奥州千葉氏

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目次 奥州千葉氏の流派 奥州千葉氏出自 奥州葛西氏
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奥州千葉氏系図一 奥州千葉氏系図二 奥州千葉氏系図三 奥州千葉氏家紋  

■東北の千葉一族■

 東北地方には「千葉」家がとても多い。なぜ関東発祥の千葉氏が東北地方に繁栄したのか。実は謎が多く、詳細はわかっていないのが現実である。家々には様々な伝承(ときには歴史的に疑問があるものもある)があり、そういった伝承は文化として後世に伝えていくことが大切である。

 千葉氏が東北地方に関ったのは、文治5(1189)年の源頼朝による奥州合戦である。この戦いは二度にわたって行われ、第一次奥州戦(対奥州藤原氏)では千葉介常胤東海道大将軍、第二次奥州戦(対大河兼任)では千葉新介胤正常胤に代って海道軍大将軍を務めるなど多大な軍功があり、論功行賞ではおそらく海道筋に多くの所領を与えられたと見られる。のちに、千葉介常胤が子息六人(胤正・師常・胤盛・胤信・胤通・胤頼)に分け与えた地(陸奥国行方・宇多・亘理・伊具・岩城・宮城・黒川郡内各地)は、このときに賜った地であろう。この地を拠点に奥州相馬氏や奥州武石氏(亘理氏⇒涌谷伊達家)は発展し、戦国大名として成長をしていくこととなる。

 また、千葉新介胤正の手に属して活躍した葛西三郎清重平泉の統治と奥州検断権を認められ、陸奥国留守職の伊澤家景とともに奥州惣奉行に就いたことが『吾妻鏡』からうかがえる。葛西氏はもともとは神宮領である下総国葛飾郡葛西御厨(東京都江戸川区葛西周辺一帯)の荘官で、鎌倉時代には鎌倉葛西ヶ谷に常駐して将軍に近侍していた。その後、葛西家四代目・葛西左衛門四郎清時が奥州へ下向したようである。

 一説には、建治2(1276)年、清時は千葉介頼胤の子・胤信を養子として迎えたとされ、頼胤は胤信に一族の臼井三郎左衛門常俊千葉飛騨守胤常千葉左馬助胤氏の三人を附けさせて奥州へ下向させたとある。葛西氏に入った胤信は「清信」と名を改めて太守となったことが伝承として伝えられている。そして諸千葉家に伝わる系譜等では、ちょうどこの時代―寛喜2(1230)年~正安2(1300)年に奥州へ下向したという一族が顕著となる。

■奥州千葉氏一■

1.千葉泰胤を祖とする一族。(薄衣氏、松川氏、門崎氏、峠千葉氏、奥玉千葉氏、鳥畑氏)

■奥州千葉氏二■

2.千葉介頼胤が祖と伝わる一族。(長坂氏、百岡氏、伊刺氏、本吉氏、浜田氏、一関氏、星氏)

■奥州千葉氏三■

3.千葉胤親が祖と伝わる一族。(馬籠氏・矢作氏・浜田氏・高田氏・百岡氏・大原氏・星氏)

■奥州千葉一族の家紋■(※全体の一部に過ぎません)

月星 三日月 三日月に星 九曜 陰九曜 丸に九曜 丸に向い鳩 五三の桐
八曜に三日月 丸に三星 七曜 五つ星 丸に六星 鉄砲角に七曜 並び九曜 三つ柏
               
丸に三つ柏 隅切り三つ柏 丸に向い鳩 五三の桐 丸に剣柏 熨斗輪に三柏 抱き稲に三柏 丸に折れ柏
亀甲に三柏 丸に蔓柏 丸に一つ柏 維駒 寓生に向い鳩 亀甲花菱 下り藤 丸に木瓜
丸に抱き茗荷 隅立四目結 丸に並び矢 丸に蔦 丸に中陰蔦 丸に剣片喰 三盛亀甲花菱 八曜に三日月
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