葛西家惣領 葛西時清

葛西氏

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葛西時清(????-????)

 葛西壱岐守清重の次男。母は千葉介胤綱の女とされる。通称は壱岐三郎、壱岐小三郎。官途は左衛門尉。時清の「時」は北条氏よりの偏諱か。兄・葛西伯耆守清親とともに幕府に仕えた。

⇒葛西清重―+―清親―――+―清経―――――――+―宗清      +―時員
(壱岐守) |(伯耆守) |(伯耆左衛門尉三郎)|(三郎左衛門尉) |(伊豆太郎左衛門尉)
      |      |          |         |
      |      +―清時       +―清宗――――――+―清貞
      |      |(伯耆左衛門尉四郎) (伊豆守)    |(伊豆三郎兵衛尉)
      |      |                    |
      |      +―光清―――――――+―■■      +―■■
      |      |(伯耆四郎左衛門尉)|(四郎太郎)    (伊豆四郎入道)
      |      |          |
      |      +―■■       +―清氏――――――――重盛
      |       (五郎)       (四郎左衛門尉五郎)(彦五郎)
      |
      +―時清
      |(壱岐小三郎左衛門尉)
      |
      +―重元
      |(四郎)
      |
      +―■■
      |(壱岐五郎左衛門尉)
      |
      +―朝清―――――左衛門次郎
      |(六郎左衛門尉)
      |
      +―時重
      |(壱岐七郎左衛門尉)
      |
      +―清秀     
      |(八郎左衛門尉)
      |
      +―清員
      |(壱岐新左衛門尉) 
      |
      +―重村―――――友村―――――――+―平氏女
       (河内守)  (河内四郎左衛門尉)|(四郎左衛門尉嫡女)
                        |
                        +―清友
                         (丸子八郎)

 文暦2(1235)年6月29日、五大堂の新造御堂の安鎮祭が執り行われ、将軍・頼経に供奉した人物中に後陣の隨兵として「壱岐三郎時清」の名が見え、これが時清の初見となる(『吾妻鏡』文暦二年六月十九日条)。以降、嘉禎3(1237)年4月22日の渡御始「壱岐小三郎左衛門尉」が供奉(『吾妻鏡』)、6月23日の大慈寺郭内の精舎供養に「壱岐小三郎右衛門尉時清」が供奉(『吾妻鏡』)、暦仁元(1238)年2月17日、上洛時に「壱岐小三郎左衛門尉」が随兵として随い(『吾妻鏡』)、上京中の2月28日、将軍家の御拝賀の隨兵として「壱岐三郎左衛門尉時清」が見える(『吾妻鏡』)

 4月10日、将軍・頼経の弟で猶子の福王(十二歳)が仁和寺の道深法親王へ入門した。仁和寺は親王門跡の寺であり、臣下である藤原家から入室することは前例がない(こののち明治にいたるまでも例はない)ことであった。仁和寺に入った福王はのち法助と号し仁和寺十代門跡となっている。この福王は将軍家猶子だったことで共侍十人がつけられたが、その共侍に「壱岐三郎左衛門尉時清」の名が見える(『玉蘂』嘉禎四年四月十日条)。福王は6月23日、仁和寺喜多院において剃髪した。

 6月5日、将軍家の春日大社参詣の隨兵四番の列右端に「壱岐三郎左衛門尉時清」が見える(『吾妻鏡』嘉禎四年六月五日条)。春日大社は頼経の実家である藤原家の氏神であり、将軍家としては参詣する志も深かったと思われる。激しい雷雨の中、参詣を済ませた一行はそのまま春日大社に一泊して、翌日京都へ戻り、10月12日、参内を済ませた将軍・藤原頼経は翌13日、八か月間を過ごした京都を離れて鎌倉へ向かい、10月26日夕方、鎌倉の御所へ到着した(『吾妻鏡』)

 仁治元(1240)年8月2日、将軍・藤原頼経の二所参詣につき、その供奉の行列に「葛西四郎左衛門尉」「豊嶋小太郎」とともに加わっている(『吾妻鏡』)「葛西四郎左衛門尉」はおそらく甥の葛西光清のことと思われる。

●仁治元年八月二日条供奉行列交名(『吾妻鏡』)

先陣
(十二騎)
佐原四郎左衛門尉 佐原六郎兵衛尉
葛西四郎左衛門尉 豊嶋小太郎
江戸太郎 小林三郎
和泉新左衛門尉 和泉五郎左衛門尉
千葉八郎 海上五郎
下河辺左衛門尉 太胡左衛門尉
駕籠 藤原頼経  
駕籠左右
(徒歩)
狩野五郎左衛門尉 武小次郎兵衛尉
平賀三郎兵衛尉 長兵衛三郎
 渋谷三郎 俣野弥太郎
山城次郎兵衛尉 飯富源内
小河左衛門尉 加治左衛門尉
伊佐右衛門尉  
後騎 左兵衛督 八條少将
右馬権頭 駿河守
宮内少輔 陸奥掃部助
甲斐前司 秋田城介
摂津前司 佐渡前司
太宰権少弐 上総権介
出羽前司 内蔵権頭
前弾正少弼 中條右近大夫将監
周防前司 兵庫頭
近江大夫判官 加賀民部大夫
信濃民部大夫 施薬院使良基朝臣
散位晴賢朝臣 権暦博士定昌朝臣
小山五郎左衛門尉 薬師寺左衛門尉
上野弥四郎右衛門尉 上総五郎左衛門尉
佐渡五郎左衛門尉 隠岐判官
壱岐小三郎左衛門尉 信濃三郎左衛門尉
近江四郎左衛門尉 加地七郎左衛門尉
伊賀次郎右衛門尉 和泉七郎左衛門尉
足立木工権介 宮内左衛門尉
長尾平内左衛門尉 加藤左衛門尉
伊東六郎左衛門尉 宇佐美左衛門尉
武田五郎次郎 南部次郎
武藤左衛門尉 内藤七郎左衛門尉
後陣随兵
(十二騎)
武田六郎 大井太郎
薗田又太郎 木村弥次郎
相馬左衛門尉 筑後左衛門次郎
春日部三郎兵衛尉 品河小三郎
三村右衛門尉 長掃部左衛門尉
長尾三郎兵衛尉 秋葉小次郎

 その後、時清の名は見えなくなる。没年、法名は不明。

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