武蔵国留守所惣検校職
●秩父惣領家略系図●
比企掃部允
∥――――――――女子
郡司比企某――比企尼 ∥
∥―――――河越重房
∥ (太郎)
●平将恒――平武基――秩父武綱――秩父重綱―――秩父重隆―――秩父能隆―――+―河越重頼
(太郎) (太郎) (十郎) (留守所) (留守所) (葛貫別当) |(留守所)
|
+―娘
∥―――――小代弘家
小代行平
(1046?-????)
秩父別当平武基の十男とみられる。通称は秩父武者十郎。、秩父十郎(『桓武平氏諸流系図』)。母は不明。娘は有道経行(有三別当)室。兄には荒大夫武家(『桓武平氏諸流系図』)がおり、彼は上洛して五位の位を得ていたようで、子孫は北面武士として在京し、のちに越後国に越後秩父党を結成する。
永承6(1051)年3月、陸奥守源頼義は奥州安倍氏との戦いのために勅命により奥州へ出兵する(前九年の役)。そして6月、武蔵国府に逗留した頼義のもとに「奥入先陣譜代ノ勇士ヲ撰給ケルニ、秩父別当大夫武基子息、童形六歳桓武天皇九代、村岡五郎良文ニハ五代、其仁ニ当ノ間、七歳ニ為ニ用ンカ、俄ニ六月朔日ヲ元三ニ表而、円鏡ヲ見セ、七歳ト号シテ元服、秩父武綱是也、白旗ヲ給フ」(『源威集』第七十後冷泉院)とあり、頼義の奥州出兵に際して「譜代」の士として応召したとみられる。その際、頼義は武基が連れてきた六歳の子息を七歳と称して「武綱」と名乗らせて元服させ、白旗を給わったという。
その後、頼時が将軍頼義に降伏すると、奥州は一旦平穏を保つこととなるが、天喜2(1054)年、頼義の陣を何者かが襲い馬を強奪して去っていった事件が起こると、頼義はその犯人を頼時嫡男・安倍貞任としたために、頼時・貞任を中心に安倍一族がふたたび挙兵した。そして、天喜5(1057)年に頼時は討死するが、後継者の貞任が強硬に対抗したことから、戦いは長引くこととなる。この戦いで武綱は頼義に従軍して活躍したようで、永承12(1062)年に「実年十七」の武綱は、この年に終わった前九年の役での「合戦度毎ニ先ヲカク略ヲ施シケル」(『源威集』第七十後冷泉院)という活躍を見せたという。
応徳2(1085)年に再び起こった奥州清原氏の内紛から勃発した奥州大乱(後三年の役)では、武綱は陸奥守源義家に従軍して奥州へ向かったという。このときの謂れは、治承4(1180)年、武綱の子孫・畠山次郎重忠が頼朝のもとに参じた際に、「君が御先祖八幡殿、宣旨を蒙らせたまひて武平、家平を追討せしむる之時、重忠が四代祖父秩父十郎武綱、初参して侍りければ、此の白旗を給ひて先陣を勤め、武平以下の凶徒を誅し候了」(『源平盛衰記』)と述べたと伝わる。ただし、この白旗については、武基にも将軍頼義に参じた際に同様の謂れ(『源威集』第七十後冷泉院)があることから、いずれかが仮託したものかもしれない。
これ以降の武綱の記録は見られない。その他では、武綱女婿の有三別当経行の兄「兒玉ノ有大夫弘行ノ朝臣」についての記録が遺されている(『小代宗妙置文』)。有三別当経行とともに兒玉党の祖となった人物である。
義家には「副将軍トシテ相並ビテ朝敵ヲ追討ノ次第絵図ニ書カ被キ、奥州征伐ノ後、有大夫弘行、同有三別当経行、武州兒玉郡ヲ屋敷トシテ居住セ令メ給フ、凡ソ兒玉ノ先祖代々君ノ奉為メニ忠勤吉例ノ事、諸家ノ記録ニ載セ被ル上、世以テ其隠レ無歟、又右衛門佐朝政、関東ノ御代官トシテ在京ノ時、蓮華王院ノ宝蔵御絵ヲ申出シテ拝見セ令メケルニ、奥州後三年ノ合戦ノ次第書カ被タル所ニ、東八箇国ノ人々ハ皆ナ以テ大庭ニ敷皮居烈レリ、八幡太郎義家ノ朝臣、大将軍ニテ屋形ニ御座ハシマスニ、兒玉ノ有大夫弘行ノ朝臣、副将軍ニテ同屋形ニ赤革ノ烏帽子懸シテ、八幡殿ノ御対座ニ書レ給ヒタルヲ、平兒玉倉賀野ノ八郎公行当座ニ有合テ拝見シタリキ」(『小代宗妙置文』)とあるように、兒玉党の遠祖の一人、有大夫弘行(おそらく弟の有三別当経行も従軍か)も義家に従って奥州へ下向しているようである。
なお、この絵画は承安4(1174)年3月17日に権右中弁藤原経房が後白河院の「御倉」から借り出して見た「義家朝臣為陸奥守之時、与彼国住人武衡、家衡等合戦絵」(『中右記』承安四年三月十七日条)と同じものであろう。この「武衡家衡等絵」は後白河院が「件事雖有伝言、委不記、又不書」という後三年合戦についての絵詞を、近臣静賢法印に命じて制作させたもので、「静賢法印、先年奉院宣始令書進也」というまだ完成まもないものであった。経房は静賢法印に絵画の貸与を願い出て「彼法印、借出御倉送之」という。現在この後白河院時代の絵詞は伝わらず、室町時代初期に制作されたものの半分程が国宝として遺されている。
なお、有大夫弘行も有三別当経行も後三年の役の「後」に兒玉郡に居住したとあることから、彼らは義家の郎従として京都から下向した武士であったのだろう。なお、有大夫弘行の子孫である小代宗妙(小代伊重)は弘行を「別当」と記しておらず、その弟・有三別当経行(武綱女婿)を「別当」としていることから、「兒玉郡阿久原牧」の別当に補されていたのは弟の経行であり、兒玉氏の系譜との相違がみられる。
●後三年の役で従軍の伝のある人々
名前 | 略歴等 | 出典 |
有大夫弘行 | 副将軍(蓮華王院宝蔵の御絵に描かれ、平賀朝雅に同道した倉賀野公行が確認) | 『小代宗妙置文』 |
有三別当経行 | 副将軍(蓮華王院宝蔵の御絵に描かれ、平賀朝雅に同道した倉賀野公行が確認) | 『小代宗妙置文』 |
横山野次大夫経兼 | 野三別当資隆の嫡子。「八幡殿奥州貞任給」に「承先陣」ったという | 『小野氏系図』 |
五郎道兼 | 経兼兄忠常(出家し小澤野小院)の子 | 『小野氏系図』 |
忠兼 | 経兼弟(野五郎) | 『小野氏系図』 |
■越後秩父氏(色部氏)
秩父武家(????-????)
秩父別当平武基の長男。号は荒大夫武家(『桓武平氏諸流系図』)。具体的な事歴は不明。「荒」とは荒々しいという意味であるが、曾祖父の陸奥介平忠頼(『桓武平氏諸流系図』)、祖父の秩父三郎将恒(『桓武平氏諸流系図』)が居住していたと思われる武蔵国大里郡を流れる「荒河」に因んだ可能性があろう。
秩父重長(????-????)
荒大夫武家の長男。号は秩父平新大夫(『桓武平氏諸流系図』)。
秩父を称しているが、彼自身が新大夫とあるように在京武士であった可能性がある。子孫も北面武士となっており、秩父地方に私領は残していた可能性はあるが、事実上武蔵秩父氏とは別系の在京武士となったのだろう。
常葉惟長(????-????)
秩父平新大夫重長の子。号は常葉平内(『桓武平氏諸流系図』)。官途は内舎人。「常葉」がいずれの地かは不明。
上洛して内舎人となり、さらに鳥羽院北面に祗候した。
平光長(????-????)
常葉平内惟長の子。幼名は千代松丸(『古案記録草案』)。通称は三郎(『古案記録草案』)。官途は玄蕃允(『桓武平氏諸流系図』)。後白河院北面。
「越後国瀬波郡小泉庄加納色部(村上市)」(『古案記録草案』)の地頭職を得て、在名を以て色部を名字称号としたという(『古案記録草案』)。
平季長(????-????)
玄蕃允光長の長男。官途は修理少進(『吾妻鏡』『桓武平氏諸流系図』)。
後白河院北面に祗候するが、その後、頼朝郎従(御家人)として鎌倉に出仕している。弓の名人として知られていたようで、文治5(1189)年正月3日には例年の埦飯が行われたのち、良辰ということで急遽行われた御弓始に於いて、下河辺行平が召されて弓場へ進み出た際、頼朝が「堪能者一人可立逢」(『吾妻鏡』文治五年正月三日条)と人々に命じたが「修理進季長起座著香水干」して行平の後ろに蹲踞した。ところが行平はまったく進み立たなかった。行平は季長の腕を認めておらず、いまだ人なき体を演じたものであった。これをみた頼朝は、これも弓の名手であった榛谷四郎重朝を遣わしたところ、行平は衣文の組紐を解いて弓を取り直し、見事的を射抜いた。この恥辱に季長は我慢がならず、元の座に戻ることなく御所を退出している(『吾妻鏡』文治五年正月三日条)。
その後、季長がどのような処罰を受けたかは不明だが、季長は書画の道にも通じており、建久3(1192)年10月29日、「修理少進季長」が永福寺の扉と釈迦如来の後壁の書画を描き上げている(『吾妻鏡』建久三年十月廿九日条)。
平行長(????-????)
修理少進季長の長男。官途は左衛門尉。越後本庄氏祖。
越後国瀬波郡小泉庄の地頭として「小泉左衛門尉」と号した(『桓武平氏諸流系図』)。子の左衛門尉定長以降、越後国小泉庄本庄で繁栄し、本庄氏として伝えた。一方、季長の弟・為久の子孫は色部氏として発展した。
弟の左衛門尉宗長(号進)は、嘉禎4(1238)年2月17日の将軍頼経の上洛に随兵廿六番として供奉(『吾妻鏡』嘉禎四年二月十七日条)し、2月23日、将軍頼経の参内に「御車八葉」に「着直垂、令帯剣、候御車左右」に供奉した「修理進三郎宗長」として見える(『吾妻鏡』嘉禎四年二月廿三日条)。さらに、6月5日にも将軍頼経の春日社参に「修理進三郎宗長」が御輿の左右に徒で供奉している(『吾妻鏡』嘉禎四年六月五日条)。
建長4(1252)年7月23日の将軍宗尊親王の方違えの供奉に「進士三郎左衛門尉宗長」として見える(『吾妻鏡』建長四年七月廿三日条)。建長6(1254)年6月16日、「故武州禅室(泰時入道)」の十三回忌に及んで鎌倉で騒擾が起こった際には御所に駆け付けた一人として着到に名を連ねた(『吾妻鏡』建長六年六月十六日条)。その後も将軍に近い御家人として、文応元(1260)年11月27日、将軍宗尊親王の二所参詣の供奉に「進三郎左衛門尉宗長」(『吾妻鏡』文応元年十一月廿七日条)、弘長3(1263)年8月9日、将軍宗尊親王の上洛の供奉に「御中持」の奉行人の一人として「進三郎左衛門尉宗長」が予定され(『吾妻鏡』弘長三年八月九日条)、8月15日の鶴岡八幡宮寺の放生会に際し、将軍宗尊親王の供奉となった「進三郎左衛門尉宗長」(『吾妻鏡』弘長三年八月十五日条)として見える。なお、色部氏の由緒書である『古案記録草案』では、「進三郎 後 修理進」と記される(『古案記録草案』)。
従兄弟の本家、進三郎為長の子・右衛門尉公長は伯耆国布美庄を継承しているが、康永4(1345)年10月18日には「進三郎入道長覚」が嘉祥寺「領家職事」を押領している(『実相院及東寺菩提院文書二』康永四年十月十八日条:『大日本史料』第六編)が、彼は「号進」した左衛門尉宗長の末裔で、本家の色部秩父氏の代官として布美庄に入部していた可能性があろう。
平為久(????-????)
玄蕃允光長の次男(『桓武平氏諸流系図』)。修理少進季長の弟にあたる。
平為長(????-????)
平為久の嫡子(『桓武平氏諸流系図』)。号は進三郎(『古案記録草案』)。官途は修理進(『古案記録草案』)、鳥羽院北面祗候(『古案記録草案』)。法名は善阿(『古案記録草案』)。妻は「せんあか」。ただし、「鳥羽院之北面為伺候」(『古案記録草案』)は子孫の色部隆長が「後鳥羽院書誤無疑」(『古案記録草案』)とする。
置文を遺しており、為長が所領としていた「いろへうしやあふしまらのこと(色部、牛屋、粟島)」につき、「いろへあふしま」は「ちゃくしゑもんの志やうきんなか(左衛門尉公長)」、「うしや」は「志なんすけなか(資長)」に譲ることとしている。なお、「せんあか(為長妻か)」の生前は「いろへあふしま」はせんあかが知行し、その後は左衛門尉公長に給うべしとしている(『古案記録草案』)。
嘉禄3(1227)年4月7日に嫡子公長への譲状を発給して鎌倉家政所に提出し、二日後の4月9日に頼経袖判下文が下されていることから、為長入道善阿は鎌倉に居住していたことがわかる。ただ、為長法師は建長6(1254)年11月8日に譲状を発給していることから、最初の譲状から二十七年後もまだ生存していたことになる。
平公長(????-????)
平為長の嫡子(『桓武平氏諸流系図』、『古案記録草案』)。官位は従五位下(『古案記録草案』)。官途は内舎人(『古案記録草案』)、右衛門尉(『桓武平氏諸流系図』、『古案記録草案』)。法名は行忍(『古案記録草案』)。諱は「きんなが」と読む(『古案記録草案』)。
嘉禄3(1227)年4月7日に「為長法師」より譲状(江戸期にはすでに紛失)が下され、鎌倉家政所に提出され、二日後の4月9日に「内舎人平公長」へ政所下文が発給されている(『古案記録草案』、『鎌倉遺文』3604)。その下文によれば、公長が譲られたのは、
・伯耆国布美庄
・越後国小泉庄加納内色部、粟嶋
・讃岐国木徳庄
の四か所である。また、建長6(1254)年11月8日、「父為長法師法名善阿」からの譲状(勝長寿院三重御塔仏聖供養致沙汰之子細載之)に基づき、建長7(1255)年3月27日に政所下文が下されている(『古案記録草案』)。
長男に内舎人経長、次男に持長(『桓武平氏諸流系図』)という人物がいたようだが、彼らは早世したようである。その後、文永7(1270)年8月25日に公長入道行忍は「子息三郎平忠長為惣領相」「子息五郎左衛門尉平氏長」「子息七郎左衛門尉平長茂」への譲状を発給し、それぞれ12月14日に関東下知状(鎌倉家当主の家政文書)が下されるが、三男忠長が惣領と定められ、他の弟たちは「御公事共守惣領忠長之支配」とされた(『古案記録草案』)。
三郎平忠長 | 越後国小泉庄内色部条 |
五郎左衛門尉平氏長 |
越後国小泉庄牛屋条内作路以東(松沢新田等は除く) ・東限:大山 ・南限:石堤荒河流 ・西限:作路 ・北限:色部条堺 |
七郎左衛門尉平長茂 |
越後国小泉庄牛屋条内作路以西(上新保は除く) ・東限:作路 ・南限:石堤荒河流 ・西限:大山 ・北限:色部条堺 出雲国飯生庄 |
弥三郎清長 | 色部庄内か |
公長の死後、惣領忠長は異母兄の弥三郎清長と「越後国小泉庄加納色部、牛屋、讃岐国木徳庄、出雲国飯生庄地頭職等事」について相論が起こっている。清長はもともと公長嫡子であったが、継母の謀によって配分が洩れたと主張したが、公長は生前すでに清長を「不孝之仁」としており、弘安2年10月26日の関東下知状で「於今者停止清長之知行」と清長の知行は否定されることとなり、惣領三郎左衛門尉忠長のもと色部氏は越後国揚北衆の一角として、越後秩父氏の嫡家である本庄氏とともに勢力を奮い、室町期の越後守護職上杉氏に従属するも、強い独立性を保った。江戸時代には米沢藩上杉家の家老家となっている。
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