秩父重隆隆

秩父党

武蔵国留守所惣検校職

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平良文 平忠頼 平将恒 平武基 秩父武綱
秩父重綱 秩父重隆 葛貫能隆 河越重頼 河越重房
河越泰重 河越経重 河越宗重 河越貞重 河越高重
河越直重

 

●秩父惣領家略系図●

                               比企掃部允
                               ∥――――――――女子
                        郡司比企某――比企尼      ∥
                                        ∥―――――河越重房
                                        ∥    (太郎)
平将恒――平武基――秩父武綱――秩父重綱―――秩父重隆―――秩父能隆―――+―河越重頼
(太郎) (太郎) (十郎)  (留守所)  (留守所)  (葛貫別当)  |(留守所)
                                      |
                                      +―娘
                                        ∥―――――小代弘家
                                        小代行平

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秩父重隆(????-????)

 秩父権守平重綱の次男。通称は次郎大夫武蔵国留守所惣検校職

 若い頃にはおそらく父・出羽権守平重綱から鳩山丘陵を越えた南側、葛貫牧(毛呂山町)から河越方面にかけての一帯に派遣され、秩父平氏の勢力拡大の一翼を担ったと思われる。

大蔵館
武蔵大蔵館跡

 しかし、兄の太郎大夫重弘が早世し、その子重能が幼少だったなどの理由で、重隆が秩父平氏惣領になったと考えられる。重隆も大番役を務めて権門に仕え「大夫(五位)」に叙されていたのだろう。

 重綱の跡を受け、次郎重隆は南の入間郡から男衾郡菅谷館嵐山町菅谷)へ帰還し、武蔵守より留守所惣検校職に補された。比企郡嵐山町の平澤寺より発掘された経筒から、久安4(1148)年にはまだ父の重綱が存命であり、彼が「当国大主」と主張していることから、いまだ重綱が留守所惣検校職にあったと思われる。その後、重隆がこれを継承したと思われるが、そのきっかけは、おそらく久安6(1150)年7月28日の武蔵守交代ではなかろうか。新任の武蔵守は藤原信頼であり、重隆は信頼から留守所惣検校職に補されたと考えられる。

 仁平3(1153)年3月28日、石清水八幡宮臨時祭に伴う除目で、源義朝は「下野守」に任官し、同時に従五位下に叙されている(『兵範記』仁平三年三月廿八日条)。この叙爵は「故善子内親王未給合爵」とあるように、白河院皇女の故善子内親王の未給合爵であった。善子内親王は長承元(1133)年12月1日に「前斎宮無品善子内親王薨給、年五十六、是白河院之女、三條内大臣之外孫、道子女御女也、今年道子善子母子共薨給、共准后也」(『中右記』長承元年十二月一日条)とあるように、内親王薨去から実に二十年も経たものであった。内親王に残っていた故人未給分を清算する未給合爵だろうが、義朝への叙爵は二十年も前の未給分を引っ張り出して行われたものとなる。義朝を故義家所縁の「下野守」へ任官させるにあたっては、叙爵が必要となるが、そのために義朝との所縁がわずかにみられる故院宮善子内親王家の未給分を充てることにしたのだろう。善子内親王が親王宣下を受けた承暦3(1079)年4月28日に定められた善子内親王家職の「侍者」に見える「中宮少進藤隆時」(『為房卿記』承暦三年四月二十八日条)義朝の大伯父に当たり、中宮賢子家司と善子内親王家侍者を務めた人物である。義朝の下野守補任の根拠となった「故善子内親王未給合爵」は、故隆時の勲功が反映されたものであったのだろう。ただし、隆時は義朝祖父の忠清とは兄弟であるが母を異にする異母兄弟であり、式部官は相当無理をしてその未給分を充てたのだろう。善子内親王の薨去時、義朝はまだ十一歳であり、直接的な接点はなかったと思われる。

 この藤原隆時は、寛治2(1088)年正月19日に「従五位上」に昇叙されているが、当時の肩書は「院判官代」であり(『中右記』寛治二年正月十九日条)白河院司だった。寛治4(1090)年正月16日には、白河院の熊野行幸に「上皇扈従熊野人々」「殿上人十一人」にも「因幡守隆時」として選ばれている(『中右記』寛治四年正月十六日条)。寛治6(1092)年5月21日時点では「但馬守隆時」(『後二条師通記』寛治六年五月廿一日条)とあり、但馬守に移っていたことがわかる。寛治7(1093)年正月3日時点では「従四位上藤隆時院別当」とあり、白河院庁別当となっていた。康和4(1102)年正月23日の除目で「近江隆時」(『殿暦』康和四年正月廿三日条)とみえ、近江守に転じている。康和5(1103)年11月1日の除目で、「因幡守時範与近江守隆時相博」(『中右記』康和五年十一月朔日条)しており、因幡守に再任している。嘉承2(1107)年12月30日、斎宮を退下した善子内親王が「夜半許前斎宮令入洛給、渡御于故隆時朝臣中御門富小路宅也」(『中右記』嘉承二年十二月卅日条)とあり、この時点で隆時はすでに故人となっていて、善子内親王はかつて家職を務めた隆時の邸宅に逗留することとなったとみられる。なお、この「帰京之事沙汰上卿」は本来は源中納言基綱だったが、基綱の姉が急死したために中御門宗忠が務めている。宗忠の屋敷は「彼御所与蓬門近隣也」という(『中右記』嘉承三年十二月三日条)。 

●善子内親王略歴

月日 年齢 出来事 出典
承保4年
(1077)
9月23日 1 民間のみならず宮廷においても疱瘡が猖獗を極める中で誕生。
「今日准后女御道子、有御産気之由風聞、或人云、申時許已平安降誕云々、但不知男女…令人問申女御御産事、被示給云、所承為皇女之由也者」
『水左記』
承保四年九月廿三日条
承暦3年
(1079)
4月28日 3 「今夜又以女二宮善子為親王由被宣下云々、宮則春宮大夫能長卿外孫也」
【家司】
 ・式部大輔藤原実綱朝臣
 ・伊予守藤原定綱朝臣
 ・讃岐守藤原顕綱朝臣
 ・散位源清長朝臣
 ・丹波守顕季朝臣
【御監】
 ・右兵衛尉源成綱
【侍者】
 ・大膳亮高階経教
 ・中宮少進藤原隆時(義朝伯父)
【蔵人】
 ・高階敦遠
 ・源有元
【職事】
 ・右近衛中将家忠
『為房卿記』
承暦三年四月二十八日条
永保元年
(1081)
11月28日 5 内裏麗景殿で御着袴。
【着座】
 ・主上(父:白河天皇)
 ・春宮大夫(正二位権大納言実季 47歳)
 ・左大将(正二位権大納言師通 20歳)
 ・治部卿(正二位中納言経季 72歳)
 ・左大弁(従三位参議実政 63歳)
 ・新宰相中将(正四位下参議公実 29歳)
「此日、今上第三親王名善子、女御道子腹、着袴云々、夜前女御相被入内」(水)
「今日、内府女御之姫宮御着袴也」(帥)
「第二皇女五歳、内大臣外孫、母道子女御、有御着袴」(為)
『水左記』
『帥記』
永保元年十一月二十八日条

『為房卿記』
永保元年十一月二十九日条
応徳3年
(1086)
11月26日 10 父白河天皇が、善子の異母弟・善仁親王に譲位
善仁親王即位(堀河天皇)
『扶桑略記』
応徳三年十一月廿六日条
寛治元年
(1087)
2月11日 11 代替わりにより「今夜斎宮卜定」される。
「善子内親王」の御所は「三條烏丸加賀守家道朝臣宅」であった。
『中右記』
寛治元年二月十一日条
2月20日 「卜定之由、奉幣伊勢」 『中右記』
寛治元年二月廿日条
3月4日 「斎宮渡御鳥羽殿」 『中右記』
寛治元年三月四日条
3月9日 「終日雨下、入夜斎宮還御」 『中右記』
寛治元年三月九条
6月20日 「午剋許、右大臣之六條亭焼亡、斎宮俄還御六條内裏」 『中右記』
寛治元年六月廿日条
6月29日 「斎宮、遷御右大臣久我水閣」 『中右記』
寛治元年六月廿九日条
7月3日 善子内親王、斎宮となって初めて父院と鳥羽殿で対面する。
「斎宮、初為対面院、遷御鳥羽殿」
『中右記』
寛治元年七月三日条
7月13日 善子内親王、父院とともに帰洛する。
「院、斎宮、令帰洛御」
『中右記』
寛治元年七月十三日条
7月19日 善子内親王、父院の御所へ遷御する。
「斎宮、自六條内裏遷御院御所、前駈歩行、依近近也」
『中右記』
寛治元年七月十九日条
9月21日 「斎宮、御禊也」
【前駈】
 ・参議大蔵卿
 ・左近衛中将、右近衛中将
 ・左近将監、右近将監
 ・左兵衛佐、右兵衛佐
 ・左兵衛尉、右兵衛尉
 ・左衛門尉、右衛門尉
 ・右馬允
 ・宮勅別当女房車五両、童女一両、内侍無出車、雑色二人、所衆四人
『中右記』
寛治元年九月廿一日条
10月27日 「院、斎宮、姫宮、遷御鳥羽殿」 『中右記』
寛治元年十月廿七日条
10月30日 「院、斎宮、姫宮還御、有臨時祭定」 『中右記』
寛治元年十月丗日条
寛治2年(1088) 正月2日 12 「於院、斎宮御方有臨時客、先有拝礼、有御遊、民部卿被執拍子」 『中右記』
寛治二年正月二日条
正月13日 「今夜院、斎宮、殿北政所、御法勝寺」 『中右記』
寛治二年正月十三日条
正月19日 主上、院の大炊殿行幸の際に勧賞あり。善子職事に昇叙。
「正四位下 藤隆宗斎宮職事、源顕仲
 ・藤原隆宗:道隆流。平忠盛後室池禅尼の祖父。
 ・源顕仲:村上源氏。源顕房子。
「従五位上 藤隆時院判官代
『中右記』
寛治二年正月十九日条
3月5日 「上皇、斎宮、遷御鳥羽殿新御所人々衣冠 『中右記』
寛治二年三月五日条
5月9日 「院御鳥羽殿、斎宮同御」 『中右記』
寛治二年五月九日条
9月13日 「終日甚雨、斎宮御禊入野宮給前駈大中納言各一人、参議二人、四位四人、五位四人、殿上地下相共也 『中右記』
寛治二年九月十三日条
寛治3年
(1089)
9月15日 13 「有斎宮群行、予勤仕西河、前駈源大納言、治部卿、両宰相中将基忠、保実、四位四人政長、顕仲、宗信、予(宗忠)…、上卿治部卿、弁基綱、有行幸大極殿、長奉送使皇后宮権大夫公実、弁基綱、寮頭敦憲、勅別当周防守敦基朝臣、東河前駈不記置、今夜行幸無音楽」 『中右記』
寛治三年九月十五日条
9月20日 「斎宮参着」 『中右記』
寛治三年九月十廿日条
11月13日 「今夕斎宮相嘗云々、去一日依日蝕延引也」 『中右記』
寛治三年十一月十三日条
康和元年
(1101)
10月20日 23 「被定行善子内親王伊勢斎王、禛子内親王、准三宮勅書事」 『本朝世紀』
康和2年
(1102)
11月9日 24 母の「前女御藤原朝臣道子」が「九條堂丈六阿弥陀像」を奉納し、諸経を納める。 当時の前女御家別当は道子の兄弟「侍従従四位上藤原朝臣宗信」が務めている。 『江都督納言願文集』
嘉承2年
(1107)
7月21日 31 堀河天皇崩御によって退下  
12月15日 「前斎宮帰京事」については、上卿新源中納言基綱卿、左中弁長忠朝臣(善子内親王の叔父)が務めることが決定。 『中右記』
嘉承二年十二月十五日条
12月22日 上卿の基綱が「一日俄姉喪、被辞申之替」で中御門宗忠が「今夜斎宮帰京上京可勤仕由」を命じられる。 『中右記』
嘉承二年十二月二十二日条
12月30日 「夜半許、前斎宮令入洛給、渡御于故隆時朝臣中御門富小路第也、依院仰、右衛門督宗、被奉私車云々網代、此間帰京之事、予為上卿、左中弁長忠為行事」 『中右記』
嘉承二年十二月卅日条
嘉承3年
(1108)
正月3日 32 故隆時亭が「前斎宮御所中御門亭」とされていた。 『中右記』
嘉承三年正月三日条
天治2年
(1125)
正月26日
当時
47 「従三位行大蔵卿藤原朝臣長忠」は「無品善子内親王家」の「別当」現任 『除目抄物』
長承元年
(1133)
12月1日 55 「前斎宮無品善子内親王薨給、年五十六、是白河院之女、三条内大臣之祖と孫、道子女御女也、今年道子善子母子共薨給也、共准后也」 『中右記』
長承元年十二月一日条

 義朝の任国司は義家流源氏としては、対馬守義親以来という大抜擢であった。ただし任国司の結果、義朝が東国と京都を往来することは叶わなくなったため、義朝に代わる人材の派遣が必要となった。在地には義朝嫡子・源太義平がいたものの、為義にとっては他人である。そのため、為義は次男の散位義賢(前帯刀先生)を上野国の私領多胡郡へ下向させ、秩父次郎大夫重隆(父重綱、兄太郎大夫重弘はすでに卒去か)との協調関係のもとで東国の家人支配を築かせんと図ったのだろう。義朝の下野守任官から二、三か月のち、「彼義賢、去る仁平三年夏の頃より、上野国多胡郡に居住したりけるが」(『延慶本平家物語』第三本)とあるように、上野国多胡郡多野郡吉井町多胡に下向させたものとみられる。

 義賢は上野国多胡郡多野郡吉井町多胡へ下向すると、秩父重隆の「養君」(『延慶本平家物語』)となって支援を受ける一方、高山秩父党や多胡周辺の平兒玉党(秩父重綱養子系)を召し出し、さらに碓氷峠を上って信濃国東部の滋野一族とも関係を築くといった勢力拡大策を進めたとみられる。この勢力拡大は、多胡・高山地方と接する上野国八幡庄、新田庄を勢力圏とする新田義重(義賢とは従兄弟)との軋轢を生んだのではなかろうか。

 その後、義賢秩父次郎大夫重隆の菅谷館からわずか八百メートル南東の大蔵の高台比企郡嵐山町大蔵に移った。かつての重綱と義朝の関係と同様の印象であろうか。この義賢の武蔵入部に反発したのが、当時「小代ノ岡東松山市正代「御屋形(現在は正代御霊神社)(『小代宗妙置文』)を構えていた源太義平であった。義平は重綱の妻(乳母御所)を「称御母人」とするほど慕っており、さらに館のある「小代」の領主は乳母御所の出身家である有道氏(小代二郎大夫遠広か)であること、そして遠広の子・小代右馬允行平は重隆の孫娘を娶っていることなど、小代氏と重隆流秩父氏の関係を考えると、乳母御所の実子が重隆である可能性は高く、義平との関係は良好であったろう。

 こうした中で、義賢の急な菅谷入部に危機感を感じたのではなかろうか。義平は久寿2(1155)年8月16日、「前帯刀長源義賢与兄子源義平於武蔵国合戦」(『百錬抄』)し、義賢の殺害に至った。一説には、「悪源太殿、上野国大蔵の館にて多古の先生殿を攻られける時、父の庄司重能、又此旗を差て即攻落し奉り候ぬ」(『源平盛衰記』)とあるように、義平は重隆の甥・畠山重能を伴って率いて大蔵に攻め寄せたという。あくまでも軍記物『源平盛衰記』の伝えるところではあるが、これが源義仲の信濃脱出譚に繋がっていく。

 源太義平の室は新田義重の娘であり、大蔵合戦は義平と新田義重が組んだ結果であるのかもしれない。余談だが「悪源太義平女」と甲斐源氏石和五郎信光との間に生まれた小五郎信政「新田大炊助義重上西養子」(『諸家系図纂』)とあり、曾祖父の義重の養子になったことがわかる。

 源頼義―+―源義光―――源義清――――逸見清光――武田信義――石和信光
(伊予守)|(刑部少輔)(三郎)   (源太)  (武田太郎)(五郎)
     |                          ∥
     +―源義家―+―源義国――――新田義重――女子    ∥―――――武田信政
      (陸奥守)|(式部丞)  (内舎人)  ∥―――――女子   (若狭守)
           |              ∥
           +―源為義――+―源義朝―――源義平
            (陸奥判官)|(下野守) (源太)
                  |
                  +―源義賢
                   (前帯刀先生)

 秩父重隆はこのとき居館の菅谷館にいたと思われるが、「為悪源太被誅畢」(『千葉上総系図』「続群書類従」)という系譜伝がみられる。ただし、この合戦ののち、

(1)勝者側の畠山庄司重能が留守所惣検校職についた記録はない。
(2)重隆の孫・河越太郎重頼が惣検校職をつつがなく継承している。
(3)国衙が義平を追捕せず、朝廷からも官符が出されていない。
(4)重能の子・畠山重忠と重隆の孫・河越重頼の間に協力関係がみられる。

 といった状況証拠を考慮すると、秩父重隆は実際にはこの大蔵合戦で討たれず、生存していた可能性が高いだろう。乱が起こった際の武蔵守は右兵衛佐信頼(『公卿補任』)であるが、その留守所を預かる留守所惣検校重隆を討つことは、すなわち叛乱となろう。ところが、朝廷及び国衙が動いた形跡はなく、法に厳しい左府頼長がかつての被官・義賢の死を悼むのみで批判を加えていないことが国衙機構に関わりのない戦闘行為であったことを物語る。つまり、重隆殺害はなかったのであろう。義朝が信頼と組んで義平の行動を黙認したという説があるが、そもそも国衙機構と関わりもなく、かつての相模国での愛甲内記の抗争のように多くの人々が動いたわけでもない抗争で、さらに無官の地下人に過ぎない義平・義賢(義賢は本官を持たず、義朝の叙爵時期も考えると叙爵していないだろう)の地方闘濫に朝廷や国衙が動くことは当然ない。

 ただし、義賢が討たれたことを知った在京の義賢義弟・前左衛門尉頼賢「義賢与頼賢、成父子之約、而義賢為義朝子見殺」により「頼賢為報其仇」のため、東国へ向けて「去月(9月)逃信濃国」している。義平の父・下野守義朝(頼賢異母兄)は在京であったが、頼賢が義朝と対立したかは定かではない。しかし頼賢が東国に下向するに及び信濃国で「遂侵凌院御荘、故使義朝討之」(『台記』久寿二年十月十三日条)とあるように、後白河院の逆鱗に触れて義朝が追討使を命じられ、「下野守源義朝、承 院宣、為討前左衛門尉源頼賢、下向信濃国」(『台記』久寿二年十月十三日条)という。この院領がどこかは不明だが、信濃国内で東山道沿いであろう。

 結局、頼賢はその後も生存していることから、追討は免じられ、頼賢は京都に帰還したのだろう。

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源義賢(????-1155)

 源義賢は六條判官源為義の次男で、源義朝の異母弟にあたる。母は六条大夫重俊娘

 義賢はもともと父・源為義のもと京都で生まれ育った人物であり、保延5(1139)年8月17日、東宮となった體仁親王(のちの近衛天皇)の春宮坊帯刀先生となる。兄・源義朝は保安4(1123)年の生まれで当時十七歳であることから、義賢はさらに年少で任官したこととなる。この年には義朝はすでに関東へ下っていたとみられ、次弟の義賢がこれに充てられたのだろう。

 なお、體仁親王東宮傅内大臣藤原頼長で、義賢がその後主君として仕えることとなる人物だが、家政機関の春宮坊との関係はなく、この時点で両者に関わりがあったわけではないだろう。しかし、当時の為義は、本人の過失や郎従の濫行などにより院の信頼を失っており、摂関家に急速に近づいている。そのために院近臣だった故藤原忠清の娘を母とする義朝を「廃嫡」して東国に移し、義賢を嫡男としたとする説もみられる。しかし、義朝は東国に下向して、秩父氏を中心に下総・上総平氏、相模鎌倉氏や中村党ら東国武士等の再組織化を図り、それに伴う私領強奪、寄進などを行い、数年で京都へ戻っており(義朝の子の誕生年を考えると、京都と関東を往復していることがわかり、これも為義からの指示を受けた東国家人層の組織化の一旦であろう)、義朝が関東へ下ったのはあきらかに為義による東国経営の一環であったと考えられる。

 こうした中で、帯刀先生に任じられた翌年の保延6(1140)年には、義賢は「瀧口源備、宮道惟則いさかひ起して備ころされにけり、帯刀先生源義賢、惟則をからめて後に義賢犯人と心をあわせたるよし、さた出来て、義賢帯刀の長をとられにけり」(『古今著聞集』巻十五 闘争第廿四)とあり、義賢が瀧口武者の源備殺害に関与していたことが判明し、わずか一年足らずで春宮坊帯刀先生を罷免された。

 三年後の康治2(1143)年6月30日、父・為義が内府頼長の家人となる(『台記』康治二年六月三十日条)に及び、義賢も頼長家人になったとみられる。同年中には、能登国能登庄の預所・法成寺法橋信慶(信慶が開発領主から寄進されたのち頼長に寄進したのだろう)が罪を犯したため「預源義賢了」となっている(『台記』康治二年十一月廿五日条)。ところが、これもまた久安3(1147)年6月4日に預所職を罷免され、秦公春(義賢と同じく頼長家人)に替えられてしまう。これは義賢が「不済新物也年貢」だったことが原因であり、おそらく義賢はこれにより頼長と「不快」となっている(『台記』久安四年正月五日条)

 翌久安4(1148)年正月5日までの義賢在京は確認できるものの、その後は姿がふっつりと途絶える。この頃に周防守藤原宗季(左少将隆宗弟)の娘を娶って、嫡子・仲家(義賢死後に源三位頼政入道の猶子となり、八条院蔵人となる。以仁王の乱で戦死)を儲けている。

                源義家         +―源義重
               (陸奥守)        |(新田氏祖)
                ∥           |
                ∥――――――源義国――+―源義康
 藤原実綱―+―藤粗有綱――――娘     (加賀介)  (足利氏祖)
(文章博士)|(文章博士) 
      |                平忠盛  +―平家盛
      |               (播磨守) |(右馬頭)
      |                ∥    |
      |                ∥――――+―平頼盛
      +―藤原有信――――娘      ∥     (権大納言)
       (右中弁)    ∥――――――藤原宗子
                ∥     (池禅尼)
 藤原良基―+―藤原隆宗――+―藤原宗兼
(太宰大弐)|(左近衛少将)|(少納言)
      |       |
      |       +―藤原宗子
      |        (崇徳院乳母)
      |         ∥――――――藤原家成
      |         ∥     (中納言)
      |         藤原家保
      |        (参議)
      |
      +―藤原宗季――+―娘
       (周防守)  | ∥――――――源仲家
              | ∥     (八条院蔵人)
              | 源義賢
              |(帯刀先生)
              |
              +―女子
                ∥――――――藤原高業
                藤原清高  (肥後権守)
               (上総介)

 そして「彼義賢、去る仁平三年夏の頃より、上野国多胡郡に居住したりけるが」(『延慶本平家物語』第三本)と見えるように、仁平3(1153)年夏ごろ、上野国多胡郡(多野郡吉井町多胡)に下向したのだろう。おそらくこれも為義の指示を受けたもので、秩父平氏及び兒玉党との連携維持及び信濃国への東山道に奥平丘陵地を挟んで東西に接する要衝を抑えるためであったろう。義賢が上野国へ下向するきっかけは、その五か月ほど前の仁平3(1153)年3月28日、兄の源義朝が「下野守」に任官(同時叙爵)したことであろう(『兵範記』仁平三年三月廿八日条)。これは義親流源氏としては対馬守義親以来の国司という抜擢であった。

 義賢は多胡郡を中心に、高山三郎重遠を祖とする秩父高山一党や上野多胡郡周辺に進出した兒玉党(倉賀野氏、小幡氏、新屋氏、片山氏等)を支配下に収めていたと思われるが、倉賀野氏ら上野兒玉党はいずれも秩父重綱養子となった平太行重、平四郎行高の子であった。これらのことから、おそらく多胡郡にあった当時から重隆と義賢は結びついていたと考えられよう。また、「木曾専一者、樋口次郎兼光」(『吾妻鏡』寿永三年正月廿一日条)「此兼光者、与武蔵国兒玉之輩為親昵之間、彼等募勲功之賞、可賜兼光命之旨、申請之處、源九郎主雖被奏聞事由、依罪科不軽、遂以無有免許」(『吾妻鏡』寿永三年二月二日条)とあるように、武蔵児玉党と昵懇の間柄で、児玉党の人々は兼光の助命のために自らの勲功を以って宛てると申し出るほど「親昵」の関係にあったことがわかる。義賢が京都から上野国に下向した際に、京官吏家出身と思われる中原三郎兼遠(義賢郎従か)も義賢に随従して上野国に住し、児玉党と好誼を深め、その嫡男兼光(まだ少年であったろう)も児玉党の若者と交流していたと考えられる。さらに義仲の郎従を見る限り、信濃国東部の小県郡の望月氏、海野氏、禰津氏ら滋野氏をも勢力下に収めていたと思われる。信濃国へと繋がる東山道は多胡郡の北の奥平丘陵の向こう側にある八幡庄内を通過していたが、多胡郡はこの迂回する東山道を東西に接する地でもあった。一方で、東山道が通る八幡庄を支配していたのは、娘を「小代ノ岡東松山市正代に居住する源太義平に嫁がせていた内舎人義重(新田義重)であり、勢力圏も近接する義賢と義重は、互いに対立関係にあったと推測できる

 重隆は仁平3(1153)年夏ごろに多胡郡に下った義賢を「養君」として迎え、のちには義賢をみずからの居館・男衾郡菅谷館とわずか数百メートルの高台に位置する男衾郡大蔵比企郡嵐山町大蔵に屋形を造営して住まわせたのだろう。ところが、二年後の久寿2(1155)年8月16日、「於関東、前帯刀先生源義賢」(『一代要記』)と甥の「鎌倉悪源太義平」(『吾妻鏡』治承四年九月七日条)が合戦し、「義賢被斬了」(『一代要記』)という。そして8月27日に主君の左大臣頼長のもとに「或人、源義賢、為其兄下野守義朝之子、於武蔵国見殺」(『台記』久寿二年八月廿七日条)という一報が届けられている。「近日風聞云、去十六日、前帯刀長源義賢与兄子源義平於武蔵国合戦」とも伝えられている(『百錬抄』)

 義賢が討たれた際には、「于時義仲為三歳嬰児也」(『吾妻鏡』治承四年九月七日条)と、まだ赤子の義仲(義賢庶子・駒王)がおり、「乳母夫中三権守兼遠懐之、遁于信濃国木曾、令養育之」とあるように、義賢と京都から同道してきた中原権守兼遠(義仲乳母夫)に抱かれて信濃国木曾郡へ遁れている(『吾妻鏡』治承四年九月七日条)。なお、駒王が木曽へ落ち延びていく謂れについては、軍記物ながら『源平盛衰記』に記されているが、その史実性は低いか。『源平盛衰記』によれば、戦いの後、義平は上京することになったため、重能に義賢の二歳の遺児・駒王について、

大蔵館
大蔵館跡

「駒王をも尋出して必害すべし、生残りては後悪るべし」

と、殺害を命じている。重能はこれを了承するが、二歳の幼児を手にかけることは不憫でならず、知己の斎藤別当実盛が武蔵国へ戻ったことを聞いた重能は、匿っていた駒王丸とその母を実盛に預けた。実盛はこのまま関東に置くことは危険だと思い立ち、信濃国木曾郡の中三権守兼遠へ預けた(『源平盛衰記』)というものである。

 そもそも、中三権守兼遠は義仲乳母夫であることから、義賢とともに京都から上野国へ来訪し、そこで生まれた義仲の傍にいたことは間違いない。兼遠の長男・樋口次郎兼光も、後年、上野国児玉党の人々と「親昵」の間柄にあったことがわかり、その関係は幼少期に兼遠とともに上野国に来ていたことに由来するのであろう。『吾妻鏡』においても「乳母夫中三権守兼遠懐之、遁于信濃国木曾」と明確に記載されており、上野国から信濃国木曾郡へ義仲を連れて行ったのは、中原権守兼遠一族であったのだろう。そこに重能や長井齋藤別当実盛の介在があったのかは定かではない。なお齋藤実盛と木曾義仲の逸話については『源平盛衰記』『平家物語』にもみられるが、『吾妻鏡』には伝わっていない。

 義賢の嫡男・仲家は在京だったが、「義賢討れて後、孤子也けるを是をも三位入道の養ひたりける」(『源平盛衰記』)とあるように、義賢死後に摂津源氏の源頼政が猶子としており、彼はのちに八条院蔵人となっている。そして、治承4(1180)年5月に以仁王・源頼政が平清盛入道と宗盛の父子を討つために挙兵(以仁王の乱)した際には、頼政入道に従って出陣し、宇治平等院の戦いで嫡子・蔵人太郎仲光とともに討死にした。なお、この戦いでは千葉介常胤の子・園城寺の律静房日胤も戦死している。

 なお、義賢が上野国へ下向する五か月ほど前の仁平3(1153)年3月28日、兄の源義朝「下野守」に任官し、同時に従五位下に叙されている(『兵範記』仁平三年三月廿八日条)。これは義親流源氏としては、対馬守義親以来の受領という大抜擢であった。

 保元元(1156)年7月の「保元の乱」の際には父為義と「年比コノ父ノ中ヨカラズ、子細ドモ事長シ」(『愚管抄』巻四)とみえ、なにやら説明すると長い理由があるが、長いこと関係は良くなかったという。義朝が関東で引き起こした事件や、為義が秩父党との紐帯として遣わした義賢が義朝嫡子義平によって殺害された事件などにも原因がある可能性もあろう。さらに「為義ハ新院ニマイリテ申ケルヤウハ、ムゲニ無勢ニ候、郎従ハ皆義朝ニツキ候テ内裏ニ候」(『愚管抄』巻四)とあり、義朝の郎従らへの人望や影響力は為義を凌いでいたことがうかがえる。


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