清和天皇─貞純親王─源経基───源満仲────源頼信────源頼義─+─源義家──+─源義親
(兵部卿)(大宰少弐)(鎮守府将軍)(鎮守府将軍)(伊予守)|(陸奥守) |(対馬守)
| |
+─源義綱 +─源義忠 +─源義重───源義兼
|(美濃守) |(左衛門尉)|(大炊助) (大炊助)
| | |
+─源義光 +─源義国──+─源義康───源義兼
(甲斐守) |(加賀介) (陸奥守) (上総介)
|
+─源為義────源義朝───源頼朝
(左衛門大尉)(下野守) (権大納言)
(1123-1160)
左衛門大尉源為義の嫡子。母は藤原忠清女子。通称は不明。位は従五位下(『兵範記』仁平三年三月廿八日条より推測)、従五位上(『兵範記』保元二年正月廿四日条)、正五位下(『兵範記』保元二年十月廿二日条)、従四位下(四位)。官は下野守(『兵範記』仁平三年三月廿八日条)、右馬助(『兵範記』久寿二年二月廿五日条)、左馬頭、播磨守。妻妾は以下の通り。
| 妻妾 | 子 | 子の誕生年 | 出典 | 義朝年齢 |
| 橋本遊女 | 義平(長男) | 永治元年(1141) | 『兒玉党系図』 | 18歳 |
| 波多野義通妹 | 朝長(次男) | 天養元年(1144) | 『吾妻鏡』治承四年十月十七日、十八日条 | 21歳 |
| 熱田大宮司藤原季範女 | 右武衞室(長女) | 天養2(1145)年 | 『吾妻鏡』建久元年四月二十日条より逆算 | 22歳 |
| 頼朝(三男) | 久安3年(1147) | 24歳 | ||
| 希義(五男) | 仁平2年(1152) | 『平治物語』より逆算 | 29歳 | |
| 江口遊女 | 次女 | 久安2年(1146) | 『平治物語』より逆算 | 23歳 |
| 池田宿遊女 | 範頼(四男?) | 久安4年(1148) ~久安6年(1150)頃 |
25歳 ~27歳頃 |
|
| 九條院雑仕常盤 | 全成 | 久寿元(1154)年 | 『尊卑分脉』より逆算 | 31歳 |
| 義円 | 保元元(1156)年 | 『尊卑分脉』より逆算 | 33歳 | |
| 義経 | 平治元(1159)年 | 『尊卑分脉』より逆算 | 36歳 |
なお、義朝の母方祖父である淡路守藤原忠清は、父藤原清綱は村上天皇子具平親王の孫、母の父高階為行は後冷泉天皇御落胤であるため、義朝は村上天皇と後冷泉天皇の五代孫となる。
義朝の幼少期については伝わっていないが、父は検非違使、母は白河院近臣藤原忠清女であることから、京都で生まれ育ったと考えられる。ところが、まだ官に就く以前に義朝は関東へ下向しており、その理由は諸説あるが、為義が鳥羽院の信任を失って摂関家に近づくにあたり、院近臣の娘を母とする義朝を廃嫡し遠ざける意味があったという説が通説となっている。ただ、この「廃嫡説」は不可である。
源義朝が関東に下向した具体的な年月を記している史料はない。ただ、義朝の長男義平の誕生と、その養育を担った秩父氏との関わりの中で、おおよその下向年の推定が可能である。
義朝の嫡男・源太義平が生まれたのは、永治元(1141)年(『平治物語』より逆算)で、義朝十八歳の時である。母は「橋本遊女或朝長同母」(『尊卑分脉』)とある。なお、三浦義明女子を母として三浦氏が義平を養育したという説もある。しかし、以下の
(1)三浦氏と義平の接点が史料上確認できない
(2)義平は秩父氏関係者に養育されていたことを示す史料が存在する
(3)義平が武蔵国男衾郡周辺から離れた形跡はなく、成人後も当地での活動がみられる
(4)「鎌倉悪源太」の「鎌倉」の接頭辞は軍記物以外確認できない
という観点から見て、義平の母を三浦氏とし、三浦氏が養育したという説はまったく不可である。「三浦庄司平吉次、男同吉明」が義朝に従属していたことは間違いないが、義平との関わりは確認されない。
義平の誕生地は示されていないが、武蔵国男衾郡に住む武蔵国の「當国大主」(水口由紀子「平沢寺跡出土経筒の銘文について」)と自認する有力在庁である平重綱の妻(児玉党の有三別当経行女)は「号乳母御前」(『小代宗妙置文』)と称され、「悪源太殿称御母人」(『兒玉党系図』)として慕っていることから、重綱とその妻に養育されて成長したことがわかり、このことから義平は武蔵国男衾郡に誕生したのだろう。つまり、平重綱は、武蔵国の有道大夫経行、有道有三別当弘行(兒玉党祖)や、小野次郎大夫経兼(横山党祖)など武蔵国人とともに源氏の家人だったと考えられ、重綱と為義・義朝との間に深い主従関係が構築されていることがわかる。
●兒玉党系譜(『小代宗妙置文』)
有道遠峯─+─兒玉弘行──兒玉家行
(有貫主) |(有大夫) (武蔵権守)
|
+─有道経行──女子 秩父権守号重綱(室)也 彼重綱者高望王五男村岡五郎義文五代後胤
(有三別当)(号乳母御前) 秩父十郎平武綱嫡男也、
秩父権守平重綱為養子令相継秩父郡間改有道姓移テ平姓、以来於行重子孫稟平姓者也、
母秩父十郎平武綱女也
下総権守 秩父平武者 武者太郎 蓬莱三郎 母江戸四郎平重継女也、
行重 行弘 行俊 経重 経重者畠山庄司次郎重忠一腹舎兄也、
この義平の誕生年から考えて、義朝が関東に下向した時期は、遅くとも「源氏ノ大将軍左馬頭殿ノ御嫡子、鎌倉ノ右大将ノ御料ノ御兄悪源太殿」(『小代宗妙置文』)が誕生した永治元(1141)年の前年、保延6(1140)年以前となろう。具体的には、義朝異母弟の義賢が、鳥羽院第六皇子の当歳東宮躰仁親王(のちの近衛天皇)の春宮坊帯刀先生となった「(保延五年)八月十七日」(『公卿補任』『東宮坊官補任』)以前であろう。
●『百錬抄』保延5(1139)年8月17日条
●『東宮坊官補任』近衛院条
義朝は東国に下向して以降、基本的には武蔵国秩父氏のもとで活動していたが、
(1)東国豪族女子、東海道の宿場遊女、上方遊女、院近臣女子、女院雑仕女など場所が定まらない
(2)子女の生誕時期もまた同母であっても一定ではなく、間に他の女性を母とする子が生まれている
(3)「於青波賀駅、被召出長者大炊息女等有纏頭、故左典厩、都鄙上下向之毎度、令止宿此所給之間、大炊者為御寵物也」(『吾妻鏡』建久元年十月廿九日条)とある
といったことから、東国に常駐していたのではなく、京都と関東を頻繁に往復していたことがわかる。また、武蔵国のみならず東国諸国(上総国、安房国、相模国など)の家人間を行き来していることからも、義朝は父為義の指示のもと、家人らとの紐帯を固めるために東国へ遣わされ、その連絡等を行うために上洛を繰り返したと推測される。
つまり、義朝下向を院との関係を避けて摂関家に接近するため、京都から追って「廃嫡」したとする説は不可である。そもそも義朝誕生時点で外祖父藤原忠清は死後五年経過しており、義朝の関東下向時には没後二十年程経過しているのである。さらに、義朝が下野守に補されて常京となった直後に、次弟の義賢が武蔵秩父氏と所縁が深い上野国多胡に派遣されたのも、あきらかに為義による東国経営の一環である。つまり、義朝と義賢の間にそもそも対立関係は存在せず、当然ながら為義と義朝の間にも対立関係はなかったのである。
●源義朝等の動向
| 年 | 月日 | 義朝年齢 | 義朝の所在 | 義朝の動向 | 出典 |
| 保安4年 (1123) |
1歳 | 京都 | 源為義の嫡子として京都に誕生。 | ||
| 天承元年 (1131) |
正月29日以降 | 9歳 | 京都か |
上野国緑野郡高山保?をおそらく父・ 為義が神宮へ寄進して御厨を建立。 |
『神宮雑書』 |
| 天承元(1131)年~保延5(1138)年頃の間に、義朝は関東へ下る。 | |||||
| 保延5年 (1139) |
8月17日 | 16歳 | 武蔵国男衾郡か | 弟の源義賢、躰仁親王(のち近衛天皇)の立坊に伴い、春宮坊帯刀先生となる。 | 『古今著聞集』より推定 |
| 保延6年 (1140) |
17歳 | 武蔵国男衾郡か | 源義賢が瀧口源備殺害に関与していたことが判明して、春宮坊帯刀先生を罷免される。 | 『古今著聞集』巻十五 闘争第廿四 | |
| 永治元年 (1141) |
18歳 | 武蔵国男衾郡 |
嫡男の源義平が誕生。 母は橋本遊女。乳母は秩父重綱妻(児玉党の有三別当経行女)。義平は重綱妻を「御母人」と呼ぶ。 |
『兒玉党系図』 | |
| 永治2年 (1142) |
4月28日以前 | 19歳 | 武蔵国男衾郡 | 「故左馬頭家御起請寄文」に基づき、上野国緑野郡高山御厨(藤岡市神田周辺)に「被下奉免宣旨」された。 | 『神宮雑書』 |
| 康治2年 (1143) |
20歳 | 上総国一宮か | 「前下野守源朝臣義朝存日、就于件常晴男常澄之浮言、自常重之手、康治二年雖責取圧状之文」と、上総権介常澄と組んで、下総国相馬御厨を千葉常重から圧し取る。 | 『櫟木文書』 | |
| 相模国鎌倉 | この頃、義朝は相模国松田郷を中心とする一帯を抑える波多野義通妹と通じており、鎌倉へ本拠を移したとみられる。このとき、上総国から付けられたのが常澄の八男、介八郎広常であろう。広常は鎌倉北東部に館を構えている。 | 『天養記』 | |||
| 天養元年 (1144) |
21歳 | 相模国鎌倉 | 二男の源朝長が誕生。 母は波多野義通妹。「此殃義常姨母者中宮大夫進朝長母儀典膳大夫久経為子、仍父義通、就妹公之好、始候左典廐」という。朝長は波多野氏のもとで成長し「松田御亭故中宮大夫進旧宅」に住んだという。 |
『吾妻鏡』治承四年十月十七日、十八日条 | |
| 9月上旬 | 相模国鎌倉 | 大庭御厨内の鵠沼郷(平塚市鵠沼)は鎌倉郡内であると難癖をつけて領有を主張し、郎従清大夫安行らを鵠沼郷に差し向けて伊介神社の供祭料を強奪した。さらに抗議に出た伊介社祝・荒木田彦松の頭を砕いて重傷を負わせ、神官八人をも打ち据えた。 | 『天養記』 | ||
| 10月21日 | 相模国鎌倉 | 義朝は田所目代源頼清らと結託し、「上総曹司源義朝名代清大夫安行、三浦庄司平吉次、男同吉明、中村庄司同宗平、和田太郎助弘」等に命じて再度大庭御厨に濫妨をはたらく。 | 『天養記』 | ||
| 10月22日 | 相模国鎌倉 | 御厨の境界を示す傍標を引き抜き、収穫の終わったばかりの稲を強奪し、下司職景宗の館に乱入して、家財を破壊して奪い取り、家人を殺害した。 | 『天養記』 | ||
| 相模国鎌倉 | 御厨定使散位藤原重親、下司平景宗(大庭景宗)が荘園領主の神宮に急使を派遣して濫妨を訴えた。 | ||||
| 京都か | 院近臣藤原季範(熱田大宮司)の女子と通じる。 | ||||
| 天養2(1145)年 | 3月4日 | 22歳 | 京都か | 朝廷より義朝らの濫妨停止の官宣旨が出される。 | 『天養記』 |
| 京都か | 神宮の怒りを恐れ、「恐神威永可為太神宮御厨之由、天養二年令進避文」と、相馬御厨を神宮に寄進する。 | 『櫟木文書』 | |||
| 京都 | 京都近辺に在住か(摂津国江口に通う範囲) | ||||
| 京都 | 長女の「右武衞室」が誕生。 母は院近臣藤原季範女子で頼朝同母姉。 |
『吾妻鏡』建久元年四月二十日条より逆算 | |||
| 久安2年 (1146) |
23歳 | 京都 | 次女の「江口腹の御女」が誕生。 母は摂津国江口の遊女。 院近臣藤原季範女子と通じる。 |
『平治物語』より逆算 | |
| 久安3年 (1147) |
24歳 | 京都 | 三男の源頼朝が誕生。 母は院近臣藤原季範女子。外祖父季範は在京とみられるが、頼朝自身の出生地は京都か尾張熱田かは記録がない。 |
||
| 久安4年 (1148) |
25歳 | 京都 ↓ 関東 ↓ 京都か |
五男(四男?)の源範頼が誕生か。 母は「遠江国池田宿遊女」。 「於遠州蒲生御厨出生」で、藤原範季に養育される。 |
||
| 久安5年 (1149) |
26歳 | ||||
| 久安6年 (1150) |
27歳 | ||||
| 仁平元年(1151) | 28歳 | 京都 | 院近臣藤原季範女子と通じる。 | ||
| 仁平2年(1152) | 29歳 | 京都 | 四男(五男?)の源希義が誕生。 母は院近臣藤原季範女子で頼朝同母弟。 |
『平治物語』より逆算 | |
| 仁平3年(1153) | 3月28日 | 30歳 | 京都 | 義朝、従五位下下野守に任官 叙任は「故善子内親王未給合爵」による。 |
『兵範記』仁平三年三月廿八日条 |
| 夏頃 | 弟義賢、上野国多胡郡に居住。 | 『延慶本平家物語』第三本 | |||
| 同年中 | 義賢の子、義仲が上野国に誕生。 | ||||
| 同年中 | 九條院雑仕常盤と通じる。 | ||||
| 久寿元(1154)年 | 31歳 | 京都 | 六男の醍醐禅師全成が誕生。 母は「九條院雑仕常盤」。 |
『尊卑分脉』より逆算 | |
| 久寿2年(1155) | 8月16日 | 32歳 | 京都 | 源義賢、秩父重隆、武蔵国男衾郡で、比企郡小代郷から攻め寄せた悪源太義平に討たれる。 | |
| 九條院雑仕常盤と通じる。 | |||||
| 保元元(1156)年 | 33歳 | 京都 | 七男の卿公義円が誕生。 母は「九條院雑仕常盤」。 |
『尊卑分脉』より逆算 | |
| 12月29日 | 重任、下野守義朝、造日光山功 | 『兵範記』保元元年十二月廿九日条 | |||
| 保元2(1157)年 | 正月24日 | 34歳 | 京都 | 従五位上 平重盛 父清盛朝臣召進忠貞賞 源義朝 召進盛憲賞 右兵衛佐平頼盛 使左衛門少尉平信兼 |
『兵範記』保元二年正月廿四日条 |
| 10月22日 | 正五位下 源義朝、北廓(内裏造営の功によるもの) | 『兵範記』保元二年十月廿二日条 | |||
| 保元3(1158)年 | 35歳 | 京都 | 九條院雑仕常盤と通じる。 | ||
| 平治元(1159)年 | 36歳 | 京都 | 八男の源義経が誕生。 母は「九條院雑仕常盤」。 |
『尊卑分脉』より逆算 | |
そして、軍記物『保元物語』の伝では「長井斉藤別当実盛」「片切小八郎大夫」らが義朝の麾下に属したとあるが(『保元物語』)。『吾妻鏡』には「長井齋藤別当、片切小八郎大夫等」は「于時各六條廷尉御家人」(『吾妻鏡』治承四年十二月十九日条)とある。これに従えば、彼らはもともと六條判官為義の家人で、保元合戦時までには義朝の家人となっていたことになる。この他、「片切太郎為安、自信濃国、被召出之殊令憐愍給、是父小八郎大夫者、平治逆乱之時、為故左典厩御共之間、片切郷者、為平氏被收公、已廿余年空手、仍今日如元、可領掌之由、被仰」(『吾妻鏡』元暦元年六月廿三日条)といい、『吾妻鏡』が採用したとみられる編纂資料の出所が異なる(前述は橘氏、後述は片切氏)と考えられることから、片切小八郎大夫(及び斎藤別当)は為義から義朝の家人に移った可能性が高い。このほか「高家ニハ河越、師岡、秩父武者」とあるように、武蔵秩父党も義朝方にあったとされる(『保元物語』)。彼ら六條判官為義の家人とみられた人々がいずれも義朝に属していることからも、義朝の「廃嫡」という事実はないどころか、義朝は為義家人を譲りによって家人化していた可能性が高いだろう。
当時の関東には源氏の郎従ともいえる勢力が多く存在しており、武蔵国には前述の通り、秩父平氏一族が繁栄していた。この秩父氏の勢力を背景にしたものとみられる義朝の寄進があった。義朝は「永治二年(1142)」に「被下奉免宣旨也」(『神宮雑書』)された上野国緑野郡高山御厨(藤岡市神田周辺)への「故左馬頭家御起請寄文」(『神宮雑書』)している。この高山御厨(飯能市高山)は「天承元(1131)年建立」の神宮領で、もともと為義が相伝した所領(高山郷?)であろう。その後、「永治二年(1142)」に「故左馬頭家御起請寄文」(『神宮雑書』)に基づき「被下奉免宣旨也」(『神宮雑書』)された。「代々国判」とあるように高山御厨は国免荘であった。為義はおそらく亡父義家の譲りを受けた高山郷の権益を有しており、それを義朝が継承して下司職となり、「秩父権守」(『小代宗妙置文』:石井進『鎌倉武士の実像』平凡社1987)平重綱の三男・三郎重遠が派遣されたのだろう(高山氏祖)。ただし、高山御厨はのちに義朝が平治の乱で討たれると没官されてしまう。没官された高山御厨は建久6(1190)年8月に「可早任宣旨并故左馬頭家御起請寄文代々国判等旨、如本奉免、被令知行所」として奉免されるが、これは同年6月まで在京し、故義朝の復権に尽力した義朝の子・源頼朝の強い働きかけによるものとみられる。
高山御厨に隣接し、源義賢が館を構えた「上野国多胡」には、かつて八幡太郎義家の頃には源家郎従「多胡四郎別当大夫高経」がいたが、彼は後三年の役に従わなかったため、「八幡殿」が「依不奉従于仰、兒玉有大夫広行承討手、以舎弟有三別当為代官、討取四郎別当」(『小野氏系図』)したとあり、もともと上野国南西部には将軍頼義、陸奥守義家の所領が広っていて、為義がその南に高山御厨を建立したのもその遺領であろう。なお、後年、義賢遺児で信濃国木曾郡で平家政権への反旗を翻した木曾冠者義仲が、一時多胡郡に立ち寄ったのも、故義賢の誼を通じての軍勢催促であり、『源平盛衰記』によれば治承5(1181)年、越後国から信濃国に攻め込んできた平家党の越後平氏・城越後守資職と千曲川の横田河原合戦の際には義仲方の「上野国住人高山党三百騎」が参戦し、城資職方の老将・笠原平五頼直一党八十五騎と交戦している。頼直は寡勢にもかかわらず奮戦し、高山党は九十三騎にまで討ち減らされたという。ただしこの高山党の中には「上野国住人西七郎広助」という「俵藤太秀郷が八代末葉、高山党に西七郎広助」がおり、上野国高山党とは高山氏のみで構成されたものではなかったようである(『源平盛衰記』)。
平重綱女子は武蔵国埼玉郡大田郷(行田市小針周辺)の大田大夫行政の子・三郎行光に嫁ぎ、大田太郎行広と大河戸行方を産んでいる(『続史籍集覧』「秀郷流藤原氏諸家系図 上」)。『尊卑分脉』では「大田大夫行政」の弟「大田四郎行光此義正説也、或行政子」の子「号大河戸 下総権守行方」の項に「母秩父太郎重綱女」とあるが、弟の行広の母は記されていない。なお、『尊卑分脉』の小山氏周辺の系譜は人名や罫の攪乱が多い。秩父重綱の孫にあたる大河戸行方の本貫・武蔵国大川戸郷は、「武蔵国崎西足立両郡内大河土御厨者、右件地元相伝家領也、而平家虜領天下之比所押領也」(『吾妻鏡』寿永三年正月三日条)とあるように、源家相伝の私領で、源氏の家人であった秩父権守重綱と大田三郎行光という武蔵国の二大勢力がその経営に加わっていたと考えられる。
小山四郎政光と下河辺五郎行義も大田行光の子とあるが、彼らの母は兄の行広と行方とは異なるのだろう。政光と行義はともに武蔵国を離れ、政光は下野国衙付近の小山郷に進出し、行義は下総国下河辺庄の庄司となっている。大田氏の領有する埼玉郡大田郷は荒川を挟んで秩父氏の支配地と隣接しており、こうした関係から婚姻関係が成立したものとみられる。また、大田大夫行政の弟・阿闍梨快実は都幾川の上流にある大寺・慈光寺の二十世別当(『慈光寺略誌』)となっているが、武蔵国の秀郷流藤氏と秩父氏は縁戚関係を通じて強い関係を持っており、大田氏が下野国方面に進出するに及び、縁戚関係の秩父氏から慈光寺別当が輩出されるようになる。
●『秀郷流藤原氏諸家系図』と秩父氏系図
有道経行──乳母御前
(有三別当)(悪源太殿称御母人)
∥
∥
秩父重綱─+─秩父重弘─+─畠山重能────畠山重忠─+─畠山重保
(秩父権守)|(太郎太夫)|(畠山庄司) (庄司次郎)|(六郎)
| | |
| +─法橋厳耀 +─阿闍梨重慶
| (慈光寺別当) |(慈光寺別当?)
| |
| +─円燿
| (慈光寺別当)
|
+─秩父重隆─+─葛貫能隆────河越重頼
|(次郎太夫)|(葛貫別当) (太郎)
| |
| +─厳実
| (慈光寺別当)
|
+─女子 +─大田行広────大田行朝───大田行助
∥ |(太郎) (大田権守) (七郎)
∥ |
∥────+─大川戸行方─+─清久広行───清久広綱───清久秀衡
∥ (下総守) |(太郎)
∥ |
∥ +─大川戸秀行──大川戸秀綱──大川戸秀胤
∥ |(次郎) (三郎兵衛) (孫三郎)
∥ |
∥ +─高柳秀行
∥ |(三郎)
∥ |
∥ +─大川戸行基
∥ |(四郎)
∥ |
∥ +─葛浜行平
∥
大田宗行─+─大田行政───大田行光───大田政光====吉見頼経
(下野大介)|(下野大介) (下野大介) (下野大掾) (三郎)
| ∥
+─快実 ∥─────+─小山朝政
(慈光寺別当) ∥ |(小四郎)
∥ |
八田宗綱───寒河尼 +─長沼宗政
(武者所) (源頼朝乳母)|(五郎)
|
+─小山朝光
(七郎)
平重綱室の一人、横山次郎大夫経兼女の従姉妹にあたる兵衛局(「近衛局」ともあるが、兵と近の混同であろう)は、下野国の八田権守宗綱の室となるが、彼女は「八田権守妻、宇都宮左衛門尉朝綱之母也、右大将家御乳母也、近衛局兵衛局也」(『小野氏系図』「続群書類従」第七輯上)とあるように、頼朝の乳母となっている。そしてその娘(のち寒河尼)も頼朝乳母となり、小山政光に嫁いで小山朝政、長沼宗政、結城朝光を産んでいる(「永仁二年注進結城系図」(同系図では宇都宮左衛門尉朝綱女となっているが、結城朝光母も「母同」のため、彼ら三名は同母兄弟である)、『続史籍集覧』「秀郷流藤原氏諸家系図 上」)。のちに義朝が下野守となるに及び、秩父氏と重縁にあたる小山政光を何らかの所役に起用しているのかもしれない。比企郡司の女子(比企尼)や八田権守宗綱室(兵衛局)、小山政光室(寒河尼)を頼朝の乳母としたのも、秩父氏所縁の女性という事になろうから、将軍頼義・陸奥守義家以来、六条源氏と武蔵国秩父氏との紐帯は非常に大きなものであったと推測される。
このほか、「武衛御誕生之初、被召于御乳付之青女今日者尼、號摩摩、住国相摸早河庄」(『吾妻鏡』治承五年閏二月七日条)とあるように、相模国中村党の女性も頼朝の最初期乳母として召されていたことがわかる。なお、「故左典厩御乳母字摩摩局、自相摸国早河庄参上、相具淳酒献御前、年歯已九十二、難期且暮之間、拜謁之由申之幕下、故以憐愍給、是有功故也」(『吾妻鏡』建久三年二月五日条)とあるように、義朝自身の乳母も相模国中村党の女性であった。義朝は相模国山内庄の首藤刑部丞俊通の妻(のちの山内尼)も頼朝の乳母としており、為義、義朝の東国の拠点の中心は武蔵国と相模国にあったと推測される。
【重綱養子】
+─秩父行重────────秩父行弘───秩父行俊====蓬莱経重【畠山重忠実兄】
|(平太) (武者所) (武者太郎) (三郎)
|
|【重綱養子】
+─秩父行高────────小幡行頼
|(平四郎) (平太郎)
|
兒玉経行─+─女子 +─宇都宮朝綱
(別当大夫) (乳母御前) |(弥三郎)
∥ |
∥ 八田宗綱 +─八田知家
∥ (八田権守) |(武者所)
∥ ∥ |
∥ ∥────────────+─女子 +─小山朝政
∥ ∥ (寒河尼) |(太郎)
∥ ∥ ∥ |
∥ ∥ ∥─────+─長沼宗政
∥ ∥ ∥ |(五郎)
∥ ∥ ∥ |
+─小野成任──────女子 +──大田行政───小山政光 +─結城朝光
|(野三太夫) ∥ (兵衛局) | (大田大夫) (下野大掾) (七郎)
| ∥ |
| ∥ +─横山孝兼────女子 +─法橋厳耀 +─畠山重秀
| ∥ |(横山大夫)| ∥ |(慈光寺別当) |(小太郎)
| ∥ | | ∥ | |
横山資隆─+─横山経兼────+─女子 | ∥────+─畠山重能 +─畠山重光 +─畠山重保
(野三別当) (次郎大夫) ∥ ∥ | ∥ (畠山庄司) |(庄司太郎) |(六郎)
∥ ∥ | ∥ ∥ | |
∥ ∥───────秩父重弘 ∥─────+─畠山重忠──+─阿闍梨重慶
∥ ∥ | (太郎大夫) ∥ (庄司次郎) |(大夫阿闍梨)
∥ ∥ | ∥ |
∥ ∥ |+─江戸重継─+─女子 +─円耀
∥ ∥ ||(四郎) | |(慈光寺別当)
∥ ∥ || | |
∥ ∥ |+─高山重遠 +─江戸重長 +─女子
∥ ∥ ||(三郎) (太郎) | ∥
∥ ∥ || | ∥
∥ ∥ |+─女子 | 島津忠久
∥ ∥ || ∥ |(左兵衛尉)
∥ ∥ || ∥ |
∥ ∥ || ∥──────大河戸行方 +─女子
∥ ∥ || ∥ (下総権守) ∥
∥ ∥ || ∥ ∥
∥ ∥ +──大田行光 足利義純
∥ ∥ |(四郎) (上野介)
∥ ∥ |
秩父武綱─+─秩 父 重 綱───+─秩父重隆───葛貫能隆──+─河越重頼──+─河越重房
(十郎) |(秩 父 権 守) (次郎大夫) (葛貫別当) |(太郎) |(小太郎)
| ∥ | |
+─女子 ∥ +─妹 +─河越重員
∥─────────+─秩父行重 ∥ (三郎)
∥ ∥ |(平太) ∥
∥ ∥ | ∥
有道遠峯─+─兒玉経行──女子 +─秩父行高 ∥─────+=小代俊平
(有貫主) |(別当大夫)(乳母御前)(平四郎) ∥ |(二郎)
| ∥ |
+─兒玉弘行────────入西資行───小代遠広────小代行平 +─小代弘家
(有大夫) (三郎大夫) (二郎大夫) (右馬允)
●源氏の人々の乳母等
| 乳母名 | 乳母夫 | 国 | 備考 | 出典 | |
| 源為義 | 廷尉禅室御乳母 | 山内首藤資通入道 (仕八幡殿) |
相模国 | 『吾妻鏡』 治承四年十一月廿六日条 |
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| 源義朝 | 摩摩局 (故左典厩御乳母、年歯已九十二) 康和3(1101)年生まれ |
中村党か | 相模国 | 相摸国早河庄 | 『吾妻鏡』 建久三年二月五日 |
| 源義広 | 乳母某 (乳母子、多和山七太) |
多和山某 | 不明 | 『吾妻鏡』 治承五年閏二月廿三日条 |
|
| 源義平 | 乳母御前、乳母御所 (有三別当経行の女子) |
秩父権守重綱 | 武蔵国 | 『小代宗妙置文』 | |
| 源頼朝 | 摩摩 (武衛御誕生之初、被召于御乳付之青女) |
中村宗平? | 相模国 | 住国相摸早河庄 | 『吾妻鏡』 治承五年閏二月七日条 |
| 乳母某 (乳母妹の子が三善康信) |
三善氏 | 京都 | 『吾妻鏡』 治承四年六月十九日条 |
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| 乳母某 (久安5年、頼朝のために十四日間清水寺に参篭し、二寸銀正観音像を得る) |
不明 | 不明 | 『吾妻鏡』 治承四年八月廿四日条 |
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| 山内尼【武衞御乳母】 (山内瀧口三郎経俊の老母) |
山内首藤俊通 | 相模国 | 『吾妻鏡』 治承四年十一月廿六日条 |
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| 比企尼【武衞乳母】 (義員姨母。武蔵国比企郡を請所として夫の掃部允を相具して下向している) |
掃部允 | 武蔵国 | 『吾妻鏡』 寿永元年十月十七日条 |
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| 兵衛局【右大将家御乳母】 (宇都宮左衛門尉朝綱之母) |
八田権守宗綱 | 下野国 | 『小野氏系図』 | ||
| 寒河尼【武衛御乳女】 (故八田武者宗綱息女) 保延4(1138)年~安貞2(1228)年2月4日 |
小山下野大掾政光 | 武蔵国 または下野国 |
『吾妻鏡』 治承四年十月二日条 |
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| 安西三郎景益(幼少時に昵近の人) | 安房国 | 御幼稚之当初、殊奉昵近者 | 『吾妻鏡』 治承四年九月一日条 |
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| 源義仲 | 乳母某 | 中三権守兼遠 | 上野国 または信濃国 または京都 |
『吾妻鏡』 治承四年九月七日条 |
永治2(1142)年の高山御厨寄進後、義朝は幼い嫡子義平を平重綱に預け、上総国の在国司上総権介常澄のもとへ移り「上総曹司源義朝」と称されている(『天養記』天養二年三月四日)。義朝は為義の命を受けて、武蔵国男衾郡を起点に上総国、安房国、相模国の為義家人のネットワークを巡回しつつ、関東と京都を往復して為義と連絡調整を行っていたとみられる。
一方、保延2(1136)年以前に平重綱の孫娘(重綱嫡子重弘の次女)と下総在庁の下総権介常重の長男である平常胤が婚姻しており、
また、このルート上、おそらく下総国も経由していたであろうことから、下総在庁の常重の嫡子常胤と秩父重綱孫娘(重弘女子)との婚姻を取り持ったのも義朝である可能性があろう。地縁も血縁も政治的活動も接点のない秩父と千葉が婚姻関係を構築するには何らかの触媒(この場合は為義の指示を受けた義朝)が必要であったと考えられる。
ところが義朝は、康治2(1143)年に下総国相馬御厨について「源義朝朝臣就于件常時男常澄之浮言、自常重之手」から「責取圧状之文」るという事件を起こしている(久安二年八月十日『正六位上平朝臣常胤寄進状』:『櫟木文書』)。義朝が平常澄の「浮言」を利用して、相馬郡司である千葉常重から強引に譲状(圧状と認定された)を責取った事件であった。義朝の意図は不明確ながら、源家家人でありながら、為義・義朝に協力的ではない人々への強い制裁とも考えられる。この流れは翌天養元(1144)年に相模国の大庭御厨の御厨下司平景宗(大庭御厨を開発した義家郎従平景正の子孫または一族子孫)への制裁としても表れている。
相模国鎌倉へ移った義朝は(このとき平常澄の子、八郎広常が鎌倉に同道したと思われる)、大庭御厨の高座郡内字鵠沼郷を「鎌倉郡内」と称し、9月上旬、義朝と結んだ国府田所目代源頼清の下知のもと、義朝郎従清大夫安行、新藤太、庁官等が大庭御厨に乱入した。さらに10月21日にも「田所目代散位源朝臣頼清」や在庁官人および「義朝名代清大夫安行、三浦庄司平吉次、男同吉明、中村庄司同宗平、和田太郎助弘」ら千余騎による狼藉が行われた(『天養記』天養二年三月四日)。
ただ、義朝の大庭御厨への濫妨がかなり悪質であったことから、神宮の激しい怒りを買っており、義朝は天養2(1145)年に「恐神威永可為太神宮御厨」(仁安二年六月十四日『荒木田明盛神主和与状』)と、相馬御厨の「避状」を神宮に提出することとなる。なお、義朝は東国家人の再編成の過程で神宮領への狼藉が発生せざるを得ない中、神宮を畏敬していた様子がうかがわれる。安房国丸御厨は「左典厩義朝令請廷尉禅門為義御譲給之時、又最初之地也」(『吾妻鏡』治承四年九月十一日条)で、「而為被祈申武衛御昇進事、以御敷地去平治元年六月一日奉寄 伊勢太神宮給」(『吾妻鏡』治承四年九月十一日条)というものであり、為義、義朝の神宮信仰心は、故義朝を敬愛する頼朝へと引き継がれ、頼朝は鶴岡八幡宮寺と並んで甘縄神明社を深く崇敬した。そして従者(源頼政または熱田大宮司家と関わりのある人物か)で側近の藤九郎盛長を源家別邸の甘縄邸に置いてこれを管理させ、数度にわたって神明社を参詣しているのである。
平貞盛───女 +─藤原隆時───藤原清隆
(信濃守) ∥ |(因幡守) (中納言)
∥ |
∥────+─藤原範隆───藤原資隆
∥ (甲斐守) (上西門院蔵人)
具平親王───藤原頼成──藤原清綱
(因幡守) (左衛門佐)
∥
∥────+─藤原隆能
∥ |(主殿頭)
∥ |
後冷泉天皇──高階為行──女 +─藤原忠清─+─藤原惟忠──────藤原惟清
(信濃守) |(淡路守) |(太皇太后宮大進)
| |
| +─藤原清兼────+─藤原清長
| |(太皇太后宮大進)|(太皇太后宮大進)
| | |
| | +─藤原康俊
| | |(待賢門院蔵人)
| | |
| | +─藤原惟清
| | (左大臣勾当)
| |
| +─藤原行俊──────藤原清定
| |(待賢門院蔵人) (八条院蔵人)
| |
| +─女
| ∥─────────源義朝
| ∥ (下野守)
| 源為義
| (検非違使)
|
+─藤原隆重─+─藤原政重
(筑前守) |(白河院蔵人)
|
+─平忠重【刑部卿平忠盛為子改姓】
|(散位)
|
+─藤原清重──────藤原在重
|(蔵人) (上西門院判官代、下総守)
|
+─右衛門佐
(後白河院宮女)
∥
藤原信西
(少納言入道)
●義朝祖父の藤原忠清●
祖父の藤原忠清は寛治2(1088)年11月26日、「修理亮」在任中に堀河天皇の「侍中(蔵人)」に「所雑色源有家」とともに補された(『中右記』寛治二年十一月廿六日条)。永長2(1097)年正月30日の除目で「出雲守従五位下藤原朝臣忠清兼」(『中右記』永長二年正月卅日条)とあり、従五位下に叙され出雲守に補任されている。なお同日、八幡太郎義家嫡男の源義親の舅となる高階基実が「肥後守従五位下高階朝臣基実」、のちの源三位頼政の父・源仲正が「下総権守従五位下源朝臣仲正」、のちに千葉介常胤と相馬御厨をめぐって争う判官代源義宗の祖父・源家俊が「近江権守従五位下源朝臣家俊」とある。続けて翌月の閏正月3日には源家俊は「能登権守」、源仲正は「肥前権守」に補任される(『中右記』永長二年正月卅日条)。
嘉承2(1107)年4月17日当時、忠清は「少進淡路守忠清」(『永昌記』嘉承二年四月十七日条)と見え、春宮少進として皇太子宗仁親王(のちの鳥羽天皇)の家司だった。その後は白河院の信任を得てその側近として活動し、永久4(1116)年正月21日当時、「院蔵人一臈忠清入道」(『殿暦』永久四年正月廿一日条)とあるように、白河院側近の筆頭という極めて強い関係を持っていた。しかし、この頃すでに入道しているように体調は芳しくなかったようで、「永久卅八」(『尊卑分脉』)とあるように、永久6(1118)年までの間に三十八歳で亡くなったようだ。
その跡は長男惟忠が継承したと思われるが、彼の院近臣としての活動はうかがえず、白河院皇女で太皇太后宮令子内親王の家司(太皇太后宮大進)となっている(『尊卑分脉』)。次男清兼は保安2(1121)年正月24日当時「院蔵人」であり、同日に堀河天皇の「被補蔵人」されている(『除目部類記』)。おそらく惟忠も院蔵人を経て堀河天皇の蔵人(『尊卑分脉』に「蔵」とあり)に補されていたのだろう。令子内親王は「長(承)三年三月十九日、改皇后為太皇太(后宮)」(『一代要記』)とあることから、惟忠は長承3(1134)年3月19日以降の大宮家司となる。清兼はその跡を襲い「太皇太后宮大進」(『尊卑分脉』)に補されたと思われ、その任の最中である康治2(1143)年4月8日、「自被宮退出之間、於路頭被刃傷所破其頭血出之、清兼成恐怖帰参被宮、近日如此事連々」(『本朝世紀』)という事件に遭遇している。
源俊房────源師時────源師行
(左大臣) (権中納言) (大蔵卿)
∥────────源有房
∥ (左中将)
藤原忠清─+─藤原惟忠 ∥ ∥
(因幡守) |(大宮大進 ∥ ∥
| ∥ ∥
+─藤原清兼───女子 ∥
|(大宮大進) ∥
| ∥
+─女子 ∥
| ∥──────源義朝 ∥
| ∥ (下野守) ∥
| 源為義 ∥
|(左衛門大尉) ∥
| ∥
+─藤原隆重─+─藤原政重 ∥
(筑前守) |(白河院蔵人) ∥
∥ | ∥
∥ +─平忠重 ∥
∥ |(刑部卿忠盛猶子) ∥
∥ | ∥
∥ +─右衛門佐 ∥
∥ (後白河院女房) ∥
∥ ∥ ∥
∥ ∥ ∥
∥ 藤原通憲─────女子
∥ (入道信西)
∥
∥──────藤原清重─────藤原在重
+─女子 (蔵人) (下総守)
|
| +=源義宗
| |(高松院判官代)
| |
源家宗──+─源家俊──+─源重俊────+─源宗信
(上野介) (左馬助) |(左衛門尉) (上野冠者)
|
+─源俊宗──────源義宗〔為重俊子〕