『登米龍源寺系譜』、『葛西氏過去牒』、『葛西真記禄』、『奥州伊達支族傳巻之三目録』、『平葛西末永両家系』
(????-1365?)
葛西氏八代。葛西武蔵守清貞の子。通称は不明。官途は備前守。妻は至誠院殿光岳妙林大姉。
元弘元(1331)年9月20日、鎌倉幕府は笠置山に籠もって幕府に対抗した後醍醐院を攻めるため、御家人六十三人を派遣した。その中に「葛西三郎兵衛尉」の名が見える(『太平記』)。「三郎」は葛西嫡家が称する通称であり、良清に相当するか。
◆『太平記』より◆
大将軍 | 大仏陸奥守貞直 | 大仏遠江守 | 普恩寺相摸守基時 | 塩田越前守 | 桜田参河守 |
赤橋尾張守 | 江馬越前守 | 糸田左馬頭 | 印具兵庫助 | 佐介上総介 | |
名越右馬助 | 金沢右馬助 | 遠江左近大夫将監治時 | 足利治部大輔高氏 | ||
侍大将 | 長崎四郎左衛門尉 | ||||
侍 | 三浦介入道 | 武田甲斐次郎左衛門尉 | 椎名孫八入道 | 結城上野入道 | 小山出羽入道 |
氏家美作守 | 佐竹上総入道 | 長沼四郎左衛門入道 | 土屋安芸権守 | 那須加賀権守 | |
梶原上野太郎左衛門尉 | 岩城次郎入道 | 佐野安房弥太郎 | 木村次郎左衛門尉 | 相馬右衛門次郎 | |
南部三郎次郎 | 毛利丹後前司 | 那波左近太夫将監 | 一宮善民部太夫 | 土肥佐渡前司 | |
宇都宮安芸前司 | 宇都宮肥後権守 | 葛西三郎兵衛尉 | 寒河弥四郎 | 上野七郎三郎 | |
大内山城前司 | 長井治部少輔 | 長井備前太郎 | 長井因幡民部大輔入道 | 筑後前司 | |
下総入道 | 山城左衛門大夫 | 宇都宮美濃入道 | 岩崎弾正左衛門尉 | 高久孫三郎 | |
高久彦三郎 | 伊達入道 | 田村刑部大輔入道 | 入江蒲原一族 | 横山猪俣両党 |
観応2(1351)年閏2月、米倉城(古川市米倉か)を出陣して遠田郡長崎(栗原市一迫長崎か)を攻めていた北朝方の武将(実名不明)が、観応3(1352)年、三迫黒沼城(登米市中田町宝江黒沼)で挙兵して立て籠もった「水谷右馬権守、葛西伯耆守」を散々に攻めたことが記載されている(『大石寺文書』「某軍忠状」)。葛西氏の居城として知られる寺池城(登米市登米町寺池)は、黒沼から5キロほど南部に位置し、一族の最有力者である末永葛西家の居城である善王寺城(登米市米山町善王寺)は寺池城から約3キロ西に位置する。葛西氏はこの頃から寺池周辺を本拠地として発展していったのだろう。この「葛西伯耆守」はこの受領名を見るかぎり惣領家とも推測されるが、末永葛西家の「伯耆守清文」という人物名も見られる。
●葛西家と末永家(『登米龍源寺系譜』『平葛西末永両家系』)
⇒葛西清重―+―清親――――――清時――――――清経――――――清宗――――――清貞―――良清―――満良
(壱岐守) |(伯耆守) (新左衛門尉) (三郎左衛門尉)(伊豆守) (武蔵守)(備前守)(陸奥守)
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|【末永家】
+―時重――――――重泰――――――清泰――――――宗重――――――宗重―――頼清―――清恒―――清文
(七郎左衛門尉)(六郎左衛門尉)(三郎左衛門尉)(三郎左衛門尉)(美濃守)(美濃守)(安芸守)(伯耆守)
貞治4(1365)年4月7日、亡くなったという(『龍源寺葛西氏過去帳』)。法名は一圓院殿得児蓮阿大居士。『高野山五大院葛西氏系図』などに見える葛西因幡守高清は、良清とほとんど同じ貞治4(1365)年4月17日、54歳で没したと伝わっている。良清と高清は同一人物を指しているとも思われる。