千葉周作

北辰一刀流千葉家
 

 江戸時代末期、江戸三大道場の一家に数えられた玄武館は、陸奥国本吉郡気仙沼村出身の千葉一族・千葉周作成政を創始者とする北辰一刀流の道場である。

 北辰一刀流とは、千葉家家伝の「北辰流」と周作自身が修業した「一刀流」の合法剣法であり、通説となっている「北辰夢想流」と「一刀流」の合法剣法ではない。また、北辰一刀流と「妙見信仰」をつなぐものも存在しない(周作個人は妙見を守本尊としていた可能性はある)。

 しかし、千葉周作自身の出自については、周作自身が語らなかったこともあり、様々な説がある。これを総合的かつ詳細に検証した佐藤訓雄氏『剣豪千葉周作』(宝文堂)によって、周作にまつわる「謎」が比較検討され、長年疑問が呈されていた出生地や父親の謎に革新的な進展が見られた。さらに、各地に残る千葉周作の出自・伝承を調査した島津兼治氏宮川禎一氏の研究によってさらなる発展があった。

 そして、最近では原典に当たって歴史の掘り起こしをされている研究家あさくらゆう氏によって、周作の出生地が気仙沼市であることやその後の足取り、千葉定吉一族の幕末・明治以降の動向までほぼ明らかにされている。このページでは、先学諸先生の研究を含め、その他の史料もあわせて検証する。

●北辰一刀流千葉周作家(想像略譜)

               +=千葉周作   +―塚越成道―+―塚越成直――+―塚越成男
               |(荒谷村千葉家)|(又右衛門)|(又右衛門) |(鉾五郎?)
               |        |      |       |
               |        |      |       +―塚越至
               |        |      |       |
               |        |      |       |
               |        |      |       +―塚越三治
               |        |      |
               |        |      +―倉光継胤――――倉光光胤
               |        |       (継之進)   (鐉次郎)
               |        |
               |        |【北辰一刀流】
 千葉常成=?=千葉成勝―――+?=千葉成胤――+―千葉成政―+―千葉孝胤――――千葉一弥太
(吉之丞)  (幸右衛門)    (忠左衛門) |(周作)  |(奇蘇太郎)
                        |      |
                        |      +―きん    +―千葉之胤―――千葉栄一郎
                        |      |(嫁芦田氏) |(周之介)
                        |      |       |
                        |      +―千葉成之――+―千葉鉄之助
                        |      |(栄次郎)   
                        |      |
                        |      +―千葉光胤――+―千葉勝太郎―――千葉和
                        |      |(道三郎)  |
                        |      |       |
                        |      +―千葉政胤  +―千葉次彦
                        |       (多門四郎)
                        |
                        +―千葉政道―+―千葉一胤――+―繁
                         (定吉)  |(重太郎)  | ∥
                               |       | ∥
                               +―梅尾    +=千葉束
                               |       |(喜多六蔵二男)
                               |       |
                               +―さな    +―寅
                               | ∥     | ∥
                               | ∥     | ∥
                               | 山口菊次郎 +=千葉清光
                               |       |(東一郎)
                               |       |
                               +―りき    +―震(しの)
                               | ∥     | ∥
                               | ∥     | ∥
                               | 清水小十郎 | 江都一郎
                               |       |
                               +―きく    +―千葉正
                               | ∥
                               | ∥
                               | 岩本惣兵衛
                               |(大伝馬町旅店)
                               |
                               +―はま
                                 ∥
                                 ∥
                                 熊木庄之助

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千葉周作(1793-1855)

 千葉一族。千葉忠左衛門成胤の二男(『東藩史稿』『水府系纂』)。母は不明。諱は成政。幼名は於菟松、寅松。通称は富、又一郎(『小浜藩由緒書』)、周作、観(『東藩史稿』)。号は屠龍。兄は塚越又右衛門成道、弟は千葉定吉政道北辰一刀流の開祖である。身の丈六尺近く、風采は堂々とし、膂力も並外れており、厚さ六寸の碁盤を片手に持って五十目掛蝋燭を煽ぎ消したという(『千葉周作遺稿剣法秘訣』)

 寛政5(1793)年に誕生する。周作の生誕の地として、以下の三箇所が論争を繰り広げ、これまで確実な定説はなかった。代表的なものは以下の三つで、それぞれが証拠立てて周作との所縁を主張している(佐藤訓雄『剣豪 千葉周作』宝文館)

 ①陸奥国気仙郡今泉村(陸前高田市気仙町中井
 ②陸奥国栗原郡荒谷村(大崎市古川荒谷
 ③陸奥国栗原郡花山村荒谷(栗原市花山

 しかし、それぞれの主張する説にも疑問点が多く、結論を出すことができていなかった。結果、周作の孫である千葉勝太郎が編著の『千葉周作遺稿剣法秘訣』に記され、さらに祖父とされた千葉吉之丞の墓が残り、系譜も存在するという「栗原市(花山説)」が生誕地とされ、長い間信じられてきた。

 ところが、この花山説は近年、千葉周作研究家である佐藤訓雄氏によって、決定的な誤りが指摘された。それはまず『剣法秘訣』には重大な誤認、誤記が存在し、取材時の原本(未刊)の『千葉屠龍先生遺稿』には取材時の矛盾点などが克明に記されつつも、刊行有りきの中で辻褄合わせのために、取材の一端は抹殺、改変されている事実が発見された。そして、花山村説の根拠であった千葉吉之丞の墓は捏造の墓石、さらに系譜も手が加えられた贋物だったことが判明する(『剣豪 千葉周作』)。結果、③花山村説は誤りであって、『剣法秘訣』にあわせて作成されたものであると判明した。

 また、②「大崎市(荒谷説)」についても生い立ちの地であるとされ、結論として①「陸前高田市(気仙説)」が妥当であるとされた(『剣豪 千葉周作』)

 しかし近年、歴史研究家あさくらゆう氏の調査により鳥取県が保管する鳥取藩政資料の中から、周作の弟・千葉定吉(鳥取藩士)が鳥取藩に仕官した際に藩庁へ提出した嘉永6(1853)年3月13日付の「履歴書」(『千葉定吉身上書』)が発見され、そこに「生国 陸奥気仙郡気仙沼村」の記述が確認された。「気仙沼村」は現在の気仙沼市中心部一体で、江戸時代には仙台藩領本吉郡気仙沼本郷という行政区域の中にあった村である。なお、気仙沼村は「気仙郡」ではなく「本吉郡」であるが、「気仙」を村名に冠する村は当時にあっては気仙沼村のみであること、仙台藩の気仙代官所(気仙郡今泉村)は気仙郡今泉村から本吉郡気仙沼村まで郡境を超えて管轄していたことなどから、定吉の記憶(認識)違いから生じた誤記である可能性が高いだろう。兄の塚越又右衛門も「奥州気仙千葉の男」と自ら称しており、又右衛門と定吉の間に挟まれた周作もおそらく本吉郡気仙沼村(気仙沼市)出身であったと推測される。少なくとも栗原郡ではない。

(一)気仙沼村から荒谷村へ

 周作の父・千葉忠左衛門成胤は、何らかの理由で気仙沼を離れて栗原郡荒谷村(大崎市古川荒谷)へ赴いている。もともと「南部藩ノ医師」(『東藩史稿』)だったとされる忠左衛門は、「故アリ亡命シテ荒谷ニ来リ居ル」(『東藩史稿』)とのみ見える。

 忠左衛門はある時期、気仙沼村を離れて荒谷村(大崎市古川荒谷)を訪れた。その時期については、「周作が四、五歳の頃、父忠左衛門に手を引かれて、荒谷村にやってきた」という口碑が旧荒谷村に遺されており(『剣豪 千葉周作』)、事実とすれば寛政9(1797)年頃ということになる。気仙沼を遠く離れて栗原郡荒谷村へ赴いた理由は定かではなく、史書に拠れば「南部藩ノ医師」(『東藩史稿』)だった忠左衛門は「故アリ亡命シテ荒谷ニ来リ居ル」(『東藩史稿』)とのみ見える。

 この頃、気仙沼では天明の大飢饉や大火などの自然災害が相次いでおり(『気仙沼市史 Ⅲ』)、こうした災害がもとで忠左衛門は気仙沼を離れたのかもしれない。佐藤訓雄氏は(1)災害と飢饉、(2)貧困、(3)亡命者としての身上の安全ならびに自由な天地への憧憬を挙げられているが(『剣豪 千葉周作』)、(1)と(2)が妥当だろう。

 ただ、寛政9(1797)年は三男・千葉定吉が気仙沼村で誕生した年であり、忠左衛門はまだ生まれて間もない乳飲み子を連れて気仙沼から荒谷へ旅したことになる。この旅に妻が同行した伝はなく、想像ではあるが周作らの母親は定吉を生んだ直後に亡くなったのだろう。これも忠左衛門が気仙沼を離れる一因になった可能性もあろう。

 忠左衛門は荒谷村に滞在中、同姓の千葉幸右衛門(北辰夢想流目録者)のもとを訪れている。これは幸右衛門の子孫にあたる千葉周吉が、千葉周作の孫・勝太郎らと手紙のやり取りをして、「旧誼を温」めたい旨が記されていることからも想像できる。また、忠左衛門「北辰夢相流(ママ)を江戸で教えたともされ(『東藩史稿』)幸右衛門から北辰夢想流の手ほどきを受けた可能性がある。

 忠左衛門が荒谷村を訪れた理由も定かではないが、荒谷は奥州街道(松前道)の宿場町・荒谷宿であり、忠左衛門目的地の江戸へ出る道中に立ち寄った荒谷宿の庄屋が、家伝の「北辰流」と響きの似た剣術をもつ千葉家であること、幼子とくに定吉を連れての旅の危険性などの理由があって、幸右衛門のもとにしばらく生活することになったのだろう。荒谷村を目的に旅に出たわけではないだろう。

千葉忠左衛門の足取
千葉忠左衛門の気仙沼村からのルート(推測)

 また、幸右衛門には周作(当時の周作はまだ富、寅松などと名乗っていたと思われる)と同名の「周作」という養子がいた。この荒谷村「周作」は周作よりも十歳年上で当時は十四、五歳であり、彼が周作の世話・剣術の指導などを行ったのかもしれない。周作がのちに「周作」を名乗ったのは、あさくらゆう氏の指摘にあるが、荒谷村「千葉周作」の憧憬から称したものという説が妥当と思われる。この荒谷村周作も兵法家であり、北辰一刀流千葉周作の伝が載る『千葉周作遺稿剣法秘訣』に見られる「木刀ニテ飛箭ヲ打落」した伝は、荒谷村周作の伝である可能性が高い(『秘伝』「古流武術見てある記」島津兼治氏)

荒谷斗螢稲荷神社
旧荒谷村斗螢稲荷(周作所縁の碑)

 そして、周作が忠左衛門に連れられて荒谷村を出たのは、弟の定吉が「弐歳」のとき、つまり寛政10(1798)年であった(『千葉定吉身上書』)。わずか1年に満たない滞在であり、ここからも目的地が藁谷ではなかったことがうかがわれる。しかし、この荒谷村での短い生活は幼い周作にとっては生涯忘れることのできない思い出となり、彼にとってのルーツとなる

 なお、忠左衛門一行が荒谷村を出たのは、これまでは「観年十五」(『東藩史稿』)の年、つまり周作が十五歳になった文化4(1807)年とされていたが、実は「観年十五」の年は、『東藩史稿』における浅利又七郎門下に加わった年なのであって、荒谷村を出た年ではない。

 荒谷村を発った父・忠左衛門「浦山寿貞」という医者に改め、又右衛門、周作、定吉らとともに奥州街道、日光街道を経て、同年中に「御当地(江戸)」(『千葉定吉身上書』)に入った。

(ニ)江戸での周作

 寛政10(1798)年に江戸に入った父・忠左衛門(浦山寿貞)の所在地は不明だが、当時の江戸には「八丁堀の七不思議」のひとつとして「儒者、医者、犬の糞」というものがあった。奉行所与力の配下である同心の八丁堀拝領屋敷を浪人儒者や医者、剣術家に貸して賃料をもらっていたという事実を揶揄したもので、忠左衛門(浦山寿貞)もこうした浪人医師(剣術家)の一人だったのかもしれない。「江戸ニ出」忠左衛門「医ヲ以テ業トシ、又旁ヲ撃剣ヲ以テ教授ス、北辰無双流ト云フ」(『東藩史稿』)とあって、忠左衛門は医業を主な生業としながらも、副業的に荒谷で得た北辰夢想流を教えて生計を立てたとされる。

 寛政10(1798)年当時、周作はわずかに六歳だったが、おそらく荒谷村千葉周作や父・忠左衛門から剣術の手ほどきを受けていたと思われる。その後、周作は小野派一刀流の浅利又七郎義信の門下となった。浅利又七郎「小野派一刀流ノ達人ニシテ、聲名都下ニ鳴ル」という江戸でも有名な剣術家であった。周作がその門下に加わった時期については定かではないが、「観年十五」(『東藩史稿』)の年、つまり周作が十五歳になった文化4(1807)年とされる。

練塀小路
中西道場跡

 しかし、浅利又七郎は周作の「非凡ナルヲ愛シ」て、自分の師である中津藩士・中西猪太郎(中西忠太子啓)に周作を紹介したとある(『東藩史稿』)。中西猪太郎の道場は下谷練塀小路台東区上野五丁目)にあり、名剣士が在籍する有名な道場であった。ところが、この中西忠太子啓は享和元(1801)年に病死しており、周作が浅利又七郎の紹介で中西道場に通うようになったのは、これ以前のこととなる。周作はのちに忠太門人の白井亨義謙を「同門」としていることから忠太門下だったことは間違いないだろう。このことから、周作が浅利又七郎の門下となったのは、文化4(1807)年ではなく寛政10(1798)年から享和元(1801)年までの間で、中西道場で修行することになった当時の年齢は七、八歳であったと思われる。

 忠太の跡は子息の中西忠兵衛(子正)が継承するが、周作は実質的には、忠兵衛のもとで修行を重ねたことになる。

●一刀流相伝系図(一刀流中西家)

小野忠明-小野忠常―小野忠於-小野忠一―中西子定―中西子武―中西子啓――――中西子正
                   (忠太) (忠蔵) (猪太郎・忠太)(忠兵衛)

 中西道場には寺田五郎右衛門白井亨高柳又四郎といった技量を持った剣士が在籍しており、彼らとの修行に明け暮れることになる。とくに、高柳又四郎は相手の竹刀が触れないうちに勝負に勝つところから「音無の構え」とされるほどの剣士だったが、周作は彼との試合の中で、後足を踏み込む際に道場の床板を踏み破るほどの気迫を見せ、中西忠兵衛はこの床板を切り取って飾り、手本としたという。

喜多村邸 
喜多村孫之丞邸跡

 文化12(1815)年12月25日、師で義理の叔父・浅利又七郎が旗本「喜多村山城守様」の伝手で小浜藩に「剣術師範役」「御馬廻格」で召し出された(『由緒書』小浜市立図書館蔵「酒井家文書」)

 浅利又七郎は後年「是迄喜多村大之丞様御屋敷ニ住居」としていることから、喜多村家の屋敷(神田錦町2丁目)内に剣術指南として喜多村家に寄宿していたと思われる。周作は若き日に喜多村山城守に仕えたという伝が残るが、周作が喜多村家に仕官した明確な記録は遺されておらず、喜多村邸に住んでいた師の浅利又七郎のもとに通ったことからの伝承かもしれない。

(三)文政年中の諸国修行

 文政3(1820)年、周作は「孤剣飄然として両毛の地に遊び、尋で甲武駿遠参信の諸州を歴巡」したという(『剣法秘訣』)。そして、諸州を修行し、木曽路から上州へ戻り、伊香保の宿主・木暮某(伊香保の大屋で「子」湯の主・木暮武太夫)の宿に宿泊した。

◆文政3~6年にかけての千葉周作の動向(『剣術物語』より)

文政3(1820)年頃:諸国修行(信濃国善光寺→川中島)
文政4(1821)年末:信濃国(木曽路)→上野国(伊香保<木暮武太夫>)→所用で江戸へ帰参
文政5(1822)年閏正月中旬:江戸出立→武蔵国(本庄)
           2月6日:武蔵国(本庄)→上野国(高崎<小泉某>)
           2月中旬:上野国(高崎)→上野国(宮崎<山口藤十郎>)
           2月下旬:上野国(宮崎)→武蔵国(本庄<木村政右衛門>)
           3月初旬:本庄在の木村氏へ書状(3月6日)→江戸へ向かうが、図らずも本庄宿に留められる
           8月上旬:武蔵国(本庄)→信濃国(高遠)→<木曽路>→三河国(御油:<竹内某>)
           9月下旬:三河国(竹内邸止宿)→…→江戸か
           10~12月:日本橋品川町に道場を開く?
文政6(1823)年正月下旬:江戸?→武蔵国(熊谷:<石丸某>)→秋山某の弟子多数が石丸邸に押し寄せる
                  →武蔵国(寄井村<某:剣者の一族>)
           2月中~4月:上野国(高崎<小泉某>)
                  →上野国(引間村<佐鳥浦八郎>:伊香保掲額事件)→江戸

  周作が木暮武太夫の宿に宿泊した時期については、はっきり記載されていないが、周作が「諸州を修行せし日記の中より抄記」した『剣術物語』 によれば、「諸州を修行して、木曽路より上州に入り、伊香保の木暮某方に滞留すること数日に及ぶ」とあり、文政4(1821)年末ごろと思われる(『剣術物語』)

 ここで、木暮武太夫は周作に念流の仕手を見せている。そして木暮武太夫から高崎の小泉某という「力量衆に勝れしもの」の話を聞く。小泉の怪力は、油樽二つを軽々と左右の手に捧げるほどで、しかも剣術の業も優れ、当国第一の念流の立者という。余談だが、この「小泉某」については、諸書あたるも同定される人物が見つからない。

 周作は小泉と会ってみたいとの気持ちを覚えたが、「所用あつて江府に帰」ることとなり、江戸で小泉の怪力などを知る辺に物語っている。そして「急用の為めに帰りて、小泉を尋ね得ざりしを本意なく思ひ居りし」とき、たまたま上州近郷出身の吉田川という力士が周作を訪ねてきた。彼なら小泉某を知っているだろうと聞いてみると、「此れこそ上州一の聞こえある勇夫にて候、小奴などは前々より世話を請けたる人」であるという。周作は早速翌日に、吉田川を案内人として上州高崎へ向けて江戸を出立した。文政5(1822)年閏正月中旬のことだった。

 周作は剣名高い小泉と周作が勝負をした場合、たちまち人の噂となってしまうことを恐れ、吉田川に「別に道具などは用意せずして唯力量のみこそ試みたけれ、彼も力士を表にする者にあらず、余も亦た力者にあらねば、勝負は何れに在りとも恥にあらず」と語ると、側にいた四方田某も「これこそ面白き思ひ立ちにて候へ、拙者も案内仕らん」と答えた(『剣術物語』)

 2月6日、周作は本庄を出立して夕刻、高崎の小泉の屋敷を訪ねた。周作は小泉某に「偏に御辺の怪力を試みんと存ずるが為めなり、勝負は何れに在りても恥とするに足らず、明朝角力にて力量の程を見せ玉へ」と約して、小泉の屋敷に止宿した(『剣術物語』)

 翌7日、小泉は「是非共剣術こそ願はしけれ」と剣術の試合を望んだ。周作は「其は易きことなれども、後々まで人口にかからんも宜しからず」と説得するも「先ず剣術を試みたる上にて、力量を試み玉へ」と引かない。やむなく周作は小泉と立ち合うが、周作は彼との立合いで冷静に「其術尚不足の所あり」と分析、小泉が仕掛ける組打ちなど様々な業をことごとく破る。すると小泉は感服し、弟子入りをひたすらに頼み込んだ。

 周作は「御辺は高名の人なるに、今若し余に随身ならば、必ず師家の恨みあるべし、敗れて随ふは故実なれども、今は修行の助けと号して多く随はず、余も恨みを設けて何かはせん、随身誓約の所存のみは止め玉へ、後日懇縁あらば。其熱心に愛でゝ、剣法の示談だけは致すべし」と断るが、小泉はなおもひかず、「然らば師家へ断りて後、改めてお願ひ申すべし」と、馬庭念流の目代に対し、改流修行の断りを入れてしまう。周作は「今は彼の身も立ち難かるべし」とついに門下とする。このとき、力士の吉田川も力士を廃業して弟子となった(『剣術物語』)

 そして2月中旬、「一の宮の辺」に住む「山口某」から招きを受け、小泉、吉田川を案内役として、高崎を出立する(『剣術物語』)。この「山口某」とは馬庭念流目代で、一ノ宮に道場を開いていた山口藤十郎勝則と推測される(諸田政治『上毛剣術史 下』煥乎堂 1991)。2月に周作は高崎で演武を行ったようで、これを見学した山口藤十郎は感動し、さっそく高崎の周作のもとに招聘の使いを送ったようである。周作は滞在四、五日の間に山口藤十郎の弟子たちに稽古を付けつつ、山口にも竹刀剣術の妙を教授している。後日、山口藤十郎は一ノ宮貫前神社に試合を奉納し掲額しようと試みて馬庭念流から破門され、周作の影響を受けた「学心流」という一刀流系の新派を開いた(『本庄市史』『上毛剣術史 下』)

 その後、おそらく小泉と別れて本庄へ戻った周作は、「此地の辺に木村某と言ふ剣者あり、余を慕ふこと甚だ切なり」という人物のもとを訪れ、稽古を兼ねて物語している(『剣術物語』)。この「木村某」とは本庄の西三キロほどの賀美郡七本木村(高崎市上里町)の真之真石川流木村源蔵迩豊(木村政右衛門)のことと思われる。また、おそらく同道場で周作と談じた「四方田氏も修行の熱心浅からず」とあり(『剣術物語』)、彼は木村源蔵の門弟・四方田幸作義次であろう(『本庄市史』)。彼は東富田村(本庄市東富田)の人で、真之真石川流の免状を天保5(1834)年に伝授されている。彼の門弟には、伊香保宿の木暮金太夫真善、木暮八左衛門元宝、岸又左衛門重則、岸六左衛門安治などがいた(『本庄市史』)

 また、8月~9月にかけて三河国御油竹内某のもとに逗留しているが、吉田辺の相撲興行で大関を破った力士と相撲して勝利し、相撲の型やまわしの取り方などを教授するという畑違いのことも行ったようだ。

 その後、おそらくいったん江戸へ戻ったのち、文政6(1823)年正月下旬にふたたび上州へ向かっている。伝に拠れば文政5(1822)年中、周作は日本橋品川町「北辰一刀流」の道場を開いたとされており、この伝が正しいとすれば周作が江戸にいた可能性がある10月から12月までの2か月の間となる。

 上州へ向かう途中、武蔵国熊谷で知己の老剣士・石丸某のもとに立ち寄ったが、ここで、周作は石丸から奇妙な話を聞く。石丸翁は「先生去年参州に於て秋山某と対顔ありしと承はる、左様の事候ひしか」と問うが、周作には心当たりがなく「余如何にも参州に在りし時、彼れの彼の地に居りしと言ふこと聞き及びしも、曾て彼れに出会せしことなし」と答えた。秋山某は三河国で周作と十本勝負をし、七分三分で勝利したと触れ回っているという。周作は大笑いし、「兎にも角にも彼れと出会せしことなきには、皆人の知る所、彼是争ふも益なし」と取り合わなかったが、これを傍で聞いていた人々が「彼れは奇怪の偽を申すものかな」と憤慨したようである(『剣術物語』)

 すると、翌日にはすでに秋山某の弟子たちの耳に入ったか、熊谷周辺で真剣勝負の支度をした人々が見られたという。さらに翌日には熊谷宿に大勢の者が集まり出していることを、忍藩士森本某の遣いの者が伝えてきた。そして秋山某の弟子たちは、石丸某の屋敷に大挙して訪れ、周作との立合を願ってきた。これを受けて周作は「苦しからず、余これへ通すべし、我れ自から対面せん」と彼らに言ったところ、彼らは「イヤ対面には及ばず、且つ立会も今日には限らず、明日にても此儀承引あるや否や承はりたし」と逃げ腰となる。

 周作は、彼らが大挙して脅せば周作は必ず立合わないと踏んで石丸邸に押し寄せたものの、案に違い周作が立合うと言ったことで、秋山門人たちが混乱したのだろうと推測している。さらに「我師秋山は所用ありて参らず」と言っており、秋山某はこの中にいないこともわかる。結局、秋山門弟の一人を無理に立ち合わせて散々に打ち、彼らは挨拶もそこそこに石丸邸を退いて行った(『剣術物語』)

 ところが、彼らは石丸邸から十丁余りのところに屯し、「今宵夜討を掛くべし」と犇めいたため、村長は驚き、「秋山の振舞只事にあらず、此の上は村中へ触れ示し人数を集めて防ぎ申さん」と周作へ伝えてきたため、周作は「余に所存こそあれ」とこれを制止して酒宴に及んだ。すると、秋山門人たちは夜討を行うことなく引き揚げて行ったという。周作は「左もあらん」と当然のように、「若し余が夜分にも出立しなば、『千葉こそ夜逃げしけれ』と言い触らさん企みなり」と述べている(『剣術物語』)

 この「秋山某」とは、熊谷宿の隣、箱田村に扶桑無念流道場・扶桑館を構える秋山要助正武と思われる(渡辺一郎『幕末関東剣術英名録の研究』渡辺書店)。周作はこの秋山門弟の暴挙を「これ全く秋山の計らひに相違なし」と秋山某の策略と断定しているが、秋山要助は三河国で周作と仕合をしていないことは自身でもわかっており、偽りが発覚すれば自身の来歴の瑕瑾となることは明白である。すでに剣名高い秋山が自ら指示してこのような暴挙を行うのは考えにくく、おそらく秋山が留守の間に門弟たちが流布、暴挙を行ったものではなかろうか。

(四)伊香保神社掲額事件

伊香保神社
伊香保神社

 熊谷を出た周作一行は、中山道を逸れて秩父往還へ入り、寄居村に立ち寄っている。ここに弟子・吉田川の知己の剣士がいたようだ。その後、「諸所を遊歴し」て文政6(1823)年2月下旬ごろ、上州高崎に入る。一行は高崎にしばらく止宿するが、宿所はおそらく小泉某の屋敷であろう。ここで弟子の細野某という人物が、「我等心願こそ候へ、当国伊香保宮へ門下一同の姓名を記せし額を奉納せんと存ずるなり、若し御許容あらば、門下の喜悦何事か之に若かん」と訴えた。周作はとくにこれを止めることはせず、門下に一任した。そして、弟子たちは奉納の日時を卜して、4月8日と決する(『剣術物語』)

 なお、文政8(1825)年正月に「樋口(樋口十郎左衛門定伊カ?)が記したという掲額についての論考『伊香保の額論』では、周作は「実は奥州小藩の藩臣にて由緒正しく剣術名人の由、公署へも聞え御老中様方御免をこうむり、諸国修業に出たれば此度額奉納の事も御同意をうけたるよし偽りたるとなる」(『剣豪千葉周作』)と紹介されている。これとほぼ同様の内容が、同じく文政8(1825)年正月に「梭江(柳川藩士西原梭江、号は松羅館)が記した『伊香保の額論』(文政八年正月発刊の滝沢馬琴『兎園小説』所収)に認められているが、こちらでは、「実は若州小浜の家臣にて由緒も正しく且剣術の名人なれば、公儀にもしろしめされ、執政がたの御免を蒙りて、諸国修行に出たれば此度額奉納の事なども御内意を受けたりと偽りけるとぞ」(木暮武太夫『名家香山記』所収)とほぼ同様の内容が見られる。文の構成や事実と照らし合わせると、滝沢馬琴が刊行した『伊香保の額論』を、樋口定伊以降の馬庭念流の人が写したものであろう。

 ・「奥州」と「若州」の読違い(奥と若の類似)
 ・「小藩」と「小浜」の読違い(藩と浜の類似)
 ・「公署」と「公儀」の読違い(「公署」…馬庭念流側の資料は明治期の写しか)
 ・「御老中様がた」と「執政がた」(言い回しから江戸期が終わった後の資料か)
 ・「御同意」と「御内意」の読違い(同と内の類似)

 いずれにしろ、周作は新流派の名を高めるためか、多分に喧伝を交えて上州へ赴いた可能性がある。

 この周作一行の伊香保神社奉額の計画を聞いた「他門の剣者三百余人」が動堂(藤岡市本動堂)に会合した。彼らは馬庭村に本拠を持つ馬庭念流の門下で、周作門弟に小泉某ら馬庭念流の旧門下が多数含まれている事を問題視し、伊香保神社への奉納額に彼らの名が列記されると馬庭念流十八代の浮沈に関わるとして、奉額を阻止せんと集まった者たちだったのである。小泉のもとには動堂から額面に名を刻むことをやめるよう遣いの者も訪れたようで、小泉はこれを拒絶して痛烈に批判する。

 小泉からの報告を受けた周作は、「彼等が斯る振舞に出づるからは、其会合の模様を探らざるも油断に近し」と、翌日には力士上がりの門弟・岩井川(釣合)を筆頭に五人を選んで馬庭村へ派遣し、素性を隠して「真庭氏の高名を承りて推参いたし候ひぬ」と立会を申し入れさせるも、馬庭念流側では留守と号してこれに取り合わなかった。馬庭念流側はこの五人の到来を動堂へ伝えたため、動堂の門人たちは諸所に使者を発して人をさらに集めることとなる(『剣術物語』)

辰・岸権左衛門より子・木暮武太夫旧跡を見る
辰・岸権左衛門旧跡から子・木暮武太夫旧跡

 このような中で、奉額二日前の4月6日、伊香保村の世話役、木暮某(伊香保大屋・子の木暮武太夫)が周作のもとを訪れた。

 木暮は額面奉納について岩鼻代官所から急ぎ呼び出され、馬庭念流一党と周作一党の額面奉納をめぐるきな臭い動きに「奉納元へ申断はり、先づ延日にても致して騒動に及ばざるやう、取計らふべし」と命じられ、周作に「何卒御奉納の儀は御見合はせ下さるべし」と願った。周作は「今更延日いたしがたし、此上は余只一人罷越して奉納」すると提案し、木暮もこれに同意して岩鼻代官所へ報告した。

 すると代官所は、「大勢待ち設けし処へ、一人にて参りなば、何様の変事あらんも計りがたし、奉納の節は、此方にても検視致しても苦しからず、只此場合一先づ延引」すべきことを命じる。周作はこれを拒否することは「制法を犯すに似たり」と、やむなく門弟へ奉額の日延べを指示した(『剣術物語』)。当時の岩鼻代官は善政を行ったことで知られた旗本・吉川栄左衛門貞寛の子・栄左衛門貞幹で、文化8(1811)年2月に亡父の跡に据えられ、文化11(1814)年12月29日より正規代官となって以降、九年にわたって善政を敷いた代官であった(西沢敦男編『江戸幕府代官履歴辞典』)

伊香保より赤城山を望む
伊香保宿から上州赤城山方面

 ところが、周作の奉額日延べの情報は周囲に伝わらず、まわりの人々は「素破や野分にて真剣の勝負始まりしぞ」との虚伝に躍らされて大騒動となり、村役などは駆け回って制止する事態となってしまった。

 実はこの日、すでに掲額予定の伊香保村には念流の人々が大挙して訪れており、伊香保にある「子」から「亥」までの干支名が与えられた湯屋の「大屋」十二軒(他二件)が念流門人によって借り上げられている。大屋のうち「子」の木暮武太夫「千葉周作が額奉納の宿」だったので、ここのみは借り上げず「その余の湯亭十一軒を、みな借り尽くして宿」としたようだ(滝沢馬琴『伊香保の額論』)「伊香保に於て、千葉の者共夜討に来りしと騒ぎ立て十一軒に止宿せし大勢の者共、一時に起ちて身支度を整」えていたことが周作の日記にもある(『剣術物語』)。ただ、伊香保宿の入口には岩鼻代官支配の伊香保口留番所が置かれており、多数の念流門下による伊香保入郷がどうして可能だったのか謎は残る。

 この伊香保の騒擾が馬庭村の念流宗家・樋口十郎右衛門定輝の耳に入ると、樋口はひどく驚きつつ「今さらとどめんよしのなければ、内弟子なんどを引きいれて、車の進退制止のため」に同日、伊香保へ向けて出立した(滝沢馬琴『伊香保の額論』)。念流のひとびとは「師家へは絶へてこの事をつげしらせ」ずに伊香保へ登っており、樋口定輝は当初門弟たちの決起計画を知らなかったとみられる(滝沢馬琴『伊香保の額論』)

伊香保
伊香保宿(岸六左衛門旧跡)

 「文政六年未四月七日」付の伊香保宿の念流門人宿割「伊香出郷宿割姓名帳」が残るが(『樋口家文書』)、念流の実力者である赤堀村の本間仙五郎応吉は伊香保宿大屋のひとつ、「巳」の岸六左衛門の宿に分宿し、矢崎亀次郎、小保方茂兵衛、阿久津廉蔵、板野安蔵、角橋亀吉、嶋村斎蔵、松本杢蔵、齋藤伊之長ら門弟の名が連なっている(国立歴史民俗博物館『民衆文化とつくられたヒーローたち』2004)

 4月8日午後八時ごろにはいかなる流言か、「伊香保に於て、千葉の者共夜討に来りしと騒ぎ立て十一軒に止宿せし大勢の者共、一時に起ちて身支度を整」えており(『剣術物語』)、周作一行が夜討をしかけるとの情報があって念流門下は緊張が高まったようである。4月8日は掲額予定日であり、両者の間でさまざまな流言や憶測が飛び交ったのだろう。

 伊香保へ宿した念流門人らは、思い思いの装束に大小を携えたり、六尺棒を持ったりして「頭取真庭の止宿せし木暮の家を固」めて高張提灯を設け、往来を止めていた(『剣術物語』)とされ、樋口定輝は4月6日夜半には伊香保の木暮某の宿に入ったものと思われる。木暮武太夫の「子」の宿は周作の宿であったため、樋口定輝が入った「木暮」はおそらく「丑」の木暮八左衛門の宿か。当時八左衛門はすでに亡く、後家が当主代となっていたが、念流側に肩入れし、手代や下女らを指揮して手ごろな石や灰を集めさせ、臨戦態勢を敷いたという(滝沢馬琴『伊香保の額論』)

 こうした騒動の中、周作は今回の掲額に力を尽くした小野派一刀流中西道場の門人・佐鳥浦八郎に相談すべく、4月9日に彼が道場を開く引間村へ釣合、吉田川の二人を供として訪れた(『剣術物語』)。浦八郎は文化5(1808)年2月に中西道場へ入門し、文化11(1814)年秋に相伝本目録を授けられたのち故郷の引間村に一刀流道場を開いていた(『上毛剣術史 下』)。周作より二つ年上の弟弟子に当たる。

 佐鳥は門弟を道場に集め、「一昨日以来、真庭の一流、四方より手分けして伊香保へ登りし人数一千人ばかり、地蔵河原に備を立てゝ待ち設け、此方より押し行かば、所詮剣術にては叶ふべからず、鉄砲にて打ち取るべしとの手段なりと聞く」と、馬庭念流一党が動堂だけではなく、伊香保村へ集結している様子を告げ、どういった遺恨でこのような振舞をするかは分からないが、これを聞いて行かなければ勇無きに等しいとして、伊香保へ向かうことを決定する(『剣術物語』)

 しかし、周作は佐鳥を押しとどめ「如何となれば私の宿意を以て、公法に背くは、狼藉に等しからずや、此場は暫く捨て置き、後日我れ真庭の宅に行きて、勝負を決せん」、そして「我れの望みは素面素籠手の試合に在り、斯くして生死あるとも、乱暴には当るまじ」と自ら馬庭村へ赴いて勝負することを告げると、佐鳥は「扨も残念なる事を承はるものかな」と詰り、上野国の気風ではそのようなことで納得するものではなく、奉額を妨げられればどうしてその恥辱をそそぐことができるのか、と憤慨して刀を庭に放り投げてしまった。佐鳥門下の人々も周作の意見を卑怯であるとし、また様々な人々が死を覚悟して集まっていることを見て、「公事を重んじて之れに従ふは、決して余の卑怯にはあらず、余何ぞ鼠輩を恐るゝものならんや、去りながら余独り之れを慎むとも、若し他に之れを破るものあらば、矢張余の責なり、事此に及びては是非に及ばず、イザ余も倶に参らん」と佐鳥の意見の通り伊香保へ向かうこととした(『剣術物語』)

 すると、この引間村の出来事をはやくも伊香保へ告げる者があり、「千葉かたにても、亦怒りてかくはこたびの催を妨したる樋口の奴原捨ておくべきにあらず、とて、引間村なる浦八が宿所にみなみな集りて、談合評議区々なるよし」が伊香保の樋口定輝の耳に入る。樋口定輝も門弟の暴発を抑える為に「只穏便に制せられたるのみ」だったが、伊香保への千葉一門の行動を知り、「樋口も今この時に至りて一あしも引くべからず、各覚悟あるべし」と周作一門の来襲に備えをするよう指示する一方で、「敵推しよせて乱妨せば撃ち果たさんこと勿論なり、しかれども、こなたよりはやりて手ざしすべからず」と厳命を下したという(滝沢馬琴『伊香保の額論』)。現在においても馬庭念流は「後手必勝」を教是とする徹底した防衛の剣術であり、伊香保においてもこの教えに従い、守りに徹したのだろう。

伊香保宿の石段
伊香保宿から上州赤城山方面

 この命を受けた赤堀村の本間仙五郎は「先一番に赤堀の仙太郎が、ぬば玉の夜の日しるしるにとて、白布の鉢巻におなじ色なる襷して、樽を床几に尻うちかけて、わが弟子どもを左右に従へ、敵や寄りすると待ちたりける」という姿があった(滝沢馬琴『伊香保の額論』)

 ところが、周作が引間村を出立する間際、馬庭念流の人々はすでに伊香保を出て総社町へ止宿しているという情報が入った(『剣術物語』)「今朝伊香保を引取りて、只今惣社町へ通り掛かりし所なり」という。ただ、馬庭方は4月9日の佐鳥浦八郎と周作の会合を伊香保で聞いたとされており(滝沢馬琴『伊香保の額論』)、周作一行が伊香保に向けて引間村を出立しようとしたのが4月9日であるとすると、話が合わなくなる。周作が佐鳥宅で一日止宿したことはみえないが、止宿したとすれば、馬庭方は4月9日に注進を受けたものの「相手一人もなき故」、翌10日朝に「伊香保を引取」って惣社町へ向かったということか。代官所の介入によって掲額自体が延期された事実を馬庭方が知った結果かもしれない。

 周作と佐鳥は、惣社町の念流一門について、「矢庭に押入りて、狼藉の如き働きをなすべきにもあらず」と、釣合など弁舌に長じた門人三名を惣社町へ差し向けて、試合を申し込むこととした。ところが、戻ってきた使者によれば、惣社町の某家に残っていた門人は少なく、対応に出た門人が「過刻既に真庭に出立」し「何れ此の方より真庭へ申し通じて、御答に及び申すべし」と返答したという(『剣術物語』)

 周作は「斯かる上は詮なし、此処より真庭へは五里もあるべし、今は時刻も遅し」として、明朝馬庭に向けて出立することと定めた。しかし、佐鳥浦八郎の憤慨は止まらず、周作に「明日真庭に赴くとも、彼れ何条手合いに及ぶべきや、臆病の余りに大勢の人数を催せしと雖も、尋常の勝負は恐れて行ふべきものにあらず、必要又留事と偽はりて相断るべし、斯くては争かで此無念を晴らすべきや、伊香保の振舞は言語道断にして、私の宿意にあらず、此旨早々出訴せんに若くことなし、我等是より直ぐ様出府いたすべし」と馬庭念流の騒乱を江戸に訴えるといって聞かず、独断で江戸へ出立してしまった(『剣術物語』)

 周作はこの佐鳥の行動に慌て「若し佐鳥一人の短気を以て出訴に及び、事愈々公辺の沙汰ともならば、上毛是より長く剣道制禁の地とならん、特には双方東武に召されて尋問せらるゝこともあるべく、大勢の難儀此上あるべからず」と、まずは今回の騒動について訴訟となった場合の当方の証拠を作らねばならんと、吉田川、釣合、細野ともう一人の四名を供として伊香保の村役・木暮武太夫の宿所を訪れて談判した(『剣術物語』)

 ここで木暮は当所の世話人などを招いて、一々周作の語る趣を書記して証拠とした上、当地の僧侶にも面談して口書を得て高崎へ戻り、小泉と相談。吉田川・柏原の両名のみを供として佐鳥の後を追って江戸に急行、ようやく佐鳥を説き伏せて訴訟に及ぶのを食い止めた(『剣術物語』)

 馬庭念流側でも、周作が江戸へ急行したことを聞いて慌て、主だった門人が次々に江戸へ出て、周作の知己を見つけては和談の伝手としようとするが、彼らの誰もが取り合わず、門人たちは次第に手を引かざるを得なかったという。そしてこの騒動が心労になったか、馬庭念流宗家・樋口十郎右衛門定輝は騒動から半年余りのちの文政6(1823)年末に急死してしまった(『剣術物語』『上毛剣術史 下』)

 佐鳥浦八郎はその後、高崎藩の剣術師範として迎えられ、弘化2(1845)年2月15日に惜しまれつつ亡くなった。享年五十四。法名は慈雲院円潤一乗富房居士(『上毛剣術史 下』

・伊香保掲額騒動の時系列(『剣術物語』『伊香保の額論』より)

 『剣術物語』と『伊香保の額論』の千葉周作と馬庭念流の動きを見ると、やや日にちに差異があることがわかる。

 『剣術物語』では、木暮武太夫が代官所の指示で周作のもとを訪れたのは4月6日の早朝なのに対し、『伊香保の額論』では翌4月7日で、さらに新町の役人を呼んだのちに召されており、おそらく早朝ではない。また、念流側が伊香保を去ったのは『剣術物語』では4月9日で、引間村で談合ののち事実を聞いたことになっている一方、『伊香保の額論』では4月7日に引間村で周作と佐鳥の談合が行われ、暮れ方に周作側が鉄砲やほら貝で威嚇しながら伊香保に押寄せ、代官所から双方に制止の指示が出たことになっている。そして、4月10日に双方納得して引いたこととなり、両方の資料の主張は食い違っている。周作側からの資料と馬庭念流側からの資料という二つの資料の差異と思われるが、結局は掲額は執り行われることなく立ち消えとなる。そして、こののち小泉某、釣合、吉田川といった上州由来の初期の門人の伝はまったく失われる

文政6年(1823) 『剣術物語』(千葉周作側)
『伊香保の額論』(馬庭念流側)
2月下旬 周作、上州高崎に入る
門弟による伊香保神社薬師堂への掲額計画が持ち上がる
 
3月4日 上野国動堂に周作門人による掲額阻止のため、馬庭念流門弟が集まる(三百人)  
4月1日 高崎の門人・小泉某(もと馬庭念流)のもとに額面に名を刻まないよう馬庭側より打診あり。小泉はこれを拒絶。周作、小泉から報告を受けて具体的な動きに出る  
4月2日 周作、偵察のために門人五人(釣合他)を素性を隠して馬庭村へ派遣し、試合を申し入れるも拒絶される。  
4月6日 早朝、伊香保村役の木暮某(木暮武太夫)が高崎の周作のもとを訪れ、岩鼻代官所から騒動相成らずとの達を伝える。

木暮某、岩鼻代官所へ報告し、周作のもとへ再度戻る

代官所、木暮某を通じて、掲額の延日を指示

周作、掲額の延日を決定
・赤堀の本間仙五郎、平塚田部井の人々他、念流門人たちが伊香保へのぼり、大屋十一軒を貸しきる
・馬庭の樋口定輝も伊香保宿へ。結果、七百人余りが伊香保へ集結する
4月7日 馬庭念流門人一千人あまり伊香保へ登り、地蔵河原(伊香保の入り口)に備えを立てる ・樋口定輝、専守防衛を指示
・暮れ方、あちこちの山林に鉄砲、ほら貝で押寄せる勢あり。岩鼻代官所より人が出て和睦を講じる
・周作、門弟を率いて伊香保を目指すも、念流の備えを聞いてこの日は野宿する
・岩鼻代官、新町宿本陣と宿役人を召して、騒動の顛末を尋ね、さらに周作が宿とする木暮武太夫を召して糾問し、掲額を留める様申し渡す
・掲額を妨げた念流を許さじと、引間村の浦八の宿所に集い談合評議あり
4月8日
(掲額予定)
夜五ツ時、周作夜討との報に備えを厳重にする 互いに些かも引かず
4月9日 高崎出立

↓(約10km:2時間程か)

引間村の佐鳥浦八郎のもとへ
佐鳥浦八郎、伊香保へ向かうと主張し、周作もやむなく同意

馬庭念流門人、惣社町へ下りたとの報に、周作は門人三名(釣合他)を惣社町へ送る(引間村ー元惣社町は約2km)

昼八ツ半(15時)、惣社町より使者戻り、大半はすでに馬庭へ出立済との報告あり。佐鳥は馬庭村へ向かうとして押し止めるも、即日江戸へ出立

引間村から伊香保へ証文を取りに出立

↓(山道登り約18km:5時間程か)

伊香保の木暮武太夫の宿に止宿
当所の世話人や僧侶を招いて証文を取る
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
【馬庭念流側の動き】
今朝、伊香保宿出立

↓(山道下り約20km:4時間程か)

惣社町(昼八ツ半(15時)までに出立)

↓(約20km:5時間程か)

馬庭村
互いに些かも引かず
4月10日 伊香保出立

高崎で小泉某と談合して江戸へ出立
代官所より厳密な沙汰があり、双方ようやく納得して伊香保を引き退き、家路につく

(五)お玉が池に玄武館を開く

 周作がはじめて道場を持ったのは、いまだ諸国を修行していた文政5(1822)年と伝わる。場所は日本橋品川町、魚河岸が並ぶにぎやかな立地である(『剣法秘訣』)。しかし、新興の道場主が武者修行に出て留守になる道場がはたして現実的なのか。若干の疑問があるが、周作の弟・千葉定吉は文政7(1824)年3月1日当時には、新材木町杉森稲荷横中央区堀留町一丁目4)に住居を構えていて(『千葉一胤履歴』)、さらに周作の諸国修行に同行した形跡はないため、この杉ノ森屋敷に留まっていたものと思われる。そして杉ノ森は、道場のある日本橋品川町とは600メートルほどの至近にあり、周作の留守の間は、この定吉が道場を切り盛りしていた可能性も考えられるか。

 文政8(1825)年には、長男・彦太郎孝胤(奇蘇太郎)が誕生している。母は師・浅利又七郎の縁者(又七郎妻の実家、松戸宿巴屋)である小森氏である(『水府系纂』)。文政6年の伊香保掲額事件以降、周作の足取りはわからないが、おそらく江戸に戻っていたと思われる。これ以前にすでに小森氏とは浅利又七郎との縁で婚姻関係にあったと思われるが、文政3年以来、武者修行の身で江戸に戻ることは少なく、ようやく文政7(1824)年に落ち着いた生活に入ったものだろう。

   【小野派一刀流中西家】
    中西子啓===中西子正―――――――浅利又七郎儀明
   (忠太)   (忠兵衛)      (又七郎)
                      ∥
                      ∥―――――――浅利兜七郎義金
 +―――――――――娘          ∥      (兜七郎)
 |         ∥――――――――――娘
 |【糠屋】     ∥
 | 鈴木小四郎―+―浅利又七郎義信  
 | 〔十代〕  |
 |       |
 |       +―鈴木源三郎======鈴木小四郎
 |       |〔十一代〕      〔十二代〕          
 |       |          
 |       +―鈴木小四郎――――――鈴木源三郎義寿
 |        〔十二代〕      〔十三代〕
 |                    ∥
 +―――――――+            ∥―――――――娘
         |            ∥       ∥
【巴屋】     |            ∥       ∥
 小森庄蔵――――+―小森庄蔵―――――+―娘       鈴木小四郎
                    |        〔十四代〕       
                    |        
                    +―小森庄蔵
                    |(浅利又七郎甥)
                    |           
                    +―娘     +―千葉孝胤
                      ∥     |(奇蘇太郎)
                      ∥     | 
                      ∥―――――+―千葉成之
                      ∥     |(栄次郎)
                      ∥     |
           千葉成胤―――――――千葉成政  +―千葉光胤
          (忠左衛門)     (周作)    (道三郎)

 なお、この文政8(1825)年には、道場を品川町から神田お玉ガ池に移転した時期でもある(『剣法秘訣』)。道場は「玄武館」と名づけられているが、「玄武館」の命名は家伝の「北辰流」から取られたものと思われる(妙見信仰とは全く関係ないだろう)

玄武館道場跡
玄武館道場跡(神田東松下町)

 「玄武館」が文政8年にお玉が池へ移った明確な証拠はないものの、文政13(1830)年に「大原某祇役して大坂邸」にいた延岡出身の井上八郎が、大原とともに江戸に出て、同年末、彼の紹介のもと「当時剣客を以て其名遠逍に喧伝せる千葉周作の門」に入ったとあり(加藤七五郎『井上延陵翁伝』1893.9)、井上八郎の記憶が正しければ、玄武館は文政13(1830)年当時にはすでにかなり知られた道場であった様子がうかがえる。大原某はおそらく大坂藩邸詰の延岡藩士で、江戸所用に井上八郎を同道したものと思われる。

 嘉永4(1851)年正月当時においても、周作は「実都下第一剣師」との評判があり(『耕雲録』)、その教育方針は懇切丁寧でわかりやすく、実利で上達が早いものだった。目録の段階も、一刀流の「小太刀、刃引、払捨刀、目録、カナ字、取立免状、本目録皆伝、指南免状」の八段階から、「初目録」「中目録免許」「大目録皆伝」の三つに簡略化したため(高坂昌孝「剣術名人法」:渡辺一郎編『史料明治武道史』)、謝礼も少なく済むメリットもあった。

 こうしたことで人気が集まり、門弟三千人といわれるほどの繁栄をみることになる(『浅利又七郎と千葉周作』)清河八郎が嘉永4(1851)年正月以降に記録した玄武館出入の門人は二百八十三名、道場持ち二十三名、師範代三名の合計三百九名が記録されている(『玄武館出席大概』)。ただし、この中には道場持ちの千葉重太郎の高弟・清水小十郎らが見えないことから、一覧には道場持ちの弟子は含まれていないと思われ、それらを含めると三千人余という人数になるものとみられる。

 また、道場入門者の月謝等については、「当時千葉の門に在る者、月毎に凡そ二百疋を要す」とあり、二百疋(二分相当)が必要だったという(『井上延陵翁伝』)。かなり高額だが著名な道場としてのネームバリューがあったものか、または井上八郎の記憶違いか。

 そして、入門時の束修としては、二十年余りのちの嘉永4(1851)年当時で「先生一分、若先生二朱、塾子二朱」だった(清河八郎『耕雲録』)。この入門料(束修)は本人の収入如何で変わるが、当時のかけそば一杯十六文(≒五百円)で換算すると、一朱=625文で39杯分、単純計算で約二万円となる。一分は四朱なので八万円、塾生には全員で二朱と思われるので、「先生(周作)」は八万円、「若先生(栄次郎)」と「塾子(?)」へは各四万円、十六万円ほどとなるか。いずれにしても高額である。

 道場の東隣には、文政4(1821)年に上総国出身の儒学者・東條一堂が開いた学塾「瑶池塾(蜾嬴窟)」があり、玄武館で剣術を学び、隣の瑶池塾で詩文・儒学を学ぶといった風があった(『剣法秘訣』)。周作が文政8(1825)年に移転してきたとすると、この「瑶池塾」での学問も念頭に置いた移転だった可能性がある。

 なお、東條一堂亡きあとは、玄武館が瑶池塾の敷地も取り込んだという。周作の孫・千葉勝太郎は明治11(1878)年当時の東松下町二十八番地、明治14(1881)年当時では東松下町五十四番地(中央区神田東松下町)に三百坪あまりの土地を有していた。おそらくこの地が玄武館道場だったとおもわれ、現在玄武館道場跡の碑のある位置よりもやや西に位置する。

 周作の弟・千葉定吉も周作とともに北辰一刀流の創設に尽力し、新材木町杉森稲荷横中央区堀留町一丁目4)の道場のほか(『千葉一胤履歴』)、のちに京橋桶町にも道場を持ち、「桶町千葉」とよばれるようになる。そして、千葉周作・定吉兄弟の北辰一刀流は「到る處に出張所を設け」て繁栄を極めることとなる(『千葉の名灸』)

(六)浅利又七郎の養子となる

浦山寿貞墓 
宝光院の浦山寿貞墓

 天保2(1831)年正月17日、父・浦山寿貞(千葉忠左衛門)が下総国松戸宿(松戸市)で亡くなった。享年六十六。松戸宿の宝光院に葬られた。このときの周作の対応については伝わらない。ただし、宝光院の過去帳に拠れば、忠左衛門の法要を行なった人物は「浅利又市良」なる人物だった(『剣豪千葉周作』『月刊秘伝』「古流武術見てある記」)。実は周作が浅利家の養子となった際には「浅利又一郎」と名乗っているのである。

 翌月2月29日、師匠で義叔父の浅利又七郎義信が病気のため、小浜藩御馬廻役を願いの通り免除された。ただし「家業」の剣術指南については押して勤めるよう命じられている。そのためか、翌天保3(1832)年2月3日、周作は岡部藩士「塚越又右衛門弟又一郎」として小浜藩士・浅利又七郎の養子となった(『由緒書』小浜市立図書館蔵「酒井家文書」)。周作四十歳の時だった。養子となった時期は、宝光院の過去帳に見える「浅利又市良(周作)」が父・浦山寿貞の葬儀の喪主であるとすれば、天保2(1831)年当時にはすでに浅利家に入籍していて、翌天保3(1832)年の養子願いは身元請を立てた藩庁への公式な養子願いということになろう。実は周作が浅利又七郎の養子となった時期については、文政6(1823)年以前である可能性が高い。

 文政8(1825)年正月に発刊された滝沢馬琴『兎園小説』の中に、文政8(1825)年正月に「梭江(柳川藩士西原梭江、号は松羅館)が記した『伊香保の額論』という説話が収められている。これは文政6(1823)年の伊香保掲額事件を題材にしたものであるが、この中で周作は「実は若州小浜の家臣にて由緒も正しく且剣術の名人なれば、公儀にもしろしめされ、執政がたの御免を蒙りて、諸国修行に出たれば此度額奉納の事なども御内意を受けたりと偽りけるとぞ」(木暮武太夫『名家香山記』所収)とされている。つまり周作は文政6(1823)年の掲額事件の時点で「若州小浜の家臣」と称していたことが推測されるのである。このことから、周作は文政6(1823)年以前に浅利又七郎の養女・小森氏と婚姻し、婿養子となっていたことが推測されるのである。

 一方で法要を行った「浅利又市良」=「浅利又七郎」であるとし、忠左衛門と浅からぬ旧交があった浅利又七郎義信が法要を行ったとの説もある(『剣豪千葉周作』『月刊秘伝』「古流武術見てある記」)。ただ、この説だと周作が実父の法要を行なわなかった理由の説明ができない。これについて『剣豪千葉周作』の中で「周作を避けて浅利又市良の名を使っているのは、凶状持の親の咎が周作に波及しないように、意図的に遺言によって避けたものと推察される」(『剣豪千葉周作』)との検証があるが、同書では、そもそも浦山寿貞と千葉周作は江戸に出てくる時点で「往来手形の偽造」によって別人となり、赤の他人ということになっているはずなので、『剣豪千葉周作』の中でのこの説は矛盾している。やはり、周作=浅利又一郎による実父の法要が事実であろう。

 翌天保4(1833)年12月15日、周作(浅利又一郎)は、「稽古料」として小浜藩より三人扶持を給わった。

 ところが、翌年の天保5(1834)年10月27日、養父・浅利又七郎義信は周作(又一郎)を「不熟」であるとして、熟談の上で離縁に及んだ(『由緒書』小浜市立図書館蔵「酒井家文書」)。周作四十二歳。この「不熟」とは剣術指南役としての不練とも考えられるが、すでに天保元(1830)年末時点で道場を開いていて「当時剣客を以て其名遠逍に喧伝せる千葉周作」(『井上延陵翁伝』)をして剣術の「不熟」を根拠とするのは考えにくく、この「不熟」とは、又七郎との不和の意味であろう。以降は推測であるが、小野派一刀流の剣士である浅利又七郎は、周作(又一郎)に浅利家を継承させるにあたり北辰一刀流の看板を下ろさせようとしたのかもしれない。そしてそれを拒否した周作との間で対立(不熟)した結果と思われる。

 周作を離縁したことで、浅利家の跡継ぎを失った又七郎は、その三年後の天保8(1837)年正月21日、師家である小野派一刀流・中西忠兵衛(中津藩士)の次男・兜七郎(のちの浅利又七郎儀明)を養子に迎えて浅利家を継がせることとなる(『由緒書』小浜市立図書館蔵「酒井家文書」)。小野派一刀流の中西宗家から養子を迎えていることからも、周作と又七郎の「不熟」による離縁の原因が、剣術の流派問題に起因すると推測できる

(七)水戸藩士・千葉周作

 天保6(1835)年、周作は門弟・臼井新三郎を従えて水戸を訪れ、藩学弘道館で水戸藩士を相手に武技を披露した(『剣法秘訣』)。この評判を聞いた水戸藩隠居・徳川斉昭の知遇を得て、剣術師範として招聘され、月俸十人扶持を支給されて御雇となる。なおこの年、玄武館に安中藩年寄の海保荘兵衛の子・海保帆平が入門している。海保は稀代の名剣士でのちに玄武館の師範代となっている。

 そして天保12(1841)年6月1日、「以處士千葉周作為馬廻賜百石」(『水戸藤田家旧蔵書類』)とあるとおり、馬廻格百石の水戸藩士として召し出された。四十九歳のときだった。

 弘化元(1844)年5月、徳川斉昭は幕府の譴責を受けて、江戸駒込邸に謹慎の身となったが、時折周作を召して武芸を観て楽しんだという。また、斉昭は周作へ直々に中風の灸法を伝授したといい、この灸法が弟・千葉定吉に伝えられ、定吉からその子、千葉重太郎・千葉さなへ伝授。千葉さなはこの水戸徳川家伝来の灸法を以って、のち千住に「千葉灸治院」を開き、「ちばのめいきう(千葉の名灸)」として評判になった。

千葉周作墓
本妙寺千葉周作の墓

 嘉永4(1851)年10月28日、周作は斉昭に召されたとき、奇蘇太郎孝胤、栄次郎成之、道三郎光胤、多門四郎政胤の四子と門弟を引き連れて罷り越し、斉昭の面前で数番の試合を行なった。奇蘇太郎以下、妙技を戦わせるが、とくに末子の多門四郎はわずか十歳ながら人々を驚かせる妙技を披露したという。斉昭は周作を傍に呼ぶと、周作の子息門弟に対する教育方法を賞賛した。斉昭亡きあとも、水戸藩公・徳川慶篤の信任厚く、四人の子が召抱えられている。

 安政2(1855)年11月29日、周作は中奥出仕とされるが、その後まもない12月13日に亡くなっていることから、このころにはすでに病気となり、致仕を前提とした栄進かもしれない。享年六十六。浅草誓願寺内仁寿院に葬られた。法号は高明院勇譽智底教寅居士。のち、豊島区巣鴨の日蓮宗寺院・本妙寺に移された。

【千葉周作と伝承】~荒谷村千葉周作の伝と思われる~

(一)佐藤孤雲と千葉周作(『千葉周作遺稿剣法秘訣』)

 ある日、「父」の幸右衛門(忠左衛門のことか、小田島幸右衛門のことか不明)と親交のあった名士・佐藤孤雲が千葉家を訪れた。このとき幸右衛門は「自分の子三人のうち、家名を興すことができる子は誰かを鑑定して欲しい」と人物鑑定を頼んだ。さっそく孤雲は、又右衛門、於菟松、定吉の三人の行動をつぶさに観察した結果、二男の於菟松がどうも他に抜きんでているように見えた。そこで孤雲は部屋に周作を招き入れ、於菟松が近づくや、太刀を一閃し於菟松の目の前に突きつけた。これに於菟松は落ち着いて何事かと問うたという。孤雲はこれを見て微笑み、幸右衛門には於菟松がもっとも見込みがあることを告げたという。

荒谷斗螢稲荷神社
旧荒谷村斗螢稲荷(荒谷明神)

 ほかにも、荒谷村千葉家の裏には妙見神を祀った祠があったというが、荒谷明神(斗螢稲荷神社)がそれだという。「斗螢」とは北斗七星=妙見神の輝きを表していると思われる。この斗螢稲荷の下に清流があり、村の子どもたちは夏になると川で泳いで遊んでいたという。

(ニ)甕蜂退治の事(『千葉周作遺稿剣法秘訣』)

 しかし、周作十一、二歳頃のある年、川の脇に立つ木の上に、甕蜂(キイロスズメバチ)が巣を作ってしまった。その大きさは一斗樽ほどもあったという。村の子どもたちは蜂を恐れて川に近づくことができなくなってしまった。これを見た周作は、子どもたちのために蜂を除いてやろうと考え、子どもたちとともに蜂の巣がある木の下まで行くと、一尺あまりの棍棒を持って木をよじ登り、巣のすぐ下の枝に立った。周作に気がついたスズメバチは次々に巣を出て周作に襲いかかった。しかし周作は冷静に手にした棍棒を振るって次々に蜂を撃ち落した。こうして落ちていく蜂がまるで風に散る雪か花びらのように見えたという。たちまちのうちにスズメバチを全滅させた周作は、その巨大な巣をもぎ取り、悠々と下に降りてきた。身にはひとつの刺傷もなかったという。周作の豪胆さと技量を伝えるエピソードである。

(三)矢落としの事(『千葉周作遺稿剣法秘訣』)

 十五、六歳の頃、周作が桜ノ目村(宮城県古川市桜ノ目)を訪れたとき、ある仙台藩士の屋敷の的場で弓の稽古が行われていた。周作が足をとめて覗いてみると若い武士たちが互いに弓の腕を競っている。その競い矢の様子をじっと眺めていると、ひとりの武士が尊大な態度で「お前も弓が好きか?」と問うてきた。この尊大な態度に周作の癇に障り、軽く一礼すると、「少しは心得ているが、あなた方の弓鋒は実に鈍い、いざというときには何の役にも立つまい」と答えたという。若者たちはこれに怒り、「無礼な奴である。では俺たちの射た矢が役に立つかどうか試してやるから、矢先に立て」と迫った。周作は「簡単なことだ」と木刀を提げて的場の中ほどに立った。これを見ていた老人たちは「えらいことになってしまった」と呟くが、もうどうすることもできないので、息をのんで見守っていた。

 若者たちは弓をとって矢場に立ち、弓に矢を番えると、周作に向けて次々に射た。まさにイナゴの群れが飛び掛っていくようであったという。しかし周作は少しもあわてず、高めの矢は身をかがめ、低い矢は足を上げて避け、真ん中にきた矢は軽く打ち落とした。敏捷な動きは目にも止まらぬほどであったという。矢を射つくした若者たちに周作は、藩士たちに「ご無礼の段、何卒お許しください」と丁寧に礼を述べ、屋敷をあとにした。藩士たちは言う言葉もなく引き下がったという。

  しかし、このとき一部始終を見ていたとある武士が周作に声をかけ、「今のような武芸は未だ見たことがない。あなたは恐らく根からの農民ではありますまい。宜しければ生まれなどお教えいただきたい」と聞いてきた。周作は礼儀正しいこの武士に礼を返すと、「今こそ百姓の子倅ですがもとは武家の血を受けております。多少武芸を学んだのみで、お褒めに預かるほどでもございません」と答えた。この武士は「そうであろう、今後も修行に励んで天晴れ武芸者になられるよう心がけなさい」と告げると立ち去った。彼は藩老遠藤家の一族で遠藤十次といい、弓道や和歌の名人として知られていた人物だったという。遠藤十次はこの日、高清水邑主の石母田家を訪れたのち、弓の競いに来ていたのであった。

 上記の伝記のうち(一)(三)については、『千葉周作遺稿剣法秘訣』のベースになった調査記録『千葉屠龍先生傳稿』と異なる記述になっている。(一)については周作自身の出自の矛盾、(三)については周作の江戸行時の年齢との矛盾があり、『千葉周作遺稿剣法秘訣』では、この矛盾をもみ消したり改竄したりしている事実がある。おそらく千葉周作の伝であるとされた上記のような事柄は、幸右衛門の跡を継いだ養子・周作の事柄だったと思われる(『秘伝』「古流武術見てある記」島津兼治氏)。

●浅利又七郎義信・義明(儀明)について

浅利又七郎道場
旧浅利道場跡と水戸街道

 浅利又七郎義信の浅利家は「松戸ニ代々郷士ニ而罷在」った郷士の家柄で、又七郎は浅利小四郎の次男(『嘉永三年由緒記二』小浜市立図書館蔵「酒井家文書」)。兄の名は記載されていないが、弟は十二代鈴木小四郎

 甲斐源氏浅利家の末裔と称し(『浅利又七郎と千葉周作』)、安永7(1778)年に下総国松戸(千葉県松戸市)の農家に生まれたという。浅利家の由緒書(『元治元年江戸由緒書三』『嘉永三年由緒記二』小浜市立図書館蔵「酒井家文書」)にも「本国甲斐 生国下総」「先祖者浅利與一末葉」と称しており、浅利與一義成の末裔という認識があったようだ。

浅利小笠原鈴木
鈴木小四郎建立の供養碑
(松戸市/宝光院)

 なお、安永9(1780)年5月、「仙台中将殿(伊達重村)」の参勤交代の松戸宿宿割帳が残るが(『松戸市史』「仙台中将殿当駅止宿ニ付キ下宿割置蝶」)によれば、吉川孫左衛門・松木駒之助は「糠や小四郎」宅に宿泊している。この当時、浅利又七郎義信は三歳であるが、吉川・松木両氏が宿泊した「糠や小四郎」とは浅利又七郎の父・浅利小四郎で、鈴木家の養子に入って十一代鈴木小四郎となった可能性があろう。

(1)又七郎の父の名は「小四郎」である(『嘉永三年由緒記』)
(2)のちに又七郎がこの糠屋の隣地(善照寺脇地)に道場を開いている。
(3)又七郎の弟が糠屋を継いで「糠屋小四郎」となっている。
(4)十三代鈴木源三郎の諱は「義壽」で浅利義信同様に「義」字を用いている。

 という点からも、浅利家と鈴木家の関係は非常に深いものが想像できる。宝光院には、十四代鈴木小四郎が、おそらく父母(雲風夢世自姓信士、證然法入妙清信女)のために作った供養碑が残されている。石碑に刻まれた「浅利小笠原鈴木姓」はいずれも女性と思われ、浅利又七郎儀明妻、鈴木小四郎妻、小笠原某妻女が施主の十四代小四郎とともに父母を祀ったことを物語っているのだろう。「小笠原」については不詳だが、十四代小四郎の姉妹の可能性もあろう。

●浅利又七郎周辺推測系譜

   【小野派一刀流中西家】
    中西子啓===中西子正―――――――浅利又七郎儀明
   (忠太)   (忠兵衛)      (又七郎)
                      ∥
                      ∥―――――――浅利兜七郎義金
 +―――――――――娘          ∥      (兜七郎)
 |         ∥――――――――――娘
 |【糠屋】     ∥
 | 鈴木小四郎―+―浅利又七郎義信  
 | 〔十代〕  |
 |       |
 |       +―鈴木源三郎======鈴木小四郎
 |       |〔十一代〕      〔十二代〕          
 |       |          
 |       +―鈴木小四郎――――――鈴木源三郎義寿
 |        〔十二代〕      〔十三代〕
 |                    ∥
 +―――――――+            ∥―――――――娘
         |            ∥       ∥
【巴屋】     |            ∥       ∥
 小森庄蔵――――+―小森庄蔵―――――+―娘       鈴木小四郎
                    |        〔十四代〕       
                    |        
                    +―小森庄蔵
                    |(浅利又七郎甥)
                    |           
                    +―娘     +―千葉孝胤
                      ∥     |(奇蘇太郎)
                      ∥     | 
                      ∥―――――+―千葉成之
                      ∥     |(栄次郎)
                      ∥     |
           千葉成胤―――――――千葉成政  +―千葉光胤
          (忠左衛門)     (周作)    (道三郎)

 松戸宿の紺屋に奉公して「紺屋の又さん」と呼ばれていたという伝承もあるようだ(『千葉周作弟子三千人の由来』)。しかし、剣術好き(甲斐源氏浅利家の武勇に発奮したとも)から十八、九歳の頃に江戸に出て、下谷練塀小路台東区上野五丁目)の小野派一刀流中西道場三代目の中西忠太(中津藩士)の門人となり、その後目録を得て、「松戸の小山矢切辺に知行地を持つ旗本・喜多村石見守正秀の家中に剣術師範として出入り」(『浅利又七郎と千葉周作』)するようになり、又七郎は松戸に隠居していた「正秀の祖父の知己を得てから、しばしば江戸と松戸を往復するようになった」(『浅利又七郎と千葉周作』)という。

 ところが、松戸に喜多村家の知行地はない上に(喜多村家の知行地は下野国足利郡)、又七郎の知己とされる「正秀の祖父」についても、正秀の養祖父・大之丞正房は明和5(1768)年2月11日に二十八歳、正秀の実祖父・宮原刑部大輔氏義は正徳5(1715)年10月25日に三十七歳で亡くなっている。いずれも又七郎誕生以前に亡くなっており、又七郎が正秀の祖父の知己を得ることは不可能である。松戸に縁も所縁もなく、知己となった伝承でも矛盾を抱える浅利又七郎と喜多村家はどのように関わったのか謎のままであるが、又七郎は後年「是迄喜多村大之丞様御屋敷ニ住居」としていることから、実際に喜多村正秀の屋敷に出入りしており、おそらく剣術指南として邸内に居住していたと思われる。

浅利又七郎墓
浅利又七郎墓(右)

 文化12(1815)年12月25日、又七郎は「喜多村山城守様」の伝手で小浜藩酒井家禄高五十石「剣術師範役」「御馬廻格」で召し出された(『由緒書』小浜市立図書館蔵「酒井家文書」、『御家中被召出順』早稲田大学図書館蔵)。私生活では養女(実姪・巴屋小森氏娘)の聟に周作を迎えて養嗣子としたが(浅利又一郎)、天保5(1834)年に又七郎は周作と離縁する。

 天保8(1837)年正月21日、義信は「男子無御座候に付」き、師家・中西忠兵衛子正の二男・兜七郎儀明(一般に義明とされるが、由緒書および印章には「儀明」とある。後、義明に年改名の可能性もあるか)を新たに養嗣子に迎えている(『元治元年江戸由緒書三』)。そして嘉永6(1853)年2月21日に亡くなった。享年七十六。慶印寺台東区西浅草三丁目)に葬られた。法名は日照。慶印寺は小野派一刀流祖・小野次郎右衛門忠明の子・知見院日忠上人を開山とする日蓮宗寺院であり、又七郎が葬られたのはこうした理由があったものと思われる。慶印寺は現在では長遠山常楽寺新宿区原町二丁目)と併されている。

 なお、又七郎義信を継いだ兜七郎儀明も小浜藩剣術指南となるが、江戸中屋敷の閉鎖に伴い、藩邸内にあった住まいを南御屋敷(下屋敷?)へ移すよう命じられた際には、子の浅利一太郎の稽古の都合もあるため、外宅での生活を願い出て許され、下谷仲御徒町の門奈伝十郎組御徒・大岡安之進方に移り住んだ。そして安政4(1857)年2月3日、養父・又七郎義信の名を引き継ぎ「又七郎」と改名する。文久元(1861)年11月18日には子の浅利一太郎が元服し、儀明の幼名「兜七郎」を称する(『元治元年江戸由緒書三』)

 その後、又七郎儀明と兜七郎義金は小浜藩士としてフランス人宿寺の麻布済海寺の警固、イギリス軍艦渡来の際の防衛人数、アメリカ人宿寺の麻布善福寺の警固を行った(『元治元年江戸由緒書三』)。又七郎義明は父・浅利又七郎や実父の中西忠兵衛の名に恥じぬ一刀流の名人であり、山岡鉄舟の師匠としても知られる。嫡男の兜七郎義金は小浜藩佐幕派志士の「浩気隊」に属し、幕臣志士たる彰義隊と合流し「小笠原官之助」を変名としていた(『小浜市史』通史編下巻)。慶応4(1868)年5月15日の上野戦争時には「父又七郎ト共ニ水戸ニアリテ、上野戦争之節ハ不在也」だったため難を逃れている。

 明治に入ると、浅利又七郎義明は静岡の徳川宗家・徳川家達の師となり、さらに有栖川宮家の撃剣師範となった。同様に兜七郎義金も一刀流師範として諸宮に出仕しつつ、巡査としても活動していたという。


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