平貞盛

伊勢平氏

●伊勢平氏略系譜

 平高望―+―平国香――+―平貞盛――平維衡――+―平正能――+―平貞弘―+―平正弘―+―平宗能
(上総介)|(常陸大掾)|(陸奥守)(左衛門尉)|(刑部少輔)|(下野守)|     |(検非違使)
     |      |           |      |     |     |
     |      +―平繁盛       |      +―平維正 +―平正綱 +―平度弘―――平範頼
     |       (秋田城介)     |      |     |(勾当) |
     |                  |      |     |     |      【歌人】
     |                  |      +―平正俊 +―平敦盛 +―平有盛―――覚盛
     |                  |       (大学助)|(薩摩守) (修理亮) (大夫公)
     |                  |            |      
     |                  |            +―平兼光
     |                  |             (内匠助)
     |                  |
     |                  +―平正輔――+―平正仲
     |                  |(安房守) |(左京進)
     |                  |      |
     |                  |      +―平成仲
     |                  |      |(縫殿允)
     |                  |      |
     |                  |      +―平正基
     |                  |       (安房三郎)
     |                  |
     |                  +―平正度――+―平維盛―+―平貞度
     |                  |(常陸介) |(駿河守)|(筑前守)
     |                  |      |     |
     |                  |      |     +―平宗盛―――平盛信
     |                  |      |     |(下総守) (掃部大夫)
     |                  |      |     |
     |                  |      |     +―平盛忠
     |                  |      |     |(民部大夫)
     |                  |      |     |
     |                  |      |     +―平盛基―――平盛時
     |                  |      |      (信濃守) (伊予守)
     |                  |      |
     |                  |      |
     |                  |      +―平貞季―+―平季範―+―平貞保―――平盛房
     |                  |      |(駿河守)|(筑後守)|(庄田太郎)(斎院次官)
     |                  |      |     |     |      
     |                  |      |     |     +―平季盛
     |                  |      |     |     |(主殿助)
     |                  |      |     |     |
     |                  |      |     |     +―平範仲―――平季弘
     |                  |      |     |      (山城守) (筑前守)
     |                  |      |     |
     |                  |      |     +―平正季―――平範季―――平季房―+―平季宗
     |                  |      |     |(右京進) (進平太) (三郎) |(兵衛尉)
     |                  |      |     |                 |
     |                  |      |     +―平兼季―+―平季盛       +―平家貞
     |                  |      |      (上総介)|(平先生)       (筑前守)
     |                  |      |           |
     |                  |      |           +―平貞兼
     |                  |      |           |(兵衛尉)
     |                  |      |           |
     |                  |      |           +―平盛兼―――平信兼―――平兼高
     |                  |      |            (大夫尉) (和泉守) (山木判官)
     |                  |      |           
     |                  |      +―平季衡―+―平季遠―――平盛良
     |                  |      |(下総守)|(相模守) (大夫尉)
     |                  |      |     |
     |                  |      |     +―平盛光―+―平盛行
     |                  |      |     |(帯刀長)|(兵衛尉)
     |                  |      |     |     |
     |                  |      |     |     +―平貞光
     |                  |      |     |      (木工大夫)
     |                  |      |     |
     |                  |      |     +―平盛国―――平盛康―――平盛範
     |                  |      |      (大夫尉) (伊予守) (兵衛尉)
     |                  |      |
     |                  |      +―平貞衡―――平貞清―――平清綱―――平維綱
     |                  |      |(右衛門尉)(安津三郎)(鷲尾二郎)(右衛門尉)
     |                  |      |
     |                  |      +―平正衡―――平正盛―――平忠盛―――平清盛―――平宗盛
     |                  |       (出羽守) (讃岐守) (刑部卿) (太政大臣)(内大臣)
     |                  |
     |                  +―平正済――+―平正家―――平資盛―――藤原敦盛――藤原有盛
     |                   (出羽守) |(駿河守) (大学助) (薩摩守) (図書助)
     |                         |
     |                         +―平貞弘―――平正弘―――平家弘―――平頼弘
     |                          (下野守) (大夫尉) (大夫尉) (左衛門尉)
     |                   
     +―平良持――――平将門
     |(鎮守府将軍)(新皇)
     |
     +―平良兼――――平公雅
     |(下総介)  (下総権少掾)
     |
     +―平良文――――平忠頼
     |(村岡五郎) (陸奥介)
     |
     +―平良正
      (水守六郎)

 

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平貞盛 (???-989)

 常陸大掾平国香の長男。母は下野大掾藤原村雄女(『系図纂要』)。妻は関口貞信女(『系図纂要』)源護女? 通称は平太(『系図纂要』)。官位は正五位上、従四位下(『将門記』『系図纂要』『尊卑分脈』)。官職は左馬允、常陸大掾、鎮守府将軍、丹波守、陸奥守(『将門記』『系図纂要』『尊卑分脈』『今昔物語集』)。通称は平将軍(『尊卑分脈』)

 貞盛は幼いころは国府に程近い真壁郡石田庄内茨城県筑西市東石田)の父・平国香の屋敷にあったと思われるが、元服後、比較的早いうちから上洛して朝廷に仕え、左馬寮に出仕して左馬允に任官していた。

■父・平国香の死

 貞盛が京都で武官職に励んでいた承平5(935)2月、父・平国香は岳父である前常陸大掾源護とともに、平真樹に懇望された平将門(貞盛の従兄弟)と合戦した(『将門合戦状』)

 平高望―+――――――――――――――――――――平国香――――平貞盛
(上総介)|                   (鎮守府将軍)(鎮守府将軍)
     |                    ‖      ‖
     +―――――――平良持          ‖      ‖
     |      (鎮守府将軍)       ‖      ‖
     |        ‖――――――平将門  ‖      ‖
     | 県犬養春枝?―娘           ‖      ‖
     |                    ‖      ‖
     | 源護―――+―――――――――――――娘      ‖ 
     |(常陸大掾)|                    ‖
     |      +――――――――――――――――――――娘
     |      |
     |      +―――――――――娘
     |      |         ‖
     |      +―――――娘   ‖
     |      |     ‖   ‖
     |      +―扶   ‖   ‖
     |      |     ‖   ‖
     |      |     ‖   ‖
     |      +―隆   ‖   ‖
     |      |     ‖   ‖
     |      |     ‖   ‖
     |      +―繁   ‖   ‖
     |            ‖   ‖
     +―――――――――――平良兼  ‖
     |          (下総介) ‖
     |                ‖
     +―平良文            ‖
     |(村岡五郎)          ‖
     |                ‖
     +―――――――――――――――平良正
                    (水守六郎)

 2月2日、護の子である源扶、源隆、源繁らは「野本」に陣を張って将門を待ち受けたが、順風の将門側に散々に矢を射られて大敗。「護は常に息子扶、隆、繁等が将門の為に害さるるの由を嘆く」(『将門記』)とあり、おそらくこの戦いで源氏兄弟は戦死したのだろう。

 2月4日、将門勢は源氏方の「筑波、真壁、新治三箇郡の伴類の舍宅五百余家」をも焼き払った。さらに「野本・石田・大串・取木等の宅より始めて、与力の人々の小宅に至るまで、皆悉く焼き巡」った。この「野本・石田・大串・取木」の比定地は、

・野本(不明)
・石田(茨城県筑西市東石田
・大串(茨城県下妻市大串
・取木(不明)

であり、源護の主な拠点がこの四か所だったのだろう。とくに「石田」は国香の屋形があった地であり、「国香の舎宅、皆悉く殄び滅しぬ、其身も死去しぬる者なり」と、国香はこの戦乱の中で亡くなった。この戦いを見ると、源護と平真樹の争いに国香と将門が巻き込まれた感があり、国香が積極的に戦いに参加した形跡が見られない。とくに貞盛の述懐として、

「未だ身与力せず、偏に其の縁坐に編らる」

とあることから(『将門記』)、国香は「前大掾源護并に其諸子等、皆同党之者」として巻き添えになった可能性が高い。

 貞盛は国香敗死の急報を受けた当時、京都で左馬允の官に就いていたが、急ぎ左馬寮に休暇願を提出して常陸国へ帰国した。ここで貞盛は、

「つらつら案内を検するに、凡そ将門は本意の敵に非ず、斯れ源氏の縁坐なり」

と、国香の死は将門の直接的な攻撃によるものではなく、源護と将門(または平真樹)の戦いの中で起こった事故と判断した。さらに貞盛は「苟くも貞盛は守器の職に在り、須く官都に帰りて官勇を増」すため、早々に帰京しなければならず、

「孀母堂に在り、子に非ずは誰か養はむ、田地数有り、我に非ずは誰か領せむ、将門に睦びて芳操を花夷に通じ、比翼を国家に流へむ。仍って具に此の由を挙げ、慇に斯く可」

と、将門との間を「慇」にすべきだと、将門と「乃ち対面」しようとした。しかし、国香の異母弟・平良正が「偏に外縁の愁ひに就き、内親の道を卒忘」して、反将門の急先鋒として介入してきたため、対面は果たせず、坂東は再び戦乱の巷に巻き込まれることとなる(『将門記』)

■将門との戦い一(下野国府での敗戦)

 貞盛の父・国香には、平良持、平良兼、平良文、平良正らの弟がいたが、このうち良持(平将門の父)はすでに亡く、良文武蔵国村岡郷熊谷市村岡)にあって、国香らとは一線を画していたようだ。一方、良兼、良正は国香と同様に、源護の娘を娶っていて、互いに密接な関係があったと思われる。良兼は下総国の国司「下総介」であり「上総国武射郡」の館山武郡横芝光町屋形)に在住していた。そして、良正は「故上総介高望王之妾子」とあり、おそらく国香や良持、良兼とも母を異にする兄弟と思われるが、国香の屋敷から南へわずか五キロの筑波郡水守郷つくば市水守)に住んでいた。彼も国香同様、護の女婿としてその勢力下にあり、源氏の軍事力の一端を担っていたのだろう。良正は国香亡きあとも、ひとり岳父・護の側に立って将門を討とうと常陸国を走り回った。「良正、偏に外縁の愁に就て、卒かに内親の道を忘れぬ」と、完全に婚家に取り込まれていたことがうかがえる。これは、国香や良正が常陸国に地盤を持っていなかった当時、受領として確固たる地盤と勢力を持っていた源氏を外護者としていたと思われることから、彼らが源氏の側に加担するのは当然の成り行きであったと思われる。

 10月21日、良正と将門は常陸国新治郡川曲村(結城郡八千代町周辺?)で合戦し、良正は敗北した。将門は深追いせず、翌22日、本拠地の豊田郡鎌輪之宿(千代川村鎌庭周辺)へ帰還する。敗れた良正は、「大兄之介(良兼)」への援軍を依頼し、良兼はこれを受け入れた(『将門記』)

 一方、常陸前大掾・源護は朝廷に平将門、平真樹の濫妨を訴え出た。これに朝廷は12月29日、将門・真樹に対して召喚の太政官符を発した。この太政官符は翌年9月7日に坂東の国庁に届けられているが、官符の発行から8か月もの間届けられなかった理由は不明。

 良正の依頼を受けた良兼は兵を集め、承平6(936)年6月26日、常陸を目ざして出陣し、上総国武射郡の小道を通り、下総国香取郡神前香取郡神崎町)に集結。神前の津から船出して対岸の常陸国信太郡江前津稲敷市江戸崎)へ渡り、翌27日早朝に良正の水守営所つくば市水守)に着陣した。良兼が水守営所に入ると、館主・良正が面会して将門について相談していたところに、貞盛も「疇昔の志有るに依」って良兼と対面した。「疇昔の志」がただ単に「懐旧」のために対面を求めるのであれば、来客中でしかも早朝というタイミングは非常に不自然であり、この「疇昔の志」は、将門と和睦した上で上洛し、朝廷に仕えるという従来からの願いを指すものではなかろうか。

 この貞盛の願いを聞いた良兼は、

「聞くが如くは、我が寄人と将門等は慇懃なりてへり、斯らば其の兵に非ざる者なり、兵は名を以て尤も先と為す、何ぞ若干の財物を虜領せしめ、若干の親類を殺害せしめて、其の敵に媚ぶ可や、今須く与に合力せらるべし、将に是非を定めむ」

と言った。貞盛はこの良兼の甘言に、本意ではなかったが、暗に良兼らの同類となった。良兼はその後、下野国に大軍を率いて進軍した。

 この良兼の動きを知った将門が事実を確認するために、百騎ばかりで下野国の境まで進んできたが、良兼の陣容を見て戦うことなく引き上げようとした。しかし、良兼勢は疲労の見える将門勢を見て戦いを挑んでしまった。将門は少数だったものの戦いに練れた軍勢を率いている。良兼勢は先手を打った将門の歩兵に八十騎あまりの騎兵が忽ち射殺され、恐れ戦いた良兼は逃げ出すも、将門の執拗な追撃を受け、為す術なく下野国府に逃げ込んだ。

 しかし、国府を取り囲んだ将門は、

「凡そ常夜の敵に在らずと雖も、脉を尋ぬれば疎からず、氏を建つれば骨肉なり、云ふ所、夫婦は親しくして瓦に等し、親戚は疎くして葦に喩ふ、若し終に殺害を致さば、若しくは物の譏り遠近に在らむか、仍て彼の介独りの許を逃がさむ」

と、国庁の西方の陣を開いた。良兼はここから脱出し、さらに良兼に従っていた兵も命を助けられた。貞盛がこれら一連の戦いに参加していたかは定かではない。将門は良兼らを逃がすと、彼らの横暴を国庁の日記に記載させて帰国した。

 9月7日、源護の告訴を受けて出された平将門・平真樹召喚の太政官符が、左近衛番長正六位上英保純行、英保氏立、宇自加支興等によって、常陸・下野・下総などの国庁へ届けられた。これを受けて、10月17日、将門は「告人(源護)」が上洛するより前に急ぎ上洛を果たし、つぶさに事の次第を奏上。検非違使での審理でも罪は軽いとされ、却って武名を京都に広めるに至る。さらに、翌承平7(937)年4月7日に恩詔によって罪を許され、5月11日、京都を出立して下総国へ帰った。

■将門との戦い二(平氏一族の壊滅)

 しかし、将門が帰国したことを知った良兼は、ふたたび将門を討つべく兵を挙げた。8月6日には、一族の祖「故上総介高茂王」と将門の父「故陸奥将軍平良茂」の神像(画像)を陣前に押し出して戦いを挑み、怯む将門を破って将門の本拠地の一つ、下総国豊田郡栗栖院常羽御厨に乱入して焼き討ちする。なお、この戦いに貞盛が参加していた記述はない。

 良兼は8月17日の豊田郡大方郷の戦いでも勝利し、翌18日、上総国へ帰国の途に就いた。この途次、将門の妻を捕え、20日に上総国へと渡った。将門の妻は良兼のもとで嘆き悲しんでいたが、

「妾の舍弟等、謀を成して、九月十日を以て、密かに豊田郡に還り向はしむ、既に同気の中に背きて、本夫の家に属く、譬へれば遼東の女の夫に随ひて父国を討たしむがごとし、件の妻は、同気の中を背きて、夫の家に逃げ帰る」

とあることから、良兼の娘が将門の妻となっていたことがうかがわれ、さらにその脱出に良兼の子らが加担した様子も見える。なお、良兼帰国後の貞盛の動きもうかがえない。

 9月19日に良兼は常陸国へ再度出陣した。将門もこれを受けて真壁郡へ兵を進め、たびたび合戦を重ねる。10月には互いに兵を引いたが、11月5日、将門に「介良兼、掾源護、掾平貞盛、公雅、公連、秦清文」ら「常陸国敵等」を追捕させるとした太政官符が武藏・安房・上総・常陸・下野国などに発せられた。この追捕の対象に貞盛も加えられていることから、彼も良兼とともに戦いに加わっていた様子がうかがえる。また、「掾平貞盛」とあることから、貞盛はこのころおそらく常陸掾となっていたと推測される。「異本」によれば、貞盛が常陸大掾に任じられたのは天慶3(940)年とあるので(『将門純友東西軍記』)、この説話が正しいとすれば、当時の貞盛は常陸少掾か。なお、ここに乱を起こした張本の一人、平良正が入っていないことから、これまでの戦いの中で戦死したのかもしれない。

 しかし、この太政官符を受けた「諸国の宰」は将門に協力せず「慥に張行はず、好みて堀求めず」という態度を取る。ただ、良兼らも追捕の対象ということで、表立った動きは取れなかったのか、将門の駈使・丈部子春丸という者を間諜に仕立てて、将門の石井営所の動きを逐一連絡させ、夜討ちを試みた。しかし、すでにこの動きを察していた将門によって返り討ちにあい、上兵の多治良利を討ち取られるなど大敗を喫して、命からがら戦陣を離脱した。また、間諜となった丈部子春丸も承平8(938)年正月3日、将門に殺害されている。平氏一門の族長的立場にあった平良兼はその後、常陸に進出してくることは記録上では見られず、翌天慶2(939)年6月上旬に亡くなった。

 平良兼、平良正、源護ら一門が力を失い、良兼の「寄人」だった貞盛一人の力ではもはやどうすることもできなくなる。貞盛はふと振り返り、

「身を立てて徳を修むるには、忠行より過ぎたるは莫し、名を損じ利を失ふは、邪悪より甚だしきは無し、清廉の比、蚫室に宿らば、羶奎の名を同烈に取る、然も本文に云ふは『前生の貧報を憂へず、但悪名の後に流るる者を吟ふ』てへり、遂に濫悪の地に巡らば、必ず不善の名有るべし、しかじ、花門に出でて以て遂に花城に上り、以て身を達せしむ、之に加えて、一生は只の隙の如し、千歳誰か栄えむ、猶直生を争ひて、盜跡を辞すべし、苟も貞盛は身を公に奉じ、幸ひにして司馬の烈に預かれり、況や労を朝家に積み、弥朱紫の衣を拝すべし、其に次ひでに快く身の愁等を奏し畢む」

と、戦乱渦巻き、都の評判も芳しくない東国を捨てて、都の官吏として立身を目指すという当初の「志」を思い出したか、承平8(938)年2月中旬、東山道を通って京都を目指すことにした。本来は交誼を結ぼうとしていた将門とも「非本意」とはいえ戦いに及ぶことになったことに対し、後ろめたさもあったのかもしれない。

 しかし、この上洛しようとする動きを将門に察知され、

「今、件の貞盛、将門が会稽未だ遂げず、報ひんと欲すも忘れ難し、若し官都に上り、将門の身を讒せむか」

と解釈した将門により追撃され、2月29日、信濃国小県郡の国分寺あたりで追いつかれてしまった。貞盛はすでに千曲川を渡っており、ここを挟んで両者は合戦となった。ここで貞盛方の上兵・他田真樹が矢に当たって死亡し、将門方も上兵・文屋好立が矢に当たって負傷している。この戦いはなかなか勝負がつかなかった模様だが、結局、貞盛は山中に逃れており、将門の勝利に終わったようだ。ただ、貞盛は将門に捕われることなく逃げ延び、極寒の信濃国の山奥から何とか上洛した。

■将門との戦い三(貞盛の雌伏)

 京都にたどり着いた貞盛は、太政官に将門の行状を訴え出、翌天慶2(939)年2月12日、その訴えに基づいて太政大臣藤原忠平が将門を召喚する使者を東国に派遣した(『貞信公記』)。忠平は将門の私君にも当たり、その影響力は大きかったと推測されるが、将門はその召喚に応じることはなかった。さらに3月3日には、武蔵国から逃げ帰った武蔵権介源経基が武蔵で起こったことを訴え出た(『貞信公記』)

 3月25日、太政大臣藤原忠平は、武蔵権介源経基の訴えに基づき、「実否を挙ぐべきの由」を命じた御教書を発給して中宮少進多治比真人助真へ下され、28日に将門のもとに届けられたという。これを受けた将門は、ただちに常陸、下総、下野、武蔵、上野国の五か国の解文を取り、「謀叛無実之由」を5月2日に言上している。

 そんな頃、叔父の平良兼が6月上旬に病床に伏せ、ついには出家して亡くなった。しかし、そのようなことを知る由もない貞盛は、6月中旬、「挙召将門之官符」を懐いて京都から再び坂東へ下向した(『将門記』)。下向した国がどこかはわからないが、貞盛の旧領があり大掾を務めていた常陸国かもしれない。当初は叔父の良兼との共闘も画策していたようであるが、良兼は貞盛が下向する以前の6月上旬に病に倒れ、すでに亡くなっていた。官符を持って下向するも「弥逆心を施し、倍暴悪を為す」将門に為す術なく過ごしていたと思われる。

 そんな頃、平維扶陸奥守に任官し、陸奥国に赴任することとなった。8月17日には太政大臣藤原忠平が、平維扶のために管弦の宴を催している(『貞信公記』)。10月、平維扶は東山道を通って赴任の途上、下野国府に到着した。貞盛は維扶と「知音の心」があったため、将門の目を避けながら下野国府へ赴いた。この平維扶は天慶元(938)年9月7日当時、「左馬頭」の官にあったことが知られ(『九条殿記』)、承平5(935)年まで京都で左馬允として勤めていた貞盛の上官だったと思われることから、旧知の間柄だったと推測される。貞盛は彼とともに奥州へ下りたく思い、これまでの事情を話して聞かせたところ、「甚だ以って可也」と同行を認めた。

 しかし、貞盛が出立しようと準備をしていると、貞盛の動きを知った将門が山狩りをして貞盛の身を追ってきた。貞盛は将門の追撃を知って雲のように身をくらませ、その追撃を逃れることができたが、陸奥守平維扶は「思ひ煩」った結果、貞盛を待つことなく任地へ旅立った。

 将門の追撃は厳しく、その後も貞盛は山を出ることができなかったが、その後、常陸国へ移り、常陸介藤原維幾の庇護を受けるに至った。維幾は貞盛の義叔父にあたる人物であり、当時、常陸国内で濫妨を恣にし、官物を納めず度々の移牒を無視し続けていた藤原玄明と争っていたが、ついに維幾の子・藤原為憲が玄明を追捕するに及んだ。追討された玄明は将門に泣きつき、将門がこの問題に介入する騒ぎに発展した。この藤原玄明は、将門の与党となっていた常陸掾藤原玄茂の親族と思われ、玄明自身も常陸国の国衙に関わっていた人物と推測される。その系譜は不明ながら、行方郡・河内郡付近に本拠を持っていた藤原氏の一流だろう。

 11月21日、一軍を率いて常陸国府に迫ってきた将門に対し、為憲は貞盛とともに三千余の精兵を率いて迎え撃った。しかし、士気高い将門の軍勢の前に為憲・貞盛の国府軍は敢え無く敗退し、常陸介藤原維幾も「息男為憲に教へず、兵乱に及ばしむるの由」を述べて甥にあたる将門に降伏。常陸国の「印鎰」も将門の手中に落ちた。「舎宅悉皆焼廻、蟄屋焼者迷烟不去、遁火出者驚矢還入、凡一国人物一旦焼滅矣」と伝わるように(『扶桑略記』)周辺は灰燼に帰したようだ。この常陸国府の占領を発端にして、将門は坂東各国の国府を襲撃する大反乱を起こすこととなる。

■将門との戦い四(将門追討)

 常陸介藤原維幾と詔使は将門に拉致され、11月29日、将門の本拠地である下総国豊田郡鎌輪宿に幽閉された。しかし維幾は将門に国府を占拠される前に、京都に向けて将門の反乱を伝達しており(『日本紀略』)、12月2日、朝廷に奏上されている。

 将門は常陸国府を占領したのち、続けて12月11日に下野国へ侵攻した。この勢いに呑まれた下野守藤原弘雅、前司大中臣定行は国権の象徴である「印鎰」を将門に献じて戦わずして降伏し、京都に追放された(『扶桑略記』)。さらに12月15日には上野国へ侵攻した将門に、上野介藤原尚範が「印鎰」を奪われ、19日に都へ追放された(『扶桑略記』)。この尚範は瀬戸内で「天慶の乱」を起こした伊予掾藤原純友の叔父にあたる。

                清和天皇
                ‖――――――陽成天皇
                ‖
 藤原冬嗣―+―藤原長良――+―高子
(左大臣) |(権中納言) |
      |       +―藤原遠経―+―藤原良範―――藤原純友
      |       |(右大弁) |(太宰少弐) (伊予掾)
      |       |      |
      |       |      +―藤原尚範
      |       |       (上野介)
      |       |      
      |       +――有子
      |       |  ‖
      |       |+―平高棟
      |       ||(権大納言)
      |       ||
      |       |+―高見王―――平高望――+―平国香―――――平貞盛
      |       |       (上総介) |(鎮守府将軍) (鎮守府将軍)
      |       |             |
      |       +―藤原基経        +―平良持―――――平将門
      |         ↓            (鎮守府将軍) 
      |         ↓
      +―藤原良房――+=藤原基経―――藤原忠平【平将門私君】
       (太政大臣) |(太政大臣) (太政大臣)
              |
              +―明子
                ‖――――――清和天皇
                ‖
                文徳天皇

 下野国府を占領すると、将門は「新皇」を称し、除目を行った(『扶桑略記』)

●平将門が行った除目

官職 人物 備考
下野守 平将頼 将門舎弟
上野介 多治経明 常羽御厩之別当
上総介 興世王 武蔵権守
下総守 平将為 将門舎弟
常陸介 藤原玄茂 常陸掾
相模守 平将文 将門舎弟
伊豆守 平将武 将門舎弟
安房守 文屋好立  

 そして同日、「太政大殿少将閣賀」へ宛てて、国府占領の報告状を認めることになる。「太政大殿」は将門が私君として伺候した太政大臣藤原忠平、「少将閣賀」とは忠平の子・左近衛少将藤原師氏のことである。師氏も宛名の一人としているのは、当時の将門が師氏の「臣」だったのかもしれない。

 また、同日にはおそらく陥落前の常陸国府から発せられた「平将門、興世王等損害官私雑物等状」が京都に届いている(『日本紀略』)。さらに12月22日には信濃国からも将門反乱の飛駅使が到着し、27日には「平将門并武蔵権守従五位下興世王等謀反」の報が奏上され、29日に朝廷で対策が練られることとなった。ここに来て、平将門・興世王を正式に謀反人として追討することが決定する。

 天慶3(940)年正月1日、「東海東山山陽道等追捕使以下十五人」が定められ、東海道使は従四位上藤原忠舒、東山道使は従五位下小野維幹が任じられた。正月11日には東海道・東山道諸国に将門・興世王らの追討官符が発給され(『将門記』)、1月19日、参議藤原忠文征東大将軍に任じられ、陣容が固められた。

●藤原忠文周辺系図

                                                     +―平国香――――平貞盛
                                                     |(鎮守府将軍)(常陸大掾) 
                                                     |
                                                     +―平良持――――平将門
                                                     |(鎮守府将軍)(新皇)
                                                     |
 藤原不比等―+―藤原武智麿―+―藤原仲麿                           平高望――+―女
(右大臣)  |(左大臣)  |(太師)                           (上総介)   ‖
       |       |                                       ‖――――――藤原為憲
       |       +―藤原乙麿――藤原是公――藤原雄友―――藤原弟河――藤原高扶――藤原清夏―――藤原維幾  (遠江権守)
       |        (治部卿) (右大臣) (宮内卿)  (伊賀守) (陸奥守) (上総介)  (常陸大掾)
       |
       |                          +―藤原長良―+―藤原遠経――藤原良範――藤原純友
       |                          |(権中納言)|(右大弁) (大宰少弐)(伊予掾)
       |                          |      |
       |                          |      +―藤原基経
       |                          |       (太政大臣)
       |                          |        ↓
       +―藤原房前――+―藤原真楯――藤原内麿――藤原冬嗣―+―藤原良房===藤原基経――藤原忠平
       |(民部卿)  |(大納言) (右大臣) (左大臣)  (太政大臣) (太政大臣)(太政大臣)
       |       |
       |       +―藤原魚名――藤原藤成――藤原豊沢―――藤原村雄―――藤原秀郷
       |        (左大臣) (伊勢守) (下野大掾) (下野少掾) (押領使)
       |
       +―藤原宇合――――藤原百川――藤原緒嗣――藤原春津―――藤原枝良―+―藤原忠文
       |(式部卿)   (式部卿) (左大臣) (刑部卿)  (修理大輔)|(右衛門督)
       |                                 |
       +―藤原麻呂                            +―藤原忠舒
        (兵部卿)                             (刑部大輔)

 そのころ、坂東においては将門が常陸国の敵対勢力を討つべく、正月中旬に兵を率いて出立した。そのとき、「奈何久慈一両郡之藤氏等」が将門を国境まで出迎え、饗応した。将門は饗宴の中で、

「藤氏等、掾貞盛ならびに為憲等の所在を指申すべし」

と、那珂郡・久慈郡の「藤氏」らに常陸国で手向かった貞盛と為憲の所在地を教えるよう命じているが、彼らも所在を知らないと返答している。その後、「吉田郡蒜間之江辺」で貞盛と源扶の妻が捕えられ、多治経明・坂上遂高らの陣中に連行された。この知らせを聞いた将門は「為匿女人媿」という命を下すが、すでに彼女たちは「夫れ兵等の為に悉く虜領」の辱めを受け、とくに貞盛の妻は服を剥されて裸の状態のままだった。多治らはこれを知り、将門に「件の貞盛の妾、容顏卑しからず、犯過は妾に非ず、願くは恩詔を垂れ、早く本貫に遣はす者なり」と、彼女らの釈放を願い、将門もこれを認めて、一襲を貞盛の妻に与えると、彼女の本心を試すべく歌を詠んだ。

よそにても風の便りに吾ぞ問ふ枝離れ垂花の宿りを

 貞盛の妻も幸いにも温情ある処遇を受けたことで、これに和して、

よそにても花の匂ひの散り来れば我身侘しと思ほえぬかな

と詠んだ。

 このとき、源扶の妻も一身の不幸を恥じて、人に寄せて歌を詠んだ。

はな散りし我がみもならず吹く風は心もあはき者にざりける

 こうしたことを行っている間に、人々の心は和んでいった。なお、貞盛の妻は源護の娘とされており、扶の妻とは義理の姉妹となる。ただ、この貞盛妻が源護の娘かどうかの記述はない。

 その後、何日経過しても敵の姿が見えなくなったため、諸国から集めていた兵士をみな帰してしまい、将門のもとには一千に満たない兵が残るのみだった。これを伝え聞いた貞盛と下野国の豪族・押領使藤原秀郷は四千余りで挙兵した。このころ、貞盛は秀郷のもとに身を寄せていたということか。

 貞盛・藤原秀郷の挙兵を聞いた将門は「大驚」して、2月1日に下野国へと兵を進めた。将門は貞盛らの所在を知らなかったが、後陣を務めていた「副将軍春茂(藤原玄茂)」の陣頭である多治経明・坂上遂高らが貞盛らの所在を確認した。「一人当千之名」を得ていた多治経明・坂上遂高らはこの貞盛・秀郷の軍勢を見て戦わないわけにはいかす、将門の許しも得ずに、押領使藤原秀郷の軍勢と合戦を始めた。

 しかし、秀郷は老巧な武者であり、藤原玄茂勢は蹴散らされて四散した。貞盛・秀郷勢は逃げる藤原玄茂勢を追って未申の刻(午後一時過ぎ)に将門の陣所の一つと思われる川口村結城郡八千代町水口)を襲ったが、ここに将門率いる精鋭がおり、将門自ら剣を振って貞盛・秀郷勢を迎え撃ってきた。これを見た貞盛は大いに驚きつつも、

「私の賊は則ち雲上の電の如し、公の従は則ち廁底の虫の如し、然れども私の方には法無し、公の方には天有り、三千の兵類は慎て面を帰すること勿れ」

と兵を励ましながら、黄昏に至るまで合戦が行われた。貞盛・秀郷ら率いる兵はいつにも増して強兵であり、逆に将門勢は士気が落ちていたようで、さすがの将門も館に退却して防戦せざるを得なかった。後陣の壊滅と、兵数が少数であったことも士気に影響していたのだろう。将門勢はそのまま川口村から逃れていった。

 戦後、貞盛と秀郷は、

「将門既に千歳の命に非ず、自他皆一生の身なり。而て将門独り人寰に跋扈し、自然物の防けなり。出ては則ち濫悪を朝夕に競ひ、入ては則ち勢利を国邑に貪る。坂東の宏蠹、外土の毒蟒、之に甚だしきは莫し。昔聞く、霊蛇を斬て九野を鎮め、長鯨を剪て四海を清めると。方に今、凶賊を殺害し、其の乱を鎮めずば、私より公に及び、鴻徳の損ずるを恐る。尚書に云ふ。『天下安しと雖も、戦はざるべからず、甲兵強しと雖も、習はざるべからず』と。縱ひ此度勝と雖も、何ぞ後戦を忘るべきか。しかのみならず、武王疾有り、周公命を代はる。大分貞盛等、公より命を奉じ、将に件の敵を撃つ」

と、群衆を集めて兵を調え、兵力を増強しながら、2月13日、下総国の境まで進軍した。これに対して、将門は疲労しているであろう貞盛・秀郷の兵をおびき寄せるべく、兵を率いて幸島広江に伏兵した。ここに貞盛は計略を駆使しながら、将門の屋敷から与力の家まで放火して廻り、わずかに残った人々は家を棄てて山に逃れた。

 貞盛は将門を追捕すべく探し回ったが、その日はついに出会うことはなかった。翌朝、将門は四百余の兵を率いて幸島郡の北山に陣を張った。これを見た貞盛と秀郷は鋭い衛えでこれに対し、2月14日未申刻(午後一時過ぎ)に両軍は合戦となった。なお、この将門との直接対決の際には、藤原為憲も貞盛・秀郷勢の中にいたようで、下野から従軍していたのか、途中から合流したのかは不明。

 しかし、貞盛・秀郷らの陣は風下にあり、非常に不利な戦いを強いられていた。この中で貞盛の中陣が果敢に攻めかかったものの、将門の騎兵に打ち破られ、八十余人の戦死者を出してしまった。さらに将門の追撃の前に、貞盛・秀郷・為憲勢のうちは二千九百人は逃げ散り、精兵三百余人のみとなってしまった。将門の追撃は止まるも、もはや戦力不足は否めない貞盛らは途方に暮れた。しかし、このとき風向きが変わり、今度は将門勢が風下に立たされることとなった。この機会を逃してはならじと、貞盛・秀郷らは帰陣中の将門勢に攻めかかり、身を棄てて力の限り戦った。将門も自ら駿馬を疾らせて剣を振って戦ったが、この乱戦の中、将門は「神鏑」に中り、ついに大地に斃れた。その後、将門の首は下野国府へ運ばれ、解文を添えて4月25日、京都に献じられた。また、常陸介藤原維幾と交替使は、将門戦死の報を受けて2月15日に常陸国の国司館へ無事帰還を果たした。

 一方、京都から下ってきた征東大将軍の左近衛大将藤原忠文、東海道使の従四位上藤原忠舒、東山道使の従五位下小野維幹らは直接将門と刃を交えることはなかったが、彼らが到着する前に、平将頼(将門弟)、藤原玄茂らは相模国で討たれ、興世王は上総国で殺害された。また、坂上遂高、藤原玄明らは常陸国で斬られた。そして、副将である東海道使・藤原忠舒は下総国押領使・下総権少掾平公連(平良兼の子)とともに4月8日に下総国に着陣。将門の党類を討った。

 平高望―+―平国香―――――平貞盛
(上総介)|(鎮守府将軍) (常陸大掾)
     |
     +―平良持―――――平将門
     |(鎮守府将軍) (新皇)
     |
     +―平良兼―――――平公連
     |(下総介)   (下総権少掾)
     |
     +―平良文―――――平忠頼――――平忠常
     |(村岡五郎)  (陸奥介)  (上総権介)
     |
     +―平良正
     |(水守六郎)
     |
     +―娘
       ‖―――――――藤原維幾
       藤原為憲   (常陸介)
      (常陸介)

 戦いが終わり、3月5日、藤原秀郷からの使者が太政大臣藤原忠平のもとに将門誅殺を伝達し、3月9日、追討の恩賞について中務省より天皇に奏上され、将門追討に功績のあった武蔵介源経基、常陸大掾平貞盛、下野押領使藤原秀郷らに褒章が与えられた(『貞信公記』)。その内容は、次の通り。

姓名 官途 理由
源経基 武蔵介 従五位下 始め虚言を奏すと雖も、終に実事に依る。
平貞盛 常陸大掾 正五位上 既に多年の険難を歴て、今兇怒の類を誅す、尤も貞盛の励の所致なり。
藤原秀郷 下野押領使 従四位下 掾貞盛、頃年、歴合戦を歴ると雖も、未だ勝負定まらず、而て秀郷合力し謀叛の首を斬討す、是れ秀郷の古計の所巌者なり。

 ただし、別書によれば、貞盛が叙せられたのは「従五位下」(『日本紀略』)「従五位上」(『扶桑略記』)ともあり、「右馬助」に任じられたともある(『扶桑略記』)

 4月25日、将門の首が京都に到着し、東市にて梟首された。そして、将門の追討使として東国へ下っていた藤原忠文らの軍勢が帰京し、節刀を返じた(『貞信公記』)。11月16日、朝廷はとくに藤原秀郷を下野守に任じた。

■将門追討その後

 翌天慶4(941)年6月6日、貞盛は「右近馬場」「兵士等ヲ試」ており、この年半ばには京都にいたことがわかる。

 貞盛は天暦元(947)年2月18日には鎮守府将軍として奥州鎮守府に赴任しており、「鎮守府将軍貞盛朝臣」「並茂」という使者を京都に遣わして、兵糧運搬の列を襲い十三人を討った狄の「坂丸」を追討するために、国使を賊地へ派遣して勘糺すべき官符の発給を朝廷に願い出ている(『日本紀略』)

 3月3日、貞盛が寄進した馬が朱雀院に奉じられている。おそらく陸奥国から進上された奥州馬と思われる。

 天暦10(956)年8月19日 貞盛は「駒牽」に参加するよう命じられており、このころ京都にいた様子がうかがえる。

 天禄3(972)年正月、丹波守に任じられる(『『類聚符宣抄』八 任符事』)

 貞盛が丹波守在任中で陸奥守転任のうわさも漏れ聞こえているころ、おそらく天延2(974)年ごろと思われる時期の説話だが、貞盛が「丹波守にて有りける時」、任国の丹波国へ赴任中、体に腫瘍ができてしまい、某という京都の名高い医師に診察を依頼することにした。

 招聘された医師は貞盛の腫瘍を見て、

「極じく慎しむべき瘡なり。然れば、児干と云ふ薬を求めて治すべきなり。其れは人に知らせぬ薬なり。日来経ば其れも効き難かりなむ。疾く求め給ふべきなり」

と告げて、帰っていった。薬は胎児の肝臓(児干)であるという。

 その後、貞盛は我が子の「左衛門ノ尉」を呼ぶと、

「我が瘡をば疵と此の医師は見てけり。極じき態かな。増て此の薬を求めば、更に世に隠有らじ。然れば、そこの妻こそ懐妊したなれ、それ我れに得させよ」

と、我が子の妻の胎児を求めるという傍若無人な振る舞いに出る。左衛門尉はこれを聞いて、目もくらんで何も考えることができなかったが、厳父の命を拒むことはできず、

「早う疾く召せ」

と答えてしまった。貞盛も満足して、

「いと喜し、然らばそこは暫し外に御して、葬の儲をせよ」

と妻と胎児の葬式の準備をさせる始末。館を辞した左衛門尉は、すぐさまこの医師のもとへ行き、

「此かる事なむ有る」

と泣いて訴えたところ、無責任な治療法を伝えた医師ではあったが、話を聞いて泣いた。そこで一計を案じた医師は、

「此の事を聞くに、実に奇異し。己れ構へむ」

と言うや、貞盛の館に行き、

「何にぞ薬は有りや」

と貞盛に聞いた。貞盛は

「それがいと難くて無きなり。然れば左衞門尉の妻の懐妊したるをぞ乞ひ得たる」

と答えると、医師は、

「其れをば何にせむ。我が胤は薬に成らず。疾く求め替へ給へ」

と、自分の血縁の児干では役に立たないと告げた。これを聞いた貞盛は、

「然は何が為すべき、尋ねよ」

と落胆し、児干を探させた。するとしばらくして、ある人が、

「御炊の女こそ懐妊して六月に成りぬれ」

と貞盛に告げた。貞盛は早速、

「然らば其れを疾く取らせよ」

と命じ、この下働きとして働いていた妊婦の腹を割き、胎児を取り出したが、胎児は女の子だった。女の子の肝では効き目がないとして、さらに外に肝を求めて児干を手に入れることに成功。貞盛はこの肝のおかげか、腫瘍が治癒したという。

 貞盛は病気治癒のお礼として、この医師に良馬や装束、米などをたくさん与えて京都へ返した。しかし、このあと貞盛は子の左衛門尉を密かに呼び、

「我が瘡は疵にて有りければ、児干をこそ付けてけれと、世に弘がりて聞えなむとす。公も我れをば憑もしき者に思食して、夷乱れたりとて陸奥国へも遣さむとすなり。其れに其の人にこそ射られにけれと聞えむは極じき事には非ずや。然れば、此の医師を構へて失ひてむと思ふを、今日京へ上せむに行き会ひて射殺せ」

と命じる。朝廷が自分を陸奥守に任じようとしている最中に、風聞を貶めるような事実が広まることを恐れた貞盛が、この医師の殺害を命じたのだ。左衛門尉は、

「いと安きことに候ふ。罷上らむを山に罷り会ひて、強盗を造りて射殺し候ひなむ。然れば、夕さり懸けて出だし立たせ給ふべきなり」

と強盗を装って医師を殺害する旨を貞盛に話すと、貞盛も「然也」と了承し、左衛門尉は、

「其の構仕らむ」

と、急ぎ館を退出した。

 ただ、そうは言ったものの、左衛門尉はこの医師に恩義を感じていたため、密かに医師のもとを訪れて、貞盛が企てた暗殺計画を告げる。医師はあきれ果てつつも、

「只何にもそこに量らひて助け給ふべきなり」

と左衛門尉に助けを求める。左衛門尉は、

「上り給はむに、山まで送りに付けらるる判官代をば馬に乗せて、そこは歩にて山を越え給へ。一日の事の世々にも忘れ難く喜しく候へば、此く告げ申すなり」

と、医師に貞盛が見送りとして付ける国衙勤務の判官代を馬に乗せ、自分は徒歩で付いていくことで判官代を主人と見せかけ、難を逃れるよう一計を授けたのだった。その結果、山越えの途中でこの判官代は誤射されて医師は無事に生き残り、京都へ帰ることができた。

 しかしその後、貞盛はかの医師が京都で生きていて、警護に付けたはずの判官代が殺されたことを知る。左衛門尉を呼び出して、

「此は何にしたる事ぞ」

と詰問するが、左衛門尉は、

「医師歩にて従者の様にて罷りけるを知らずして、判官代が馬に乗りたるを主ぞと思ひて錯ちて射殺しつるなり」

と釈明。貞盛も「現に」と納得し、それ以上は追及しなかったという。この話は、貞盛の一の郎党・館諸忠の娘が話した逸話が伝承され『今昔物語集』に取り上げられたものである(『今昔物語集』巻二十九第二十五話「丹波守平貞盛、児ノ肝ヲ取リシ語」)

 この児干の説話が事実かどうかは不明ながら、丹波守の任期途中の天延2(974)年12月、貞盛は陸奥守に転じる(『『類聚符宣抄』八 任符事』)

 天延3(975)年6月25日、新たな賀茂斎王選子内親王(村上天皇第十皇女)とされると、潔斎所として「陸奥守貞盛二条万里小路宅」が定められた(『日本紀略』)。当時の貞盛の屋敷が二条万里小路にあったことがわかる。

 貞元元(976)年12月21日、「陸奥守平貞成(貞盛)」が天皇(円融天皇)の石清水行幸に際して「御馬」三十三疋を石清水行幸料として献じ、さらに不動穀三千二百二十石を進上している。この石清水行幸は興福寺で怪異があったため、翌2月26日に延引されている(『樗嚢抄』)

 ちょうど貞盛が陸奥守の任期を終えたころの逸話と思われるが、貞盛が陸奥国から帰京した際に、下京に住む入魂の法師を訪ねると、固く門を閉じて取次ぎがない。貞盛はさらに戸を叩いて取次ぎを求めると、内側より、

「此れは誰が御するぞ、固き物忌ぞ」

との返答があった。貞盛は、

「平貞盛が只今陸奥国より上りたるなり」

と告げ、さらに、

「只今、陸奥国より上り着きたるに夜には成りにたり、今夜は家へは故らに行き着かじと思ふに、いずこへか行かむ、然ても何なる物忌ぞ」

と問うと、館からは

「盗人事に依りて命を亡すべきにと占ひたれば、固く忌むなり」

との返答があった。この法師は大変裕福な生活をしていたが、ある日、なにやら奇怪なことがあり、賀茂忠行という陰陽師に占わせたところ、盗人によって落命するので固く物忌みすべし、という卦が出た。そのための物忌みだった。

 貞盛は、

「然は、態とも貞盛を呼び籠めて有らせめ、いかでか貞盛をば返すべき」

と応えると、この法師は貞盛が武勇の人であることを思い出し、

「然は殿計り入り給へ、郎等御従共をば返し遣してよ、尚物忌固く侍り」

と、貞盛一人のみ邸に入れることを許し、貞盛もこれに応じて、郎党以下馬までも先に帰した。

 貞盛は、

「物忌固くおはすなれば、いかでか出で給ふ、己は此の放出の方に今夜計り侍らむ、今日家へ罷るまじき日にて有ればなむ、然て朝対面し申さむ」

と言って、法師との対面もせずに放出の方へ行って、出された食事を食べてそのまま一人寝た。

 すると、夜半ごろに、そっと屋敷の門を押す音が聞こえた。貞盛は盗人かと、そっと車宿の方へ行って隠れて見守っていると、やはり盗人だった。盗人は太刀で門を抉じ開けると、数人が忍び入り、南面の方へ走って行ったため、貞盛はこれを追いかけて盗人たちの中に混ざり入ると、わざと物の無い方を示して、

「此になむ物は有るなり、只此を踏み開けて入れ」

と言うや、後より矢を盗賊の中に射掛けた。そして、「後より射るにこそ有りけれ」と騙し、射られた盗賊に「逃げよ」と言いながら、奥へ引きずり込んだ。なおも屋敷に押し入ろうとする別の盗賊も射て倒し、

「射るにこそ有りけれ、今は逃げよ、己等」

と叫んで、この盗賊も奥に引きずり込んだ。貞盛はこの奥からも矢を射掛けたため、残りの盗賊は恐れを成して走り逃げていった。貞盛はこの期を逃さず、四人を射殺し、さらに遠くへ走り逃げた者も腰を射抜き、翌朝、側溝に倒れていたこの賊を引きずり出して尋問し、他の賊を捕らえたという(『今昔物語集』巻二十九第五話「平貞盛朝臣、法師ノ家ニ於テ盗人ヲ射取リシ語」)

 永祚元(989)年10月15日、亡くなった。享年不明。


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