岡部藩剣術師範 塚越又右衛門 二

北辰一刀流千葉家

 江戸時代末期、江戸三大道場の一家に数えられた玄武館は、陸奥国本吉郡気仙沼村出身の千葉一族・千葉周作成政を創始者とする北辰一刀流の道場である。

 北辰一刀流とは、千葉家家伝の「北辰流」と周作自身が修業した「一刀流」の合法剣法であり、通説となっている「北辰夢想流」と「一刀流」の合法剣法ではない。また、北辰一刀流は宗教色のない合理的な教法であって「妙見信仰」とも無縁である(周作個人は妙見を守本尊としていた可能性はある)。

 しかし、千葉周作自身の出自については、周作自身が語らなかったこともあり、様々な説がある。これを総合的かつ詳細に検証した佐藤訓雄氏『剣豪千葉周作』(宝文堂)によって、周作にまつわる「謎」が比較検討され、長年疑問が呈されていた出生地や父親の謎に革新的な進展が見られた。さらに、各地に残る千葉周作の出自・伝承を調査した島津兼治氏宮川禎一氏の研究によってさらなる発展があった。

 そして、最近では原典に当たって歴史の掘り起こしをされている研究家あさくらゆう氏によって、周作の出生地が気仙沼市であることやその後の足取り、千葉定吉一族の幕末・明治以降の動向までほぼ明らかにされている。

 このページでは、千葉周作・定吉の実兄で、周作の養子時や定吉の仕官時、その保証人となるなど、弟たちの面倒を見続けた岡部藩士・塚越又右衛門とその子、二代目塚越又右衛門をご紹介する。

●参考文献、ご協力、提供等はこちら

●北辰一刀流千葉周作家(想像略譜)

               +=千葉周作   +―塚越成道―+―塚越成直――+―塚越成男
               |(荒谷村千葉家)|(又右衛門)|(又右衛門) |(鉾五郎?)
               |        |      |       |
               |        |      |       +―塚越至
               |        |      |       |
               |        |      |       |
               |        |      |       +―塚越三治
               |        |      |
               |        |      +―倉光継胤――――倉光光胤
               |        |       (継之進)   (鐉次郎)
               |        |
               |        |【北辰一刀流】
 千葉常成=?=千葉成勝―――+?=千葉成胤――+―千葉成政―+―千葉孝胤――――千葉一弥太
(吉之丞)  (幸右衛門)    (忠左衛門) |(周作)  |(奇蘇太郎)
                        |      |
                        |      +―きん    +―千葉之胤―――千葉栄一郎
                        |      |(嫁芦田氏) |(周之介)
                        |      |       |
                        |      +―千葉成之――+―千葉鉄之助
                        |      |(栄次郎)   
                        |      |
                        |      +―千葉光胤――+―千葉勝太郎―――千葉和
                        |      |(道三郎)  |
                        |      |       |
                        |      +―千葉政胤  +―千葉次彦
                        |       (多門四郎)
                        |
                        +―千葉政道―+―千葉一胤――+―繁
                         (定吉)  |(重太郎)  | ∥
                               |       | ∥
                               +―梅尾    +=千葉束
                               |       |(喜多六蔵二男)
                               |       |
                               +―さな    +―寅
                               | ∥     | ∥
                               | ∥     | ∥
                               | 山口菊次郎 +=千葉清光
                               |       |(東一郎)
                               |       |
                               +―りき    +―震(しの)
                               | ∥     | ∥
                               | ∥     | ∥
                               | 清水小十郎 | 江都一郎
                               |       |
                               +―きく    +―千葉正
                               | ∥
                               | ∥
                               | 岩本惣兵衛
                               |(大伝馬町旅店)
                               |
                               +―はま
                                 ∥
                                 ∥
                                 熊木庄之助

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塚越又右衛門(1819-1872)

 塚越の長男。諱は成直。通称は鉾五郎又右衛門武蔵国岡部藩士。弟に藩士倉光家へ養子に入り、剣術指南となった倉光鐉次郎(のち継之進)がいる。

 天保6(1835)年正月28日、御中小性として召し出され、金四両一人口を給される(埼玉県立文書館蔵『藩士譜』)

 天保10(1839)年4月、藩公・安倍摂津守信古が幕命により本所御材木蔵の火事御妨の仰せを蒙ったため、父・又右衛門成道とともに信古の供として出役し、手当を頂戴した。この藩公・安部信古は剣を千葉周作に学んだとされ(『埼玉県史』)、周作の実兄である又右衛門が信古に仕えていた関係で周作と交流を持ったのかもしれない。

●塚越又右衛門家周辺系図

       【岡部藩士】
 千葉成胤―+―塚越成道―+―塚越成直―+―塚越成男
(忠左衛門)|(又右衛門)|(鉾五郎) |
      |      |      +―塚越至
      |      |      |
      |      |      +―塚越三治
      |      |
      |      +―倉光継胤―――倉光光胤
      |       (継之進)  (鐉次郎)      
      |
      |【水戸藩士】
      +―千葉成政―――千葉光胤―――千葉勝太郎
      |(周作)   (道三郎)
      |
      |【鳥取藩士】
      +―千葉政道―――千葉一胤===千葉束
       (定吉)   (重太郎)

 天保11(1840)年1月16日、十二代将軍・徳川家慶の正室・喬子が亡くなった。享年四十六。法号は浄観院殿慈門妙信大姉。2月の葬儀で岡部藩は上野寛永寺までの道中警衛を命じられ、鉾五郎も出役した。

■岡部藩士・塚越鉾五郎

 天保12(1841)年正月11日、「剣術上達」につき、大小性席を仰せ付けられ、金一両加増となる。4月の将軍・徳川家慶の日光社参に供奉した藩公・安倍摂津守信古に従い、社参が滞りなく済み、藩公より酒肴が振舞われた。しかし、12月「不束之筋有之」につき、謹慎を命じられる(『藩士譜』)

 天保13(1842)年正月18日、前年の「不束之筋」について、御中小性への降格を命じられ、さらに謹慎を続けるよう御目付衆をもって仰せ渡された。どういった「不束之筋」だったのかは不明。それから七日後の正月25日、「慎差控共御免」された。その後、藩公・安部信古は大坂加番として上坂するが、鉾五郎がこれに同道した記録はない(『藩士譜』)

 10月7日、藩公・信古が大坂で病没すると、遺体は国元に送られ、11月25日に本庄宿南本陣で家老・朝倉只之進、尾崎甚一郎がこれを出迎え、菩提寺の源勝寺に埋葬された。法名は義徳院廓山魯道。その跡を継いで十二代藩主となったのが嫡子の安部信宝である。

 天保14(1843)年6月15日、「剣槍格別出精」を賞せられて、大小性席に復帰し、金六両二人口を加増された。12月には「武術出精」につき、藩公・信宝の手元より褒美として金百疋が下された(『藩士譜』)

 天保15(1844)年8月、岡部表での「槍剣取立」を命じられ、9月5日、江戸藩邸を出立。10月下旬まで岡部陣屋で勤務する(『藩士譜』)

 弘化元(1844)年12月、御給人方当分助を仰せ渡されて、翌弘化2(1845)年正月まで勤め、弘化3(1846)年2月9日には御給人助勤を仰せ付けられ、金一両加増されている(『藩士譜』)

 4月、藩公の武術一覧の際、「師範之列」に加えられる。鉾五郎は剣術だけではなく弓術、砲術にも優れており、4月には褒美として弓の弦を賜り、5月に四谷の下屋敷角場で行なわれた砲術の一覧では白扇一対を賜った(『藩士譜』)

 7月、岡部藩へ「御引渡人」の「高嶋四郎太夫」の警固のため出役。滞りなく勤めたことで、12月に酒料として金百疋を賜る。この「高嶋四郎太夫」は砲術の大家・高島秋帆の事であり、幕府からも重用されて与力格、長崎会所調役頭取まで出世したが、江戸町奉行・鳥居耀蔵忠耀の讒言によって失脚し、岡部藩へお預けとなった。ただ、岡部藩陣屋に留め置かれた高島秋帆はほぼ自由に生活することができたようで、藩士たちに砲術や兵学を教え、岡部藩の精鋭歩兵隊を育てた。鉾五郎は砲術に興味を持っていたため、高島秋帆の教えも聞いた可能性がある。

 安政4(1857)年正月11日、「剣道格別精入引立」たことにつき、御給人格へ再任されている。このころ、鉾五郎は江戸に道場を持つことを藩から許されたようで(『玄武館出席大概』、従兄弟・千葉道三郎玄武館にも出入りして技を磨いたようだ(『藩士譜』)

 2月29日、藩公・安部摂津守信宝が幕府より馬場先御門番を命じられ、勤番として鉾五郎が出役。9月1日まで勤め、滞りなく済んだことを賞され、藩公・信宝より御居間へ呼ばれ、直々に金二百疋を賜る(『藩士譜』)

 安政5(1858)年2月17日、大坂加番を命じられた藩公・信宝の供を命じられ、7月13日、供として大坂へ出立。10月2日には大坂で「御小屋弓術稽古入用金」を賜った(『藩士譜』)

 このころ、江戸藩邸にいた父・又右衛門成道は体調を崩しており、11月には重態に陥った。その報を受けた鉾五郎は、11月13日、「於江戸表父又右衛門事大病ニ付、存生之内対面看病仕度段」を願い出て三十日の暇を貰い江戸へ急行。11月24日に江戸邸に到着した。又右衛門はそれを待っていたかのように、三日後の11月27日に亡くなった。享年七十。忌中につき出立の猶予を願い上げ、12月13日に江戸を出立し、12月25日、大坂へ到着。翌26日、御番入した(『藩士譜』)

■家督相続

 安政6(1859)年正月11日、父・又右衛門が生前に藩庁へ提出していた鉾五郎への跡式願につき、願いの通り家督相続が認められ、高十人口を下し置かれた。四十一歳のときだった(『藩士譜』)。鉾五郎がいつごろ結婚したのかは不明だが、文久2(1862)年には三男・塚越三治が生まれていることから、家督を継いだころにはすでに妻帯だったと思われる

 2月27日、大坂にあった老中・間部下総守詮勝が奈良へ下ることとなり、闇峠生駒市西畑町)を通過する際、同道するよう藩庁より命じられ、滞りなく勤めた賞として手当金が下された。その後、5月25日、江戸へ帰府するまで御目付助勤を仰せ付けられ、8月20日に江戸へ無事に帰府したのち、万延2(1861)年正月11日、御給人席となる(『藩士譜』)

 文久元(1861)年正月21日、御目付に昇進。この年、将軍・徳川家茂の正室として皇妹・和宮(親子内親王)が降嫁することとなり、その道中が中山道と定められたことから、9月11日、中山道に所領を有する岡部藩主・安部信宝にも警衛が命じられ、鉾五郎も出役することとなった。10月20日、京都を出立した和宮御一行が江戸へ向うと、又右衛門は警衛のため11月2日、江戸を発って岡部へ出立し、7日には岡部から警衛場へ詰めた。和宮一行が岡部の北宿場・本庄宿へ着いたのが11月11日で、岡部藩はおそらくそこからの警衛だったのだろう。11月15日、和宮は江戸に着き、田安門内清水徳川家の屋敷に入った。鉾五郎が江戸に帰府したのは11月22日で、一行の後始末を行ないつつ江戸へ向ったのかもしれない。12月1日、一連の御警衛出張の褒詞を賜り、褒美として金三百疋を賜った(『藩士譜』)

 12月28日、御目付へ再勤が命じられ、役料として銀二枚下された。そして翌29日、「改銘願」の通り「又右衛門」へ改名した(『藩士譜』)

 文久2(1862)年2月16日、藩公・安部信宝が一橋御門番を命じられ、又右衛門も役に当たることとなるが、このとき又右衛門は寺社へ御朱印を渡すため岡部表へ出張しており、2月18日に帰府したのち、番目付として出役した(『藩士譜』)

 9月5日、将軍・家茂が浜御殿へ御成りのとき、にわかに道替えして又右衛門らが守る一橋御門前を通ることととなった。これを知らされた又右衛門ら番士たちは平伏して将軍を迎えた(『藩士譜』)。この前月、三男の塚越三治が生まれている。

 9月7日、藩公・安部信宝二条城御定番を命じられ、一橋御門番は免じられた。又右衛門はこれにつき、跡を引き継ぐ戸田七之助衆へ引継ぎを行なった(『藩士譜』)

 9月20日、又右衛門は藩公の上洛の御供を仰せ付けられ、10月4日、武器類の修復につき、御用掛を命じられた。藩公は12月16日、「諸流剣術打込稽古」を重点的に行なう旨を発し、又右衛門を剣術教授方に任命する(『藩士譜』)

 文久3(1863)年正月26日、修復した武器や腹巻などの武具新規購入分が納品され、褒美として金五百疋が下された。これらは藩公上洛に際しての供廻り衆の武具などで、正月29日、将軍・家茂の上洛に際し、又右衛門も岡部藩の一員として供奉した(『藩士譜』)

 そんななかで、7月6日に藩公・安部信宝は京都で急死した。これに伴い、7月8日、岡部藩勢は京都の本陣・本満寺を引き払って江戸へ帰府することとなった。又右衛門は本満寺に残って後始末をしたのち、7月12日に出立。中山道木曽路を通って7月25日、岡部へ到着した。陣屋で三日間休息し、7月28日、江戸へ向けて出立し、翌29日に江戸藩邸に入った(『藩士譜』)

 10月3日、又右衛門は十三代藩主となった安部信発(信宝養嗣子)に御目見を果たし、そのあと、永代橋御警衛のため出役した。12月19日には四谷新宿新関の警衛のため出役する(『藩士譜』)

 安部信発は剣術に理解のある藩主だったようで、御居間において又右衛門の指南を受けるほど自らも剣術の腕を磨いていた。12月28日にも又右衛門が信発の相手をし、さらに家中への剣術教授の褒賞として金二百疋が下された(『藩士譜』)。信発の義祖父にあたる信古が千葉周作から剣術を学んだという伝があることから、そういった素地が安部家には備わっていたのかもしれない。

■幕末の動乱

 元治元(1864)年11月13日、岡部陣屋に程近い中瀬村(深谷市中瀬)へ水戸藩尊攘派の天狗党が渡河してきた。すでに岡部陣屋では天狗党の乗り出しを察し、11日から国家老・朝倉只之進が在陣屋の藩士数十名に人足二百名、さらに大砲二門を率いて下手計村妙光寺深谷市下手計)に本陣を構えて布陣していた。そのため、天狗党の一隊が進軍して来た際にも夜討ちを仕掛けて撃退、翌14日の戦闘にも勝利し、天狗党士の佐藤長次郎を捕縛、井田某(騎乗士。井田平三郎の一族か)と関口某を討ち取っている(齊藤伊勢松『岡部藩始末』)

 この天狗党の報は江戸藩邸に「浮浪之脱走賊徒屯集」として伝えられている。この行軍に又右衛門はまだ参加しておらず、17日、武装して藩邸御書院で藩公・信宝に面会、忠勤を励むよう指示され、江戸を出陣。19日八ツ時、岡部へ着陣したが、すでに戦いは終った後だった。以降、又右衛門は岡部へ留まるよう命じられ、12月14日、石川清兵衛とともに「諸軍申合取締方」を家老・朝倉只之進を通じて命じられた。そして12月17日早朝、捕らえていた天狗党の佐藤長次郎の処刑が行なわれた際には、若林正作、春名三太夫、望月次郎左衛門、井上八十八とともに検視人の一人として列した。12月28日には藩公・信宝の剣術の相手を務めている(『藩士譜』)

 慶応元(1865)年5月15日、石川清兵衛を通じて江戸へ戻るよう達しが下され、武器類等を同勤の坂本嘉平治へ引渡すと、5月18日、岡部を出立して翌19日に江戸藩邸に帰着。数日の休息ののち23日に番入した(『藩士譜』)

 7月15日、御書院において藩公・信宝より岡部表での御領中見廻や、諸事取扱についての精勤を賞され、金三百疋を賜った。また剣術教授方の勤めについても労わりの言葉をかけられ、さらに褒美として金三百疋を下賜される(『藩士譜』)

 12月28日、信宝の出征中に御屋敷内外火之廻を勤め上げたことと、訓練世話方の任の褒賞として御酒を頂戴した(『藩士譜』)

■三河国八名郡半原村へ移住

 慶応4(1868)年2月16日、藩公・安部摂津守信発は尾張国名古屋で官軍の東海道先鋒総督・橋本実梁のもとに出頭し、「勤王証書」を提出して恭順の意向を示すとともに、3月17日、上洛して参内し、尊王の意思を顕わした。また、3月29日、岡部表の石高が僅少のため、藩庁を藩領の三河国八名郡半原村(新城市富岡)へ移す願書を弁事御役所へ提出。4月3日にこれが認められ、藩庁を移転。これに合わせて『家中分限帳』が作られ、又右衛門は「御給人御近習」として「高十人口」と記載されている。

 4月4日、信発は総督・橋本実梁、副総督・柳原前光より川崎屯営斥侯巡邏関門守衛を命じられて出立している(『藩士譜』)

 明治3(1870)年12月の分限帳では、「高五石弐人口」御中小性席「塚越鉾五郎」の名が見えるが、「鉾五郎」は又右衛門の初名と同じであることから、又右衛門の嫡男・塚越成男に当たるか(『岡部藩始末』

 明治4(1871)年7月の分限帳によれば、「塚越又右衛門」は半原縣の貫属で非役、禄は「高五石壱斗一升八夕八才」とされている。この分限帳には「塚越鉾五郎」の名がないため、すでに鉾五郎が塚越家を継いで又右衛門を称していたのかもしれない。

 その翌明治5(1872)年7月13日、又右衛門成直五十四歳で亡くなった。法名不明。

 家督を継いだ長男・塚越成男は明治14(1881)年に亡くなり、三男・塚越三治が家督を継いだ。三治は「東京府神田区猿楽町弐丁目壱番地 東京府士族」として見え(『岡部藩始末』)、再従兄弟の千葉勝太郎(千葉勝胤)とともに、祖父・千葉周作やその父・千葉忠左衛門についてルーツを探すため、陸奥国荒谷村の千葉周作(荒谷村千葉周作)の子孫に手紙を送り、調査を行なっている(佐藤訓雄『剣豪千葉周作』)

【塚越家親類 倉光家】

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倉光継之進(1825-????)

 岡部藩士。通称は鐉次郎、のち継之進。諱は義成のち継胤(さらに義成に戻したか)。実父は塚越又右衛門成道。養父は倉光十郎左衛門義勝(『藩士譜』)

 倉光家は天正年中より安部家に仕えている譜代家臣で、倉光勘解由は藩祖・安部摂津守信盛の家老職となり、二百石の知行を与えられた(『藩士譜』)。三代目の倉光勘解由までは御用人を勤めるが、勘解由に子がなかったようで、正徳3(1713)年、松坂城番組同心・加藤与右衛門尚之の三男・加藤源蔵を養子に迎えている。享保6(1721)年、源蔵は倉光家を相続して倉光十郎左衛門義方と名乗った(鈴木淳『牧家所蔵加藤枝直関係資料の紹介』国文学研究資料館紀要(22)1996、桜井祐吉『松坂権輿雑集』三重県史談会1919)。国学者・加藤千蔭の伯父にあたる。

倉光勘解由―十郎左衛門―勘解由==十郎左衛門―十郎左衛門==平助==十郎左衛門==継之進――――鐉次郎
                (義方)         (義隆)(義路、義勝)(義成、継胤)(光胤)

 継之進は天保12(1841)年3月21日、はじめて藩侯・安部摂津守信古に御目見えし、養父の倉光十郎左衛門義勝の家督を継ぎ、高五十石三人口「大小姓」として召し出され、養父・十郎左衛門は隠居料として扶持三人口が下された。この年の正月11日には、兄の塚越鉾五郎成直も大小姓となっており、兄弟ともに同役として勤めたことがうかがえる。そして天保15(1844)年正月28日、御納戸勤を命じられる。しかし、その後何らかの事由により、岡部藩を退転している(『藩士譜』)

 文久2(1862)年12月28日、高十人口大小姓として帰参し、その後は道中守護や江戸での勤務、岡部領中の見回り等を滞りなく勤め、元治元(1864)年5月28日には岡部陣屋周辺に出没した浮浪の群集の警衛のために出役、11月の「賊徒追討」でも武勇を顕している(『藩士譜』)。この「賊徒」とは水戸藩尊攘派・天狗党の一派で、11月13日、岡部陣屋に程近い中瀬村(深谷市中瀬)へ渡河してきた。

 岡部陣屋側ではすでに天狗党の乗り出しを察して、11日から国家老・朝倉只之進が在陣屋の藩士数十名、人足二百名、大砲二門を率いて下手計村妙光寺深谷市下手計)に本陣を構えて布陣。13日には天狗党の一隊を夜討で撃退し、翌14日の戦いに勝利して天狗党士の佐藤長次郎を捕縛、井田某(騎乗士。井田平三郎の一族か)と関口某を討ち取った(齊藤伊勢松『岡部藩始末』)。おそらく、継之進はこの戦いに参戦したと思われる。

 一方、兄の又右衛門は江戸在勤だったことから参加しておらず、岡部からの一報を受けて17日に武装のまま藩邸御書院で藩侯信宝に面会。又右衛門はそのまま江戸を出陣して19日八ツ時(午後3時前後)に岡部へ着陣したが、すでに戦いは終った後だった。これ以降、又右衛門は岡部へ留まるよう命じられており(『藩士譜』)、兄弟ともに岡部在陣となった。翌20日、江戸表の藩侯信宝より、継之進に武勇顕著の御褒詞が届けられた(『藩士譜』)

 翌元治2(1863)年正月15日、御給人を仰せ付けられる(『藩士譜』)

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倉光鐉次郎(1850-????)

 岡部藩士。通称は鐉次郎。諱は光胤。父は倉光継之進義成(『藩士譜』)

 慶応元(1865)年7月7日、十六歳で藩侯・安部摂津守信発に初めて御目見えを果たし、中小姓を仰せ付けられ、さらに剣道修行を命じられる(『藩士譜』)

 祖父の塚越成道は藩剣術教授方(小野派一刀流?)、大叔父の千葉周作(北辰一刀流)や千葉定吉(北辰一刀流)、伯父・塚越成直(北辰一刀流)は江戸に道場を持ち、父・倉光継之進(北辰一刀流?)も藩校で剣術教授方を勤める生粋の剣術一族であり、鐉次郎も藩校での剣術教授方を担う宿命を背負っていたものと思われる(『藩士譜』)。 剣術修行は、親類である千葉家または塚越家の北辰一刀流道場へ出向したものと思われる。


●ありがとうございました

 あさくらゆう様(『千葉の名灸』『鳥取藩政史料』等のご教授ならびに助言をいただきました)

●参考文献

・青木源内「浅利又七郎と千葉周作」(『松戸史談14』松戸史談会)
・あさくらゆう「北辰一刀流千葉家を語る」(『茨城史林35』筑波書林2011)
・あさくらゆう「千葉さなが眠る八柱霊園へ~ご子孫とともに」(『足立史談523』足立区教育委員会2011)
・あさくらゆう「千葉さなと関わった方たち」(『足立史談518』足立区教育委員会2011)
・あさくらゆう「坂本龍馬との恋を目撃した男」(『足立史談518』足立区教育委員会2011)
・あさくらゆう「千葉さなについて(後編)」(『足立史談514』足立区教育委員会2010)
・あさくらゆう「生涯独身の偶像(前編)」(『足立史談512』足立区教育委員会2010)
・あさくらゆう「千葉さなの宅を訪れた根本金太郎」(『足立史談510』足立区教育委員会2010)
・あさくらゆう「千葉さなについて~千葉定吉家にまつわる誤伝について」(『足立史談508』足立区教育委員会2010)
・あさくらゆう「千葉さなについて」(『足立史談506』足立区教育委員会2010)
・稲本雨休「千葉周作弟子三千人の由来」(『松戸史談6』松戸史談会)
・小山松勝一郎『清河八郎』:附録「玄武館出席大概」(新人物往来社1974)
・島津兼治「古流武術見てある記」(『月刊秘伝』1994~5 BABジャパン)
・齊藤伊勢松『岡部藩始末』(1997)
・佐藤訓雄『剣豪千葉周作』―生誕地の謎を明かす―(宝文堂1991)
・末満宗治「千葉周作父子江戸への道行」(『松戸史談47』松戸史談会)
・高森智子「千葉一族の羽衣伝承-地方武家による自家高揚伝承の試み-」(『千葉大学日本文化論叢5』千葉大学文学部日本文化学会2004)
・千葉栄一郎『千葉周作遺稿』(桜華社1942)
・千葉勝太郎『剣法秘訣』(1915)
・辻淳「千葉周作研究文献と松戸宿小森家の謎」(『松戸史談48』松戸史談会)
・辻淳「松戸宿小森家の謎 庄蔵のその後(一)」(『松戸史談49』松戸史談会)
・辻淳「松戸宿小森家の謎 庄蔵のその後(二)」(『松戸史談50』松戸史談会)
・土居晴夫「坂本龍馬と「北辰一刀流長刀兵法目録」」(『土佐史談170』)
・松岡司「初見の坂本龍馬書状と北辰一刀流長刀兵法目録」(『日本歴史』45)
・西内康浩 『龍馬の剣の師千葉定吉・僚友千葉重太郎の墓確認に寄せて』(『土佐史談170』)
・水口民次郎 『丹波山國隊史』
・宮川禎一 『山国隊と千葉重太郎』(『歴史読本』54)
・渡辺一郎『史料 明治武道史』(新人物往来社1971)
・『一刀流関係史料』(筑波大学武道文化研究会1993)
・『衆臣家譜』(相馬市史資料集特別編)
・『東藩史稿』(宝文堂出版1976:原本は作並清亮著1915)
・『仙台藩家臣録』(歴史図書社)
・『豊岡村誌』(豊岡村誌編纂委員会1963)
・『陸前高田市史』
・『松戸市史』
・「千葉の名灸」(横浜毎日新聞連載1903)
・「北辰一刀流十二個条訳」(冑山文庫・国立国会図書館蔵)
・「北辰一刀流剣法全書」(冑山文庫・国立国会図書館蔵)
・「千葉家系図」(財団法人水府明徳会彰考館文庫『水府系纂』茨城県立歴史館複製所蔵)
・「千葉定吉身上書」(『藩政資料』鳥取県立博物館所蔵)
・「耕雲録」(山路愛山編『清河八郎遺著』 民友社 1913)
・「岡部藩主安倍家関係文書」(埼玉県立文書館)
・ 『千葉一胤家譜』(鳥取県立博物館所収「鳥取藩政資料」)
・ 『千葉重太郎一胤略伝』(鳥取県立博物館所収「鳥取藩政資料」)
・ 『組帳』(鳥取県立博物館所収「鳥取藩政資料」)
・ 『藤岡屋日記 近世庶民生活史料』(鈴木棠三、小池章太郎編 三一書房)
・ 『各地地主名鑑』(国立公文書館)
・ 『東京地主案内 区分町鑑』(国立公文書館)
・ 『東京地主細覧』(国立公文書館)
・勝海舟 『海舟日記』(東京都江戸東京博物館都市歴史研究室編)
・中根雪江 『続再夢紀事』(日本史籍協会編 東京大学出版会)
・ 『水戸藤田家旧蔵書類』(日本史籍協会編 日本史籍協会1934)
・ 『明治五年六月官員全書改』(国立公文書館)
・ 『開拓使日誌 地』(『新北海道史 史料編1』1969)
・ 『職員録 明治十四年』(国立公文書館)
・ 『職員録 明治十五年』(国立公文書館)
・ 『職員録 明治十七年』(国立公文書館)
・ 『東京市及接続部地籍地図』(国立公文書館)
・ 『東京市及接続部地籍台帳』(国立公文書館)
・ 『地所分割買上に付地券書換願』(国立公文書館)
・ 『千葉の名灸』(横浜毎日新聞1903)
・ 『御達留』(鳥取県立博物館所収「鳥取藩政資料」)
・北垣国道 『北垣国道日記 塵海』(塵海研究会編 思文閣出版2010)
・藤野斎 『征東日誌 丹波山国農兵隊日誌』 (仲村研、宇佐美英機編 国書刊行会1980)
・ 『贈従一位池田慶徳公御伝記』(鳥取県立博物館所収「鳥取藩政資料」)
・原邦造 『原六郎翁伝』(板沢武雄、 米林富男共編1937)


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