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東 政胤(1585-1644)
成長ののち、典薬頭和気氏の門人となり、医官として幕府に出仕した。寛永21(1644)年9月5日、江戸にて亡くなった。法号は朗月實秀大居士。
子孫の東宗朔胤辰は本国が「近江」となっている。これは東氏が下総を追われためか、近江三上藩遠藤氏との由緒に肖ったものか、実際は東直胤の流れではないのか。いずれにしても理由は不明である。
東 良胤(????-1706)
東左京亮政胤の嫡子。号は宗雲。妻は望月氏。
延宝8(1680)年12月15日、医術の名人として将軍・徳川綱吉に謁し、天和元(1681)年8月23日、召し出されて綱吉の子・松平徳松附となって西ノ丸に出仕。26日、二百俵を給わる。そして、天和3(1683)年、徳松逝去のにち、江戸城勤仕となり、元禄6(1693)年5月10日、奥医に列し、12月11日、百俵の加増で三百俵となる。元禄7(1694)年12月9日、法眼に任じられた。
元禄10(1697)年9月11日、綱吉養女・八重姫(鷹司輔信娘)附となり、元禄14(1701)年、月俸三十人扶持の加増に与った。
宝永3(1706)年7月27日、隠居。10月29日に亡くなった。法号は療響院殿法眼達翁義探大居士。墓所は谷中の長久寺(台東区谷中五丁目)。長久寺は東家の菩提寺となる。
東 貞胤(1698-1774)
東宗雲良胤の嫡子。号は宗民、宗祐、宗雲。母は望月氏。妻は須磨良川氏。
兄に東宗林がいたが、元禄9(1696)年4月23日に亡くなり、次男の貞胤が跡を継ぐこととなり、宝永3(1706)年4月14日、九歳のときに将軍・徳川綱吉に初めて謁見した。7月27日、家督を相続し、寄合に列した。
安永2(1774)年正月12日、七十六歳で亡くなった。法名は良覚。
東 邦喜(1717-1760)
東宗雲貞胤の三男。号は宗庵。母は某氏。妻は松下半六郎長儀娘。後妻は美濃部一左衛門貞庸娘。
長兄・東宗祐は享保20(1735)年12月11日、将軍・徳川吉宗に拝謁し、宝暦10(1760)年3月16日、四十四歳で亡くなった。父・宗雲がまだ家督であったため、家を嗣ぐことはなかった。そして、次兄・又吉も辻松次郎高賀の養子となって辻松高徴を称しており、三男の邦喜が継嗣とされた。
宝暦11(1761)年2月25日、四十五歳のとき、将軍・徳川家治に初めて謁見し、安永2(1774)年閏3月5日に家督を相続して小普請となり、天明7(1787)年9月29日、番医に列した。
寛政7(1795)年正月25日、五十七歳で亡くなった。法名は療泰。
東 胤辰(1769-????)
東宗庵邦喜の養嗣子。実は河野某の子。号は宗朔。母は豊藤氏。妻は東宗庵娘。
寛政元(1789)年8月19日、初めて将軍・徳川家斉に拝謁し、寛政7(1795)年4月5日、二十七歳で家督を継ぎ、寛政11(1799)年当時、小普請仙石弥兵衛支配九番士であった。
東氏の屋敷は裏二番町(千代田区一番町8)で、下屋敷は北本所三目四目の間にあった(『寛政呈書万石以下御目見以上国字分名集』)。また、文政10(1827)年当時には裏二番町、麹町二丁目に住んでいた(『幕士録』)。
東 宗民(????-????)
東宗朔胤辰の嫡子。母は東宗庵娘。
子孫は明治維新にて家禄を奉還し、東京府貫属士族となった。