鍋島直茂(1538-1618)
千葉介胤連の養子。実父は鍋島駿河守清房。母は華渓尼(龍造寺家兼孫娘)。幼名は彦法師丸。通称は孫四郎。名は胤安→信安→信真→信昌→信生→直茂。官位は従五位下。官職は左衛門大夫、飛騨守、加賀守。
天文10(1541)年、彦法師丸は四歳のときに少弐氏の仲介によって千葉介胤連の養子に迎えられていた。彦法師にとって胤連は義理の叔父に当たり(妻の実甥)、そのこともあって胤連は彦法師を可愛がった。
鍋島清房 +―鍋島勝茂――――鍋島忠直
(駿河守) |(信濃守) (肥前守)
∥ |
∥――――――鍋島直茂―+―鍋島忠茂――――佐野茂久
龍造寺家純―+―娘 +=(加賀守) (和泉守) (右衛門尉)
(豊後守) | |
+―娘 |
|(心月妙鏡)|
| ∥――――+―千葉胤信―+=鍋島常貞
| ∥ (右馬佑) | ∥―――――――千葉常成
| ∥ | ∥ (太郎介)
| 千葉介胤連 +―娘
|(千葉介) (心光妙観)
|
+―龍造寺周家
(六郎次郎)
∥――――――龍造寺隆信――龍造寺政家―――龍造寺高房
龍造寺胤和―――娘 (山城守) (民部大輔) (駿河守)
(刑部大輔) (慶誾尼)
天文20(1551)年、養父・胤連に実子・胤信が生まれたが、胤連は彦法師を手放すことはなかった。しかし、天文23(1554)年、十七歳の「千葉左衛門太夫胤安(彦法師)」は、義弟の胤信がすでに三歳となったことで、養母(胤連妻で実叔母)や龍造寺隆信、鍋島清房を通じて自分を鍋島家へ戻すよう働きかけた。しかし、胤安を可愛がり気に入っていた胤連はこれを許さなかったことから、祖母の水江太母にも説得してもらうことで、ようやく胤連もこれを認めた(『歴代鎮西志』)。
胤連は鍋島家へ胤安を送り出す際、小城郡美奈岐八十町に十二名の家臣(鍵尼・野辺田・金原・小出・仁戸田・堀江・平田・巨勢・井出・田中・浜野・陣内)を付随させた(ただし、一説には野辺田、巨瀬、井出、堀江の四家は記載されないこともある)。なお、鍋島家重臣・江里口家も千葉氏の家人から鍋島家に仕えた家だが、江里口河内守常併が千葉家に仕え、その子・藤七兵衛信常が鍋島豊前守信房の家臣となり、のち直茂の直参に移されたものであり、最古参の十二家には含まれない。
●千葉介胤連より千葉胤安(鍋島直茂)へ附けられた家臣
・鑰尼孫右衛門(式部少輔)
・野辺田善兵衛(右馬亮)…子に閑室元佶(足利学校庠主)
・金原孫兵衛(主膳)
・平田治部左衛門(用右衛門)
・巨瀬七郎左衛門(忠左衛門)
・井出源右衛門(権右衛門、杢兵衛)
・田中六右衛門(右馬助)
・浜野源次兵衛(兵部左衛門)
・陣内市左衛門(蔵人)
・仁戸田藤次兵衛(平馬助)
・堀江清右衛門(太郎兵衛)
・小出進士允(隼人)
こうして胤安は佐賀郡本庄西川内の梅林庵へ移ったのち、鍋島家へ戻った。その後、名を「信安」さらに「信生」と改め、同年3月、高木鑑房との戦いに龍造寺隆信に随い、龍造寺家の部将として初陣を飾った。
元亀元(1570)年8月19日、大友宗麟の大軍に佐嘉城を囲まれた龍造寺隆信は絶体絶命の危機に陥っていた。同年3月、大友宗麟は龍造寺隆信討伐の兵を起こし、豊後国から攻め寄せてきていた。大友宗麟は佐嘉城からやや離れた高良山に本陣を構えて対峙していたが、一向に城が落ちる気配がないため、8月、弟・大友親貞を前線に派遣し、直ちに攻め落とすよう厳命を下した。親貞は佐嘉城の北、約六キロの今山の上に本陣を構えて、20日に総攻撃すべしと陣ぶれした。
一方、佐嘉城内では主だった将が集められ、大友氏へ降伏か徹底抗戦の上の玉砕かでもめていた。ここで信生は間諜からの情報に基づいて、「明日は敵の総攻撃が開始される。今宵は敵は酒宴を開いて油断している。今宵夜襲をかける以外に我らが生き残るすべはない」と発言。龍造寺軍は総勢五千人。対する大友軍は、宗麟の弟・大友親貞を総大将とする六万人。奇襲以外に勝つ見込みはなかった。隆信は降伏論に傾いていたが、母・慶誾尼の叱咤を受けてようやく重い腰を上げ、信生へ奇襲を命じた。こうして夜陰にまぎれて嘉瀬川を渡った信生は、寄手総大将・大友親貞の陣の裏手の山に登り、じっと時を待った。
20日未明、霧のかかる山の静寂は信生勢の鉄砲の音で破らた。大友軍は昨晩の酒宴でいまだ夢の中、何が起こったのかわからないままに「裏切り者が出た」との偽情報を信じて大混乱に陥った。ここに信生率いる奇襲部隊が抜刀して斬り込み、太刀を振るって兵を叱咤していた総大将・親貞の首を取ることに成功。総大将を失った大友軍は四散し、大友直属の士は宗麟の本陣へと逃げのびていった。これが鍋島信生の名を高らしめた「今山の戦い」である。
大友氏はこの戦いを境にして肥前国から撤退し、その後の「耳川の合戦」で島津氏にも大敗。主だった重臣を討たれた大友氏の勢力は急速に衰えていった。代わって肥前国は龍造寺隆信の勢力が強大となったが、信生と隆信との間には些細な亀裂が生じたようで、筑後国柳川城に遷されてしまった。すると、島原半島に君臨する有馬晴信が龍造寺家に対して兵を挙げたため、怒り心頭に達した隆信は、天正12(1584)年、自ら六万もの兵を指揮して島原半島に出陣した。この急激な進軍に対して、信生は「有馬の背後には島津がついており、いましばし情勢を見極めた上での出陣が望ましく候」と諫言したものの、隆信は無視して島原半島へ怒涛の進軍を始めてしまった。一方、有馬晴信は信生の予測通り島津義久に援軍を要請し、義久は弟・島津家久を島原へ派遣した。
隆信は率いてきた六万人を三手に分け、中央を信生に任せて自らは山手を進み、弟・江上武種には海道を進むよう命じ、3月20日、神代に着陣した。一方、島津家久も3月22日に島原半島に到着し、23日には雲仙森岳城に入り、龍造寺軍の進撃を待ち受けた。
この城の回りは雲仙の火山灰土壌による泥湿地帯が広がっていて、進軍が極めて難しい地形になっていた。家久はこの湿地を利用して龍造寺勢を討とうと計画し、家久は自ら大手門の前に陣取った。
島津勢が城を出て布陣していることに隆信はただちに突撃を命じた。しかし、龍造寺軍の先陣は湿地に足を取られて思うように動けないまま敗走。隆信は怒り、さらに突撃の命を下すも兵はあっけなく討たれていった。このような中で、島津勢の伏兵部隊が龍造寺勢の本陣に突っこんできた。隆信は不意を突かれて慌て、槍の穂先を避けようとして馬の操作を誤り、泥田にはまって動けなくなったところを、島津一族の豪将・川上忠智にあっけなく討ち取られた。この戦いを「沖田畷の戦い」という。隆信は肥満体で馬にも満足に乗れなかったと伝わっている。
隆信戦死の報をうけた信生は、直ちに三手の兵をまとめて佐嘉郡へ退却。島津氏による肥前侵入の防衛に専念することとした。一方、島津家久は使者に隆信の首を持たせて佐嘉城へ遣わし、降伏を迫った。しかし、信生は「そのような縁起の悪い首を頂くわけには参らぬ。適当に埋めていただきたい。わが龍造寺が降伏することはありえないので、遠慮なく攻めてくるが良かろう」と隆信の首の受け取りを拒否し使者を追い返したという。家久はこれを聞いて「鍋島信生いる限り、城を落とすは多大な被害を覚悟せねばならぬ。この少数では無理であろう。ひとまず薩摩に引き上げよう」と兵を戻し、隆信の首は家久の手によって丁重に葬られた。
信生は若い当主・政家をもりたてて、衰退した龍造寺氏の勢力挽回につとめたが、政家は信生の意見を聞かずに島津氏の圧力に屈服して、肥前は島津氏の支配下に入った。信生は龍造寺氏の命運を絶やさないように、関白・豊臣秀吉に「龍造寺は心ならずも島津の支配に甘んじておりますが、殿下が九州にお入りなされれば龍造寺は殿下に従い、願わくば先陣おおせ付けくださるよう 信生」という書状を送っている。
政家は、信生の説得と秀吉の九州派兵という事実を知ると、服従していた島津氏に反旗を翻し、秀吉に降伏。天正15(1587)年、赤間ガ関に到着した秀吉は、じきじきに信生を呼んで「そなたの所業まことに神妙である」と賞し、龍造寺政家とともに対島津氏を命じた。
そして、島津氏と秀吉の戦いはわずか2か月というあっけなさで島津氏の敗北に終わり、薩摩に追い詰められた島津義久は剃髪して秀吉の前に平伏して許しを請い、秀吉によって全国統一がなされた。
戦後、信生は肥前国北高来郡などを与えられ、龍造寺氏から独立した大名に取り立てられた。おなじく、大名家の家臣から独立して大名に取り立てられた例として、大友義統の一族で重臣の立花宗茂がいた。
天正17(1589)年、信生は名を「直茂」とあらため、加賀守に叙任。鍋島加賀守直茂と称し、江戸時代の肥前佐嘉藩三十万石の祖となり、立花宗茂も筑後柳川藩十一万石の祖となった。
◎龍造寺氏系譜
+――――――――――――――胤和―――――――――慶誾尼
| (刑部大輔) ∥―――――+―隆信
| ∥ |(山城守)
⇒龍造寺家氏――――胤家 +―胤家 | +―――――家純――+=家門――――――――+=周家 |
(隠岐守) (豊前守)|(豊前守)| | (豊後守)|(和泉守) |(六郎次郎) +――娘
∥ | | | ∥ | | | ∥
∥――+―家和――+ | 蒲原家秀―娘 +―華渓尼 +―家泰 | 横岳頼継
小鳥居信元―――――娘 |(隠岐守) |(佐渡守) | ∥――――直茂 |(三郎) |(下野守)
(大宰府天満宮神職) | | | 鍋島清房 (加賀守)| |
+――娘 +――娘 |(駿河守) +――娘 +―長信
| ∥ | ∥ | | ∥ |(和泉守)
| 内田家昌 | 本告増景 +―周家 | 堤貞元 |
|(左京亮) |(与次郎) |(六郎次郎) |(筑前守) +―信周
| | | | |(安房守)
| +――娘 +―宝琳院豪覚 +―鑑兼 |
| | ∥ |(権大僧都) |(左衛門佐) +――娘
+―家兼 | 於保胤宗 | | ∥
|(山城守) |(備前守) +―頼純 +――娘 八戸宗暘
| ∥ | |(孫八郎) | ∥ (下野守)
| ∥―――――+――娘 | | 小田政光
| 片田江家定 | ∥ +――娘 |(駿河守) +――娘
|(山城守) | 空閑光家 | ∥ | | ∥
| | | 鍋島房元 +―宝光院住持 | 龍造寺家晴
+―宝琳院澄覚 +――娘 |(周防守) | |(七郎左衛門)
|(大僧都) | ∥ | +――娘 |
| | 龍造寺盛家 +―澄家 | ∥――――+ 有馬義直―――娘
+―万寿寺天亨 |(伯耆守) |(孫三郎) | 龍造寺隆信 |(修理大夫) ∥
| | | |(山城守) | ∥
+―瑞応寺富春喜 +―家門 +―娘 | +――――――――政家
|(和泉守) ∥ +―娘 | (侍従)
| 犬塚家清 ∥ | ∥
+――娘 (安房守) ∥ | 後藤貴明―+―娘
| ∥ ∥ |(伯耆守) |
| ∥――――――――――――――――――+―胤順 | |
| 徳嶋盛秀 |(土佐守) +―江上家種 +―家均
|(孫八郎) | |(権兵衛) |(弥次郎)
| +―信盛 | |
+――娘 円城寺信胤 | +=後藤家信
∥ (美濃守) +―――――――(十左衛門)
∥ ∥ |
∥――――娘 +=家均
鹿江兼明 |(弥次郎)
(遠江守) |
+―娘
∥
西郷信尚
(二郎三郎)