(????-1270?)
葛西氏五代。父は葛西伯耆前司清経。通称は三郎。官途は左衛門尉、壱岐守か。
建長8(1256)年6月29日、放生会供奉人決定について「伯耆三郎左衛門尉」「同三郎」が見えるが(『吾妻鏡』)、「伯耆三郎左衛門尉」は葛西伯耆前司清経、「同三郎」は宗清と思われる。これが宗清の初見である。
そして、建治元(1275)年5月の『六条八幡宮造営用途注文』に記載された「葛西伯耆前司跡」は宗清ら清経の地頭職を継承した者のことである(『六条八幡宮造営用途注文』)。父の葛西清経は、文永8(1271)年12月10日に香取社遷宮が成ったのち、平泉白山社との相論があった建治3(1277)年までの間に奥州へ移住したと推測される。建治元(1275)年5月時点では、清経はすでに宗清に惣領職を譲っていたのだろう。
●六条八幡宮造営用途注文(『六条八幡宮造営用途注文』:『北区史』資料編 古代中世1第二編)
※特に記載のないものは「鎌倉中」の家格である。
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文字色の■は北条一門、■は葛西氏、■は千葉一族を表している。この負担は、基本的にはその御家人の所領規模に比例しており、御家人の経済力をうかがうことができる。鎌倉家執権職事家である北条一族や鎌倉家の門葉である足利家の負担が抜きん出ているのは別として、鎌倉家郎従レベルで見ると、小山氏の百二十貫、千葉介・武田氏・小笠原氏の百貫は非常に多い。葛西氏も葛西伯耆前司跡と葛西伊豆前司の両名で百十貫、葛西一族全体では百五十五貫を負担しており、葛西氏の経済力の大きさがうかがえる。
また、上の表は家格は表していないが、特に記載のないものは「鎌倉中」という家格の高い御家人である。また、鎌倉中での家格のランクでは、得宗家である「相模守(北条時宗)」をトップとして、「千葉介」が十五位(国衙在庁出身ではトップ)、「小山下野入道跡」が十七位(在庁出身では二位)、「葛西伯耆前司跡」が二十三位、「葛西伊豆前司」が四十位、「葛西壱岐七郎左衛門入道跡」が四十一位、「葛西河内前司跡」が四十二位、「葛西三郎太郎跡」が四十三位となっている。
弘安7(1284)年12月9日、新日吉の小五月会で七番の流鏑馬が行われたとき、三番手を「葛西三郎平宗清」が務め、射手として「富沢三郎平秀行」が務めている。なお、五番の「東六郎左衛門尉平行氏法師」は千葉介常胤六男・東六郎大夫胤頼の子孫で、美濃国郡上郡の地頭職を有した人物である。射手となった「遠藤左衛門三郎盛氏」は東氏の根本被官遠藤氏とみられ、渡辺党遠藤氏(文覚:遠藤盛遠を輩出した遠藤氏であろう)の庶家と思われる。
●弘安7(1284)年12月9日新日吉小五月会流鏑馬交名(『勘仲記』増補史料大成所収)
射手 | 的立 | ||
一番 | 武蔵守平時村 | 伊賀右衛門六郎藤原光綱 | 福田寺太郎兵衛尉藤原行實 |
二番 | 備後民部大夫三善政康 | 牧右衛門四郎藤原政能 | |
三番 | 葛西三郎平宗清 | 富澤三郎平秀行 | |
四番 | 肥後民部大夫平行定法師 法名寂圓 | 宮地彦四郎清原行房 | |
五番 | 東六郎左衛門尉平行氏法師 法名素道 | 遠藤左衛門三郎盛氏 | |
六番 | 頓宮肥後守藤原盛氏法師 法名道観 | 奥野二郎太郎源景忠 | |
七番 | 後藤筑後前司基頼法師 法名寂基 | 舎弟壱岐十郎基長 |
父・清経は『龍源寺過去帳』では弘安10(1287)年11月7日に没したとあり、その翌年の正応元(1288)年7月9日付の『関東下知状』の中に「葛西三郎左衛門尉宗清」「惣領宗清代」という名前が見える。これは平泉毛越寺・中尊寺と葛西宗清が争論を交えたことの裁決をした下知状で、宗清が「惣領」であることがわかる。このときの裁決によって両者の問題は一応の解決を見たが、永仁2(1294)年ごろ、平泉中尊寺の衆徒らが「寺領山野」の事について宗清を幕府に訴えた。そして12月25日、幕府は「壱岐守」の代官・明資の咎として「壱岐守」に濫妨の防止を命じている。この七年前に「葛西三郎左衛門尉宗清」が「惣領」であるので、おそらくこの「壱岐守」は宗清のことであろうと推測される。
さらに嘉元3(1305)年、中尊寺の頼潤(助律師)をはじめとする寺院群と宗清が相論している。寺側は「宗清奸曲」として、寺領の押領など数々の罪状を論い、「重科」に処せられることを望んだ(『中尊寺文書』)。このとき、宗清の代官として「二江入道承信」が見える。「二江」という名字は現在の東京都江戸川区二之江、葛西荘の南に位置しており、葛西氏の一族であったと思われる人物である。彼は某年12月16日、「左衛門尉宗清」の代理として「香取社二鳥居」のことについて「香取社大禰宜」へ派遣された「二江入道承信」と同一人物(『香取文書 大禰宜家文書』)であり、さらに嘉元3年の中尊寺文書に「二江入道」が「折節在国」とあることから、二江入道承信(もしくは宗清も)は、下総国と陸奥国を往復していたと考えられる。
●二江入道について
年代 | 名 | 所在地 | 立場 | 文書 |
嘉元3(1305)年 | 二江入道承信 | 陸奥国 | 惣領宗清の代官 | 『中尊寺文書』 |
某年12月16日 | 二江入道承信 | 下総国 | 左衛門尉宗清の代官として香取社大禰宜へ使者 | 『香取文書 大禰宜家文書』 |
二江入道承信は宗清を支えていた人物だったことがうかがえる。『香取文書』に見える「左衛門尉宗清」が二鳥居を担当したのは、世代等から考えて、弘安3(1280)年から正応6(1293)年にかけて千葉介胤宗を奉行として行った遷宮の際であろうと推測される。
その後の宗清の活動は見られず、没年も不明。
宗清の活動時期は『中尊寺文書』から読みとると、弘安8(1285)年から嘉元3(1305)年まで確認できるため、伝承として伝わっている千葉氏から葛西家を継いだという「葛西清信」の存在が否定される。
ただし、伝承上の清信とまったく同年月日に亡くなったことが系譜に記載されている「葛西伊豆守清宗入道明蓮」は、香取神宮の文書や京都の寺社造営など他の文献にも現れているため、実在の人物である(葛西伊豆守のページ)。左衛門尉宗清と伊豆守清宗はまったく同時代に生きた葛西一族となるが、比較的信頼の置ける仙台藩葛西家と同系統の系譜『登米龍源寺葛西氏系譜』などによれば、伊豆守清宗は葛西清経の子として記されている。つまり、宗清と清宗は兄弟であり、千葉新介宗胤・千葉介胤宗や千葉介貞胤・千葉胤貞と同様に、宗清・清宗両名は得宗からの偏諱を受けているのかもしれない。
●千葉氏・北条氏・葛西氏の系譜
千葉介頼胤―+―千葉介宗胤――――千田胤貞
↑ |(千葉新介)(大隈守)
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| +―千葉介胤宗――――千葉介貞胤
| (千葉介) (千葉介)
| ↑ ↑
北条時頼――――北条時宗―――――北条貞時
↓
葛西清経――+―葛西宗清
|(三郎左衛門尉)
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+―葛西清宗
(伊豆守)
●葛西氏想像系図
⇒葛西清重―+―清親―――+―清経―――――――+―宗清 +―時員
(壱岐守) |(伯耆守) |(伯耆左衛門尉三郎)|(三郎左衛門尉) |(伊豆太郎左衛門尉)
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| +―清時 +―清宗――――――+―清貞
| |(伯耆左衛門尉四郎) (伊豆守) |(伊豆三郎兵衛尉)
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| +―光清―――――――+―■■ +―■■
| |(伯耆四郎左衛門尉)|(四郎太郎) (伊豆四郎入道)
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| +―■■ +―清氏――――――――重盛
| (五郎) (四郎左衛門尉五郎)(彦五郎)
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+―時清
|(壱岐小三郎左衛門尉)
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+―重元
|(四郎)
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+―■■
|(壱岐五郎左衛門尉)
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+―朝清―――――左衛門次郎
|(六郎左衛門尉)
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+―時重
|(壱岐七郎左衛門尉)
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+―清秀
|(八郎左衛門尉)
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+―清員
|(壱岐新左衛門尉)
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+―重村―――――友村―――――――+―平氏女
(河内守) (河内四郎左衛門尉)|(四郎左衛門尉嫡女)
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+―清友
(丸子八郎)