円城寺氏

円城寺

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円城寺氏について

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律静房日胤(????-1181)

園城寺
園城寺から見た琵琶湖

 父は千葉介常胤。母は不明。僧位は阿闍梨(『覚一別本平家物語』)頼朝の祈祷僧。「律成房」(『覚一別本平家物語』)、「理智城房」(『覚一別本平家物語』)、「律上房」(『玉葉』)とも。訓みは「りちじょうぼう」であったようだ。

 近江国の天台宗寺門派総本山・長等山園城寺(三井寺)で天台密教を学んだと思われる。頼朝が挙兵する前からの祈祷僧であったことは、父・千葉介常胤と頼朝との結びつきを考える上で大変重要であろう。

 日胤は一般に常胤の末子といわれているが、『覚一別本平家物語』によれば「律成房阿闍梨日胤」とされていることから、これが事実であるとすれば、治承4(1180)年当時、すでに厳しい修行を経て阿闍梨であったことになる。さらに「門弟、顕蜜兼学浄侶」「帥公日慧」がおり、彼は日胤の伝手で鎌倉に下り、頼朝の帰依を受けている(『吾妻鏡』養和二年十二月十一日条)。「阿闍梨」となっていたかどうかは措くとしても「顕蜜兼学」という僧侶を弟子僧としていることは、日胤が智識であり、さらにそれなりの年齢になっていると思われる。この年、父の常胤は六十三歳。次男・千葉次郎師常『吾妻鏡』によれば康治2(1143)年生まれであり、治承4(1180)年当時、三十八歳。また、六男・千葉六郎胤頼は安貞2(1228)年10月12日、七十三歳で亡くなったといわれており、これが正しいとすると治承4(1180)年当時、二十五歳。末子であれば二十代で「顕蜜兼学」の弟子僧を持つ高僧であったこととなり、無理が生じる。日胤は常胤の庶長子もしくは猶子であった可能性が高い。

 日胤の兄弟の一人・千葉六郎胤頼は、平家が政権を握っていた京都に上洛し、遠藤左近将監持遠の「挙」によって、鳥羽院の皇女・上西門院統子内親王(1126-1189)に出仕して五位に叙せられ「千葉六郎大夫」を称した。実は当時、遠藤持遠と同様に頼朝自身も近衛府の将監であり(右近将監)、治承元(1159)年10月、十三歳のときに従五位下・上西門院蔵人に任じられている。遠藤持遠も上西門院蔵人であったのかもしれない。

 上西門院や妹の八条院は反平家の拠点として機能していたとされ、平家に対して挙兵した以仁王は、八条院暲子内親王の猶子であり、以仁王の挙兵には明らかに上西門院と八条院の関係者が深く関わっていた(下表)。

 また、頼朝の配流と挙兵も上西門院や八条院の影響があったと思われる。その配流先は、八条院と密接な関係にある源頼政の子・源兼綱の知行国である伊豆国と定められている。そして頼朝と挙兵の話を進めたと思われるのが千葉六郎太夫胤頼、以仁王の令旨を齎したのが八条院蔵人の源義盛(十郎蔵人)であった。

上西門院統子内親王(後白河天皇姉宮) 源頼朝(皇后宮少進→上西門院蔵人)
遠藤持遠(上西門院蔵人?)
遠藤盛遠(上西門院。遠藤持遠の子、のちの文覚上人)
千葉胤頼(上西門院)
矢田義清(上西門院判官代。足利義康長男)
源義長(上西門院蔵人)
八条院暲子内親王(後白河法皇妹宮) 高倉宮以仁王(八条院猶子)
源頼政(八条院出仕)
源仲綱(頼政長男。頼朝配流時の伊豆知行国主で、頼朝配流にも関わったと思われる)
源広綱(頼政末子。鎌倉幕府成立後は頼朝の門葉として重用され、駿河守となる)
源有綱(仲綱次男。源義経女婿)
源義盛(八条院蔵人。源義朝十男。新宮十郎行家)
源仲家(八条院蔵人。源義賢長男で源頼政猶子。木曾義仲の兄)

 治承4(1180)年5月15日、平清盛入道八条院暲子内親王の猶子・高倉宮以仁王が平家追討の令旨を諸国の源氏に発したことが発覚したため、以仁王を土佐国へ流罪とすることを決定した。勅使は三条大納言藤原実房蔵人右少弁藤原行隆。以仁王を逮捕するため、検非違使の源太夫兼綱出羽判官源光長が検非違使所の武者を率いて宮の三条高倉御所へ赴いた。しかし、宮はすでに源頼政入道の知らせを受けて、御所を脱出していた。実は逮捕に赴いた検非違使の一人・源兼綱は頼政の子で、父の頼政に宮の追捕を知らせていたのであった。宮は粟田口から近江に逃れ、園城寺にのぼった。園城寺は反平家の砦となっていたためで、この園城寺の律静房の主だったのが、日胤だったのである。

 このころ日胤は、伊豆の頼朝から「御願書」を給い、洛南の石清水八幡宮寺内での一千日に渡る祈祷を行っており、大般若経六百巻を見読していたある夜のこと、転寝の中か、日胤は宝殿の中から金甲を賜う霊夢を見る。これに所願成就の思いを感じていたところ、その翌朝、以仁王が園城寺に入ったとの知らせが届いた。そのため、日胤は千日祈願の残りを弟子僧の日慧に託し、園城寺へ戻り、挙兵に加わっていた(『吾妻鏡』治承五年五月八日条)

 5月19日、宮が園城寺に逃れ、衆徒らが法輪院に宮をかくまったことが京都に伝わった。 

 平忠盛―――――平清盛    +―平宗盛
(刑部卿)   (太政大臣)  |(内大臣)
          ∥     |
          ∥―――――+―平知盛
          ∥     |(中納言)
          ∥     |
          ∥     +―平重衡
          ∥     |(左近衛中将)
          ∥     |
 平時信―――+―平時子    +―平徳子
(兵部権大輔)|(二位ノ尼)   (建礼門院)
       |           ∥
       +―平時忠       ∥―――――安徳天皇
       |(大納言)      ∥ 
       |           ∥ 
       +―平滋子       ∥
        (建春門院)     ∥
          ∥―――――――高倉天皇
          ∥        ∥―――――後鳥羽天皇
          ∥        ∥
          ∥ 坊門信隆――藤原殖子
          ∥(修理大夫)(七条院)
          ∥
        後白河天皇   +―以仁王
          ∥     |(高倉宮)
          ∥     |
          ∥―――――+―式子内親王
         高倉成子
        (三位)

 九条兼実の『玉葉』には、園城寺から一人抜け出した房覚僧正が後白河法皇の御所に駆け込み、宮を支えている張本人は「律上房、尊上房」の両名である旨を院に奏上した。この「律上房」は「律静房日胤」のことである。「尊上房」は該当者不明。

宇治川
宇治川と宇治橋

 5月21日、園城寺攻めが決議され、23日の出陣が決定した。出陣の将軍は、平宗盛、平頼盛、平教盛、平経盛、平知盛、平維盛、平資盛、平清経、平重衡、頼政入道である。しかし、22日に源頼政入道は平家に反旗を翻し、一族郎党を率いて宮の跡を追った。一方、園城寺の衆徒は人数が少なかったため、興福寺僧兵などと連携して平家を倒すべく、頼政、以仁王らは奈良に向かうことにしたが、26日、追いかけてきた平家の軍勢と宇治で追いつかれ合戦となった。頼政はあらかじめ宇治川にかかる宇治橋の橋板をはがしていたため、平家軍はやむなく宇治川に飛び込み、馬筏で渡ってきたが、頼政勢の防戦になかなか進むことができず、その隙に頼政は以仁王を南に逃がした。

以仁王墓
以仁王陵墓(高倉神社脇)

 しかし多勢に無勢の頼政勢は撃ち破られ、頼政らは平等院に逃れて防戦したが、奮戦むなしく頼政は討死を遂げた。長男・源仲綱も平等院廊下にて自刃。次男・源兼綱は矢を雨のように射て奮戦したのち、討ち取られた。

 一方、頼政が平家軍を防いでいる間に宇治を逃れた以仁王であったが、宇治の南十キロほどのところにあった光明山の鳥居前(光明山寺の寺域西端にあったか。現在の高倉神社か)にて討ち取られた。御年三十歳。宮に従っていた日胤も討死を遂げた。享年不明。

 日胤から頼朝の御祈願書を託されていた弟子僧の帥公日慧は、日胤が果たせなかった千日祈願を果たした。しかし、都の情勢が不穏であったため、翌治承5(1181)年5月8日、頼朝のもとに参じて参着の遅延をわびた。しかし、頼朝の日慧に対する信頼は非常に深かったようである。

 鎌倉に参着したころ、日慧はあまり腹の調子が思わしくなかったが、その病状は次第に悪化、鎌倉に来てわずか半年後の12月11日に亡くなった。頼朝は悲しみのあまり、みずから荼毘所に赴くほどで、遺骨は鎌倉北部の山内の地に埋葬された。

円城寺
光明山圓城寺の跡

 また、千葉介常胤は日胤の菩提を弔うために、下総国印旛郡(佐倉市城)に天台宗寺院・光明山圓城寺を建立したという。現在、参道と寺跡の広場は残っているが、寺院としての伽藍は一切残されていない。その隣接地の舌状台地上に、円城寺氏の居館・城館(佐倉市城)があった。

●『吾妻鏡』治承5(1181)年5月8日条

園城寺律靜房日胤の弟子僧日慧號師公、鎌倉に參著す、彼の日胤は千葉介常胤の子息、前武衛御祈祷師なり、仍りて去年五月、伊豆國より、遥に御願書を付けられ日胤これを給ひ、一千日、石清水宮寺に參篭せしめ、無言にして大般若經六百卷を見讀せしむるの夜、眠りの内、寳殿より、金甲を賜ふの由、靈夢を感じ、潜かに所願成就の思ひを成すの處、翌朝三井寺に高倉宮入御の由を聞き、武衛の御願書を日慧に誂へ參宮の御方へ奔る、遂に同月廿六日、光明山鳥居において、爲平氏の為に討取られおはんぬ、而るに日惠、先師の行業を相承り、千日の所願を果たし遺命を守り、參向せんと欲すの處、都鄙不靜の間、今に延引の由、これを申すと云々

●以仁王の乱に加わった以仁王方●(『覚一別本平家物語』)

源三位頼政 正三位。摂津源氏の棟梁。宇治で討死した。
乗円房阿闍梨慶秀 園城寺乗円房の阿闍梨。80歳を過ぎた老僧のために泣く泣く宮と別れ、弟子の刑部俊秀を供奉させた。
律成房阿闍梨日胤 園城寺律静房主。阿闍梨。千葉介常胤の子。
帥法印禅智 太宰帥藤原俊忠の子。公卿の出ながら、剛僧として知られた。名歌人・藤原俊成の弟で藤原定家の叔父。
義宝 帥法印禅智の弟子。
禅房 帥法印禅智の弟子。
伊豆守仲綱 頼政の嫡男。大手の主将。以仁王の令旨を諸国の源氏に送るよう指示した人物。宇治平等院で自害。
源大夫判官兼綱 頼政の養子。検非違使として以仁王邸を囲むが、その後、頼政に応じて以仁王に加担し宇治で戦死。
六条蔵人仲家 源義賢の嫡男。木曽義仲の異母兄である。八条院蔵人。宇治で戦死。
蔵人太郎仲光 八条蔵人仲家の子。宇治で戦死した。
円満院大輔源覺 園城寺円満院の大衆。
成喜院荒土佐 園城寺常喜院の大衆。常喜院は民部卿藤原泰憲が建立した寺院。
律成房伊賀公日慧 律静房阿闍梨日胤の弟子。帥公日慧と号す。頼朝の帰依をうけ、養和元(1181)年12月11日卒。
法輪院鬼佐渡 園城寺法輪院の大衆。
因幡竪者荒大夫 園城寺平等院の大衆。平等院は村上天皇の皇子・致平親王が出家して建立した園城寺中院の寺。
角六郎房 園城寺平等院の大衆。
島ノ阿闍梨 園城寺平等院の大衆。
卿ノ阿闍梨 園城寺南院三谷の一つ、筒井の阿闍梨。
悪少納言 筒井の大衆。
光金院ノ六天狗 園城寺光金院の剛僧六人。式部・大輔・能登・加賀・佐渡・備後。光金院は源義光が建立した寺院。
松井ノ肥後 園城寺北院の大衆。
証南院筑後 園城寺北院の大衆。
賀屋ノ筑前 園城寺北院の大衆。
大矢ノ俊長 園城寺北院の大衆。
五智院ノ但馬 園城寺北院の大衆。
加賀ノ光乗 乗円房の大衆。乗円房人60名のうちもっとも勇猛な僧兵とある。
刑部俊秀 乗円房の大衆。首藤刑部丞俊通の子。育親の乗円房阿闍梨慶秀に言われて以仁王の供奉をする。
一来法師 乗円房の大衆。法師たちのうちでもっとも勇猛とされた僧兵。
筒井ノ浄妙明秀 筒井の堂衆。堂衆は各堂に属して雑務にあたる僧侶。
小蔵尊月 堂衆。
尊永 堂衆。
慈慶 堂衆。
楽住 堂衆。
かなこぶしの玄永 堂衆。
渡邊省 摂津武士団・渡邊党の武士。嵯峨源氏の嫡流である。摂津源氏に代々仕えていた。省は「はぶく」。
授薩摩兵衛 渡邊授(さずく)。省の子。
長七唱 渡邊唱(となう)。省の従兄弟の子。
競滝口 渡邊競(きそう)。省の従兄弟。
与右馬允 渡邊与(あたう)。省の子。
続源太 渡邊続(つづく)。唱の兄弟。
渡邊清(きよし)。省の従兄弟。
渡邊勧(すすむ)。省の父・満の従兄弟。

●以仁王の乱の平家方追手●(『覚一別本平家物語』)

左兵衛督知盛 平知盛。清盛の三男。知勇兼備の将として知られた。
頭中将重衡 平重衡。清盛の五男。猛将で、東大寺を誤って焼失させてしまう。
左馬頭行盛 平行盛。清盛の次男・基盛の子。
薩摩守忠度 平忠度。清盛の末弟。剛力の大将で、藤原俊成に歌を学び、勅撰和歌集『千載集』に選定される。
上総守忠清 侍大将。伊藤武者藤原忠清。治承3年11月18日、上総介の叙任。
上総太郎判官忠綱 藤原忠綱。忠清の子。治承3年11月18日、左衛門少尉・検非違使に任じられる。
飛騨守景家 藤原景家。忠清の弟。
飛騨太郎判官景高 藤原景高。景家の子。従兄弟の忠綱と同じく、左衛門少尉・検非違使に任じられる。
高橋判官長綱 平長綱。伊賀平内左衛門平家長の弟。
河内判官秀国 伝未詳。木曽義仲との戦いで倶利伽羅峠に戦死した。
武蔵三郎左衛門有国 伝未詳。木曽義仲との戦いで加賀篠原で戦死。
越中次郎兵衛尉盛継 平盛継。平家一門・越中守平盛俊の子。父子ともども猛将で知られる。
上総五郎兵衛忠光 藤原忠光。忠清の子。治承4年5月30日、左兵衛尉に叙任。
悪七兵衛景清 藤原景清。忠清の子。平家きっての猛将。数々の武勇談を残し、一門滅亡後、鎌倉で病死か。
足利又太郎忠綱 藤原忠綱。下野国足利庄を本拠とする藤原秀郷の末裔。
大胡  
大室  
深須  
山上  
那波太郎 下野国那波郡の住人。
佐貫広綱四郎大輔 藤原広綱。下野国佐貫郷発祥の足利忠綱の一族。
小野寺禅師太郎 藤原道綱。下野国小野寺郷発祥の足利忠綱の一族。
辺屋子ノ四郎 下野国部屋子発祥の足利忠綱の一族。

 

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円城寺駿河守(????-????)

 千葉家家老。通称は駿河守

 文和2(1353)年9月29日、千葉介氏胤が円城寺駿河権守へ発給した伊勢神宮領相馬御厨の濫妨を鎮圧すべきという施行状があるが、翌年の文和3(1354)年6月15日、足利義詮から戦功を賞された「円城寺駿河守」と同一人物であろうと推測される。

 正長元(1428)年12月、「国行事憲房」から香取神宮造替の奉行であった「円城寺駿河守・草ケ部兵部少輔入道」に対して、造替の不手際な部分を列挙した文書を発給している。この円城寺駿河守は、文和2(1353)年9月29日、文和3(1354)年6月15日に見える円城寺駿河権守、円城寺駿河守の子孫と考えられる。

 さらに後世に至っては小田原の陣に参陣していたという「円城寺駿河権守常親」「円城寺駿河守胤俊」らがあり、「円城寺駿河守」という円城寺家内の家柄があったことが考えられる。

●文和3(1354)年6月15日『足利義詮感状』(『円城寺文書』:『千葉県の歴史 資料編 中世』所収)

 於関東致忠節之由、被聞食了、殊以神如弥可抽戦功之状、如件
 
   文和三年六月十五日    (花押:足利義詮)
 
  円城寺駿河守殿

●正長元(1428)年12月日『造替闕所注文』(『香取文書』)

 「香取社御造替闕所事   憲房」
 
                     両奉行 円城寺駿河守
                         草ケ部兵部少輔入道
 
    付御造替闕所之事、  一 依面間狭、御輿無出入、上なけし切事、
 
 一 御輿足一寸五分短候、
 
 一 鳳凰足きられ候事、
 
 一 御輿上ふき糸にて候を、糸をば用意ありなりらねりぬきにてふき候事、
 
 一 白木の御輿、金物なき事
 
 一 神宝物、多分無沙汰之事
 
   此後の御造営のひきかけになされましく候、
 
    正長元年戊申十二月 日     国行事憲房

 

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円城寺胤朝(????-????)

 千葉家家老。通称は図書左衛門尉。父は不明。母は平氏女(図書悲母)。小城千葉氏の流れをくむ千田義胤(千葉大隅守胤貞曾孫)に仕えた人物。

●胤朝発給文書(『中山法華経寺文書』)

 下総国八幡庄内谷中郷事、為中山本名寺之寺領、祖父胤継一円被譲申上、
 至永代不可有相違處也、但依為本知行分亡父胤氏譲之内被入之間、
 公方安堵之時伺被入之畢、雖然、任胤継之譲状、至子々孫々不可有違乱競望之義、
 若背此旨輩者、不可知行義胤跡之由、依仰如件、
 
                 円城寺図書左衛門尉源朝臣胤朝

 これらを見ると、円城寺胤朝は「義胤」の「仰によりて」書状を「中山大輔法印御房(日祐)」へ送っていることがわかる。この「義胤」は千田氏当主・千田義胤である。

 円城寺氏は系譜上では原氏の一族と思われるため「平姓」であるはずだが、この書状をみると円城寺胤朝は「源姓」である。胤朝の母は「平氏女」であり、おそらく胤朝の父は源姓の人物で母方(おそらく円城寺氏)の養嗣子となったものだろう(氏の名である姓は原則として男系が引き継がれる)。

●妙印山妙光寺の永和2(1376)年文書に基づいた系図(『中山法華経寺文書』)

 平氏女:円城寺氏
(図書悲母)
  ∥
  ∥――――――――――円城寺胤朝
  ∥         (図書左衛門尉源朝臣)
 源某

 

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円城寺満政(????-????)

 千葉介満胤の家老。通称は兵衛三郎。彼も胤朝と同様に「源」姓の円城寺氏である。「満政」の「満」は千葉介満胤と通じているが、満胤の「満」は二代関東管領・足利氏満からの偏諱と思われることから、満政の「満」が満胤から与えられたとは思われず、氏満直々の偏諱かもしれない。

 明徳元(1390)年10月15日の発給文書が残る。

 

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円城寺邦貞(????-????)

 千葉介邦胤の家老で、千葉新介重胤の代まで仕えた。通称は兵庫助。「邦」は千葉介邦胤の偏諱と思われる。

■某年8月13日『千葉介邦胤礼状』(『原文書』)

 尚々御用之儀候者、出仕可申候おほ鷹被下候之處、過分之由、
 若狭守一色持参悦入候、仍而中臺越後守、至于時奉公神妙ニ候、
 円城寺兵庫助
指南之儀者、内々之儀候、不限彼者、
 大途者其方可為奏者候間、別而加不便於懇切者、
 可為御喜悦候、謹言
 
     八月十三日         邦胤(花押)

 

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円城寺道頓(????-????)

 千葉介自胤らに従って武蔵へ赴いたと思われる人物。

 享徳4(1455)年8月、原越後守胤房・馬加康胤入道千葉大介胤直入道・千葉介胤宣との戦いで、胤直入道方として戦った円城寺下野守尚任(妙城)はじめ、円城寺壱岐守(妙壱)、円城寺日向守(妙向)が討死を遂げ、さらに康正2(1456)年正月、千葉実胤・自胤(胤直の甥)、東左近将監常縁らが籠る市川城が陥落し、円城寺若狭守(妙若)が戦死した。実胤・自胤らはその後、武蔵国へ逃れているが、道頓はこれに従ったのだろう。

 彼は永正11(1514)年に成立した衲叟馴窓の私家集『雲玉和歌集』にいくつか歌が載せられており、彼は歌人としての教養もあったことが伺える。

  円城寺道頓と申せし人、月前述懐を詠る

 かゝる身のなくさめ草のかけやとてや月のかつらの世におほふらん
  円城寺道頓と申人、三十余年のち下総に白地かへりきてよまれしとなり

 故郷にかへる我身はおきなさひ人もとかめぬ世こそ安けれ

 道頓の歌はどこか厭世の気がうかがえるが、彼が康正2(1456)年に武蔵へわたり、「三十余年」が過ぎたころ、下総国へ帰国したことが見える。時代的には延徳から明応初年中(1489~1493ごろ)と思われ、この時の下総千葉氏の当主は千葉介勝胤で、衲叟馴窓を庇護していた人物とされている。

●天文5(1536)年12月24日『長福寺聖観音菩薩像胎内銘』(『北区史』所収)

    旦那
      夏見
       豊島  勘解由左衛門尉平朝臣胤定
    彦三郎弟源五郎戒名道頓、子息彦三郎胤重    
                        丙申
                        天文五年
                           十二月廿四日
 夏見山長福寺本尊 聖行海小聖知順
             筆者慶仲正善■
                    主
      仏師成就坊秀印  正順

 船橋市にある長福寺の観音像銘には「彦三郎」弟「源五郎戒名道頓」の子息「彦三郎胤重」の名が見え、この「源五郎道頓」とは円城寺道頓の可能性もあるか? 旦那として見える「勘解由左衛門尉平朝臣胤定」は「夏見」を領した「豊島氏」の意味か? 「勘解由左衛門尉」は武蔵豊島氏がよく用いており、文明5(1473)年6月、山内上杉家に反旗を翻した長尾景春(四郎右衛門尉)に荷担した「豊島勘解由左衛門尉泰経・平衛門尉泰明兄弟」が見える。ただ、「夏見」「豊島」が並記されているのは、名字ではなく両者とも地名をあらわす可能性もある。

 

千葉一族トップ円城寺氏 > 佐賀藩円城寺


佐賀藩円城寺家

 小城円城寺の末裔と思われる。小城円城寺氏に伝わる系譜(『諸家系図』:鍋島文庫)では、前期原氏の末裔である牛尾五郎泰親の甥の子・円城寺左衛門尉胤清が千葉大隈守胤貞に随い、肥前小城郡に下向して、晴気に住したことが記載されている。

●小城円城寺氏略系図(『諸家系図』、『肥前諸家系図』)

平常長――鴨根常房―+―千田常益――金原常義 +―常朝  +―朝秀 +―常泰――+―如圓――――――胤春
    (三郎)  |(千田庄司)(金原庄司)|(平次郎)|(二郎)|(太郎) |(妙見座主)  (孫次郎)
          |            |     |    |     |        【神代本より】
          +=原常宗―――常継―――+―常次――+―朝房―+     +―泰次
           (四郎)  (十郎太夫) (平三)  (五郎)|      (三郎右衛門尉)
                                  |
                                  +―親朝――+―親胤――――+―牛尾泰親
                                  |(弥五郎)|(弥平次)  |(五郎)
                                  |     |       |
                                  |     +―舜吽    +―原胤春―+
                                  |      (肥前)    (孫二郎)|
                                  |          【円城寺系図より】|
                                  +―乗月――――快弁          |
                                         (伊賀)         |
                                                      |
+―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+―胤重―――――勇圓―+―円城寺胤清――+―胤直―――――胤安――――+―信胤
 (平右衛門尉)(式部)|(左衛門尉)  |(大和守)  (大和守)  |(式部丞)
            |        |              |
            +―円城寺孫太郎 +―常春―――――胤政    +―胤次――――――――――――――+
                      (平左衛門尉)(左衛門太夫)|(平次)             |
                                    |                 |
                                    |           +―左馬丞 |
                                    |           |     |
                                    |           +―内蔵丞 |
                                    |           |     |
                                    +―西原胤光――胤員――+―又七郎 |
                                     (修理亮) (修理亮)      |
                                                      |
+―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+―源左衛門―+―良連―――+=氏英――――+=政純―――――伝八
|      |(八兵衛) |(勘左衛門) |(三郎左衛門)
|      |      |       | ∥
+―憲察   +―氏賢   +―宣英    +―娘
        (勘左衛門)|(住江戸上野)
              |
              +―武田正真――――文左衛門
              |(文左衛門)
              |
              +―宗三――――+―娘
                      |(石井九郎左衛門妻)
                      |
                      +―宗三

 胤清の子孫と思われる「円城寺壽左衛門尉」は千葉胤泰の命のもと、山田弾正忠とともに建武4(1337)年5月15日、河上社座主権律師増慶代増勝への「小城郡田地二町」について、下地の打渡を命じている(『河上神社文書』)

 また、その子孫とも思われる「円城寺甲斐守胤政」『岩蔵寺過去帳』に記載がある。その没年は不明だが、記述が文安5(1448)年と宝徳元(1449)年10月12日に挟まれていることから、この一年の間に没したと考えられる。系譜に見える「円城寺左衛門太夫胤政」が甲斐守と同一人物かもしれない。室町時代末期に龍造寺隆信に仕えた「円城寺山城守信胤」はこれら小城円城寺氏の子孫と思われる。

 信胤は武勇にあふれた武士で、龍造寺隆信の重臣として活躍したが、天正12(1584)年、島原での島津氏との戦いで討死を遂げた。信胤の討死について隆信の嫡男・龍造寺政家は、円城寺家の家督を継いだ次男・円城寺吉三郎へ感状を発給している。

 信胤の長男は杉本坊真慶という山伏になっており、次男・吉三郎の子孫が佐賀藩士となった。ただ、吉三郎の子・円城寺久右衛門手明槍として出仕しており、正式な藩士ではなかった。久右衛門の子・円城寺権兵衛も手明槍だったが、その子・円城寺権兵衛実清は宝永元(1704)年、正式に藩士として登用され、切米二十石が給され、のち二十五石となる。元文5(1740)年2月に六十八歳で亡くなった。実清の五代の孫・円城寺権兵衛信吉は五石加増された。その跡は円城寺権助信久が継いでいる。

 また、信胤の系とは別に、河上の徳善院住持の系からも円城寺氏へ養子が入っている。

                          鹿江兼明―――娘
                         (遠江守)   ∥
                                 ∥
                     大乗坊長勝       ∥
                      ∥――――娘     ∥
                鍋島清久――娘    ∥     ∥
                           ∥―――+―増誾
                           ∥   |(蓮乗院)
藤原康長――孝純―――増純―――明純―――賢遵―――政純   |
     (徳善院)(徳善院)(徳善院)(徳善院)(徳善院) +―幸遵
                               |(徳善院)
                               |
                               +―円城寺伊予守
                               |
                               +―増純
                                (河上住居)

 

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会津藩円城寺家

 小城円城寺の一族か。「おんじょうじ」と読む。本国は肥前。姓は。家紋は丸ニ石畳円城寺対馬守吉基が祖という。小城円城寺氏との関係は不明ながら、同じく肥前を本国としていることから何らかの関係があったと思われる。

 円城寺常忠の代に筑後柳川城主・田中兵部大輔吉政に仕え、常忠は関が原の戦いに敗れ、近江国伊香郡小橋村に潜伏中の石田三成を、田中伝左衛門の手に属して捕縛した。

 常忠の子・甚九郎吉武は元和6(1620)年に田中家が無嗣改易となると、肥前島原藩主・松倉勝家の叔父・松倉重次に仕え、寛永14(1637)年、島原の乱が勃発すると出陣。討死を遂げた。

 吉武の子・彦九郎義忠(のち豊貞)ははじめ高橋家の養子となって高橋市郎左衛門を称していたが、円城寺家に戻る。弓の上手であり、松平信綱に見出され、名君とうたわれる会津藩主・保科正之(徳川秀忠の庶子)に二百石で召し抱えられた。その後も正之の信頼をうけて弓術の書物の編さんを命じられ、自身も大いに研究を重ね、弓術新流派「円城寺派」を創った。この流派は後世「日置豊秀派」となる。豊貞は4代藩主・正容の代まで仕え、四百石を賜った。元禄14(1701)年4月14日、81歳で亡くなり、会津城下の天寧寺に葬られた。号は古暦。法名は元心院殿英岳道雄居士

 義忠の長男・仁右衛門忠房は日置豊秀派を継ぎ、享保7(1722)年11月、五十七歳で亡くなった。その跡は子の忠吉忠頼が継ぐが、彼らには子がおらず、叔父の彦九郎忠英が継ぎ、その子・彦九郎忠良が継いだ。忠良は祖父の彦九郎義忠以来の名人であったためか「円城寺後ノ彦九郎」と称されていたようである。明和6(1769)年11月、六十歳で亡くなった。法名は普明院泰岳得祐居士。菩提寺の天寧寺に葬られた。

●円城寺家略系図

円城寺常忠――吉武―――吉忠――+―忠房―――+―忠吉
      (甚九郎)(彦九郎)|(仁右衛門)|
                |      +―忠頼
                |
                +―忠英―――+―忠春        忠溝
                 (彦九郎) |(彦九郎)     (主税)
                       |           ∥――――忠寛――――忠安
                       +―忠良―――忠巨―――女   (仁右衛門)(彦次郎)
                        (彦九郎)(甚太夫)

 

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小田原藩円城寺家

 下総円城寺氏の末裔。小田原藩中興の大久保加賀守忠朝の父・大久保教隆(大久保忠隣の三男)が佐倉にあったころに召し出されたか。

 円城寺助作は文政9(1826)年3月15日に召し出されている。その後、江戸詰めや芸術師範などを歴任し、天保6(1835)年10月28日、隠居が認められた。隠居の後は、円城寺空斎と称し、小幡流の軍学を修めて免許を取った。これを聞いた藩主・大久保加賀守忠真は喜び、金三百疋を下賜された。天保12(1842)年12月14日、小田原にて亡くなった。

 助作の養嗣子・数右衛門は文化2(1805)年6月10日に谷川六三郎の弟として小田原に生まれた。天保5(1834)年正月11日、養父・助作の願いによってはじめて登城し、見習奉公をはじめた。天保6(1835)年10月28日、父・助作が隠居したことから円城寺家を継ぎ、その後は浦賀の外国船の防衛出役などを歴任する。

 

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●諸書に見える円城寺氏●…【肥前(小城)円城寺氏は紫色、源姓円城寺氏は赤

名前 事歴
日胤 園城寺律静房。千葉常胤の末子で頼朝の祈祷僧。以仁王の乱で戦死した。円城寺氏の祖という。
円城寺胤清 左衛門尉。千葉胤貞の代官のような立場にあったか? 肥前(小城)円城寺氏の祖か?
円城寺壽左衛門尉 千葉胤泰の命のもと、山田彈正忠とともに建武4(1337)年5月15日、河上社座主権律師増慶代増勝への「小城郡田地二町」について、下地の打渡を命じている(『河上神社文書』)。
円城寺氏政 図書允。千葉氏胤に仕えた家老。貞和5(1349)年3月22日の発給文書が残る。永和2(1376)年6月6日に中山法華経寺に対して発給された寺領安堵状の発給人「氏政」も円城寺氏政かも。
円城寺胤朝 左衛門尉。三郎左衛門? 駿河守? 応安5(1372)年2月の発給文書が残る。「源」姓の円城寺氏。
円城寺満政 兵衛三郎。千葉満胤に仕えた家老。明徳元(1390)年10月15日の発給文書が残る。「源」姓の円城寺氏。
円城寺胤定 肥前守。千葉胤直の筆頭家老。嘉吉2(1442)年2月の上総国山辺郷観音教寺と11月の下総国印西庄龍腹寺の宝塔寄進の棟札に、大檀那として「平胤直」「平胤賢」に並んで家臣中筆頭として名を連ねる。
円城寺胤政 甲斐守。『岩蔵寺過去帳』によれば文安5(1448)年~宝徳元(1449)年に没したと考えられる。
円城寺尚任 下野守。千葉胤直の筆頭家老。康正元(1455)年、馬加康胤の乱で討たれた。
円城寺直時 尚任の嫡男。父と同じく討たれる。
円城寺吉基 対馬守。肥前円城寺氏の一族と思われる。子孫は田中吉政、松倉重政に仕えている。
円城寺常親 駿河権守。千葉氏の侍大将をつとめた。
円城寺信胤 山城守。九州肥前国の戦国大名・竜造寺隆信の重臣。妻は鹿江氏。
円城寺邦貞 兵庫助。千葉介邦胤の家老で、千葉新介重胤の代まで仕えた。「邦」は偏諱か。…『千葉介邦胤書状』
円城寺胤尹 左近。戦国末期の千葉氏の侍大将にいる。
円城寺胤俊 駿河(権)守。父は円城寺常親。秀吉の小田原征伐のときには小田原城に籠って湯本口を守っていた。
円城寺吉蔵 鍋島直茂の重臣・鍋島茂里の家臣。
円城寺弾正 仙台藩士。もともとは千葉氏に仕えていたが、小田原城が陥落すると伊達政宗に見出されて5貫文を与えられた。
円城寺常忠 筑後の田中吉政の家臣で、先祖は円城寺対馬守吉基。関ヶ原の戦いののち、石田三成をからめとった。
円城寺吉武 円城寺常忠の子。肥前島原藩主の松倉勝家の叔父・重次に仕えたが、島原の乱で戦死する。
円城寺豊貞 円城寺吉武の子。弓の名手で、松平信綱を通じて名君とうたわれる会津藩主・保科正之(徳川秀忠の庶子)に見出され、200石で召し抱えられた。その後も正之の信頼をうけて弓術の書物の編さんを命じられ、自身も大いに研究を重ね、弓術新流派「円城寺派」を創った。この流派は後世、「日置豊秀派」となった。豊貞は4代藩主・正容の代まで仕え、400石を賜った。元禄14年4月14日、81歳で亡くなり、会津城下の天寧寺に葬られた。
円城寺内蔵進 佐賀藩諫早鍋島家臣。万延2(1861)年『座居帳』掲載。平侍。早田三左衛門組与力。定米5石。
円城寺助作 文政年中の小田原藩士。奥御番役で四十五石。(『文政八年小田原御家中知行高覚』)

 しかし、全体的な円城寺氏の系譜や歴史、人物など詳しい事ははっきり分からないのが現状である。

●『本土寺過去帳』に基づいた系図(『本土寺過去帳』)

 円城寺道金
(円城寺能登殿親父)
   ∥
   ∥―――――――――円城寺能登
   ∥
 ①教阿弥 (妙教・円城寺能登殿母儀)
 ②中殿 (円城寺能登守 母儀)

●鍋島氏から養子に入った肥前円城寺氏●

 鍋島清久―+―鍋島清泰――鍋島清虎―――鍋島宣範――円城寺千左衛門(円城寺二郎養子)
(道済入道)|
      |   【佐嘉藩主】
      +―鍋島清房――鍋島直茂―――鍋島勝茂
             (加賀守)  (信濃守)


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