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千葉常成(????-1697)
千葉鍋島家の分家・千葉家初代当主。十八代・鍋島玄蕃常貞の長男。妻は勝屋勘右衛門娘(松寒院節窓紹貞大姉)。母は千葉鍋島氏(心光妙観大禅定尼)(『千葉頼母親族帳』)。通称は右京、大学、太郎助。佐賀藩小馬廻、着座。
藩公・鍋島丹後守光茂の代、常成は部屋住ながら御供番を務めていたが、正保4(1647)年、白石御狩の節に供を怠った「無調法」を犯して出奔したため、弟の玄蕃常治が鍋島玄蕃家を継ぐこととなった。その後、常成は再び召し出され、寛文元(1661)年閏8月8日、鍋島光茂より知行地についての判物が発給され、父・鍋島玄蕃常貞の本知の内より晴気村に物成百石を与えられ、都合千石の知行を得る。出奔の過去によって兄の家ながら幕末に至るまで千葉家の分家であったが、惣領家(千葉八助家)と同格の着座家として幕末を迎える。
●『鍋島光茂判物』(「御判物差出」)
その後、寛文3(1663)年ごろまでに弟・鍋島八左衛門常治組を継承して大組頭を命じられた。ただし「鍋島」の名字は許されず「千葉」に改めている。同じく寛文3(1663)年、小馬廻に就任。寛文7(1667)年には鍋島監物正純組を継承して大組頭となった。その後、寛文9(1669)年頃に大組は生野織部孝祖へ継承される。
寛文11(1671)年9月14日、鍋島茂治ら四十名が藩主・鍋島光茂・綱茂に対して忠節を誓い、他家に仕官することや徒党を組むことなどを禁じる旨の血判起請文を提出した。その中に「鍋島玄蕃(常治)」、「千葉大学(常成)」とその子「千葉頼母(常輝)」の名が見える。
●「鍋島志摩茂治外四十名連署起請文」
鍋島杢助 | 山崎久太夫 | 石井市佑 | 小川作兵衛 | 千葉頼母 | 大木左助 | 鍋島左太夫 |
鍋島源右衛門 | 木下五兵衛 | 多久勘助 | 百武伊織 | 中野九郎兵衛 | 多久縫殿 | 喜多嶋外記 |
小国十郎右衛門 | 山崎勘解由 | 石井修理 | 小川舎人 | 千葉大学 | 大木兵部 | 鍋島内記 |
中野数馬 | 鍋島采女 | 佐野主膳 | 鍋島十太夫 | 生野織部 | 多久兵庫 | 岡部七之助 |
有田内匠 | 鍋島喜左衛門 | 鍋島将監 | 鍋島玄蕃 | 岡部宮内 | 鍋島監物 | 有田主計 |
成富十右衛門 | 相良求馬 | 鍋島式部 | 鍋島主税 | 鍋島志摩 |
その後、長崎御番頭の大役に抜擢され、天和2(1682)年4月9日、長崎を訪れた藩主・光茂は、長崎戸町御番所において、供の鍋島主水直朗・鍋島官左衛門茂春、そして千葉太郎介へ御番の大意を語っている。このとき同道していた鍋島官左衛門茂春の娘は常成の弟で宗家を継いだ玄蕃常治に嫁いでいる。
光茂は人を遠ざけると、この三人に対し、将軍・綱吉から長崎の番について勤め上げることを命じられた旨を告げ、「長崎ハ異国江対、日本之恥をかゝぬ所か肝要之目当也、自然御制禁船着岸一戦及時は、我等一番ニ討死スル覚悟也、是日本之恥をかゝぬ根本也、我等討死之跡ニハ右衛門佐殿手柄をイタサルニテ有之ヘシ、長崎御番我等覚悟之大意トハ此儀也」と申し聞かせた。
円通寺の千葉常成墓(右端) |
そして関が原の陣で西軍についたことは豊臣家の恩を思ってのことで、人は皆西方についたことは誤りというが私としてはまったく取り違えたとは思っていないとし、さらに西軍についた鍋島家を取り潰さずに安堵してくれた「権現様御恩難申尽」く、「長崎御番被仰付置候こそ幸候」とし、「一番ニ命を捨、御恩報シ奉る図也」との意思を吐露した。人を遠ざけて密かに話していたのだが、光茂はいつしか昂ぶり、声高に話していたので外に控えていた人々にも聞こえ、これを聞いていた人々はみな感動して涙を流したという。
貞享2(1685)年9月25日、隠居を許され、嫡男・頼母常輝が大組頭を継承し、元禄10(1697)年10月26日、亡くなった。法名は月明院雲巖宗雪大居士。妻の勝屋氏(松寒院節窓紹貞大姉)は、常成が亡くなるわずか半月前の10月11日に亡くなっており、小城の円通寺に常成とともに葬られている。娘は石井伝兵衛宗明に嫁ぎ、その死後は常成養女(大木弥右衛門知武娘)が継室となった。
・『千葉氏研究』4:「葉隠の校注にみる肥前千葉氏の足跡」渕上登美氏著
・『九州近代史料叢書』: 九州産業史料研究会著
・『佐賀県近世資料』
千葉常輝(????-1703)
千葉家二代当主。初代・千葉太郎助常成の嫡男。母は勝屋勘右衛門娘(松寒院節窓紹貞大姉)。妻は鍋島隼人教澄娘・虎(永保院賢寿浄栄大姉)。通称は頼母。佐賀藩小馬廻、着座。家紋は十一曜。
嬉野九郎左衛門――娘 +―――――――虎
∥ ∥ | (永保院)
鍋島茂成―+―娘 ∥ | ∥
(六左衛門)| ∥――――+―鍋島明実 ∥
| ∥ (伝兵衛) ∥ 諫早茂眞―娘
+―鍋島茂教―――――鍋島教澄 ∥ ∥(豊前) ∥
|(伝兵衛) (伝兵衛) ∥ ∥ ∥――――――千葉常以
| ∥ ∥ ∥ ∥ (頼母)
+―娘 ∥――――――――――――鍋島教令 ↓
∥ ∥ (伝兵衛) ↓
千葉介胤連――鍋島胤信―――+=鍋島常貞 +―娘 ∥ ↓
(千葉介) (右馬佐) |(玄蕃允) | ∥――――――千葉常春===千葉常以
| ∥ | ∥ (八左衛門) (頼母)
| ∥ | ∥
| ∥――――+―千葉常成――千葉常輝
+―娘 |(太郎助) (頼母)
| |
| +―鍋島常治――鍋島常範
| |(玄蕃) (玄蕃)
| |
| +―娘
| ∥
+========飯篠胤仲――…晴気氏
(作兵衛)
天和2(1682)年11月11日、千葉太郎助常成の組与力・沢部平左衛門が自宅で博打を行った科によって切腹を命じられた。平左衛門は『葉隠』の山本神右衛門常朝の従兄弟にあたり、中野又兵衛政良の実子。沢部三郎兵衛常寿の養子となっていた。平左衛門は大宝国相寺において切腹とされ、介錯は山本常朝が行った。このとき、一門の百武伊織兼久ほか一門衆、平左衛門の寄親だった父・千葉太郎助常成の代理として、頼母常輝が平左衛門の最期を見届けるため、中侍、手明槍、足軽を率いて先に寺に入り手配りをしている。
鍋島直茂――――鍋島勝茂
(加賀守) (信濃守)
∥
+―菊姫
|(高源院)
|
岡部長盛――+―娘
(内膳正) ∥
∥
寺沢正高―+―寺沢正成――――寺沢堅高
(越中守) |(志摩守) (兵庫頭)
|
+―寺沢正秀――――沢部茂明―――沢部親常――――沢部常寿――+―沢部登徳
(又次郎) (源左衛門) (源左衛門) (三郎兵衛) |(嘉右衛門)
|
+=沢部平左衛門
+―【千葉太郎助常成組与】
|
|
中野清明――+―中野政良―+――中野政貞
(式部少輔) |(又兵衛) (十郎兵衛)
|
+―中野正守――――中野正邦――――中野正包
|(将監) (主馬) (将監)
| ∥
| 百武兼久――――娘
| (伊織)
|
+―山本重澄――――山本常朝
|(神右衛門) (神右衛門)
|
+―娘
| ∥―――――――中野政利――…【大組頭中野家】
| ∥ (数馬)
+=中野茂利
(忠兵衛)
円通寺の千葉常輝墓(右から二つ目) |
貞享2(1685)年9月から12月にかけては、手明鑓組(佐賀藩固有の職制。侍とほぼ同格の士で諸組に分かれて寄親に属した)支配となっている。ちなみに、幕末の手明鑓組には鎌倉時代の千葉氏の西遷に従った千葉一族の末裔・江藤助右衛門胤光がおり、彼の嫡男が明治政府参与・江藤胤雄(江藤新平)である。
貞享3(1686)年12月25日、常輝は留守居組となり、手明鑓支配を兼ねた。
貞享4(1687)年6月29日、佐賀藩老臣として守るべき条項を遵守する旨の血判起請文を老臣二十六名が連署して提出したが、その中に「千葉頼母」が見える。
元禄8(1695)年の『元禄八年着到状』によれば物成高四百石、知行は千石、あわせて千四百石を知行する家柄であった。また、大組頭として二十二名の組士を率いていた。
◎『元禄八年着到状』千葉頼母組
名前 | 物成(切米) | 知行 | 総計 |
千葉頼母常輝 | 400 | 1,000 | 1,400 |
石川市十郎 | 300 | 1,000 | 1,300 |
勝屋五郎右衛門 | 180 | 600 | 780 |
中川春庵 | 150 | 375 | 525 |
長束瑞竹 | 150 | 375 | 525 |
松永宗伴 | 150 | 375 | 525 |
南部宗真 | 100 | 333.333 | 433.333 |
大石小助 | 50 | 125 | 175 |
野田藤右衛門 | 30 | 75 | 105 |
真木源内 | 25 | 50 | 75 |
宗八郎左衛門 | 20 | 50 | 70 |
鶴田市右衛門 | 20 | 50 | 70 |
丹羽七右衛門 | 20 | 50 | 70 |
多々良久左衛門 | 16.75 | 41.88 | 58.63 |
多々良忠兵衛 | 16.5 | 41.25 | 57.75 |
櫛山源之丞 | 15 | 37.5 | 52.5 |
田原八兵衛 | 15 | 37.5 | 52.5 |
広渡雪之進 | 15 | 37.5 | 52.5 |
篠崎五右衛門 | 15 | 37.5 | 52.5 |
山田久右衛門 | 10.8 | 27 | 37.8 |
下村六郎左衛門 | 10.5 | 26.25 | 36.75 |
石川宗與 | 30人扶持 | 30人扶持 | |
中林武左衛門 | 18(10人扶持) | 18 |
元禄9(1696)年4月11日、江戸から帰国した鍋島光茂の白山八幡宮社参に際し、「寺社奉行 千葉頼母」が同道した(『綱茂公御年譜』)。この下向につき、筑前冷水峠を越えた際、山家で黒田肥前守綱政と会談している。光茂は帰国すると、常輝に返礼の使者として福岡へ行くよう指示し、「千葉頼母主従四十人」が挨拶の使者として福岡へ向った(『綱茂公御年譜』)。
元禄10(1697)年8月15日より藩公・綱茂みずから「諸組的」を見ることとなり、9月2日の最終日(八番)、千葉頼母組、石井縫殿組、鍋島靱負組が弓・鉄砲の演武を行なった。
千葉頼母組私与奉納石灯籠 |
元禄13(1700)年5月16日、藩主・鍋島丹後守光茂(乗輪院殿全機良運大居士)が亡くなり高伝寺に葬られたが、このとき千葉頼母組私与が奉納した石灯籠が遺されている。
元禄15(1702)年4月、藩へ親族一同を書き記した『千葉頼母親族帳』を提出した。5月7日、綱茂の参勤交代の無事の下国を御礼のため、常輝を使者として江戸へ派遣。常輝は幕府より「時服三」を拝領している(『綱茂公御年譜』)。
元禄16(1703)年9月20日、亡くなった。法名は徳雲院古渓浄龍大居士。妻の鍋島氏(永保院賢寿浄栄大姉)は宝永3(1706)年正月に亡くなり、小城の円通寺に夫婦で葬られている。
・『千葉氏研究』4:「葉隠の校注にみる肥前千葉氏の足跡」淵上登美氏著
・『九州近代史料叢書』:
九州産業史料研究会著
・『房総の郷土史』18:「葉隠の校注にみる肥前千葉氏の足跡」淵上登美氏著
・『佐賀県近世資料』
千葉常春(????-1707)
千葉家三代当主。二代・千葉頼母常輝の嫡男。通称は八左衛門。小馬廻、着座。
宝永2(1705)年2月4日、藩公・鍋島信濃守綱茂は鍋島内記に附けていた大馬廻組を差し替え、岩村郡右衛門、千葉八左衛門、高木勘右衛門、水町弥太右衛門、枝吉利左衛門の五名の着座に配した。
千葉八左衛門等奉納石灯籠 |
宝永3(1706)年12月2日、藩主・綱茂が亡くなった。法名は玄梁院殿卓巌道印大居士。これに際し、「千葉八左衛門、鍋島一学、鍋島縫殿、有田主斗、鍋島主税、鍋島伝兵衛、岡部権之助、佐野源四郎」が奉納した石燈篭が、藩公菩提寺の玄梁院殿脇に遺されている。
しかし、綱茂死去からわずか二か月余りのちの宝永4(1707)年2月17日、常春も亡くなり、小城の円通寺に葬られた。法名は瑞法院性海湛然大居士。
円通寺の千葉常春墓(左から二つ目) |
・『千葉氏研究』4:「葉隠の校注にみる肥前千葉氏の足跡」渕上登美氏著
・『佐賀県近世資料』
千葉常以(1696-1719)
千葉家四代当主。三代・千葉八左衛門常春の養嗣子。通称は吉四郎、頼母。
元禄9(1696)年5月15日、鍋島伝兵衛教令の子として誕生した。母は諫早豊前茂真娘。妻は生野織部孝興娘。
宝永6(1709)年、藩公・吉茂の代に三十八席として「千葉吉四郎常以」があり、鍋嶋内記の触内となっている。
享保4(1719)年10月21日に二十四歳の若さで亡くなり、菩提寺である小城の円通寺に葬られた。法名は霜桂院徳岩浄昌。
千葉介胤頼―+―千葉介胤誠
(千葉介) |(千葉介)
|
+―娘 千葉介胤連――千葉胤信===鍋島常貞
∥ (千葉介) (右馬佐) (玄蕃)
神代勝利 ∥
(大和守) ∥
∥―――――――神代長良 諫早直孝―――彦宮
副島信吉――――娘 (刑部大輔) (石見守) (照見院)
(近江守) ∥ ∥
鹿江兼明 +―娘 後藤家信―――娘 ∥
(遠江守) | (十左衛門) (瑞雲院) ∥
∥―――――+―娘 ∥――――+―鍋島茂貞
∥ ∥―――――――――――――太田茂連 ∥ |(帯刀)
龍造寺家兼―+―娘 太田源舜 (生右衛門) ∥ |
(剛忠公) | (美濃守) ∥――――――太田茂歳 +―鍋島茂晴――+
| ∥ (弾右衛門) (主馬) |
| ∥ |
| ∥ |
| 納富家繁 ∥ |
| (治部大輔 ∥ |
| ∥――――――娘 |
| ∥ +=(瑞光院) |
| 石井常延―――彦鶴 | |
| (兵部少輔) (陽泰院)| |
| ∥ | |
| 鍋島清房 ∥―――+――鍋島勝茂 |
| (駿河守) ∥ (信濃守) |
| ∥――――――鍋島直茂 |
+―龍造寺家純―+―娘 (千葉胤安) |
(豊前守) | |
| |
+―龍造寺周家――龍造寺隆信 |
(六郎次郎) (山城守) |
|
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
|
| 鍋島光茂―――――――+
|(丹後守) |
| +―鍋島茂長 鍋島茂能
+―鍋島貞由―――――――+=(帯刀) (帯刀)
(弾右衛門) | ∥ ∥
| ∥――――――熊
+―娘 (智泉院) +―多久茂孝――鍋島茂矩
| |(美作) (監物)
| | ∥
+―太田貞長 多久茂堯―+―鍋島茂郷 ∥
(生左衛門) (長門) (弾右衛門) ∥―――+
∥ ∥―――――三百 |
鍋島直茂―+―鍋島勝茂―+―鍋島光茂 ∥ +=鍋島茂恒―――玉 (智月院)|
(加賀守) |(信濃守) |(丹後守) ∥ |(弾右衛門) (瑞昌院) |
| | ∥ | ∥ |
+―娘 +―娘 ∥ 生野孝興―+―伊勢鶴 |
∥ ∥――――――諫早茂真―+―鶴 (織部) |(晴雲院) |
∥ ∥ (豊前) |(洞雲院) | |
∥ ∥ | +―娘 |
∥――――+―諫早茂敬 +―娘 (普照良天) |
∥ |(豊前) ∥ ∥ |
∥ | ∥ ∥ |
諫早直孝 +―彦宮 ∥――――――――――――千葉常以 |
(石見守) ∥ 鍋島教令 +=(頼母) |
∥ (伝兵衛) | |
∥ | |
∥――――+―千葉常成―――千葉常輝――千葉常春―+ |
∥ |(太郎助) (頼母) (八左衛門) |
∥ | |
千葉胤信―+=鍋島常貞 +―鍋島常治 |
(右馬佐) |(玄蕃) (玄蕃) |
| ∥ |
+―娘 |
|
+―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
|
+=鍋島茂快―+―太田資智
鍋島斉直―+―(播磨) |(孝五郎)
(肥前守) | |
| +―太田源六(千葉源六胤廣か)
| ∥
| 三浦氏(深堀氏か)
|
+―鍋島直正
(閑叟)
妻の生野氏との間の一人娘は綾部氏に嫁いだ。生野氏は常以卒去ののち、父・生野織部孝興のもとに戻り尼となった。法名は普照良天大姉。生野家の菩提寺・天祐寺に葬られた(『生野家系図』)とされるが、円通寺の常以墓にも法名が刻まれている。こちらは供養墓かもしれない。現在の天祐寺に生野家の墓はなく、生野氏の墓石も不明である。
円通寺の千葉常以墓(左端) |
・『房総の郷土史』:「肥前千葉氏歴代譜について」渕上登美氏著
・『佐賀県近世資料』
千葉胤貞(????-????)
千葉家五代当主。四代・千葉頼母常以の養嗣子。通称は太郎助。実父は鍋島靫負茂敬。妻は石井六郎左衛門賢次長女。
光勝寺内の千葉胤貞夫妻の墓(左側) |
胤貞の生没年および活躍は不明。法名は禅那院慧燈日明居士。妻の石井賢次娘は宝暦3(1753)年5月14日、五十四歳で亡くなっている。法名は眞淨院貞正日實大姉。
千葉常成―+―千葉常輝―――千葉常春==千葉常以==千葉胤貞
(太郎助) |(頼母) (八左衛門)(頼母) (太郎助)
| ∥
+―石井賢胤―――石井賢次――――――+―娘
(六郎左衛門)(六郎左衛門) |
+―千葉胤矩
(八左衛門)
・『佐賀県近世資料』
・『倉町家系図』
千葉胤矩(????-????)
千葉八左衛門屋敷跡(西堀端) |
千葉家六代当主。五代・千葉太郎助胤貞の養嗣子。通称は八左衛門、舎人。石井六郎左衛門賢次の三男。妻は石井新右衛門宣虎娘・彦鶴。先代の千葉太郎助胤貞の妻は胤矩の姉にあたる。年寄役。
屋敷は佐賀城の西側、堀端に隣接する西堀端小路(佐賀市赤松町1)に南北百メートル、東西七十メートルという広大なものだった。
●千葉胤矩周辺系図
石井宣虎
(新右衛門)
∥――――――――――――――――――――彦鶴
石井茂成―+―石井清次―――石井賢成 +―娘 ∥ ∥
(修理亮) |(又左衛門) (六郎左衛門)| ∥―――――+―娘 ∥
| ↓ | ∥ | ∥
| ↓ | ∥ | ∥―――――――――――娘
+―石井賢顕===石井賢成――+=石井賢胤 +―石井賢次――+――――――――――――――千葉胤矩 ∥
(六郎左衛門)(六郎左衛門) (六郎左衛門) (六郎左衛門)| (八左衛門) ∥
↑ | ↓ ∥
↑ | ↓ ∥
鍋島胤信―+=鍋島常貞 +―千葉常成――+―石井賢胤 +―――――――姉 ↓ ∥
(右馬佐) |(玄蕃) |(太郎助) |(六郎左衛門) ∥ ↓ ∥
| ∥ | | ∥ ↓ ∥
| ∥――――+―鍋島常治 +―千葉常輝――――千葉常春====千葉常以==千葉胤貞――=千葉胤矩===千葉胤武 ∥
+―娘 |(玄蕃) (頼母) (八左衛門) (頼母) (太郎助) (八左衛門) (太郎助) ∥
| ∥ ↑ ∥
| 鍋島教澄 +―虎 ↑ ∥
| (伝兵衛) | ↑ ∥
| ∥ | ↑ ∥
| ∥――――+―鍋島明実 ↑ ∥
| 嬉野氏 (伝兵衛) ↑ ∥
| ∥――――――鍋島教令 +―千葉常以 ∥
+――――――――――娘 (伝兵衛) |(頼母) ∥
∥ | ∥
∥―――――+―鍋島増房―――鍋島道房――――――――――――+―石井賢充
諫早茂真―――娘 |(伝兵衛) (隼人) |(六郎左衛門)
(豊前) | |
+―三上利久 +―鍋島親房
(新九郎) (伝兵衛)
千葉太郎助等奉納の石灯籠 |
はじめ叔父の石井新右衛門宣虎の長女・彦鶴と結婚し、宣虎の婿養子となって石井家を継いだ。宣虎は享保3(1718)年10月21日に亡くなっているので、そのころ家督を継いだのだろう。その後、藩公の命を受けて義兄の千葉太郎助胤貞の養子に定められて千葉家へ入り、千葉八左衛門胤矩を称した。
また、胤矩が千葉家の家督を継いだのちに義父・胤貞に実子・清次郎が生まれたと思われ、清次郎は祖父の石井六郎左衛門賢次の養子に定められて石井官平を名乗り、続いて石井六郎左衛門賢澄と改めた。
享保15(1730)年3月18日、藩主・鍋島丹後守吉茂(法性院殿健巌良勇大居士)が亡くなった。享年六十五。吉茂の一周忌にあわせ、鍋嶋十太夫、石田平左衛門、千葉太郎助らが石灯籠を高伝寺の吉茂公墓前に奉納している。
光勝寺の千葉胤矩夫妻の墓(右側) |
胤矩の妻・彦鶴は、元文4(1739)年9月29日、25歳の若さで亡くなっている。法名は蓮成院妙空日厳大姉。さらに、実子の雅楽助が若くして亡くなった事から、藩公の命により、養父・胤貞の実子で石井家を継いでいた石井賢澄を養嗣子に定め、賢澄は千葉太郎助胤武と改めた。
しかし、胤矩には琴仙、泉五郎という男子が二人いたことが系譜に記されており、胤武が家督を継いだのちに生まれたのかもしれない。なお、千葉琴仙は明和4(1767)年3月13日に亡くなっており(一楽斎琴仙日道居士)、妻も娶っていた(宜春院妙葩日荂尼)。胤矩の長女は宮部久右衛門貞利に嫁ぎ、二女は実家の石井六郎左衛門賢充に嫁いでいる。石井賢充は、胤矩の先々代、千葉頼母常以の実兄・鍋島伝兵衛増房の孫に当たる。
元文5(1740)年9月23日、以前に藩公・重茂が「岡部宮内、千葉八左衛門、鶴七郎右衛門、竹下八左衛門」に奉行を命じ、「御城下絵図」を認める事を命じた
延享2(1745)年9月1日、将軍・徳川吉宗は隠居、将軍世子・徳川家重が相続した。これにともない、10月2日、藩公・鍋島丹後守宗教は鍋島主水茂和を、隠居・鍋島宗茂は「千葉八左衛門」を御代替の挨拶の使者として江戸へ遣わしている。胤矩は隠居・宗茂付だったことがわかる(『御代々様略譜』)。
寛延2(1749)年2月7日、藩公・鍋島宗教は弟の右平太直亮を養子とする願書を幕府に提出。2月16日、養子願いが認められた。そして3月5日、直亮の元服願いが提出され、3月21日、直亮は宗教名代の義兄・伊達遠江守村候(宇和島藩主)とともに江戸城に登り、将軍・徳川家重の御前で「重茂」の名を与えられた。その祝いとして江戸藩邸詰の重役にも振舞があり、4月1日に「納富十右衛門、千葉八左門(ママ)」が重茂の御前に召され、盃が下された。
鍋島宗茂―+―鍋島宗教
(飛騨守) |(丹後守)
|
+―護姫
| ∥
| 伊達村候
|(遠江守)
|
+―鍋島重茂
(上総介)
∥
伊達宗村―――源姫
(陸奥守)
4月7日、藩公・宗教は参勤交代のため江戸藩邸を出立。「千葉八左衛門」は年寄役として行列を差配することとなり佐賀へ出立し、ふたたび江戸に戻った。
寛延3(1750)年4月21日、重茂は幕府へ仙台伊達家の伊達陸奥守宗村の息女・源姫との縁組願いを提出し、7月27日、認められた。そして8月12日、重茂の使者として「千葉八左衛門」が祝儀の使者として伊達家及び源姫のもとを訪れ、祝儀の品の交換を行った。
その後、胤矩は通称の八左衛門を「舎人」と改めた。
宝暦2(1752)年7月22日、佐賀藩中屋敷(港区虎ノ門2)で病床にあった「溜池御前様(重茂生母)」が五十四歳で逝去した。法名は貞樹院殿實操浄光大姉。7月25日、鍋島家所縁の高輪賢崇寺(港区元麻布1)で仏事が執り行われ、目黒の最上寺(品川区上大崎1)で荼毘に付された。重茂年寄役の千葉舎人が重茂名代として御骨拾に遣わされ、翌26日、遺骨は賢崇寺に納められた。8月9日、御送葬の儀が執り行われ、重茂名代として千葉舎人(白帷子浅黄無紋長袴着)が差配した。そして8月22日、遺骨の一部を佐賀の高伝寺へ分骨するため、堀田左治右衛門らが佐賀に下向し、千葉舎人は重茂名代として賢崇寺へ入った。9月11日、納骨のため千葉舎人が賢崇寺へ遣わされ、翌12日、四十九日の法要を執り行った。
光勝寺の千葉家廟所 |
こののち、胤矩は重茂年寄役を辞したようで、伊東孫兵衛が年寄役となっている。没年不明。胤矩の代から日蓮宗に宗旨替えしたようで、円通寺から日蓮宗の松尾山光勝寺に菩提寺を移した。法名は崑玉院常山日瑩。
・『房総の郷土史』:「肥前千葉氏歴代譜について」渕上登美氏著
・『佐賀県近世資料』
・『諫早家系図』
・『岡部家系図』
千葉胤武(????-1784?)
千葉家七代当主。六代・千葉舎人胤矩の養嗣子。実父は五代・千葉太郎助胤貞。母は石井六郎左衛門賢次娘。妻は佐野太郎兵衛種近娘。初名は賢澄。通称は清次郎、官平、六郎左衛門、太郎助、順右衛門。着座。
妻の佐野種近の曾祖父・佐野右京亮茂美の妻は千葉介胤誠の娘であったことから、千葉家との縁組にいたったのかもしれない。
鍋島清房 +―鍋島勝茂
(駿河守) |(信濃守)
∥ |
∥――――――鍋島直茂―+―鍋島忠茂――――佐野茂久
龍造寺家純―+―娘 (加賀守) (和泉守) (右衛門尉)
(豊後守) |
+―娘 +―千葉胤明
|(心月妙鏡) |(三郎右)
| ∥――――――千葉胤信―+=鍋島常貞 |
| ∥ (右馬佑) | ∥―――――――千葉常成――千葉常輝―――千葉常春==千葉常以==千葉胤貞―――千葉胤武―+―娘
| ∥ | ∥ (太郎介) (頼母) (八左衛門)(頼母) (太郎助) (太郎助) ∥
| 千葉介胤連 +―娘 ∥ ∥
|(千葉介) (心光妙観) ∥ ∥
| ∥ ∥
+―龍造寺周家 ∥ ∥
(六郎次郎) ∥ ∥
∥――――――龍造寺隆信――龍造寺政家―+―龍造寺高房 ∥ ∥
龍造寺胤和―――娘 (山城守) (民部大輔) |(駿河守) ∥ ∥
(刑部大輔) (慶誾尼) | ∥ ∥
+―龍造寺安良 ∥ ∥
|(八助) ∥ ∥
| ∥ ∥
+―龍造寺忠次==佐野茂久―――佐野茂貫―――――――佐野種近―+―娘 ∥
(源四郎) (右衛門尉) (右京) (太郎兵衛)| ∥
∥ | ∥
∥ +=佐野種恭 ∥
∥ (幸兵衛) ∥
∥ ∥
鍋島常貞―――鍋島常治―――娘 ∥ ∥
(玄蕃允) (玄蕃) ∥ ∥ ∥
+―岡部重政 ∥ ∥
|(七之助) ∥ ∥
| ∥ ∥
+―娘 ∥ ∥
| ∥ ∥ ∥
| 鍋島茂春――千葉胤貞 ∥ ∥
|(志摩) (官右衛門)∥ ∥
| ∥ ∥
+―岡部重師―――――+―娘 ∥
(権之助) | ∥
∥ | ∥
鳥巣甚右衛門――娘 +―岡部利欽―――岡部利長―――岡部利徳
(七之助) (蔵人) (覚左衛門)
彼が生まれたとき、おそらくすでに千葉舎人胤矩が家督を継いでいたと思われ、清次郎は母方の祖父・石井六郎左衛門賢次の養嗣子に定められた。しかしその後、石井家から引き取られて胤矩の養嗣子に定められ、千葉太郎助胤武と改めた。これに伴い、石井家は石井新五左衛門忠英の六男・清次が養子として入り、石井武左衛門賢忠として家督を継承した。その養子・石井六郎太夫賢充(鍋島隼人道房二男)の妻は胤武の義姉妹が嫁いでいる。
+―――――――――――娘
| ∥
| ∥
石井賢次―――+―千葉胤矩―+==千葉胤武 ∥
(六郎左衛門) |(舎人) (順右衛門) ∥
| ↑ ∥
| 千葉胤貞 ↑ ∥
|(太郎助) ↑ ∥
| ∥―――――――千葉胤武 ∥
| ∥ (順右衛門) ∥
+―娘 ∥
| ∥
| ∥
+=石井賢忠====石井賢充 ∥
(武左衛門) (六郎左衛門) ∥
∥
鍋島教令―――+―鍋島増房――――鍋島道房―――――石井賢充
(伝兵衛) |(伝兵衛) (隼人) (六郎左衛門)
|
+―千葉常以====千葉胤貞=====千葉胤矩===千葉胤武―――千葉胤明
|(頼母) (太郎助) (舎人) (順右衛門) (三郎右衛門)
|
+―三上利久
(新九郎)
宝暦11(1761)年4月、幕府の巡見使の接待につき、予算が追い付かなかったことにつき、接待に当たった「鍋島大和、鍋島孫四郎、鍋島隼人、千葉太郎助、深堀新左衛門」が御小書院へ呼ばれ、重茂から気の毒なことだったとしながらも「巡見使通路ノ義ハ、前ヲ以テ相知居申」として注意し、手元不如意とはいえ「巡見使ハ公辺聊太切ノ義ニ付、尚又何レモ遂吟味、右御入用一通、全可相整」旨をもって銀を下した。
千葉太郎助組私奉納灯籠 |
明和3(1766)年4月7日、将軍・徳川家治の世子、徳川家基が元服、大納言に任官した。その祝いとして5月27日、藩公・鍋島重茂は藩の重臣たちに吸物を振舞ったが、「千葉太郎助」も名が見える。
明和6(1769)年、「千葉太郎助組」の組頭・有田権之允が組の手明鑓三人(副田権太郎、荒木惣右衛門、増田藤左衛門)を率いて皿山代官所の出張所である皿山会所に詰めている(『皿山代官旧記覚書』)。実際に「千葉太郎介胤武」が竹田文右衛門盛真から大組を継承したのは明和6(1769)年12月28日であり(『大組次第』)、皿山会所に派遣された「千葉太郎助組」は手明槍組か。
明和7(1770)年閏6月10日、藩公・鍋島重茂が国元で急死すると、19日、葬礼が行われた。これに際し「千葉太郎助組与私」が石灯籠を奉納している。「千葉太郎助」は閏6月18日に治茂付の年寄役を命じられ、同役の納富十右衛門、大木勝右衛門、石井又右衛門とともに「御棺付」を仰せつかった。
なお、明和7(1770)年の着到に記載がないが、これは胤武が年寄役に転じたことで組支配ではなくなったためと思われる。
御座間(鍋島直正代) |
7月5日、重茂の養子として鹿島藩主・鍋島直熈(重茂弟)が決定し、本藩を継ぐこととなった。8月28日、諸役の異動についての「当秋役方之書付」の通達のため、御居間御縁頬に重臣たちが集まり、「年寄役千葉太郎助」が書付を読み上げた。また、江戸屋敷においては、来春の直熈の佐賀下向に供する年寄役は二名と決定し、現在江戸にいる江副金兵衛と佐賀留守居の千葉太郎助が指名された。そこで太郎助は江戸に召されることとなったが、留守居の年寄役がいなくなることは「御用不相済候」であるとして、中島内蔵丞が国元の年寄役に任じられた。
7月、直熈御代始の御側役人が定められ、「年寄役」として、中野数馬・千葉太郎助・江副金兵衛が任じられている。なお、『泰国院様御年譜地取書抜』の「公御代中御年寄役」に見える「千葉大之助」は、活字編集時に「太郎」を「大之」と読み間違えたことによる誤植である。
11月7日、直熈は十代将軍・徳川家治に拝謁し、「治」の一字を賜って「治茂」を称した。治茂は藩の財政的な危機を立て直すための藩政改革を果敢に行った名君である。
明和8(1771)年12月17日、治茂と千屋姫(鍋島摂津守直寛妹)の婚儀につき、結納が交わされた。この婚儀はまだ治茂が鹿島藩主だったときに決められていたものだったが、本藩相続に伴って治茂が江戸に出府していたため、長兄で前々藩主・鍋島宗教が婚姻を進めるよう指示。この結納を差配したのが「年寄役千葉太郎助」で、太郎助は千屋姫御付の男女に結納品の目録を渡し、大殿・宗教、藩主・治茂、蓮池直寛らの間を走り廻った。しかし、この婚礼の儀は千屋姫の急逝という形で終わってしまった。
光勝寺の千葉胤武夫妻墓 |
安永元(1772)年、胤武は同役(年寄役)の江副彦次郎が起こした事件に連座し、「隠居永蟄居」を命じられてしまった。しかし同年8月12日、年寄役の不調法を気の毒に思った治茂の温情によって、当事者たちはそれぞれ減刑され、胤武も「永蟄居」は御免とされた。ただ、事件がかなり大きかった様子で、治茂の温情だけでは「容易ニ御救免難被仰付趣重畳達御耳候処」、治茂はさらなる吟味をするよう命じ、今回に限ってのみ「格段之吟味を以」って、罪を減免した。これにより、胤武は「隠居」したと思われる。
天明4(1784)年3月29日に亡くなったか。法名は日前居士。菩提寺の光勝寺に妻の佐野氏とともに葬られている。
・『房総の郷土史』:「肥前千葉氏歴代譜について」渕上登美氏著
・『佐賀県近世資料』
千葉胤明(1763-1808)
千葉家八代。七代・千葉太郎助胤武の嫡子。通称は勝太郎、三郎右衛門。初名は胤連(『坂部家系図』)。妻は坂部次郎左衛門広明娘、のち石井縫殿孝知娘八重、のち須古宮内信清次女。佐賀藩長崎番所番頭。知行高は千石、物成四百石。藩祖・鍋島直茂の六代の孫にあたる。
【佐賀藩主】
+―鍋島勝茂―――鍋島光茂―+―鍋島宗茂―――鍋島重茂――鍋島治茂―――鍋島斉直――鍋島斉正
| |(飛騨守) (信濃守) (肥前守) (肥前守) (肥前守)
| |
| +―娘
| | ∥
| | 水野忠直――――――――――――――――鍋島直弼
| |(隼人正) (内匠)
| | ↓
| +――――――――――――――鍋島長行 +=鍋島直弼
| (内匠) |(内匠)
| 【旗本鍋島家】 ↓ | ∥―――――鍋島直益
| +―鍋島正茂―――鍋島正恭―――鍋島直旨==鍋島長行―+―娘 (帯刀)
| |(孫平太) (帯刀) (帯刀) (内匠)
| |
| | 岡部重師―――娘 千葉胤武
| | (善左衛門) ∥ (太郎助)
| | ∥ ∥――――――千葉胤明
鍋島直茂―+―鍋島忠茂―+―佐野茂久―――佐野茂貫―+―佐野種近――娘 (三郎右衛門)
(加賀守) (和泉守) (右衛門) (右京) |(太郎兵衛) ∥
| ∥―――――千葉胤佐―――千葉胤清
| 石井孝知―+―八重 (八左衛門) (内匠)
| (縫殿) |
| |
| +――――――――――――――佐野種員
| (九郎左衛門)
| ↓
+―佐野種政――佐野種恭―――佐野種恒――佐野種房===佐野種員
(右衛門) (幸兵衛) (孫太郎) (又四郎) (九郎左衛門)
安永元(1772)年10月、江戸藩邸の焼失につき、藩が藩士や領民から寄付を募った際、「千葉勝太郎被官 宮崎庄助」が銀三匁を寄付している(『泰國院様御年譜地取』)。また、「千葉太郎助跡」ともあることから、父・千葉太郎助胤武は永蟄居を赦されたのち、隠居したものと思われる。胤明が家督を継いだのは翌安永2(1773)年、治茂の代である(『御親類同格御家老着座迄家々乃訳』)。そしてその頃、二歳年下の坂部広明娘を娶ったのだろう。
●安永元年十月江戸屋敷延焼につき千葉家被官寄付者
千葉八助被官 (千葉常良?) |
今泉和太郎 |
井上庄五郎 | |
千葉太郎助跡被官 (千葉胤武) |
大塚利十 |
山崎喜右衛門 | |
菊地市郎兵衛 | |
千葉勝太郎被官 (千葉胤明) |
宮崎庄助 |
光勝寺の坂部氏墓 |
天明元(1781)年11月25日、寿綱院(宗教室)の中陰払につき、圓諦院(重茂室。田安宗武長女)の名代として「千葉三郎右衛門」が参堂した(『泰國院様御年譜地取』)。
天明2(1782)年8月14日、妻の坂部氏が亡くなった。享年十八。法名は真月院妙心日照大姉。光勝寺の千葉家墓所に埋葬された。
天明4(1784)年12月28日、山中で飢えていた者を助け、朝夕十日にわたり粥を与えて介抱した人物として「千葉三郎左衛門(ママ)被官 中村貞右衛門 中村与右衛門、大木勝右衛門被官 小池長右衛門 松本三左衛門」の名が見える。その賞として五百文が下された。
千葉胤明等寄進灯籠 |
文化2(1805)年正月10日、藩公・鍋島肥前守治茂が亡くなった。享年六十一。法名は泰国院殿教学良化大居士。これに際し、成富源之丞、岡部才一郎、多久織部、坂部八郎大夫、岩村右近、大木内匠、江副忠兵衛、江副金兵衛、蒲原次右衛門、相良内記、岡部宮内、竹田文右衛門らとともに「千葉三郎右衛門」が石灯籠を奉納している。
この年、「千葉三郎右衛門 忰勝之助」の両名が鍋島帯刀組に属していることがわかる(『部類着到』十)。11月4日、子の兵五郎が亡くなった。法名は覚明院青碧童子。さらに翌文化3(1807)年正月9日、後妻の石井氏が亡くなっている。法名は纏絡院殿妙昭日麗。その後、須古宮内信清の次女を娶った。須古家は竜造寺隆信の弟・竜造寺安房守信周を祖とする「御親類同格」の家だが、信清の家は須古家の分家にあたる(家祖の龍造寺家俊は本来長男だが、弟・信昭とともに文禄の役に従軍して客死したため、弟・信昭が須古家を継承して本家となった)。
文化5(1808)年8月15日、英国フリゲート艦フェートン号が、オランダ国旗を掲げて長崎港に入ってきた。当時、イギリスは敵国フランスに併合されたオランダとは対立関係にあり、フェートン号はオランダ船を拿捕するために長崎五島列島沖に停泊していた。しかしオランダ船は現れず、薪や食料などが不足してきたため、フェートン号のペリュー艦長は日本を騙してそれらを手に入れることにした。
フェートン号はオランダ国旗を掲げて長崎港に入港してきたが、ここでイギリス船と知らずに出迎えに出たオランダ商館の商館員二名を捕虜とし、さらに食料、水、薪などの提供を求めた。応じなければ長崎を焼き尽くすという、イギリス側の強引な申し出であった。俗に「フェートン号事件」という。17日、フェートン号が長崎を離れていったその日、幕府の長崎奉行・松平図書頭康英は自刃して果てた。
小城光勝寺の千葉胤明墓 |
一方、このとき佐賀藩が長崎千人番の当番であったが、佐賀藩は本来藩兵を千人置くべきところ、財政難のため、わずかに百五十人しか置いていないという不手際を犯していた。当番ではない大村藩や島原藩などの藩兵は応援のためにすでに到着していたにも関わらず、当の佐賀藩からの兵が一向に現れる気配はなく、フェートン号が長崎を発した後に佐賀藩兵千名が長崎に現れた。この後手後手の行動に佐賀藩には批判が集中。藩の面目を潰したとして、番頭の胤明と蒲原次右衛門孝古が責任を取って、9月26日夜、それぞれ自宅において自刃した。享年四十六(『エゲレス船長崎入津之一通』)。法名は彗岳院殿徹玄日熈居士。
「千葉は従容と死に就きしが、蒲原は先代より緊要の地に当りゐしにも似ず、頗る度を失ひたりといふ」(『鍋島直正公伝』)とあり、胤明の立派な最期をうかがい知ることができる。また、この一件では、藩主・鍋島斉直も幕府より逼塞を命じられている。
胤明の遺骸は菩提寺の小城光勝寺に埋葬された。光勝寺の千葉家墓所にある胤明の墓は、円通寺の千葉家歴代の墓よりはだいぶ小ぶりではあるが、石扉のついた立派なものである。
妻の須古氏は文化9(1812)年5月28日、三十四歳で亡くなった(『須古家系図』)。法名は恵門院徹如日静大姉。胤明墓所の前に葬られている。
・『佐賀県近世資料』
・『部類着到 十』(鍋島報佼会)
・『エゲレス船長崎入津之一通』(鍋島報佼会)
・『鍋島直正公伝』
・『須古家系図』(鍋島報佼会)
千葉胤佐(????-????)
千葉家九代。父は千葉三郎右衛門胤明。通称は八左衛門。
享和3(1803)年、「八左衛門」は治茂に召し出された(『御親類同格御家老着座迄家々乃訳』)。
文化2(1806)年、「千葉三郎右衛門 忰勝之助」の両名は鍋島帯刀組に属している(『部類着到』十)。勝之助の実名はこの年の『治茂公御代惣着到』によれば「胤寿」であることから、胤佐は胤寿の弟にあたると考えられる。
光勝寺の智勇院墓碑 |
父・胤明が長崎番頭を務めていた時に起こったフェートン号事件の責を取り、「不調法」とされて自刃し、千葉家は「依之家名被 召潰」(『御代々御略譜』)とされており、いったん改易され、屋敷地も召し上げとなった。幕府の長崎奉行が自害して果てた以上、佐賀藩の長崎守衛の責任者が自害することへの体面上、二家は取り潰しとされたのだろう。
事件から二年後の文化7(1810)年10月、千葉家は再興が許され、胤佐は二百石で帰参した(『御親類同格御家老着座迄家々乃訳』)。また、父・胤明とともに自刃した蒲原次右衛門孝古の嫡子・蒲原大蔵孝栄も文化8(1811)年に百三十石で召し出されている。
没年等は不明だが、胤明前妻(坂部氏)脇の石扉付の墓碑が胤佐のものか。坂部氏脇墓碑の法名は智勇院帰玄日省居士。文政4(1821)年12月7日となっている。
・『佐賀県近世資料』
千葉胤清(????-????)
千葉家九代。父は千葉八左衛門胤佐。通称は内匠、着座。
鍋島斉直に仕え、文化11(1814)年9月、七十石を加増され、二百七十石を食む。斉直ののちは、十代藩主・鍋島斉正(のちの閑叟直正)に仕え、着座の重責を全うする。
天保元(1830)年、「千葉内匠」が鍋島主計組に属していた(部類着到 十二)。
没年等不明。法名は玄収院殿穎悟日明居士か。妹は石井権平胤忠の妻となっている。
千葉胤信――+=鍋島常貞 +―千葉常成――千葉常輝―――千葉常春===千葉常以…―千葉胤佐―+―千葉胤清―――千葉胤脩
(鍋島右馬佐)|(玄蕃允) |(太郎助) (頼母) (八左衛門) (頼母) (八左衛門)|(内匠) (頼母)
| ∥ | |
| ∥――――+―鍋島常治 +―娘
+―娘 |(玄蕃) ∥
| | ∥
| +―娘 ∥――――――石井胤美
| ∥―――――石井胤之―――晴気胤春―――晴気胤丘――娘 ∥ (常次郎)
+========飯篠胤仲 (武右衛門) (作兵衛) (作兵衛) ∥――――+=石井胤忠
(作兵衛) ∥ |(権平)
∥ |
石井尚方 +=龍女 +―保九郎
(半兵衛) (於増) |
∥ |【鹿島藩主】
∥――――+―鍋島直永
∥ |(丹波守)
∥ |
鍋島斉直 +―豊姫
(肥前守)
●鍋島斉正代の着座十八家(『鍋島直正公伝』)
鍋島十大夫繁 | 九百石 | 松浦党山代茂貞の末裔 |
鍋島左大夫種彬 | 六百石 | 鍋島清久長子・鍋島清泰(鍋島直茂伯父)の末裔 |
鍋島市佑保脩 | 六百石 | 納富東市正長昭の末裔 |
成富十右衛門種美 | 六百石 | 成富兵庫助茂安の末裔 |
石井勘解由孝雅 | 五百十五石 | 行武氏。母方の石井氏を継ぐ |
岡部杢之助重安 | 五百石 | 高源院(鍋島勝茂妻)の縁戚、伊丹氏庶家の末裔 |
多久伊織安広 | 四百石 | 多久美作茂辰次男・多久兵庫安胤の末裔 |
坂部三十郎明雅 | 四百石 | 江戸浪人・坂部正久の母が鍋島綱茂乳母だったことに因んで仕官の家柄 |
鍋島隼人忠房 | 三百七十石 | 松浦党伊万里氏の末裔 |
大木主水朝温 | 三百十石 | 蒲池党大木朝光の子・大木純清の末裔 |
深江六左衛門武教 | 三百石 | 高来郡深江の地頭の家柄 |
岩村郡右衛門 | 三百石 | 姉川定昭末裔 |
執行玄蕃 | 三百石 | 執行玄蕃宗全の末裔 |
有田八右衛門武 | 二百七十五石 | 松浦党有田茂成の末裔 |
千葉内匠胤清 | 二百七十石 | 小城城主千葉家の末裔。もと九百石の加判家老の家柄。兄の家 |
中野神右衛門教明 | 二百五十石 | 後藤一族。 |
岡部七之助 | 二百五十石 | 高源院(鍋島勝茂妻)の縁戚、伊丹氏の末裔 |
原田吉右衛門 | 二百五十石 | 名族原田家の末裔 |
・『佐賀県近世資料』
千葉胤脩(1828-1870?)
千葉家十代。父は千葉内匠胤清。通称は頼母。
安政3(1856)年12月改の『石高帳』によれば、「物成弐百七十石 西御堀端 千葉頼母 二十九」とあり、文政11(1828)年の生まれと思われる。
天保9(1838)年頃、「千葉頼母」は物成高二百七十石(三根郡167.262石、小城郡102.738石)を知行し、大組頭(当時二十四家)で最後の佐賀藩主・鍋島肥前守斉直(のち直正)に仕えた。
●千葉頼母所領
所領 | 石高 | 現在地 |
三根郡田嶋村 | 132.262 | 三養基郡みやき町大字西島 |
三根郡中津隈村 | 35 | 三養基郡みやき町大字中津隈 |
小城郡黒原村 | 102.738 | 小城市小城町晴気大字黒原 |
嘉永4(1852)年当時の『分限着到』によれば、「千葉頼母」は鍋島十右衛門組に属し、知行六百七十五石、物成二百七十石を有していた。慶応3(1868)年夏における『惣番秩禄』においても物成二百七十石である。
元治元(1864)年の『座席帳』によれば、「千葉頼母」の藩内席次は三十三席となっている。また、同年6月13日当時、長崎戸町御番所におり(『胸秘録』)、この日、伊東次兵衛が頼母を訪問している。曽祖父・三郎左衛門胤明以来、千葉家当主が長崎へ赴任していた様子がうかがえる。なお、当時の胤脩は、鍋島監物組に属し、御小荷駄奉行と士組代を兼ねていた。
明治元(1868)年において「千葉頼母胤脩」は三十一席、のちの佐賀藩権大参事・中野数馬匡明の前席である。新政府による江戸攻めに加わるため、藩公・鍋島直大が出陣。直大の近衛衆として鍋島監物組があたり、胤脩は監物隊の侍組隊長を務めている。
没年等不明だが、光勝寺内千葉家廟所にある「千葉勝太郎」が胤脩か? 「千葉勝太郎」は明治3(1870)年正月19日卒。法名は勝嶽院殿孝慮日全居士。
・『佐賀県近世資料』
・『大小配分石高帳』(鍋島報佼会)
・『部類着到 十二』(鍋島報佼会)
・『座席帳』(鍋島報佼会)
・『分限着到』(鍋島報佼会)
千葉常男(????-1903)
千葉家十一代。父は千葉頼母胤脩か。
明治期の佐賀県教育者として大成し、佐賀県尋常中学校長、私立成美女学校主を歴任している。
明治36(1903)年に亡くなり、追悼会が開かれた(『鍋島市佑家資料』鍋島報佼会)。