江戸時代の下総相馬氏7

下総相馬氏

○相馬諸家○

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 下総相馬氏は室町時代には北相馬郡を本拠地として次第に勢力を回復。戦国時代にかけては守谷城(茨城県守谷市)を中心に栄えた。鎌倉公方が下総国古河に入り力をつけてくると、その奉公衆となったようである。古河公方が小田原北条氏の事実上支配されると、下総相馬氏も北条氏の軍事戦略に組み込まれ、天正18(1590)年の小田原の戦いで守谷城は徳川家康に攻められて陥落。下総相馬氏は滅亡した。

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高井直将(????-1591)

 相馬一族の下総北相馬郡高井城主か?通称は小四郎。官途名は下総守

『東葛飾郡誌』によれば、相馬胤晴には「整胤」「直将」の二人の子がいて、永禄3(1560)年9月ごろに整胤が家臣に殺されると直将の嫡男・治胤が継いだとある。ただ、『相馬当家系図』によれば、直将は「無子孫」とある。

 永禄4(1561)年8月13日、小文間城(取手市小文間)の一色宮内少輔政良(政直?)が大鹿城(取手市内)の大鹿太郎右衛門が病となったことに目をつけて城を攻めたという。大鹿城は簡単に攻め落とされ、海老原但馬守が大鹿太郎右衛門を背負って守谷城に援けを求めた。このとき稲村城の高井直徳(十郎)が兵を率いて大鹿城を攻め、一色政良がこちらに軍を裂いている間に、一色氏は本拠地の小文間城を、荒木三河守によって攻め落とされた。

 この戦いに見える「高井十郎直徳」がいかなる人物かはわからないが、直将と同年代の人物であり、さらに「稲村(伊奈村)」城主とあることから、高井直将の一族か。一色宮内少輔政良は幸手城(埼玉県幸手市)の一色氏と関係があると思われる。幸手の一色氏は、南北朝時代初期に九州探題を務めた一色氏の末裔といわれる足利一族で、室町時代中期以降は関東に下り、古河公方の重臣となっていた。古河公方家の筆頭家老で関宿城主・簗田中務とは縁戚関係にあった。

 相馬治胤の弟、胤永「高井十郎胤永」と称していたようで(『相馬当家系図』)、通称がともに「十郎」であることから、直徳は胤永を指しているのかもしれない。

 『相馬当家系図』によれば、号は覚翁道本。天正19(1591)年6月25日に亡くなったという。


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相馬親胤(????-????)

 十五代当主・相馬左近太夫治胤の弟(子?)。通称は小三郎。相馬郡筒戸城主。

 永禄3(1560)年、長尾景虎は北条氏領の関宿城を攻めたが、このとき、長尾勢には結城晴朝・長沼守信・相馬親胤が従ったといわれる。

 『多賀谷旧記』によれば、天正17(1589)年、下妻城主・多賀谷氏は筒戸城に攻め入り、親胤と戦った。この戦いで「親胤兄守谷城主相馬小次郎」が援軍を出している。ただし、相馬治胤は小次郎を称していないため、ここの「相馬小次郎」とは治胤の嫡子・小次郎秀胤か。親胤はこの「小次郎」の弟であり、治胤の子であるかもしれない。

 旗本相馬家の二代当主・相馬信濃守胤信は小次郎秀胤の弟とあり、通称は小三郎。秀胤と親胤の続柄と通称がいずれも重なるため、『多賀谷旧記』にみる親胤と胤信は同一人物の可能性も。


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相馬因幡守(????-????)

 下総相馬一族。大谷口城主・高城氏の家臣泉相馬氏か?

 天正5(1577)年正月、小金大谷口城主・高城胤辰「相馬因幡守」を代官として古河へ派遣し、古河公方・足利義氏へ年賀の贈り物をしている。このとき、古河公方・足利義氏は高城胤辰に「下野守」の受領を授けている。

 翌天正6(1578)年2月2日、高城胤辰は前年の「下野守」受領に関する礼と年賀のため、太刀と白鳥を献上しているが、この時も「相馬因幡」が使者として古河へ遣わされた。高城氏からは天正8(1580)年2月10日も太刀と白鳥を献上していているが、この時の使者は不明。天正10(1582)年1月21日の贈答の際に使者を務めているのは「相馬因幡」であることから、天正8年の使者も相馬因幡守だったと推測される。

 この高城胤辰の使者を務めたとき、一種進上相因幡五種進息弾正忠父子共ニ有御対面」して、扇を賜った。これは高城胤辰とは別に相馬因幡守が一種、子息・相馬弾正忠が五種進上して、義氏と対面を果たしていることから、単独で古河公方に対面できる立場にもあったようだ。なお、同時代、高城氏の勢力が及んでいたと思われる相馬郡泉村(柏市泉)の泉城主に相馬弾正師胤の伝が残っており、彼との繋がりも推測される。

 義氏は天正11(1583)年正月21日に病死した。しかし、義氏には娘(氏姫)が一人いるだけで跡継ぎの男子がいなかった。このため、足利尊氏の三男・足利基氏以来、二百五十年に渡って続いてきた関東公方の家はついに滅亡した。

 義氏の死によって古河公方家中は混乱し、守谷城の相馬左近大夫治胤が義氏旧臣たちが謀略を画策していると北条氏照に訴え出たことで、事実無根であると古河公方家の奉行人が怒り、『古河足利家奉行人連署奉書』を作成して氏照に「治胤はかつて義氏に謀反した人物であり、言うことは信用に足らず」と言っている。この書状を氏照のもとに運んだ奉行人の代表が「因幡」であった。ただし、この「因幡」が相馬因幡守とは断定できない。


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相馬師胤(????-????)

 下総相馬一族。下総国相馬郡泉城主。通称は小治郎(小次郎)。官途名は弾正。法名は茂山玄林大居士

 泉城(柏市泉)に住み、城内に龍泉院を建立してその開基となる。龍泉院の本尊にもある「如意輪観音」は相馬氏が信仰し、藤ヶ谷相馬氏の菩提寺・登慶山持法院の山上にも鎌倉時代に千葉介常胤(相馬師常の父)によって寄進されたという伝承がある如意輪観音が祀られている。

 天正10(1582)年1月21日、古河公方・足利義氏一種進上相因幡五種進息弾正忠父子共ニ有御対面」して、扇を賜った人物がいたが、このとき五種進上した「(相馬)弾正忠」「相因幡」の子息だったことがわかる。相馬因幡守は大谷口城主・高城下野守胤辰の家臣で、天正年中に古河公方・足利義氏への使者を勤める重臣だった。

 師胤は「天正九辛二癸ゝゝ巳八月二日御逝去」とされる(『辻堂出入につき龍泉院願書』)が、天正9(1581)年は「辛巳」である。また、「癸巳」年は文禄2(1593)年であるが、文意がわからず逝去の年は不明である。

 同時代の藤谷城主・相馬源三郎胤吉「盛胤嫡男乙若丸泉落城之節」に泉城の執権・石井肥前の三男・甚八郎を連れて泉城を脱出している。藤ヶ谷相馬氏が泉相馬氏と密接に関わっていたという伝である。なお、「盛胤(もりたね)」=「師胤(もろたね)」かもしれない。

 「永禄九年丁卯正月三十日」に師胤の甥・相馬右衛門督胤康が唐の医書を写していることがみえるが、「丁卯」は永禄10(1567)年であり、「永禄九」は年が変わったばかりで誤記した可能性もあるか(『沼南町史研究』)


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相馬胤吉(????-????)

 下総相馬氏の一族。下総国相馬郡藤谷領主(柏市藤ヶ谷)。通称は源三郎。官途名は紀伊守。号は善真。相馬氏分流と思われ、藤ヶ谷城主であった。

 戦国時代末期、相馬郡泉城主(柏市泉)の相馬盛胤の子・相馬乙若丸が何者かに城を攻め落とされたとき、胤吉は泉相馬氏の筆頭家老・石井肥前守の三男・石井甚八郎を連れて泉城を脱出し、相馬乙若丸は戸張源右衛門が介抱。以降は大谷口城主の高城下野守を頼ったという。

 天正年中(1573−1592)、北相馬郡大井沢村(守谷市大木)の大円寺に詣で、本尊・釈迦如来(伝造聖徳太子)を拝み、その夢を見たことから、大円寺の堂宇を修理して名刀を奉納したという。

 天正18(1590)年、小田原の陣では小田原城に籠城するが、海東八郎延隆と諍いを起こして殺害したという。小田原落城後は藤ヶ谷に戻った。そしてある日、胤吉は館の近く、楓橋に倒れている少年を発見した。胤吉が子細を聞くと、彼は海東八郎延隆の遺児・延乗(村雨丸)で、当年十四歳。父の仇討ちのためにここまできたが、病に罹ってしまい、願いは遂げられそうもないということだった。

 胤吉はこれを聞くと、その心意気に感じ「我こそ御身の父御を討った胤吉だ。一太刀討って早く父に手向けよ」と語ったが、村雨丸はしばらく顔を上げて考え、「うれしくも私に討たれるとの御言葉、武運は叶った」と起きあがってにこりと笑うと、「もはやこれまでの運命。後世を弔って欲しい」と言うより早く、楓橋の上から川に飛び込んでしまった。胤吉も「我も同道せん」と自害を図ったが、見ていた人々が胤吉を取り押さえたという。

 その後、胤吉は村雨丸が遺していった守袋を見ると「平貞盛末葉」と書かれていたとされ、常陸平氏の末裔・海東氏の子孫と思われる。その後、胤吉は剃髪して「善真」と号し、藤ヶ谷の東・中台に移り住んで、海東父子のために法華経を二部写経し、村雨丸の墓に納めた。現在この寺は白井市富塚にあり、二部山延乗院西輪寺という。

 法名は貞性院実相善真居士。藤ヶ谷相馬家の菩提寺・持法院に紀伊守一族の位牌が遺されている。


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●ご協力

茨城県在住の方
あさくらゆう様

●おもな参考資料●

『常総戦国誌 守屋城主相馬治胤』川嶋 建著 崙書房出版
『取手市史』 取手市史編さん委員会
『千葉氏 室町・戦国編』 千野原靖方著 たけしま出版
『相馬岡田文書』 相馬文書収録 群書類従完成会
『我孫子市史』 我孫子市史編さん委員会
『沼南町史』 沼南町史編さん委員会
『沼南の歴史』 沼南町
『喜連川町史』 さくら市史編さん委員会
『我孫子市の歴史研究』 我孫子市
『中世相馬氏の基礎的研究』 岡田清一著
『千葉県東葛飾郡誌』
『寛政重収諸家譜』 第九巻
『相馬当系図』 取手市史収録 広瀬家所蔵
『相馬左近太夫民部太夫系図』 取手市史収録 広瀬家所蔵
『彦根藩史料叢書 侍中由緒帳七』 彦根城博物館
『彦根藩史料叢書 侍中由緒帳九』 彦根城博物館
『総和町史』
『猿島町史』資料編 原始・古代・中世
『北区市史研究』二
『群馬県史』資料編5中世1
『古河市史』
『鷲宮町史』
『境町の文化財を守る会』公誌15周年記念号
『諸家中等控』「笠間市史資料」第三集 笠間藩史料

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