『登米龍源寺系譜』、『葛西氏過去牒』、『葛西真記禄』、『奥州伊達支族傳巻之三目録』、『平葛西末永両家系』
(????-1388?)
葛西氏九代。父は葛西備前守良清。通称は三郎(『葛西江利守家譜略伝』)。官途は陸奥守(『龍源寺葛西氏過去帳』ほか)、兵衛尉(『葛西江利守家譜略伝』)。「白川殿」とも記されている(『登米龍源寺葛西系図』)。妻は某氏(林性院殿一空妙円大姉)。「満」字は将軍・足利義満からの偏諱か。彼は江刺氏から宗家を継いだ人物なのかもしれない。
活躍はとくに伝わらず、嘉慶2(1388)年6月10日に亡くなった。法名は覚晃院殿孤峯昇蓮大居士(『龍源寺葛西氏過去帳』ほか)。
『高野山五大院葛西氏系図』などに見える葛西因幡守詮清も、満良とまったく同日の嘉慶2(1388)年6月10日、44歳で没したという。おそらく因幡守詮清と陸奥守満良は同一人物であろう。
一方、江刺氏に伝わる系譜(『葛西江刺守家譜略伝』)では、延元3(1338)年に卒去したとある。法名は宣山輝躰。江刺氏の系譜に「三郎兵衛満良」という人物名が見える。この江刺氏の系譜は時代的にかなりの混乱を見る系譜であるためそのまま信用することはできないが、南部藩士江刺家に伝わった系譜と、仙台藩葛西氏に伝わった葛西氏系譜に似通った人物名があることは興味深い。
また、系譜上で満良の弟にあたる清宗は「初伊沢住後津軽勝方住津軽葛西祖」とあって、津軽地方へ渡った葛西氏の祖とされている。『葛西氏の研究』によれば西津軽郡深浦町の春光山円覚寺に永正3(1506)年に「葛西木庭袋伊予守頼清」という人物が納めた棟札が残っている(入間田宣夫編『葛西氏の研究』名著出版)。頼清は文亀2(1502)年に平賀郡大光寺(青森県平賀町)の城主であったが南部氏に滅ぼされ、子息・小笠原信清は弘前藩津軽家に仕えて、老臣になった(『津軽史事典』)。同じく弘前藩家老には「笠井」氏もいる。また、頼清の別の子孫は深浦神明社の社家になったようである。なお、「木庭袋」は武蔵国葛飾郡木庭袋村(現在の東京都葛飾区堀切~亀有周辺)であり、葛西庄から東北へ移り住んだ葛西一族であった。
●江刺氏系譜(『葛西江刺守家譜略伝』:『岩手県史』所収)
→葛西清重――重高―――兊清―――尚重―――忠清―――義清―清親―――清昭―――――清経――――清定――+
(壱岐三郎)(陸奥守)(紀伊守)(伊予守)(左衛門尉) (伯耆守)(三郎左衛門)(新左衛門)(武蔵守)|
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+―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
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+―満良――――満隆―――持重―――満胤――――隆友――――持胤――――――信重――――満重――――――+
|(三郎兵衛)(備前守)(播磨守)(左衛門佐)(四郎五郎)(伊豆守) (三郎二郎)(左京大夫) |
| 永正十七年卒 永月殿 |
+―清宗 的叟瑞公 |
(四郎太夫) |
→津軽葛西氏祖 |
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+―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
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+―満清―――宗満―――重親―――――+―重任――――輝重――――重恒(南部盛岡藩士)
(兵庫介)(左京亮)(三河守) |(播磨守) (治部大輔)(兵庫頭)
永正十七年卒 | 天文七年 永禄二年
| 乾応晴公
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+―重氏
|(左京進)
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+―葛西晴重――時胤――――晴胤――――義重――――晴信
(左京大夫)
●木庭袋葛西氏系譜
→木庭袋頼清―+―清順
(伊予守) |(新三郎)
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+―忠清
|(平次郎)
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+―清繁
|(又八)
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+―小笠原信清――宗左衛門……
(津軽藩家老)
応安8(1375)年4月1日、左京権大夫(斯波直持? 山名時義?)が「葛西周防三郎」に宛てた書状が伝わっている(『秋田藩家蔵文書』「蜂屋文書」)。葛西周防三郎は陸奥国下伊澤志牛・那須川(岩手県栗原郡金成町の夏川流域か)に所領を与えられている。まったく同年同月日の同文書が金成郷の地頭であった岡本氏に伝わっている。こちらは宛名が不明だが、同じ『秋田藩家蔵文書』として遺されている。
●応安8(1375)年4月1日『左京権大夫書下』(『秋田藩家蔵文書』「蜂屋文書」)
●応安8(1375)年4月1日『左京権大夫書下』(『秋田藩家蔵文書』「岡本文書」)