●伊勢平氏略系譜
平高望―+―平国香――+―平貞盛――平維衡――+―平正能――+―平貞弘―+―平正弘―+―平宗能
(上総介)|(常陸大掾)|(陸奥守)(左衛門尉)|(刑部少輔)|(下野守)| |(検非違使)
| | | | | |
| +―平繁盛 | +―平維正 +―平正綱 +―平度弘―――平範頼
| (秋田城介) | | |(勾当) |
| | | | | 【歌人】
| | +―平正俊 +―平敦盛 +―平有盛―――覚盛
| | (大学助)|(薩摩守) (修理亮) (大夫公)
| | |
| | +―平兼光
| | (内匠助)
| |
| +―平正輔――+―平正仲
| |(安房守) |(左京進)
| | |
| | +―平成仲
| | |(縫殿允)
| | |
| | +―平正基
| | (安房三郎)
| |
| +―平正度――+―平維盛―+―平貞度
| |(常陸介) |(駿河守)|(筑前守)
| | | |
| | | +―平宗盛―――平盛信
| | | |(下総守) (掃部大夫)
| | | |
| | | +―平盛忠
| | | |(民部大夫)
| | | |
| | | +―平盛基―――平盛時
| | | (信濃守) (伊予守)
| | |
| | |
| | +―平貞季―+―平季範―+―平貞保―――平盛房
| | |(駿河守)|(筑後守)|(庄田太郎)(斎院次官)
| | | | |
| | | | +―平季盛
| | | | |(主殿助)
| | | | |
| | | | +―平範仲―――平季弘
| | | | (山城守) (筑前守)
| | | |
| | | +―平正季―――平範季―――平季房―+―平季宗
| | | |(右京進) (進平太) (三郎) |(兵衛尉)
| | | | |
| | | +―平兼季―+―平季盛 +―平家貞
| | | (上総介)|(平先生) (筑前守)
| | | |
| | | +―平貞兼
| | | |(兵衛尉)
| | | |
| | | +―平盛兼―――平信兼―――平兼高
| | | (大夫尉) (和泉守) (山木判官)
| | |
| | +―平季衡―+―平季遠―――平盛良
| | |(下総守)|(相模守) (大夫尉)
| | | |
| | | +―平盛光―+―平盛行
| | | |(帯刀長)|(兵衛尉)
| | | | |
| | | | +―平貞光
| | | | (木工大夫)
| | | |
| | | +―平盛国―――平盛康―――平盛範
| | | (大夫尉) (伊予守) (兵衛尉)
| | |
| | +―平貞衡―――平貞清―――平清綱―――平維綱
| | |(右衛門尉)(安津三郎)(鷲尾二郎)(右衛門尉)
| | |
| | +―平正衡―――平正盛―――平忠盛―――平清盛―――平宗盛
| | (出羽守) (讃岐守) (刑部卿) (太政大臣)(内大臣)
| |
| +―平正済――+―平正家―――平資盛―――藤原敦盛――藤原有盛
| (出羽守) |(駿河守) (大学助) (薩摩守) (図書助)
| |
| +―平貞弘―――平正弘―――平家弘―――平頼弘
| (下野守) (大夫尉) (大夫尉) (左衛門尉)
|
+―平良持――――平将門
|(鎮守府将軍)(新皇)
|
+―平良兼――――平公雅
|(下総介) (下総権少掾)
|
+―平良文――――平忠頼
|(村岡五郎) (陸奥介)
|
+―平良正
(水守六郎)
(????-????)
陸奥守平貞盛の養子(貞盛の孫)。実父は不明。母は不明。妻は陸奥国住人長介女(『尊卑分脉』)、源満扶女(『桓武平氏諸流系図』)。官位は五位(『権記』。官職は左衛門尉、下野守、伊勢守、上野介、備前守、常陸介。
維衡については「此レハ陸奥守貞盛ト云ヒケル兵ノ孫ナリ」とされている(『今昔物語集』巻廿三)。貞盛は「甥并ニ甥ガ子ナド皆取リ集テ養子ニシケル」され(『今昔物語集』巻廿五)、実子も養子も諱に「維」という一字を与えている。甥子の平維茂は「余五君」と呼ばれ貞盛の十五男に擬されており、少なくとも十五人の子・養子がいた。
●平貞盛周辺の系譜(貞盛の子・養子は「維」字を用いる)
平国香――+―平貞盛―+―平維敏 +―平中方
(常陸大掾)|(陸奥守)|(肥前守) |(左衛門少尉)
| | |
| +=平維将――――平維時――+―平直方
| |(肥前守) (上総介) (上総介)
| |
| +=平維叙――+―平維輔
| |(上野介) |(左衛門尉)
| | |
| | +―平貞叙
| | (左衛門尉)
| |
| +=平維衡――+―平正輔
| (常陸介) |(安房守)
| |
| +―平正度――――平正衡――――平正盛―――平忠盛―――平清盛―――平宗盛
| |(越前守) (出羽守) (讃岐守) (刑部卿) (太政大臣)(内大臣)
| |
| +―平正済
| (出羽守)
|
+―平繁盛――+―平維忠
(武蔵権守)|(出羽守)
|
+―平兼忠―+―平維茂
|(上総介)|(鎮守府将軍)
| |
| +―平維良
| (鎮守府将軍)
|
+―平維将―――平維時――――平直方――――――――――娘
|(肥前守) (上総介) (上総介) ‖―――――源義家
| ‖ (陸奥守)
| ‖
| 源頼義 平成衡
| (陸奥守) (小太郎)
| ‖ ‖
| ‖―――――娘
+―平維幹―――平為幹――――平繁幹――+―平致幹―――娘
|(左衛門尉)(散位) (上総介) |(多気権守)
| |
+―平安忠 +―平清幹―――娘
(菊田権守) |(多気権介) ‖―――――源昌義
| ‖ (佐竹冠者)
| 源義業
| (進士判官代)
|
+―平政幹―――娘
(常陸大掾) ‖―――――平常胤
‖ (千葉介)
平常重
(千葉介)
■『今昔物語集』の維衡
貞盛が「丹波守ニテ有リケル時」、「我ガ子ノ左衞門尉」に「児干」を所望したことが見える(『今昔物語集』巻廿九)。『今昔物語集』のこの条においては「左衛門尉」のあとが削られているため、この「左衛門尉」が維衡であると断定することはできないが、一書に拠れば「維衡」と記載されているものもあるため、この条に載せる。
貞盛が丹波守の時期は天禄3(972)年正月から天延2(974)年12月までで、さらに、説話中に「夷乱れたりとて陸奥国へも遣さむとすなり」と、陸奥守への転任が仄めかされていることから、天延2(974)年ごろの説話とすると、このころ確実に左衛門尉に任官していた貞盛の子(含養子)は平維将のみである。維将は天延元(973)年4月17日に左衛門少尉へ移っている。
この説話は、作者が「貞盛ガ一ノ郎等、館諸忠ガ娘ノ語リケルヲ聞キ継」いだ話ということだが、貞盛は「悪シキ瘡」を病み、医師からその腫瘍を取り去るには「児干(胎児の肝)」が必要であると聞いたため、子の「左衛門尉」に「其コノ妻コソ懐妊シタナレ、其レ我レニ得サセヨ」と、懐妊している「左衛門尉」の妻の腹にいる胎児を所望したという話である。「左衛門尉」は嘆き悲しんでこの医師に相談し、結局「左衛門尉」の妻と子は死を回避できたのだが、貞盛はこれにあきらめず、他に求めて犠牲が出た。そして、貞盛の腫瘍は治った。
貞盛は腫瘍が治った礼として、この医師に馬や装束、米などを与えて都へ返したが、その後、「左衛門尉」を呼び、「我ガ瘡ハ疵ニテ有リケレバ、児干ヲコソ付テケレト、世ニ弘ゴリテ聞ヘナムトス、公モ我ヲバ憑モシキ者ニ思食シテ夷乱レタリトテ陸奥国ヘモ遣サムトスナリ、其ニ、其ノ人ニコソ射ラレニケレト聞ヘムハ極ジキ事ニハ非ズヤ、然バ、此ノ医師ヲ構ヘテ失ヒテムト思フヲ、今日京ヘ上セムニ行キ会ヒテ射殺セ」と命じた。つまり、貞盛はこの医師が京都で「貞盛が矢傷を負って児干を用いた」と触れまわると、朝廷が自分を頼もしきものとして蝦夷討伐のため陸奥国へ遣わされようとしている今としては非常に困ることとして、医師を殺そうとしたのだ。
「左衛門尉」は「糸安キコトニ候フ、罷上ラムヲ山ニ罷リ会ヒテ、強盗ヲ造リテ射殺シ候ヒナム、然レバ、夕サリ懸ケテ出ダシ立タセ給フベキナリ」と答え、強盗に襲われた体を装うので医師を夕方に出立させるよう告げ、屋敷を出た。しかし、「左衛門尉」は医師に妻と子を助けられた恩義があるので、密かに医師に会って貞盛の計画を伝えた。
「左衛門尉」は一計を案じ、「上リ給ハムニ、山マデ送リニ付ケラルル判官代ヲバ馬ニ乗セテ、其コハ歩ニテ山ヲ越ヘ給ヘ」と、貞盛から山まで付けられる在庁官人の判官代を馬に乗せて、医師には徒歩で従者を装わせることを提案し、医師は帰途、その通りに山で馬を下り、判官代を馬に乗せて従者を装った。そこへ出てきた「盗人」は、判官代を主と思って射殺。医師は散り散りになって逃れた従者に紛れて無事に京都へ辿りつくことができた。
その後、貞盛の耳に「医師ハ存シテ京ニ有リテ、判官代ヲ射殺」したことが聞こえてきた。貞盛は、「此ハ何ニシタル事ゾ」と「左衛門尉」を質したが、「左衛門尉」は「医師、歩ニテ、従者ノ様ニテ罷リケルヲ知ラズシテ、判官代ガ馬ニ乗リタルヲ主ゾト思」って誤射したものであると釈明したため、貞盛もそれ以上は聞くこともなかったという。『今昔物語集』の作者もこの貞盛の我儘のために「児干」を取る行為について、「奇異シク慚ナキ心ナレ」と批判している。
■伊勢国に地盤を固める
維衡は「焼けたりしかば、故一条院のこれひらして造らせ給へり堀河の院」と、焼亡していた「堀河院」を再建したことが知られる(『栄花物語』巻十六 もとのしずく)。堀河院はもともと太政大臣藤原基経によって建てられた広大な邸宅であり、現在の京都市中京区二条油小路町一帯(北は二条通、南は御池通、東西は油小路通から堀河通)で、東三条院、閑院の並びにあった。焼失したが、一条天皇が女御藤原元子のために、維衡に命じて再建させたものだが、この元子の父親は、すでに藤原家主流から外れてはいたが、右大臣、左大臣などの顕職を歴任した藤原顕光である。焼失・再建の時期は不明だが、元子は長徳4(998)年6月には出産のため堀河院に里帰りしており、この直前のことか。
長徳4(998)年12月14日、右大弁藤原行成は左大臣藤原道長のもとを訪れて、「五位以上不可畿外之由、法條所制」にも係わらず、伊勢国神郡に「前下野守維衡、散位致頼」が「率数多部類」いて住み続けていて、「為国郡多有事煩、致人民之愁」していることを報告。道長は「仰大神宮司并国司等可令追上」ことを指示した(『権記』)。この「煩」については、両者が戦っていたことを指すのだろう。争った理由については「前下野守平維衡ト云フ兵」は「平致頼ト云フ兵」と「互ニ悪シキ様ニ聞カスル者共有テ敵ト成」ったといい、「致頼進ミテ維衡ヲ討罸タムトシテ合戦」したが、勝負はつかずに終わったと伝わる(『今昔物語集』巻廿三)。朝廷は騒乱の科を聴聞するため両名を召喚したが応じなかったのか、12月26日、「伊勢国維衡致頼等合戦事」について、伊勢国司に「維衡致頼」を召喚すべき旨が重ねて宣下され、国平朝臣に「左右衛門府」の番長のうちで「堪事之者」を改めて遣わすべき由を命じた(『権記』)。29日、伊勢国司から「維衡致頼等合戦状文等」が弁申されている(『権記』)。
これに両者はようやく応じて上洛し、「維衡ヲバ左衞門ノ府ノ弓場ニ下サレ、致頼ヲバ右衞門ノ府ノ弓場ニ下」して訊問を受け、維衡は「過状」を奉じて謝罪した。しかし、一方の致頼は過状の提出をしなかったため、5月5日からの罪名定によって「圧ヒ討タムト為タル致頼ガ罪尤モ重シ、速カニ遠キ處ニ流サルベシ、請ケ戦ヒタル維衡ガ罪軽シ、移郷一年壬」と結審し、長保元(999)年12月27日、「致頼宗忠維衡等可遣遠所之事」が奏せられ、「宗忠致頼等法家勘申可断罪由、然而殊有所思食、只追位階處遠流幷維衡乍帯五位可移郷之由」とされて、致頼は官位を削られたうえ隠岐国へ流罪、維衡は官位は五位のままで淡路国へ移郷とされた(『今昔物語集』巻廿三、『権記』)。なお、ここに見える「宗忠」とは、美濃国で美濃守藤原為憲とともに橘惟頼、平頼親を殺害した罪に問われた散位藤原致忠の事で、河内源氏源頼信の外祖父にあたる人物である。
藤原武智麿―…藤原菅根―+――――――――淑姫
(左大臣) (参議) | ‖――――――兼明親王 +―花山天皇
| ‖ (中務卿) |
| ‖ |
| ‖ +―冷泉天皇―+―三条天皇――――敦明親王
| ‖ | (小一条院)
| 醍醐天皇 藤原安子 |
| ‖ ‖――――+―円融天皇―――一条天皇
| ‖ ‖
| ‖――――――村上天皇
| ‖ ‖
| 藤原基経―――藤原穏子 ‖――――――広平親王
|(関白) ‖ (兵部卿)
| ‖
+――――――――藤原元方―+―祐姫 源満仲
(中納言) | (陸奥守)
| ‖――――――源頼信―――――源頼義――源義家
+―藤原致忠―+―娘 (小一条院別当)(陸奥守)(陸奥守)
(陸奥守) |
|
+―藤原保昌
|(日向守)
|
+―藤原保輔
(右京亮)
維衡は「移郷一年」とあるので、配流から程なく帰郷が許されたものと思われる。また、罪が重く隠岐国へ流された致頼も長保3(1001)年には赦免されている。のちに、この維衡、致頼のほか、美濃事件で流罪に処された藤原宗忠(致忠)の係累である源頼信、藤原保昌はいずれも道長に仕えた武勇の人の代表とされている。
■伊勢守となるも免ぜらる
寛弘3(1006)年正月28日、朝廷では「除目議」が行われ(『権記』)、この議の中で、伊勢守藤原為度の「伊勢避状」について議論がなされ、後任の伊勢守について話し合われたが、為度は「件替不申人、只不賜維衡者、奏此由、進避書」と維衡だけは後任にしないでほしいという強い希望を上申していた。しかしこの為度の意見は顧みられずに「如案右府以維衡挙申」(『御堂関白記』)と、右大臣藤原顕光は維衡を伊勢守に推挙した。道長はこの維衡を伊勢守とする事案に、維衡が伊勢国に地盤を持ち(その国に地盤のある人物を当該国の受領とすることは忌避された)、過去に合戦の前歴もあることなどから「不宜事也、彼国事有者也」と奏上して反対するが、道長の言は「不被用、被任之」(『御堂関白記』)されて、2月28日、維衡は伊勢守となった。ここで道長は「如案」と顕光が維衡を推挙することを察知しており、顕光と維衡が密接な関係を持っていた様子がうかがえる。顕光が維衡を推挙することが「如案」であったのは、彼らが深く結びついていたことが広く知られていたことによるものか。長徳4(998)年ごろ、焼失していた顕光の邸・堀河殿を一条天皇が女御藤原元子(顕光娘)のために再建させたとき、「これひら」をして担当させていることから、顕光一家と維衡はこの頃から結びついていたのだろう。
しかし、道長はあくまでこの任命を「無(ママ)奇事也、御門御意未知、奇思無極、諸卿衆人奇申希有也」と批判している(『御堂関白記』)。そして、3月19日の除目で「伊勢守維衡解由」とあるように維衡は伊勢守を解任された(『権記』)。おそらく道長の圧力が加えられたものと思われる。このあと伊勢守に任じられたのは藤原時貞だったが、彼も7月には職を解かれて「伊勢前司時貞」と称されており(『権記』)、やはり何らかの不都合があったものと思われる。
■諸国受領を歴任
就任一月にも満たないうちに伊勢守を解任された維衡だったが、6月13日の小除目で「任上野守平維衡」(『御堂関白記』)、「上野介尓維衡任之」(『権記』)と、改めて「上野介」に任じられた。この任官は、6月5日に朝廷に届けられた「従上野国守忠範卒解文持来、去月廿一日解文」を受けた新国司の交代の措置であった。そして、12月15日の除目始で「伊予上野解由」が議題とされており、維衡の上野介就任についての解由が報告されたものと思われる。これら維衡の上野介斡旋が顕光か道長の主導によるものかは不明だが、こののち維衡は道長へ接近し始めているので、道長からの斡旋を受けた措置と推測される。
寛弘6(1009)年5月1日、朝廷に馬十疋を献上した。維衡が赴任していた上野国には勅旨牧が置かれるなど、馬の産地として知られており、実はこの献上馬も、十疋のうちの三疋は「諸牧別当」が購入したものである(『権記』)。そして、寛弘7(1010)年11月25日、維衡は道長に馬十疋を献上し、翌寛弘8(1011)年4月13日にも鞍置き馬十一疋を献上している(『御堂関白記』)。
その後しばらく維衡についての記述は見えなくなるが、寛仁4(1020)年5月26日、上野前司定輔が上洛の途次、粟津(滋賀県大津市)のあたりで「備前々司維衡」の郎等と闘乱を起こしている(『左経記』)。この闘乱で維衡郎等六人のうち、一人が死亡、二人が負傷、一人が搦取られ、二人が逃亡した。この事件は「定輔無故害維衡従者之由」だったとされている。実際の闘乱の理由は不明だが、両者が歴任した上野国がらみの怨恨とも考えられる。また、維衡は上野介ののち備前守へ遷っていたと推測される。
維衡は、この頃には道長だけではなく、道長の政敵で名門・大納言藤原実資とも主従関係にあった。9月19日の除目によって「常陸守」となった維衡に対し(『左経記』)、12月3日、実資は「馬一疋」を遣わしている。このとき実資は「依為家人之上、有労心」と、維衡を「家人」としている(『小右記』)。なお、維衡の前任の常陸介は兄・平維時である(『小右記』)。
治安元(1021)年9月9日、実資は常陸国へ赴任する維衡へ餞の織物褂を被けている(『小右記』)。
治安3(1023)年10月12日、道長の義兄・大宰権帥源経房が大宰府において五十五歳で亡くなったとき、筑前守平理義が帥納所を検封した上、「故帥室」が持っていた印鎰の引き渡しを強要する事件が起こった。「故帥室」はおそらく藤原実資の養子・藤原資平の妹と考えられるが、経房は道長・実資両者の血縁だったことがわかる。
+―藤原実頼―――+―藤原頼忠===藤原実資===藤原資平
|(太政大臣) |(太政大臣) (右大臣) (大納言)
| |
| +―藤原斉敏―+―藤原懐平―+―藤原資平
| (参議) |(権中納言)|(大納言)
| | |
| +―藤原実資 +―娘
| (右大臣) ‖
| ‖
| +―藤原兼通―――藤原顕光 ‖
| |(太政大臣) (左大臣) ‖
| | ‖
| +―藤原兼家―――藤原道長 ‖
| |(太政大臣) (左大臣) ‖
| | ‖ ‖
藤原基経―――藤原忠平―+―藤原師輔―――+―愛宮 ‖ ‖
(左大臣) (太政大臣) (右大臣) ‖ ‖ ‖
‖――――+―源明子 ‖
桓武天皇―+―嵯峨天皇――+―源定―――源唱――――――――――――源周子 ‖ |(高松殿) ‖
| |(大納言)(右大弁) (更衣) ‖ | ‖
| | ‖――――――源高明 +――――――――源経房
| +―仁明天皇 ‖ (左大臣) (大宰権帥)
| ‖ ‖
| ‖――――光孝天皇―――宇多天皇―+―醍醐天皇
| ‖ |
| ‖ |
| +―藤原澤子 +―敦実親王――――源雅信―――――源倫子
| | (式部卿) (左大臣) (准三宮)
| | ‖
| 藤原総継―+―藤原乙春 ‖
| (贈太政大臣) ‖――――藤原基経―――藤原忠平―――藤原師輔――――藤原兼家――――藤原道長
| ‖ (左大臣) (太政大臣) (右大臣) (太政大臣) (左大臣)
| ‖
| 藤原冬嗣―――藤原長良
| (左大臣) (権中納言)
|
+―葛原親王―+―平高棟―――平惟範――――平時望――――平真材―――――平親信―――――平理義
(式部卿) |(大納言) (民部卿) (中納言) (伊勢守) (参議) (筑前守)
|
+―高見王―――平高望――――平国香――――平貞盛―――――平維衡―――――平正度
(上総介) (常陸大掾) (陸奥守) (常陸介) (越前守)
道長は、筑前守理義の強要行為に対して「事に堪へたる者」を選び、11月8日に「為令迎故帥室」として九州へ遣わすことにしたのが「維衡朝臣」だった(『小右記』)。維衡は道長に馬を献じるなど密接な関係にあった一方で、実資の「家人」でもあり、実資縁故の「故帥室」とは顔見知りだった可能性もある(『史学研究』第七巻二号)。ただ、維衡はこのころ「常陸介」の任期中であり、常陸国に赴任中であったことから、鎮西へ遣わされた「維衡朝臣」が常陸介平維衡なのかは断定できない。
11月22日、「常陸介維衡息正衡朝臣」が私君の実資邸を訪れて、常陸国の交替使問題について切々と申し述べている(『小右記』)。常陸国は翌治安4(1024)年に「得替」が行われる予定だが、その交替使だった大学允源行明が病のために常陸へ下向できなくなったことから、新司着任に問題が生じて国司交替が行えない事態になることにつき、現地の国司維衡が京都の子息・平正輔を通じて、私君の実資に訴えたものと思われる。実資はこれを受けて、翌23日、左大弁に交替使の差替の前例があるかの確認をしている。その後、維衡は常陸介を藤原信通と交替している。
この交替の時期と重なる万寿元(1024)年8月6日、「相撲公候有常」が「前常陸介維衡」によって殺害された(『小記目録第六』)。なぜ維衡が相撲人たる公候有常を殺害するに至ったかは謎だが、この事件当時に維衡がまだ国司在任中であれば、7月に行われる朝廷の相撲節会についての対立があったのかもしれない。この公侯有常の殺害事件について、維衡は、犯人は「相撲人公候常材」であると言上した。これを知った常材は「為国司被」であると主張。いずれが真偽と決められなかった国司藤原信通は3月、「慥尋真偽可言上由可給宣旨」と朝廷に援けを求めた(『小右記』)。
翌万寿2(1025)年3月に常陸介藤原信通に尋問の上、事件の事実を言上すべき旨の宣旨が下されたため、維衡や関係者が国府で勘問を受けた。有恒の妻は事件の報告として一族の公侯恒木が殺害犯であるとする「為恒木被殺由申文」を国府に提出していたが、勘問されると「前司維衡所殺也」であるとの報告、さらに「維衡強責有恒妻所取進之厭状」と、維衡から有恒妻に対して強い圧力がかけられ、虚偽の報告を提出させられたことが判明した。7月21日、この報告をまとめた「常陸国解文幷日記等」が朝廷に進められている。
11月10日、維衡は実資に絹十疋、支子一石を進め、これについて実資は「先日仰袴四腰事、違彼定、所為奇」と記している(『小右記』)。
12月18日、常陸介藤原信通から、「前司(維衡)」の任期中は、常陸国作田はわずか三百町に過ぎず「人民飢餓」となっていたが、今年は七百町の作田があって庶民は漸く「鼓腹」となり、「前司以往二三代之間逢年不登、国弥亡弊」という不作についても解消され、蓄えも出来上がったことが報告されている(『小右記』)。
■郎等による伊勢国人略取事件
長元元(1028)年7月ごろ、伊勢国人が三河国人二十六人を略取する事件が起こった(『小右記』)。この二十六人は「三河国下女等手人」で(『左経記』)、この事件の報告を受けた朝廷は検非違使庁に命じて看督長に調査させたところ、「維衡朝臣郎等二人高押領使、伊藤掾」が張本と判明した(『小右記』)。この「高押領使」とは高階氏(または公候延高)、「伊藤掾」は伊勢国に移り住んだ秀郷流藤原氏の子孫と思われる。両者はそれぞれ「押領使」「掾」とあり、国衙在庁だったことがわかる。
●伊藤氏系譜
藤原秀郷―藤原千常―藤原文脩―藤原文行―+=波多野経範 +―伊藤基清
(下野守)(武蔵介)(将軍) (左衛門尉)|(波多野庄司) |
| |
+―佐藤公清―+―佐藤公澄――佐藤知基――伊藤基景―+―伊藤基信―伊藤景綱―+―伊藤忠清―+―伊藤忠綱
(伊勢守) |(左衛門尉)(左衛門尉)(伊藤掾?) (武者所) |(上総介) |(左衛門尉)
| | |
+―首藤助清==首藤資通 | +―伊藤忠光
| |(五郎兵衛尉)
| |
+―伊藤忠直 +―伊藤景清
|(伊藤六) (七郎兵衛尉)
|
+―伊藤景家―+―伊藤景高
(飛騨守) |(検非違使)
|
+―伊藤景経
(飛騨三郎)
検非違使庁は維衡に高押領使と伊藤掾を捕えて差し出すよう命じたが、維衡は、「所指申者■一人不侍者也」と白を切る。これに検非違使庁は官吏を維衡のもとに派遣して、郎等二人を差し出すよう迫ることとし、7月20日、関白藤原頼通は伊勢へ派遣する検非違使に右衛門志安倍守良、左衛門府生村上重基を推薦している(『小右記』)。
そして、7月22日、検非違使の右衛門志安倍守良、左衛門府生村上重基を伊勢へ下す旨の勅命が下った。維衡が彼の二人を召し進めない場合には「従類之中可然者、拷掠可問者、若称有大神宮御厨之由者、随身証人、使官人等行向輔親朝臣幷宮司等許、随彼等申可入捕者」という極めて強硬な態度で臨むよう指示されている(『小右記』)。
翌7月23日、検非違使の安倍守良・村上重基は京から伊勢の維衡のもとへ出立した。彼らは現地につくとさっそく維衡を尋問し、召し進められた郎党を拷問にかけたようで、8月5日には「維衡朝臣進実犯者一人、行拷訊、其外者未捕進」という伊勢検非違使解文・勘問日記が左中弁源経頼のもとに届いている。これを受けて、経頼は右大臣実資の邸を訪れて、彼らについて「相待捕進之日可参上欤、将仰可捕進由可参上欤」と質問した。これに対して実資は「奏事由可被仰下、更不可来、但此度猶被仰可令進遣犯人由、検非違使不参上、宜乎」と返答している(『小右記』)。
8月11日の伊勢検非違使からの報告では、維衡は犯人の一人を召し進めてきたが、「維衡捕進犯人一人、其外高押領使、伊藤掾逃去」ったという。その後、高押領使は捕えられ、検非違使によって京都へ連行されたものの、審理で「不申不知」と白を切ったため、朝廷は維衡が進めた犯人と「対問」させた。なお、この過程で検非違使は失態を演じ、朝廷の怒りを買っている。さらに彼らは維衡から「志」を贈っていたことも発覚。右大臣実資は「可弾指、又不可尋」と非難している(『小右記』)。
朝廷は同日、伊勢国司に対して兵乱騒動の犯人「安曇為助、同宗助、同時信、高橋春忠」を捕縛すべき宣旨を下している(ただし、為助はすでに逮捕されていたので、他の三人に対しての追捕)(『小右記』)。
朝廷は数々の失態を犯した伊勢検非違使の安倍守良・村上重基は「過状」を提出。朝廷から彼らに対して「今月内可捕進伊藤掾之事」さらに「若不捕進可遣譴責使之由」の宣旨が下された。そして10月13日、「維衡捕進伊藤掾妻」の報告が伝えられた(『小右記』)。しかし、この七日前の10月6日、安倍守良・村上重基は伊藤掾の逮捕は無理と判断したのか、「依使官人数少庁政可擁怠」として伊勢検非違使を免じるよう奏請している(『左経記』)。そして結果として伊藤掾の逮捕は伝わらず、この事件のその後は不明。
長元3(1030)年、伊勢において子の平正輔と致頼の子・平致経の乱闘事件が発生し、翌4年から開始された証人調べ、罪名定めは著しく紛糾した。事件の発端について、藤原実資が9月20日に「事起只維衡身為四品住伊勢之所致也」と記しており(『小右記』)、正輔の父・維衡が法に反して京外伊勢に居住したことを理由に挙げている。
この正輔・致経の乱闘に関連するものか不明だが、9月2日朝、「常陸前守維衡朝臣」は参議源経頼へ「牛二頭」を献じた。ただ、経頼からは「依無故返却了」されている(『左経記』)。この日、経頼は伊勢神宮への奉幣の帰途で「甲可駅(甲賀市土山町頓宮)」におり、ここまで牛を二頭運んできたことになる。当時維衡は近江との国境近くの北伊勢地方に居住していたということが考えられる。また、寛仁4(1020)年に粟津(滋賀県大津市)のあたりで維衡郎党と上野前司定輔一行が起こした闘乱も、維衡が北伊勢あたりに本拠を構えていたためと推測できる。
没年は不明だが、享年は八十五と伝わる(『尊卑分脉』)。
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