武蔵国留守所惣検校職
●秩父惣領家略系図●
比企掃部允
∥――――――――女子
郡司比企某――比企尼 ∥
∥―――――河越重房
∥ (太郎)
●平将恒――平武基――秩父武綱――秩父重綱―+―秩父重隆―――秩父能隆―――+―河越重頼
(太郎) (太郎) (十郎) (留守所) |(留守所) (葛貫別当) |(留守所)
| |
| +―娘
| ∥―――――小代弘家
? 小代行平
|
+―女子
∥
∥
三浦義明
(三浦介)
(????-????)
武者十郎武綱の長男。妻は横山次郎大夫経兼女(『小野氏系図』)、有三別当経行女(『兒玉党系図』)。通称は秩父権守(『小代宗妙置文』:石井進『鎌倉武士の実像』平凡社1987)、秩父出羽権守(『吾妻鏡』嘉禄二年四月十日条)。武蔵国留守所惣検校職(『吾妻鏡』嘉禄二年四月十日条)。妻(兒玉経行女子)は源義朝の子「悪源太殿(義平)」の乳母となり「号乳母御前」している(『小代宗妙置文』:石井進『鎌倉武士の実像』平凡社1987)。そして、悪源太義平は彼女を「御母人」(『兒玉党系図』)と称するほど懐いていた。
●横山党を中心とした閨閥
+―横山経兼――+―横山隆兼―――+―横山時重―――+―横山時広――+―横山時兼
|(次郎大夫) |(野大夫) |(横山権守) |(横山権守) |(右馬允)
| | | | |
| | +―女子 +―女子 +―女子
| | | ∥ | ∥ ∥
| | | 糟屋盛久 | 澁谷重国 ∥
| | |(糟屋権守) |(澁谷庄司) ∥
| | | | ∥
| | | +―女子 ∥
| | | ∥―――――――和田常盛
| | | ∥ (新左衛門尉)
| | | 和田義盛
| | | (左衛門尉)
| | +―女子
| | | ∥――――――――梶原景時
| | | ∥ (平三)
| | | 梶原景長
| | |(太郎)
| | |
| | +―女子
| | | ∥――――――+―河村秀高
| | | ∥ |(三郎)
| | | ∥ |
| | | 波多野遠義 +―河村四郎
| | |(波多野権守) (大友経家?)
| | |
| | +―女子
| | ∥――――――+―畠山重能――――畠山重忠
| | ∥ |(畠山庄司) (庄司次郎)
| +―女子 ∥ |
| ∥――――――――秩父重弘 +―小山田有重―――稲毛重成
| ∥ (太郎大夫) |(小山田別当) (三郎)
| 秩父武綱―+―秩父重綱 |
| | (秩父権守) +―女子
| | ∥ ∥―――――+―千葉介胤正
| +―女子 ∥ ∥ |(太郎)
| ∥ ∥ 千葉介常胤 |
| ∥ ∥ (千葉介) +―相馬師常
| ∥ ∥ |(次郎)
| ∥ ∥ |
| ∥ ∥ +―武石胤盛
| ∥ ∥ |(三郎)
| ∥ ∥ |
| ∥ ∥ +―大須賀胤信
| ∥ ∥ |(四郎)
| ∥ ∥ |
| ∥ ∥ +―国分胤盛
| ∥ ∥ |(五郎)
| ∥ ∥ |
| ∥ ∥ +―東胤頼
| ∥ ∥ (六郎大夫)
| ∥ ∥
| ∥ ∥―――?―秩父重隆―――――葛貫能隆――+―河越重頼
| +―有道経行――女子 (次郎大夫) (葛貫別当) |(太郎)
| |(有三別当)(乳母御所) |
| | +―妹
| | ∥
| +―有道弘行――入西資行――小代遠広―――――――――――――小代行平
| (有大夫) (三郎大夫)(二郎大夫) (右馬允)
|
+―小野成任――+―小野成綱―――+―小野義成
(野三大夫) |(野三刑部丞) |(左衛門尉)
| |
| +―小野盛綱
| |(五郎左衛門尉)
| |
| +―中條兼綱
| (義勝房)
|
+―法橋成尋―――+―中條家長 +―女子:苅田式部殿母
|(城南寺修行) |(出羽守) |(荏柄尼西妙)
| | |
| +―苅田義季―――+―霊山尼
| (三郎左衛門尉) (奥州禅門祖母)
|
+―女子【源頼朝乳母】
(兵衛局)
∥――――――+―宇都宮朝綱
∥ |(左衛門尉)
∥ |
八田宗綱 +―八田知家
(八田権守) |(四郎)
|
|【源頼朝乳母】
+―女子 +―小山朝政
(寒河尼) |(小四郎)
∥ |
∥――――――+―長沼宗政
小山政光 |(五郎)
(下野大掾) |
+―結城朝光
(七郎)
秩父平氏は勅旨牧の秩父牧の別当として「兒玉郡阿久原牧(児玉郡神川町~藤岡市鬼石周辺)」から山麓の児玉郡、「秩父郡石田牧(秩父郡長瀞町)」から秩父在住当時から被官化していた丹党を大里郡や比企郡に展開し、武蔵国北西部から上野国国境付近まで勢力を拡大していった。そして「奥州征伐ノ後、有大夫弘行、同有三別当経行、武州兒玉郡ヲ屋敷トシテ居住セ令メ給フ」という有道姓の源義家郎従(京都下りで児玉郡に土着)のうち、「有三別当経行」が重綱の姉妹と婚姻関係となり、さらに重綱自身も経行の娘と婚姻するという重縁を結ぶ。なお、「有三別当経行」の兄である「兒玉ノ有大夫弘行ノ朝臣」は、後三年の役で大将軍義家のもと「副将軍ニテ同屋形ニ赤革ノ烏帽子懸シテ、八幡殿ノ御対座ニ書レ給ヒタル」(『小代宗妙置文』)という絵画が、少なくとも建仁3(1203)年から元久2(1205)年までは「蓮華王院ノ宝蔵」に残されており、武蔵守朝雅に従って上洛していた弘行の末裔である小代伊重(小代宗妙)が実見している。伊重の述懐には記されていないが、おそらく有道経行も義家郎従として後三年の役に加わっていた可能性が高いだろう(伊重は小代氏の祖である弘行の事のみ述べた可能性があろう)。
こうした環境の中で、重綱は留守所の「留守所惣検校職」に補され(『吾妻鏡』嘉禄二年四月十日条)、これ以降、重綱の子孫が独占的に継承する「家職」と化す。
留守所惣検校職は、具体的職務内容は不明であるが、受領不在の国衙「留守所」の惣検校(監督官)である。武蔵国留守所惣検校職には「付当職四ヶ条有掌事」(『吾妻鏡』寛喜三年四月二日条)の四ヶ条が付帯されており、その四職を「本職四ケ條」(『吾妻鏡』寛喜三年四月廿日条)として執行したのであろう。
寛喜3(1231)年4月2日、河越三郎重員が「付当職四ヶ条有掌事、近来悉廃訖、仍任例可執行之由」を正任国司の武蔵守泰時に「愁申」たため、泰時は岩原源八経直を「被尋下留守所」して留守所惣検校職の謂れと執行状況を問い合わせている(『吾妻鏡』寛喜三年四月二日条)。
●『吾妻鏡』寛喜3(1231)年4月2日条
小二日 戊午、河越三郎重員者武蔵国惣検校職也、付当職四ヶ條有掌事、近来悉廃訖、仍任例可執行之由愁申武州之間、為岩原源八経直奉行、今日被尋下留守所云々
この調査結果は、4月14日に「自秩父権守重綱之時至于畠山次郎重忠、奉行来之条、符号于重員申状之由」と「在庁散位日奉実直、同弘持、物部宗光等」が調査報告を作成し、翌15日には「留守代帰寂」が副状を付して経直に託したものが20日に鎌倉に到着。泰時はこれらに基づいて「仍無相違可致沙汰之由」を指示(『吾妻鏡』寛喜三年四月廿日条)し、翌貞永元(1232)年12月23日に「武蔵国惣検校職并国検之時事書等、国中文書加判及机催促加判等事、(任)父重員讓状、河越三郎重資如先例可致沙汰」を指示した(『吾妻鏡』貞永元年十二月廿三日条)。
●『吾妻鏡』寛喜3(1231)年4月20日条
「付当職四ヶ條有掌事」の「当職」とは留守所惣検校職であり、重資が「近来悉廃訖」という「本職四ヶ條」は、あくまでも「留守所惣検校職」に「付帯する職」であって(ただし本職として執行するため、留守所惣検校職に限り付帯される)、留守所惣検校職「そのもの」ではない。それは、河越重員から子息の重資への「譲状」に「武蔵国惣検校職」と「国検之時事書等、国中文書加判及机催促加判等事」は別に譲られていることからもわかる。
●『吾妻鏡』貞永元年十二月廿三日条
廿三日 戊戌、武蔵国惣検校職并国検之時事書等国中文書加判及机催促加判等事、父重員讓状、河越三郎重資如先例可致沙汰之由、被仰云々
留守所惣検校職が本職として執行する付帯「本職四ヶ条」の内容を具体的に明らかにする術はないが、四ヶ条のうちの二ヶ条は租税・検地など内政に関わるものであることがうかがえる(「机催促」については不明であるが、帳簿等から発覚した未進分等を催促する文書か)。
■留守所惣検校職付帯の本職四ヶ條
(1)「国検之時事書等国中文書加判」:国検時の事書といった国中文書への加判(税務、行政文書への加判)
(2)「机催促加判等」:税未進分を催促する文書への加判か(税滞納督促文書への加判か)
(3)不明:検非違使らによる犯人追捕等などの警察・裁判権か
(4)不明:国司職掌である寺社の祭祀代行、参詣等、寺社関係の公務か
なお、武蔵守泰時がこの付帯「本職四ヶ条」をすべて認めていることから、この四ヶ条には「軍事的」な要素である催促権、統率権などは含まれていなかったことがわかる。この四ヶ條は「河越三郎重員本職四ヶ條事、去二日被尋下留守所、自秩父権守重綱之時、至于畠山次郎重忠奉行来之條、苻合于重員申状之由」との勘状があるように、秩父権守重綱以来のものであるとされており、武蔵国留守所惣検校職に軍事統率権はなく、のちに畠山重忠が武蔵国留守所惣検校職を帯職した河越太郎重頼に対して「相具当国党々可来会之由」を「触遣」(『吾妻鏡』治承四年八月廿六日条)したのは、重頼が武蔵国留守所惣検校職を帯職していたからではなく、「是重頼於秩父家雖為次男流相継家督」というように、広範囲に私営田を蓄えていた「秩父家」の「継家督」いだ人物であったためで、河越重頼が「相具当国党々」ことができた根拠は、武蔵国留守所惣検校職ではないのである。
平重綱は、武蔵国における交通の要衝である男衾郡菅谷を本拠としていたとみられ、館から2.5キロメートルほど北の比企郡嵐山町の平澤寺(かつては浄土庭園を持つ大寺)より発掘された経筒には、「久安四(1148)年歳時戊辰二月廿九日」の年紀ならびに「當国大主散位平朝臣茲縄」の名が刻まれているが(水口由紀子「平沢寺跡出土経筒の銘文について」)、この「当国大主」の「平茲縄」が重綱とみられる。
重綱は男衾郡、比企郡を中心に大きな勢力を持ち、嫡男・太郎大夫重弘は男衾郡畠山郷(大里郡川本町畠山)を治め、三男の三郎重遠は上野国高山御厨(藤岡市本郷)で「高山」を称している。この高山御厨は、天仁元(1108)年の浅間山噴火により荒廃した地に、後年、源為義が権益を有して開発を行った地であろう。隣接する「上野国多胡」は「八幡殿」がこの地の義家郎従とみられる「多胡四郎別当大夫高経」が後三年の役に従わなかったため、「依不奉従于仰、兒玉有大夫広行承討手、以舎弟有三別当為代官、討取四郎別当」(『小野氏系図』)したとあり、もともと上野国南西部には将軍頼義、陸奥守義家の所領が広がり、為義は父の義家から上野国多胡郡、高山郷の譲りを受けたのだろう。高山御厨は「天承元(1131)年建立」の神宮領であり、隣接する上野国新田庄の開発を行い、保元2(1157)年3月8日に「左衛門督家(藤原忠雅)政所」から「上野国新田御庄官等補任下司職」(保元二年三月八日「左衛門督家政所下文案写」『正木文書』)された源義重よりも早い段階での開発が進められていたことがわかる。なお、この新田庄となる地も、義家から三男義国(為義兄)へ譲られた地である。
為義は、父義家が武蔵国児玉郡に残した郎従で「副将軍」(『小代宗妙置文』)の有大夫広行、有三別当経行をして高山郷の開発を進め、御厨を建立したのだろう。広行、経行を祖とする兒玉党は武蔵国児玉郡から上野国南部にまで勢力を広げており、主家の為義が相伝した武蔵北部から上野南部の所領を中心に勢力を拡大したものか。高山御厨は有三別当経行の女婿・秩父権守重綱のもとに下向させた嫡子源義朝の「永治二年(1142)」の「故左馬頭家御起請寄文」(『神宮雑書』)に基づき「被下奉免宣旨也」(『神宮雑書』)されている。国免庄のため、武蔵守保説の国判を得て神宮に寄進され、重綱の三男・三郎重遠が入ったのだろう。
一方で、重綱は荒川・入間川の水系に沿って開拓を行うべく、二男の次郎太夫重隆を鳩山丘陵を越えた葛貫牧から入間川畔に広がる河越の地へ送り、さらに四男・重継は秩父から流れ下る荒川の河口付近、江戸郷(中央区)へと派遣、弟・基家は相模国境の地である荏原郡河崎郷(神奈川県川崎市)を開発し、河崎氏の祖となった。このように、重綱は水系を利用して武蔵国南部にまでその勢力を広げている。
重綱もまた有道大夫経行・有道有三別当弘行(兒玉党祖)や、小野次郎大夫経兼(横山党祖)などと同様、義家家人であり、当時は六条判官為義の家人だったと思われ、為義嫡子・義朝が関東に下向した際には、その義朝の嫡子源太義平を養育している。義朝が関東に下向した時期は、遅くとも「源氏ノ大将軍左馬頭殿ノ御嫡子、鎌倉ノ右大将ノ御料ノ御兄悪源太殿」(『小代宗妙置文』)が誕生した永治元(1141)年(『平治物語』から逆算)の前年、保延6(1140)年となる。義朝十八歳の頃である。ただし、弟の義賢が東宮體仁親王(のちの近衛天皇)の春宮坊帯刀先生となったのが保延5(1139)年8月17日のことであることから、義朝の関東下向はそれ以前のことである。
源義朝は、鳥羽院に仕える源為義と白河院近臣の藤原忠清女子を母として保安4(1123)年に京都で生まれた。若くして東国に下向した理由は諸説あるが、為義が鳥羽院の信任を失って摂関家に近づくにあたり、院近臣の娘を母とする義朝を廃嫡し遠ざける意味があったという説が通説となっている。
しかし、義朝誕生時にはすでに祖父藤原忠清は亡くなって五年程経過し、忠清弟の隆重は白河院蔵人となったのち、堀河天皇の蔵人となり式部丞を経る(『中右記』嘉保二年八月十二日条)。忠清の一族はいずれも白河院蔵人を経るも故忠清ほど白河院に重用されたわけではなく、院近臣としては忠清の兄・隆時の系統が担っており、隆時流藤原氏と義朝子孫が交流を持った形跡もない。
義朝が関東に下向した頃にはすでに忠清没後二十年程度経過している。このような中で義朝の下向を院との関係を避けるためとするのは当たらない。さらに、義朝は東国に下向して以降、秩父氏、両総平氏、大庭氏、波多野氏ら東国武士の再組織化を行いつつ京都へ戻っており(「故左典厩、都鄙上下向之毎度、令止宿此所給」(『吾妻鏡』建久元年十月廿九日条)とあるように、その後も関東と京都を往復していた)、義朝が下野守となって常京となった直後に次弟の義賢が武蔵秩父党と所縁の深い上野国多胡に派遣されたのも、あきらかに為義による東国経営の一環である。
軍記物『保元物語』の伝では「長井斉藤別当実盛」「片切小八郎大夫」らが義朝の麾下に属したとあるが(『保元物語』)。『吾妻鏡』には「長井齋藤別当、片切小八郎大夫等」は「于時各六條廷尉御家人」(『吾妻鏡』治承四年十二月十九日条)とある。これに従えば、彼らはもともと六條判官為義の家人で、保元合戦時までには義朝の家人となっていたことになる。この他、「片切太郎為安、自信濃国、被召出之殊令憐愍給、是父小八郎大夫者、平治逆乱之時、為故左典厩御共之間、片切郷者、為平氏被收公、已廿余年空手、仍今日如元、可領掌之由、被仰」(『吾妻鏡』元暦元年六月廿三日条)といい、『吾妻鏡』が採用したとみられる編纂資料の出所が異なる(前述は橘氏、後述は片切氏)と考えられることから、片切小八郎大夫(及び斎藤別当)は為義から義朝の家人に移った可能性が高い。このほか「高家ニハ河越、師岡、秩父武者」とあるように、武蔵秩父党も義朝方にあったとされる(『保元物語』)。彼ら六條判官為義の家人とみられた人々がいずれも義朝に属していることからも、義朝の「廃嫡」という事実はなく、それどころか義朝はすでに為義家人を譲りによって家人化していた可能性が高いだろう。
義朝が関東へ下向した時期は明確ではないが、前述の通り、弟の義賢が東宮體仁親王(のちの近衛天皇)の春宮坊帯刀先生となった保延5(1139)年8月17日よりも前であろう。遅くとも「永治二年(1142)」に「被下奉免宣旨也」(『神宮雑書』)された上野国緑野郡高山御厨(藤岡市神田周辺)への「故左馬頭家御起請寄文」(『神宮雑書』)した時点では、すでに関東へ下っている。この高山御厨(飯能市高山)は「天承元(1131)年建立」の神宮領で、もともと為義が相伝した所領(高山郷?)であろう。その後、「永治二年(1142)」に「故左馬頭家御起請寄文」(『神宮雑書』)に基づき「被下奉免宣旨也」(『神宮雑書』)された。「代々国判」とあることから高山御厨は国免荘であった。為義はおそらく亡父義家の譲りを受けた高山郷の権益を有し、義朝がこれを嫡子として継承したとみられ、のちに高山御厨が没官されたのは義朝が平治の乱で討たれたためだろう。高山御厨は義朝が下司となり、実質的には家人の「秩父権守」(『小代宗妙置文』:石井進『鎌倉武士の実像』平凡社1987)を称した秩父重綱の三男の三郎重遠が派遣されていたのだろう。没官された高山御厨は、その後、建久6(1190)年8月に「可早任宣旨并故左馬頭家御起請寄文代々国判等旨、如本奉免、被令知行所」として奉免されることとなる。これは同年6月まで在京し、故義朝の復権に尽力した義朝の子・源頼朝の強い働きかけによるものであろう。
高山御厨に隣接し、源義賢が館を構えた「上野国多胡」には、源家郎従「多胡四郎別当大夫高経」がいたが、彼は後三年の役に従わなかったため、「八幡殿」が「依不奉従于仰、兒玉有大夫広行承討手、以舎弟有三別当為代官、討取四郎別当」(『小野氏系図』)したとあり、もともと上野国南西部には将軍頼義、陸奥守義家の所領が広っていて、為義が高山御厨を建立したのもその遺領であろう。なお、後年、義賢遺児で信濃国木曾郡で平家政権への反旗を翻した木曾冠者義仲は一時多胡郡に立ち寄ったのも、故義賢の誼を通じての軍勢催促であり、『源平盛衰記』によれば治承5(1181)年、越後国から信濃国に攻め込んできた平家党の越後平氏・城越後守資職と千曲川の横田河原合戦の際には義仲方の「上野国住人高山党三百騎」が参戦し、城資職方の老将・笠原平五頼直一党八十五騎と交戦している。頼直は寡勢にもかかわらず奮戦し、高山党は九十三騎にまで討ち減らされたという。ただしこの高山党の中には「上野国住人西七郎広助」という「俵藤太秀郷が八代末葉、高山党に西七郎広助」がおり、上野国高山党とは高山氏のみで構成されたものではなかったようである(『源平盛衰記』)。
義朝の嫡男、源太義平が生まれたのは、永治元(1141)年(『平治物語』より逆算)で、義朝十八歳の時であるが、母は「橋本遊女或朝長同母」(『尊卑分脈』)とある(母が三浦義明女子であるという説もあるが、義平と三浦氏の接点は皆無であり協力関係があった痕跡すらない。義平が武蔵国を離れた傍証もなく、「鎌倉悪源太」という「鎌倉」の接頭辞は軍記物以外確認できない。「三浦庄司平吉次、男同吉明」が義朝に従属していたことは間違いないが、義平との関わりはないだろう)。義平がどこで誕生したのかは不明だが、秩父重綱妻(児玉党の有三別当経行女)は「号乳母御前」(『小代宗妙置文』)と称され、「悪源太殿称御母人」(『兒玉党系図』)として慕っていることから、重綱とその妻に養育されて成長したことがわかる。義平はおそらく武蔵国男衾郡に誕生したのだろう。義朝は義平を嫡男として扱い、その後見を秩父権守重綱に託したこととなる。このことからも重綱と為義・義朝との間に深い主従関係が構築されていることがわかる。
なお、義朝は武蔵国に常駐していたわけではなく、京都と東国諸国(相模国、上総国、安房国など)の家人の間を行き来していたと考えられ、相模国大庭御厨に乱入した天養元(1144)年中には上洛して院近臣藤原季範女子と通じ(翌年長女「右武衛室」誕生)、天養2(1145)年には摂津国江口宿にも通い(翌年次女「江口腹の御女」誕生)、季範女子とも通じている(翌年三男頼朝が誕生)。また、五男(四男?)範頼は「於遠州蒲生御厨出生」で「母遠江国池田宿遊女」であることや「於青波賀駅、被召出長者大炊息女等有纏頭、故左典厩、都鄙上下向之毎度、令止宿此所給之間、大炊者為御寵物也」(『吾妻鏡』建久元年十月廿九日条)の記述も義朝が京都と関東を往復していた証左である。
●源義朝等の動向
年 | 月日 | 義朝年齢 | 義朝の所在 | 義朝の動向 | 出典 |
保安4年 (1123) |
1歳 | 京都 | 源為義の嫡子として京都に誕生。 | ||
天承元年 (1131) |
正月29日以降 | 9歳 | 京都か |
上野国緑野郡高山保?をおそらく父・ 為義が神宮へ寄進して御厨を建立。 |
『神宮雑書』 |
天承元(1131)年~保延5(1138)年頃の間に、義朝は関東へ下る。 | |||||
保延5年 (1139) |
8月17日 | 16歳 | 武蔵国男衾郡か | 弟の源義賢、體仁親王(のち近衛天皇)の立坊に伴い、春宮坊帯刀先生となる。 | 『古今著聞集』より推定 |
保延6年 (1140) |
17歳 | 武蔵国男衾郡か | 源義賢が瀧口源備殺害に関与していたことが判明して、春宮坊帯刀先生を罷免される。 | 『古今著聞集』巻十五 闘争第廿四 | |
永治元年 (1141) |
18歳 | 武蔵国男衾郡 |
嫡男の源義平が誕生。 母は橋本遊女。乳母は秩父重綱妻(児玉党の有三別当経行女)。義平は重綱妻を「御母人」と呼ぶ。 |
『兒玉党系図』 | |
永治2年 (1142) |
4月28日以前 | 19歳 | 武蔵国男衾郡 | 「故左馬頭家御起請寄文」に基づき、上野国緑野郡高山御厨(藤岡市神田周辺)に「被下奉免宣旨」された。 | 『神宮雑書』 |
康治2年 (1143) |
20歳 | 上総国一宮か | 「前下野守源朝臣義朝存日、就于件常晴男常澄之浮言、自常重之手、康治二年雖責取圧状之文」と、上総権介常澄と組んで、下総国相馬御厨を千葉常重から圧し取る。 | 『櫟木文書』 | |
相模国鎌倉 | この頃、義朝は相模国松田郷を中心とする一帯を抑える波多野義通妹と通じており、鎌倉へ本拠を移したとみられる。このとき、上総国から付けられたのが常澄の八男、介八郎広常であろう。広常は鎌倉北東部に館を構えている。 | 『天養記』 | |||
天養元年 (1144) |
21歳 | 相模国鎌倉 | 二男の源朝長が誕生。 母は波多野義通妹。「此殃義常姨母者中宮大夫進朝長母儀典膳大夫久経為子、仍父義通、就妹公之好、始候左典廐」という。朝長は波多野氏のもとで成長し「松田御亭故中宮大夫進旧宅」に住んだという。 |
『吾妻鏡』治承四年十月十七日、十八日条 | |
9月上旬 | 相模国鎌倉 | 大庭御厨内の鵠沼郷(神奈川県平塚市鵠沼)は鎌倉郡内であると難癖をつけて領有を主張し、郎従清大夫安行らを鵠沼郷に差し向けて伊介神社の供祭料を強奪した。さらに抗議に出た伊介社祝・荒木田彦松の頭を砕いて重傷を負わせ、神官八人をも打ち据えた。 | 『天養記』 | ||
10月21日 | 相模国鎌倉 | 義朝は田所目代源頼清らと結託し、「上総曹司源義朝名代清大夫安行、三浦庄司平吉次、男同吉明、中村庄司同宗平、和田太郎助弘」等に命じて再度大庭御厨に濫妨をはたらく。 | 『天養記』 | ||
10月22日 | 相模国鎌倉 | 御厨の境界を示す傍標を引き抜き、収穫の終わったばかりの稲を強奪し、下司職景宗の館に乱入して、家財を破壊して奪い取り、家人を殺害した。 | 『天養記』 | ||
相模国鎌倉 | 御厨定使散位藤原重親、下司平景宗(大庭景宗)が荘園領主の神宮に急使を派遣して濫妨を訴えた。 | ||||
京都か | 院近臣藤原季範(熱田大宮司)の女子と通じる。 | ||||
天養2(1145)年 | 3月4日 | 22歳 | 京都か | 朝廷より義朝らの濫妨停止の官宣旨が出される。 | 『天養記』 |
京都か | 神宮の怒りを恐れ、「恐神威永可為太神宮御厨之由、天養二年令進避文」と、相馬御厨を神宮に寄進する。 | 『櫟木文書』 | |||
京都 | 京都近辺に在住か(摂津国江口に通う範囲) | ||||
京都 | 長女の「右武衞室」が誕生。 母は院近臣藤原季範女子で頼朝同母姉。 |
『吾妻鏡』建久元年四月二十日条より逆算 | |||
久安2年 (1146) |
23歳 | 京都 | 次女の「江口腹の御女」が誕生。 母は摂津国江口の遊女。 院近臣藤原季範女子と通じる。 |
『平治物語』より逆算 | |
久安3年 (1147) |
24歳 | 京都 | 三男の源頼朝が誕生。 母は院近臣藤原季範女子。外祖父季範は在京とみられるが、頼朝自身の出生地は京都か尾張熱田かは記録がない。 |
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久安4年 (1148) |
25歳 | 京都⇒関東⇒ 京都か |
五男(四男?)の源範頼が誕生か。 母は「遠江国池田宿遊女」。 「於遠州蒲生御厨出生」で、藤原範季に養育される。 |
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久安5年 (1149) |
26歳 | ||||
久安6年 (1150) |
27歳 | ||||
仁平元年(1151) | 28歳 | 京都 | 院近臣藤原季範女子と通じる。 | ||
仁平2年(1152) | 29歳 | 京都 | 四男(五男?)の源希義が誕生。 母は院近臣藤原季範女子で頼朝同母弟。 |
『平治物語』より逆算 | |
仁平3年(1153) | 3月28日 | 30歳 | 京都 | 義朝、従五位下下野守に任官 叙任は「故善子内親王未給合爵」による。 |
『兵範記』仁平三年三月廿八日条 |
夏頃 | 弟義賢、上野国多胡郡に居住。 | 『延慶本平家物語』第三本 | |||
同年中 | 義賢の子、義仲が上野国に誕生。 | ||||
同年中 | 九條院雑仕常盤と通じる。 | ||||
久寿元(1154)年 | 31歳 | 京都 | 六男の醍醐禅師全成が誕生。 母は「九條院雑仕常盤」。 |
『尊卑分脈』より逆算 | |
久寿2年(1155) | 8月16日 | 32歳 | 京都 | 源義賢、秩父重隆、武蔵国男衾郡で、比企郡小代郷から攻め寄せた悪源太義平に討たれる。 | |
九條院雑仕常盤と通じる。 | |||||
保元元(1156)年 | 33歳 | 京都 | 七男の卿公義円が誕生。 母は「九條院雑仕常盤」。 |
『尊卑分脈』より逆算 | |
12月29日 | 重任、下野守義朝、造日光山功 | 『兵範記』保元元年十二月廿九日条 | |||
保元2(1157)年 | 正月24日 | 34歳 | 京都 | 従五位上 平重盛 父清盛朝臣召進忠貞賞 源義朝 召進盛憲賞 右兵衛佐平頼盛 使左衛門少尉平信兼 |
『兵範記』保元二年正月廿四日条 |
10月22日 | 正五位下 源義朝、北廓(内裏造営の功によるもの) | 『兵範記』保元二年十月廿二日条 | |||
保元3(1158)年 | 35歳 | 京都 | 九條院雑仕常盤と通じる。 | ||
平治元(1159)年 | 36歳 | 京都 | 八男の源義経が誕生。 母は「九條院雑仕常盤」。 |
『尊卑分脈』より逆算 |
●兒玉党系譜(『小代宗妙置文』)
有道遠峯―+―兒玉弘行――兒玉家行
(有貫主) |(有大夫) (武蔵権守)
|
+―有道経行――女子 秩父権守号重綱(室)也 彼重綱者高望王五男村岡五郎義文五代後胤
(有三別当)(号乳母御前) 秩父十郎平武綱嫡男也、
秩父権守平重綱為養子令相継秩父郡間改有道姓移テ平姓、以来於行重子孫稟平姓者也、
母秩父十郎平武綱女也
下総権守 秩父平武者 武者太郎 蓬莱三郎 母江戸四郎平重継女也、
行重 行弘 行俊 経重 経重者畠山庄司次郎重忠一腹舎兄也、
重綱の娘は武蔵国埼玉郡大田郷(行田市小針周辺)の大田大夫行政の子・三郎行光に嫁ぎ、大田太郎行広と大河戸行方を産んでいる(『続史籍集覧』「秀郷流藤原氏諸家系図 上」)。『尊卑分脈』では「大田大夫行政」の弟「大田四郎行光此義正説也、或行政子」の子「号大河戸 下総権守行方」の項に「母秩父太郎重綱女」とあるが、弟の行広の母は記されていない。なお、『尊卑分脈』の小山氏周辺の系譜は人名や罫の攪乱が多い。秩父重綱の孫にあたる大河戸行方の本貫・武蔵国大川戸郷は、「武蔵国崎西足立両郡内大河土御厨者、右件地元相伝家領也、而平家虜領天下之比所押領也」(『吾妻鏡』寿永三年正月三日条)とあるように、源家相伝の私領で、源氏の家人であった秩父権守重綱と大田三郎行光という武蔵国の二大勢力がその経営に加わっていたと考えられる。
小山四郎政光と下河辺五郎行義も大田行光の子があるが、彼らの母は兄の行広と行方とは異なるのだろう。政光と行義はともに武蔵国を離れ、政光は下野国衙付近の小山郷に進出し、行義は下総国下河辺庄の庄司となっている。大田氏の領有する埼玉郡大田郷は荒川を挟んで秩父氏の支配地と隣接しており、こうした関係から婚姻関係が成立したものとみられる。また、大田大夫行政の弟・阿闍梨快実は都幾川の上流にある大寺・慈光寺の二十世別当(『慈光寺略誌』)となっているが、武蔵国の秀郷流藤氏と秩父氏は縁戚関係を通じて強い関係を持っており、大田氏が下野国方面に進出するに及び、縁戚関係の秩父氏から慈光寺別当が輩出されるようになる。
●『秀郷流藤原氏諸家系図』と秩父氏系図
秩父重綱―+―秩父重弘―+―畠山重能――――畠山重忠―+―畠山重保
(秩父権守)|(太郎太夫)|(畠山庄司) (庄司次郎)|(六郎)
| | |
| +―法橋厳耀 +―阿闍梨重慶
| (慈光寺別当) |(慈光寺別当?)
| |
| +―円燿
| (慈光寺別当)
|
+―秩父重隆―+―葛貫能隆――――河越重頼
|(次郎太夫)|(葛貫別当) (太郎)
| |
| +―厳実
| (慈光寺別当)
|
+―女子 +―大田行広――――大田行朝―――大田行助
∥ |(太郎) (大田権守) (七郎)
∥ |
∥――――+―大川戸行方―+―清久広行―――清久広綱――清久秀衡
∥ (下総守) |(太郎)
∥ |
∥ +―大川戸秀行――大川戸秀綱――大川戸秀胤
∥ |(次郎) (三郎兵衛) (孫三郎)
∥ |
∥ +―高柳秀行
∥ |(三郎)
∥ |
∥ +―大川戸行基
∥ |(四郎)
∥ |
∥ +―葛浜行平
∥
大田宗行―+―大田行政―――大田行光―――大田政光====吉見頼経
(下野大介)|(下野大介) (下野大介) (下野大掾) (三郎)
| ∥
+―快実 ∥―――――+―小山朝政
(慈光寺別当) ∥ |(小四郎)
∥ |
八田宗綱―――女子 +―長沼宗政
(武者所) (寒河尼) |(五郎)
|
+―小山朝光
(七郎)
重綱室の一人、横山次郎大夫経兼娘の従姉妹・兵衛局(「近衛局」ともあるが、兵と近の混同であろう)は下野国の八田権守宗綱の室となるが、彼女は「八田権守妻、宇都宮左衛門尉朝綱之母也、右大将家御乳母也、近衛局兵衛局也」(『小野氏系図』「続群書類従」第七輯上)とあるように、頼朝の乳母となっている。そしてその娘(のち寒河尼)も頼朝乳母となり、小山政光に嫁いで小山朝政、長沼宗政、結城朝光を産んでいる(「永仁二年注進結城系図」(同系図では宇都宮左衛門尉朝綱女となっているが、結城朝光母も「母同」のため、彼ら三名は同母兄弟である)、『続史籍集覧』「秀郷流藤原氏諸家系図 上」)。のちに義朝が下野守となるに及び、秩父氏と重縁にあたる小山政光を何らかの所役に起用しているのかもしれない。比企郡司の女子(比企尼)や八田権守宗綱室(兵衛局)、小山政光室(寒河尼)を頼朝の乳母としたのも、秩父氏所縁の女性という事になろうから、将軍頼義・陸奥守義家以来、六条源氏と武蔵国秩父氏との紐帯は非常に大きなものであったと推測される。
このほか、「武衛御誕生之初、被召于御乳付之青女今日者尼、號摩摩、住国相摸早河庄」(『吾妻鏡』治承五年閏二月七日条)とあるように、相模国中村党の女性も頼朝の最初期乳母として召されていたことがわかる。なお、「故左典厩御乳母字摩摩局、自相摸国早河庄参上、相具淳酒献御前、年歯已九十二、難期且暮之間、拜謁之由申之幕下、故以憐愍給、是有功故也」(『吾妻鏡』建久三年二月五日条)とあるように、義朝自身の乳母も相模国中村党の女性であった。義朝は相模国山内庄の首藤刑部丞俊通の妻(のちの山内尼)も頼朝の乳母としており、為義、義朝の東国の拠点の中心は武蔵国と相模国にあったと推測される。
【重綱養子】
+―秩父行重――――――――秩父行弘―――秩父行俊====蓬莱経重【畠山重忠実兄】
|(平太) (武者所) (武者太郎) (三郎)
|
|【重綱養子】
+―秩父行高――――――――小幡行頼
|(平四郎) (平太郎)
|
兒玉経行―+―女子 +―宇都宮朝綱
(別当大夫) (乳母御前) |(弥三郎)
∥ |
∥ 八田宗綱 +―八田知家
∥ (八田権守) |(武者所)
∥ ∥ |
∥ ∥――――――――――――+―女子 +―小山朝政
∥ ∥ (寒河尼) |(太郎)
∥ ∥ ∥ |
∥ ∥ ∥―――――+―長沼宗政
∥ ∥ ∥ |(五郎)
∥ ∥ ∥ |
+―小野成任――∥―――女子 +――大田行政―――小山政光 +―結城朝光
|(野三太夫) ∥ (兵衛局) | (大田大夫) (下野大掾) (七郎)
| ∥ |
| ∥ +―横山孝兼――――女子 +―法橋厳耀 +―畠山重秀
| ∥ |(横山大夫)| ∥ |(慈光寺別当) |(小太郎)
| ∥ | | ∥ | |
横山資隆―+―横山経兼――∥―+―女子 | ∥――――+―畠山重能 +―畠山重光 +―畠山重保
(野三別当) (次郎大夫) ∥ ∥ | ∥ (畠山庄司) |(庄司太郎) |(六郎)
∥ ∥ | ∥ ∥ | |
∥ ∥―――――――秩父重弘 ∥―――――+―畠山重忠――+―阿闍梨重慶
∥ ∥ | (太郎大夫) ∥ (庄司次郎) |(大夫阿闍梨)
∥ ∥ | ∥ |
∥ ∥ |+―江戸重継―+―女子 +―円耀
∥ ∥ ||(四郎) | |(慈光寺別当)
∥ ∥ || | |
∥ ∥ |+―高山重遠 +―江戸重長 +―女子
∥ ∥ ||(三郎) (太郎) | ∥
∥ ∥ || | ∥
∥ ∥ |+―女子 | 島津忠久
∥ ∥ || ∥ |(左兵衛尉)
∥ ∥ || ∥ |
∥ ∥ || ∥――――――大河戸行方 +―女子
∥ ∥ || ∥ (下総権守) ∥
∥ ∥ || ∥ ∥
∥ ∥ +|―大田行光 足利義純
∥ ∥ |(四郎) (上野介)
∥ ∥ |
秩父武綱―+―秩 父 重 綱―――+―秩父重隆―――葛貫能隆――+―河越重頼――+―河越重房
(十郎) |(秩 父 権 守) (次郎大夫) (葛貫別当) |(太郎) |(小太郎)
| ∥ | |
+―女子 ∥ +―妹 +―河越重員
∥―――――――――+―秩父行重 ∥ (三郎)
∥ ∥ |(平太) ∥
∥ ∥ | ∥
有道遠峯―+―兒玉経行――女子 +―秩父行高 ∥―――――+=小代俊平
(有貫主) |(別当大夫)(乳母御前)(平四郎) ∥ |(二郎)
| ∥ |
+―兒玉弘行――――――――入西資行―――小代遠広――――小代行平 +―小代弘家
(有大夫) (三郎大夫) (二郎大夫) (右馬允)
●源氏の人々の乳母等
乳母名 | 乳母夫 | 国 | 備考 | 出典 | |
源為義 | 廷尉禅室御乳母 | 山内首藤資通入道 (仕八幡殿) |
相模国 | 『吾妻鏡』 治承四年十一月廿六日条 |
|
源義朝 | 摩摩局 (故左典厩御乳母、年歯已九十二) 康和3(1101)年生まれ |
中村党か | 相模国 | 相摸国早河庄 | 『吾妻鏡』 建久三年二月五日 |
源義広 | 乳母某 (乳母子、多和山七太) |
多和山某 | 不明 | 『吾妻鏡』 治承五年閏二月廿三日条 |
|
源義平 | 乳母御前、乳母御所 (有三別当経行の女子) |
秩父権守重綱 | 武蔵国 | 『小代宗妙置文』 | |
源頼朝 | 摩摩 (武衛御誕生之初、被召于御乳付之青女) |
中村宗平? | 相模国 | 住国相摸早河庄 | 『吾妻鏡』 治承五年閏二月七日条 |
乳母某 (乳母妹の子が三善康信) |
三善氏 | 京都 | 『吾妻鏡』 治承四年六月十九日条 |
||
乳母某 (久安5年、頼朝のために十四日間清水寺に参篭し、二寸銀正観音像を得る) |
不明 | 不明 | 『吾妻鏡』 治承四年八月廿四日条 |
||
山内尼【武衞御乳母】 (山内瀧口三郎経俊の老母) |
山内首藤俊通 | 相模国 | 『吾妻鏡』 治承四年十一月廿六日条 |
||
比企尼【武衞乳母】 (義員姨母。武蔵国比企郡を請所として夫の掃部允を相具して下向している) |
掃部允 | 武蔵国 | 『吾妻鏡』 寿永元年十月十七日条 |
||
兵衛局【右大将家御乳母】 (宇都宮左衛門尉朝綱之母) |
八田権守宗綱 | 下野国 | 『小野氏系図』 | ||
寒河尼【武衛御乳女】 (故八田武者宗綱息女) 保延4(1138)年~安貞2(1228)年2月4日 |
小山下野大掾政光 | 武蔵国 または下野国 |
『吾妻鏡』 治承四年十月二日条 |
||
安西三郎景益(幼少時に昵近の人) | 安房国 | 御幼稚之当初、殊奉昵近者 | 『吾妻鏡』 治承四年九月一日条 |
||
源義仲 | 乳母某 | 中三権守兼遠 | 上野国 または信濃国 または京都 |
『吾妻鏡』 治承四年九月七日条 |
永治2(1142)年の高山御厨寄進後、義朝は幼い嫡子義平を重綱に預け、上総国の上総権介常澄のもとへ移り「上総曹司源義朝」と称されている(『天養記』天養二年三月四日)。ただし、義朝はつねに武蔵国男衾郡にいたというわけではなく、上総国埴生庄の権介常澄のもとや、相模国鎌倉郡などを積極的に動き回りながら、武蔵国、上総国、相模国、安房国の為義家人の間にネットワークを構築していたとみられる。義朝は常澄の同族である下総権介常重とも関わりを持ち、常重の嫡子常胤と秩父重綱孫娘(重弘女子)との婚姻を行わせた可能性もあろう。地縁も血縁も政治的活動も接点のみられない秩父と千葉の関係構築には何らかの触媒(この場合は為義の指示を受けた義朝)が関わった可能性も十分考えられる。
ところが義朝は、康治2(1143)年に下総国相馬御厨について「源義朝朝臣就于件常時男常澄之浮言、自常重之手」から「責取圧状之文」るという事件を起こしている(久安二年八月十日『正六位上平朝臣常胤寄進状』:『櫟木文書』)。相馬郡を領する千葉常重から、義朝が平常澄の「浮言」を利用して強引に譲状(圧状と認定された)を責取ったものであった。義朝の意図は不明確ながら、源家家人の血統を引きながら、為義・義朝に協力的ではない人々への強い制裁と考えられよう。この流れは翌天養元(1144)年に相模国の大庭御厨の御厨下司平景宗(大庭御厨を開発した義家郎従平景正の子孫または一族子孫)への制裁としても表れている。相模国鎌倉へ移った義朝は(このとき平常澄の子、八郎広常が鎌倉に同道したと思われる)、大庭御厨の高座郡内字鵠沼郷を「鎌倉郡内」と称し、9月上旬、義朝と結託した国府の田所目代源頼清の下知のもと、義朝郎従清大夫安行、新藤太、庁官等が大庭御厨に乱入した。さらに10月21日にも「田所目代散位源朝臣頼清」や在庁官人および「義朝名代清大夫安行、三浦庄司平吉次、男同吉明、中村庄司同宗平、和田太郎助弘」ら千余騎による狼藉が行われた(『天養記』天養二年三月四日)。
ただ、義朝の大庭御厨への濫妨がかなり悪質であったことから、神宮の激しい怒りを買っており、義朝は天養2(1145)年に「恐神威永可為太神宮御厨」(仁安二年六月十四日『荒木田明盛神主和与状』)と、相馬御厨の「避状」を神宮に提出することとなる。なお、義朝は東国家人の再編成の過程で神宮領への狼藉が発生せざるを得ない中、神宮を畏敬していた様子がうかがわれる。安房国丸御厨は「左典厩義朝令請廷尉禅門為義御譲給之時、又最初之地也」(『吾妻鏡』治承四年九月十一日条)で、「而為被祈申武衛御昇進事、以御敷地去平治元年六月一日奉寄 伊勢太神宮給」(『吾妻鏡』治承四年九月十一日条)というものであり、為義、義朝の神宮信仰心は、故義朝を敬愛する頼朝へと引き継がれ、頼朝は鶴岡八幡宮寺と並んで甘縄神明社を深く崇敬した。そして従者(源頼政または熱田大宮司家と関わりのある人物か)で側近の藤九郎盛長を源家別邸の甘縄邸に置いてこれを管理させ、数度にわたって神明社を参詣しているのである。
平貞盛―――女 +―藤原隆時―――藤原清隆
(信濃守) ∥ |(因幡守) (中納言)
∥ |
∥――――+―藤原範隆―――藤原資隆
∥ (甲斐守) (上西門院蔵人)
具平親王―――藤原頼成――藤原清綱
(因幡守) (左衛門佐)
∥――――+―藤原隆能
∥ |(主殿頭)
∥ |
後三条天皇――高階為行――女 +―藤原忠清―+―藤原惟忠――――――藤原惟清
(信濃守) |(淡路守) |(太皇太后宮大進)
| |
| +―藤原清兼――――+―藤原清長
| |(太皇太后宮大進)|(太皇太后宮大進)
| | |
| | +―藤原康俊
| | |(待賢門院蔵人)
| | |
| | +―藤原惟清
| | (左大臣勾当)
| |
| +―藤原行俊――――――藤原清定
| |(待賢門院蔵人) (八条院蔵人)
| |
| +―女
| ∥―――――――――源義朝
| ∥ (下野守)
| 源為義
| (検非違使)
|
+―藤原隆重―+―藤原政重
(筑前守) |(白河院蔵人)
|
+―平忠重【刑部卿平忠盛為子改姓】
|(散位)
|
+―藤原清重――――――藤原在重
|(蔵人) (上西門院判官代、下総守)
|
+―右衛門佐
(後白河院宮女)
∥
藤原信西
(少納言入道)
●義朝祖父の藤原忠清●
祖父の藤原忠清は寛治2(1088)年11月26日、「修理亮」在任中に堀河天皇の「侍中(蔵人)」に「所雑色源有家」とともに補された(『中右記』寛治二年十一月廿六日条)。永長2(1097)年正月30日の除目で「出雲守従五位下藤原朝臣忠清兼」(『中右記』永長二年正月卅日条)とあり、従五位下に叙され出雲守に補任されている。なお同日、八幡太郎義家嫡男の源義親の舅となる高階基実が「肥後守従五位下高階朝臣基実」、のちの源三位頼政の父・源仲正が「下総権守従五位下源朝臣仲正」、のちに千葉介常胤と相馬御厨をめぐって争う判官代源義宗の祖父・源家俊が「近江権守従五位下源朝臣家俊」とある。続けて翌月の閏正月3日には源家俊は「能登権守」、源仲正は「肥前権守」に補任される(『中右記』永長二年正月卅日条)。
嘉承2(1107)年4月17日当時、忠清は「少進淡路守忠清」(『永昌記』嘉承二年四月十七日条)と見え、春宮少進として皇太子宗仁親王(のちの鳥羽天皇)の家司だった。その後は白河院の信任を得てその側近として活動し、永久4(1116)年正月21日当時、「院蔵人一臈忠清入道」(『殿暦』永久四年正月廿一日条)とあるように、白河院側近の筆頭という極めて強い関係を持っていた。しかし、この頃すでに入道しているように体調は芳しくなかったようで、「永久卅八」(『尊卑分脈』)とあるように、永久6(1118)年までの間に三十八歳で亡くなったようだ。
その跡は長男惟忠が継承したと思われるが、彼の院近臣としての活動はうかがえず、白河院皇女で太皇太后宮令子内親王の家司(太皇太后宮大進)となっている(『尊卑分脈』)。次男清兼は保安2(1121)年正月24日当時「院蔵人」であり、同日に堀河天皇の「被補蔵人」されている(『除目部類記』)。おそらく惟忠も院蔵人を経て堀河天皇の蔵人(『尊卑分脈』に「蔵」とあり)に補されていたのだろう。令子内親王は「長(承)三年三月十九日、改皇后為太皇太(后宮)」(『一代要記』)とあることから、惟忠は長承3(1134)年3月19日以降の大宮家司となる。清兼はその跡を襲い「太皇太后宮大進」(『尊卑分脈』)に補されたと思われ、その任の最中である康治2(1143)年4月8日、「自被宮退出之間、於路頭被刃傷所破其頭血出之、清兼成恐怖帰参被宮、近日如此事連々」(『本朝世紀』)という事件に遭遇している。
源俊房――――源師時――――源師行
(左大臣) (権中納言) (大蔵卿)
∥――――――――源有房
∥ (左中将)
藤原忠清―+―藤原惟忠 ∥ ∥
(因幡守) |(大宮大進 ∥ ∥
| ∥ ∥
+―藤原清兼―――女子 ∥
|(大宮大進) ∥
| ∥
+―女子 ∥
| ∥――――――源義朝 ∥
| ∥ (下野守) ∥
| 源為義 ∥
|(左衛門大尉) ∥
| ∥
+―藤原隆重―+―藤原政重 ∥
(筑前守) |(白河院蔵人) ∥
∥ | ∥
∥ +―平忠重 ∥
∥ |(刑部卿忠盛猶子) ∥
∥ | ∥
∥ +―右衛門佐 ∥
∥ (後白河院女房) ∥
∥ ∥ ∥
∥ ∥ ∥
∥ 藤原通憲―――――女子
∥ (入道信西)
∥
∥――――――藤原清重―――――藤原在重
+―女子 (蔵人) (下総守)
|
| +=源義宗
| |(高松院判官代)
| |
源家宗――+―源家俊――+―源重俊――――+―源宗信
(上野介) (左馬助) |(左衛門尉) (上野冠者)
|
+―源俊宗――――――源義宗〔為重俊子〕
○兒玉党発祥の秩父氏○
秩父行重(????-????)
通称は平太。武蔵七党・兒玉党の兒玉別当大夫行経の子。妹が秩父権守平重綱の妻となっていた関係から、弟・平四郎行高とともに重綱の養子となり、秩父氏を称した。時代的に見て行重の妹は重綱の後妻であったろう。この兒玉行経娘は「悪源太殿称御乳母人」とあり、重弘の子・重能が秩父惣領・重隆に反発して義平と結んだ背景には、義祖母が悪源太義平の乳母であった関係があったのかもしれない。
●兒玉党系譜(『小代宗妙置文』)
有道遠峯―+―兒玉弘行――兒玉家行
(有貫主) |(有大夫) (武蔵権守)
|
+―有道経行――女子 秩父権守号重綱(室)也 彼重綱者高望王五男村岡五郎義文五代後胤
(有三別当)(号乳母御前) 秩父十郎平武綱嫡男也、
秩父権守平重綱為養子令相継秩父郡間改有道姓移テ平姓、以来於行重子孫稟平姓者也、
母秩父十郎平武綱女也
下総権守 秩父平武者 武者太郎 蓬莱三郎 母江戸四郎平重継女也、
行重 行弘 行俊 経重 経重者畠山庄司次郎重忠一腹舎兄也、
●兒玉党と秩父党系譜
有道遠峯―+―兒玉弘行―+―兒玉家行―――兒玉家弘――――+―庄弘高
(有貫主) |(有大夫) |(武蔵権守) (庄大夫) |(庄権守)
| | |
| | +―庄忠家
| | |(三郎)
| | |
| | +―庄高家
| | |(刑部丞)
| | |
| | +―庄弘方
| | (五郎)
| |
| +―入西資行―+―浅羽行業
| (三郎大夫)|(小太夫)
| |
| +―小代遠広――――+―小代経遠
| (次郎大夫) |(小太郎)
| |
| +―小代高遠
| |(三郎)
| |
| +―小代遠平―――吉田俊平
| |(七郎) (小二郎)
| |
| +――――――――小代行平―――+―小代弘家
| (右馬允) |(太郎)
| ∥ |
| +―秩父重隆――――――葛貫能隆 +―妹 +―小代俊平
| |(次郎大夫) (葛貫別当)|(河越尼御前) (次郎)
| | ∥ |
| | ∥――――+―河越重頼
| | ∥ (太郎)
| | 某氏 ∥――――――――河越重房
| | (老母) ∥ (小太郎)
| | ∥
| | 比企尼――+―次女
| | |(後家尼)
| | |
| | +―長女
| | ∥
| | 源義信――――――源惟義
| | (武蔵守) (相模守)
| |
| 秩父重綱―+―秩父重弘――――――畠山重能―――畠山重忠
| (秩父権守) (太郎大夫) (畠山庄司) (庄司次郎)
| ∥
| ∥
| +―娘〔悪源太殿称御母人〕
| |(乳母御前)
| |
+―兒玉経行―+―兒玉保義―――寺島行遠――――――山名親行
(別当大夫)|(兒玉) (五郎大夫) (大夫四郎)
|
|【秩父重綱養子】
+―秩父行重―――秩父行弘――――――秩父行俊
|(平太) (平武者) (武者太郎)
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|【秩父重綱養子】
+―秩父行高―――小幡行頼
(平四郎) (平太郎)
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