河内判官秀澄、山田次郎重忠、後藤判官基清、錦織判官代義嗣
市脇 一千余騎 加藤伊勢前司光員、伊勢国住人
薭島 五百余騎 長瀬判官代、重太郎左衛門入道
 

 6月5日、幕府軍は尾張国一宮(愛知県一宮市)に到着した。一宮の北をながれる木曽川の対岸には後鳥羽上皇軍が陣を張っていたため、幕府軍は軍議を開き、軍勢を分けて攻撃をしかけることとなった。そして幕府軍は木曾川の官軍を駆け散らすと、14日、京都最後の防衛線・宇治川で両軍は対峙した。北条泰時が攻めかかるも守りは堅く、日暮れ時になったためいったん退いた。三浦義村は酉の刻(午後六時ごろ)、淀で官軍に攻めかかる準備を整えている。結局、幕府軍は宇治川を攻め渡り、官軍は壊走。15日、幕府軍は京都になだれ込んだ。

宇治川合戦場
宇治川の合戦場

 戦いに敗れた藤原秀康、三浦胤義、佐々木盛綱、大江親広らも京都に帰還。後鳥羽上皇が籠もっていた四辻殿に参向して、最後の御供を仕らんとしたが、上皇はこれを拒否して追い返した。彼らは門をたたいて罵るも詮方なく立ち去った。このとき三浦胤義は、東寺は良い城郭であるからここに籠もることにしようと提案。兄の三浦義村は淀方の勢であるので、京都に入る際にはここを通ることは間違いなく、彼らと合戦して死なんと思い立ったようである。

 するとその予想通り、三浦義村は佐原次郎兵衛尉盛連、佐原又太郎秀泰、天野左衛門尉景氏、堺平次郎兵衛尉常秀、小幡太郎、小幡弥平三ら三百余騎を率いて東寺の前を通りかかり、東寺に官軍の残党が籠もっていると聞いて攻めかかった。

 三浦義明――+―杉本義宗――+―和田義盛
(三浦介)  |(太郎)   |(左衛門尉)
       |       |
       |       +―和田宗実―――――高井高茂―――高井時義
       |        (三郎)     (兵衛尉)  (兵衛太郎)
       |       
       |         天野政景
       |        (和泉前司)
       |          ∥―――――――天野景氏
       |       +――娘      (左衛門尉)
       |       |
       +―三浦義澄――+―三浦義村――――――娘
       |(三浦介)  |(駿河守)      ∥
       |       |           ∥―――――佐原光盛
       |       +―三浦胤義      ∥    (四郎左衛門尉)
       |        (九郎左衛門尉)   ∥
       |                   ∥
       |         武田信光娘     ∥
       |          ∥―――――――佐原盛連―――佐原経連
       |          ∥      (次郎兵衛尉)(太郎)
       |          ∥
       +―佐原義連――――佐原泰連―――――佐原秀泰
       |(十郎左衛門尉)(十郎左衛門尉) (又太郎)
       |
       +―娘
         ∥―――――――畠山重忠
        畠山重能    (次郎)
       (畠山庄司)

東寺
東寺

 しかし、寄せ手の佐原盛連、天野景氏は日ごろから平九郎胤義とは一門ということで仲がよく、東寺に籠もっていたのが彼であると知ると、攻撃の手を緩めた。すると仔細を知らない盛連の嫡子・太郎経連は、どうして父が攻撃を控えているのか不審に思い、名乗りを上げて東寺に攻め寄せた。

 これを聞いた胤義は、「さこそ公の戦と言ひながら、太郎無礼なる者かな、かげよし(時義か?)漏らすな」と怒り、「たかゐ(高井兵衛太郎時義か?)」らに命じて合戦を遂げたものの、多勢に無勢で退却した。この戦いののち、秀康らは一矢も酬いることなく北へと逃亡。胤義は東山に逃れ、嫡子・太郎兵衛(名不明)とともに自害して果てた。その後、胤義の年来の郎従・藤四郎入道が胤義、太郎兵衛の首を持って義村のもとに降伏。彼等の最後の有様を報告。義村は愛弟・胤義と甥・太郎兵衛の首を両手に抱き、泣き伏したという。

                   【西園寺公経家司】
 三善為康―+―三善行康――三善行衡――三善長衡
(諸陵頭) |(長門介) (土佐介) (陸奥守)
      |
      |      
      +―三善康光
       (左衛門尉)【幕府問注所執事】
         ∥――――三善康信
       +―妹   (中宮大夫属)
       |
       +―比企尼
        (源頼朝乳母)

 戦いは幕府軍の圧勝で終わる。次々に官軍の張本たちが逮捕され、7月2日には、院の西面として伺候していた御家人、後藤左衛門少尉基清、筑後守平有範、佐々木山城守広綱、左衛門少尉大江能範の四人が故実朝の恩を忘れて謀叛に加担した罪により斬罪に処され、梟首された。続いて、7月5日には公家の一条宰相中条信能遠山左衛門尉景朝によって斬首された。その後も公家の処断が続き、後鳥羽上皇は隠岐国に、順徳上皇は佐渡国土御門上皇は土佐国、将軍候補と議された六条宮雅成親王、冷泉宮頼仁親王もそれぞれ流罪とされた。また、朝廷では親幕府の公家で後鳥羽上皇に幽閉されていた西園寺公経が復帰して、権勢を振るうようになる。公経の家司・少外記三善長衡は、この承久の乱の始まりである伊賀光季の滅亡など、京都の変を鎌倉に一報した人物であり、問注所執事・三善康信入道の親族でもあるなど、公経は幕府とは深いつながりを持つ人物であった。また、公経の娘は三浦義村の土佐における知行国主・九条家に嫁いでおり、天福元(1233)年4月23日に行われた賀茂祭で、義村の三男・駿河三郎光村が供奉した際には、公経から賜った装束を用いているなど、義村とも交流を持っていたことがうかがえる(『民経記』)

        一条能保   九条良経
       (権中納言) (関白)
         ∥      ∥――――――九条道家
         ∥――――+―娘     (関白)
      +――娘    |        ∥
      |       |        ∥
      |       +―全子     ∥―――――藤原頼経
      |       | ∥――――――娘    (征夷大将軍)
      |       | 西園寺公経 
      |       |(内大臣)
      |       |
      |       +―一条実雅
 源義朝――+―源頼朝    (讃岐中将)
(下野守)  (右近衛大将)  ∥ 
         ∥      ∥――――――娘
 北条時政―+―北条政子    ∥
(遠江守) |(尼御台)    ∥
      |         ∥
      +―北条義時――+―娘
       (陸奥守)  |
              |
              +―北条泰時 +―北条時氏
               (武蔵守) |(修理亮)
                 ∥   |
                 ∥―――+―娘
                 ∥     ∥    
        三浦義村――+――娘     足利義氏   
       (駿河守)  |(矢部尼)  (武蔵前司)
              |
              +―三浦光村
               (駿河三郎)

 承久4(1222)年1月1日、義時が将軍・藤原三寅に椀飯を献じた。三寅は御所に出御、御簾を一条讃岐中将実雅が巻き上げ、人々は三寅に謁見を賜った。式ではまず源氏一門の足利武蔵前司義氏(義村孫娘聟)が錦の袋に入った太刀を献上。続いて三浦駿河前司義村が弓箭を、続いて行縢を小山左衛門尉朝長が献じた。義村は別格の足利義氏の次に将軍に謁見する栄誉を賜っていた。また、一の馬を子の駿河小太郎兵衛尉朝村・駿河三郎光村が献じている。義村は和田義盛の乱、承久の乱と、一貫して北条義時に積極的に味方をしたことで、幕府内における地位を着実に上げていったと推測される。北条義時も義村を警戒しつつも、京都の実力者・九条家や縁戚の西園寺家と深く結びつき、義時の嫡孫・時氏の祖父でもある義村と協力関係を保つことを優先したのかもしれない。

 2月12日、一条実雅の妻(北条義時娘)が女児を出産した。実雅は頼朝の甥にも当たり、義父の義時、義弟の北条式部丞朝時・修理亮重時、三浦義村ら縁戚が集まってこれを祝した。この当時、義村と義時の関係は非常に良好であった。5月25日、義時は三浦半島に逍遥に出かけたときには、義村が豪華を極めたもてなしをしたという。

 貞応2(1223)年1月1日の北条義時の椀飯では、義村が御剣役を務めた。以降、数年にわたり元日の椀飯の際には義村が御剣役を務めている。また、義村は相模国守護(または政務担当者)としての所役を務め、相模川の西辺の田村山庄の別邸に頻繁に帰って政務を見ている。この年も田村山庄に戻っており、4月28日夜、鎌倉に帰参して、29日、三寅に拝謁して盃酒を献じた。

 10月4日には、義村の招待で北条義時が田村別庄を訪問。義時は苅田右衛門尉義季ら多くの麾下を率いて参上した。義時は二日間にわたって饗応を受け、6日に義村とともに鎌倉に帰還。そのまま御所に参上して、義時は黒駮の馬一頭を献上した。

 貞応3(1224)年4月27日、将軍家父の前関白・九条道家の使者として、土佐守源国基が鎌倉に下向し、御所侍所において三寅と対面した。義時、駿河守重時、駿河前司義村らも侍所に出仕して国基と対面し、椀飯を振る舞った。国基の子・権大僧都観基は承久元(1219)年に三寅の護持僧として関東下向に随い、寛喜4(1232)年3月15日に入滅するまで三寅(頼経)のもとにあった。

清和天皇─貞純親王─源経基─源満仲─+―源頼光─源頼国─源実国─源行実─源光行─源行頼―――源国基―観基権大僧都
                   │                    (大宮大進)(土佐守)     
                   │                         
                   +―源頼信―源頼義―源義家―源義親―源為義―源義朝―――源頼朝

義時法華堂
伝・義時法華堂跡

 6月12日、これまでさしたることはなかった北条義時の脚気が急に悪化した。翌13日には危篤に陥り、午前9時ごろ卒去した。享年六十二歳。18日、義時の葬儀が執り行われ、頼朝の法華堂の東の山上に墳墓が築かれた。6月22日には義村が主催した臨時の仏事が執り行われている。

~伊賀氏の乱~

 義時の卒去が急だったため、死の直後から後継者騒動が起こってしまうことになる。義時卒去の日、嫡男の武蔵守泰時はこのとき京都の六波羅にあって京都の政務を担当しており、義時の死を聞いた泰時が弟たちを討つために京都から鎌倉に向かっているという風説が鎌倉に流れていた。このため、義時後家の伊賀局(伊賀朝光娘)は兄弟の伊賀式部丞光宗(政所執事)らとともに、娘婿の一条実雅を将軍に、我が子・四郎政村を執権にするべく謀計を企てた。

 伊賀光宗兄弟は、政村の烏帽子親で、政村を大変にかわいがっていた三浦義村を今回の謀計に加担させようと計画し、伊賀邸からは使者がひんぱんに三浦邸へ飛んでいた。そして7月5日夜、伊賀光宗兄弟は伊賀局と政村が住んでいた義時の旧宅に集まり、計画を違えずという誓詞を交わした。これをある女房が聞き、すべては聞いていないとはいえ泰時に報告した。しかし泰時は一行に動揺した気配を見せなかった。

三浦邸跡
政所跡前より三浦邸跡を望む

 7月17日、戦い近しの情報を聞きつけた近国の御家人の郎従が鎌倉に押しかけ、夕闇の街は殺伐とした状況となっていた。この不穏な気配を察した尼御台は、深夜に駿河局一人を供としてひそかに御所を抜けて三浦邸に駆け込んできた。急の来訪を聞いた義村はあわてて尼御台を迎えると、平伏した。

 尼御台は義村に、

「奥州卒去につき、武州下向の後、人群を成し、世は静まらず、陸奥四郎政村ならびに式部丞光宗らは頻りに義村の許に出入し、密かに談ずる事有るの由の風聞、これ何事やその意を得ず、もし武州を相渡し独歩せんと欲するか、去る承久の逆乱の時、関東治運天命たりと雖も、半ば武州の功にあらんや、凡そ奥州烟塵を鎮め、干戈を戦ひ、静謐せしめをはんぬ、その跡を継ぎ、関東の棟梁たるべきは武州なり、武州無くば、諸人諍か運を久しくせんや、政村と義村とは親子の如し、何ぞ談合の疑い無きや、両人無事の様、須く諷諫を加ふ」

と説いた。これに義村は「知らず」と、談合に加わったことはないと訴えるが、尼御台はこれを退け、

「政村を扶持せしめ、濫世の企て有るべきや否や、和平の計を廻らすべきや否や、早く申し切るべし」

と強硬に義村に迫った。これにはさすがの義村も気圧され、

「陸奥四郎、全く逆心無からんか、光宗らは用意の事有り」

と、光宗たちの計画であると告げ、彼らの計画には加わらない旨を約束。尼御台はようやく三浦邸をあとにした。

 7月18日、義村は鎌倉に戻っていた女婿泰時と対面。義時が御懇志で政村の烏帽子親となり、愚息・泰村の子・駒石丸を猶子としてくれた恩を思うと、貴殿と政村の両人の今回の事について、自分としてはどちらが正しいとは言えない。ただ思うことは世の平安である。光宗が謀略を企てていたことがあるが、義村が説得したためようやく計画をあきらめたことを告げた。泰時も政村に対して害心を持たないと返答した。

 閏7月1日、三寅と尼御台は泰時邸に移り、使者を義村のもとに遣わして、すぐに参向するよう仰せ含められた。尼御台は義村に、時房、泰時とともに武州邸に一緒にあるよう命じた。結局、伊賀光宗らの計画は実現せず、将軍に擬された一条実雅については京都へ護送ののち罪名を奏することとし、伊賀局および伊賀光宗らは流罪と決定した。ただ、義村ら同心の疑いがあった者については一切罪を問わないこととした。

 しかし、泰時を支えていた尼御台も、いつしか病が篤くなっていた。元仁2(1225)年6月7日、夏の暑さによる疲労によって食が進まなくなったようである。そして7月6日、尼御台の治療を続けていた前権侍医和気定基もついに治療を断念。11日深夜、尼御台は六十九歳の生涯を閉じた。御家人たちの心の支えであったとともに、泰時にとっては力強い後ろ盾であった。翌12日、御台所の死が披露され、御家人をはじめ多くの男女がにわかに出家している。こののち、御所を様々な事件のあった大倉の地から他所へ移すことが議され、臨時の御所として勝長寿院門前の伊賀四郎左衛門尉朝行邸が定められた。三寅の元服についても議されたようである。

 11月19日、伊賀氏の乱で越前へ流された一条実雅旧妻(北条義時女子)が唐橋通時に嫁ぐため近日上洛するという風聞が藤原定家の耳に入った際には、義村が通時領の地頭を務めていたが、おそらくその上納分が納められずにいたまま威勢を恐れた通時は「年来不被訴」ておらず、さらに義村は通時の「上郎」と自身を位置づけ、この婚姻をまとめたとする。定家の深読みでは「八難六奇之謀略、不可思議之者」たる義村は、深慮遠謀で、将来通時に女子が生まれたとき「若依思孫王儲王用外舅歟」と考えていた(『明月記』貞応三年十一月十九日条)。義時女子と通時が婚姻関係となると、義村は通時の外舅となる。

『明月記』貞応三年十一月十九日条

…実雅卿旧妻近日入洛、可嫁通時朝臣云々義村為知行庄之地頭、年来不被訴、心操為上郎由成感、有此婚姻之儀云々、竊案、義村八難六奇之謀略、不可思議之者歟若依思孫王儲王用外舅歟

        三浦義村――+―――――――――三浦泰村
       (駿河守)  |        (若狭守)
              |         ∥
              +―女子      ∥
               (矢部禅尼)   ∥
                ∥       ∥
                ∥       ∥
              +―北条泰時――――女子
              |(左京権大夫)
              |
              | 一条実雅     
              |(近衛中将)   
              | ∥ 
        北条義時――+―女子
       (陸奥守)    ∥―――――――唐橋通清
                ∥      (左近衛中将)
      +―唐橋通資――+―唐橋通時
      |(権大納言) |(右近衛中将) 
      |       |
      |       +―女子
      |         ∥
      |         ∥
      | 藤原伊子    惟明親王
      |(松殿基房娘) (三品)
      |  ∥
      |  ∥――――――道元
      |  ∥     (曹洞宗開祖)
      |  ∥
      |  ∥    +―大僧正定親
      |  ∥    |(鶴岡別当法印)
      |  ∥    |
      |  ∥    +―女子
      |  ∥    | ∥―――――――男子
      |  ∥    | 三浦泰村
      |  ∥    |(若狭守)
      |  ∥    |
 源雅通――+―土御門通親―+―土御門通宗―――源通子
(内大臣)  (内大臣)   (参議)     ∥
                        ∥
        法印能円            ∥
         ∥――――――――源在子   ∥―――――――後嵯峨天皇
         ∥        ↓     ∥
 藤原範兼―+―藤原範子      ↓     ∥
(刑部卿) |  ∥        ↓     ∥
      |  ∥――――+===源在子   ∥
      |  ∥    |  (承明門院) ∥
      | 土御門通親 |   ∥―――――土御門天皇
      |(内大臣)  |   ∥
      |       | +―後鳥羽天皇
      |       | |
      |       | |
      |       | +―守貞親王――後堀河天皇―――四條天皇
      |       |  (後高倉院)
      |       |
      |       +―――――――――土御門定通 +―土御門顕親
      |       |        (内大臣)  |(権中納言)
      |       |         ∥     |
      |       | 北条義時    ∥―――――+―土御門顕良
      |       |(陸奥守)    ∥      (権大納言)
      |       | ∥―――――――娘
      |       | 伊賀局
      |       |
      |       +―久我通光
      |        (太政大臣)
      |         ∥
      +―――――――――藤原兼子
               (典侍卿二品)

幕府周辺図
幕府周辺想像地図

 12月5日、若宮大路を背に小町大路に面した宇津宮辻子御所の上棟式が行われ、北条時房、北条泰時、二階堂隠岐入道行西、義村、後藤左衛門尉基綱、外記大夫三善倫重らが参列した。そして21日、御所において時房、泰時、義村らによる評議始が執り行われた。

 12月29日、御所において三寅の元服式が執り行われた。泰時、足利陸奥守義氏以下、御家人が列座した。御家人名は省略されていて義村の名は見えないが、おそらく列席していたと思われる。加冠は泰時が務め、三寅はこれ以降「頼経」と称する。

 嘉禄2(1226)年1月1日、新御所でのはじめての椀飯が行われ、泰時がこれを沙汰した。義村は束帯姿で頼経の剣を捧げ持ち、次いで布衣の北条前大炊助有時が調度を掛け、行縢・沓は中条出羽前司家長が持参して頼経の後に随って西侍に出仕した。そして1月3日、義村が椀飯を進上した。

 1月9日、泰時は義父・義村を屋敷に招いて饗宴が催された。泰時は義時、政子と後ろ盾を次々に失い、伊賀氏の乱のような不穏な動きもあることから、義父の義村を重用するとともに、その影響力を最大限に利用するべく、親密な関係を築いていく必要があったのだろう。

 頼経の元服が済んだことで、続いては鎌倉殿として征夷大将軍の宣下を請うべく、1月8日、佐々木四郎左衛門尉信綱を使者として京都に派遣することが決定。1月10日、信綱に奏状を渡すと、信綱は早速上洛。24日、京都に着いた信綱は、まず関白・近衛家実邸を訪れて将軍宣下のことを申し上げ、叙位任官についても話をしたようである。さらに南都の春日大社まで足をのばすと、頼経の「藤原朝臣」姓を改めて「源朝臣」とするか否かを神慮に託した。これは義村が主導となって幕府に提案されたことによる。本来、「改姓」は認められないが、他姓の家に入ったときに三歳未満であった子に限っては改姓が許される場合があったという。頼経が関東に下ったのは二歳のときであり、源姓への改姓が可能だったわけである。結果としてこの改姓は認められなかったが、義村の考えとしては鎌倉殿は「源」姓であるとする執着が垣間見える。

 1月27日、頼経は「正五位下」「右近衛少将」に任じられ、「征夷使大将軍」にも任ぜられた。そして13日、佐々木信綱が京都より帰参し、頼経への除書を提出した。

 2月25日、下鴨社の前禰宜資綱が、兄・禰宜資頼を殺害した。このため、幕府は資綱を捕縛し、漏刻博士賀茂宣知も共謀したとして逮捕され拘禁された。殺害された鴨資頼の子・比良木禰宣義村の親類の夫であったことにより、政治的な力で逮捕されたようである(『明月記』)。さらに3月21日には義村の強請があったか、幕府の吹挙により比々良木禰宣が父・資頼を継いで鴨神社の正禰宣に補された。

…廿五日、天晴
 …去頃、鴨前禰宜法師資綱、殺害舎兄禰宜資頼、事一定由、称有証拠、自関東重召取禁固之間、漏刻博士賀茂宣知縁坐、共被禁河東云々、資頼子男依為義村縁者之夫、被處実犯云々、

…三月廿一日、天晴
 …去年殺害之鴨禰宜資頼之子、比々良木禰宣、遂補正禰宜了云々、是即関東之吹挙也、義村之所為歟

 10月9日、幕府評定所において評定衆の評議が行われ、義村らが出仕して訴訟の事が議論された。このとき、尾張の御家人・民部丞泰貞と、義村の郎従・大屋中太家重が所領をめぐっての訴訟が取り上げられた。泰貞と家重は「親昵(この場合は親類の意味か)」であったという。泰貞は評定が終わるとひそかにその結果を役人に聞いた。また、義村は家重を代弁して道理を陳べ、家重もそのときに評定衆へ参じて、義村からの扶持はないことを訴えたが、結局、両者の言い分はともに認められず、相論の所領は召し上げとなった。

 しかし12日、評定の時にその訴訟の関係者は評定所の近くに来ることを今後禁じることとした。これは、泰貞がひそかに評定所に近づき評定の結果を窺ったことによる「狼藉」が発覚したためで、泰貞と家重の相論の地については、しばらく家重が管理するよう命が下る。結局、義村の言い分が通った形になっている。

大庭館遠景
大庭御厨と大庭館遠景(左の丘)

 安貞2(1228)年4月22日、将軍頼経の江ノ島明神への社参が執り行われ、その帰途、義村の「大庭館」へ入った。この「大庭館」とは、義村の相模国守護所「田村山庄」とは別の施設と思われ、かつての大庭氏の下司館があったところなのかもしれない。頼経は翌23日の昼頃、鎌倉に帰還した。

 6月22日、将軍が26日に相模川の逍遥をすることを決定。このため頼経は義村に相模川ほとり田村山庄に一泊することを伝える。しかし前日の25日になって、義村の周りに何か不吉なことがあり、軽服することになったため、この相模川逍遥は延期され、代わりに三浦半島の杜戸(三浦郡葉山町森戸)への遊興の旅となる。26日、遠笠懸、相撲などが杜戸で開催された。

田村山庄
田村山荘跡(右)から相模川(左)

 7月20日、義村の服忌が終わったため、頼経を田村山庄へ迎えたい旨を披露した。義村はこの頼経招待のために、山庄を修理し、さらに頼経のための御所を新築。御所からは屋敷前の田まで延びる渡り廊下が造られ、御所の日当たりの良い川に向けて広がる東側と南側の庭には色とりどりの草花が植えられ、まだ十一歳の将軍・頼経を楽しませる行き届いた趣向が採り入れられたものとなっていた。

 そして23日朝、頼経は田村山庄に向けて鎌倉を出立した。あいにくの曇り空ではあったが、多くの御家人を従えての出向であった。

●三浦義村別邸遊覧(『吾妻鏡』安貞二年七月二十三日条)

隨兵左 三浦次郎有村 結城七郎朝広 城太郎義景 大須賀左衛門尉通信
足利五郎長氏 陸奥四郎政村    
隨兵右 長江八郎師景 上総太郎秀胤 小笠原六郎時長 佐々木太郎左衛門尉高重
河越次郎泰重 相模四郎朝直    
御駕 藤原頼経      
御劔 駿河次郎泰村       
御笠 佐原十郎左衛門太郎経連      
駕籠左 佐原四郎光連 高井次郎実茂 多々良次郎光義 印東太郎(常直?)
遠藤兵衛尉 土肥太郎 稲河十郎 伊佐兵衛尉
駕籠右 大河戸太郎兵衛尉広行 下河辺左衛門次郎行光 梶原三郎 佐貫次郎
波多野小六郎 佐野小五郎 佐々木八郎信朝 春日部太郎
海上五郎胤有 阿保三郎 本間次郎左衛門尉  
御調度懸 長尾三郎       
御後 北条越後守朝時 北条駿河守重時 北条陸奥五郎実泰 北条大炊助有時
北条相模五郎時直 周防前司親実 加賀前司康俊 三条左近大夫
駿河蔵人 左近蔵人 伊賀蔵人 結城左衛門尉
小山五郎長村 北条修理亮時氏 白河判官代八郎 佐々木判官広綱
佐々木三郎泰綱 長沼四郎左衛門尉時宗 後藤左衛門尉基綱 伊豆左衛門尉
伊東左衛門尉 宇佐美左衛門尉祐泰 佐原三郎左衛門尉家連 宇都宮四郎左衛門尉頼業
伊賀四郎左衛門尉朝行 伊賀六郎左衛門尉光重 土屋左衛門尉 中条左衛門尉
信濃次郎左衛門尉行泰 藤内左衛門尉定員 隠岐次郎左衛門尉 狩野藤次兵衛尉
天野次郎左衛門尉景氏 遠山左衛門尉景朝 加藤左衛門尉実長 江兵衛尉
葛西左衛門尉清親 相馬五郎義胤 東六郎胤行 三浦又太郎氏村
足立三郎元氏 島津三郎左衛門尉忠時 遠藤左近将監 海老名籐内左衛門尉
豊島太郎 長江四郎明義 氏家太郎公頼 善太次郎左衛門尉
最末 北条相模守時房 北条武蔵守泰時 相模小太郎時盛  

 翌25日、頼経は鎌倉に帰還することとなり、義村は田村山庄をあとにする頼経に引き出物を献上。この山庄への招待は義村一世一代の名誉な出来事となった。義村はこの日は田村山庄に残り、翌26日、鎌倉に参上して御所に頼経を訪ね、無事に鎌倉に帰参したことを賀し、盃酒・椀飯を献じた。

 安貞3(1229)年正月13日夜、泰時が御所の宿侍を務め、小侍に伺候した。ここに義村藤内左衛門尉定員が顔を見せ、雑談をして過ごした。泰時の娘は義父・義村の次男・次郎泰時に嫁ぎ、その泰時娘がまもなく出産を迎えるというめでたい時期であり、義時と泰村はこのときそのことについて語り合っていたのかもしれない。

 正月19日ごろから産気があった泰村の妻だったが、27日朝から陣痛が始まり、非常な難産の挙句、酉の刻一点(午後5時)、死産してしまった。義村や泰村も落胆したことだろう。

 北条義時―――北条泰時―――――――娘
(右京大夫) (武蔵守)       ∥
        ∥――――北条時氏  ∥―――子(死産)
        ∥   (修理亮)  ∥
 三浦義村―+―娘          ∥
(駿河前司)|            ∥
      |            ∥
      +―――――――――――三浦泰村
                 (駿河次郎)

 2月20日、頼家の娘・竹御所北条泰時の妻(義村娘)が連れ立って三浦半島の三崎の津に向かった。これは義村が彼岸に合わせて来迎講(阿弥陀如来が死に行く人のもとに現れて浄土へ導く様子を演じる伎楽会)を催すためで、おそらく泰村の妻の死産につき、子の供養の意味もあったものと推測される。

 翌21日夕刻、三崎の西方の海上に十余艘の船を浮かべ、走湯山の浄蓮房を導師に講が催された。夕陽が海上を照らし、荘厳な雰囲気の中で伎楽が演じられ、雅楽の音に夕闇の浪の響きがさらに幽玄さを加えていた。伎楽ののち浄蓮房より説法が行われたのち、竹御所らは三崎の島々を巡った。

 翌22日、竹御所らは三崎から鎌倉へ戻ることになるが、義村はあらかじめ四男・四郎家村杜戸に遣わして、善を尽くし美を極めた食事を献じた。彼女たちは杜戸から船に乗って和賀江港に渡ったと思われ、夕刻に小町の泰時邸に入った。

 この海上の来迎講の幽玄さを聞いたか、将軍頼経も三崎で船上の管弦を行うことを義村に依頼。4月17日、頼経は時房、泰時ほか多くの御家人を伴って三崎へ向かった。義村はあらかじめ舟を三崎津に集めており、頼経らの到着と同時に船出し、管弦が催された。また、佐原三郎左衛門尉家連は船に遊女たちを伴って現れ、遊女たちの舞も華を添えた。三崎からの眺望や趣は、景勝地の中でも比類ないものであると評されている。

 5月23日、時房、泰時、義村、後藤基綱、二階堂信濃民部大夫入道らは評定所において評定を行ったのち、御所に参じた。このとき、御所では将軍頼経は扇を持ってきて、彼ら宿老の中に置いた。さいころの目増の賭けで、勝った者に賜るという少年将軍のちょっとした余興であった。

 9月17日、将軍頼経の病気平癒の出始めとして杜戸浦への遊覧が行われた。杜戸は鎌倉から三浦半島へいたる玄関口であり、三浦義村が奉行していたと思われる。将軍には時房、泰時ら多くの御家人が供奉し、犬追物が行われた。このとき、時房は同席していた義村に「駿河次郎、折節上洛せしこと尤も遺恨」と、義村の嫡子・泰村が同席していないことを残念に思う旨を語ると、義村は非常に喜んだという。北条家と三浦家の親密ぶりが見受けられるが、三浦家は北条家の下に位置することを北条家側が記録させたものでもあろう。

永福寺
永福寺跡

 10月26日、永福寺において将軍臨席のもと、蹴鞠が催された。「寺門の内は駿河前司義村の所役なり」とされており、建仁3(1203)年以来、義村が永福寺の寺社奉行を務め続けていたことを物語る。蹴鞠ののちは、時房の子で歌人・北条資時入道真照源式部大夫親行も伺候していたことから、和歌の会が催された。

相模国 寒川神社 北条駿河守重時
武蔵国 六所宮 北条武蔵守泰時
上総国 玉前神社 足利五郎長氏
上野国 抜鉾神社 北条相模五郎時直
安房国 洲崎神社 三浦平六義村

 12月4日夜から激しい雷雨が起こり、人々は恐れおののいたという。このため、10日には中原師員らを奉行として近国の一宮に奉幣の使者が立てられた。相模国には駿河守重時武蔵国には武蔵守泰時上野国には相模五郎時直上総国足利五郎長氏、そして安房国義村がそれぞれ担当することとなり、各々神馬や剣が奉納された。また、別当には大般若経の転読が命じられた。安房国はおそらく三浦氏が守護を務めていたと思われ、安房土豪の丸氏や神余氏らは、のちに三浦氏の郎従として名を連ねている。

 寛喜2(1230)年閏1月26日、院を守るべき瀧口の武者が無人であったため、幕府草創の功臣の子孫を瀧口の武者として差し進ずべき旨の院宣が下されたため、幕府は「小山、下河邊、千葉、秩父、三浦、鎌倉、宇都宮、氏家、伊東、波多野」の家の子息一人を京都へ差し下すべしとする下知状を発した。三浦家からも派遣されていると思われるものの誰が遣わされたかは伝わっていない。この年の9月10日、嫡子・泰村が大番役として上洛しており、これがこの院宣に応じたものなのかもしれない。

 3月11日、駿河守重時六波羅探題北方に任じられて上洛。26日に六波羅に入った。そして、これまで北方として赴任していた北条修理亮時氏(義村の外孫)が鎌倉に戻ることとなり、28日京都を出立して、4月11日、鎌倉に到着した。しかし、時氏は幾程なくして病気に倒れ、泰時らの必死の祈祷や看護も空しく、6月18日戌の刻(午後7時ごろ)、二十八歳の若さで亡くなった。泰時は嘉禄3(1228)年には次男の武蔵次郎時実が十六歳の若さで家人に殺害されており、泰時の男の子はすべて死に絶えてしまった。泰時は大きく落胆し、しばらくその名が見えなくなる。時氏の遺体はその日のうちに実朝建立の大慈寺傍らの山麓に埋葬された。さらに7月15日、泰時の娘で三浦泰村の妻が娘を出産したものの娘は26日に亡くなり、妻も8月4日、産後の回復が叶わず二十五歳の若さで亡くなるという悲劇が続いた。泰時、義村ともに落胆の極みにあったことと思われる。

 泰時は9月18日、時氏の墳墓堂の供養に出席し、10月24日、亡き息女の百日忌の墳墓堂供養を執り行った。この当時、女性は嫁いだ家に取り込まれることはなく、女性はあくまで実家に属していた。彼女は泰村の妻であったが、北条泰時家の女性であり、墳墓堂が建立されたと思われる。

 12月9日、将軍頼経と故頼家将軍の息女・竹ノ御所の婚姻の儀が執り行われ、亥の刻(午後8時ごろ)、竹ノ御所は御所に入御した。頼経十三歳、竹ノ御所二十八歳という十五歳差の年の差夫婦となる。そして、7月9日、御台所の御新車始の儀が行われ、義村邸がその場所に選ばれ、頼経がまず車で義村邸に入り、続いて御台所の車が入った。義村はこの日のために善を尽くし美を尽くした膳を献じ、舞楽を催して終日饗応を尽くした。

 9月27日、名越に住む泰時の実弟・越後守朝時の屋敷に賊が乱入したという急使が評定所に飛び込んできた。泰時はこの報を聞くや、評定の最中であったにもかかわらず席を立って、名越に馳せ向かった。叔父の時房らはその後を追って馬を馳せた。しかし、朝時はこのとき他に出ていて屋敷におらず、留守の侍が賊を搦め取った報告が伝わると、泰時は郎従を名越に遣わし、自らは御所に引き返した。このとき、泰時被官の平三郎左衛門尉盛綱は泰時に、

重職を帯び給ふ身なり、縦ひ国敵たりと雖も、まず御使を以って左右を聞こし食し、御計る事有るべきか、盛綱らを差し遣はされ、防御の計を廻らせしむべし、事を問わず向かわせしめ給ふの條、不可なり、向後もし此如き儀可に於いては、ほとんど乱世の基たるべし、また世の謗りを招くべきか

と諌めたが、泰時は、

申す所然るべし、但し人の世に在るは親類を思ふ故なり、眼前において兄弟殺害せらる事、あに人の謗りを招くにあらずや、その時は定めて重職の詮無きか、武道は諍か人体に依らんか、只今、越州敵に囲まれるの由これを聞き、他人は少事に処すか、兄の志の所、建暦、承久の大敵と違うべからず

と説いた。泰時はすでに父母もなく子にも先立たれ、親類、とくに兄弟愛を非常に大切にしていたのかもしれない。泰時のそばで聞いていた義村は感涙に袖をぬぐった。また平盛綱も面を伏せて敬服したという。義村は評定ののち座を立つと、御所に参じて御台所に伺候する人々にこのことを語った。これを聞いた人々は感嘆し、盛綱の諫言と泰時の陳謝のどちらが正論か相論したものの決しなかったという。

 越後守朝時はのちにこのことを聞くと、子孫に至るまで泰時の子孫に対して無二の忠を抽んずることを誓う誓書を認め、一通を鶴岡八幡宮寺別当坊に納め、一通は子孫のために家に保管したという。しかしこの朝時の願いも空しく、朝時の子孫は得宗家と肩を並べる名越流北条氏として得宗家とは深く対立することになる。

 貞永元(1232)年に入ると、泰時は訴訟の際の根本となる法を定めることを決し、5月14日、三善玄蕃丞康連に対して法の調査を指示した。偏った判決や濫訴が起こることなどを防ぐことが目的であった。さらに、時房、泰時も含めて訴訟を担当する評定衆の面々にも無私を徹底するため、7月10日、「政道無私」を表する起請文の連署を評定衆の人々十一人に求めた。このとき定められた法は「貞永式目(御成敗式目)」と呼ばれ、武家の法令として非常に尊重され、室町時代、江戸時代にもその精神が反映されている。

●起請文連署の評定衆十一人

摂津守師員 前駿河守平義村 隠岐守行村入道行西 前出羽守藤原家長 町野加賀守康俊
民部大夫行盛入道行然 後藤左衛門少尉基綱 矢野大和守倫重 太田玄蕃允康連 佐藤相模大掾業時
斎藤左兵衛尉長定入道浄円 相模守時房 武蔵守泰時    

 天福2(1334)年3月5日、泰時の孫・太郎の元服の儀が御所において行われた。彼は泰時の嫡子・修理亮時氏の忘れ形見でこのとき十一歳。式には北条時房、北条泰時、北条朝時、北条朝直、三条前民部権少輔、中原師員、義村、中条家長、後藤基綱、結城朝光らが西侍に伺候。理髪は曽祖父の弟・時房が務めた。次いで加冠が行われたが、頼経が行ったか。同時に「経」字を賜ったと思われ、「北条弥四郎経時」を称した。義村から見れば経時は外曾孫となり、うれしさも一入だったろう。しかし、このときにはまだ幕政に参与してはいないが、経時の外祖父・安達氏の影が次第に大きくなり、三浦氏との間に深い軋轢を生むようになるが、それは後の事。

 北条義時――北条泰時
(右京大夫)(武蔵守)
        ∥――――北条時氏
        ∥   (修理亮)
 三浦義村―――娘     ∥―――――+―北条経時
(前駿河守) (矢部尼)  ∥     |(太郎→弥四郎)
              ∥     |
       安達景盛―+―娘     +―戒寿
      (秋田城介)|(松下禅尼)  (時頼)
            |
            +―安達義景
             (城太郎)

 文暦2(1235)年6月29日、鎌倉五大尊堂に新造の御堂について、供養が執り行われた。将軍・頼経も参詣するため御所南門から小町大路へ向かい、義村は先陣の随兵として加わっている。

●五大堂供養供奉(『吾妻鏡』文暦二年六月二十九日条)

先陣隨兵左 上総介常秀 小山五郎左衛門尉長村 城太郎義景 足利五郎長氏
陸奥式部大夫政村      
先陣隨兵右 駿河前司義村 筑後図書助時家 宇都宮四郎左衛門尉頼業 北条越後太郎光時
相模六郎時定      
御車 藤原頼経
御車左 上総介太郎秀胤 小野澤次郎 伊賀六郎左衛門尉朝行 大河戸太郎兵衛尉広行
本間次郎左衛門尉 平岡左衛門尉    
御車右 大須賀次郎左衛門尉通信 宇田左衛門尉 佐野三郎左衛門尉 江戸八郎太郎
  安保三郎兵衛尉      
御調度懸 加地八郎左衛門尉信朝      
御後
五位六位左
三条前民部少輔 弥四郎経時 陸奥太郎実時 左近大夫将監佐房
大膳権大夫中原師員 加賀前司三善康俊 駿河四郎左衛門尉家村 三浦又太郎左衛門尉氏村
宇佐美籐内左衛門尉祐泰 薬師寺左衛門尉朝村 河津八郎左衛門尉尚景 笠間左衛門尉時朝
二階堂隠岐三郎左衛門尉行義 武藤左衛門尉景頼 天野和泉六郎左衛門尉景村 弥善太左衛門尉康義
大曾弥兵衛尉長泰      
御後
五位六位右
相模式部大夫朝直 駿河次郎泰村 長井左衛門大夫大江泰秀 宇都宮修理亮泰綱
木工権頭仲能 出羽前司家長 佐原新左衛門尉胤家 関左衛門尉政泰
下河辺左衛門尉行光 佐々木近江四郎左衛門尉氏信 摂津左衛門尉為光 信濃次郎左衛門尉行泰
内藤七郎左衛門尉盛継 弥次郎左衛門尉親盛 長掃部左衛門尉 桿垂左衛門尉時基
後陣随兵左 河越掃部助泰重 氏家太郎公信 後藤次郎左衛門尉基親 佐竹八郎助義
後陣随兵右 梶原左衛門尉景俊 葛西壱岐三郎時清 伊東三郎左衛門尉祐綱 武田六郎信長
検非違使 駿河大夫判官光村 後藤大夫判官基綱    

 9月10日、長尾三郎兵衛尉光景が、たびたび勲功をなしたものの、いまだ恩賞をいただけないことを、義村と泰村、さらには恩沢奉行後藤基綱にしきりに訴えていたが、本日評定の結果、恩賞を与えるべきことが決定。将軍より基綱に恩賞を下すよう命が下った。その所領について義村は、強盗をはたらいた九州のある御家人の所領が召し放ちとなっている旨を指摘し、頼経への上覧状にこのことを記した。しかし、御成敗式目において未断の闕所を望むべからざる事の一条があることがあり、評定衆で再度確認を行った結果、今回においては例外として認めることとした。この評決について式目に違反していることもあって人々は感心しなかったという。

 嘉禎2(1236)年8月4日、若宮大路に沿った新造御所(宇津宮御所)への将軍家の移徒が行われ、泰時邸から出立した。その供奉に義村は北条一族に次いで列している。また、布衣の供奉の最末に子の「駿河次郎(泰村)」、直垂の供奉に「駿河四郎左衛門尉(三浦家村)」「駿河又太郎左衛門尉(三浦氏村)」、検非違使として「駿河大夫判官(三浦光村)」も供奉している。

●嘉禎2(1236)年8月4日将軍新御所移徒供奉人(『吾妻鏡』)

前駆 木工権頭仲能 前民部権少輔親實 備中左近大夫 前美作守 右馬権頭政村
御剣役人 相模権守
御調度懸 安積六郎左衛門尉祐長
御甲着 長太右衛門尉
輿 藤原頼経
御後
五位六位
(布衣)
遠江守朝時 民部権少輔有時 陸奥太郎実時 弥四郎経時 足利五郎長氏
遠江太郎光時 駿河前司義村 大膳権大夫師員 長井左衛門大夫泰秀 毛利左近蔵人季光
周防前司 伊豆判官 安芸右馬助 後藤佐渡守基綱 宇都宮修理亮泰綱
町野加賀前司康俊 大和守祐時 上総介平常秀 河越掃部助泰重 筑後図書助時家
豊前大炊助 上野七郎左衛門尉朝広 結城上野五郎重光 薬師寺左衛門尉朝村 淡路左衛門尉時宗
後藤次郎左衛門尉基親 後藤四郎左衛門尉 関左衛門尉政泰 下河辺左衛門尉行光 宇都宮四郎左衛門尉頼業
笠間左衛門尉時朝 佐原新左衛門尉光盛 伊東左衛門尉祐綱 大曽祢太郎兵衛尉長泰 大曾祢次郎兵衛尉盛経
信濃次郎左衛門尉行泰 三郎左衛門尉 隠岐四郎左衛門尉 藤四郎左衛門尉 梶原右衛門尉景俊
近江三郎左衛門尉頼重 葛西壱岐左衛門尉時清 加地八郎左衛門尉信朝 宇佐美藤内左衛門尉祐泰 河津八郎左衛門尉尚景
武藤左衛門尉 摂津左衛門尉為光 出羽四郎左衛門尉光宗 加藤次郎左衛門尉 紀伊次郎兵衛尉
廣澤三郎兵衛尉 小野寺四郎左衛門尉 平賀三郎兵衛尉 狩野五郎左衛門尉 春日部左衛門尉
相馬左衛門尉胤綱 宮内左衛門尉公景 弥善太左衛門尉康義 三浦駿河次郎泰村  
直垂 駿河四郎左衛門尉家村 駿河又太郎左衛門尉氏村 上総介太郎秀胤 大須賀次郎左衛門尉通信 大河戸太郎兵衛尉
伊賀六郎左衛門尉光重 佐々木近江四郎左衛門尉氏信 波多野中務次郎朝定 内藤七郎左衛門尉盛継 江戸八郎太郎
宇田左衛門尉 豊後四郎左衛門尉 長掃部左衛門尉 渋谷三郎 南條七郎左衛門尉
中野左衛門尉 平左衛門三郎盛時 本間次郎左衛門尉 小河三郎兵衛尉 飯富源内
検非違使 駿河大夫判官光村 藤内大夫判官定員 遠山判官景朝    

 嘉禎3(1237)年4月22日の泰時の孫・戎寿の元服式が御所で執り行われた。

 北条義時――北条泰時
(右京大夫)(武蔵守)
        ∥――――――北条時氏
        ∥     (修理亮)
 三浦義村―――娘      ∥―――――+―北条経時
(前駿河守) (矢部尼)   ∥     |(弥四郎)
               ∥     |
 安達盛長―+―安達景盛―+―娘     +―戒寿
(藤九郎) |(秋田城介)|(松下禅尼)  (時頼)
      |      |
      |      +―安達義景
      |       (城太郎)
      |
      +―大曾祢時長――大曾祢長泰
              (兵衛尉)

 まず叔父に当たる安達城太郎義景と安達一族・大曾祢長泰が元服の雑具を持参し、義村が理髪を務め、将軍頼経の手により加冠を果たした。名は「時頼」とされたが、この「時」は兄・経時の一字、「頼」は将軍・頼経の一字であろう。

 6月1日、義村の娘で佐原遠江前司盛連の妻になっていた矢部禅尼(禅阿)に和泉国吉井郷を知行すべき旨の御下文を発給した。経時は時頼に書状を持たせて三浦郡矢部郷の禅尼が閑居する別荘に遣わした。矢部禅尼ははじめ北条時氏に嫁いでいたが、その後、佐原盛連に再嫁していた。経時や時頼には祖母に当たる人物で時頼は矢部尼の言葉を伝えた。

 8月15日、鶴岡八幡宮寺では恒例の放生会が執り行われた。このとき将軍家の供奉として直垂を着て帯剣する六位の御家人十五人が宮寺の階間の西に伺候していたが、おそらく将軍の傍近くにいた義村が周りをもはばからず、

「御出の間の帯剣の輩は、承久元年正月、宮寺に於いて事あるにより、この儀始めらる。これ近々に候じ、守護奉るべきの故なり。而に今日、その役人の内、勇敢の類少なし、子共を進めるべし」

と、発言。泰村、家村、資村、胤村らの衣装を直垂に改めさせて、帯剣の列に加えさせた。頼経は義村が守り立てていた将軍であったがための心配だったのかもしれないが、すでに決定していた供奉の列に俄に変更を加えた義村の行為は、「傍若無人沙汰」と評され、人々は驚愕したという。

 嘉禎4(1238)年は将軍家の上洛が予定されていた。1月28日、多数の御家人を率いた頼経は鎌倉を出立。2月17日、義村の手勢を先陣として入洛、六波羅探題の御所に入御した。

●義村家子三十六人(三騎ごとに並ぶ)

一番 大河戸民部太郎 大須賀八郎 佐原太郎兵衛尉胤家
二番 筑井左衛門太郎 筑井次郎 皆尾太郎
三番 三浦又太郎左衛門尉氏村 三浦三郎員村 山田蔵人
四番 武小次郎 武三郎 武又次郎兵衛尉
五番 秋葉小三郎 山田六郎 山田五郎
六番 多々良小次郎 多々良次郎兵衛尉 青木兵衛尉
七番 安西大夫 神余太郎 丸五郎
八番 丸六郎太郎 三浦佐野太郎 石田太郎
九番 石田三郎 三原太郎 市脇兵衛次郎
十番 長尾平内左衛門尉 長尾三郎兵衛尉 平塚兵衛尉
十一番 壱岐前司 駿河四郎左衛門尉家村 遠藤兵衛尉
十二番 駿河五郎左衛門尉資村 駿河八郎左衛門尉胤村 三浦次郎有村

 これに続いて義村が郎従二人を率いて騎乗で列し、御家人二百騎あまりがあとに従った。このときの義村の家子を見ると、子や孫のほか、守護国の安房御家人・安西氏、神余氏、丸氏、相模御家人の長尾氏、平塚氏などが主だった被官だったことがうかがわれる。

 義村はこの上洛で将軍家先陣という名誉の役を飾る。おそらくこのとき義村は八十歳を越える年齢だったと推測されるが、いまだ馬を乗りこなすほどの矍鑠とした老人だったのだろう。しかし、3月30日、義村と同じく頼朝子飼いの老将・小山下野守朝政入道生西が八十一歳の大往生を遂げる。朝政は弟・結城上野介朝光入道日阿と生涯仲がよく、先だってともに東大寺において受戒していた。義村も彼の死を聞いて、何か考えたのかもしれない。朝政が亡くなって数日後の4月2日、三浦若狭守泰村二階堂出羽前司行義が頼経の命によって新たに評定衆に加えられているが、彼らは評定衆・三浦義村と二階堂行村入道行西の子息である。義村はすでに八十代、行村入道は八十五歳という高齢であり、朝政の死と自分たちの後継について語り合い、六波羅の頼経のもとに参じて、それぞれ子息を評定衆に加えてもらえるよう内々に話をしたのかもしれない。

●嘉禎4(1238)年現在の評定衆

摂津守中原師員 駿河前司平義村 隠岐守藤原行村入道行西 町野加賀前司康俊
紀伊権守藤原行盛入道行然 矢野大和守倫重 後藤左衛門少尉基綱 太田玄蕃允康連
相模大掾藤原業時 斎藤左兵衛尉長定入道浄円 毛利蔵人季光入道西阿 佐々木前近江守信綱入道虚仮
太宰少弐為光入道蓮佐 土屋左衛門尉宗光 前上野介朝光入道日阿 名越前遠江守朝時入道生西
右衛門尉清原季氏 相模三郎資時入道真照    

 6月5日、将軍頼経が氏神・春日社参詣を行い、ここでも義村が先陣を務めた。まず義村の随兵六騎が先頭をつとめ、義村が続いた。続いて頼経の随兵として三十騎が続くが、その一番の先頭を切ったのが義村の三男・三浦河内守光村であった。

先陣
隨兵
一番 長尾平内左衛門尉景茂 三郎兵衛尉光景
二番 三浦駿河四郎左衛門尉家村 三浦次郎有村
三番 三浦駿河五郎左衛門尉資村 三浦八郎左衛門尉胤村
先陣 駿河前司義村
随兵
一番 三浦河内守光村 千葉八郎胤時 梶原右衛門尉景俊
二番 下河辺右衛門尉行光 関左衛門尉政泰 三浦又太郎左衛門尉氏村
三番 佐渡次郎左衛門尉基親 佐竹八郎助義 相馬次郎左衛門尉胤綱
四番 氏家太郎公信 大曽祢兵衛尉長泰 葛西壱岐三郎左衛門尉時清
五番 高野筑後図書助時家 伊東三郎左衛門尉祐綱 宇佐美与一左衛門尉祐村
六番 三浦遠江次郎左衛門尉光盛 天野和泉次郎左衛門尉景氏 加藤左衛門尉行景
七番 武田六郎信長 大井太郎光長 佐々木近江四郎左衛門尉氏信
八番 三浦若狭守泰村 秋田城介義景 佐原肥前前司家連
九番 北条相模六郎時定 足利五郎長氏 河越掃部助泰重
十番 北条左近大夫将監経時 北条遠江式部大夫光時 北条陸奥掃部助実時
御車 前大納言藤原頼経
御車左右
徒歩
江戸八郎太郎景益 山内藤内通景 品河小三郎実員
池上籐兵衛尉康光 中澤十郎兵衛尉成綱 本間次郎左衛門尉信忠
小河三郎兵衛尉直行 阿保次郎左衛門尉泰実 猪俣左衛門尉範政
四方田五郎左衛門尉資綱 本庄新左衛門尉朝次 修理進三郎宗長
平左衛門三郎盛時        立河三郎兵衛尉基泰 荏原三郎貞政
水干
供奉
一番 北条相模守重時 北条武蔵守朝直 北条右馬権頭政村 足利宮内少輔泰氏
二番 北条越後守時盛 長井甲斐守泰秀 宇都宮下野守泰綱  
三番 後藤玄蕃頭基綱 佐々木壱岐大夫判官泰綱 豊前大炊助親秀 宇都宮判官頼業
四番 狩野肥後前司為佐 江大夫判官能行 中条出羽判官家平  
五番 遠山大蔵少輔景朝 伊賀左衛門大夫光重 後藤佐渡判官基政  
六番 天野和泉前司政景     伊東大和前司祐時 二階堂信濃民部大夫行泰
後陣
北条左京権大夫泰時 北条修理権大夫時房

 この春日社参詣では、義村が自分の手勢で春日山を守ったという(『玉葉』)。義村の影響力の大きさを物語る逸話である。翌6日、頼経は春日社参詣を終えて京都六波羅に帰還した。

 頼経は9か月半にわたる在京を終え、10月13日、京都を出立。10月29日、鎌倉に帰還した。義村はこの上洛ののち、体調がおもわしくなかったのかあまり姿を見せなくなる。評定衆としての勤めは果たしているものの、主だった役割は泰村に譲っていたようである。

 12月28日、北条時房、北条泰時、北条朝時、北条政村、北条重時、足利泰氏、三浦義村、毛利季光入道、長井泰秀、安達義景らが頼朝の法華堂、二位家(北条政子)の法華堂、北条義時の法華堂の参詣をしているが、これを最後に義村の姿は『吾妻鏡』から見えなくなり、翌年の延応元(1239)年12月5日酉の刻、義村は脳卒中により急死した。没年齢不詳だが、おそらく八十代後半の大往生だったと推測される。

 訃報を聞いた泰時は三浦邸に馳せ参じ、聟の泰村ら義村の子たちに哀悼の意を表した。また、将軍頼経も左馬助光時を遣わしてその死を悼んだ。奥州征討に参戦した頼朝子飼の重鎮も、結城上野介朝光ら残り少なくなり、幕府の世代交代の波は、北条得宗家を中心とした独裁政権に一気に加速していくことになる。

 そして、義村の死から約一月半後の延応2(1240)年1月24日、幕府の屋台骨を支えていた重鎮・北条修理権大夫時房が六十六歳で急死した。脳卒中と推測されている。義村、時房という幕府でもっとも力を持っていた二人が急逝したことで、巷では昨年2月22日に隠岐国の配所で崩御した後鳥羽上皇の祟りだと噂した。

●三浦・北条氏関係図●

●三浦義明――三浦義澄      +――――――三浦泰村     
(三浦大介)(三浦介)      |     (若狭守)
        ∥        |       ∥      
        ∥―――三浦義村―+ 北条泰時――娘 
        ∥  (駿河守) |(相模守)
 伊東祐親―――娘        |  ∥
(伊東入道)           |  ∥―――――――北条時氏  +―北条経時
                 |  ∥      (修理権亮) |(武蔵守)
                 +―矢部禅尼      ∥    |
                    ∥        ∥――――+―北条時頼―…―【北条得宗家】
                    ∥        ∥     (相模守)
                    ∥ 安達景盛――松下禅尼 
      三浦義明――佐原義連    ∥(秋田城介)
     (三浦大介)(左衛門尉)   ∥
             ∥      ∥――――――+―猪苗代経連―…―【会津猪苗代氏】
             ∥―――――佐原盛連    |(大炊亮)
             ∥    (遠江守)    |
      武田信光―――娘             +―佐原盛時――…―【相模三浦介】
     (五郎)                  |(三浦介)
                           | 
                           +―会津光泰――…―【会津蘆名氏】
                            (左衛門尉)


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