●伊勢平氏略系譜
平高望―+―平国香――+―平貞盛――平維衡――+―平正能――+―平貞弘―+―平正弘―+―平宗能
(上総介)|(常陸大掾)|(陸奥守)(左衛門尉)|(刑部少輔)|(下野守)| |(検非違使)
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| +―平繁盛 | +―平維正 +―平正綱 +―平度弘―――平範頼
| (秋田城介) | | |(勾当) |
| | | | | 【歌人】
| | +―平正俊 +―平敦盛 +―平有盛―――覚盛
| | (大学助)|(薩摩守) (修理亮) (大夫公)
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| | +―平兼光
| | (内匠助)
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| +―平正輔――+―平正仲
| |(安房守) |(左京進)
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| | +―平成仲
| | |(縫殿允)
| | |
| | +―平正基
| | (安房三郎)
| |
| +―平正度――+―平維盛―+―平貞度
| |(常陸介) |(駿河守)|(筑前守)
| | | |
| | | +―平宗盛―――平盛信
| | | |(下総守) (掃部大夫)
| | | |
| | | +―平盛忠
| | | |(民部大夫)
| | | |
| | | +―平盛基―――平盛時
| | | (信濃守) (伊予守)
| | |
| | |
| | +―平貞季―+―平季範―+―平貞保―――平盛房
| | |(駿河守)|(筑後守)|(庄田太郎)(斎院次官)
| | | | |
| | | | +―平季盛
| | | | |(主殿助)
| | | | |
| | | | +―平範仲―――平季弘
| | | | (山城守) (筑前守)
| | | |
| | | +―平正季―――平範季―――平季房―+―平季宗
| | | |(右京進) (進平太) (三郎) |(兵衛尉)
| | | | |
| | | +―平兼季―+―平季盛 +―平家貞
| | | (上総介)|(平先生) (筑前守)
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| | | +―平貞兼
| | | |(兵衛尉)
| | | |
| | | +―平盛兼―――平信兼―――平兼高
| | | (大夫尉) (和泉守) (山木判官)
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| | +―平季衡―+―平季遠―――平盛良
| | |(下総守)|(相模守) (大夫尉)
| | | |
| | | +―平盛光―+―平盛行
| | | |(帯刀長)|(兵衛尉)
| | | | |
| | | | +―平貞光
| | | | (木工大夫)
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| | | +―平盛国―――平盛康―――平盛範
| | | (大夫尉) (伊予守) (兵衛尉)
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| | +―平貞衡―――平貞清―――平清綱―――平維綱
| | |(右衛門尉)(安津三郎)(鷲尾二郎)(右衛門尉)
| | |
| | +―平正衡―――平正盛―――平忠盛―――平清盛―――平宗盛
| | (出羽守) (讃岐守) (刑部卿) (太政大臣)(内大臣)
| |
| +―平正済――+―平正家―――平資盛―――藤原敦盛――藤原有盛
| (出羽守) |(駿河守) (大学助) (薩摩守) (図書助)
| |
| +―平貞弘―――平正弘―――平家弘―――平頼弘
| (下野守) (大夫尉) (大夫尉) (左衛門尉)
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+―平良持――――平将門
|(鎮守府将軍)(新皇)
|
+―平良兼――――平公雅
|(下総介) (下総権少掾)
|
+―平良文――――平忠頼
|(村岡五郎) (陸奥介)
|
+―平良正
(水守六郎)
(????-????)
出羽守平正衡の子。母は不明。官途は隠岐守、若狭守、因幡守、但馬守、丹後守、備前守、讃岐守。官位は従四位下まで昇った。伊勢平氏の庶流ではあるが、白河院の目に留まることで出世し、一族の中でも抜きんでた存在となる。
■藤原為房、藤原顕季の受領郎従となる
園城寺と興福寺の間で交わされたという平相国清盛入道調伏についての文書中に「祖父正盛仕蔵人五位之家、執諸国受領之鞭」ったとある(『平家物語』)。その具体例として、「大蔵卿為房加州刺史之古、補検非違所」とある。藤原為房が加賀守だったのは寛治4(1090)年から寛治6(1092)年の約二年間で、この間に正盛は為房の任国である加賀国へ下り、国衙の検非違所に出仕していたのだろう。さらに「修理大夫顕季為幡磨大守之昔、任厩別当職」じられたことも伝わる。藤原顕季が播磨守だったのは、嘉保元(1094)年2月20日から康和3(1101)年7月7日までで、この間に厩別当職に任じられていた様子が見える。藤原為房、藤原顕季はいずれも歴代天皇の信頼厚い能吏であり、のち「院近臣」の筆頭格となる。とくに藤原顕季は白河天皇の乳母藤原親子の子であり、顕季との関係から正盛は白河院北面として出仕、昇進していくきっかけになったと思われる。正盛は永長2(1097)年には隠岐守に在任しており、これも顕季の斡旋があったのかもしれない。
■数十年後の「平家」台頭のきっかけ 〜六条院への寄進〜
永長2(1097)年8月25日、「隠岐守平■■」は、六条院に伊賀国山田村出作(伊賀市出後カ)、鞆田村(伊賀市中友田周辺)、柘植郷(伊賀市柘植町)内の私領のうちから二十町余を寄進した(『平安遺文』)。どのような経緯で六条院への寄進に繋がったかは不明だが、ここでもかつて仕えた藤原為房や藤原顕季といった白河院近臣を通じての寄進だった可能性が考えられるか。なお、六条院は永長元(1096)年8月7日に亡くなった白河院鍾愛の皇女・郁芳門院(媞子内親王)の御所六条殿を菩提所に改めたものである。
●正盛寄進の伊賀国の私領(『平安遺文』)
山田村 | 3町8反 | 20町5反余 |
鞆田村 | 15町9反 | |
柘植郷 | 8反余 |
寄進から数か月後の承徳2(1098)年正月27日、「義家朝臣前陸奥、正盛隠岐」の「二个国功課」が定められた。義家については、陸奥守時代の官物未納があったが、正月20日にようやく完済した報告がなされたことによるものである。義家が受領功過定を経て正四位下に叙されたのが4月2日の小除目であることから(『中右記』)、おそらく正盛もこの頃の除目で「若狭守」に遷任されたと思われるが、その記録は残っていない。10月22日の時点では藤原敦兼が若狭守であることから(『中右記』)、これ以降の除目で若狭守となったことがわかる。ただ、康和4(1102)年7月21日に若狭守重任が許されており、若狭守に任じられたのは承徳2(1098)年中であろう。時期的なものから正盛の「国功課」は六条院への寄進と推測できる。最高権力者たる白河上皇最愛の故皇女への素早い寄進は上皇からの信任を得るに十分だったのだろう。
■対馬前司源義親の追討と栄達
康和3(1101)年7月3日、前陸奥守源義家の長男・対馬守源義親が太宰大弐大江匡房から「至濫行於九国、不随宰府於命」を告発されたことが議され(『殿暦』)、朝廷は義親の父である義家に義親召喚を命じた(『殿暦』)。しかし、康和4(1102)年2月、義家が官使者に副えて九州へ遣わした「郎従佐通(資道、対馬権守輔通)」が官使者を殺害するという事件を起こし、2月20日に朝廷に報告された(『中右記』『殿暦』)。この「佐通(資道・輔通)」は、かつて後三年の役で、十三歳にして義家に従って活躍した藤原資通とされ、対馬守義親と同時期に「対馬権守」であることから義親に近い人物だったと思われる。その「佐通」の官使殺害は義親に同心した結果と思われるが、朝廷は義親の度重なる狼藉に対し、12月28日、隠岐国への流罪とすることで決着。結果、義親は隠岐へ流され、従類二人は周防国と阿波国へ流罪、舅で「同類」とされた「前肥後守高階基実」は除名の上、贖銅を命じられた。
高階業遠―+―高階業俊―+―高階経成―――高階経敏―――高階通憲
(丹波守) |(美濃守) |(筑前守) (長門守) (藤原通憲入道信西)
| |
| +―高階基清―――高階基実―+―娘
| (肥後守) |(堀河院内侍肥後)
| |
+―高階成佐 +―娘
|(筑前守) | ‖
| ‖――――――高階惟章===高階惟頼 | 源義親
| 源頼信娘 (河内守) (源義家子)|(対馬守)
| |
| +―娘
| | ‖―――――――藤原信成
| | 藤原仲隆 (崇徳院蔵人)
| |(関白家勾当)
| |
| +―娘
| | ‖―――――――藤原行通
| | 藤原尹通 (無官)
| |(左衛門佐)
| |
| +―娘
| ‖―――――――藤原光能
| 藤原盛経 (皇嘉門院判官代)
| (上総介)
|
+―高階成章―+―高階為家―+=高階基章―――娘
|(大宰大弐)|(備中守) |(実源家実子) ‖―――――+―平重盛
| | | ‖ |(内大臣)
| | | ‖ |
| | | 平清盛 +―平基盛
| | | (太政大臣) (越前守)
| | |
| | +―高階宗章―――高階清章
| | (加賀守) (皇后宮大進)
| |
| +―高階為遠―+―高階家行―――高階為清
| (丹波守) |(大舎人頭) (佐渡守)
| |
| +―娘
| (白河院尾張)
|
+―高階成経―――高階泰仲―――高階重仲―――高階泰重
(判官代) (伊予守) (近江守) (若狭守)
‖―――――――高階泰経
‖ (大蔵卿)
藤原宗兼―+―娘
(修理) |
‖ |【池禅尼】
‖ +―娘 +―平家盛
‖ ‖ |(右馬頭)
‖ ‖ |
‖ ‖―――――+―平頼盛
‖ ‖ (権大納言)
‖ ‖
‖ 平忠盛―――――平教盛
‖ (刑部卿) (権中納言)
‖ ‖――――――――平教経
藤原有信―+―娘 +―娘 (能登守)
(右中弁) | |
| |
+―藤原実光―――藤原資憲――+―藤原親光
|(権中納言) (皇后宮大進) (対馬守)
|
+―藤原宗光―――藤原経尹――+―藤原範綱
(右大弁) (阿波守) |(兵庫頭)
|
+―藤原有範―――――範宴【親鸞】
(皇太后宮権大進)(善信房)
こうした義親騒動の最中である7月21日、堀河天皇の白河新御願寺・尊勝寺の供養会が行われた。このとき正盛は「已上重任宣旨被下」とあることから(『中右記』)、このときまでに若狭守の「重任」が認められていたことがわかる。この重任は「曼陀羅堂若狭」とあるように(『中右記』)、若狭守正盛が尊勝寺内に曼荼羅堂を造営した重任功によるものである。その任期が満了する嘉承元(1106)年ごろに因幡守へ遷任されたと思われる。一方、こうした中で子の不始末で暗い晩年を過ごしていた源義家が病死した。院と対立して凋落していく河内源氏の代表たる源義家と、院に接近して栄達する伊勢平氏庶流の正盛の姿が垣間見られる時代である。
嘉承2(1107)年12月、隠岐に流されていたはずの源義親が出雲国に現れ、出雲守藤原家保の目代を殺害したことが京都に報告された(『中右記』)。義親は隣国にも影響力を及ぼしていることがわかり、朝廷は出雲国の隣国・因幡国の受領である因幡守平正盛を義親追討使に選任。正盛は12月19日に出雲へ向けて出陣した。このとき若き摂政藤原忠実は「賜馬正盛、馬厩案主を為使」ている(『殿暦』)。摂関家の家司を務めていた藤原為房との関わりによるものか。
追討使・正盛は周辺の国々の兵を集めながら任国の因幡国衙に入り、翌嘉承3(1108)年正月6日に因幡国から出雲国に入り、義親と合戦して勝利した。余談だが、この義親との戦いで、「故備前守の真前懸て、公家にも知られたりし山田荘司行末」という伊賀国住人がいた(『保元物語』)。義親を討った正盛は、「切悪人源義親首幷従類五人首了」したこと使者に託し、かつて仕えた藤原為房に伝達した。この義親殺害の報を受けた為房は19日、緊急の報告があるため宮中の殿下御直廬まで参内すべきこときことを公卿中に報じて参内、「因幡守平正盛従国申上」た報告書として義親一党の殺害に成功したことと「来月上旬可上洛」を伝えた(『中右記』)。この報告に白河院は「御気色云、此間事何様可被行哉、又可有勧賞哉、如此事内々可議申」すよう指示している(『中右記』)。
正月23日、白河院から藤原為房へ「先於勧賞者、正盛雖不上洛、早可被行也」という文書が下された。これは「前九年の役」の際の陸奥守源頼義の先例に沿うものである。そして翌24日夜の除目で、正盛は上国の「但馬守」に遷任。さらに「以男盛康任右衛門尉、以平盛良任左兵衛尉」と子の平盛康と一族の平盛良にも官職が与えられるという優遇ぶりであった。なお、「男盛康」とは正盛の従兄弟・大夫尉平盛国の子の平盛康であり、正盛の養子になっていたのだろう。また「平盛良」は盛康の従兄弟にあたる人物で、彼らはいずれも正盛の伯父・下総守平季衡の子孫である。院の引立てで立身した庶流の正盛に従属していく姿が見える。
●正盛周辺系図
平正度―+―平季衡―+―平季遠―――平盛良
(常陸介)|(下総守)|(相模守) (左兵衛尉)
| |
| +―平盛国―――平盛康―――平盛範
| (大夫尉) (右衛門尉)(兵衛尉)
|
+―平正衡―――平正盛―+―平忠盛―――平清盛
(出羽守) (讃岐守)|(刑部卿) (太政大臣)
|
+=平盛康
(右衛門尉)
そして、この破格の行賞に対し、藤原宗忠は「件賞雖可然、正盛最下品者、被任第一国、依殊寵者歟、凡不可陣左右、候院辺人天之与幸人歟」「雖軍功、而下攝g被任第一国、世不甘心、就中未上洛前也、依候院北辺也」と、皮肉を込めて批判している(『中右記』)。正盛がいつごろ「候院辺」「候院北辺」、つまり北面の武士となったかは定かではないが、この頃には所謂北面の武士となっていた。
正月29日、正盛は義親と従者四人の首を五人の下人に持たせた槍に突き刺して久我、鳥羽を経て北上。正盛は甲冑の歩兵四、五十人を先頭に進み、降人一人を馬に乗せて具し、郎従百人程を後陣に従えて入京。九条から七条末河原を経て、首を検非違使の大夫尉平兼季・源光国両名に引き渡した。ここから七条大路を西へ行き大宮から西獄門に到着し、義親らの首は樗樹に懸けられた。この正盛の行列を見るため、多くの見物人で道があふれる状態だった(『中右記』)。なお、天永2(1112)年8月21日の上皇の相撲御覧の際、相撲人として見える「清原重国」は「伊賀住人、字首持、義親首入洛、仍名流世」だったとあり(『長秋記』)、彼が義親の首を持った五人の下人の一人だったことがわかる。おそらく伊賀国にあった正盛の私領を通じた郎等だろう。しかし、ある公卿からは「今年大嘗会可被行之歳也、而切犯人首移入洛中条、頗可有用心歟、犯過不軽、縦雖被追討、猶入洛事不被甘心云々」という批判が出ている(『中右記』)。これも正盛が院北辺に伺候する下揩ノ対する反発もあったのだろう。
こうした批判の中、批判していた当の宗忠は天仁元(1108)年4月18日、「土佐守盛実朝臣、但馬守正盛」に対して「遣五條券文」している(『中右記』)。この「五條券文」の裏書に「渡但馬地丈尺 七戸主十六丈八尺」とあり、宗忠から正盛へ宗忠所有の土地が渡されていることがわかる。この五條の地は、康和5(1103)年11月16日の五條辺の火災で焼失した五條烏丸の宗忠第があった土地と思われ、宗忠は長治2(1105)年10月3日に中御門富小路亭(もと土佐入道頼仲の屋敷地)へ移ったのち、この五條烏丸の地を所縁のある人物へ譲り渡したものと思われる。正盛が譲り受けた分は「七戸主十六丈八尺」とあるので、面積としては三百六十六余平方丈(3,360坪余)、実に四分の一町という広大な地であった。おそらく正盛はこの地に屋敷を構えて住んだと思われるが、その記録は残っていない。なお、宗忠の異母弟・藤原宗通は五條坊門高倉に、その子・藤原成通は隣接する五條坊門万里小路にそれぞれ屋敷があり、五條烏丸から五條坊門の一帯は、宗忠・宗通の父・権大納言藤原宗俊からの相伝の地だったのかもしれない。
■白河院の近臣・平正盛
8月29日の除目で長男の平忠盛が「左衛門少尉」に任官した(『中右記』)。忠盛はときに十三歳であり、異例の抜擢であった。正盛が白河院の信任を受けていたことによる任官であろう。11月1日の春日祭では「但馬守平正盛」が白河院の仰せによって春日祭使の摂政藤原忠実の御共人を務めており、ここでも院の信任ぶりをうかがい知ることができる。
天仁3(1110)年6月23日、「丹後守正盛」は新しく建立した六波羅蜜堂の供養会を行った。「紫城東面、清水西頭、有一名区、本是雲泉蕭條之地」に建てられた寺院には、「三間四面檜皮葺堂一宇」に「丈六皆金色阿弥陀如来像一體」が安置され、「以此功徳、先奉資禅定仙院乃至女大施主殿下」することを祈ったものであった。「女大施主殿下」は摂政藤原忠実の祖母・源麗子(藤原師実室)のことであり、白河院在位時の中宮源賢子の養母である。麗子は白河天皇と賢子との間の長女・媞子内親王(郁芳門院)の世話もしていた。そして、内親王が若くして亡くなったのち、その菩提所六条院に真っ先に私領を寄進したのが正盛であった。源麗子が正盛の六波羅蜜堂に「大施主殿下」として関わることとなったのは、六条院との関係が寄与したものと考えられる。正盛は二年後の天永3(1112)年11月11日、六波羅にほど近い「珍王寺(珍皇寺)」より二か所(八段、一町)を借り受けているが(『丹後守正盛朝臣請文』)、このうちの一所は、「安富領垣根」とあることから、正盛(この土地を借地した際の仮名として正盛は「内蔵安富」と署名している)はすでに六波羅に私領を有していたことがわかる。この私領と六波羅蜜堂との関係はわからないが、おそらく六波羅蜜堂と近隣の地だろう。
藤原道長―+―藤原頼通――――藤原師実
(太政大臣)|(太政大臣) (太政大臣)
| ‖――――――藤原師通―――藤原忠実――藤原忠通
| ‖ (内大臣) (太政大臣)(太政大臣)
+―藤原尊子 ‖
‖ ‖ 白河天皇
‖ ‖ ‖――――+―堀河天皇――鳥羽天皇―+―崇徳天皇
‖ ‖ ‖ | |
‖ ‖ ‖ | |
‖ +―源麗子====源賢子 +―媞子内親王 +―後白河天皇
‖ | ↑ (郁芳門院)
‖ | ↑
‖ | +―源賢子
‖ | |
‖ | |
‖―――――+―源顕房――+―源師子
藤原安子 ‖ |(右大臣) |(藤原忠実室)
‖―――――為平親王――娘 ‖ | |
‖ (式部卿) ‖――――――源師房 | +―源雅実――――源雅定
村上天皇 ‖ (右大臣) | (太政大臣) (右大臣)
‖ ‖ |
‖―――――――――――具平親王 +―源俊房――+―源師時
荘子女王 (中務卿) |(左大臣) |(権中納言)
| |
+―仁覚 +―仁寛
(天台座主) (阿闍梨)
そして、同年10月12日の除目で「但馬正盛、丹後家保、相伝、是依賀茂、八幡御塔事」と(『中右記』)、正盛と藤原家保(院近臣の重鎮・藤原顕季の子)がそれぞれ加茂社と石清水八幡宮への宝塔造営を請け負ったことによる功によって、正盛は丹後守へ、家保は但馬守へ遷任された。八幡宮宝塔の木造始は8月8日に行われており、翌天永2(1111)年3月17日、八幡宮において、「丹後守正盛」造営の多宝塔一基の供養が行われ、多くの公卿、公家衆、諸大夫が参向した(『中右記』)。
天永3(1112)年正月9日、春日祭上卿に任じられる予定の中納言藤原忠通に対し、白河上皇から雑事について仰せがあった。春日祭上卿には本来「武者」が必ず共人として附くが、今回の春日際には「無可参武者」という有様で「早正盛丹後守件男須候」と指示を受けたようだが、忠通は「雖然有憚云々」と抵抗している(『殿暦』)。正盛が実際に春日祭に共人として参加したかは不明だが、共人に名が記されていないため、おそらく不参加となったと思われる。
天永4(1113)年2月25日夜、白河上皇は正盛の「六波羅堂」に御方違している(『殿暦』)。さらに閏3月2日にも「依方違上皇御六波羅辺丹後守正盛堂云々」とある(『殿暦』)。白河院と正盛のつながりの深さのほか、鍾愛の亡き郁芳門院所縁の義姑・源麗子が六波羅堂に関与していたことも、こうした白河院の行幸に繋がっているのだろう。
■永久の強訴
天永4(1113)年閏3月29日、延暦寺の大衆が二千余りが山所司・神人三十八人を伴って山を下り、清水寺に乱入して「房舎」を破壊する事件が起こった(『殿暦』『長秋記』)。人数は「四五百人許」とも(『中右記』)。これは先日、「山階大衆」が上洛して強訴に及び、「祗園所領損亡」したことによる報復であった。
山門大衆は「山階寺僧々都実覚」の流罪を要求して、夜中に祇園社の神輿を奉じて院御所の大炊御門万里小路殿の「北御門辺」に押し寄せた(『殿暦』『長秋記』『中右記』)。院御所は「皇居近隣」だったため、朝廷は院御所と皇居(大炊御門富小路殿)に「武士済々在院幷内陣辺」「武士張陣終夜固守」る非常事態の態勢を取った(『長秋記』『中右記』)。僧侶らは天を揺るがすほどの叫喚の声をあげながら院御所門前に近づいたとき、甲冑を帯びて完全武装した「出羽守光国、丹後守正盛」が進み出て大衆を威嚇。大衆は万里小路の方へどっと後退りした(『長秋記』)。
4月1日、摂政藤原忠実は院御所へ入ると、院御所内直廬で大衆への対応をめぐって僉議が行われ、結局山門大衆の要求を「許有沙汰」と議決。大衆は満足して比叡山へと帰って行った(『殿暦』)。一方で早くも当日中にはこの議決が興福寺側へ伝わっていたようで、翌2日、白河院は「奈良衆徒可参上由有其聞、能々可制止」と摂政藤原忠実に命じている。しかし、忠実にはこれまでこうした報告はなかったようで、同日に届いた「僧正消息」によってようやく大衆が奈良を発向した事実をつかんだ(『殿暦』)。この僧正とは興福寺別当の覚信僧正のことで、忠実には叔父にあたる人物。白河院が摂政忠実よりも多くの情報網を持っていたことがうかがえる。翌3日朝、白河院から大衆の事を問われてその返答をするも、「事体極見苦也、大衆沙汰凡無術事」と述懐し、こうした不手際も手伝ってか、忠実は4月14日に太政大臣を辞する(『殿暦』)。忠実はその後も長者宣を以て興福寺を抑えようと試みるも失敗。白河院からも大衆を抑え込むよう矢の催促を受けるが、ついに18日、白河院に「被仰旨誠無術、仍力不及」と奏上するに至る(『殿暦』)。若い忠実の未熟さも手伝って弱体化していた摂関家の姿が垣間見える。
藤原道長――藤原頼通――藤原師実―+―藤原師通――藤原忠実―+―藤原忠通
(太政大臣)(太政大臣)(太政大臣)|(内大臣) (太政大臣)|(太政大臣)
| |
+―覚信 +―藤原頼長
(大僧正) (左大臣)
4月9日、興福寺衆徒によって、朝廷に「山階寺大衆三箇条訴」が提出された。これは「張本」とされた天台座主仁豪・法性寺座主定慶の流罪、祇園社はもともと春日社末社であるのでその履行、実覚僧都の流罪不可の三箇条で、興福寺衆徒は春日社神輿はもちろん、源氏と所縁の深い薬師寺・東大寺・八幡の神輿をも奉じており(『右中記』)、「藤氏公卿」だけではなく「源氏公卿以下」をも巻き込んで要求を果たそうと勢い込んでいる様子がうかがえる。
白河院は南都衆徒の上洛を阻止するべく、4月24日、検非違使を宇治、淀、西坂本、鴨河原に派遣することを指示。一方、4月28日には南都衆徒の大量上洛が始まった。翌29日、延暦寺の大衆も甲冑を着込んで山を下り、鴨川の「東河原」へ到着した(『長秋記』)。南都勢は宇治南辺まで進んで陣を張り、さらに宇治一坂南原へ進んだ。これに対峙する官軍は「武士丹後守正盛以下、天下武者源氏平氏輩」が宇治一坂辺に遣わされており、ついに合戦がはじまった。戦いは互いに死者、負傷者を出す激戦となり、「検非違使平正盛、源重時、平忠盛行向」い、「数千人(数十人カ)」を射殺したとされる(『右中記』)。結局南都側が敗れ、興福寺僧三十余人が射殺され、俗兵士(興福寺領から徴発された兵士)や神人九十名他が負傷、官軍も「郎等中為宗者二人」が射落とされ、数十名が負傷した。この合戦で派遣された官軍は検非違使が主体となっているが、本来派遣を命じるはずの検非違使別当・藤原宗忠には何ら指示がなく、「是依群議院所指遣也」と白河院が直接検非違使を動かしたことがわかる。宗忠はこのいわば越権ともいえる院の行為に対し「頗雖不得心、被射興福寺大衆了、予不仰下何事之有哉」と、虚脱感に襲われていた(『右中記』)。
こののち、正盛は但馬守から「備前守」へと遷任するが、その除目記事は伝わらない。ただし、少なくともこの年の10月1日までには備前守となっており、おそらく「永久の強訴」での宇治合戦の功績が認められての遷任だろう。
■中宮璋子の家司に就任
10月1日、「院女御世人云祗園女御、於備前守正盛六波羅蜜堂」で一切経供養が行われた。「依仰院」って摂政藤原忠実をはじめとして多くの上達部、殿上人、前々斎院らが参会し、十種供養と楽舞が奉納されている(『殿暦』)。この日の早朝、公卿衆へ白河院より「正盛堂六波羅」で行われる「上皇辺一切経供養」へ「雖無指催必可参者」という指示が届けられており(『長秋記』)、本来、藤原忠実や源師時は「按察使大納言」の九条堂供養に呼ばれていたが、正盛の六波羅堂供養を優先させている(『殿暦』『中右記』)。また、急な催促だったようだが、多くの公卿衆が参集しており、院と祇園女御、正盛の深い繋がりを公卿衆に見せつける形となった供養会だった。
永久2(1114)年2月20日、雨の中で白河院は御願寺の法勝寺にて千僧御読経を行った。その後、大炊御門殿へ還御の途次、法勝寺にほど近い御所・白河泉殿に立ち寄ったが、御所内に新御堂の建立を志して、大工國貞を召して設計をはじめさせ、「備前守正盛」に地形を沙汰させた。このことからこの日の法勝寺供養に正盛が供奉していたことがうかがえる。正盛は白河泉殿新御堂の造営担当者となり、8月2日に無事上棟式が行われた。そして11月29日、ようやく落成した新阿弥陀堂の落慶法要が行われ、この新阿弥陀堂建立の賞によって、「備前守正盛、重任」となった(『殿暦』)。
家司氏名 | 官位 | 官職 |
藤原長実 | 正四位下 | 伊予守 |
藤原家保 | 正四位下 | 但馬守 |
藤原顕隆 | 正四位下 | 右大弁、内蔵頭、越前権守 |
藤原顕輔 | 従四位上 | 中務大輔、加賀守 |
高階為遠 | 従四位上 | 丹後守 |
高階宗章 | 従四位下 | 若狭守 |
平正盛 | 従五位上 | 備前守 |
平忠盛 | 従五位下 | 伯耆守、右馬権頭 |
白河院
↑
↑【乳母】
藤原親国――藤原親子 +―藤原長実
(大和守) (従二位) |(伊予守)
‖ 【院近臣】 |
‖――――――藤原顕季――+―藤原家保
‖ (修理大夫) |(但馬守)
‖ |
藤原隆経 +―藤原顕輔
(美濃守) (中務大輔)
璋子は12月13日に鳥羽天皇の妃として入内。12月16日に女御宣旨を被り、翌元永元(1118)年正月26日、中宮に冊立されたのに伴い、中宮大夫藤原宗通以下、中宮職が定められた。そして、翌元永2(1119)年正月5日、「中宮御妊帯事」が催され、中宮大夫民部卿藤原宗通、中宮権大進紀伊守清隆がその任に当たった(『長秋記』)。いよいよ御産が近づき、5月28日申一刻、「男皇子誕生」した。この天下慶事に際して「於南庭丈六仏五体被造始」られ、その造始を「平正盛」が担当することとなる(『長秋記』)。6月16日、宮の御名を「為仁論語文」「顕仁周易文」のいずれかに定めることとし、結局「顕字尤勝、後漢顕宗賢帝名也」「為字是一品為貞親王名也、彼人不至帝位、乃申劣由也者」から、「顕仁」が妥当とされ決定され、6月19日、親王宣下を受けて「顕仁親王」となった(『長秋記』)。この鳥羽天皇第一皇子がのちの崇徳天皇、保元の乱の当事者の一人となる。そして顕仁親王家の「御監」に抜擢された「兵衛尉忠政」、「侍」に見える「平盛康、平盛時、平正弘、平盛兼、平貞基」はいずれも伊勢平氏の一族で、忠政は正盛の次男・平忠正である。
●元永2年6月19日顕仁親王家諸職
家司 | 伊予守長実朝臣 | 播磨守基隆朝臣 | 頭弁顕隆朝臣 | 但馬守家任朝臣 | 右衛門権佐顕頼 | |
職事 | 権右中弁伊通朝臣 | 左少将忠宗朝臣 | 中宮少進権亮実能朝臣 | |||
侍 | 中宮少進範隆 | 右衛門尉平盛康 | 左衛門尉平盛時 | 左衛門尉平正弘 | 左兵衛尉平盛兼 | 左兵衛尉平貞基 |
蔵人 | 為隆男 | 文章生宗保男 | ||||
御監 | 兵衛尉忠政 |
また、同じころの5月6日夜、藤原宗忠が院での御仏供養ののち、関白藤原忠実と深更に及ぶまで雑談し、「近日京中強盗毎夜不断、仍被仰備前守正盛、可尋進之由被仰下云々」ということを聞く。正盛は院の命を受けて京中の強盗追捕にあたり、強盗を捕縛して検非違使に進めたのだろう。5月26日、「強盗追捕之賞」として「正五位下」に叙された。
7月29日夜、俄に雷鳴が鳴り響き、轟音が轟いた。藤原宗忠がのちに聞いた話では、このとき「落備前守正盛春日富小路高倉新造宅門上、門損」だったという。このころ「春日富小路高倉」に新築の邸を建てたことがわかる。
8月16日、「備前守正盛」は講師に法印永縁を招いて六波羅堂供養を行った。永縁法印大僧都は興福寺権別当で、院や祗園女御ともかかわりの深い人物。二年後の保安2(1121)年7月27日には興福寺別当職に就任している(『興福寺別当次第』)。正盛の六波羅堂供養にたびたび講師として招かれており、正盛との因縁がうかがわれるが、その関係は不明。
9月21日、白河院が「被始熊野御精進」れるに及び、院近臣の堂上、院北面に伺候する武士、院の職員が供奉している。このうち、北面の武士としては「北面下摧前守正盛」が筆頭に挙げられており、正盛と並んで受領の北面である藤原盛重は白河院の寵臣として知られる人物である。
●元永2年9月21日白河院熊野詣供奉人
先達 | 権律師頼基 | ||||||
御経供養導師 | 権律師忠尋 | ||||||
院近臣(堂上) | 左宰相中将信通 | 播磨守基隆朝臣 | 丹波守家保朝臣 | 美作守顕輔朝臣 | 若狭守宗章朝臣 | 左近大夫為重 | |
院北面 | 備前守正盛 | 石見守盛重 | 平貞賢 | 源季範 | 平盛兼 | 源近康 | 平季宗 |
庁官 | 伴時平 | 高向頼兼 | 紀行友 | 清原季兼 | 菅野頼経 | 大江為良 |
■晩年の正盛
元永2(1119)年11月から12月ごろ、院より正盛に対して、仁和寺寛助僧正領・肥前藤津荘の前荘司平清澄の子・平直澄を追捕すべき宣旨が下された。仁和寺寛助僧正が白河院と親密な僧侶だったこともあって、院は信頼厚い武臣・正盛へ追捕を命じたものだろう。正盛は直澄の首を取って京に運び、12月27日に検非違使へ引き渡している(『中右記』)。平直澄の首が入洛した際に、降人の源常弘(五位の位階を持っていた)とその子・某丸、紀権守(平直澄舅)の三人も引き回されている。
ただし、直澄の追討については「遣郎従搦得」(『長秋記』)とあって、正盛自身は出陣していないことがわかる。さらに、入京後の検非違使へ引き渡す儀式についても、「但正盛不具、以郎等進、於六條河原、検非違使受取」とあって(『中右記』)、正盛がこの頃には脳血管疾患等により倒れ、体の自由が利かなくなっていた様子が垣間見える。なお、正盛の随兵百人は多くが「西海南海名士」であったという(『中右記』)。天永4(1113)年以降、正盛は備前国の受領であり、瀬戸内海を通じて四国、九州諸国との関係を築いていたのだろう。このことがのちの「平家」と西国との関わりの原点になったのかもしれない。
この直澄追討の功績により、正盛は「叙一階」された(『長秋記』)。別書には、翌元永3(1120)年正月6日、「備前守正盛叙従四位下、是犯人追捕賞者、人驚除目」とあり(『中右記』)、この日の除目で「正五位下」から一階上がって「従四位下」に叙されたことがわかる。なお、「正五位下」の一階上は本来は「正五位上」であるが、この当時「正五位上」は飛ばされ、「四位」「従四位下」へ叙される慣例だったことが『公卿補任』等から確認できる。
正盛が派遣した郎等によって討たれた平直澄は肥前国藤津荘(仁和寺寛助僧正領)の前荘司平清澄の子で、平清澄が元永元(1118)年冬に何らかの不手際を犯し、領主の寛助僧正によって勘当され、京都に召喚され留め置かれた。かわって新荘司として僧範譽が遣わされたが、現地に残っていた清澄の子・平直澄は後禍を恐れて主家の命に抗わずに荘務を行っていた。しかし直澄は京都でつらい思いをしているであろう父・清澄へ宛てて密かに盗んだ米を送っており、これが三、四回発覚して差し押さえられてしまう。これを怨んだ直澄は荘司の範譽とその妻を拉致して海島に監禁した上、食料を与えることもしなかった。さらに、抵抗したと思われる範譽の郎従五、六人を殺害し、事が大きくなってきたことから仁和寺から院へと通報され、院宣による追討へと繋がったと思われる(『中右記』)。
保安元(1120)年12月14日の除目で院近臣・讃岐守藤原顕能と相伝して「讃岐守」に遷任するが、その後の正盛の活躍は伝わっていない。おそらく元永2(1119)年の「但正盛不具」となった脳血管疾患(推測)ののち、回復せずに亡くなったと思われる。
亡くなった時期については、久安5(1149)年に「正四位上行播磨守平朝臣忠盛」が「為先考聖霊、頓証菩提、出離生死、往生極楽」のために書写した『紺紙金字阿弥陀経』(五島美術館蔵)の日付ならびに、保安2(1121)年6月26日、播磨守藤原基隆が讃岐守に遷任していることから推測すると、保安2(1121)年4月2日と思われる。享年法名ともに不明ながら、天仁3(1110)年6月当時「是百年半過」とあるため(『江都督納言願文集』「丹後守正盛堂供養願文」)、保安2(1121)年当時には六十歳を若干超えていたと推測される。
●参考文献
『清盛以前』 高橋昌明著(図書出版文理閣 2004)
『大日本史料』
『台記』 藤原頼長著(臨川書店 1982 史料大成)
『中右記』 藤原宗忠著(臨川書店 1975 増補史料大成)
『長秋記』 源師時著(臨川書店 1965 増補史料大成)
『殿暦』 藤原忠実著(東京大学史料編纂所編 岩波書店 1965 大日本古記録)
『尊卑分脉』
『公卿補任』
『平家物語』
『保元物語』
『興福寺別当次第』
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