葛西家惣領 葛西清宗

葛西氏

『登米龍源寺系譜』、『葛西氏過去牒』、『葛西真記禄』、『奥州伊達支族傳巻之三目録』、『平葛西末永両家系』

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葛西清宗(????-1317?)

 父は葛西伯耆前司清経。官途は伊豆守(『龍源寺過去帳』)。法名は明蓮。妻は善祥院殿意庵妙休大姉。『尊卑分脈』には、安達藤九郎景盛の弟大曾根次郎兵衛尉時長の孫娘として「葛西伊豆守妻」が見える(『尊卑分脈』)。清宗の妻・善祥院殿は安達氏か。葛西庄に残った人物と思われる。

 先代の葛西三郎左衛門尉宗清とは兄弟か。千葉新介宗胤千葉介胤宗千葉介貞胤千葉胤貞と同様に、宗清・清宗両名は得宗からの偏諱を受けているのかもしれない。ただ、初代・葛西壱岐守清重の六男・六郎左衛門尉朝清「伊豆守」の官途を受けていたとする系譜もあり、朝清の子孫かもしれない。

●千葉氏・北条氏・葛西氏の系譜

千葉介胤―+―千葉介胤――――千田胤
  ↑   |(千葉新介)(大隈守)
  |   |
  |   +―千葉介胤――――千葉介
  |    (千葉介)     (千葉介)
  |        ↑        ↑
北条時――――北条時―――――北条
           ↓
葛西清経――+―葛西
      |(三郎左衛門尉)
      |
      +―葛西清
       (伊豆守)

●葛西氏想像系図

⇒葛西清重―+―清親―――+―清経―――――――+―宗清      +―時員
(壱岐守) |(伯耆守) |(伯耆左衛門尉三郎)|(三郎左衛門尉) |(伊豆太郎左衛門尉)
      |      |          |         |
      |      +―清時       +―清宗――――――+―清貞
      |      |(伯耆左衛門尉四郎) (伊豆守)    |(伊豆三郎兵衛尉)
      |      |                    |
      |      +―光清―――――――+―■■      +―■■
      |      |(伯耆四郎左衛門尉)|(四郎太郎)    (伊豆四郎入道)
      |      |          |
      |      +―■■       +―清氏――――――――重盛
      |       (五郎)       (四郎左衛門尉五郎)(彦五郎)
      |
      +―時清
      |(壱岐小三郎左衛門尉)
      |
      +―重元
      |(四郎)
      |
      +―■■
      |(壱岐五郎左衛門尉)
      |
      +―朝清―――――左衛門次郎―――――?―清宗
      |(六郎左衛門尉)           (伊豆守
      |
      +―時重
      |(壱岐七郎左衛門尉)
      |
      +―清秀     
      |(八郎左衛門尉)
      |
      +―清員
      |(壱岐新左衛門尉) 
      |
      +―重村―――――友村―――――――+―平氏女
       (河内守)  (河内四郎左衛門尉)|(四郎左衛門尉嫡女)
                        |
                        +―清友
                         (丸子八郎)

 建治元(1275)年5月、京都六条八幡宮の新宮用途のため、四十貫を負担している「葛西伊豆前司」の名が見える(『六条八幡宮造営用途注文』:『北区史』資料編 古代中世1第二編)。『北区史』によれば、この「伊豆前司」は朝清とあるが、正嘉2(1258)年3月1日、将軍家の二所詣に先陣の隨兵十二騎の先頭を「壱岐六郎左衛門尉跡」「葛西四郎太郎」が務めていることから、朝清はすでに亡くなっていたと思われる(『吾妻鏡』正嘉二年三月朔日条)。時代的に清宗のことであろう。また、ここに見える「葛西四郎太郎」とは、葛西四郎重元もしくは葛西伯耆四郎左衛門尉光清の子か?

 建治元(1275)年5月の六条八幡宮造営用途注文に記載された人物(二十貫文以上の負担者)は下記の通り(『六条八幡宮造営用途注文』)

●六条八幡宮造営用途注文(『六条八幡宮造営用途注文』:『北区史』資料編 古代中世1第二編)

※特に記載のないものは「鎌倉中」の家格である。

所役(貫)
相模守 武蔵前司入道跡并西明寺跡寄合 500
武蔵守 所相渡陸奥入道跡并武蔵入道跡 300
修理権大夫跡 可除越後入道分 300
左京権大夫跡 300
遠江入道跡 備前前司跡可寄合 200
足利左馬頭入道跡 200
長井左衛門大夫入道跡 180
城入道跡 150
小山下野入道跡 120
隠岐入道跡 100
信濃前司跡 100
中条出羽前司跡 100
千葉介 同次郎跡可寄合
※千田次郎泰胤跡を併せての所役の意
100
武田入道跡 100
小笠原入道跡 100
越後守 80
上野入道跡 80
近江入道跡 70
佐原遠江前司跡 70
葛西伯耆前司跡 70
天野和泉前司跡 70
駿河入道跡 60
太宰少弐入道跡 60
伊東大和前司跡 60
淡路前司跡 50
島津豊後前司跡 40
摂津入道跡 40
葛西伊豆前司
※葛西伊豆前司清宗と思われる
40
加賀入道跡 35
伊東薩摩前司跡 35
所役(貫)
宇都宮入道跡 可除下野前司分 30
那波刑部少輔跡 30
相馬五郎跡 30
小野寺左衛門入道跡 30
周防入道跡 安芸前司跡可寄合 30
鎌田入道跡 30
畠山下野入道跡 25
駿河次郎跡 加左衛門佐局 25
上総前司跡 25
伊賀式部入道跡 25
葛西壱岐七郎左衛門入道跡 25
伊達入道跡 25
武石入道跡 25
東兵衛入道跡 25
塩谷兵衛入道跡 25
毛利右近入道跡 20
葛西三郎太郎跡 20
宇佐美左衛門尉跡 20
平賀右衛門尉 加松葉入道跡 20
足立八郎左衛門尉跡 20
内藤肥後前司跡 20
渋谷入道跡(相模国) 20
山内首藤刑部大夫跡(相模国) 20
河越次郎跡(武蔵国) 20
江戸入道跡(武蔵国) 20
広沢左衛門尉跡(武蔵国) 20
阿保刑部丞跡(武蔵国) 20
加治人々(武蔵国) 20
大井太郎跡(信濃国) 20
佐貫右衛門尉跡(常陸国) 20
阿曾沼民部丞跡(下野国) 20

 文字色のは北条一門、は葛西氏、は千葉一族を表している。この負担は、基本的にはその御家人の所領規模に比例しており、御家人の経済力をうかがうことができる。北条一族や足利家の負担が抜きん出ているのは別として、国衙在庁出身の御家人レベルで見ると、小山氏百二十貫千葉介・武田氏・小笠原氏百貫は非常に多い。葛西氏葛西伯耆前司跡葛西伊豆前司の両名で百十貫、葛西一族全体では百五十五貫を負担しており、葛西氏の経済力の大きさがうかがえる。

 また、上の表は家格は表していないが、特に記載のないものは「鎌倉中」という家格の高い御家人である。また、鎌倉中での家格のランクでは、「相模守(北条時宗)」をトップとして、「千葉介」が十五位(国司出身ではトップ)、「小山下野入道跡」が十七位(在庁出身ではトップ)、「葛西伯耆前司跡」が二十三位、「葛西伊豆前司」が四十位、「葛西壱岐七郎左衛門入道跡」が四十一位、「葛西河内前司跡」が四十二位、「葛西三郎太郎跡」が四十三位となっている。

 こののち、葛西伊豆前司の名は見ることはできないが、『香取文書』の中で、永仁6(1298)年の香取神宮式年遷宮の雑掌として「葛西伊豆三郎兵衛尉清貞」が務めている(『香取文書』)。この遷宮のとき、清貞の「親父伊豆入道」が香取社大行事と相論をしていることが見える。

●下総香取社遷宮の担当者(『香取社造営次第案』:『香取文書』所収)

名前 被下宣旨 御遷宮
葛西三郎清基    治承元(1177)年12月9日
千葉介常胤 建久4(1193)年癸丑11月5日 建久8(1197)年2月16日
葛西入道定蓮 建保4(1216)年丙子6月7日 嘉禄3(1227)年丁亥12月
千葉介時胤 嘉禎2(1236)年丙申6月日 宝治3(1249)年己酉3月10日
葛西伯耆前司入道経蓮 弘長元(1261)年辛酉12月17日 文永8(1271)年12月10日
千葉介胤定(胤宗) 弘安3(1280)年庚辰4月12日 正応6(1293)年癸巳3月2日
葛西伊豆三郎兵衛尉清貞
 大行事雑掌清貞
 親父伊豆入道相論間、延引了
永仁6(1298)年戊戌3月18日 元徳2(1330)年庚午6月24日

 この「伊豆入道」は「葛西伊豆前司(清宗)」の後身であろう。『登米龍源寺系譜』などでも、清宗の子として「清貞」の名が見える。このころの葛西氏は惣領の葛西三郎左衛門尉宗清と、弟と思われる葛西伊豆前司清宗入道の二人が葛西氏中の実力者であったと思われる。両者の間にはとくに険悪な雰囲気は感じられず、惣領である宗清は、嘉元3(1305)年ごろには、先代の清経と同様、陸奥国に移り住み、代官を下総国と陸奥国を行き来させていたようである。

●葛西伊豆前司の動向

建治元(1275)年5月 葛西伊豆前司 京都六条八幡宮新宮用途
正応元(1288)年 葛西伊豆太郎左衛門尉時員
葛西三郎左衛門尉宗清
葛西彦三郎親清
平泉中尊寺などと論争
永仁6(1298)年 葛西伊豆三郎兵衛尉清貞
親父伊豆入道
香取社造営雑掌
元享3(1323)年10月27日 葛西伊豆入道 北条貞時十三年忌供養の際に砂金三十両を寄進
延元3(1338)年11月11日 葛西清貞兄弟 『白河文書』
康永4(1345)年3月 葛西伊豆入道明蓮
伊豆四郎入道
香取社財部殿(小鮎猿俣役所)
二の鳥居の造営担当

 上記は同一人物であろうと思われる「葛西伊豆前司」「葛西伊豆入道」を列記した表だが、北条貞時十三年忌供養の際の「葛西伊豆入道」は「跡」とは記載されていないが、建治元年当時、既に「伊豆前司」であることから、その五十年後ではおそらく「跡」であろう。

 康永4(1345)年3月、千葉介貞胤が遷宮の雑掌を務めた式年遷宮の際、財部殿(小鮎猿俣役所)と二の鳥居「葛西伊豆入道明蓮跡」「伊豆四郎入道」が担当した。ここに見える「葛西伊豆入道明蓮とは「葛西伊豆守清宗(鏡山寺殿台雲明蓮大居士)」のことであろう。

 文保元(1317)年4月2日に亡くなった(『龍源寺蔵葛西系図』『大槻系図』『葛西氏過去牒』)。法名は鏡山寺殿台雲明蓮大居士

 この清宗とまったく同じ日に亡くなったとされる人物が、南部盛岡藩葛西家と同系統の系譜にのみ見られる伝承上の家督・葛西清信である。葛西清信は葛西伯耆守清時の養嗣子とされ、実父は千葉介頼胤。母は北条駿河守平有時女。義母は結城左衛門尉藤原祐広女。初名は胤信とされる。通称は又太郎。官途ははじめ左衛門尉。のち従五位下刑部大輔遠江守(『平姓葛西一家中館氏系譜』『平姓葛西氏系譜』)

 伝承によれば、胤信は建治2(1276)年8月、千葉家より葛西家に入り奥州に下った。胤信は奥州に下るにあたって、千葉家から千葉八郎胤常千葉三郎胤氏臼井三郎左衛門常俊が同道したという。胤常は磐井郡東山に館を与えられて「飛騨守」を称し、大原氏の祖となり、同じく弟の胤氏は、下総国千田庄亀卦川村(実際は現在の葛飾区東四つ木の旧名「木毛河」が名字地と思われる)に住んでいたことから「亀卦川」を称し、東山米沢に住んだ。臼井常俊については不明。「臼井」→「薄衣」→「うすぎぬ」に転じたとすれば、薄衣氏の伝承があったのかもしれない。遠江守清信は伊豆守清宗とまったく同じ、文保元(1317)年4月2日、54歳で没したという。

 大きくわけて様々な史料に名を見せる「伊豆守(清宗)」を記載する系譜は仙台藩葛西家の系統に属し、史料に名が出てこない「清信」を載せる系譜は盛岡藩に仕えた葛西家の系統に属している。そして両者とも同年月日に亡くなったことを記載しているのであれば、両者は同一人物で系統(または利害)によって名や伝承が変更されたとも思われるのである。大まかに分けた二系統の系譜は、その後の人物も同一異名の人物と思われる名がいくつも見られる。

 正応元(1288)年、「惣領」である「葛西三郎左衛門尉宗清」とともに平泉中尊寺・毛越寺で相争した人物に「葛西伊豆太郎左衛門尉時員」「葛西彦三郎親清」という人物が見える。ここに見える「葛西伊豆太郎左衛門尉時員」葛西伊豆守清宗の長男であろう。時員は伯父の葛西三郎左衛門尉宗清に従い、奥州で活躍したのだろう。このとき、時員の郎従には「重常」「青戸二郎重茂」なる人物がおり、時員の代理人として相論に出席している。「青戸重茂」は下総国葛西庄青戸村(葛飾区青戸」)発祥の豪族と考えられる。「重」字を持つことから葛西一族(秩父一族)と考えられる。

○諸書に見える葛西氏の家督と没年

年代 『盛岡系図』 『中尊寺文書』 『竜源寺過去帳』 『吾妻鏡』他
建長2(1250)年8月         新左衛門尉清時
建長4(1252)年4月        伯耆左衛門四郎清時
建長8(1256)年正月          伯耆左衛門三郎
   同年  8月       伯耆新左衛門尉清経
文永7(1270)年12月      葛西遠江守清時没  
建治2(1276)年8月 葛西清信家督       
建治3(1277)年   伯耆新左衛門入道経蓮    
弘安10(1287)年11月   三郎左衛門清経没 葛西遠江守清時没
正応元(1288)年7月   三郎左衛門尉宗清
惣領・宗清
   
文保元(1317)年4月 遠江守清信 没  伊豆守清宗 没  

 

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葛西時員(????-????)

 葛西伊豆守清宗の子と思われる。通称は伊豆太郎。官途は左衛門尉。時員の「時」は北条得宗家よりの偏諱とみられ、得宗被官の御家人であったと考えられる。

 正応元(1288)年、「惣領」である葛西三郎左衛門尉宗清が中尊寺・毛越寺を相手に相論をしているが、その際、葛西伊豆太郎左衛門尉時員葛西彦三郎親清宗清とともに中尊寺などと争った。このとき、時員の代理人として「重常」「青戸二郎重茂」なる人物が見える。「青戸重茂」は下総国葛西庄青戸村(葛飾区青戸)発祥の豪族と考えられる。「重」という一字を持つことから、重常・重茂ともに葛西氏の一族であろう。父・葛西伊豆守清宗は奥州へ下らずに葛西庄に在住していたことから、その子・時員も葛西庄の有力者を家子として従えていたと思われる。

 その後、時員の名は見えないため、没年や子孫等不明。


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