葛西家惣領 葛西清貞

葛西氏

『登米龍源寺系譜』、『葛西氏過去牒』、『葛西真記禄』、『奥州伊達支族傳巻之三目録』、『平葛西末永両家系』

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葛西清貞(????-1324?)

 葛西氏六代。父は葛西伊豆守清宗。通称は伊豆三郎。官途は兵衛尉武蔵守。妻は某氏(岩松院殿本室妙栄大姉)

 永仁6(1298)年の香取神宮式年遷宮の雑掌を「葛西伊豆三郎兵衛尉清貞」が務めている(『香取文書』)。この遷宮のとき、清貞の「親父伊豆入道」が香取社大行事と相論していることが見える。この伊豆入道は、清貞の父・伊豆守清宗(伊豆入道明蓮)であろう。

●下総香取社遷宮の担当者(『香取社造営次第案』:『香取文書』所収)

名前 被下宣旨 御遷宮
葛西三郎清基   治承元(1177)年12月9日
千葉介常胤 建久4(1193)年癸丑11月5日 建久8(1197)年2月16日
葛西入道定蓮 建保4(1216)年丙子6月7日 嘉禄3(1227)年丁亥12月
千葉介時胤 嘉禎2(1236)年丙申6月日 宝治3(1249)年己酉3月10日
葛西伯耆前司入道経蓮 弘長元(1261)年辛酉12月17日 文永8(1271)年12月10日
千葉介胤定(胤宗) 弘安3(1280)年庚辰4月12日 正応6(1293)年癸巳3月2日
葛西伊豆三郎兵衛尉清貞
 大行事与雑掌清貞
 親父伊豆入道相論間、延引了
永仁6(1298)年戊戌3月18日 元徳2(1330)年庚午6月24日

 「親父伊豆入道」が香取社大行司と相論したことから、宣下から遷宮まで三十年もの年月がかかっている。この遷宮ののち、清貞の関東地方での活躍は見られなくなる。

建治元(1275)年5月 葛西伊豆前司 京都六条八幡宮新宮用途
正応元(1288)年 葛西伊豆太郎左衛門尉時員
葛西三郎左衛門尉宗清
葛西彦三郎親清
平泉中尊寺などと論争
永仁6(1298)年 葛西伊豆三郎兵衛尉清貞
親父伊豆入道
香取社造営雑掌
乾元元(1302)年12月7日 伊豆三郎兵衛尉 北条実政卒去を鎌倉に伝えた人物
元享3(1323)年10月27日 葛西伊豆入道 北条貞時十三年忌供養の際に砂金三十両を寄進
延元3(1338)年11月11日 葛西清貞兄弟 『白河文書』
康永4(1345)年3月 葛西伊豆入道明蓮
伊豆四郎入道
香取社財部殿(小鮎猿俣役所)
二の鳥居の造営担当

 この造営雑掌「葛西伊豆三郎兵衛尉清貞」と同一人物かはわからないが、造営の宣下が降りた四年後の乾元元(1302)年12月7日、鎮西探題として活躍した北条上総介実政入道が京都で亡くなった際、鎌倉に知らせを持ってきた人物が「小原木左衛門次郎」「伊豆三郎兵衛尉」である(『金沢文庫文書』)。もし、彼が清貞と同一人物であれば、このころ清貞は京都にいたことになる。

 延元3(1338)年11月11日付けの「沙弥宗心書状」のなかに葛西清貞兄弟以下一族、随分致忠之由令申間、度々被感仰畢」とある(『白河結城文書』「沙弥宗心書状」)。清貞は北朝・足利家と敵対する南朝方の人物。陸奥守鎮守将軍・北畠顕家は畿内へ軍勢を率いていったまま摂津にて討死を遂げたが、次の陸奥国司の御下向がないことため、奥州羽州を平定する沙汰があった清貞は身動きがとれないことを嘆いている。

 暦応3(1340)年春、ようやく北畠顕信(顕家の弟)が陸奥国司として奥州に下向してきたため、南朝方も行動を起こしはじめたと思われるが、「河村六郎葛西一族等、大畧無所残参御方候間、対治府中、急可有御上候」とあり、葛西一族が前年から河村六郎らと北朝(足利方)に奪われていた陸奥国府の奪還を図っていたことがうかがわれる(『白河結城文書』「五辻清顕文書」)。この「葛西一族」を率いていたのが誰なのかは不明。同時代に葛西清貞兄弟以下一族が南朝方として活躍していたことを考えると、清貞が中心人物だったのかもしれない。

 暦応4(1341)年4月20日の「結城修理権大夫(結城親朝)」宛ての五辻宮内少輔清顕の文書、5月16日の法眼宗宣の文書によれば、葛西勢は和賀氏・雫石氏らと一手となって国府を攻めたことが見える。しかし、国府は落ちなかったようで、興国4(1343)年3月24日の「結城修理権大夫(結城親朝)」宛ての五辻宮内少輔清顕の文書によれば、「府中対治事、自其辺合力、尤可為大切之由、葛西申旨候」(『白河結城文書』「宮内少輔清顕書状」)と、葛西氏は、国府の攻略には白河結城親朝の協力が必要なことを北畠顕信に説いていた様子が見える。この頃、白河結城親朝は北朝方(足利方)と南朝方(吉野朝廷方)の間で、去就に揺れていた。

 また、同文書に「兼又那須彼山辺事、能々可被相誘候、葛西姪遠江守有別心之由、風聞之間、為惣領斗此間令討伐了、一族にて悦喜之間、為発向も弥心安被思食候所候也」(『白河結城文書』「宮内少輔清顕書状」)とあるが、これは「葛西(清貞か)」「姪(甥)」にあたる「遠江守」が南朝に謀反して「惣領」に討たれたことを述べ、白河結城親朝が白河から軍勢を発向するのを「弥心安被思食候所候」であると述べているものである。

 一方、牡鹿郡石巻(石巻市)からは興国3(1342)年3月25日銘の「遠州平清明」「五七忌(三十五日忌)」を記念する石碑が発掘されていて、これが葛西清貞の甥・葛西遠江守という説もある。ただ、清明が牡鹿郡石巻(石巻市)で叛乱を起こしたことで、白河郡(白河市)の結城親朝が進発をためらわせる理由は見当たらない。

 興国4(1343)年6月、白河結城親朝は再三の説得にも応じず、北朝方に寝返った。

 その後の清貞の動向は不明である。康永4(1345)年3月、清貞の弟と思われる「伊豆四郎入道」が清貞の父・伊豆守清宗(入道明蓮)の跡として、香取社の造営に名を見せている。

 正中元(1324)年3月16日、亡くなったという(『龍源寺葛西氏過去帳』)。法名は明心院殿通山圓蓮。ただし、延元3(1338)年11月11日付けの「沙弥宗心書状」に見える「葛西清貞兄弟」が伊豆三郎兵衛尉清貞と同一人物であったとすると、正中元年卒去は誤りとなるか。

⇒葛西清重―+―清親―――+―清経―――――――+―宗清      +―時員
(壱岐守) |(伯耆守) |(伯耆左衛門尉三郎)|(三郎左衛門尉) |(伊豆太郎左衛門尉)
      |      |          |         |
      |      +―清時       +―清宗――――――+―清貞
      |      |(伯耆左衛門尉四郎) (伊豆守)    |(伊豆三郎兵衛尉)
      |      |                    |
      |      +―光清―――――――+―■■      +―■■
      |      |(伯耆四郎左衛門尉)|(四郎太郎)    (伊豆四郎入道)
      |      |          |
      |      +―■■       +―清氏――――――――重盛
      |       (五郎)       (四郎左衛門尉五郎)(彦五郎)
      |
      +―時清
      |(壱岐小三郎左衛門尉)
      |
      +―重元
      |(四郎)
      |
      +―■■
      |(壱岐五郎左衛門尉)
      |
      +―朝清―――――左衛門次郎
      |(六郎左衛門尉)
      |
      +―時重
      |(壱岐七郎左衛門尉)
      |
      +―清秀     
      |(八郎左衛門尉)
      |
      +―清員
      |(壱岐新左衛門尉) 
      |
      +―重村―――――友村―――――――+―平氏女
       (河内守)  (河内四郎左衛門尉)|(四郎左衛門尉嫡女)
                        |
                        +―清友
                         (丸子八郎)

文暦2(1235)年6月29日 壱岐三郎時清 鎌倉五大尊堂に新造の御堂の供奉
壱岐五郎左衛門尉 寄進の馬を曳いた
仁治2(1241)年1月23日 葛西壱岐六郎左衛門尉朝清 清重の六男。弓の名手であったようである。
寛元2(1244)年8月16日 葛西左衛門次郎 葛西朝清の子。鶴岡八幡宮の放生会のとき、流鏑馬の九番の射手となる。
葛西五郎 流鏑馬の十二番に「伯耆前司」の「子息五郎」が射手として列す。
寛元3(1245)年8月15日 葛西又太郎定広 放生会の競馬に参列。
宝治2(1248)年8月15日 葛西伯耆四郎左衛門尉光清 鶴岡八幡宮放生会の先陣随兵十人の一人に見える。仁治元(1240)年8月2日の
将軍・藤原頼経の二所詣に供奉した「葛西四郎左衛門尉」も同一人物か。
建長2(1250)年5月28日 葛西壱岐七郎左衛門尉時重 讃岐国法勲寺領について、地頭であった時重と法勲寺が争い、幕府が裁決した。
建長4(1253)年4月14日 伯耆左衛門四郎清時 将軍家八幡宮社参供奉
建長4(1253)年11月11日 葛西伯耆新左衛門尉清経 葛西家の惣領か
正嘉2(1258)年3月1日 葛西四郎太郎 壱岐六郎左衛門尉朝清の所役を継承。葛西伯耆四郎左衛門尉光清の長男か。
弘長3(1263)年7月13日 葛西伯耆四郎左衛門五郎清氏 父・伯耆四郎左衛門尉光清の代わりに供奉。8月の放生会も代理として参列。
建治元(1275)年5月 葛西伊豆前司 京都の六条八幡宮用途支配にて四十貫
葛西壱岐七郎左衛門入道跡 京都の六条八幡宮用途支配にて二十五貫
葛西河内前司跡 京都の六条八幡宮用途支配にて六貫
葛西三郎太郎跡 京都の六条八幡宮用途支配にて二十貫
弘安7(1284)年12月9日 葛西三郎平宗清 新日吉の小五月会の流鏑馬を披露。
正応元(1288)年7月9日 伊豆太郎左衛門尉時員 中尊寺・毛越寺の僧侶と論争(葛西三郎左衛門尉宗清も含む)
葛西彦三郎親清
永仁6(1298)年3月18日 葛西伊豆三郎兵衛尉清貞 香取神宮雑掌・清貞とその父親。元徳2(1330)年6月24日遷宮
親父伊豆入道
元享3(1323)年10月27日 葛西伊豆入道 北条貞時十三年忌供養の際に砂金三十両を寄進
康永4(1345)年3月 葛西伊豆入道明蓮 香取神宮の所役。
伊豆四郎入道

葛西氏惣領仙台藩葛西氏宇和島藩葛西氏盛岡藩葛西氏葛西氏庶流
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