江戸時代末期、江戸三大道場の一家に数えられた玄武館は、陸奥国本吉郡気仙沼村出身の千葉一族・千葉周作成政を創始者とする北辰一刀流の道場である。
北辰一刀流とは、千葉家家伝の「北辰流」と周作自身が修業した「一刀流」の合法剣法であり、通説となっている「北辰夢想流」と「一刀流」の合法剣法ではない。また、北辰一刀流は宗教色のない合理的な教法であって「妙見信仰」とも無縁である(周作個人は妙見を守本尊としていた可能性はある)。
しかし、千葉周作自身の出自については、周作自身が語らなかったこともあり、様々な説がある。これを総合的かつ詳細に検証した佐藤訓雄氏の『剣豪千葉周作』(宝文堂)によって、周作にまつわる「謎」が比較検討され、長年疑問が呈されていた出生地や父親の謎に革新的な進展が見られた。さらに、各地に残る千葉周作の出自・伝承を調査した島津兼治氏や宮川禎一氏の研究によってさらなる発展があった。
そして、最近では原典に当たって歴史の掘り起こしをされている研究家あさくらゆう氏によって、周作の出生地が気仙沼市であることやその後の足取り、千葉定吉一族の幕末・明治以降の動向までほぼ明らかにされている。このページでは、、先学諸先生の研究を含め、その他の史料もあわせて、創始者千葉周作の弟・千葉定吉(「小千葉」「桶町千葉」)の一族ついて紹介する。
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●北辰一刀流千葉周作家(想像略譜)
+=千葉周作 +―塚越成道―+―塚越成直――+―塚越成男
|(荒谷村千葉家)|(又右衛門)|(又右衛門) |(鉾五郎?)
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| | | +―塚越至
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| | | +―塚越三治
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| | +―倉光継胤――――倉光光胤
| | (継之進) (鐉次郎)
| |
| |【北辰一刀流】
千葉常成=?=千葉成勝―――+?=千葉成胤――+―千葉成政―+―千葉孝胤――――千葉一弥太
(吉之丞) (幸右衛門) (忠左衛門) |(周作) |(奇蘇太郎)
| |
| +―きん +―千葉之胤―――千葉栄一郎
| |(嫁芦田氏) |(周之介)
| | |
| +―千葉成之――+―千葉鉄之助
| |(栄次郎)
| |
| +―千葉光胤――+―千葉勝太郎―――千葉和
| |(道三郎) |
| | |
| +―千葉政胤 +―千葉次彦
| (多門四郎)
|
+―千葉政道―+―千葉一胤――+―繁
(定吉) |(重太郎) | ∥
| | ∥
+―梅尾 +=千葉束
| |(喜多六蔵二男)
| |
+―さな +―寅
| ∥ | ∥
| ∥ | ∥
| 山口菊次郎 +=千葉清光
| |(東一郎)
| |
+―りき +―震(しの)
| ∥ | ∥
| ∥ | ∥
| 清水小十郎 | 江都一郎
| |
+―きく +―千葉正
| ∥
| ∥
| 岩本惣兵衛
|(大伝馬町旅店)
|
+―はま
∥
∥
熊木庄之助
千葉重太郎(1824-1885)
千葉定吉政道の長男。母は定吉妻・瀧子。妻は幸。諱は一胤。通称は十太郎、重太郎。贈正五位。文政7(1824)年3月1日、「江戸杉之森」に生まれた(『原六郎翁伝』『千葉一胤履歴』)。
重太郎は一道場の経営者、流派の師匠という枠には収まらない。鳥取藩の周旋方として処々を奔走し、諸藩の志士と交わり、陰ながら明治維新の礎を築いた一人でもある。
●重太郎と「別懇の間柄」とされる人々(『原六郎翁伝』)
幕臣 | 勝安芳、山岡鉄太郎、大鳥圭介 |
高知藩 | 坂本龍馬、板垣退助、土方久元 |
萩藩 | 山田市太郎、桂小五郎 |
鹿児島藩 | 西郷隆盛、小松帯刀 |
熊本藩 | 轟武平 |
水戸藩 | 住谷寅之助 |
津山藩 | 倉掛寅次郎 |
鳥取藩 | 河田左久馬、伊王野次郎左衛門、松田正人、荒尾近江、池田式部、荒尾千葉之助、多久間伴造 松田主膳、堀正、唯井九十九、永田秀三、荒尾光就 など |
●隻眼の剣士
桶町道場跡(八重洲) |
嘉永6(1853)年5月1日、父・定吉が鳥取藩「当御屋敷稽古場剣術取立」、賄料として毎年銀十枚が宛がわれることとなった( 『千葉一胤家譜』)。しかし、定吉とともに推挙された重太郎については「尤都合之儀も有之由相聞候」という理由でこのときは仕官はしなかった。「都合之儀」とは千葉道場の運営の事かもしれない。
そのころ、重太郎は桶町の道場で、鳥取藩士・奥村力之助を相手に稽古していたが、このとき奥村の竹刀が割れ、その切先が面の中の重太郎の右眼を貫いた。重太郎は桶町の道場で負傷していることから、この事件は狩野探渕屋地端から桶町へ道場を移した安政2(1855)年10月以降のことである(『千葉の名灸』)。
この事故の直後、重太郎は近所の眼科医・桐淵某(桐淵真利カ)を招いて手術しているが、結局、重太郎は隻眼となる。この当時、治療の一環として「毒断」という様々な食品を摂ることを禁止する療法が習いとなっており、桐淵は重太郎に「刺身」を禁じた。しかし、重太郎は刺身を好むこと尋常ではなく、三度の食事に魚が出ない日はなかったほどであり、三両日はこの桐淵の言いつけを守ったものの、ついに我慢できなくなり、家人の止めるのも聞かず鰹の刺身を食べてしまった。たまたまこのとき、桐淵が重太郎のもとを訪れてこの事態に遭遇。桐淵は呆れて、
「先生剣を取って天下に敵なきを誇らるゝも、我と我口腹の慾に克つ事能はざるか」
と苦笑し、重太郎が刺身を食べるのを止めることもなかったという(『千葉の名灸』)。明治14(1881)年当時、桶町に程近い「北槙町」「中橋広小路」に「桐渕道斎」の名が見える。
重太郎は、右目を失ったとはいえ、その鋭気は一向に衰えず、ある日の夕暮れに若党の井上由太郎を供に命じて、日蔭町(新橋二丁目あたり)の「鍔善」という鍔の製作所へ行くことにしたとき、重太郎は一足先に堀端へ出て比丘尼橋(銀座一丁目)まできたとき、高歌放吟して闊歩してくる四人の武士に出会った。
重太郎は道を譲って通そうとしたが、右眼が不自由だったため、すれ違いざまにぶつかってしまった。これに何か事を起こしたくて仕方のなかった四人の武士は、「無礼者ッ」と言うより早く重太郎を取り囲んだ。重太郎は、「名もなき者を相手として由なき腕立するも本意なき業」と、右眼が不自由だったためにぶつかってしまった、とその粗忽を詫びたものの、彼らは許さず暴言を吐いた上に刀に掛けて面目を保たんと挑んできた。重太郎もここに及んでは止むなしと、
「斯くまで打ち詫ぶるも了管ならずとあらば、是非に及ばず。其許等の望みに任せて如何にも相手とならん、就ては先ず某より名乗り申さん」
と言ったとき、若党の井上由太郎が提灯を片手に喘ぎ喘ぎ走ってきた。重太郎は由太郎に、
「我、今此人々に勝負を迫られ好もしからぬ事にはあれど此場に於て各々の一命を申受くる覚悟なり。汝は居りて要なき者、早々鍔善方に到りて程なく我の来るべき由を通じ置け」
と告げた。
このとき、四人の武士は、由太郎の持っていた提灯に捺されていた「日月」の紋所を見るや、千葉道場の関わりに感づいて怖気づき始めた。
日月の紋は「千葉家の定紋」として世に知られ、これは守本尊「妙見」の故事に拠るものであることは、軽く武芸を習った者は「熟知」していたところで、四人の武士も若しやと思い、さらに大胆な重太郎の言葉を聞くに当たって戦慄が走っていた。重太郎は、そうしたことには気づかず、
「当時桶町に道場を開きて北辰一刀流の剣道を指南する千葉重太郎一胤と申す者なるが勝負に先立ちて各々方の名乗をも承知致すべし」
と聞くと、この四人の武士は最初の威勢も消え失せて、
「這は桶町の先生とも心得ず酔に乗じて慮外の振舞ひに及びたり。以後は必ず慎み申すべければ此場は此侭見逃し給へ」
と姓名も告げずに土下座して詫びたため、重太郎も、飲みもせぬ酒の所為にしている態度に心の中で嘲笑しつつも、
「酔興とあらば是非もなし、由なき事に可惜道草食いたり」
とその場を去ったが、この四人は土佐藩士だったことがのちにわかった。その名は伝わっていない(『千葉の名灸』)。
また、このころ、重太郎は伊予国松山藩に立ち寄ることがあった。当時の松山藩の士風は乱れ、剣客などは城下に泊まろうとすれば殺害されることが常という有様と伝わる。重太郎はこのような城下を訪れたが、当時町奉行を務めていた「篠田某」は重太郎の門人だった。重太郎が城下に入ると、篠田は城下は危険なので我が屋敷に泊まる様強く勧めた。しかし重太郎はこれを辞して、城下に宿を取った。
ところが夜半になり、宿の亭主が慌しく重太郎のもとに来て、「若旦那衆二、三十人当家へ押し寄せるとの注進あり、御油断召さるな」と告げてきた。この若旦那衆というのが風紀を乱す松山藩士の子弟の事であった。重太郎は、
「好し、某之れに応ずるの策なきにあらず。必ず当家に迷惑を懸くるがごとき事なければ安心せよ」
と答えたが、重太郎はこれは不貞の子弟らが風聞を流して、宿に泊まる客を脅すという策略と看破していた。やはりこの夜は変わったことなく夜が明けた。
その後は、日夜城下を見物して歩きまわり、ある月がきれいな夜、城外のある松の木の下に立ち、月の光を愛でながら唐詩を吟じていたとき、背後から人影が忍び寄ってきた。重太郎もこの気配に気づきつつも様子を探っていたが、それ以上近づいてくる様子はない。重太郎がもと来た道を引き返そうとすれば、背後の人もそのあとをついてくる気配。重太郎はここで背後の人影は刺客に相違無しと刀の鯉口を切り、突如振り返って疾風の如くその人影へ迫り、「汝ッ」と言いざま抜打ちに斬り付けんとすると、その人影は町奉行「篠田」であった。実は篠田は師の重太郎の身が心配で仕方なく、この夜も重太郎の後をついてきていたものだった。重太郎はその心遣いに感激し、翌日からは篠田の屋敷に移った(『千葉の名灸』)。
なお、松山藩の町奉行所は東西二箇所あるが、重太郎の父・定吉が鳥取藩に雇となった嘉永6(1853)年までの間には「篠田」という町奉行はいないため、この松山行きは嘉永6年以降と思われる。松山藩士には正徳3(1713)年召出の篠田兵八(上代門左衛門三男)を祖とする篠田家があり、天保年中に百三十石の留守居番頭・篠田左膳が家督だった。他にも篠田姓の藩士は見えるが、いずれも石高は少なく、町奉行は二百五十石高(百石台でも就任している例もある)であることから、篠田左膳の家がもっとも可能性が高いだろう。
●松山藩東町奉行職歴代(『松山町鑑』)
名前 | 石高 | 就任 | 辞任 | 前職 | 後職 |
交野喜八 | 二百石 | 弘化5(1848)年2月15日 | 嘉永2(1849)年5月 | 御勘定奉行 | 御奥頭取(江戸定府) |
丹波左伝次 | 二百五十石 | 嘉永2(1849)年2月13日 | 嘉永2(1849)年5月2日 | 和気温泉御代官 | 病死 |
本郷藤九郎 | 二百石 | 嘉永2(1849)年7月 | 嘉永4(1851)年10月23日 | 御目附 | 大小姓頭格 |
佐治源吾右衛門 | 百五十石 | 嘉永4(1851)年10月23日 | 嘉永6(1853)年2月15日 | 三津町奉行 | 大坂御留守居 |
鷹巣八十郎 | 二百石 | 嘉永6(1853)年2月15日 | 不明 | 大賄 | 不明 |
●松山藩西町奉行職歴代(『松山町鑑』)
名前 | 石高 | 就任 | 辞任 | 前職 | 後職 |
森佐源太 | 不明 | 弘化3(1846)年2月16日 | 嘉永3(1850)年5月 | 不明 | 隠居 |
桑原内記 | 不明 | 嘉永3(1850)年5月15日 | 嘉永7(1854)年閏7月 | 三津元締 | 隠居 |
二神伝蔵 | 不明 | 嘉永7(1854)年閏7月19日 | 安政3(1856)年 | 御目附 | 伊与郡御代官 |
公庄文右衛門 | 二百二十石 | 安政3(1856)年 | 安政7(1857)年2月1日 | 御雇上座 | 寄合大小姓頭格 |
富田庄三郎 | 十五石三人扶持 | 安政7(1857)年2月1日 | 不明 | 御勘定奉行 | 不明 |
重太郎は道場経営のかたわら、安政5(1858)年ごろには大千葉こと玄武館道場にも「道場持」の人物として顔を見せている(『玄武館出席大概』)。玄武館でも教授していたのか、自らの修行のためだったのかはわからない。
●鳥取藩周旋方に任じられる
万延元(1860)年12月29日、重太郎は江戸藩邸稽古場に「剣術取立」として出仕し、銀三枚宛となる。藩公・松平相模守慶徳(池田慶徳)は前水戸藩主・徳川斉昭の五男で、徳川慶喜の異母兄にあたる。水戸家の尊王の思想を受け継ぎ、また行動力あふれる藩主であった。この藩主のもと、重太郎は東奔西走することとなる。重太郎は諸国を往来して見聞きしたことを『極秘見録』と題した日記につけていたという(『千葉の名灸』)。
文久2(1862)年12月4日、慶徳は江戸を発して上洛の途に着いた。重太郎が江戸で「周旋方」として召し出されたのはこの前日の12月3日で、四人扶持、三十俵を加えられている。このとき、重太郎とともに「周旋方探索兼」に任じられた者は、伊吹市太郎、勝部静男、大西清太、足立八蔵の四人である(『安達清景日記』)。周旋方に任じられた直後、重太郎は「大坂表者兼而御警衛之御場所も有之」という理由で大坂へ上ることを申し出て許され、12月12日、京都へ出立した。大坂の天保山が鳥取藩の警衛区域だったことから、重太郎はここへ来る名目で上洛したと思われる。
しかし、12月29日の『海舟日記』に「千葉十太郎来る、同時、坂下龍馬子来る、京師の事を聞く」とあることから、重太郎は京都を経て大坂に留まらず、神戸の海軍操練所まで勝麟太郎を訪ねたことがわかる(『海舟日記』)。海舟と対面したとき、千葉門下の坂本龍馬と同道していることや、「龍馬も亦十太郎と共に上洛」したという記述(『千葉の名灸』)からも、坂本とは江戸出立時または道中で合流したのだろう。
重太郎と勝麟太郎の初対面時期についてはわからないが、坂本は「十太郎が紹介をもて…勝海舟翁の知遇を得、其門に寄食して航海学を学」んだとあり(『千葉の名灸』)、坂本は重太郎の紹介によって勝門下に入ったということになる。
重太郎は勝邸を訪問した翌日の文久3(1863)年元旦まで神戸におり、勝の指示を受け、「龍馬、昶次郎(近藤)」らとともに大坂に向ったのち、京都へ帰った(『海舟日記』)。
一方、正月4日、慶徳は「海防の事急なるにより大坂に至りて其守備を修め」るべく京都を出立し翌5日に大坂入りしており、同じ頃大坂にいたであろう重太郎から何らかの報告を受けた可能性はある。9日には「千葉重太郎儀、先頃依願当表へ罷り越居り申候処、後内御用出精相勤め」て褒美を受けており(『御道中日記』)、この時点ではすでに重太郎は大坂にいたことがわかる。
同日、海舟は慶徳の大坂屋敷を訪れ「海軍の事、并びに警衛の大体を論」じたが、このとき「御同人の臣数輩、我門に入ることを談ぜらる」とある。こののち、13日に大坂詰の加須屋右馬允、吉田直人が「同人へ入門致し修行」することが命じられ、2月18日、国元の近藤類蔵、日笠庄輔、建部一兵衛、伊藤重之進、山口謙之進、中井範五郎、能勢輔之進らが入門を命じられている(『御道中日記』)。
また、正月20日に重太郎が海舟を訪ねた際、「千葉生来り、偽浪の事を話す」と記載(『海舟日記』)していることから、重太郎も海舟の門人だったことが伺える。「偽浪」の意は記されていないが、当時江戸で募集されていた、将軍家茂上洛の護衛のための浪人のことと思われる。なお、海舟は正月16日に江戸に戻っていることから、重太郎は江戸の海舟邸を訪ねたことになり、この頃、重太郎は江戸へ戻っていることがわかる。
23日、江戸藩邸は重太郎に「御用向有之」につき京都へ向うよう命じ(『千葉一胤家譜』)、翌24日、勝部信蔵とともに江戸を出立した(『雄魂姓名録』)。勝部信蔵は、重太郎とともに周旋方に就任した勝部静男と同一人物か。なお、海援隊士が著したといわれる『雄魂姓名録』によれば、重太郎・勝部信蔵の評として「右之人々正義ヲ申時節たからもふもふ正義も地落ちると知べし」と、その考え方は散々に否定されている。重太郎は尊王思想の持ち主で過激な尊皇攘夷志士とも交流があったため、海援隊士の中には否定的な人物もいたのだろう。
その一か月後の2月25日、「千葉十太郎」は福井藩京都藩邸を訪れている。ここで藩重臣の「村田巳太郎(村田巳三郎氏寿)」が面会した。重太郎は、
「此節、坂本龍馬が深く国事を憂ひ尽力する所あるよしを容堂公聞及ばれ、対面あるべしとの事なりし故、土邸へ行きしに、当夜ハ容堂公深更に及びて帰館せられたれハとて御逢なく、其後、下人同様の待遇にて案外千万の事なりし由、畢竟坂本ハ武市半平太等とハ意見を異にする故、窃に妬情を懐き、武市等かしか計らひしものなるべきか。若、さる次第なれハ、此上とても如何なる事に運ぶべきや測りがたけれハ、事により御扶助を願ふ事もあるべけれハ、心得置給はりたし」
と、土佐脱藩の坂本龍馬の身の安全が図られるよう、福井藩に掛け合っている(『続再夢紀事』)。坂本は「十太郎の周旋に拠りて越の春嶽公等に知られたり」とあることから(『千葉の名灸』)、重太郎は福井藩老公・松平春嶽の知遇も得ていたと推測される。
翌26日、重太郎は再び福井藩邸の村田のもとを訪問し、
「昨日御内談に及びし次第ありけれど、同日夕方、土藩に於て龍馬の前罪を免されたれハ、御安心あるべし」
と報告した。こうして龍馬は脱藩の大罪を許された。この龍馬の赦免は、正月15日に海舟が山内容堂と面会して、龍馬らの赦免を依頼していたことも大きな力になっていたのだろう。重太郎はその後、江戸へ戻った。
●重太郎の尊王活動
文久3(1863)年8月18日、朝廷の三條実美らと結びついて天皇を政治利用し、幕府を揺さぶっていた長州藩が、会津藩と薩摩藩の共謀によって京都から追放された。いわゆる「八月十八日の政変」である。これにより、三条実美、四条隆謌、澤宣嘉、東久世通禧、三条西季知、壬生基修、錦小路頼徳の尊皇攘夷強硬派の中心公卿七人も京都を追放され、長州へと落ちていった(七卿落ち)。さらに萩藩主・毛利大膳大夫慶親と世子・毛利長門守定広も謹慎を命じられた。
その後、10月に但馬国生野において、澤宣嘉を主将とする尊皇攘夷の志士と農民による反乱(幾野の変)が起こった。この乱はたちまち鎮圧されるが、乱の首謀者の進藤俊三郎(のち原六郎)は翌文久4(1864)年正月、北垣晋太郎・西村哲次郎とともに密かに江戸に入り、「因州藩士にて京橋桶町に道場を有する剣客千葉重太郎」のもとに四、五か月潜伏したのち、赤坂檜町の長州藩邸に移った(『原六郎翁伝』)。
進藤俊三郎こと原六郎は坂本龍馬とも交流を持つが、彼は後年、
「その時分、私は千葉といふ撃剣家の家に潜伏したり、長州屋敷に居りました。…坂本には江戸で会った。あれは勝安房の門人見たやうなものだつた。…夫れから何故坂本と懇意になつたかと云ふと、千葉と云ふ撃剣の先生がをる。因州藩のものでそこに潜伏して居つた、坂本はそこに出入してゐた、それが懇意になつたもとです。」
と答えている(『原六郎翁伝』)。
そのころ重太郎の道場には、原六郎のような尊王志士たちが集まっており、「桶町の道場は所謂志士の巣窟となり大言壮語四隣を驚かせ」たことから、幕府の知るところとなり、鳥取藩邸に「注意の簡」が届けられた。鳥取藩邸も重太郎に対し「黄紙の御用書」を以って不逞の徒を養うべからずと通達した(『千葉の名灸』)。その内容は、「御自分塾中へ諸藩之脱走或ハ浪士潜伏之者等差置候儀、不相成候、仮令藩中タリトモ拠所無之者ニ一泊モ相断リ可申、此旨急度可有御心得候」(『千葉一胤略歴』)というものである。
しかし、重太郎はこの御用書は、幕府からの通達に対する表面上の手続きに過ぎないことを知っており、深く意に介していなかったが、この不逞浪士の問題は老中会議の議題となっていた。しかし、重太郎は日ごろから老中・板倉伊賀守勝静(備中松山藩主)と知己であった上に、板倉の右筆・中村某とはことに昵懇であったため、老中会議の内容は逐一「内通」によって事前に知ることができた。それによれば、「北垣等の探索漸く厳重」であるといい、さらに中村某よりの密書で、「明日町奉行の手配に依り百人の同勢を以て其許の道場を囲まんとする容子なれば予め用心ありて然るべし」と知らされたため、重太郎は「今は早や是まで」と、北垣晋太郎・原六郎の両名は京都の鳥取藩留守居「洞某(洞龍之介だろう)」のもとへ逃れさせるため、深更に江戸を出立させた。ただ、須山萬は皮膚病が悪化していたため彼らに同行できず、重太郎は「杉の森の道場」に移し、しばらく外出を禁じた。桶町道場のほかに、古くからの杉森道場もまだ健在だったことがわかる(『千葉の名灸』)。
翌日、密書によれば捕物の当日であるが、重太郎は桶町道場への門弟等の出入りを禁じると、ふすまや障子を取り払い、重太郎一人で留守居することとした。事と次第によっては、多勢を相手に剣を交えることになる可能性もあり、最後の用意に及んでいた。しかし、結局この日は何も起こらず、夕方になってみすぼらしい形の男が道場を訪れたが、備中松山藩右筆の中村某だった。彼は内通の齟齬について、
「昨日一旦は手筈定まりしも伊賀守殿克く御辺の率直を知り給ひて『千葉は勤皇の志厚しと雖も必ずしも幕府に向ひて弓を引かんと欲する者にあらず。故に若し攘夷を唱へ討幕を道ふの徒其門下に在りとせば、須らく旨を伝へて公辺に致さしむべし渠が如き剣客を相手として由なき殺傷を惹起すが如きは本意にあらず』と申されたれば、終に其手筈も沙汰止みとはなりぬ。左れども尚ほ十分今後を戒められよ」
と告げた(『千葉の名灸』)。板倉勝静は会議の中で、
「千葉重太郎は不良の徒に非ざるなり、もし浪士を隠匿するあらば、我親しく招致して諭さんとす、今公武の間疎隔を来さんとす、万一追捕の挙に出ては、彼れ固より剣客塾中の徒と、腕の続かん限り相闘はば、当に大事に至るべし」
と重太郎を擁護したともある(『藩士列伝』)。時期としては元治元(1864)年5月ごろのことだろう。
重太郎は、自分を擁護してくれた板倉勝静を徳とし、「異日必ず其恩に報いん」と密かに誓った。後の事となるが、慶応4(1868)年正月、官軍によって勝静の備中松山藩が接収されて板倉家断絶の危機に及び、重太郎は勝静の「末男に当たる渋川要之助、即ち今の正四位子爵板倉勝達氏」を新政府参謀・大村益次郎に附属させて、越後口の奥羽征討軍に参加させて板倉家再興を助けたという(『藩士列伝』)。ただ、板倉勝達は勝静の子ではなく、奥羽越列藩同盟に属する福島藩板倉家の分家・板倉勝定の子とされるが、勝静の「落胤」ともされている(『千葉一胤履歴』)。
なお、杉森道場へ移された須山萬は、しばらくは定吉・重太郎の言いつけを守って外出を控えていたが、つい皮膚病のかゆみに耐えかねて、ある日の夕方に銭湯へ出かけてしまった。これを町奉行所の探索方に発見され、銭湯の帰途に逮捕され、伝馬町の牢屋敷に押し込まれ、元治元(1864)年11月8日、処刑された。
話は戻って元治元(1864)年4月23日、重太郎は新たに御用を与えられ、江戸から鳥取へ派遣された。どのような用事で鳥取行きを命じられたかは定かではないが、「御内御用」とあるため、内密の用事だったのかもしれない。重太郎はこのとき、3月27日に筑波山で挙兵した水戸藩尊皇攘夷激派「天狗党」の首謀者・田丸稲之右衛門、藤田小四郎らの「歎願書」も持参しており、重太郎は鳥取に着くと、これを藩公・慶徳へ提出した。一方、備前岡山藩主・松平備前守茂政(徳川斉昭九男・池田茂政。慶徳の弟)にも八木龍蔵(北垣国道)が派遣されている(『藩士列伝 安達清一郎』)。
なお、八木龍蔵(八木良蔵)こと北垣国道(北垣晋太郎)の記憶に拠れば、天狗党の乱の暴挙を憂いた宍戸藩主・松平大炊頭頼徳が「国道及ヒ小畑友七郎宍戸侯ノ家老、千葉重太郎三名ニ内示」して、「恭順以テ 天朝、幕府ニ懇願スヘキ旨」を田丸、藤田に諭させるため、国道、重太郎らを天狗党の籠もる大平山に遣わした。そこで国道、小畑、重太郎らは田丸、藤田らと「百方談論、遂ニ一橋、因州、備前三公ニ依頼シテ 天朝、幕府ニ議ヲ献ス」ることとし、「建議書」を作成。「国道及ヒ千葉ニ嘱シテ其建議書ヲ齎ラシ、京都、因州、備前ニ派」した。国道は「備前ニ使シ東ニ帰リ、宍戸侯ニ復命」した(『塵海』)。
慶徳はこれを受けて、弟の松平茂政と相談の上、水戸藩のために周旋することとした。しかし、幕府はこれを拒否して天狗党の武力鎮圧の方針を固め、結局天狗党は、元治元(1864)年12月17日、越前国敦賀まで進軍したところで加賀藩に降伏。武田耕雲斎、田丸、藤田らはのちに斬首される。
5月14日、老中・阿部伊勢守正弘から指示された大坂表での御用を済ませて後、江戸へ帰国するよう命が発せられ、5月28日、重太郎は江戸藩邸に帰着している。
●長州征討
中立売御門 |
そのような中で、萩藩の復権派が天皇に毛利父子の冤罪を訴える名目で軍事行動を起こし、7月19日、京都へ進軍して、皇居を守る会津藩や薩摩藩などと対峙。禁裏御守衛総督の一橋徳川慶喜の撤兵命令も無視して中立売御門ほかで合戦に及んだ。結果として戦いは萩藩勢の大敗北に終り、撤退した。幕府は皇居へ向けて砲弾を放ったことは朝廷への敵対行為であるとして、萩藩追討軍を起こし、各藩へ出兵を命じた(第一次長州征討)。
重太郎は7月下旬、京都に赴任した安達清一郎へ手紙を認め送っている。内容は不明だが、長州征討に関する事柄か。7月29日、手紙は安達清一郎に届き、清一郎は同日中に御側役へ「近日之情申遣」わしている(『安達清風日記』)。
8月13日、幕府は長州藩追討令を諸藩に発し、鳥取藩も出兵の命が下った。夜、老中・牧野備前守より藩邸の御留守居呼び出しがかかったため、加納源左衛門が登城。白木箱に入った奉書を受けた。これが「松平大膳大夫返討被仰付候」という、長州藩追討令の奉書であった。
江戸藩邸ではこの追討令について協議し、「周旋方千葉重太郎」(『贈従一位池田慶徳公御伝記』)が特に使者に選ばれ、和田平太夫を通じて奉書が託された。これを受けた重太郎は8月14日「夜子ノ刻」に江戸を出立し鳥取へ向かった(『贈従一位池田慶徳公御伝記』)。
重太郎は25日「四時」に鳥取に到着、そのまま鳥取城に登城し「十三日の長州征討部署、及び奉書」を「御城御用人」へ提出した(『贈従一位池田慶徳公御伝記』『千葉一胤家譜』)。翌26日、安達清一郎は「御飛脚認メ 御側役へ文通相認メ廻」しており、重太郎の齎した奉書について、御側役へ通じたものか(『安達清風日記』)。ただ、重太郎は9月1日、鳥取を発って江戸へ向ったとあるが(『千葉一胤家譜』)、安達清一郎はその9月1日に「朝江戸御飛脚到来、千葉十太郎より書状到来、御国へ左之通文通、御側役へ時情申遣ハス」とあり(『安達清風日記』)、清一郎がこの書状の事を知ったのは9月1日ということとなる。
9月15日、「江戸より之御飛脚通行千葉十太郎書来」とあり、日数からして重太郎が江戸へ戻ってすぐに認めた手紙と思われる(『安達清風日記』)。京都や江戸の世情の報告がなされたのかもしれない。
幕府征長軍は強大な兵力を以って長州に迫り、藩内で実権を握った恭順論が征長総督・徳川慶勝の参謀として従軍していた西郷吉之助隆永(西郷隆盛)の説得を受け、上洛軍を率いた福原越後元僴、国司信濃親相、益田右衛門介親施の三家老を切腹させた。こうして、幕府はいったん解兵の命を下す。しかし、その後、ふたたび征長軍を起こすことになる。
●第二次長州征討
このころの重太郎の逸話として伝わっているのは、加藤虎之介への傷害事件であるが、慶応元(1865)年ごろのこと、「幕府の大目付に加藤虎之介」という人物がおり、彼は日ごろから西洋かぶれで、ある日、羅紗の洋服を着用して登城しようとしていた。過激な攘夷論者であった重太郎はこれを聞いて、
「国賊加藤を撃懲せ」
と、居合わせた血気盛んな門弟に指図し、門弟等は江戸城大手門を目指して馳せ向った。そして大手門近くで派手な羅紗を着ていた加藤を発見するや、加藤を馬から引きずり落とすと、理不尽にも無数の鉄拳を加藤に浴びせ、勝鬨をあげて引き上げていった。重太郎は道場にあらかじめ塩を用意させ、加藤の羅紗の服に触れた門弟の穢を清めた後に道場へ招き入れ、その始末を聞いて大いに喜んだという。
その一方、加藤虎之介は暴行を受けながらも、これを公にするとかえって職掌を汚すことになると、口をつぐんで耐えたという(『千葉の名灸』)。この逸話に出てくる「加藤虎之介」とは、慶応元(1865)年閏5月15日に目付となり、翌慶応2(1866)年2月24日に辞した本所緑町四丁目(墨田区緑三丁目8)に住む千五百石の旗本「加藤寅之助」と同一人物だろう。なお、彼は「大目付」ではなく「目付」である。この事件で重太郎が罰せられたという伝はないので、やはり公の事件にはならなかったのだろう。
慶応2(1866)年正月10日、「江戸ヘノ郷信到来、洞龍千重中八江文中八江戸美ノヤ払ヒ残金相廻ス」とあり(『安達清風日記』)、意味は不分明ながら、安達清一郎から江戸留守居の洞龍(洞龍之助)、千重(千葉重太郎)、中八(中村八郎?)へ文を送ったと思われる。江戸の美濃屋へ支払う代金の残金を送ったという内容か。
3月1日夜、「東信」が京都藩邸に到着。安達清一郎のもとに「千葉書」が届けられた。3月16日にも江戸からの飛脚に託された「千葉十太郎」の手紙が届いている。その後も、4月2日、5月6日、5月21日に清一郎は重太郎の手紙を受けている(『安達清風日記』)。とくに5月6日の「千十」からの手紙では、「水戸混雑村民数千人嘯集ノ由」が伝えられている。これは、水戸藩内の門閥派と改革派の藩士との間で起こった抗争を報じたものと思われる。
6月3日、重太郎は京都での御用のため、用意ができ次第、すぐに出立するように指示を受け、京都へ出発した( 『千葉一胤家譜』)。重太郎が命を受ける前日の6月2日、重太郎の同役の周旋方・門脇少造が広島から鳥取へ帰着して「幕府萩藩の断絶を達」(『慶徳公記』)したのち、7日に京都藩邸の安達清一郎に「広島之次第御国紛紜之事等委細」を伝えている。すでに5月26日夜に出兵の一報は京都藩邸に伝わっており、重太郎の上洛命令は長州征討に関する諜報作業のためと思われる。
鳥取藩も長州征討軍に参加するよう幕命が下っており、6月12日、一の先総督・天野伊豆が出陣し、15日には一番手旗頭・津田雄次郎、22日には二番手旗頭・乾小四郎が派遣された。そして、26日「晩、千葉十太郎上京、関左ノ始末ヲ承」っているが(『安達清風日記』)、江戸から京都までは通常半月程度であることや、急ぎの御用である点から、重太郎の江戸出立が遅れたか、道中での情報収集を行いながらの上京だったと思われる。文中の「関左ノ始末」については不明。
幕府と長州藩の戦い(第二次長州戦争)は、薩摩藩、佐賀藩、広島藩など外様大藩の出兵拒否や、井伊家、榊原家といった徳川家譜代大藩の敗北、浜田城の陥落など、結果として幕府軍の敗北に終り、幕府の威信は失墜することになる。
第二次長州征討が終った直後の8月25日、京都で活動していた重太郎は江戸に出立が命じられ、急行して9月1日、江戸藩邸に到着した。幕府の長州征討失敗を受けた何らかの使命だったのだろう。
慶応3(1867)年8月14日、徳川慶喜の腹心で幕府の大監察・原市之進忠成が京都の旅宿(表御門通角、御池通町奉行組同心組屋敷内)で暗殺されたが、下手人の依田雄太郎直尋、鈴木常太郎、鈴木豊次郎は重太郎の門人だった。事件の直前、依田雄太郎らが江戸から姿を消したことを知った重太郎は、彼らの気質を察し、門人の浦山長左衛門(姫路藩士)を派遣して連れ戻すよう指示した。浦山長左衛門は京都へ向う途中で依田や鈴木豊次郎らに追いついたものの説得に失敗し、原市之進暗殺事件が起こってしまった。浦山長左衛門は嫌疑を受けたものの無実が認められたが、師・重太郎の寄託に応えられなかった事を悔い、自害して果ててしまった。重太郎もこの事件に連座して「百日之謹慎」を命じられたが(『千葉一胤履歴』)、その一方で、浦山長左衛門の主君・姫路藩主の酒井雅楽頭忠積に説いて長左衛門の子・浦山金太郎をして浦山家の再興を果たしたという。
●大政奉還と慶喜追討令
慶応3(1867)年10月13日、将軍・徳川慶喜は京都二条城に在京諸藩の重臣を登城させ、統治権を天皇に返上する「大政奉還」を発表し、14日に奏上、15日に勅許が下りた。264年にわたる「幕府」による諸藩統治はここに終結する。
実は岩倉具視らが画策して作成された偽勅「討幕の密勅」が13日、14日に相次いで薩摩藩や長州藩に下されており、慶喜の大政奉還により密勅の趣旨が消えてしまう。徳川家の軍事力や領地を削ぐための「辞官納地」も徳川家の権威を失わせる効果はほとんどなく、薩摩藩の西郷吉之助は危惧して、江戸で浪士に乱暴狼藉をはたらかせる徴発行為を行い、慶応4(1868)年正月3日、京都討幕派の殲滅を図るべく、慶喜上洛の先陣と称して大坂から上洛してきた大目付・滝川播磨守具挙を、京都南郊の鳥羽街道において砲撃。「鳥羽伏見の戦い」を引き起こした。
しかし、この戦いで幕府軍は敗北。大坂城にいた徳川慶喜は多くの幕臣を城に残したまま、大坂から江戸へ船で引き上げてしまう。正月7日、朝廷は慶喜を朝敵とみなし、追討令を発令。新政府軍は各街道を攻め下って江戸に迫った。2月12日には、慶喜は江戸城から上野の東叡山寛永寺に移って謹慎し、恭順の意を示した。
ちょうどその混乱した時期、重太郎は京都で動いており、2月16日、重太郎は早々に江戸へ戻るよう指示を受けた。その御用はおそらく江戸藩邸引き払いにともなう、池田家の菩提寺・弘福寺の守衛のことと思われる。翌17日、重太郎は京都を出立して江戸へ向った(『千葉一胤家譜』)。
このころのことか、重太郎は桶町に程近い中橋大鋸町(中央区京橋一丁目)で、武士二名に悪戯している。この当時の侍の士風は派手なビロウドなどを着て髪も総髪にすることが流行り、市中を闊歩する者が多くいた。重太郎は加藤寅之助の例にも見られるように、徹底した保守的な考えの持ち主であるため、こうした流行を「亡国の兆し」として苦々しく思っていたところ、中橋大鋸町で銀拵えの両刀を閂差にして大手を振って歩いてくる服装華美で総髪の武士二名と出会った。重太郎は彼らを見るなり「ムカゝゝ」として、一瞬にして彼らの間に入り込むと、両名の首を押さえ、力を込めて頭と頭をゴンと鉢合わせにぶつけさせると、そのまま駆け去った。二人の侍は、このあまりにも意表を突かれた事態に「無礼者ッ」と叫ぶもなす術もなかった。
重太郎はこの後、八丁堀の門弟・柏尾馬之助の道場へ立ち寄った。馬之助は重太郎を部屋に通し、最近の無沙汰を詫びつつ、新参の門人を紹介していった。重太郎はこの門人達に対面していったが、最後にどこからか帰ってきた二人の門人が重太郎の面前に跪き、馬之助より「酒井家の家臣にして片山鉄之丞、太田小平」と紹介された。その挨拶が終り、両名が顔をあげると、先ほど重太郎が大鋸町で悪戯をした二人の武士だった。重太郎も彼らが馬之助の門人とは知らず、両名も先ほどの無礼漢がまさか重太郎とは思わず、互いに驚くと同時に重太郎は気の毒さ、二人は面目なさにしばらくお互いに言葉が出なかった。この状況を傍らの馬之助も不思議に思っただろう。しかし、そのままでもいられないので、重太郎は流れる汗をぬぐいつつ、馬之助にさきほどの顛末を述べて「由なき事をしてけり」と両名への執成しを頼んだ。馬之助は重太郎の大人しからぬ振舞いに呆れながらも、両名を慰めることで、事件は一笑に附して事なきを得たという(『千葉の名灸』)。
また、同じくこのころ、重太郎は原六郎に玄武館の門人である幕臣・山岡鉄太郎を紹介している。山岡鉄太郎(幕臣)と河田左久馬(鳥取藩:官軍)の両名が交々重太郎のもとを訪れては「事破れ不幸敵とするも伐殺す事は国家のため、惜しき人なり」と、まるで打ち合わせたかのように互いの事を惜しい人だと言っていた事を原六郎に語っている。
山岡と重太郎の関わりが他の書にも見える。いつのころかは不明だが、「八木良蔵(北垣晋太郎国道)、千葉重太郎の両人」が夜半十二時を過ぎたころ、旧知の山岡鉄太郎の留守宅を訪ね、「喉が渇ひてたまらぬから、水を出せ」と叫んだという。おそらくしたたかに酔っ払っていたのだろう。鉄太郎の妻・英子(高橋泥舟妹)は女傑で知られていたが、彼女は、
「之れは自分が婦人だから馬鹿にして言ふたのです」
と開き直り、
「平気で大きな手桶に一杯水を汲んで、そんなに喉がお渇きなら、沢山召しあがれ、さぞおくたびれでしやう」
と、挨拶して、持ち合わせの羊羹を出すと、両人は、
「羊羹を刀の先に突き刺して、私にそら食へなそとて変な事をいたしますから、私は平気で口を差し出し、受けて食べました。其他種々の乱暴を働かんと致しましたが、総て私が相手の意表にでるものですから、二人も詮方竭き、唯々として立ち去りました」(『女子道 英子女史経歴談一班』)
という。
●山国隊と上野戦争
閏4月頃から、重太郎は丹波国山国郷の農兵組織・山国隊との交流が見られるようになる。山国隊は鳥取藩士・河田左久馬が隊長を勤め、司令士の原六郎と重太郎が交流を持っていたことなどが知られ、鳥取藩お抱えの一部隊として活躍した。重太郎と山国隊との関係は「河田氏出張中代表ノ貴家」と称されることからも、隊長・河田左久馬が軍旅に出ている際の隊長代理であり、隊士役の任命権も有していた。これは、6月に「龍之口歩兵」に任命されて以降のことと思われる。
宮川禎一氏が著作『山国隊と千葉重太郎』で詳しく解説されているが、山国隊は各地を転戦する中で資金繰りも悪化しており、重太郎や鳥取藩から金子を借りることも度々であった。重太郎もできる限りこれに応え、藩庁との折衝に当たっている。
はじめて山国隊と重太郎の接触が見られるのは、閏4月5日のことで、山国隊総代・藤野近江守清穆は京都への進軍旅費のため、「金策等」を依頼したことが記されている(『征東日誌』)。翌6日には、隊士「草栄(草木栄治郎)」が重太郎に依頼した刀が届き、重太郎が代金を請求。やむなく隊費より「六両弐歩」を割いて支払っている(『征東日誌』)。
慶応4(1868)年5月15日、上野寛永寺に立てこもった旧幕臣を中心とした彰義隊らと、官軍との間で激戦が行なわれた。「上野戦争」である。
鳥取藩は河田左久馬を隊長とした山国隊を主力として出兵。東叡山の入口、黒門へ押し寄せた。しかし、この力寄せで田中伍右衛門が前額を打ち抜かれて即死してしまう。山国隊はそれでもなおも黒門を引き倒そうとするも門は動かず、寄せ手の諸藩から放たれた砲弾が黒門を目掛けて飛来したため、その被弾を避けるため黒門からの進入をあきらめ、北の馬場方面へと迂回した。
一方、鳥取藩兵は重太郎の姻戚に当たる石川豊太郎や筑波小次郎が率いる銃隊も黒門口へ押し寄せており、一進一退の攻防が繰り広げられていた。その中で、筑波小次郎隊は敵に斬りたてられ、ついに退却を余儀なくされた。これに対し、自軍からも「武士の本分一藩の面目二ツながら之を穢したるものなれば、迫りて渠に詰腹切らせて後日の手本と為すべし」とまで責められたため、河田左久馬が小次郎を引き取った。しかし、筑波小次郎はもはや一死あるのみと思い詰めており、刀を抜いて割腹せんとしたとき、たまたま河田陣にいた重太郎がこの姿を目撃し、とっさに小次郎の右手を押さえた。
重太郎は上野戦争の開始を聞き、門弟六、七人を伴って不忍池まで来て、戦況を観察していたが、そのとき彰義隊の一手が重太郎の一行を発見し、射撃を加えてきた。これにより、門弟の杉山愛之助が銃弾を受けて戦死したため、重太郎は危険と察して引き上げ、親友の河田左久馬の陣を訪れていた。
筑波の切腹を押し止めた重太郎はその訳を聞くと、
「這は心得ぬ覚悟に候はずや。若し我非を悟られなば、後日前科を償ふに足るの功を樹つるこそ報告尽忠の士なれ。今此場に於て割腹したればとて争で汚名を雪ぐに足るべき。真に恥を雪ぎ忠を尽さんとならば、返す返すも犬死を思止り候へ」
と説得し、さらに河田左久馬へは、諸士に対する言い訳として、
「渠が髻を切落し、之を十太郎が預る事」
として、ひとまず諸士の反発は収まった。この重太郎の恩情に感じた筑波小次郎は、奥羽の戦いで必ず立派に戦死を遂げて報いんと心に期し、のち磐城平城の戦いでは弾丸降り注ぐ中を突撃し、敵陣を乗っ取ることに成功。銃弾九発を身体に受けながらも生き残った。このとき小次郎は河田に、
「我先に千葉氏より預かりたる一命、此戦ひに於て必ず返却すべしと思ひ候ひしが、不幸にして未だ債を果たすに及ばず。何の残念か之れに加へ申すべき」
と語ったところ、河田は、
「今は十分昔日の過ちを償ふて余りあれば、心静かに手創を養はれよ」
と様々に小次郎を慰めた。そして、血痕の染み付いた彼の軍服と弾丸を浴びてぼろぼろになった刀の鞘を重太郎のもとに送り、小次郎の戦功を報告した。重太郎はこれを見て大いに喜び、答礼として、預かっていた小次郎の髻を返却し、筑波家では永く記念品として大切にされた(『千葉の名灸』)。
さて、上野戦争では、河田左久馬率いる山国隊の活躍が目覚しく、山内に侵入した諸藩兵とともに彰義隊士を追い詰め、官軍はついに上野全山を占拠した。山国隊の戦果は大砲五門のほか多くの分捕品などで、戦いは火力で勝る官軍が勝利し、官軍は寛永寺境内を占領した。
翌16日、上野警備に当たっていた「某藩士等」の略奪行為により、大総督府は上野警備を総督府参謀となっていた河田左久馬に変更する。17日、河田は山国隊を上野警衛として派遣、22日まで上野警衛に当たることとなり、専ら敵味方の戦死者の埋葬に奔走した(『丹波山国隊史』)。戦死者を埋葬した場所に墓碑が建てられ、現在の西郷隆盛像裏手に遺されている。
19日、重太郎は大総督府を訪れ、上野山中の「土塀下ノ土中ヨリ金一千五百両ヲ掘出シ」、これを総督府へ献じた(『征東日誌』『丹波山国隊史』)。しかし、この功績にもかかわらず「何タル御加恩ナシ」だったという。山国隊は22日まで上野山内の警衛に当たっており、重太郎も河田左久馬のもと、山国隊とともに山内警衛の任に就いていた様子がうかがえる。
●戊辰戦争時の千葉重太郎 ~江戸での山国隊との関わり~
6月19日に、江戸家老・和田壱岐より重太郎に「龍之口歩兵其方江被成御預候」という書状が届け圧れている。この「龍之口」とは、おそらく鳥取藩上屋敷の所在地の一般呼称であり、上屋敷に駐屯の歩兵を束ねるよう命じられたのだろう。同日、「山国隊司令士」の「原六郎、細木元太郎」も「龍之口歩兵世話役」を命じられている。
7月11日、重太郎は藤野近江守、原六郎、柴捨蔵(北垣国道)、細木元太郎、那波九郎左衛門を屋敷に招いた。この酒宴は「令妹」が饗応して大いに盛り上がった。この「令妹」は梅尾、さな、りき、きく、はまの姉妹のいずれかとなる。
7月16日、旧備中松山藩士で捕縛されていた五十人のうち、鳥取藩に二十三人預けられることとなったが、その長である「谷宗左衛門」が恭順の意向を示したため、松山への帰国を許されることとなり、千葉重太郎が山国隊に「品川乗船場迄護送ヲ被仰付」た。これは重太郎が河田留守の間の「代表」として山国隊に命じたものだろう。山国隊はこの命に従い、岩倉具視京都凱旋の乗船の船長・鯉渕四郎へ二十三名を引き渡した。
7月21日夜、重太郎は藩邸北隣の「御添屋敷」(千代田区丸の内二丁目)にあった山国隊局所に藤野近江守を訪れ、「山々談話ニ際し示後将来企図セらるる処、如何等」の話で数刻すごした後、藤野より「例ノ金索件ヲ依頼」される。このところ、山国隊の「軍資殆渇尽ニ及」んでおり、軍資金の借財を重太郎に依頼したものと思われる。
このころ、桶町の千葉道場は重太郎の養子の千葉東一郎が守っており、7月25日、「桶町千葉道場ヘ撃剣指南入門ヲ乞」い、山国隊の水口康太郎、辻繁治郎、北小路左藤次、橋爪治兵衛、藤野宇之佐、森脇市郎、久保為治郎、渋谷利三郎、田中久米治、樋爪弥五郎、草木栄治郎の十二名が東一郎に入門希望している(『丹波山國隊史』『征東日誌』)。重太郎が留守にしている間の道場は東一郎が管理していたのだろう。千葉東一郎は重太郎の養子(あさくらゆう『足立史談』)で、明治7(1874)年当時二十三歳であったので、嘉永5(1851)年生まれとなる。諱は明治期の文書印により「清光」であったと推測される(『千葉東一郎身上書』)。また、剣術家としては慶応4(1868)年、十七歳の若さで剣道師範を務めるほどの腕前だったことがわかる。
翌26日、藤野近江は入門の人々を引率して桶町の道場を訪れ、入門の例として「束修金子并二重操台三本入扇」を進呈した。また、「看病人勘四郎」なる人物を重太郎の斡旋で山国隊に雇い入れている。高室重蔵が十日ほど「痢疾病」に苦しんでおり、その看病のための雇用だろう。
7月27日、藤野近江守は毎朝千葉道場へ行く人数を折半することとした。道場へ入門しているのは十二人なので、六名ずつということになる。
8月4日、重太郎は奥州戦線へ出兵する山国隊士の服を委託された。翌5日の夜、重太郎は藤野近江守とともに軍事局へ出向き、病気の者は帰京を申し付けることを原六郎に推問したところ、六郎は帰京をしたい者は願い出るべきだとした。
8月7日午後八ツ刻、7月中旬から病に臥せっていた隊士・高室重蔵が亡くなった。重太郎と原六郎が隊を訪れて弔いを表し、夜の山国隊による祭祀にも重太郎は列席した。翌8日早朝、光岳寺(現在の光岳院)に葬られ、悟明院真月不退居士と諡された。翌9日、山国隊士は千葉道場へ出勤前に高室の墓前を訪れている。
8月11日、道場へ藤野近江守が訪れ、山国隊の軍資金として、一人別月割金四両を拝借したい依頼をしている。これらの金子は重太郎を通じて鳥取藩より支給されていたと推測される。
8月17日、原六郎の奥州出陣の前祝として重太郎が招かれ、山国隊、帰正隊の面々が顔を揃えて酒宴が行われた。原は「威風凛々」を歌い、一同が合わせてまた歌い、拍手、剣舞などで大いに盛り上がった。
8月21日、「東京府御開市中御取締御改正」につき、「藩々より壱人宛人撰を以」て、翌22日に東京府まで差し出すよう十二の大藩に対して命が下った。重太郎は鳥取藩の代表として、肥前藩・松尾辰五郎、紀伊藩・小田民次郎、徳島藩・岩田文蔵らとともにこれを受けている。
8月22日、原六郎に率いられた帰正隊八十八名が出陣予定だったものの、豪雨のため翌23日に延期とされ、23日、重太郎の家に原六郎、藤野近江守、北小路源三郎、橋爪直三が訪れて、出陣の門出を祝った。
8月24日、雨の中、重太郎は藤野近江守へ「即刻入来」の使者を遣わした。これを受けて、藤野近江守はすぐさま重太郎のもとを訪れた。このとき重太郎は道場にいたのか、藩邸にいたのかは不明。ただし、このとき重太郎は大総督府参謀から鳥取藩に伝えられた命を伝える公式の立場として藤野に接しており、藩邸に詰めていたのかもしれない。重太郎は、
「今夜賊徒襲撃すと斥候より通せり。依之、御添屋敷邸中は貴隊へ任す、御門出入者勿論邸内不絶巡邏等有之不寝ノ警戒方貴君に委託可致条、参謀局より御委言に拠り御通達す」
と、厳重な取締りを藤野へ伝えている。
藤野は隊に戻ると、すぐさま大総督の命の通り手配りを断行するが、その日の未明七ツ刻、上野方面で火の手が上がった。御添屋敷周辺はこれを聞きつけると、騒然とした。近江はこの動揺をどうしたらよいのか、重太郎のもとを訪れて相談するが、「何れ茂未定」との結論に達し、帰営した。その後、早朝になって重太郎は藤野を訪れ、
「賊焔既に鎮静に帰せりと、隊中従是一睡あれ」
と、事件が鎮静したことを伝えている。
8月26日、重太郎は奥州相馬で戦っている河田左久馬勢に送るための弾薬を、藤野に「千住駅迄警衛護送」するよう命じている。これを受け、藤野は27日午後に弾薬を発送。道中は土佐藩や萩藩の輸送車両も多く混雑しており、七ツ刻にようやく千住に到着している。
9月5日、重太郎は藤野を訪ね、「因藩本支邸共不日引渡可被申条達し有之」ということを話している。
9月8日、山国隊は総督府の門を一刻宛五人を以って守ることとした。これにつき、夜に入って重太郎が局を訪れ、「御門一手預リ切ノ労ヲ謝」して、伝えられてくる奥州での戦況について語り合っている。
9月9日、山国隊より「剣道師範千葉東一郎」へ謝礼として「一千疋」贈呈された(『丹波山國隊史』)。
9月10日、藤野ら山国隊の故郷・山国郷において山国祭が執り行われ、ここ江戸においても酒宴が催された。このとき振舞われた料理が「千葉及河田局及桶了(町?)其他所々知因ノ出入方等」へ配られている。重太郎はこの酒宴に招かれ、「大ニ快楽ヲ極メ」た。
9月12日、山国隊を頼って訪れた小諸藩士・高野繁理(河田左久馬に随って奥州を転戦したが、小諸藩からの帰国の命が届いたため江戸に戻ってきたが、同僚の大原秋次なる小諸藩士の行方がわからず、その間山国隊で預かる事となったが、金二両を貸し付けた)が、重太郎に、「前願ノ金索ヲ請求セシ処、断乎謝絶サレ進退爰ニ極マレリト歎慨」している。重太郎は9月5日、高野の山国隊中宿営を条件付で許可していたが、高野の態度に若干不審な点があり、「袖印ヲ河田ヨリ授付セサルヲ以テ視ル時ハ不信置能ワス」と見ていた。
5月17日、病のために会津白川口総督の任を解かれた鷲尾侍従が京都へ戻るに際し、高野も同道を希望していたが、「路費金稍調達セルモ、時借返スル不能」であることや重太郎の態度から、これ以上鳥取藩邸に宿営する事も難しい上は、どうすることもできないと涙を流して悲嘆に暮れた。これを聞いていた藤野は、
「正カ反カ河田氏ノ東帰ヲ待テ判明セン、不若明暁ヨリ爰ヲ辞シ去テ上京し、秋次氏ニ出会事実語リ、帰順ヲ謀リ而シテ后、千葉氏へ其恩金ヲ償還セは其汚や自ら解ン」
と語りかけ、さらに重太郎の疑いを解いて和解するべきであると切々と説いた。高野はこれを聞いて「感泣恩ヲ謝シテ臥」した。
10月2日、山国隊士の仲西市太郎が突然病に倒れた。「疝積衝心」ということで狭心症と思われるが、翌3日に至ってついに人事不省に至った。しかし病院の医師はすべて出払っており、やむなく薬を市中に求め、按摩師による針治療で一時小康状態となるが、夜になって再び症状が悪化。重太郎も知らせを聞いて御添屋敷に駆けつけるとともに、「病院怠惰」を厳しく詰った。また、藤野は水戸藩で起こった門閥派と改革派の内紛が水戸城下での戦闘に発展したことから、福岡藩と広島藩から六百名の兵が派遣されることとなったことに触れ、山国隊もこれに加わりたい旨を重太郎に迫り乞うた。重太郎が山国隊と鳥取藩を繋ぐ役割を担っていたことが伺える。しかし、藤野の要求に対して重太郎は、
「貴隊ハ戦争数々其軍効各藩ニも不劣、大小之藩兵未タ戦争ノ味ヒヲモ不知者多シ、然シテ付属タル山国隊ノミヲ戦地ヘ出スノ感ナシトセス、殊ニ漸々奥地ヨリ帰リタル処、殊ニ持受勤番中未許処也、仮令水城ニ突進シ今一効ヲ奏スルアルモ、北海道ニテ韮畑ノ今一枚多貰ふたり迚テ何乎セン、夫ヨリ人ノスル戦争ヲ評シ、他人ニ飽足ル程戦争ヲサシテ遣ルカ宜ロシ」
と笑って、水戸城への従軍は思い止まらせ、藤野らもいかにもと大いに笑って、要求を止めている。
10月4日、仲西市太郎が亡くなった。法名は広演院解得観道居士。夜、重太郎は山国隊士とともに酒を飲んで弔意を表した。その後、重太郎は帰宅するが、藤野がその後回礼に訪れた。このとき、重太郎宅には「客士数名」がおり、「水戸藩内乱筑波山ノ戦争ノ談話」をしていた。藤野もこの話を聞いて帰営している。
10月20日、重太郎は藤野を訪ね、
「明朝弥々一隊行軍体ヲ以、河田氏ヲ千住駅ニ迎フベシ。然ニ、予哉本日午后ヨリ発セン、万事貴官ニ託す。宜敷準備有之度」
と藤野へ伝えると、千住宿へ先に出立して行った。奥州で戦っていた山国隊長・河田左久馬が帰還するに及び、重太郎は藤野と図って千住まで迎えに行くこととしたようだ。ただしこのことは河田左久馬は知らなかった。
翌21日未明、雪のちらつく中、藤野は「司令」として山国隊士を率いて藩邸を出立し、数時間ののち千住へ到着した。奥羽鎮撫総督府参謀たる河田左久馬は同参謀・寺島秋介とともに千住の寺院を本営として宿陣していた。藤野が河田を訪ね面会を求めたが、河田は「不許不興体」だった。そのため困惑した藤野は重太郎に聞くと、重太郎は河田・寺嶋の言として、
「仙台城中ニ於テ上参謀タル四条卿ト意思不協和ノ廉アリ、依テ両参謀暇ヲ願当、十一日該城ヲ出発シ、道ヲ白川ニ採リ帰府ナリシヲ以、折角之迎ナルモ之ヲ閣ケト謝絶セラル」
と答えている。『丹波山国隊史』によれば、河田隊長は「今回は微行なれば」ということで公式の出迎えを拒否して騎馬で江戸に戻ったとされており、謝絶の理由が若干異なるが、結局、「千葉ト我隊」は、隅田川から船に乗り、藩邸傍の数奇屋河岸に着船して藩邸に帰った(『丹波山国隊史』『征東日誌』)。
10月25日、重太郎のもとへ藤野が訪れ、さらに柴捨蔵、那波九郎左衛門が合流し、不律をなして山国隊を辞めさせた人夫・吉兵衛が大総督府宮付属四番隊林某に泣きつき、林より吉兵衛を再勤させてほしいとの依頼があったことにつき、相談がなされた。藤野は吉兵衛の再勤について「不律ヲ為シ暇ヲ出セシ人夫ハ何共再用難出来ナラズ哉」として再勤に反対。重太郎も原六郎も「尤然リ」とこれに同調。那波より林へ再勤はできないことを伝えさせている。
10月27日、重太郎は山国隊を訪ね、大総督宮熾仁親王の凱旋につき、「御警衛願意御許容可相成趣ニ付、以前ヨリ御用立之金員一先返済可致呉」るよう催促した。しかし山国隊には資金がない。藤野は困惑して、「右者元来軍用金之事ニ付、河田氏出張中代表ノ貴家ニ借用致セシ事故、仮令返金可致モ、当地ニ而者借用コソ尚願度、返金ノ道難相立ニ付、帰京後迄延金有之度」と陳情した。ここに、河田左久馬が出張中のときには、重太郎が山国隊の「代表」であったことが判明する。
重太郎は供奉に際して資金が必要だったため、「半金成共返金可致様」と催促したため、やむなく藤野はこれを容れ、すぐに河田のもとへ出頭して金を借りて返金した。
10月29日、重太郎の千葉道場のある桶町で火災が発生した。幸い道場は延焼を免れたが、このとき山国隊の橋爪治兵衛が道場を守るために駆けつけて働いた。重太郎は感謝し「特別礼辞」を申し入れた。
11月3日、山国隊は京都へ大総督宮供奉のための資金がまったく足りず、藤野は隊長・河田左久馬へ金索依頼するが、河田は激務のため対面できず、重太郎を通じて、鳥取藩江戸留守居・山田宗平へ「拝借願」を提出した。さらに翌4日にも山田宗平へ至急の金子拝借願を提出するも、何の報告もなく「遂而帰営可致」とのみ指示される。帰営したところ、重太郎が「怒々」の面持ちで藤野を訪ねてきた。重太郎は、
「前日来毎々依頼之金五百両、山田へ頼ミ相成、明朝ノ只今ニ至ルモ何等取定マリタル儀無之ヲ見ニ不忍、山田ノ如キ遊野郎留主居ニ被相頼モ今ニ不帰人物、依之右五百両之金者、当分拙手ヨリ繰リ替可申」
ことを申し出たが、そのうち、すでに貸し付けてある分の「三百六拾六両弐朱」「八両三歩弐朱」は差し引いた上、河田左久馬へ貸付の「五拾両」の返金も求めた。五百両のうち、山国隊へ支給される実際の金額は七十七両程度となってしまう。これには藤野も困惑し「御警衛帰京モ難叶次第」であり、「帰京後迄延借」を願い出ている。
11月5日、大総督宮の上洛供奉に際し、藤野は橋爪治兵衛を「千葉道場」へ遣わし、金千疋を謝礼として渡した。そして同日、出立に及び、藤野は重太郎を訪ねたが留守であった。そのため対応に出た「令妹三人ト種々世話相成候段謝辞ヲ述、二更迄待」ったが帰宅しないため、藤野は藩邸へ戻った。すると九ツ時、重太郎が藤野を訪れ「那波ヨリ取片方一日モ■其地ヲ引払、発途有之度」と伝言して山国隊を出ている。
11月8日、藤野は取り急ぎ三百七十両を重太郎に返済するが、重太郎は「百五十両ヲ来ル十二月中借用証書ヲ差入一済算ノ手順ト相成候」と、十二月中に百五十両の返済も求めた。重太郎は道場経営も行なっていたためか経理の才能もあったようで、貸付の返済等ではきちんと請求を行なっている。とくに山国隊の京都帰国につき、藤野の上洛前に精算しておくことを考えたようである。山国隊は5日に江戸を出立して上洛の途に着いたが、藤野は「取締」として後片付けを行なったため、9日の出立となっていた。藤野は重太郎を訪ねると「永々世話ニ相成候」として鴨二羽を進上している。また、隊士・田中伍右衛門が上野戦争で戦死したときに重太郎が納めてくれた「供養料」も精算。鳥取藩邸で開かれた別宴に重太郎や藩留守居・西谷健一らが参加して、七ツ刻(午後4時頃)に藤野は藩邸を後にした。重太郎は藤野を見送り、数奇屋河岸まで同行して別れた。
11月9日早朝、品川を出立した藤野は、10日に小田原へ入った。さらに三嶋へ向う途中、「千葉氏親戚岩本清兵衛」と出会い、同道して五ツ半(午後9時頃)に三嶋へ入った。この岩本清兵衛という人物については系譜等に見えないため重太郎との続柄は不明だが、重太郎の妹・きくの夫が「岩本惣兵衛」という大伝馬町の旅店主であり(『千葉の名灸』、あさくらゆう様ご指摘)、彼の事かもしれない。
12月7日、藤野はまだ未返金の重太郎・山田宗平への借金を返済するべく金索し、12日、「山田宗平、千葉重太郎両氏へ詳細書状文箱入ヲ以発送」した。
12月21日、重太郎の「近来不一通御用多之処、別而出精相勤候段」が藩公・慶徳の御感を得、父・定吉へ三十俵が遣わされた。
明治2(1869)年1月21日、京都の藤野より「東京千葉重太郎氏へ謝礼」(『丹波山国隊史』)「千葉重太郎氏へ永陣中ノ謝議」(『征東日誌』)として、「上羽二重一疋」が送られている。
3月15日、山中丹造が所用のため東京へ向かうこととなり、藤野はそれに託して「千葉重太郎殿、原六郎殿」へ「時候安問之書状」を送り、あわせて東京の情勢を問い合わせる書状も付している。
●戊辰戦争が終って
3月24日、重太郎は岡田斐雄、津田真一郎とともに勝麟太郎の屋敷を訪れた(『海舟日記』)。どのような内容で訪れたのかは記されていないが、4月8日に再び海舟を訪れた重太郎は、「北島氏両三日前帰府、山岡に参るべき旨、且、小金開拓の事半ば御採用あるべきか、御用に成るべき人物承り度き旨」を聞いている。意味がわかりにくいが、北島氏が山岡鉄太郎のもとを訪れたことと、小金牧開拓の件、御用を命じられた人物の事について問い合わせているということか。12日には、山岡鉄太郎と同道して海舟を訪れた(『海舟日記』)。
5月5日、重太郎は「剣術教授頭取」就任を命じられ、その格式は諸奉行御礼席渡瀬槌之助の次と定められ、役料として三十俵が遣わされた。
執政 | 和田新助、鵜殿藤一郎 |
副執政 | 田村貞彦 |
参政 | 津田伝兵衛、河崎政之丞、(神戸源内) |
5月15日、藩公・池田慶徳は藩政改正を行い、旧制を廃して「施政局」を置き、「神務、総学、会計、民政、兵制、刑法」の六司を附属させた。職制としては執政が全てを統括し、参政がこれを補佐。六司の執事が各司を管轄することとした。また、藩主家の家政については家政司が置かれた。
政局参入 | 和田新助、鵜殿藤一郎 |
大参事 | 津田伝兵衛、河崎政之丞 |
権大参事 | 荒尾十郎、(神戸源内) |
少参事 | 角田捨蔵、(沖探三) |
5月17日、列藩の版籍奉還に伴い、旧制の官職ならびに諸侯の称号を廃し、旧公卿・旧諸侯ともに「華族」とされ、旧藩主は「知藩事」と改められた。慶徳も参内の上、改めて鳥取知藩事の命を拝した。さらに8月28日、鳥取に入った知藩事・慶徳は、鳥取城を政堂と定め、藩政改革を通達した。知事のもとに大参事、権大参事を置いて知事を補佐し、施政局・六司を総管する少参事は七人を定め、一人は公儀人とし、ほかの六人を六司(のち六局)の統監とした。さらにその下に、大主簿、少主簿、史生、庁掌が置かれることとなり、12月4日、重太郎は旧藩役職を免じられ、会計局の少主簿に任じられた。そして、その「御用取調行届候」につき、金三千疋が賞として鳥取県より下された。
●千葉家家督を相続
明治3(1870)年正月、職制中の「主簿」が「属」と改められるにつき、重太郎も「少属」とされる。そして翌明治4(1871)年正月27日、父・定吉の隠居願が認められ、重太郎が家督を相続し、5月30日には、これまでの雇料三十俵は給禄に合わせることとされた。また、 賞典録は九石二斗三升一合( 『千葉一胤家譜』)だった。
6月19日、重太郎は海舟邸を訪れ、原小太郎が沼津へ出立することにつき、「御借受人の事」を話している(『海舟日記』)。
ちょうどこのころ、遠く福岡藩にて前代未聞の「贋札事件」が起こった。当時福岡藩は多額の借金を抱え、首が回らなくなっていた。そこで、明治2(1869)年より大参事の立花増実、矢野安雄、権大参事の小河愛四郎ら藩の首脳は、太政官札を大量に偽造。しかし、明治3(1870)年に事件が発覚して伝馬町の牢屋敷に収監され、明治4(1871)年7月に処刑される。この事件により、知藩事・黒田長知も連座し、知藩事罷免の上閉門を命じられた。なお、『千葉の名灸』によれば「大音大参事以下六名に切腹を賜」わったとあるが、大音青山大参事は事件当時隠居しており、事件後に再登用され、明治4(1871)年9月20日に免官となっているため、事件とは関係ない上、「斬罪」とされた人数は五人であり、『千葉の名灸』の人名と人数、判決は誤記である。
●福岡藩贋札事件の権少参事以上の関係者一覧(『福岡県史』)
職制 | 人名 | 判決 | 前名 |
知藩事 | 黒田長知 | 免官、閉門四十日 | 黒田慶賛→黒田長知 |
大参事 | 立花増美 | 斬罪 | 立花河内 |
大参事 | 矢野安雄 | 斬罪 | 矢野安太夫 |
大参事 | 黒田一美 | 閉門四十五日 | 黒田美作 |
大参事 | 小川氏雄 | 閉門四十五日 | 小川駿河 |
大参事 | 郡成巳 | 異体、庶人下し | 郡左近 |
権大参事 | 小河愛四郎 | 斬罪 | 小河愛四郎 |
権大参事 | 中村用六 | 免官、閉門五十日 | |
権大参事 | 宮内成人 | 閉門五十日 | |
少参事 | 徳永織人 | 斬罪 | |
少参事 | 平松蓊 | 閉門五十日 | |
少参事 | 西松劣 | 閉門三十五日 | |
少参事 | 三隅伝八 | 斬罪 | |
少参事 | 高木糺 | 流十年 | |
少参事 | 吉村五平 | 徒罪三年 | |
権少参事 | 中根直 | 准流十年 | |
権少参事 | 肥塚鈍 | 閉門五十日 |
この贋札事件は実に「廃藩置県」の直前での罷免という面目丸つぶれの事件となったが、この後任として知藩事に任命されたのが、有栖川宮熾仁親王だった。
知藩事・黒田長知が罷免となったことで福岡藩四十七万石が動揺し、その鎮撫は容易ではないため、宮が知藩事として赴くこととなった。幕府追討の総大将を務めた宮に白羽の矢が立ったと思われるが、この宮に附属されることとなったのが、重太郎の親友・河田景与(河田左久馬)であった。
河田は当時、従五位民部少輔として出仕していたが、この一大難局を乗り切るためには、河田を抜擢するより他になしと福岡藩参事を命じた。明治4(1871)年7月、宮は河田ら随員を率いて軍艦春日に乗船し、横浜港から福岡へ向った。しかし、河田は混乱が生じるであろう福岡藩政を執らなければならないことに死を覚悟していたようで、赴任の前夜、河田は重太郎を招いて離杯を挙げ、深夜に到るまで痛飲したという。そして、重太郎が帰途につくとき、河田は憮然として、
「這般の事、若し不幸にして意の如くならずんば、再び御辺に見ゆるの期なかるべし。其時笑ひ給ふな」
とため息を漏らすと、重太郎の手をとった。重太郎も密かに河田を大変心配しつつも、わざとそんな気配を見せることなく、河田を励まして別れた。しかし、いざ帰宅しても河田の言葉が気にかかって眠れないまま夜が明けたという。その朝、河田から使者が訪れ、河田が出仕する際に着用していた民部少輔の装束を届けてきた。これはまさしく河田の決死の覚悟の表れだった。重太郎は居ても立ってもいられず、聟養子の千葉束(長女繁の夫)を呼ぶと、
「汝、今より我に代りて福岡に向ひ、宮殿下は申すも愚か、河田が為めに十分護衛の任に当るべし」
と命じて河田の後を追わせた。束は河田と対面すると、その厚意を謝し、
「左らば高塩又四郎なる者、陸路より彼地に向ふ筈なれば、之と同行せしめられたし」
と勧め、束はさっそく旅の用意を整えると、後日、高塩と同道して福岡へ出発した。高塩はもと喜連川藩士だが、戊辰戦争当時は鳥取藩隊長として出兵している人物であり、こうした縁で河田の食客となっていた。なお、河田は実際には「民部少輔」ではなく「民部大丞」で福岡藩大参事と「兼任」していたため、決して民部大丞を辞めていたわけではないため、重太郎に「民部少輔(民部大丞?)」の装束を贈ったという『千葉の名灸』の記事は割り引いて考えるべきか。8月10日、河田の民部大丞兼官免除と県大参事の宣下奉書が太政官より届けられており、晴れて福岡県大参事の専職となる。
さて、宮一行は日ならずして博多へ上陸し、佐賀藩兵に守られて福岡へ入った。しかし、やはり福岡城下は不穏な空気に包まれており、藩士たちがあちこちで集まり、謀議をしている様子だった。そのため、河田は逸早く早川勇権参事に藩士の主だった者を訪問させ、大義を説かせる事で主戦論を封じ込ませた。さらに、宮の護衛として新たに武芸に秀でた福岡藩中士から三十人を選び出し、佐賀藩兵の役は解いた。こうした河田のすばやい対応で福岡は落ち着いた。なお、束は有栖川宮と「河田に従ふて福岡に在りし頃、武技の上にて異数の知遇を蒙」ったとされるが(『千葉の名灸』)、これについては8月22日、27日、28日に一刀流剣術をご覧になっており(『熾仁親王日記』)、この一刀流剣術は束が披露した可能性がある。
この年の7月14日、廃藩置県の詔勅が発せられ、鳥取知藩事・池田慶徳は免職となり、7月18日、慶徳は東京へ移住となった。そして9月15日、鳥取県が設置され、しばらくは大参事以下が政治を行なったが、11月15日、福岡藩政の功績を以って河田は「鳥取県権令」に転任となった。ただ、「河田ノ評宜シカラザルトノ巷評モ有之」ともあり(『熾仁親王日記』)、河田の豪腕は必ずしも喜ばれていなかった様子も窺える。
河田は12月25日に鳥取に赴任するが、このとき河田は千葉束を伴っている(『千葉の名灸』)。実は束はこの年、河田の媒酌によって喜多家から千葉家へ婿養子入りしており、今回の赴任も重太郎と相談の上、「執事」の名で同道することになった。なお、河田が鳥取に赴任したのは『千葉の名灸』では明治2年とあるが、明治4年の誤りである。
この年の8月、重太郎は旧知の原六郎とともに第三大隊歩兵頭に任じられたとされる(『千葉の名灸』)。
●北海道開拓使となる
重太郎(明治2年に一胤に改名しているが、この項は重太郎とする)は明治5(1872)年、歩兵頭から北海道開拓使権大主典に転じたとされるが(『千葉の名灸』)、明治4(1871)年5月、重太郎は県の「会計懸」を拝命し、10月12日に鳥取県から「帰県申付」られ、鳥取県に移っていることから、「第三大隊歩兵頭」に就任していたとしても、ここから直接開拓使出仕に転じたわけではなく、歩兵頭も2か月足らずで辞めたことになる。また、根本的な問題として、明治5年当時、歩兵頭という職制は存在していない。慶応4(1868)年に「龍之口歩兵」を原六郎らとともに預かった事実と混同されている可能性がある。
鳥取県吏としては、翌明治5(1872)年2月13日に免官となっている。これは重太郎がこの月に開拓使九等出仕に補されたことによるものだろう(『明治五年六月官員全書改』)。そして、明治6年当時、「開拓使八等出仕」の重太郎は「本所富川町」に住んでおり(『千葉東一郎身上書』)、開拓使となって一年は東京在勤だったと思われ、この間に開拓使の九等出仕から八等出仕へ昇ったことがわかる。その後、開拓権大主典となって七重村官園在勤が命じられ、北海道七重村に赴任した。その具体的な時期は不明だが、明治6年以降と思われる。
余談だが、明治6(1873)年5月17日、皇太后と皇后が東京の開拓使官園に行啓された際、第三官園(渋谷区広尾四丁目)で開拓使仮学校の「女生徒四十一名」などが拝謁したが、このとき「福島照、千葉震」が英語の作文を披露している(『開拓使日誌』)。この「千葉震」は重太郎の三女で、「成蹟優等をもて皇后陛下より珊瑚の根掛を皇太后陛下より金指輪、洋傘等を賜はり大に面目を施せし」とあり(『千葉の名灸』)、この記事は5月17日の行幸の際のことか。12月5日にも皇后の仮学校行啓があり、校長は皇后に本日課業の課目表を呈したが「千葉震」については「勧善訓蒙韻誦講義並習字英文翻訳」だった(『開拓使日誌』)。なお、翌明治7(1874)年11月、震は開拓使学校を退校している。
明治8(1875)年2月4日、「東京在勤」が命じられ(『開拓使日誌』)、再び東京へ戻ってきたが、二か月後の4月17日に「免本官」となり「御用滞在」が命じられた。4月25日には、「満三年勤続」の賞与として金七十五円(月俸一か月半)が下されている(『千葉一胤履歴』)。その後、東京府内に寄留して開拓使東京出張所農業課へ転じるが、明治14(1881)年までの6年間、動向不明となる。なお、『千葉の名灸』には、七重農事試験所長になったものの、ここでの細々とした仕事にうんざりし、すぐに辞職してしまったと記されている(『千葉の名灸』)が、重太郎と同日に七重村から東京在勤を命じられた人物に、重太郎よりも上位の「大主典 村橋久成」がおり(『開拓使日誌』、少なくとも重太郎は所長ではなかったことがわかる。
~千葉束その後~
鳥取権令・河田景与の執事として鳥取にいた重太郎の養子・千葉束だったが、覇気満々たる束には執事職は合わなかったようで、河田の官吏登用の勧めも断って、東京へ戻った。ここでも官吏登用の道を選ぶことはなく、実業家として身を立てることを決心し、函館に渡って汽船を借り入れ、開拓使との貿易業を始める。このころ、養父・重太郎が開拓使権大主典として北海道へ渡っており、その勧めもあったのかもしれない。しかし、この貿易業も先読みの甘さから失敗し、東京へ戻った(『千葉の名灸』)。
明治7(1874)年の春、愛媛県権大参事だった旧知の大久保親彦(父は旧土浦藩士・大久保人で天狗党とも関わりがあった)が公務で東京へ来た際、赤坂の束の住居を訪ねている。このとき束は函館から戻ってきたばかりで、失意の中にあったが、親彦は友人として黙っていられず、愛媛県の県吏の希があるなら、骨を折ることを約束。束は親彦とともに松山へ赴き、御用掛を拝命。できたばかりの松山監獄の事務官となった。これが、束が監獄官となるはじまりだった(『千葉の名灸』)。
しかし、大久保親彦は江木康直(正参事)と県政についての意見対立を起こし、県政が停滞する事態を招いてしまった。しかも、江木康直は病に倒れて11月に死去。県政の事務は滞ってしまった。そして11月24日、権令として赴任してきた岩村高俊は、大久保親彦らを罷免。代わって七等出仕・赤川戇助を権参事とした(『千葉の名灸』『愛媛県史』)。
罷免された大久保は東京へ帰京。束も松山にいることを潔しとせず、明治8(1875)年2月、辞職して東京へ帰った。その後、束は昵懇の司法書記官・金杉恒(重太郎の周旋で弾正台に奉職する)を訪問して、仕官の斡旋を依頼するが、当時はすでに政府官吏が多すぎ、人員整理もやむなしの機運が高まっていた。このような中では、最下級の等外二等出仕のほかには採用の道はないと言われ、束もこれ以上のものは望まないと拝命した。しかし、養父・重太郎がこの報告を聞き、「家名を墜すもの」として、拝命を思い止まらしめようと束に会って説得し、さらに斡旋した金杉も重太郎の心配も尤もと、屋敷に招いて辞職を頼むが、束は応じず、鍛冶橋監獄詰に就任した(『千葉の名灸』)。
しかし、この監獄に司法書記官・小原重哉が囚人の普段の態度を観察せんと突如視察に来た。これに束が担当していた監房の獄丁が囚人に対して、普段の通り上官の巡視を知らせてしまったことから、束が呼び出され、叱責された。これに対し、束は正々堂々自論を展開し、その正論にさすがの小原も口を噤んで引き取ったという。そしてこの年、鍛冶橋監獄詰が警視庁管轄となると、束は他の獄吏とは異なり、警視庁一等巡査を拝命。明治10(1877)年2月、鹿児島で西南戦争が起こるや、警視庁は全国に腕に覚えのある人物を徴募し、抜刀隊を編成して送り込もうとした。その徴募に三千もの応募があったが、その後、官軍の苦戦が伝えられるや、敵の盛名に怖気づいて、徴募に応じた人々が次々に帰郷を願い出てしまった。これに安藤則命副総監が困惑していたところ、束が帰郷しようとしていた人々の中から主だった人物を集め、大義を説いて帰郷を撤回させたことから、喜んだ安藤副総監は束を警部補に昇進させている。7月5日の時点で束は「警部補」となっている(『内務省警視局職員録』)。
その後、出陣の機会に恵まれないまま悶々と日を送っていたが、九州を転戦していた萩原定固大警部が帰京した折に面会嘆願し、5月18日に出陣が決定。そのころ、桶町を引き払って深川富川町にいた重太郎のもとへ報告に上がった。桶町の道場地は養子の千葉東一郎が家作として住んでいたが、東一郎が実父・根本才助(横綱・稲妻雷五郎)の死去のために重太郎との縁組を解消した(あさくらゆう『足立史談510号』)ことで、重太郎は桶町の居宅を処分したのかもしれない。ただ、翌明治11(1878)年2月頃の富川町の宅地所有者に重太郎の名はなく(『東京地主案内』)、貸家に住んでいたのかもしれない。
報告を聞いた重太郎は喜ぶが、束が腰に帯びた加賀守信重の三尺二寸の太刀を見て、心ありげに
「其を戦地に携ふる了簡にや」
と問うた。この太刀は明治8(1875)年の廃刀令まで一時も離す事のなかった業物で、束は憚ることなく、この刀を再び世に出すときが来たと自信を持って言うが、重太郎は冷ややかに笑って、君はかりそめにも分隊を指揮する立場である以上、敵を斬るのと同時に命を聞かない味方も斬る覚悟が必要であるが、手元にある味方を斬るのに長い刀は遣いづらいと諭した。束もこれを聞いて嗚呼と嘆息すると、加賀守信重を腰から外した。そして、重太郎は束に戦場での駆引き等を物語ると、餞として、堀川國廣の一刀を授けた。束はこれを押し頂いて辰ノ口の本隊に立ち返り、18日未明に横浜へ出発し、18日夕刻、横浜港を出帆。途中、神戸の大本営で訓辞を受けた後、22日、豊後に到着した。船上で戦闘準備を整え、鶴崎(大分市南鶴崎)に上陸。束は萩原隊の先駆一番小隊長として各地の戦いに参戦し、福岡以来の有栖川宮熾仁親王にも親しく拝謁を果たしている。
●明治10(1877)年5月29日竹田城攻め警視隊
方面 | 軍名 | 小隊番号 | 分隊数 | 隊長 |
竹田城 | 先駆 | 一 | 一 | 千葉警部 束 |
ニ | 平田警部 | |||
援隊 | 一 |
日高警部 | ||
後備 | 三 | 中澤警部 | ||
六 | 池田警部 | |||
田中口 | 先駆 | 五 | 高倉警部 | |
援兵 | 六 | 末永警部 |
9月27日、西南戦争の賊将・西郷隆盛は鹿児島城の城山にて自害を遂げ、西南戦争は鎮定される。萩原隊も10月25日、細島から乗船して27日、品川に到着。束は論功行賞を受けたが、わずか百円の賜金のみであった。これに不満だった束は辞職を決意するも、当時、警視庁は職員に対し内偵をかけ、夜に花街などに遊び歩く者を容赦なく辞職させており、勇退した者も世間では同一視する恐れがあると忠告を受け、しばらく退官を思い止まった(『千葉の名灸』)。
明治11(1878)年2月5日当時、「二等警部補」で、4月5日当時には「警部試補」であった(『内務省警視局職員録』)。そして12月5日改正の記述を最後に、警視庁の記録から姿を消す。
そして明治12(1879)年2月、ついに官を辞して四谷坂町に撃剣道場を開き、北辰一刀流指南の掲げた。道場地は四谷坂町九十九番地(百四十坪)か(『東京地主案内』)。さすがに明治の世となり、幕末の盛時とはいかないまでも、北辰一刀流の名声はまだまだ残っており、剣客の体面を保つことはできたが、束の道場には諸国の修行者が常時数名寄食していたため、西南戦争後の物価暴騰の中で生活は厳しかった。そこで、門人の名義を借りて、道場に程近い伝馬町通りに飲食店を開店。神楽坂に酒店「桝喜」を商う桝本喜楽より酒を仕入れて営業を開始したところ、意外の繁盛を続けた(『千葉の名灸』)。
しかし、明治13(1880)年冬のある夜半、大火が起こり、隣家まで火が押し寄せた。たまたまこのとき、風向きが変わったことで火がそれ、束の飲食店は焼失せずにすんだが、その翌明治14(1881)年春、隣家が失火して束の店も類焼。ここに及んでは再建もできないと思っていた折、京都府知事になっていた北垣国道が公務を帯びて上京していることを聞き、ある夜、小川町の北垣邸を訪問し、仕官のことを頼んだ。実は明治14(1881)年2月、北垣は重太郎に「撃剣に堪能なる者を採用して監獄の事務に従わしめん」と語っており、これはそれとなく束の仕官を勧めていたのだが、当時の束は飲食店の営業が順調で、再仕官も望んでいなかったために北垣のもとを訪問しなかったが、火災後の難局にあい、北垣に頼るほか無しと北垣邸を訪問したのだった(『千葉の名灸』)。
しかし、北垣も束の性根を確かめるためにいろいろと試し、結果、束の忍耐力を認めて、試した無礼を詫びた上、京都府十六等出仕の仮辞令を渡し、同時に東京府と神奈川県の監獄取調の用務を命じた。束はそれらを二か月でまとめ、7月に報告書を持って京都府に赴き、京都府監獄看守長を拝命した。ここで束は典獄と議して、獄中制度の改善を行なった(『千葉の名灸』)。
~千葉東一郎その後~
千葉東一郎はこれまで「千葉周作の庶子」とされてきたが、あさくらゆう氏の調査により、幕末の名横綱・稲妻雷五郎(根本才助)の次男が十三歳の折に重太郎の養子となって「千葉東一郎」を名乗り、のちに重太郎の二女・寅の聟になったことが判明している(『足立史談510号』)。
重太郎が開拓使出仕のとき、桶町の道場は東一郎が「家作」として入っているが(『千葉東一郎身上書』)、明治に入り、人々が剣術を学ぶ意義も薄れてしまい、剣術道場は経営が厳しかったようである。こうした中で、剣士・榊原鍵吉が始めた「撃剣興行」の流行に乗り、東一郎も東京府当局の許可を得て、明治6(1873)年6月1日、又従兄弟の玄武館主・千葉之胤とともに深川御舟蔵前の大観音境内で北辰一刀流の「官許撃剣銘競」を行なった。これは晴天十五日間の日程で行なわれ、さらにその直後には東一郎が二代目の千葉周作を称して、門弟の海保順吉(海保順三芳富?)とともに浅草寿町において撃剣興行を行なっている(『撃剣会始末』)。
東一郎は撃剣興行の傍ら、牛乳の販売を始めることとし、明治7(1874)年2月に鑑札を受けている。当時、養父・重太郎が乳牛放牧を行なっていた七重村官園在勤であったことが影響しているのかもしれない。6月には牝牛一頭を飼った。そんな中で、7月15日、大蔵卿の大隈重信が興行の許可を厳重にする通達を出したことから、東京府は7月31日以降の興行は認めないとの断を下す。これは剣術道場の存続をも許さないものだったため、おそらく東一郎の桶町道場は休止したと思われる。牛乳搾取の商売を始めた時点ですでに道場は閉じられていたかもしれない。
その後、飯田町三丁目九番地にあった牧場「北辰社」へ牝牛を「相預ケ」、そこから牛乳を「取寄セ商」をする一方で、12月には「旅人宿」とすることを願い出て、明治7(1874)年1月19日に鑑札を受け、妻と娘、家僕の四人で宿屋を経営することとなる(『千葉東一郎身上書』)。さらに4月には竹原太郎兵衛とともに新潟における石炭試掘の許可も申請している。ただ、『千葉の名灸』によれば、東一郎は、飯田町一丁目一番地の由良守応(桶町道場門人・由良溪五郎)の経営していた牧場(千百八十五坪)で、由良の指導の下、牛乳搾取の方法を学んで南槙町に店舗を構えたとあるが(『千葉の名灸』)、東一郎自らが記した文書に拠れば、搾乳は牧場に委託し、取り寄せた牛乳の販売だけを行なっており、桶町の屋敷は旅人宿として経営し、牛乳販売は南槙町に店舗を持っていたということか。
明治10(1877)年、東一郎は「仔細」があって、重太郎との養子縁組を解消する。あさくらゆう氏の調査によれば、実父の稲妻雷五郎(根本才助)が亡くなったためである(『足立史談510号』)。そして、東京府が撃剣興行の禁を解いたのは、その翌年の明治11(1878)年7月のことである。
実家に戻った東一郎は、根本金太郎と名乗り、大正4(1915)年に刊行された千葉周作の伝記『剣法秘訣』に千葉束らとともに北辰一刀流剣士として名が載せられている。
●重太郎、京都へ奉職
千葉一胤墓碑(右) |
明治14(1881)年1月19日、かつての同志で旧鳥取藩尊攘志士である北垣国道が京都府知事に就任した。養子の束は5月、北垣の周旋のもと、京都府十六等出仕の仮辞令を受けて、7月に京都府監獄看守長を拝命しており(『千葉の名灸』)、重太郎も旧知の北垣知事に招かれて京都へ移ったのかもしれない。『千葉の名灸』には、北垣が昔日の恩義に報いるため、重太郎及び束のためにたびたび骨を折ったとの記載がある。そして、重太郎は「明治十四年京都に赴きて演武場を設立」し、武芸を教授した様子が伺える(『千葉の名灸』)。
京都府に奉職したのは束(戒護部看守長)のみで、重太郎は官吏としての採用ではなかったということか。重太郎は翌明治15(1882)年正月に警察本署出仕の御用掛として出仕している(『職員録』『千葉一胤履歴』)。給与は月俸二十円とされた。重太郎このとき五十九歳。12月27日には、「事務勉励」につき、慰労のため月俸全額(二十円)が下された。
しかし、明治17(1884)年10月の時点では、重太郎の名は『職員録』に記載されておらず、養嗣子の束のみが奉職している。体調を崩していたのかもしれない。
翌明治18(1885)年5月7日、重太郎は京都府立病院で波乱の生涯を終えた。享年六十二。
明治40(1907)年5月、正五位を贈位された(『贈位諸賢伝』)。
●千葉重太郎弟子
藩名 | 名前 |
幕府 | 依田雄太郎・鈴木常太郎・鈴木豊次郎 |
不明 | 木村勘七郎・梅原鉄之助・杉山愛之助・岩崎雪松・森貫吾・加藤卯太郎・岡田今司(千葉定吉門人) |
駿河田中藩 | 須藤恵十郎・大井治三郎 |
阿波徳島藩 | 清水小十郎・元木弥五郎・桐原市太郎・柏尾馬之助・渡辺固右衛門・渡辺岳 |
播磨姫路藩 | 浦山長左衛門 |
播磨龍野藩 | 津田土蔵(清水小十郎門人) |
因幡鳥取藩 | 石川豊太郎(重太郎親類)・横山駒之介・水口康太郎・辻繁治郎・北小路左藤次・橋爪治兵衛・藤野宇之佐・森脇市郎・久保為治郎・渋谷利三郎・田中久米治・樋爪弥五郎・草木栄治郎・岡田星之助 |
伊予松山藩 | 篠田某 |
長門長府藩 | 野々村勘九郎 |
酒井家臣 | 片山鉄之丞・太田小平 |
紀伊国郷士 | 由良渓五郎・由良矢太刀 |
あさくらゆう様(『千葉の名灸』『鳥取藩政史料』等のご教授ならびに助言をいただきました)
●参考文献
・青木源内「浅利又七郎と千葉周作」(『松戸史談14』松戸史談会)
・あさくらゆう「北辰一刀流千葉家を語る」(『茨城史林35』筑波書林2011)
・あさくらゆう「千葉さなが眠る八柱霊園へ~ご子孫とともに」(『足立史談523』足立区教育委員会2011)
・あさくらゆう「千葉さなと関わった方たち」(『足立史談518』足立区教育委員会2011)
・あさくらゆう「坂本龍馬との恋を目撃した男」(『足立史談518』足立区教育委員会2011)
・あさくらゆう「千葉さなについて(後編)」(『足立史談514』足立区教育委員会2010)
・あさくらゆう「生涯独身の偶像(前編)」(『足立史談512』足立区教育委員会2010)
・あさくらゆう「千葉さなの宅を訪れた根本金太郎」(『足立史談510』足立区教育委員会2010)
・あさくらゆう「千葉さなについて~千葉定吉家にまつわる誤伝について」(『足立史談508』足立区教育委員会2010)
・あさくらゆう「千葉さなについて」(『足立史談506』足立区教育委員会2010)
・稲本雨休「千葉周作弟子三千人の由来」(『松戸史談6』松戸史談会)
・小山松勝一郎『清河八郎』:附録「玄武館出席大概」(新人物往来社1974)
・島津兼治「古流武術見てある記」(『月刊秘伝』1994~5 BABジャパン)
・齊藤伊勢松『岡部藩始末』(1997)
・佐藤訓雄『剣豪千葉周作』―生誕地の謎を明かす―(宝文堂1991)
・末満宗治「千葉周作父子江戸への道行」(『松戸史談47』松戸史談会)
・高森智子「千葉一族の羽衣伝承-地方武家による自家高揚伝承の試み-」(『千葉大学日本文化論叢5』千葉大学文学部日本文化学会2004)
・千葉栄一郎『千葉周作遺稿』(桜華社1942)
・千葉勝太郎『剣法秘訣』(1915)
・辻淳「千葉周作研究文献と松戸宿小森家の謎」(『松戸史談48』松戸史談会)
・辻淳「松戸宿小森家の謎 庄蔵のその後(一)」(『松戸史談49』松戸史談会)
・辻淳「松戸宿小森家の謎 庄蔵のその後(二)」(『松戸史談50』松戸史談会)
・土居晴夫「坂本龍馬と「北辰一刀流長刀兵法目録」」(『土佐史談170』)
・松岡司「初見の坂本龍馬書状と北辰一刀流長刀兵法目録」(『日本歴史』45)
・西内康浩
『龍馬の剣の師千葉定吉・僚友千葉重太郎の墓確認に寄せて』(『土佐史談170』)
・水口民次郎
『丹波山國隊史』
・宮川禎一
『山国隊と千葉重太郎』(『歴史読本』54)
・渡辺一郎『史料 明治武道史』(新人物往来社1971)
・『一刀流関係史料』(筑波大学武道文化研究会1993)
・『衆臣家譜』(相馬市史資料集特別編)
・『東藩史稿』(宝文堂出版1976:原本は作並清亮著1915)
・『仙台藩家臣録』(歴史図書社)
・『豊岡村誌』(豊岡村誌編纂委員会1963)
・『陸前高田市史』
・『松戸市史』
・「千葉の名灸」(横浜毎日新聞連載1903)
・「北辰一刀流十二個条訳」(冑山文庫・国立国会図書館蔵)
・「北辰一刀流剣法全書」(冑山文庫・国立国会図書館蔵)
・「千葉家系図」(財団法人水府明徳会彰考館文庫『水府系纂』茨城県立歴史館複製所蔵)
・「千葉定吉身上書」(『藩政資料』鳥取県立博物館所蔵)
・「耕雲録」(山路愛山編『清河八郎遺著』 民友社 1913)
・「岡部藩主安倍家関係文書」(埼玉県立文書館)
・
『千葉一胤家譜』(鳥取県立博物館所収「鳥取藩政資料」)
・
『千葉重太郎一胤略伝』(鳥取県立博物館所収「鳥取藩政資料」)
・
『組帳』(鳥取県立博物館所収「鳥取藩政資料」)
・
『藤岡屋日記 近世庶民生活史料』(鈴木棠三、小池章太郎編 三一書房)
・
『各地地主名鑑』(国立公文書館)
・
『東京地主案内 区分町鑑』(国立公文書館)
・
『東京地主細覧』(国立公文書館)
・勝海舟
『海舟日記』(東京都江戸東京博物館都市歴史研究室編)
・中根雪江
『続再夢紀事』(日本史籍協会編 東京大学出版会)
・
『水戸藤田家旧蔵書類』(日本史籍協会編 日本史籍協会1934)
・
『明治五年六月官員全書改』(国立公文書館)
・
『開拓使日誌 地』(『新北海道史 史料編1』1969)
・
『職員録 明治十四年』(国立公文書館)
・
『職員録 明治十五年』(国立公文書館)
・
『職員録 明治十七年』(国立公文書館)
・
『東京市及接続部地籍地図』(国立公文書館)
・
『東京市及接続部地籍台帳』(国立公文書館)
・
『地所分割買上に付地券書換願』(国立公文書館)
・
『千葉の名灸』(横浜毎日新聞1903)
・
『御達留』(鳥取県立博物館所収「鳥取藩政資料」)
・北垣国道
『北垣国道日記 塵海』(塵海研究会編 思文閣出版2010)
・藤野斎
『征東日誌 丹波山国農兵隊日誌』 (仲村研、宇佐美英機編 国書刊行会1980)
・
『贈従一位池田慶徳公御伝記』(鳥取県立博物館所収「鳥取藩政資料」)
・原邦造
『原六郎翁伝』(板沢武雄、 米林富男共編1937)