千葉一族 中国地方の白井氏

千葉一族 白井氏

○白井氏○

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(5)中国地方の白井家

 

 白井氏は、下総国だけではなく、西国にもあった。とくに安芸国・若狭国に発展した豪族・白井氏は有名で、安芸国の白井氏は瀬戸内海にその勢力を広げ、海賊として著名。安芸守護・武田氏、のちには大内氏に仕えて活躍した。若狭の白井氏は若狭武田家に仕える国人として名が知られる。

 若狭・安芸の白井氏の祖は、白井八郎胤時の次男・白井十郎信清であると伝わる。信清の居地は上総国長柄郡と伝わる。その子孫とされる白井胤定入道道素は南北朝時代、新田義貞に従って活躍をしたとされ、足利尊氏に降伏したのち、胤長の嫡子・白井詮常が室町幕府二代将軍・足利義詮の直臣となったという。詮常の「詮」は義詮からの偏諱か。詮常は三代将軍・足利義満にも仕えて功があり「長門守」に任じられ、若狭国にも領地を賜わったとする。詮常の弟・白井次郎左衛門も義満から偏諱を受けて満宗を名乗り、幕府奉公衆となったという。

 ただし、安芸白井家の当主・白井賢胤が弘治2(1556)年10月23日に主君・大内義長から給わった「安藝国阿南郡府中内百五拾貫文足」「白井弾正忠先知行」であったとされている。この「白井弾正忠」については、観応3(1352)年3月24日に駿河守護・今川範国入道)から「相模国毛利荘内厚木郷半分」を御下文に任せて沙汰するよう観応3(1352)年3月24日『沙弥心省奉書写』で指示されている「白井弾正忠殿」のことと思われ、4月8日の観応3(1352)年4月8日『白井行胤打渡状』「白井弾正忠行胤」こと、足利尊氏の側近・白井行胤だろう。このことから、安芸白井家はこの白井行胤の末裔で、その知行地を受け継いできた一族と思われる。

中国地方の白井氏の動き

・下総国白井庄――→安芸国沼田庄――――――→安芸守護武田氏被官―+―→安芸武田氏被官(安芸国沼田庄)
         (南朝方。のち幕府奉公衆)           |
                                 +―→若狭武田氏被官(若狭国加茂庄)

1、安芸国の白井氏安芸武田氏大内氏毛利氏に代々仕える瀬戸内海賊衆(警固衆)の家柄。
2、若狭国の白井氏若狭武田氏丹羽氏藤堂氏(伊勢津藩士)


◎甲斐・安芸・若狭武田氏略系図◎

・源頼義―+―義家――――義親―――為義――――義朝―――頼朝―――――実朝   北条朝時―娘
(陸奥守)|(八幡太郎)(対馬守)(六条判官)(下野守)(右近衛大将)(右大臣)(遠江守) ‖―――信宗―――+
     |                                        ‖  (大膳大夫)|
     +―義光―――+―佐竹義業           +―一条忠頼    +―信時―――時綱       |
      (新羅三郎)|(佐竹冠者)          |(二郎)     |(伊豆守)(伊豆守)     |
            |                |         |               |
            +―武田義清――清光――――信義―+―石和信光―信政―+―政綱            |
             (武田冠者)(逸見冠者)(太郎) (伊豆守)(三郎) (五郎三郎)         |
 +―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
 |【甲斐武田氏】
 +―信武――+―信成――――信春―――信満―――信重――――信守―――信昌―――+
  (甲斐守)|(刑部大輔)(伊豆守)(安芸守)(刑部少輔)(甲斐守)(刑部大輔)|
       |                                 |
       |     +―――――――――――――――――――――――――――+
       |     |
       |     +―信縄―――信虎―――晴信――――勝頼
       |      (陸奥守)(陸奥守)(大膳大夫)(四郎)
       |
       |【安芸武田氏】
       +―氏信――――信在―――信守―――信繁――+
        (伊豆守) (伊豆守)(伊豆守)(伊豆守)|
                             |
       +―――――――――――――――――――――+
       |【若狭武田氏】
       +―信栄           +―元信―――――元光――――信豊―――義統――――元次
       |(伊豆守)         |(伊豆守)  (大膳大夫)(伊豆守)(大膳大夫)(孫八郎)
       |              |
       +―国信――――信親―――――+―蛎崎信広――→[蝦夷蛎崎氏]
       |(大膳大夫)(治部少輔)   (若狭守)
       |
       +―元綱――――元繁―――――+―光和=====光広 
        (安芸守) (太郎左衛門尉)|(刑部少輔) (兵部大輔)
                      |
                      +―伴下野守―――光広
                       (下野守)  (兵部大輔)

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1、安芸国白井家

―安芸白井家(萩藩)略系図(『萩藩閥裔禄』)

 →千葉胤正――千葉成胤――千葉胤綱――千葉時胤――千葉頼胤――千葉宗胤――千葉貞胤――千葉吉胤――千葉武胤―――――――+
 (下総介) (上総介) (下総介) (下総介) (加賀守) (上総介) (新介)  (上総介) (越中守)       |
                                                             |
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+―白井義胤―白井胤時白井治胤白井忠胤白井親胤白井光胤白井膳胤白井房胤白井賢胤白井晴胤―+―白井景胤
 (越中守)(加賀守)(筑後守)(越中守)(加賀守)(越中守)(越中守)(縫殿助)(越中守)(縫殿允) |(弥四郎)
                                                    |
                                                    +―白井元胤―――+
                                                     (九郎左衛門尉)|
                                                             |
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+―白井就胤――――白井胤正―――+―娘
 (九郎左衛門尉)(九郎左衛門尉)| ‖
                 | ‖
                 +=白井胤延==白井胤之―…―白井胤良―白井弥四郎
                  (友之進) (千大夫)  (良三郎)

 建武2(1335)年9月27日、足利尊氏は「吉河次郎経頼」に対して「白井太郎左衛門尉跡」を勲功の賞として宛がう旨の袖判下文を発給している(『吉川家文書』:岩国市「吉川史料館所蔵」)。この「白井太郎左衛門尉」はおそらく後醍醐天皇方に属して所領を没収され、国人領主の吉川経頼に与えられたということだろう。安芸国に関わる白井氏の初出だが、系譜上の位置は不明。

 安芸国沼田庄で勢力を伸ばした白井氏は、水軍を組織して有力な国人に成長し、安芸郡天竜山に府中城を築いて本拠地とし、安芸守護職・武田氏に仕え、明応4(1495)年、守護・武田元信白井加賀守親胤から嫡子・白井縫殿助光胤へ所領譲渡(安芸国仁保嶋海上諸公事、同飯山御浦悉く大河迄、府中散在分古市村)を認めている。安芸国仁保嶋周辺の海上公事も安堵されていることから、守護に認められた公事として船の通行料をとっていたと思われる。

 しかし大永年間(1521〜1528)、白井縫殿助膳胤は、武田氏と敵対していた周防守護・大内義興に仕え「防州三百貫足佐東内所々」を要求、義興もこれを容れて周防国熊毛郡300貫、安芸国佐東郡北庄三百貫、佐東郡牛田七十五貫が給付された。大内氏は瀬戸内海における制海権を握るために、海賊衆の取り込みを積極的に行っており、小早川氏も大内氏の傘下となる。享禄2(1529)年、「安芸国玖珂郡揚井庄」膳胤の父・白井縫殿助光胤(越中守)に安堵された。こうして大内氏の深い信頼を受けるようになった白井氏は積極的に瀬戸内海に活躍をはじめ、天文8(1539)年、膳胤の子・白井縫殿助房胤は武田氏傘下の海賊衆を攻撃。天文10(1541)年には小原中務丞隆言に、天文11(1542)年には冷泉隆豊に従って、瀬戸内海を暴れ回っている。そして、天文20(1551)年、陶隆房と結んで主君・大内義隆に叛した。

 大内氏の実権を握った隆房は、将軍家の偏諱を受けて「陶晴賢」と名乗り、大友義鎮(大友宗麟)の弟・大友晴英を亡き義隆の養子に迎えて大内氏を相続させて、将軍家の偏諱を受けて「大内義長」を名乗らせた。そして房胤の嫡男・白井縫殿助賢胤も大内氏の麾下として毛利元就と戦い、賢胤は海上だけではなく陸上の戦いにも参戦し、安芸国玖珂郡岩国攻撃に参加した。しかし、毛利氏の攻勢が進むと、佐東郡内から撤退を余儀なくされ、さらに仁保嶋の制海権をも失う。そして、宇賀嶋へと逃れていくが、大内氏の海賊衆(警固衆)に対する扱いに不満を持った賢胤は、突如宇賀嶋から撤退を始める。これを知った晴賢入道全姜は、ただちに大内氏重臣を賢胤のもとに派遣してこれを宥めた。

 弘治元(1555)年正月から3月にかけて、賢胤は毛利氏水軍衆と戦い、仁保嶋を襲撃している。そして9月21日、毛利元就と桂元澄の策(元澄が元就に謀反して大内氏に通じた、という策略)にかかった陶晴賢は、警固衆の船団に乗って厳島に攻め寄せた。この戦いに賢胤は直接参加はせず、7月から独自に厳島などを攻撃している。この「厳島の戦い」で、帰りの船団を分断された陶晴賢は、元就の軍勢で満ちる厳島から脱出することができず、海岸で自刃した。35歳だった。

 賢胤は元就に従っていた熊谷信直の姉が母親であった関係から元就に仕えることとなり、毛利氏に帰属して小早川隆景(元就三男)の麾下に加わる。さらに江戸時代に入ると大組士の家柄となった。家禄は203石。家紋は七曜(『萩藩閥閲録』『萩藩諸家系譜』)。ただし、幕末の分限帳によれば百三十六石余の分限と記されている。

 幕末の安政2(1855)年の萩藩分限帳には熊谷吉十郎組に十四歳の白井良三郎胤良の名が見え、明治3(1870)年では胤良とその嫡子・白井弥四郎が見える。庶流の白井小平太は三十五石取、白井次郎兵衛は十二石余取。

◆安芸白井家当主◆

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白井胤時(????-????)

 安芸白井家初代。白井越中守義胤の嫡子とされる。官途は加賀守

 彼の代に西国に下り、安芸国沼田・沙田・周防国熊毛郡など三郡を領したと伝えられるが、彼の存在を確認できる文書・書状は残されておらず、実在は不明。

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白井治胤(????-????)

 安芸白井家二代。白井加賀守胤時の嫡男。通称は縫殿助、大和守、筑後守。その他のことは不明。

 

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白井忠胤(????-????)

 安芸白井家三代。白井筑後守治胤の嫡男。通称は縫殿助。官位は従五位下。官途は左京進、越中守。詳細不明。

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白井親胤(????-????)

 安芸白井家四代。白井越中守忠胤の嫡男。通称は加賀守、式部大輔。毛利家の文書で見ることのできる白井氏のはじめ(『萩藩閥閲録』『萩藩諸家系譜』)

 安芸国仁保島の海上諸公事、飯山後浦から大河までと府中散在分、古市村の知行権を有していた。明応4(1495)年10月17日、親胤の嫡男・白井縫殿助光胤が安芸守護・武田大膳大夫元信よりそれらの権限を譲状の通り継承したことを認める『知行安堵状』を賜っている。

 明応4年の時点で「譲」に任せて光胤に知行が安堵されていることを考えると、このころすでに親胤は隠居をしていたか、没していたと考えられ、親胤の活躍時期は応仁の乱(1467〜)ごろであったと思われる。当時、安芸国は守護の武田信守(佐東郡・山県郡)とその子・武田信繁(安南郡)の父子が支配していたが、その支配権は安芸国西部に限られる「分郡守護職」という地位に落ちていた。しかし、武田氏はまぎれもない守護職であり、応仁の乱で東軍について、西軍の大内氏と対峙した。このとき、武田氏のもとには安芸国人の熊谷氏・香川氏・白井氏・己斐氏・温科氏らが従っているが、文明2(1470)年ごろになると安芸国人たちは大内氏に荷担しはじめ、守護武田氏とは文明7(1475)年の和解まで対立関係であった。

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白井光胤(????-????)

 安芸白井家五代。白井加賀守親胤の嫡男。通称は弥四郎、八郎兵衛尉、縫殿助、越中守(『萩藩閥閲録』『萩藩諸家系譜』)

 明応4(1495)年10月17日、光胤は安芸国守護・武田大膳大夫元信より、父・親胤から安芸国仁保島の海上諸公事、飯山後浦から大河までと府中など村々の知行権を譲り受けたことを認める『元信知行安堵状』を賜っている。白井氏は武田氏の水軍集団の一家であり、「川之内警固衆(えのちけいごしゅう)」と呼ばれていた。

◎明応4(1495)年10月17日『武田元信知行安堵状』(『萩藩閥閲録』所収)

 安藝国仁保嶋海上諸公事同飯山後浦悉大河迄府中散在分古市村等事、
 任代々御判之旨、父加賀守親胤白井縫殿助光胤、知行不可有相違、
 守先々儀、可令全所務之状如件

    明応四年拾月十七日       判(武田大膳大夫元信)

※武田元信…若狭守護職。延徳2(1490)年には丹後国守護職も兼任、安芸守護職も兼ねた。明応10(1501)年、従四位下。

◎享禄2(1529)年9月3日『大内義隆知行安堵状』(『萩藩閥閲録』所収)

     判(大内義隆)

   下 白井越中守光胤

    可令早領知周防国玖珂郡楊井庄内弐拾石地高橋大蔵少輔先知行
    豊前国築城郡広末名拾弐石地高橋伊予守先知行等

  右以人、所充行也者、早守先例、可全領知之状如件

    享禄二年九月三日

◎享禄2(1529)年9月3日『尾張守打渡状』(『萩藩閥閲録』所収)

  防州玖珂郡楊井庄内弐拾石地高橋大蔵少輔先知行分事、
  任今日享禄二九三 御下文之旨、云下地云当土貢、対白井越中守代
  可被打渡所也、仍状如件

    享禄二年九月三日     尾張守 判(陶興房)

       野上道祖童殿(野上房忠)

 

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白井膳胤(????-????)

 安芸白井家六代。白井越中守光胤の嫡男。妻は熊谷但馬守宗直娘。通称は新介、又右衛門、縫殿助、越中守。義兄弟・熊谷膳直も諱に「膳」の字を冠しており、同一人物からの偏諱と考えられる。武田家の官途である「大膳大夫」の「膳」か。

 大永年間(1521〜1528)、白井縫殿助膳胤は、守護武田氏と敵対していた周防守護・大内義興の支配下にあり、所領として「防州三百貫足并佐東内所々」を大内家に要求。大内義興もこれを容れて周防国熊毛郡300貫、安芸国佐東郡北庄300貫、佐東郡牛田75貫が給付された『義興知行安堵状』。大内氏は瀬戸内海における制海権を握るために、海賊衆の取り込みを積極的に行っており、安芸国の有力豪族である小早川正平(沼田高山城主)・小早川興景(竹原城主)も大内氏の傘下となっている。

 大永7(1527)年4月24日、大内義隆白井縫殿助膳胤「白井彦七郎(嫡子・則胤のことか)」に対して安芸国に広大な知行地を与えており、膳胤はこのころ大内家に寝返ったか。その2年後の享禄2(1529)年9月3日、膳胤の父・白井越中守光胤「安芸国玖珂郡揚井庄内」20石(高橋大蔵少輔の旧知行)と「豊前国築城郡広末名」12石(高橋伊予守の旧知行)が安堵されている『義隆知行安堵状』。このとき光胤に給された知行地は隠居領か。同日、「尾張守(陶興房)」の名で、野上道祖童(野上房忠)に宛てた書状に、周防国玖珂郡楊井庄内20石の土地については、本日発給の義隆の御下文に任せて「白井越中守代」に打ち渡すべきことを命じている『尾張守打渡状』。このように大内氏から優遇を受けていた白井氏は積極的に瀬戸内海で活躍をはじめ、天文8(1539)年、嫡男・白井縫殿助房胤は大内氏の部将として武田氏傘下の海賊衆を攻撃している。

◎大永7(1527)年4月24日『大内義興知行安堵状』(『萩藩閥閲録』所収)

     判(大内義興)
  下 白井縫殿助膳胤
   可令早領知周防国熊毛郡小周防内参百石地、安藝国佐東郡北庄参百貫地、
   同郡牛田七拾五貫地等事
  右以人、所充行也者、早守先例、可全領知之状如件

    大永七年四月廿四日

 

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白井房胤(????-????)

 安芸白井家七代。白井越中守膳胤の嫡男。母は熊谷但馬守宗直娘。妻は宗直の孫・熊谷次郎三郎元直娘(『萩藩閥閲録』『萩藩諸家系譜』)。通称は弥四郎、彦七郎(?)、縫殿助

 はじめは「則胤」を称していたが、のち「房胤」に改めた。おそらく陶尾張守興房と接点があり、その支配下におかれたと考えられ、房胤の「房」は陶興房からの偏諱と思われる。『尾張守打渡状』において義興の御下文に対して、知行の打渡を「野上道祖童殿(房忠)」に指示している。

 天文8(1539)年、白井縫殿助房胤は大内氏の部将として武田氏傘下の海賊衆を攻撃。天文10(1541)年には小原中務丞隆言に、天文11(1542)年には冷泉隆豊に従って、瀬戸内海を暴れ回った。天文12(1543)年6月6日には、大内義隆から「周防国玖珂郡新庄20石」「豊前国築城郡弘末名10石」が房胤に与えられている。かつて享禄2(1529)年9月3日、房胤の祖父・白井越中守光胤が大内義隆から与えられた所領であり、このころ父・膳胤が隠居をしたのか、もしくはそれ以前に膳胤は没しており、祖父・光胤がこのころ没したために房胤に継承されたものか? 天文20(1551)年8月28日、直属の上司であったろう陶隆房と結んで主君・大内義隆に謀叛を起こした。

 その後も陶晴賢入道全姜の属将として仁保嶋仁保城主を務めたが、天文23(1554)年5月、毛利元就と陶晴賢との戦いの中で元就によって城を囲まれ、安芸国阿南郡府中出張城に退却した。こののち、仁保嶋には毛利方の香川光景牛田東林坊(川之内警固衆)が入って守りを固め、さらに川之内警固衆を束ねる児玉就方が草津城に、桂元澄が桜尾城に入城して、陶氏に荷担する国人に備え、石見国津和野三本松城で吉見正頼と交戦中の陶晴賢入道の軍勢を待ち構えた。

 一方、晴賢は吉見正頼を兵糧攻めにし、正頼からの和睦を引き出して嫡男・亀王丸を人質に取ると、すぐさま毛利攻めの軍勢を動かし、周防山代十三郷の監軍・宮川甲斐守房長に三千の兵を率いて元就を攻めるよう命じた。このとき、晴賢自身は周防国へと軍を戻している。

 宮川甲斐守房長の軍勢は、土一揆の農民たちも加えて総勢七千の軍勢で、9月15日、厳島の北方廿日市のちかく折敷畑山へ着陣した。元就は厳島社家・棚守房顕(もと陶家軍師)が見たという、晴賢を討ち取る霊夢を将兵に話して士気を鼓舞、折敷畑山の戦いで宮川勢を壊滅させた。主将・宮川房長は討死を遂げている。

 宮川房長の敗戦を聞いた晴賢であったが、帰国したばかりの軍勢をすぐに動かすことはできず、やむなく安芸の有力国人・野間隆実に命じて元就を釘づけにする行動に出た。野間隆実も水軍を擁している海の豪族で、かつては元就と入魂の間柄であったが、元就が陶家=大内家と敵対するに及んで断行。天文24(1555)年1月、府中出張城に逃れていた房胤と結んで仁保嶋城に攻めかかった。元就も野間隆実を無視することはできず、4月9日、野間氏の本拠地である保木城に三千余で攻めかけ、二日後の11日に隆実が降伏。厳島周辺の国人を平定することに成功した。そして、隆実は城外に出たところで殺害された。

 房胤のその後は伝わっていないが、嫡男・白井縫殿助賢胤については、陶晴賢が没した翌年の弘治2(1556)年10月23日、大内義長から安芸国阿南郡府中が安堵されていることを見ると、白井氏は晴賢亡きあとも大内家に仕えていたことが察せられる『大内義長知行安堵状』

◎大永7(1527)年4月24日『大内義興知行安堵状』(『萩藩閥閲録』所収)

     判(大内義興)
  下 白井彦七郎
   可令早領知安藝国佐東郡本山三百貫地、同郡箱嶋四名三百貫足云々等事
  右以人、所充行也者、早守先例、可全領知之状如件

    大永七年四月廿四日

◎天文12(1543)年6月6日『大内義隆知行安堵状』(『萩藩閥閲録』所収)

     判(大内義隆)
  下 白井縫殿助房胤
   可令早領知周防国玖珂郡新庄内弐拾石地事
  右以人、所宛行也者、早守先例、可全領知之状如件

    天文十二年六月六日

◎天文12(1543)年6月6日『大宰府庁宣』(『萩藩閥閲録』所収)

 大府宣 大宰府庁官人等
  可任早庁宣、管豊前国築城郡弘末名拾石地事
 右以平房胤、所宛行也者、在庁官人等宜承知、依宣行之以宣

    天文十二年六月六日   太宰大弐多々良朝臣 判

 

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白井賢胤(????-????)

 安芸白井家八代。父は白井縫殿助房胤。母は熊谷元直娘。妻は乃美賢勝娘。通称は助四郎、縫殿助、越中守。乃美賢勝は乃美島を本拠地とする小早川氏庶流の水軍の棟梁である。

 天文22(1553)年2月13日の『大内義長知行安堵状』によると、「去天文七年十二月廿二日龍福寺殿証判之旨」とあることから、天文7(1538)年12月22日、白井氏(房胤?賢胤?)は大内義隆(龍福寺殿)から知行地を賜っていたことがわかる。その天文7年の知行安堵状は失われていて、知行地の場所は不明。また、大内義長からの知行安堵状を受けたころ、白井賢胤「越中守」への任官を望んでおり、大内義長は京都の将軍・足利義藤(義輝)に賢胤への任官を求めたことが天文22(1553)年2月26日『大内義長書状』からわかり、この直後、賢胤の越中守任官は叶えられたようで、大内家滅亡直前の弘治2(1556)年10月23日『大内義長知行安堵状』の宛名は「白井越中守賢胤」となっている。

○大内家略系図

       大友義鑑 +―大友義鎮
      (修理大夫)|(大友宗麟)
        ‖   |
        ‖―――+―大内義長
 大内義興―+―娘    (左京大夫)
(左京大夫)|
      | 一条房家
      |(権大納言)
      | ‖―――――大内晴持
      +―娘    (左衛門佐)
      |
      +―大内義隆――大内義尊
       (左京大夫)(亀童丸)

 室町末期の大内家当主・大内義隆は公家文化にあこがれ、城下町・山口を「西の京」と呼ばせるほどの文化都市に作り上げた。しかしその一方、軍事面をおろそかにしたため、大内一門筆頭の陶隆房は天文20(1551)年8月28日、義隆に反旗を翻して山口の大内館に襲いかかり、義隆は菩提寺の大寧寺へ逃れたものの逃れられずに自刃して果てた。跡継ぎであった養子の大内晴持(土佐一条家からの養子)はすでに尼子氏との戦いで死亡しており、義隆の嫡子・大内義尊も義隆とともに殺害されており、大内家嫡流の血統は断絶。陶隆房が事実上、大内領を継承した。しかし、陶家は大内一門ではあっても臣籍に連なる家柄であり、大内家を継ぐことはできない。そこで隆房は天文21(1552)年、かつて義隆の養子であったが実子が生まれたために実家に戻されていた大友晴英(大友宗麟弟)を迎えて大内家の当主とした。その後、大内晴英、陶隆房は、将軍・足利義晴よりそれぞれ偏諱を給い、「大内義長」「陶晴賢」と改めた。

 大内義隆の横死後、大内家の勢力は急速に弱体化していく。天文22(1553)年、大内氏の内乱を察知した出雲の尼子晴久は大軍を率いて備後国へ進軍した。このとき、大内方の備後三吉城主・三吉隆亮は安芸国の有力国人であった毛利大膳大夫元就と連携して尼子氏に対抗。白井賢胤も大内方として尼子勢との合戦に出陣し、7月23日には「備後国祝要害」に詰めている。

翌天文23(1554)年3月3日には長門国阿武郡嘉年要害を攻め落とすなど戦功を挙げ、5月18日には石見国吉見で

 その途上で攻め落とした旗返城の管轄をめぐって毛利元就と陶晴賢の間で対立が起こり、天文23(1554)年、両者は決裂し、毛利元就は大内家に対して反旗を翻した。

 元就の挙兵時、陶晴賢は石見国津和野三本松城主・吉見正頼と交戦中であったが、吉見氏を兵糧攻めにして和睦を引き出し、正頼の嫡男・吉見亀王丸を人質に取ると、すぐさま毛利攻めのために周防国へ向かい、周防国山代十三郷の監軍・宮川甲斐守房長に三千の兵を率いて元就を攻めるよう命じ、宮川勢は土一揆の農民たちも加えて総勢七千の大軍となって、9月15日、厳島の北方廿日市のちかく折敷畑山へ着陣した。

 これに対して元就は吉夢を将兵に話して士気を鼓舞。毛利本隊、小早川隆景隊、吉川元春隊、宍戸隆家・福原貞俊隊の4つに分けた総勢三千で折敷畑山を取り囲んで宮川勢を壊滅させ、宮川甲斐守房長を討ち取った。

 宮川房長の大敗を聞いた晴賢であったが、帰国したばかりの軍勢を動かすことはできず、やむなく安芸の有力国人・野間隆実に命じて元就を釘づけにする作戦を取った。野間隆実は水軍を擁する海の豪族で、かつては元就と入魂の間柄であったが、元就が大内家と敵対するに及んで断行。天文24(1555)年1月、府中出張城に逃れていた房胤・賢胤と結んで毛利方の仁保嶋城に攻めかかった。野間・白井氏の仁保攻めは3月まで行われている。

 元就は厳島湾周辺の制海権を手に入れるため、4月9日、野間氏の本城・保木城に三千余の大軍で攻めかけ、11日に野間隆実を降伏させ、彼が城外に出たところを討ち取った。房胤がその後どうなったかは不明だが、賢胤宇賀嶋へ退き、島を堅く守っていたが、大内氏の海賊衆(警固衆)に対する扱いに不満を持っていた賢胤は、突如島から撤退をはじめ、驚いた晴賢が大内氏重臣を賢胤のもとに派遣して宥めている。

 元就は陶晴賢を討ち取るために一計を案じた。それが有名な「厳島の戦い」となっていくが、宿老・桂元澄に偽りの降伏をさせ、陶勢を厳島へおびき出すことに成功。晴賢は天文24(1555)年5月13日、元就が厳島に築いていた宮尾城(おとりの城)に川之内警固衆の船団で攻め寄せて焼き討ちし、7月7日、賢胤を宮尾城攻撃の大将に任じたが城を落とすには至らなかった。

 晴賢は三浦房清に仁保嶋攻めを命じたが、城将・香川光景の善戦のために退却を余儀なくされ、弘治元(1555)年9月21日、晴賢は2万の総勢を率いて厳島へ渡り、宮尾城への力攻めを行ったが落とすことができず、その間に毛利元就はひそかに厳島へわたり、奇襲をかけて陶勢を潰走させた。時は10月1日。戦場を逃れた晴賢は、厳島の山中をさ迷い歩いた末に海岸にたどり着いたが、すでに舟はなく、逃れられないことを知った晴賢は自刃して果てた。

 賢胤は晴賢の自刃後も大内氏に従っていたようで、弘治2(1556)年10月23日、主君・大内義長から「安藝国阿南郡府中内」「阿南郡矢賀尾長」「阿南郡中山」に知行を賜った弘治2(1556)年10月23日『大内義長知行安堵状』。このうち、「安藝国阿南郡府中内百五拾貫文足」「白井彈正忠先知行」であったとされている。

 この文書に見える「白井彈正忠」がいかなる人物かは記されてはいないが、「白井彈正忠」という人物については、観応3(1352)年3月24日に今川範国入道(駿河守護)から「相模国毛利荘内厚木郷半分」を御下文に任せて沙汰するよう観応3(1352)年3月24日『沙弥心省奉書写』で指示されている「白井彈正忠殿」があり、彼の実名は同年4月8日の観応3(1352)年4月8日『白井行胤打渡状』によって「行胤」であることがわかる。この相模国毛利庄内厚木郷半分については、もともと斎藤四郎入道(雅樂助、道恵入道)と白井行胤が地頭を務めていた土地だったが、観応2(1351)年5月13日、足利尊氏によって鎌倉の円覚寺正続院に寄進され、白井行胤・斎藤道恵は4月8日に打渡状をしたためた。賢胤が大内義長から安堵された安芸国阿南郡府中内は、この白井彈正忠行胤の知行地であったものか。房胤賢胤は仁保島・府中出張城を領していることから、行胤から代々白井氏が地頭職をつとめていた所領であったのかもしれない。ただ、彈正忠行胤の系譜上での位置は不明。

 賢胤は大内家の衰退のなかで毛利元就に降伏したようで、瀬戸内の大将・小早川隆景に属して活躍をすることになる。賢胤の没年は不明だが、天正15(1587)年5月13日の『小早川隆景書状』に見える通り、天正15年までは生存が確認される。

◎観応3(1352)年3月24日『沙弥心省奉書写』(『古簡雑篇』所収)

  正続院雑掌帰法申、相模国毛利荘厚木郷半分事、申状如此、
  斎藤四郎入道相募従彼所、任御下文、沙汰付下地於帰法、
  可経執達請取之状、依仰執達如件

    観応三年三月廿九日    沙弥 花押(今川範国入道心省)
      白井彈正忠殿

◎観応3(1352)年4月8日『彈正忠行胤打渡状』(『円覚寺文書』所収)

  (押紙)「厚木郷重渡状   白井彈正忠
  相模国毛利庄厚木郷半分事、任去月廿四日御寄附状并施行之旨、
  斎藤雅樂四郎入道相共莅彼所、沙汰付下地於円覚寺正続院雑掌畢、
  仍渡状如件

    観応三年四月八日    彈正忠行胤(花押)
  

◎天文22(1553)年2月13日『大内義長知行安堵状』(『萩藩閥閲録』所収)

     判(大内義長)
  当知行事、任去天文七年十二月廿二日龍福寺殿証判之旨
  白井縫殿助賢胤可全領知之状如件

    天文廿弐年二月十三日     

◎天文22(1553)年2月26日『大内義長書状』(『萩藩閥閲録』所収)

  越中守所望事、可令挙京都之状如件
    天文廿二年二月廿六日    判(大内義長)

      白井縫殿助殿        

◎弘治2(1556)年10月23日『大内義長知行安堵状』(『萩藩閥閲録』所収)

     判(大内義長)

  下 白井縫殿助賢胤

   可令早領知安藝国阿南郡府中内百五拾貫文足白井彈正忠先知行
   同所百弐拾貫文足内但■家国衙毎年七十二度八幡御祭礼任先規勤之
   同所二貫五百文足松尾山領、同郡矢賀尾長七拾五貫文足渋谷跡、
   同郡中山七拾五貫文地温科遠江守跡等事

  右以人、所充行也者、早守先例、可全領知之状如件

    弘治弐年十月廿三日

◎天正15(1587)年5月13日『小早川隆景書状』(『萩藩閥閲録』所収)

  今度縫殿允被役立用候、誠不及是非次第候、御矇気之段中々申茂疎候、
  御忠儀之筋目不可有忘却候、息弥四郎成人之儀候間、連々可申達候、
  恐々謹言

     五月十三日          隆景 御判
      白井越中守殿 御宿所
 (表書)「白井越中守殿 御宿所     小早川 隆景」

 

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白井晴胤(1547-1587)

 安芸白井家九代。父は白井越中守賢胤。母は乃美賢勝娘(『萩藩閥閲録』『萩藩諸家系譜』)。妻は江良弾正忠娘(『萩藩閥閲録』『萩藩諸家系譜』)。通称は長介彦七郎、縫殿允。晴胤の「晴」はおそらく陶晴賢、もしくは大友晴英(大内義長)からの偏諱か。

 白井氏は大内氏の滅亡後は毛利家に降伏し、水軍を率いる晴胤は毛利水軍の長官である小早川隆景の配下となる。大内氏が滅亡した弘治3(1557)年当時、晴胤十一歳。対毛利氏との合戦に参加していたかどうかは不明。その後は父・賢胤とともに小早川家中で重用された。そして天正15(1587)年4月17日、豊臣秀吉の薩摩攻めに小早川勢の部将として参加した晴胤は、日向国鷹城攻めの最中に負傷し、傷が癒えることなく陣中で没した。四十一歳。

 晴胤の負傷を聞いた隆景は、5月5日、晴胤のもとに傷をいたわる書状と使者を遣わした天正15年5月5日『小早川隆景書状』。しかし晴胤の傷は癒えずに陣没。その死を聞いた隆景は5月13日、晴胤の父・賢胤の陣中に書状を送ってその死を悼むとともに、晴胤の子息・白井弥四郎景胤はすでに成人であり(弥四郎は前々年に隆景を烏帽子親として元服)、申伝えることを指示している天正15年5月13日『小早川隆景書状』

◎天正15(1587)年5月5日『小早川隆景書状』(『萩藩閥閲録』所収)

 被疵之由無心元候、雖然不被相痛由候間肝要候、初中後無退屈短束之由祝着候、
 猶此者可申候、恐々謹言

     五月五日            隆景 御判
      白 縫殿 参 

 

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白井景胤(1571-1594)

 安芸白井家十代。父は白井縫殿允晴胤。母は江良弾正忠娘(『萩藩閥閲録』『萩藩諸家系譜』)。通称は長介弥四郎

 天正13(1585)年1月15日、小早川隆景を烏帽子親として元服。「景」の一字を賜って「景胤」と称した『元服状』。そして、天正15(1587)年4月17日、父・晴胤が日向国で討死を遂げると、しばらくののち家督を継承した。

 景胤の代、豊臣秀吉は朝鮮半島への出兵を決定し、日本軍の大将の一人として小早川隆景・吉川広家などが活躍をしている。文禄2(1593)年正月26日、隆景の軍勢は「碧蹄館の戦い」で明の大軍を壊滅させた。こうした一連の戦いの中で、文禄3(1594)年2月11日、景胤は討死を遂げた。歳わずかに二十四歳。景胤の戦死から約3週間後の3月2日、小早川隆景は景胤の弟・白井守松(元胤)景胤の祖母、母宛てに和文字の書状をしたため、晴胤・景胤父子の軍功(二代にわたって小早川隆景のもとで戦死を遂げている)を賞したうえで、景胤弟・白井守松(元胤)の家督相続を指示し、乃美兵衛・虫明左衛門の両名を遣わした『小早川隆景和文字状』

◎天正13(1585)年正月15日『元服状』(『萩藩閥閲録』所収)

  加冠  
   天正十三年
      正月十五日 隆景 御判

    白井弥四郎殿

◎文禄3(1594)年3月2日『小早川隆景書状』(『萩藩閥閲録』所収)

  しらい弥四郎事、こんと城かヽりニうちしに候、をんこくともせしめ、
  ことにちヽぬいのすけいらい用にたち候こと、まことに忠儀のいたりニ候、
  あとめはうきやくなく兄弟もり松ニ申付候、なを乃ミ孫ひやうへ、
  むしあけ弥さへもんところより申候へく候、かしく

     三月二日         たか景 御判
      しら井もり松
      うは
      はヽ 参

〜書き下し文〜

  白井弥四郎事、今度城懸りに討死候、遠国供せしめ、
  殊に父縫殿允以来用に立ち候こと、誠に忠儀の至りに候、
  跡目忘却無く兄弟守松に申付け候、尚乃美孫兵衛
  虫明弥左衛門ところより申し候べく候、畏く

     三月二日        隆景  御判
      白井守松
      祖母(乃美賢勝娘)
      (江良弾正忠娘) 参

 

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白井元胤(1583-1643)

 安芸白井家十一代。父は白井縫殿允晴胤。母は江良弾正忠娘(『萩藩閥閲録』『萩藩諸家系譜』)。妻は村上新蔵人吉充娘。幼名は守松(森松)。通称は千太夫、小平次、又右衛門尉、九郎左衛門尉。初名は忠胤。村上吉充は瀬戸内にその名を知られた水軍の棟梁で、毛利氏に属していた。

 文禄3(1594)年2月11日、兄・白井景胤朝鮮出兵で討死を遂げ、3月2日に隆景からの和文字書状をもって家督相続を認められ、おそらく家督相続と同時に元服して「白井小平次忠胤」を称したと考えられる。このとき元胤十二歳。その後も小早川家の家臣としてあったと考えれられるが、隆景は慶長2(1597)年6月12日に65歳で病死。隆景の養子・秀秋に仕えたと思われる。しかし、秀秋も「関ヶ原の戦い」から2年の後、慶長7(1602)年に急逝したことから小早川家は断絶。白井氏はじめ、小早川家臣は毛利本家へ仕えたと思われる。

 小早川家断絶から6年後の慶長13(1608)年8月19日、忠胤は毛利輝元から「又右衛門尉」「元」の一字を与えられ、「又右衛門尉元胤」と改名『毛利宗瑞官途状』。さらに11年後の元和5(1619)年10月13日には藩主・毛利秀就から「九郎左衛門尉」を与えられた『毛利秀就官途状』

 寛永20(1643)年5月30日、六十一歳で亡くなった。

◎慶長13(1608)年8月19日『官途状』(『萩藩閥閲録』所収)

  任 又右衛門尉

    

   慶長拾三年八月十九日 御判(輝元入道宗瑞)
      白井小平次とのへ

◎元和5(1619)年10月13日『官途状』(『萩藩閥閲録』所収)

  任 九郎左衛門尉

   元和五年十月十三日 御判(毛利秀就)
      白井小平次とのへ

 

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白井就胤(1621-1686)

 安芸白井家十二代。父は白井九郎左衛門尉元胤。母は村上新蔵人吉充娘(『萩藩閥閲録』『萩藩諸家系譜』)。妻は波多野式部就豊娘(『萩藩閥閲録』『萩藩諸家系譜』)。通称は長介八郎兵衛尉、九郎左衛門尉

 寛永6(1629)年12月1日、藩主・毛利秀就を烏帽子親として元服したが、わずかに8歳であったため寛永16(1639)年3月5日の『官途状』発給まで幼名・長介のままだったようである。寛永16(1639)年3月5日、藩主・毛利秀就から「就」字を賜り、「八郎兵衛尉」の称もいただき、「白井八郎兵衛尉就胤」を称した寛永16(1639)年3月5日『官途状』。正保2(1645)年2月22日、藩主・秀就から父と同じ仮名「九郎左衛門尉」に任ずる旨の『官途状』正保2(1645)年2月22日『官途状』を受けている。

 貞享3(1686)年10月19日、六十六歳で亡くなった。

◎寛永6(1629)年12月1日『元服状』(『萩藩閥閲録』所収)

  加冠

   寛永六年十二月朔日 御判(毛利秀就)
      白井長介とのへ

◎寛永16(1639)年3月5日『官途状』(『萩藩閥閲録』所収)

  任 八郎兵衛尉

    

   寛永拾六年三月五日 御判(毛利秀就)
      白井長介とのへ

◎正保2(1645)年2月22日『官途状』(『萩藩閥閲録』所収)

  任 九郎左衛門尉

   正保弐年二月廿二日 御判(毛利秀就)
      白井八郎兵衛とのへ

 

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白井胤正(1641-1726)

 安芸白井家十三代。父は白井九郎左衛門尉就胤。母は波多野就豊娘。妻は八谷源太郎就通娘(『萩藩諸家系譜』)、のち粟屋九郎左衛門元供娘(『萩藩閥閲録』『萩藩諸家系譜』)。通称は長介又右衛門尉九郎左衛門尉

 享保11(1726)年10月9日に亡くなった。享年八十四(』『萩藩諸家系譜』)

 実弟に白井左門忠胤がおり、藩公・毛利綱広御小姓として召し出されたが、延宝3(1675)年4月18日、二十六歳の若さで亡くなった。子はなく、忠胤家は無子断絶となり、家禄は父・九郎左衛門就胤へ下し置かれた(『萩藩諸家系譜』)

 妹は浦四郎兵衛景房に嫁いだ(『萩藩諸家系譜』)

 

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白井胤延(????-????)

 安芸白井家十四代。養父は白井九郎左衛門尉胤正。実は村上太左衛門就貫の三男(『萩藩閥閲録』『萩藩諸家系譜』)。母は加藤六左衛門直正娘(『萩藩閥閲録』『萩藩諸家系譜』)。妻は白井九郎左衛門尉胤正娘(『萩藩閥閲録』『萩藩諸家系譜』)。幼名は三六。通称は友之進。村上三郎四郎充尚の養弟となり、胤正の養嗣子となる。

 

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白井胤之(????-????)

 安芸白井家十五代。養父は白井友之進胤延。実父は国司権右衛門勝貞(『萩藩閥閲録』『萩藩諸家系譜』)。母は国司喜左衛門信貞娘(『萩藩諸家系譜』)。幼名は幾之助、通称は千大夫

 安政2(1855)年の分限帳に記載されている白井良三郎胤良は胤之の子孫と思われ、熊谷吉十郎組士。百三十六石余の中級藩士で、このとき十四歳。その子・白井弥四郎が明治3(1570)年の毛利家中に二十五石取として載せられている。

 別流の白井小助は萩藩寄組・浦靱負の家臣。彼は江戸で吉田松陰と親交があり、のち萩に帰郷して阿月克己堂学頭に就任。文久3(1863)年、奇兵隊に入隊した。しかし雷管破裂事故を起こしてその破片が右目に入ったために右目を失明した。

 慶応元(1865)年、第二次奇兵隊を創設し、戊辰戦争では参謀として越後国に転戦し、凱旋ののちは奇兵隊軍監となった。その後、諸隊解散によって、周防国熊毛郡宇佐木に引退して飯山塾を開いた。「熊毛郡」はかつて白井膳胤が大内義興から給付された知行地で『大内義興知行安堵状』あり、幕末まで白井氏の知行地があったのかもしれない。

・白井胤之――…―胤良――――――――弥四郎
(千大夫)   【安政2年,136石3斗7升】

       …―白井小平太―――――吉之進――――虎槌
        【安政2年,35石】

       …―白井次郎兵衛――――次郎右衛門――忠一郎
        【安政2年,12石5斗】

―安芸白井家血縁図―

 白井光胤―――膳胤
(縫殿助)  (越中守)
        ‖―――――――房胤   
 熊谷宗直―+―娘      (縫殿助)
(但馬守) |         ‖―――――賢胤   
      +―膳直―元直―+―娘    (越中守)  
              |       ‖  
              |       ‖―――晴胤
              |乃美賢勝―+―娘  (縫殿允)               粟屋元供娘 
              |     |     ‖――――+―景胤            ‖       
              |     +―宗勝 江良弾正忠娘|(弥四郎) 波多野就豊娘   ‖――――――娘  
              |                |       ‖       ‖      ‖  
              +―信直――+―高直       +―元胤    ‖―――――+―胤正     ‖ 
                    |           (九郎左衛門)‖     |(九郎左衛門) ‖===胤之
                    +―娘          ‖―――――就胤    |        ‖
                      ‖ 村上吉充―――+―娘    (九郎左衛門)+―忠胤     ‖
                      ‖(新蔵人)   |              (左門)    ‖
                      ‖        |                      ‖
                      ‖        +―吉亮―――――元充―――――就貫   +―胤延
                      ‖――広家     (新左衛門) (新左衛門) (太左衛門)|(友之進)
                      ‖                         ‖   |
                      ‖                         ‖―――+―充尚――充秋
              毛利元就――吉川元春                加藤直正――――娘    
             (陸奥守) (駿河守)

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2、若狭国白井家

―津藩白井氏略系図―

白井膳胤―?―白井伊胤―?―白井清胤―?―白井光胤――白井勝胤―+―白井政胤
(民部丞)  (八郎次郎) (石見守)  (石見守) (民部丞) |(民部少輔・秀次事件で処罰))
                                 |
                                 +―白井長胤―――――――――+=白井久胤
                                  (九兵衛・藤堂高虎に仕える)|(佐左衛門・長胤婿)
                                                |
                                                +―白井勝胤
                                                |(弥兵衛)
                                                |
                                                +―白井雅胤
                                                 (一郎兵衛)

 千葉氏流白井氏の末裔と思われるが、具体的な系譜は不明。

 足利尊氏の側近の中に、「白井弾正左衛門尉行胤」という人物がおり、彼は観応3(1352)年4月8日、尊氏が「相模国毛利庄内厚木郷半分」を円覚寺に寄付する際、その打渡を担当した人物として、斎藤雅楽四郎入道道恵とともに名が見える。そして、貞治5(1366)年9月21日、泰山府君の長日祭礼料所「若狭国名田庄内上村」につき、前陰陽頭安倍有世朝臣代に沙汰した幕府奉行人「沙彌」白井弾正左衛門行胤入道である。

 上記は幕府奉行人として若狭国内の政治に関わった、というだけであるため、直接若狭白井氏に関係はないかもしれないが、念のため記載しておく。

 永享9(1437)年3月、若狭守護・一色修理大夫義貫は将軍・足利義教の命を受けて、大和国の越智維通を追討した。その後も義貫の大和在陣は続いていたが、永享12(1440)年にはその義貫を討つよう武田治部少輔信栄に密かに命が下る。それを察した義貫は討たれることを察しながらも武田治部少輔信栄に陣所に出向き、取り囲まれると自害して果てた。結果、若狭守護職は武田信栄に与えられることとなり、百五十年にわたって武田家の領国となる。

 白井氏がいつごろ若狭国に下向してきたのかは不明だが、嘉吉元(1441)年に太良荘に白井氏が持っていた地頭職から、新守護家の武田信賢に対して礼銭が納められている。同じく、武田氏の被官である山県氏も礼銭を納めており、白井氏も山県氏、粟屋氏、熊谷氏、温科氏ら安芸武田家の被官だった者が入部したと思われる。

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白井膳胤(????-????)

 若狭白井氏。通称は民部丞。「膳胤」の「膳」は若狭武田家当主・武田信賢の官途である「大膳大夫」の「膳」か。武田家の家臣として安芸国から入部したか。

 彼の活躍については、年次を欠いている文書が残されているのみで、具体的な年代は不明ながら、「民部丞膳胤」「(粟屋)右京亮賢家」と連署で、温科山城守入道神宮寺年行事との論争について書状を発給している。粟屋賢家は武田信賢の偏諱を受けた人物と思われることから、「民部丞膳胤」は若狭入部間もない頃の白井氏当主と思われる。

 文明16(1484)年より十年間を限って、「宮河」「白井民部殿」十石の所領を有した(『日光坊昌範文書』:「明通寺文書」)が、時代的に膳胤と同一人物と思われる。この十石は「和久次郎(朝重)」と明通寺の「倍堂」のうち各五石を宛てている。この書状を発給した明通寺の日光坊昌範は、文明17(1485)年4月5日に認めた置文に、

(1)下総国白井庄生まれ、千葉庄で成長。
(2)父は藤原氏。
(3)曽祖父は和久日峯禅門(信濃守護代)で、上諏訪禰宜となる。
(4)母は平将門の末裔・白井氏。

と記し、母は白井氏であることがわかる。下総国白井庄で生まれて千葉庄で育ったとあるが、母の白井氏は下総国の白井氏ということか。その後、十歳で聖泉律師に師事し、十九歳のとき比叡山延暦寺で受戒して出家。様々修行したのち、師の祐尊法印より伝法潅頂の修行を受けた。

 日光坊昌範は膳胤と親密だったようで、ともに白井氏の血縁であることから密接に関わるようになったのかもしれない。昌範は隠居所として八室に御影堂を建立したが、寺(日光坊か)に住むことになったため、御影堂に檀那をつけることとした。このとき、「白井殿」が御影堂を持仏堂として引き取りたいと申し出たため、喜んで明け渡している。この「白井殿」はおそらく膳胤と思われる。昌範は御影堂を渡すに際し、「千葉之一家ニ者、悉妙見堂ヲ立候て持仏ニせられ候、さ様ニ御沙汰候へ」と、妙見堂とすべきことを申し述べている。昌範も千葉一族としての自覚を持っていたのだろう。しかし、昌範が「国方之奉行を引入」れて、この御影堂を勝手に毀したことを「上杉殿より御とかめ」られた際に、膳胤は対処方法を教え、「八室之観音堂ヲ買得令候間、御影堂之事ハこほし取候趣」と上杉家に伝えたため、事なきを得たようである。

 日光坊は「白井殿(民部殿)」「芳恩」に対して、「当坊ニ毎日不動之法一座、為白井殿息災安穏武運長久之祈念可有候、年始歳末ニハ巻数ヲ可被進候、此折祷者末代退転有ましく候」としている(『日光坊昌範置文』:明通寺文書)

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白井伊胤(????-1525)

 若狭白井氏。通称は八郎次郎、のち石見守と思われる。

 永正3(1506)年4月11日、加茂庄内の土地五段半を「三郎五郎」へ直銭二十一貫文で売り渡した(『小浜市史』)。この土地かはわからないが、大永5(1525)年3月1日、守護・武田大膳大夫元光「若州遠敷郡賀茂庄半済一円散田」「白井八郎次郎伊胤」「沽券(土地を売買した証文)」の旨に任せて知行した分を、「四郎兵衛尉膳忠」を使者として西福寺の覚阿上人へ寄進した。

 天文10(1541)年6月23日に「月顕高勢禅定門」の十七回忌が執り行われており、大永5(1525)年6月23日に亡くなったことがわかる。彼は「前石州太守」とも記載があるが、石見守清胤は大永5(1525)年当時にはまだ生存しており、月顕高勢はおそらく伊胤のことだろう。

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白井清胤(????-????)

 若狭白井氏。通称は石見守白井八郎次郎伊胤の子か。

 永正2(1505)年に入ると、武田大膳大夫元信は丹後国に攻め入った。そして永正3(1506)年9月24日、武田勢の白井清胤細川澄之、細川政賢らとともに宮津城を攻め落としている。また、永正14(1517)年にも丹後国内で軍功を顕し、若狭国加佐郡水真村(舞鶴市水間)に所領を与えられた(『小浜市史』)

 享禄4(1531)年12月13日、守護・武田大膳大夫元光「若州遠敷郡賀茂庄之内、白井石見守清胤」厳阿弥に沽却せしめた田畠山林などを西福寺に寄進した。

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白井光胤(????-????)

 若狭白井氏。通称は民部丞白井石見守清胤の子か。

 若狭国遠敷郡賀茂庄内の龍通寺田地一反山林屋敷を寄進した。

 天文6(1537)年2月、「加茂庄 白井民部丞殿名乗光胤」は羽賀寺に恒例の法華経転読を依頼し、「八木(米)五石、鳥目参貫文」が納められた。これは「当代希之志也」とされている。彼は羽賀寺の「大檀那」でもあり、愛染堂や鐘撞堂の上葺を行なっている。

 享禄4(1531)年12月13日、守護・武田大膳大夫元光「若州遠敷郡賀茂庄白井民部丞抱分之内」から「高野堂庵嚴跡職」の事につき、「依有子細」、田畠山林屋敷や龍通寺分について西福寺の覚阿上人へ寄進したことにつき、諸公事などを免除する旨を伝えた。

 弘治2(1556)年、明通寺鐘鋳勧進の算用状に「弐百文 白井介六殿内二人」「百文 白井監物殿」の二名が記載されている。ただし白井介六、白井監物の実名は不明。

 永禄9(1566)年11月17日、光胤は父と思われる清胤が沽却し、武田大膳大夫元光西福寺に寄進した賀茂庄内の土地を横領したことが記載されている。

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白井勝胤(????-????)

 若狭白井氏。通称は民部丞。父は白井石見守光胤

 若狭武田家の重臣として活躍。しかし永禄年中、武田氏に内紛がおこったため、武田氏を退いて織田信長に仕え、おそらく細川藤孝の手に属したと思われる。『武田系図』のなかには永禄2(1559)年10月23日、武田信豊の家老・逸見弾正忠昌経入道が謀叛を起こしたことが記されている。11月7日、信豊・義統の親子と逸見昌経が合戦に及んでいるが、このときの白井氏の行動は不明。

 永禄4(1561)年、若狭守護・武田義統が重臣の粟屋越中守勝久逸見昌経入道に攻められた際には、勝胤が一族郎従を率いて義統の許に駆けつけて敵勢と渡り合い、感状を受けた(『小浜市史』)

 永禄9(1566)年11月18日、勝胤は主君・武田義統から「今度為勲功」として、三方郡岩屋村、遠敷郡山下名を与えられた。勲功となったものは、おそらく当時武田家内で起こっていた内紛であろう。

●武田義統判物一

若州三方郡岩屋村之事、今度為勲功之私領一円仁白井民部丞勝胤宛行訖、万一於向後入江雖企愁訴、謀反人令同意之上者、一切不可能許容、其外如何様之族雖致競望、聊不可有相違者、早全所務永代令知行、子々孫々弥可抽奉公忠切之状如件、

   永禄九年十一月十八日    判(武田義統)

●武田義統判物二

若州遠敷郡山下名之事、今度為勲功之地、白井民部丞勝胤宛行私領訖、今度逐電人不依僧俗、買得之田地等於為彼地類者、聞出次第可致知行、自然立帰先領主雖企如何様之愁訴、一切不可能許容者也、早全所務、永代領知不可有相違状如件、

   永禄九年十一月十八日     判(武田義統)

 しかし、永禄10(1567)年には、義統の弟・武田信賢と対立した宿老衆がこぞって武田家に逆心して織田家に仕えた。この宿老衆は粟屋越中勝久(早柿城主)、内藤筑前勝高(西津城主)、逸見駿河入道宗全(高浜城主)、松宮玄蕃(熊川城主)、熊谷大膳直之(伝左衛門。名郷城主)、寺井源左衛門白井民部丞勝胤寺川左馬助香川右衛門大夫らであったと伝わる。

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白井政胤(????-????)

 若狭白井氏。通称は孫七郎民部少輔。父は白井民部丞勝胤

 天正7(1579)年、白井政胤ほか三人が「永代売券之状」を発給している。

●白井政胤名職売券写(『前野治良太夫家文書』)

 合壱所者 但在所坪付分米者別紙在之也、

右件之■りと名職者雖為先祖買徳、依有要用直米■■壱石栄相入道殿永代売渡申所実正明白也、於此名職者御本役諸公事臨時諸有物無之候、万一此名職違乱煩[申輩有]之者、何時も売主請人子々孫々不日ニ罷出、其明可申者也、仍而為後日永代売券之状如件、

  天正七年十■月十三日   白井孫七郎 政胤(花押)
               小野修理進 家次(花押)
               富永伊賀守

 政胤は信長亡きあとに丹羽長秀に仕え、秀吉に見いだされて秀次の家臣となった。秀次の家老には下総白井本家の白井備後守宗幹(白井備後守範秀、備後守成定とも同一人物?)がおり、その関係があったかも。

 しかし、文禄4(1595)年の秀次謀叛事件に連座したため没落。かわって弟・白井九兵衛長胤が天正15(1587)年に大和郡山で藤堂高虎に見出されてその家中に加わり二百石を給される、文禄・慶長の役から大坂の陣にかけては藤堂軍の部将として鉄砲隊を率いて活躍した。知行はのち千石。長胤は寛永16(1639)年6月22日に亡くなり、彼の遺領は、娘婿の白井佐左衛門久胤白井弥兵衛勝胤白井一郎兵衛雅胤兄弟の三人に分与された。同時期、元和元(1615)年の大坂の夏の陣で5月6日、藤堂仁右衛門高刑の家士・白井九右衛門が活躍し、藤堂仁右衛門が討死するなど追い崩されると、やむなく兵を引いた。翌7日には藤堂高虎の旗本に組み込まれ、船場口で冑首を八十島四郎兵衛とともに取った。

 寛政11(1799)年から文化年間にかけて十数年にわたって郡奉行職を勤めた白井市郎右衛門がいた。知行は四百石

 文化5(1808)年2月14日、津藩の藩校・有造館で行われた剣術の試合で、白井彦三郎が参加している。彦三郎は藤堂監物組に属し、石高は百石。父は白井善左衛門。彦三郎はその後、八右衛門、文化8(1811)年ごろ唯之進と改めた。

 幕末、勅命を奉じて幕府軍から朝廷軍に寝返った津藩は、藤堂采女の指揮のもと、藤堂新七郎は天王山を守り、藤堂九兵衛高範藤堂隼人長堅らは高浜台場を守備した。そして、明治元(1868)年2月13日、藤堂仁右衛門を将帥とする津藩軍は、藤堂隼人長堅藤堂監物を隊長として東海道先鋒軍に加わった。このとき、白井正四郎則胤は郷鉄砲頭の一人として出陣している。


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