千葉介元胤(1437-1464)
小城千葉氏十代。千葉介胤鎮の次男。通称は千葉介。
兄の千葉俊胤が永享2(1430)年8月に十二歳で没していたため、永享9(1437)年に生まれた元胤が嫡男として育てられ、家督と定められた。元胤の「元」は管領・細川勝元からの偏諱かもしれない。
牛頭山城 |
長禄3(1459)年11月6日、家老・中村播磨守に杵島郡長島庄橘家領内の知行を安堵した。胤鎮からこの元胤のころが小城千葉氏の勢力が最大となった時代で、広大な支配領域を誇り、居城としていた牛頭山城を「国府」と称し、古くからの国府を「府中」と呼ばせて区別させるほどだった。
この時代、倭寇が朝鮮半島沿岸を襲っており、その倭寇が拠点の一つとしていた対馬に対し、応永26(1419)年6月、李氏朝鮮は李従茂を総大将とする一万七千人の大軍を派遣し、百名以上の対馬島民を虐殺した。これを「応永の外寇」という。
しかし、朝鮮軍は対馬島民の怒りを買って、多数の兵士が討たれたため、対馬領主・宗貞盛の和睦提案に乗って退却。李氏朝鮮はその後、九州との貿易に関する事柄を宗氏を通じて九州探題と交渉することとなる。
これ以降、李氏朝鮮と諸豪族との貿易の仲介は対馬領主の宗氏が行い、貿易を行うためには、九州探題の支配のもと宗氏の紹介及び保証が必要となった。紹介状は「書契」とよばれ、ここに押す銅製の証明印「図書」を与えて、「書契」の偽造を防止した。そして、朝鮮は毎年派遣されてくる船(歳遣船)の数をそれぞれ諸豪族ごとに決めて制限した。これを明文化したものが、宗貞盛との間で結ばれた「嘉吉条約(1443年)」で、歳遣船は毎年五十艘とし、危急のことであれば制限なく遣船できることが決められた。
千葉氏もこの取り決めに基づいて貿易をしており、申叔周が皇帝・成宗に命じられて編纂した、日本の豪族との交易に関する書物『海道諸国紀』(1471年成立)によれば、「千葉殿」が「己卯歳(1459)」に遣いを送ってきたことが記され、「小城に有て居す、博多を北に距てること十五里なり、民は千二百余戸居す、正兵は五百余なり、書に肥前州小城千葉介元胤と称す、歳に一船を遣はすことを約す」とある。
また、朝鮮の『成宗大王実録』の中に、
とあり、文明9(1477)年6月12日、肥前千葉氏が松浦氏や宗氏らとともに朝鮮半島に献物を行ったことがうかがえる。
寛正3(1462)年11月23日、牛頭山城下では犬追物が催されて大いににぎわい、仁戸田・鑰尼氏を筆頭とした射手12人やその他家臣たちが牛頭山の北の犬馬場(北浦馬場)で興行された。現在では北浦妙見社が建立されているあたりに相当する。
また、元胤は猿楽も好み、舞台を新調して京都から観世太夫を招いて猿楽が催され、家臣も領民もあつまって大いに栄えたという。『北肥戦誌』によれば「千葉家の全盛此時とぞ見えし」とされ、『歴代鎮西要略』には「千葉家の富麗、是に於いて隆なり」とある。
しかし、元胤は寛正5(1464)年10月29日に二十八歳の若さで急死した。法名は日元。