『登米龍源寺系譜』、『葛西氏過去牒』、『葛西真記禄』、『奥州伊達支族傳巻之三目録』、『平葛西末永両家系』
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葛西氏十三代。葛西陸奥守満重の養子。実父は伊達大膳大夫成宗。母は大崎左衛門佐教兼娘か。通称は七郎。受領は武蔵守。官位は従五位上(『葛西真記録』)。
永正11(1514)年に成立したといわれる『余目記録』には、奥州探題・大崎左衛門佐教兼が「葛西陸奥守殿」へ宛てて書状が送られていたことが見え、それに対しての返答は「武蔵守宗清」が行っていたようである。教兼の奥州探題就任時期は不明だが、宝徳4(1452)年ごろから探題としての活動を見せ、文明9(1477)年5月6日、「奥州探題」が「御子息達五人」の「口宣」を求めている(『蜷川親元日記』)。この「奥州探題」がおそらく教兼であろうと思われ、教兼が奥州探題としてあった間の葛西家当主は養父の葛西陸奥守満重だったのだろう。そして、宗清は嫡子として、政務を見ていたのかもしれない。そして、満重の跡は宗清が継承したのだろう。
東山興田妙見社 |
明応7(1498)年6月1日、東山興田妙見神社(一関市大東町鳥海)に棟札を奉納した「奉妙見社頭御造栄所 大旦那平宗清」という人物が見えるが、これが宗清か。また、奉行として「末永」氏の名が見えるが、末永氏は有力な葛西一門である。
明応8(1499)年10月、末永葛西宗時(能登守)が宗清の暗殺を図った。末永葛西家は葛西惣領家の居城であった寺池城の西隣にあった善王寺城主であり、代々「壱岐守」「伯耆守」「安芸守」「美作守」「能登守」など受領名を持つ葛西一門中の重鎮である。
紀伊国熊野大社に奉納された葛西一族の奉加帳の筆頭に「前武蔵守宗清」の名が見える(熊野速玉大社内熊野神宝館)。そして、某年5月28日付の牧沢伊豆入道へ宛てられた「宗清」の書状(『中尊寺文書』)がある。この中尊寺文書の宗清と、熊野の花押とは完全に一致するので、この両者は同一人物と見ることができる。
永正年中、本吉郡清水川村で本吉大膳大夫信胤と馬籠修理政次が合戦したという。葛西宗家は馬籠氏とともに本吉氏を討ったようで、永正4(1507)年11月26日、「馬籠長之助」は「葛西左衛門尉」より胆沢郡「姉帯郷、中野郷、百岡郷、小山郷、堀切郷」と「水沢金ヶ崎」内に「百七拾貫文」を与えられたという(『胆沢馬籠系譜』)。ここに見える「葛西左衛門尉」は時代的に宗清か。
永正8(1511)年10月、桃生郡の首藤山内貞通と合戦をしていることがうかがえることから、葛西一門では明応8(1499)年10月に宗清暗殺を企てた末永葛西能登守宗時がふたたび宗清に敵対し、山内貞通に加担した。この戦いは宗清の勝利に終わり、貞通は討死を遂げた。末永宗時は出家遁世を遂げたのだろうか。通山浄徹という法名が伝わっている。
文亀3(1503)年6月7日に亡くなったというが、山内家と永正8(1511)年に合戦していることから、文亀3年の卒去については誤記か。法名は正信院殿誠蓮宗公大禅定門(『龍源寺葛西氏過去帳』ほか)。