『登米龍源寺系譜』、『葛西氏過去牒』、『葛西真記禄』、『奥州伊達支族傳巻之三目録』、『平葛西末永両家系』
(????-1483?)
葛西氏十二代。父は葛西播磨守持重と思われる。受領名は陸奥守。幼名は亀若か? 江刺氏の系譜にも名を見ることができる(『葛西江刺守家譜略伝』)。
●江刺氏系譜(『葛西江刺守家譜略伝』:『岩手県史』所収)
→葛西清重――重高―――兊清―――尚重―――忠清―――義清―清親―――清昭―――――清経――――清定――+
(壱岐三郎)(陸奥守)(紀伊守)(伊予守)(左衛門尉) (伯耆守)(三郎左衛門)(新左衛門)(武蔵守)|
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+―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
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+―満良――――満隆―――持重―――満胤――――隆友――――持胤――――――信重――――満重――――――+
|(三郎兵衛)(備前守)(播磨守)(左衛門佐)(四郎五郎)(伊豆守) (三郎二郎)(左京大夫) |
| 永正十七年卒 永月殿 |
+―清宗 的叟瑞公 |
(四郎太夫) |
→津軽葛西氏祖 |
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+―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
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+―満清―――宗満―――重親―――――+―重任――――輝重――――重恒(南部盛岡藩)
(兵庫介)(左京亮)(三河守) |(播磨守) (治部大輔)(兵庫頭)
永正十七年卒 | 天文七年 永禄二年
| 乾応晴公
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+―重氏
|(左京進)
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+―葛西晴重――時胤――――晴胤――――義重――――晴信
(左京大夫)
下の書状は、古河公方・足利成氏を討つよう、寛正元(1460)年10月21日に奥州・関東の諸大名に命じた将軍御内書で、大崎左衛門佐(大崎教兼)の手に属して戦功を挙げるよう、「葛西亀若殿 同一族中」に命じている。「亀若」というのは幼名と考えられ、満重は幼くして家督を継いだか。
●寛正元(1460)年10月21日『将軍家御内書』
文明15(1483)年8月19日に亡くなった。法名は龍源寺殿玉淵照蓮大禅定門(『龍源寺葛西氏過去帳』ほか)。登米郡寺池村(宮城県登米郡登米町寺池)の桁渕山龍源寺は葛西家菩提寺で、満重が開基となり法名を寺名としている。『余目記録』に伝わる「かさい浄蓮」がこの「照蓮」であるという説もある。一方で、次代の武蔵守宗清の法名は「誠蓮」であり、こちらの可能性もある。
一伝にいう葛西壱岐守朝信は文明12(1480)年8月19日、54歳で亡くなったという。満重が亡くなったという文明15(1483)年8月19日とは三年違うが、命日はまったく同じである。一方、朝信を継いだとされる葛西兵庫頭尚信は、文明15(1483)年6月7日に亡くなったという。こちらは亡くなった年が一致する。6月7日という命日については、満重の次代である葛西武蔵守宗清の命日である文亀3(1503)年6月7日と一致する。
●二系統の葛西氏の没年月日の比較表
葛西陸奥守満重 | 文明15(1483)年8月19日 |
葛西壱岐守朝信 | 文明12(1480)年8月19日 |
葛西兵庫頭尚信 | 文明15(1483)年6月7日 |
葛西武蔵守宗清 | 文亀3(1503)年6月7日 |